(十四 承前)
と篠田はお花を奨ましつ「誠に世の中は不幸なる人の集合と云うても差支ない程です、現に今ま爰へ団欒てる五人を御覧なさい、皆な社会の不具者です、渡辺の老女さんは、旦那様が鹿児島の戦争(=西南戦争)で討死をなされた後は、賃機織つて一人の御子息を教育なされたのが、愈々学校卒業と云ふ時に肺結核で御亡なり、――大和君の家は元と越後の豪農です、阿父さんが国会開設の運動に、地所も家も打ち込んで仕舞ひなすつたので、今の議員などの中には、大和君の家の厄介になつた人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺児を顧るものは無い、然かし大和君は我も殆ど乞食同様の貧しき苦痛を嘗めたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏人の子女の為め今度学校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の開校式を挙げた積りのです、――兼吉君のことは花さん、既に御聞になつたでせう、兼吉君の阿父さんが、自分の財産を挙げて保証の義務を果たすと云ふ律義な人で無つたならば、老婆さんも今頃は塩問屋の後室で、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の良人として居られるのでせう、――私自身を言うて見ても、秩父暴動と云ふことは、明治の舞台を飾る小さき花輪になつて居るけれ共、其犠牲になつた無名氏の一人の遺児が、父母より譲受けた手と足とを力に、亜米利加から欧羅巴まで、荒き浮世の波風を凌ぎ廻つて、今日コヽに同じ境遇の人達と隔なく語り合つて居るのです、私の近き血縁を云へば只た一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤独で居る、世の中は不人情なものだと断念して何しても出て来ない、――花さん、屈辱を言へば、貴女一人の生涯ではない、只だ屈辱の真味を知るものが、始めて他を屈辱から救ふことが出来るのです」
一座しんみりと頭を垂れぬ、
「御覧なさい、救世主として崇敬はるゝ耶蘇の御生涯を」と篠田は壁上の扁額を指しつ「馬槽に始まつて、十字架に終り給うたではありませんか」
十五
多事多難なりける明治三十六年も今日に尽きて、今は其の夜にさへなりにけり、寺々には百八煩悩の鐘鳴り響き、各教会には除夜の集会開かる、
永阪教会には、過般篠田長二除名の騒擾ありし以来、信徒の心も離れ離れとなりて、日常の例会もはかばかしからず、信徒の希望なる基督降誕祭さへ極めて寂蓼なりし程なれば、除夜の集会に人足稀なるも道理なりけり、
時刻には尚ほ間あり、詣で来し人も多くは牧師館に赴きて、広き会堂電燈徒らに寂しき光を放つのみなるに、不思議や妙へなる洋琴の調、美しき讃歌の声、固く鎖せる玻璃窓をかすかに洩れて、暗夜の寒風に慄へて急ぐ憂き世の人の足をさへ、暫ばし停めしむ、
洋琴の前に座したるは山木梅子、傍に聴き惚れたるは渡辺の老女、
「今度は老女さんのお好きな歌を弾きませう」と、梅子が譜本繰り返へすを、老女はジツと見やりて思はず酸鼻りぬ、
「何うかなさいまして、老女さん」
老女は袖口に窃と瞼拭ひつ「何ネ、――又た貴嬢の亡母さんのこと思ひ出したのですよ、――斯様立派な貴嬢の御容子を一目亡奥様にお見せ申したい様な気がしましてネ、――」
答へんすべもなくて、只だ鍵盤に俯ける梅子の横顔を、老女は熟く熟くとながめ「何して、梅子さん、貴嬢は斯うまで奥様に似て居らつしやるでせう、さうして居らつしやる御容子ツたら、亡母さん其儘で在らつしやるんですもの――此の洋琴はゼームス様が亡母さんの為めに寄附なされたのですから、貴嬢が之をお弾きなされば、奥様の霊が何程に喜んで聴いてらつしやるかと思ひましてネ――オホヽ梅子さん、又た年老の愚痴話、御免遊ばせ――」
「アラ、老女さん、そんなこと――此の教会で亡母のこと知つてて下ださるのは、今は最早老女さん御一人でせう、家でもネ、乳母が亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、私、老女さんに抱いて戴いて、亡母と永訣の挨拶をしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、何うやら亡母が背後から手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、不図、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――」
「まア、貴嬢、飛んでも無いこと仰しやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会は全で闇ですよ、篠田さんの御退会で――」
思はず言ひ掛けて、老女は俄に口に手を当てぬ、
「ほんとに老女さん、篠田さんのことでは私、皆様にお顔向けがならないのです、――老女さん、近く篠田さんに御面会なさいまして――」
「ついネ、此の廿五日にも参上つたのですよ、御近所の貧乏人の子女を御招なすつて、クリスマスの御祝をなさいましてネ、――其れに余りお広くもない御家に築地の女殺で八釜かつた男の母だの、自由廃業した藝妓だのツて御世話なすつて居らつしやるんですよ、ほんとに感心な方ですことネ――」
「其の藝妓のことで、老女さん、新聞などには大層、篠田さんの悪口が書いてあつたぢやありませんか」梅子の声は低く震へり、
「左様ですツてネ、貴嬢、篠田さんが自分の妾になさるんだとか何とか書ましたつてネ、余まり、馬鹿々々しいぢやありませんか、ナニ、皆な自分の心で他を計るのですよ、クリスマスの翌日、彼の慈愛館へ伴れてお行になりましたがネ、――貴嬢、私の伜が生きてると丁度篠田様と同年のですよ、私、彼の方を見ると何時でも涙が出ましてネ」
梅子はホツと面赧らめつ「何と云ふ失礼な新聞でせうねエ」
此時、ベンチにはボツボツ人の顔見えぬ、長谷川牧師は扉を排して入り来れり、浅き微笑を頬辺に浮べて、
十六の一
午後五時三十分、東海道の上ぼり汽車、正に大磯駅を発せんとする刹那、プラットホームに俄に足音急はしく、駅長自ら戦々兢々として、一等室の扉を排けば、厚き外套に身を固めたる一個の老紳士、平たき面に半白の疎髯ヒネリつゝ傲然として乗り入る後ろより、未だ十七八の盛装せる島田髷の少女、肥満なる体をゆすぶりつゝ笑傾けて従へり、
発車の笛、寒き夕の潮風に響きて、汽車は「ガイ」と一と動りして進行を始めぬ、駅長は鞠躬如として窓外に平身低頭せり、去れど車中の客は元より一瞥だも与へず、
未だ座には着くに至らざりし彼の少女は、突如たる汽車の動揺に「オヽ、怖ワ」と、言ひつゝ老紳士の膝に倒れぬ、
紳士は其儘かき抱きて、其の白きもの施こせる額を恍惚と眺めつ「どうぢや、浜子、嬉しいかナ」と言ふ顔、少女は媚を湛へし眸に見上げつゝ「御前、奥様に御睨まれ申すのが怖くてなりませんの」
「ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干婆と云ふのぢやから、最早嫉くの何うのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるが可い、——其れよりも世の中に野暮なは、其方の伯父ぢや、昔時は壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今は兎に角藝人の片端ぢや、此頃の乱暴は何うぢや、姪を売つて権門に諂ふと世間に言はれては、新俳優の名誉に関はるから、其方を取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一其方の心中を察しない不粋な仕打ぢや、ナ、浜子」
「あの時は、御前、何うなることかと私、ほんとに怖う御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から彼様こと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の御贔屓に甘えまして一寸狂言を仕組んで見たので御座いますよ」
「ウム、其方の方が余程物が解つちよる、――アヽ、僅かの間でも旅と思へば、浜子、誰憚からず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ」
「ほんたうに左様で御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ」
人なき一室を我が世と楽みて、又た他事もなき折こそあれ、「バタリ」響ける物音に、何事と彼方を見れば、今しも便所の扉開きて現はれたる一客あり、陽春三月の花の天に遽然電光閃めけるかとばかり眉打ち顰めたる老紳士の面を、見るより早く彼の一客は、殆ど匍はんばかりに腰打ち屈めつ、
「是れは是れは伊藤侯爵閣下――」
伊藤と呼ばれし老紳士は、膝より浜子を下ろしつゝ「ウム、山木か――」
「閣下、久しく拝謁を見ませんでしたが、相変らず御盛なことで恐れ入りまする」
「山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ」
と侯爵の冷かに笑ふを、山木剛造は額撫でつゝ「是れは閣下、決して左様な次第では御座りませぬが――、併し今日は誠に可い所で拝謁を得ました、実は是非共閣下の御権威を拝借せねばならぬ義が御座りまして――」
空嘯ける侯爵「金儲のことなら、我輩の所では、山木、チト方角が違ふ様ぢや――新年早々から齷齪として、金儲も骨の折れたものぢやの」
「閣下、実は旧冬から九州へ出掛けましたので――或は新聞上で御覧になりましたことかとも愚察仕りまするが、此度愈々炭山坑夫の同盟罷工が始まりさうなので御座りまして――」
「ふウむ」と侯爵は葉巻の煙よりも淡々しき鼻挨拶、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
浜子は彼方向いて、遥か窓外の雪の富士をや詮方なしに眺むらん、
十六の二
「閣下、近来社会党がナカナカ跋扈致しまして、今回坑夫の同盟なども全く、社会党の煽動から起つたので御座ります、此分では将来何の事業でも発達上、非常な妨碍を蒙りまするわけで、何卒此際厳重に撲滅策を執らるゝ様、閣下より一言、政府へ御指図下ださる義を懇願致しますので――」
伊藤侯爵は空吹く風と聞き流しつ「二三の書生輩の空理空論を、左迄恐るゝにも足らぬぢやないか、況して労働者などグヅグヅ言ふなら、構まはずに棄てて置け、直ぐ食へなくなつて、先方から降参して来をらう」
「所が閣下、何うやら亜米利加の労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――若し外国の勢力が斯様なことから日本へ這入つて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので」
「ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入を遣り居るのと、何の違もあるまいではないか」
「では御座りまするが、閣下」と、山木は額を撫でつ「探知致しましたる所では、近々東京に労働者等の大会を開いて、何か穏かならぬ運動を企てまする様子で、何うせ食ふことが出来ぬ乱暴漢の集りで御座りまするから、何事が出来せんも図られませぬ次第で――それに新聞と云ふ程のものでも御座りませぬが、兎に角同胞新聞など申す毒筆専門の機関を所持致し居りまするから、無智無学の貧民共は、ツイ誘惑されぬとは限りませぬ、尤も警察が少こし確乎して居りまするならば彼れ等程のものに別段心配も御座りませぬが、何分にも閣下が総理の御時代とは違ひまして、警察の方なども緩慢極つて居りまするから――」
薄き眉ピリと動くと共に、葉巻の灰震ひ落としたる侯爵「山木、其の同胞新聞と云ふのは、篠田何とか云ふ奴の書き居るのぢやないか」
「ハ、篠田長二と申すので、閣下御存で御座りまするか」
「否や、顔は見たことないが、実に怪しからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――」
と言ひさして、浜子を見やれば、浜子は艶かしく仰ぎ見つ、「御前、あの私のこと悪口書いた新聞でせう、御前、何卒讐討つて下ださいな」
「ウム」と首肯きたる侯爵「先年、彼等が社会民主党を組織した時、我輩は末松に命けて直に禁止させたのぢや、我輩が憲法取調の為め独逸に居た頃、丁度ビスマルクが盛に社会党鎮圧を行りおつた、然るに現時の内閣の者共が何も知らないから、少しも取締が届かない――可矣、山木、早速桂に申し付けよう」
「閣下、誠に有難う御座ります」と山木は足の爪先まで両手を下げつ、「イヤどうも、政府の大小、御世話なされまするので、御静養と申すこともお出来なされず、御推察致しまする」
「ウム、何かと云ふと、直ぐ元老が呼び出されるので、兎てもかなはん――只だ美姫の幸に我労を慰するに足るものありぢや、ハヽヽヽヽ、なア浜子」
汽車は早くも大船に着けり、一海軍将校、鷹揚として一等室に乗り込みしが、忽ち姿勢を正うして「侯爵閣下」
徐ろに顧みたる侯爵「やア、松島大佐か——何処へ」
「横須賀からの」
十六の三
「松島さん」と慇懃に挨拶する山木剛造を、大佐は軽く受け流しつ、伊藤侯爵と相対して腰打ち掛けぬ、
夕陽は尚ほ濃き影を遠き沖中の雲にとゞめ、汽車は既に淡き燈火を背負うて急ぐ、
ポケットより巻莨取り出して大佐は点火しつ「閣下、又た近日元老会議ださうで御座りまして、御苦労に存じます」
「松島、実に困らせをるぞ、(山本)権兵衛に少こし確乎せいと言うて呉れ」
「閣下、其れは私共の方で申上げたいと存じまする所です、ヤ、モウ、先刻も横須賀へ参れば、艦隊の連中からは、大臣が弱いの、軍令部が腰抜だのと勝手な攻撃を受けます、元老方からは様々御注文が御座りまする、民間からは出法題な非難を持ち掛ける、斯様割の悪い役廻りは御座りませぬ」と言ひつゝ、烟草の煙の間より、浜子の姿をチラリチラリと横目に睨む、
大佐の目遣ひに気つきたる侯爵「や、松島、爰に居る山木は君の舅さうぢやナ、——先頃誰やらが来て切りに其の噂し居つた、彼の様子では兎ても尊氏を長追ひする勇気があるまいなどと嫉妬し居ったぞ、非常な美人さうぢやな、何時ぢや合衾の式は――山木、何時ぢや、我輩も是非客にならう」
山木は頭掻きながら「ハ、未だ何時と確定致す所にも運び兼て居りまする様な次第で——何分にも時局の解決が着きませぬでは――」
「ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、戦争の門出に祝言するなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい鰥暮ぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、媒酌は」
「ハ、表面立つた媒酌人と申すも、未だ取り定めたと申す儀にも御座りませぬ、何れ其節何殿かに御依頼致しまする心得で――」
「フム、其りや幸ぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、皆な毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや」
「ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――」
「松島、君の方は何ぢや」
苦笑しつゝ烟吹かし居たる大佐「御厚意は感謝致しまするが、其れは最早御無用です」
「ナニ、無用ぢや、松島」
大佐は冷かに片頬に笑みつ「はア、閣下、山木には無骨な軍人などは駄目ださうです、既に三国一の恋婿が内定つて居るんださうですから」
「フウ、外に在るのか、其りや一ときは面白い、山木、誰ぢや、君の恋婿と云ふのは」
剛造は顔中撫で廻はして「閣下、其れは松島さんのお戯れで、決して外に約束など有る義では御座りませぬが——」
殆ど困却の山木を、松島は愉快げに尻目に掛けつ「然らば閣下、山木の恋婿をば自分から御披露に及びませう――日本社会党の領袖、無政府主義の張本、同胞新聞主筆篠田長二君と仰せられるのださうでツ」
「ヤ、松島さん」と色を失つて周章する剛造を、侯爵は稍々垂れたる目尻にキツと角立てて一睨せり、
「閣下、其れを御信用下だされましては、遺憾千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――」
「松島、事実相違ないか、何うぢや」
大佐は冷然たり「閣下、私も帝国軍人で御座りまする」
「フム」と軽く首肯きて侯爵は又た山木の面を睨めり、
「閣下、其れは余りに残酷なことで御座りまする、私が社会党などに娘を遣ることが出来まするものか出来ませぬものか、少し御賢察を願はしう存じまする、――近い御話が、閣下、今回炭山の坑夫同盟でも明かでは御座りませぬか、九州の方へは菱川だとか何だとか云ふ二三人の書生を遣つて奇激な演説などさせて、無智曚昧な坑夫等を煽動させ、自分は東京に居て総ての作戦計画をして居るので御座りまする、皆な篠田長二の方寸から出でまするので――非戦論など唱へて見ても誰も相手に致しませぬ所から、今度は石炭と云ふ唯一の糧道を絶つ外ないと目星を着けて、到底相談のならない法外な給料増加の請求を坑夫等に教唆し、其の請求の貫徹を図ると云ふ口実の下に、同盟罷工を行らせると云ふのが、篠田の最初からの目的なので御座りまする、悪党とも国賊とも、名の付けられた次第では御座りませぬ、——閣下、何して私が其様なものへ娘を遣ることが出来ませう――其れで坑夫共の生活を支へる為めに亜米利加の社会党から運動費を取り寄せる手筈をする、其ればかりでは駄目ぢやと申すので、近々東京に全国労働者の大会を開く計画する、何れも其の張本は彼の篠田で御座りまする、左ればこそ先刻も、閣下、彼奴等の取締に就て、御尽力を歎願したでは御座りませぬか――」
「ウム」と思案せる侯爵「成程――何うぢや松島、山木の言ふ所道埋至極と聞かれるでは無いか」松島は莨くゆらしつゝ「然かし、閣下、御本尊が嫁きたいと申すものを、之を束縛する親の権力も無いでは御座りませぬか」
山木は顔突き出し「其れは閣下、全く松島様の御聞き誤りで御座りまする、先頃迄は娘共の参る教会に篠田も居たので御座りました、其れで何かとあらぬ風評を致すものもあつたらしいで御座りまするが、彼の様な不都合な漢子を置くのは、国体上容易ならぬことと心着きまして、私から教会へ指図して放逐致した次第で御座りまする——承りますれば、彼奴等平生、露西亜の虚無党などとも通信し合つて居るさうに御座りまするし、其れに彼奴、教会を放逐された後は、何でも駿河台のニコライなどへ出入するとか申すので、警視庁でも、露西亜の探偵ではあるまいかなど、内々注意して居られるとか聞きまして御座りまする」
侯爵は切りに首肯きつ「左様ぢやらう、松島、別段疑惑する点も無いでは無いか――何うぢや、我輩が図らず斯かる話を聞くと云ふも何かの因縁ぢやらうから、一つ改めて我輩が媒酌人にならう、山木、貴公の娘にも必ず異存あるまいナ」
十六の四
山木剛造は平身低頭「御念には及びませぬ、閣下、是迄の所、何を申すも我儘育ちの処女で御座りまする為めに、自然決心もなり兼ねましたる点も御座りましたが、旧冬、私出発の前夜も能く利害を申聞け心中既に理会致して居りまする、兎に角私帰宅の上、挨拶致す様にと猶予を与へ置きましたる様の始末、帰京次第今晩にも判然致す筈で御座りまして——特に閣下が表面御媒酌下ださると申聞けましたならば、一身の名誉、一家の光栄、如何ばかり喜びませうか」
「ハヽヽヽ松島と篠田、こりや必竟帝国主義と、社会主義との衝突ぢや、松島、確乎せんとならんぞ」と侯爵は得意満面に松島を見やりつ「然かし松島、才色兼備の花嫁を周旋する以上は、チト品行を慎まんぢや困まるぞ、此頃は切りと新春野屋の花吉に熱中しをると云ふぢやないか」
浜子は侯爵の顔さしのぞき「御前、其の花吉と申す藝妓は先頃廃業したさうで御座んすよ」
侯爵は打ち驚き「オ、廃業しをつた――新聞に在つたと、浜子、其方は能う新聞を見ちよるな、感心ぢや――松島、其の根引き主は貴公ぢや無いか、白状せい」
松島の苦がり切つたる容子に、山木は気の毒顔に口を開きつ「——実は、閣下、其れも矢張篠田の奸策で御座りまする」
「ナニ、花吉を篠田が落籍せをつたと――フム、自由廃業、社会党の行りさうなことぢや――彼女には我輩も多少の関係がある、不埒な奴、松島、篠田ちふ奴は我輩に取つても敵ぢや、可也、此上は山木の嬢は何事があるとも、必ず松島へ嫁らねば、我輩の名誉に係はるわい」
意気軒昂、面色朱を濺ぎたる侯爵は忽然として山木を顧みつ「然かし山木、君もナカナカ酷い男ぢやぞ、何ぢや、ぽん子は相変らず奇麗ぢやろナ、今を蕾の花の見頃と云ふ所を、突如に横合から根こぎにするなどは、乱暴極まるぢやないか、松島のは社会主義に対する帝国主義の敗北、我輩のは金力に対する権力の失敗ぢや」
頭掻きつゝ山木の困却の態に、侯爵は愈々興を催ふしつ「何程花婿が放蕩して、大切な娘が泣きをつても、苦情を申入れる権利があるまい、ハヽヽヽヽ山木、君の様な爺の機嫌取つて日蔭の花で暮らさせるは、ぽん子の為めに可哀さうでならぬぢや」
剛造は只だ赤面恐縮、
大佐はニヤリと浜子を一瞥しつ「が、閣下、山木は閣下に比ぶれば、未だ十幾つと云ふ弟ださうですよ」
剛造ほツと一道の活路を得つ「大きに松島様の仰の通りで、へヽヽヽヽ」
侯爵も頭撫でて大笑しつゝ「ヤ、松島、最早舅の援兵か、余り現金過ぎるぞ」
「品川々々」と呼ぶ駅夫の声と共に汽車は停りぬ、
「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手を採りて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ悠然降り立ちて、闇の裡へと影を没せり、
窓に凭りて見送り居たる松島は舌打ちつ「淫乱爺の耄碌ツ」
十七の一
麹町は三番丁なる清風女学校には、今日しも新年親睦会、
校友の控所に充てられたる階上の一室には、盛装せる丸髷、束髪のいろいろ居並びて、立てこめられたる空気の、衣の香に薫りて百花咲き競ふ春とも言べかりける、
中央の椅子に懸りたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、小皺見ゆる頬辺に笑の波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、阿母さんにおなりなすつた御容子を拝見する程、私共に取つて楽しみは御座んせんのね、之を思ふと私などは能くまア腰が屈つて仕舞はないと感心致しますの――否エ、此頃は、もう、ネ、老い込んで仕様がありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――斯う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学教授、何殿も国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん」
と、次第に読み上げ行きしが、偖其次席に列なれる山木梅子が例の質素の容子を見て、暫し躊躇ひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に御働なさらうと云ふ御志願で、特に阿父は屈指の紳商で在つしやるのですから」
と、相当なる理由を発見して、頌徳表を呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様は疾くに御約束で、最早近々に御輿入れになるんですよ」と、黄色な声して嘴を容れぬ。
「左様ですか」と、麦沢女教授は円くしたる眼を、忽ち細くして笑みつくろひ、「山木様、まア、お目出度御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、何殿」
「先生が御存無つたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」
「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ——左様ですか、山木様、貴嬢にはほんとに御似合の御縁組ですよ」
一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、
松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ち目もり居たりしが「先生、私も山木様の御縁談の御噂をお聞き申しましたが、只今の御話とは少こし違ふ様ですよ」
「エ、松村様、ぢや何殿と仰しやるのです」
松村は梅子の顔恐る恐る見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」
麦沢教授は反歯剥き出してハツハと打ち笑へり「松村様、何を仰しやる、山木様が何で彼様男の所などへお嫁でになるもんですか、私も何時でしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、貴女、彼は壮士ですよ、何して彼様貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」
「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」
と松村の穏かに弁疏するを、彼の春山はシヤちやり出でつ「私は良人から聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」
曰く松島自身の披露、曰く軍人社会の輿論而して之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人か又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はお嫌の筈でしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの私語も洩れぬ、
梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、
扉開かれて、歴年の老小使、腰打ち屈めつ「山木様——菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います」
之を機会に梅子は椅子を離れつ「失礼」と一揖して温柔かに出で行けり、
十七の二
第五号教室のピヤノの側に人待ち顔なる大丸髷の若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」
「銀子さん」
相見て嫣然、膝つき合はして椅子に座せり、
「梅子さん、ほんとに久闊ですことねエ、私、貴嬢に御目に懸りたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れでは何やら物足らない心地しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会になると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの」
「私もネ、銀子さん、此頃切りに貴女が懐しくて堪らないで居ましたの、寧そ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難いさうですから、菅原様も定めて御多用で在つしやらうし、貴嬢にしても矢張り御屈托で在つしやらうと遠慮しましてネ」
「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張其様事を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」
「銀子さん、左様ぢやありませんよ」
銀子は熟々と梅子の面打ちまもり居たりしが「梅子さん、貴嬢ほんとに御憔悴なすツたのねエ、如何なすつて――」
「否、別に如何も致しませんの」
「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」
「否――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」
「心配と云ふ程で無くとも、何か御在りなさるでせう」
と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「私、貴嬢に御聴せねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとに彼の海軍の松島様と御約束なさいまして――」
梅子は目を閉ぢて無言なり、
「梅子さん、私ネ、其を道時から聴きましても、貴嬢から直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」
「銀子さん、貴女まで其様風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラハラと膝に落ちぬ、
銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢は私が、其様風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」
梅子は握られし銀子の手を一ときは力を籠めて握り返へしつ「否、銀子さん、私は学校に居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉と懐つて居るんです」
「梅子さん、有難う――何うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が合つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、併かし私の妹に山木梅子と云ふ真の女丈夫が在りますよと誇つて居るのです――丁度昨年の十月頃でしたよ、外交問題が八釜敷なり掛けた頃と思ひますから――道時が晩餐の時、冷笑ひながら、お前の御自慢の梅子さんも、到頭海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる男子を得なすツたならば、進で御約束もなさらうし、又た強ひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、特に不品行不道徳な松島様などに御承諾なさる筈が無い、又た若し其れが真実ならば必ず梅子さんから、御報知がある筈だと頑張つたのですよ、スルと憎くらしいぢやありませんか、道時が揶揄半分に、仮令梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから仕様が在るまい抔と言ひますからネ、彼様松島様などの言ふことが何の証拠になりますと拒絶て遣りましたの、其ツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、外務省から帰りましてネ、服も更ためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も愈々進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張に言ぢやありませんか、私には如何しても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云ふんでせう、梅子さん、貴嬢が地獄の子にでも生れ変つて来なすつたのを見た上でなくては、私は仮令道時の言葉でも、信用することが出来ないんです」
「銀子さん、姉さん、――有難う――」梅子は目を閉ぢて涙を堰きぬ、
十七の三
「けどもネ、梅子さん、」と銀子は容を改めつ「貴嬢は飽く迄も独身主義を遣り徹さうと云ふ御決心なの」
梅子は只だ首肯きつ、
「私ネ、梅子さん、貴嬢の独身主義には、心から同情を持つてるんですよ――貴嬢の家庭の御事情は私も能く存じて居るんですからネ――けれど私、梅子さん、怒りなすつちや厭よ、日常さう思んですの、貴嬢の深い心の底にほんとに恋と云ものが無んだらうかと――学校に居た頃の貴嬢のことは私、能く知つててよ、貴嬢の御心は、只だ亡き阿母を懐ふ麗はしき聖き愛に溢れて、外には何物をも容れる余地の無つたことを——皆さんが各々理想の男を描いて泣いたり笑つたり、欝したりして騒いで居なさる時にでも、真正に貴嬢ばかりは別だつたワ――他人様のことばかり言へないの、私だつてもネ、梅子さん、笑つちや厭よ、道時のことでは何程貴嬢の御世話様になつたか知れないワ、私、貴嬢の御恩を忘れたこと有りませんよ――彼頃の貴嬢の御面は全く天女でしたのねエ――けれど梅子さん、今ま貴嬢を見ると、何処とも無く愁の雲が懸つて、時雨でも降りはせぬかの様に、憂欝の色が見えるんですもの、そりや梅子さん貴嬢ばかりぢやない、誰でも、齢と共に苦労も増すに定つて居ますがネ、只だ私、貴嬢の色に見ゆる憂愁の底には、女性の誰も免れない愛情の潜んで居るのぢや無からうかと思ふんですよ――私などは斯様軽卒なもんですから、直ぐ挙動に顕はして仕舞ますがネ、貴嬢の様に強意した方は、自ら抑へるだけ、苦痛も一倍酷いだらうと祭しますの――」
俯ける梅子に、銀子は身をスリ寄せつ「若し、梅子さん、御気に障つたなら赦して頂戴な、私只だ気になつて堪らないもんですから、心の有りたけを言ふのですよ――私だつて道時のことでは何程恥づかしいことでも皆な打ち明けて、貴嬢に御相談したでせう、其れでこそ始めて姉妹の契約の実があると言ふんですわねエ――梅子さん後生ですから貴嬢の現時の心中を語つて下ださいませんか」
「銀子さん」と良久ありて梅子は声顫はしつ「四年前の貴女の苦痛を、今になつて始めて知ることが出来ました――」
「能く言うて下ださいました梅子さん」と銀子は嬉しげに、「今度は私が先年の御恩返しに何様奔走でも致しますよ――梅子さん、ツイ、御名を知らして下ださいな」
「銀子さん、貴女の御親切は御礼の申しやうもありませんが、到底事情の許さないのですから、只だ此れだけは私に取つて秘密の一ツに許して下ださいませんか――貴女に打ち明けないと云ふのは、私も何様に心苦しいか知れないのですけれど――」梅子は唇を噛んで声を呑みぬ、
銀子は暫ばし思案に暮れしが、独り心に首肯きつ「――梅子さん、私知つてますよ」
梅子は愕然として銀子を見たり、
「若し梅子さん、間違つてたなら勘弁して下ださいな――あの、篠田長二さんて方ぢやありませんか――」言ひつゝ銀子は凝乎と梅子を見たり、梅子は胸を押へて復た只だ俯きぬ、
「梅子さん、私、それを或る方から聞いたのですよ――ほんとに不思議なものですねエ、自分では夢にも洩らしたことの無い秘密を、世間が何時か知つてゐるんですもの――慥に宇宙の神秘なのねエ――私、梅子さん、此の風説は心に信じたの、何故と云ふに篠田さんて方の御性質や其の御行動が、如何にも貴嬢の嗜好に適合してるんですもの――梅子さん、私は未だ篠田さんをお見掛け申したことが無いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時は是れ迄も能く御目に懸るさうでしてね、大層讃めて居りましたの、恐るべき偉い人物であると敬服して居るんですよ――けれど梅子さん、私何程一人で心を痛めたか知ないワ――貴嬢の阿父は篠田さんを敵の如く憎んで居らつしやるんですとねエ――まア、何うしたら可いんでせう――梅子さん」
「銀子さん、皆様は私の独身主義を全然砂原の心かの様に思つて下ださいますけれど、――凡ては神様が御承知です」梅子はハンケチもて眼を掩ひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私の為めに聞いて下ださいますか」
十七の四
「梅子さん、何卒聴かして頂戴」
梅子は暫ばし心に談話の次序整へつ、「学校時代の私は、銀子さん、貴女能く御存下ださいますわねエ――彼の一時バイロン流行の頃など、貴女を始め皆様が切りに恋をお語りなさいましたが、何したわけか私には、其の興味を感ずることが出来ませんでしたの、貴女に疑はれたことなども私能く記憶して居りますよ――私も折々自分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるのでは無からうか、愛情と云ふものを宿どさない一種の精神病のではあるまいかと――けれど私は只だ亡き母を懐ひ、慕ひ想像する以外に、如何にしても私の心を転ずることが成らなかつたのです――皆様能く男子の集会などへ行らつしやいましたわねエ――あら、銀子さん、貴女のこと言ふのぢやなくてよ――けれど私の楽しみは日曜に、青山の母の墓に参詣して、其れから永阪の教会へ行つて、母の弾いた洋琴の前に座わることの外は無かつたのです、私の文章も歌も何時も母のことばかりなんですから、貴嬢の思想は余り単調だと、先生にお叱を受ましたの——其れから学校を卒業する、貴女は菅原様へ嫁つしやる、他の人々も其れ其れ方向をお定になるのを見て、私も何が自分に適当した職分であらうかと考へたのです――貴女に御相談したことがあつたでせう――貴女も賛成して下だすつたもんですから、私は貧民の児女を教育して見たいと思ひましてネ――亡母の日記などの中にも同じ教育を行るならば、貧乏人の児女を教へて見たいと云ふことが沢山書いてあるもんですからネ——其れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私の家庭でせう、父は私が実母の顔さへ知らないのを気の毒に思つて居ます所から、余程私の願ひに傾いて呉れましたけれど……後には父から私に頼む様にして、其れを思ひ止まつて呉れよと言ふのですもの――私は、銀子さん其時始めて世の中に失望と云ふことの存在を実験したのです」
「銀子さん」と梅子は語を継ぎつ「其頃私は貴女の曾ての傷心に同情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の寄宿室に来しつて仰しやつたことがありませう、――若し如何しても菅原様へ嫁くことが出来ないならば、私は一旦菅原様へ献げた此の聖き生命の愛情を、少しも破毀らるゝことなしに抱いた儘、深山幽谷へ行つて終ふ心算だつて――」
「あら梅子さん」と銀子は面赧らめつ「貴女も思ひの外、人が悪くつてネ――」
「左様ぢやありませんよ」と、梅子も思はず片頬に笑みつ「只だ私も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話するんぢやありませんか――それで銀子さん、私は全然砂漠の中にでも居る様な寂寞に堪へないでせう、而すると又た良心は私の甚だ薄弱であることを責めるでせう、墓所へ詣りましても、教会へ参りましても、私の意気地ないことを叱る様な亡母の声が聞えるぢやありませんか、ああ寧そ死んだならば、斯様不愉快な苦境から脱れることが出来ようなどと、幾度思ひ浮んだか知れませんよ――斯う云ふ厭な月日を送つて、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ悩んで居た時、私は――銀子さん――何とも知れない一種の感動に打たれましたの——」
言ひ渋ぶる梅子の容子に銀子は嫣然一笑しつ「篠田様に御会ひなすつたと仰しやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子の膝を打てり、
梅子は真紅になりて俯きぬ、
十七の五
「それから梅子さん、如何なすつて」
と銀子はホヽ笑みつゝ促がすを梅子は首打ち振りつ、「私、いや、貴女はお弄りなさるんだもの――」
上気せる美くしき梅子のあどけなき面を銀子は女ながらに惚れ惚れと眺め「私が悪るかつたの、梅子さん、何卒聴かして下ださいな」
「何だか可笑しいのねエ」と、梅子は羞かしげにホヽ笑みつ「一昨々年の四月の初め、丁度桜の咲き初めた頃なの、日曜日の夜の説教をなすつたのが――銀子さん、私、何だか――」
と面背反くるを、銀子は声低くめて「其方が篠田様であつたんでせう」
梅子は俯目に首肯きつ「左様なんです、長く米国に留学なされた方で、今度永阪教会へ転会なされたと云ふんでせう、何様な人であらうと思つて居ますとネ、やがて講壇へお立ちになつたのが、筒袖の極めて質朴な風采で、彼の華奢な洋行帰の容子とは表裏の相違ぢやありませんか、其晩の説教の題は『基督の社会観』と云のでしてネ、地上に建つべき天国に就て、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反対の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だと仰しやるのです――初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の余り恐ろしいので、殆ど身体が戦慄へる様でしたがネ、基督の平和、博愛、犠牲の御精神を、火焔の様な雄弁でお演べなすつた時には、何故とも知らず聴衆の多くは涙に暮れて、二時間許の説教が終つた時には、満場只だ酔へる如き有様でした、――彼の時の説教は私、今でも音楽の如く耳に残つて居ますの——其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいとも訳らずに、心がゾクゾク躍り立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、彼様した状態を言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とは打て変て、慥に希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層懐つかしくて――彼人の影が見えると只嬉しく、如何かして御来会なさらぬ時には、非常な寂寞を感じましてネ、私始めは何のこととも気が着なかつたのですが、或夜、何でも五月雨の寂しい夜でしたがネ、余り徒然の儘、誰やらの詩集を見てる時不図、アヽ私ヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分で覚りましたの、――」
涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて恍然として夢路を辿るものの如し、
銀子も我が曾ての実験と思ひ較べて、そゞろに同情の涙堪へ難く「梅子さん貴嬢の御心中は私能く知ることが出来ますの」
「けれど銀子さん」と梅子はうな垂れつ、「其の心の裡の喜びも束の間で、苦痛の矢は忽ち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田様とが、仇敵の如き関係になつたことです、けれど——銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じて居たのです、決して道理にも徳義にも協つたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めて能く父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、彼人を良人にすると云ふことは事情の許るさないものと思ひ諦め、又た一つには、私の様な不束な者が、彼様な偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人は既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だ偏に主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と奉仕いて、此身は最早や彼人の前に献げましたと云ふことを慥に神様に誓つたのですよ」
彼女は心押し鎮めつ「ですから銀子さん、私の心は決して孤独ではありません、――節操は女性の生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が媒酌人になられるからと、父が申すのです、まア何と云ふ穢はしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の讐敵ではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、仮令私の父が破産する如き不幸に逢ひませうとも、私は決して節操を涜すやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心を抱いて在よりも、貧しき清き家に楽しき団欒を望むで居るのです——銀子さん、何卒安心して下ださいな」
梅子の美しき面は日の如く輝けり、 ——以下・割愛——