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靴の行方

 新幹線の車窓から見る桜はもう花の季節を終え、新芽が枝に群がっている。十日ほどのあいだに春は確実に深まっていた。

 小田原を過ぎると海が見えた。

 海は夕べの色を映して灰色に波打ち、沖のほうから霞みながら暮れ始めていた。京都に着く頃には町は夜に包まれているだろう。

 今日の列車は人数も少なく、隣のシートは空席のままになっている。

 亜矢子はスイと脚を伸ばし、足先をぶらぶらと揺らした。紺のスエードのハイヒール。つい先日の旅もこの靴だった。短い期間に二度も新幹線に乗るのはめずらしい。

「いい靴ですね」

 あの時、隣の席の男が話しかけてきたのも、列車がこのへんを走っているときではなかっただろうか。

男の風貌(ふうぼう)ははっきりとは思い出せない。日時がたってしまうと、ゆきずりの人の輪郭(りんかく)を描くのはむつかしい。どこにでもいるような小肥りの年輩者。六十歳くらい……。少なくとも悪い印象の男ではなかった。名前は中村紀男(のりお)。名刺の字づらが目に残っている。

 ──名刺をくれたのはどういうつもりだったのか──

 亜矢子は窓に映る景色をぼんやりと追いながら記憶の糸をたぐった。

 あの日、亜矢子が東京駅で列車に乗り込んだとき、男は通路側の席にすわって雑誌を読んでいた。亜矢子の席はその内側だった。

 ──厭な感じの人でなければいいけれど──

 だれしもそう思うのではあるまいか。とりわけ女の一人旅の場合はそうだ。

「失礼します」

「あ、どうぞ」

 男の横顔を垣間(かいま)見て、"まあ、わるくはあるまい" と思った。できれば同性のほうが気が楽なのだが、男ならこの年齢くらいが一番よろしい。

その男の行き先も京都。車掌が検札に来たときにわかった。

 列車が横浜を過ぎて間もなく、どこかの学校の校庭に桜がこぼれるほどに咲き乱れていた。男はそれを(なが)めて、

「ああ、きれいですな。京都も今が花の盛りですわ」

と、(つぶや)いた。

 調子は独り言のようだったが、あれはやはり亜矢子に話しかけたのだろう。亜矢子は、曖昧(あいまい)な動作で(うなず)いてみせた。

「京都には見物ですか」

「ええ」

見物と言えば見物だろう。仕事で行く旅ではない。

 朔田(さくた)も "花の盛りです。京都の桜を見に来ませんか" と書いて寄こした。亜矢子も "桜見物に行きますわ" と、電話口で告げた。だが……男が住んでいる町へ女が独りで訪ねて行くのだ。ただの物見遊山(ものみゆさん)ではあるまい。なにほどかの覚悟がなければいけない旅であった。

 亜矢子は大学で薬学を専攻して今は国立の研究機関に勤めている。仕事を楽しんでいるうちにいつの間にか三十を越してしまった。さしずめ人生の曲がり角に来ているところだろう。

 朔田二郎を知ったのは三ヵ月ほど前のこと。初めからこの男とはなにかが起こりそうだと、薄色の予感めいたものを覚えた。

 彼は建設会社に勤める技師で、性格には、ダム工事みたいに骨太の部分と、ガラス細工みたいに繊細な部分とが同居しているように見える。そんなふうに分析して考え、男の人となりに奥行きをつけて眺めること自体、亜矢子が彼に()かれていることの証左なのだろうが。

結婚して子どもが一人あると聞いた。恵まれた結婚ではなかったらしい。奥さんは子どもを連れて実家へ帰り、もう長いこと戻って来ないと言う。

「どっちが悪いの?」

と、単刀直入に尋ねたら、

「悪いのが一方だけなら、喧嘩はそう長く続かないものなんだ」

 とか。妻に逃げられた男の表情には、どこかかわいらしさがあって亜矢子は憎めない。

 朔田が誘い、亜矢子が応じ、スムースな交際が始まったが、急に朔田が京都へ転勤となり、出会いがままならなくなった。

「遊びに来てくれないかな」

「ええ」

 男は一人で任地へ(おもむ)き、何度か手紙が届いた。京都での仕事はなかなか忙しいものらしく、しばらくは東京へは行けない、と記してあった。

──それなら私が行ってあげよう──

 そう決心した直接のきっかけはなんだったのか。季節が春めいてきたことも一つの理由だった。新しい春のスーツをまとって花いっぱいの古都を散策してみたい、そんな優雅な想像が亜矢子の気持ちを(そその)かす。とりわけちょっと贅沢(ぜいたく)をして買ったイタリヤ製の靴、あのスエードのハイヒールを()いて旅に出たいと思った。もとよりこうした心のゆらめきの根底に朔田への思慕があったのは言うまでもあるまい。

 ──軽はずみだろうか──

 男から愛の告白を受けたわけではない。朔田は妻と別れたわけではない。今のところはただの親しい友人にしかすぎないのに。

 だが恋にはどの道自分を賭けなければいけない一瞬があるだろう。三十歳にもなれば軽はずみだって一つの分別なのだ。

 いったん朔田に会いたいと思うと、もうどこにも会ってはならない理由は見当たらなかった。しかもそれは駅でキップを買いさえすれば簡単に手に入る幸福ではないか。

 研究所の構内にも桜の木があった。その花のふくらみが亜矢子の心を掻き立てる。週末の朝、眼を溶かすほどに白ずんだ枝を見て、

「今日は休暇を取らせていただきます。田舎の親戚で法事がございまして。久しぶりなので月曜も休むかもしれません」

 と、事務の男に告げた。

 朔田には長距離電話で事情を伝えて午後の列車に乗った。それが先日の旅だった。

 すると隣の席に中年の男がすわっていて亜矢子に話しかけたのは、すでに述べた通りだ。小田原を過ぎたあたりで、その男が頬をするりと撫でながら思案顔で、

「いい靴ですね」

 と、呟いた。

 知らない人が吐くほめ言葉にしては唐突すぎた。相手がもっと若い男だったら、亜矢子も厭味に感じただろう。

 しかし、男の言葉にはどこか靴に対するなみなみならぬ愛情のようなものがあって "けっしてお世辞で言うのではない、真実感銘しているのだ" とでも言ってるように響いた。

「イタリヤ製なんです」

 相手の調子につられて亜矢子のほうも素直に──ちょっと誇らしげに答えた、と思う。

 紺のスエードはけっして珍しいものではないけれど、これだけ微妙な色調のものはめずらしい。

「カサンドレですか」

「よくおわかりですね」

「商売ですから」

「ああ」

 靴に対する愛情があっても不思議はない。

 ──靴を売る人と言うより作るほうの人かもしれない──

 と、亜矢子は漠然と想像してみた。実直そうな物腰は、そんな職人にこそふさわしい。

「色というものはむつかしいものですな。同じ紺色でもちょっといい色を出そうとすると、それだけの技術も必要だし、お金もかかる。ほんの少しの違いが大変なんですな」

「ええ」

 亜矢子は戸惑(とまど)いながら頷いた。

 男は熱心に亜矢子の靴を見据えている。

"足元を見られる" というのは、その言葉の比喩的な意味そのままにあまり心地のいいものではない。さりとて邪険に足を引っこめるのも心苦しい。視線を落とすと男の靴が眼に触れた。ワイン・カラーにGの字のアクセサリイ。服装に比べると靴だけがとても華やかなのは、商売柄というものだろう。

「お靴をお作りなんですか」

 話題をそらしながら、足を引き加減に組み変えた。

「ええ、まあ。作りもしましたし、売りもしました」

 男はかすかに苦い表情を作り、会話はそこでしばらく途絶えた。車内販売の娘たちが尻上がりの調子で品物の名を並べながら通って行く。

 列車がトンネルを抜けると、男は急に大切なことを思い出しでもしたように、

「靴というのはなかなか不思議なものでしてね」

 と、おごそかな調子で奇妙なことを語りだした。

「ええ?」

「長いこと靴ばかりいじって暮らしていると、ハッとするときがあるんですよ。なんか、こう……靴にも気持ちみたいなものがあって、それがわかるんですね」

「靴の気持ちですか」

「はい。靴の声って言ったらいいのですかな。夜、店仕舞いをしたあと、棚に並んだ靴をちょっと見るでしょ。物を言いたげにしているやつがかならず一つか二ついるんですね。あなた、お笑いになるかもしれませんけど、本当の話、靴はいざとなると、靴の上にいる人間ひとりを動かすくらいの力を持っているんですよ。こういう靴にかかったら、もうどこへ連れていかれるかわからない」

 男は冗談とも真面目ともつかない調子で告げた。と言うより、自分のしゃべっていることが馬鹿げていると充分に承知していながら、それでもなお信じている、そんな様子ととるべきなのかもしれない。

「西洋のお話にもあるのと違いますか。踊り()が靴を履いたら、その靴のほうが踊り出していつまでも止まらない。一生踊り続けなければいけないって……」

「ああ、"赤い靴" でしょうか」

 亜矢子は小さく笑った。その話なら聞いたことがある。たしかアンデルセンの童話だったろう。だが、童話と中年男とはあまり似つかわしい取りあわせではない。

「そうでしたか。私はよく知りませんが……。ただ、実際にないことじゃありませんね。たとえばの話、"外国へ行きたい、外国へ行きたい" と言ってる靴がある。すると、それを履いた人は本当に外国へ行きますね」

「はあ、そういうものなんですか」

「中にふしだらな靴ってのもありましてね。私どものお得意様にいらっしゃいましたよ。いいところのお嬢さんなんですが、妙な靴をお買いになって、すると案の定、いい加減な男たちとフラフラ遊び歩くような生活をお始めになった。その靴は棚に並んでいたときから、そんな生活をやりたい、やりたいって、そう言ってましたよ。不思議なものですね」

「でも、その靴が古くなって履き換えてしまえば……」

 研究所に勤める科学者としては、そのくらいの反論はしてみたくなる。

「ええ。でも、また次にお買いになる靴がやっぱりそういう靴なんですね、このお嬢さんの場合は。どんどんひどくなって……」

なるほど。そういうことならわからないでもない。(みだ)らな性格の女がいつも選ぶ共通のデザインというものがあるのかもしれない。

 男はなおもかぶせるように言い続ける。

「ファッション・モデルって、お仕事がありましょう」

「はい」

「私どものお得意さんに大勢いらしたんですが、あれが浮き沈みの激しい仕事でしてね。いい運をつかんだ娘さんは本当にずいぶん立派な人に見染められて玉の輿(こし)に乗る。ところがその反対にちょっと間違うとコールガールになったりする。全部が全部と申しませんけれど、靴に引きずられてそんなふうになった人も大勢さんいましたね」

男は相変らず謹厳な表情を作ったままだ。これでは茶化すわけにもいかない。

「…………」

 亜矢子は含み笑うようにして何度か首を揺すり、フン、フンと頷いた。靴が「玉の輿に乗りたい」とか「コールガールになりますよ」とか言うのだろうか。話としてはなかなかおもしろい。ものが履き物だけに、それを履いた人を否応なしにどこかへ連れて行ってしまうという話には、なにほどかの現実感がなくもない。

「恐ろしいのは死にたがっている靴です」

 フッと冷たいものが漂う。

 次の言葉を待ったが、口をつぐんでいる。亜矢子はなかば話題を変えるように、なかば問いただすように、

「私の靴は……どうでしょうか」

 と、頬笑みかけた。

 男の表情も人のよさそうな笑いに変った。

「結構ですよ。特にわるいことはございませんわ。一()に走り出そうとしていらっしゃいます」

 亜矢子はハッとして相手の顔を見上げる。今度は男のほうがその視線を避けるように、

「市内でお泊りですか」

 と、尋ねた。

「ええ、まあ」

「花がよろしいでしょう」

「はい、少し歩いてみようかと思いまして」

「嵐山なんかはおよしなさい。人ばっかりでね。大原の奥までお入りになると、いいところがございますよ。寂光院から翠黛山(すいたいざん)へまわったあたり……木の数は少ないが、みんな枝ぶりがよくて」

 男はそう言いながらポケットから名刺を取り出し、

「こういう者です」

 と、告げてから、裏に簡単な地図を記した。

「ぜひおいでなさいまし。車の便があればとてもよろしいところです」

「ありがとうございます」

 名刺の肩書には "ナカムラ製靴株式会社代表取締役" とあった。

 ハンドバッグの金具がパチンと鳴り、それが会話の最後の合図にでもなったみたいだった。

 亜矢子は男の視線から靴を遠ざけるようにして少し眠った。もうこれ以上なにかを感じ取られるのは──それほど深く男の言葉を信じていたわけではないが──いささか薄気味わるい。

 次に眼をあけたときには列車は琵琶湖の近くを走っていた。

 京都駅には朔田が迎えに来ていた。

 夜は肩を寄せ合うようにして京都の街をめぐり歩いた。

 赴任(ふにん)して日の浅い朔田は、この奥行きの深い町についてまだ不案内のふうであった。

「この店は料理がうまいと教えられて来たんだが」

 と、(たけのこ)を頬張りながら言う。

「おいしいわ」

「本当に?」

「ええ」

「そうかな。昔の公家(くげ)なんてろくな物を食べていなかったんじゃないのかな。京都の料理ってやつは、どれもこれもたいしてうまくない。材料をいろいろ工夫してなんとか恰好ばかりつけたものだ。第一、量が少ないところがおもしろくない」

「口が悪いのね」

「いや、料理はともかく京都にはいいところもたくさんある。文化的には間違いなく東京より上だな。貯水槽一つ作るときでも美しいものを考える。東夷(あずまえびす)はそういうことに慣れていない。酒もうまい」

「今日は……あまりお飲みにならないみたい」

「そうかな。飲み過ぎると……」

 朔田は言いよどんだ。亜矢子が拾いあげて、

「心にもないことを言っちゃうのね」

 と、言えば、

「いや」

 頬に三十歳を過ぎた男独得の、いくらか渋い、同時に若さも充分に残している笑いを載せて、

「心にもあることを言っちゃうから困るんだ」

 と、呟く。

 会話は(はず)み、空気が(なご)んで来る。

 ホテルに戻ったのは夜中の一時頃だったろうか。

 朔田はドアの前まで送って来て、そのまま別れを告げた。

「お休み。明日は何時に迎えに来ようか」

「何時でも。日曜日はゆっくりお休みになるんでしょ」

「いや、そうでもない。十時頃どうかな」

「ええ、お待ちしてます」

 翌日は朔田の運転する車で嵯峨野を訪ねた。

 大覚寺、釈迦堂、落柿舎(らくししや)、祇王寺、古刹(こさつ)はみな春の盛りの中にあった。

 朔田は花の枝を見上げて、

「一夜のうちに一(せい)に木登りでもしたみたいだなあ」

 と、言う。

 むかし、大宮人たちは花鳥風月について巧みな言葉を捜し、それを恋の手管(てくだ)としたのではなかったか。朔田のこの珍妙な表現が、風雅の道に(かな)うものかどうかはあやしいが、亜矢子の心を充分に楽しませてくれたのは本当だ。桜花は梢の果てにまで(あふ)れ、咲いたと言うより花びらたちが競ってあとからあとから枝の先まで登りつめたように見えた。

「一応、嵐山にまで行ってみようか」

「ええ」

 嵐山は人の群ばかり。

 だが、それとても東京の喧騒とはどこか少し違っている。山は暮れかかり、淡い暮色の中で花と霞が境目もわからぬほどに入り混っている。

「大原はどこなの?」

 亜矢子は京都をほとんど知らない。

「まるで方向が違う。正反対だ」

「寂光院て、平家のだれかが入ったとこですよね」

「清盛の娘。安徳天皇のお袋さん」

「その奥に静かな桜の林があるんですって。新幹線の中で会った人が教えてくれたわ。地図まで書いて」

 亜矢子はハンドバッグを開いて名刺を差し出した。

「今からここまで行くのは大変だ」

「そうなの。じゃあ、明日?」

「ウーン、申し訳ないんだが、月曜日は十一時から大切な会議があるんだ」

「ごめんなさい。いいの。もう桜はたくさん見たんだし……」

「よし、朝早く行ってみようか」

「無理はしないで」

「いや、それほどのこともない。朝の道はすいているし……。それよりこれからどうする?」

「お腹がすいちゃった」

「同感だな。でも、このへんは豆腐料理ばっかりだ。町へ戻って肉とコーヒーなどどうかな」

「いいわよ。豪華に」

「じゃあ、そうしよう」

 車のシートに戻ったところで、

「いつもはお食事、どうなさっているの?」

 こう尋ねたのは、女の側からの小さな誘いだったのだろうか。

「いろいろだ。たまには自炊だ。ちょっとアパートを(のぞ)いてみるかい」

「ええ」

 車は渋滞する道をのろのろと走った。

 朔田のアパートへ着いたのは七時過ぎだったろう。社宅にあきがないので市内のアパートを借りているのだと言う。コンクリート建ての、思いのほか立派な住まいだった。

「社宅より気が楽でいい。留守中も無用心じゃないし。京都はこのごろ泥棒が増えているらしい」

「昔も多かったんじゃないの」

「そうかな」

「芥川の小説なんか読むと……」

「ひどいな。昔過ぎる」

 お腹のほうはもう()き過ぎてしまって、空腹だという意識さえ曖昧(あいまい)になっていた。

「どうする?」

「疲れちゃったわ」

 結局、豪華な晩餐(ばんさん)とはいかず、亜矢子が男所帯の残飯と、冷蔵庫の中の余り肉とで焼き飯を作り、椅子の二つしかないテーブルで食べた。

 部屋にはどこを捜しても女の匂いがない。女の手が加わった気配がない。朔田の妻はおそらくここへは一度も来たことがないのだろう。

 亜矢子はインスタント・コーヒーのカップを持ったまま窓際に立ち、カーテンをそっと引いてみた。

 町の灯のすぐむこうに黒々と山が連なっていた。食前に飲んだ一ぱいのビールがまだ体を酔わせている。

 背後から朔田の手が掛かったとき、ピクンと肩が震えたのはどうしたわけなのだろう。充分に予測していたことだったのに……。予測があまりにも正確に適中したためなのだろうか。それともなにかおそれねばならないことがあったのだろうか。

「よく来てくれた」

「会いたかったの」

「東京にはしばらく帰れそうもない。ここ数年あまりいいことはなかった。東京を離れて暮らすのもわるくないと思ったんだが……」

「ええ」

「あなたに会いにくくなった」

 言葉のあいまに唇が重なる。

 男の手が少しずつ力を増して亜矢子を掻き抱く。

 灯りが消え、ドアが滑る。そこには寝室があるらしい。土木技師は荒っぽい動作で亜矢子をベッドの上に運んだ。スプリングの上でポンと体が弾んだ。

 亜矢子には初めての恋ではない。学生の頃に一人の男と体を重ねたことがあった。

 だが、もうその記憶も遠い。目を閉じると薄闇が真の闇に変った。脳裏には、ただ熱さと狼狽ばかりが走る。

 ──美しく、美しく──

 なぜかそんな言葉が走り抜ける。

 同じ抱かれるなら "美しく" 抱かれたいということなのだろう。自分が美しく演じたいという気持ちもあったが、それ以上に男に対して "どうか美しく犯してください" という願いがあった。

そんな意識も途中から稀薄なものとなり、あとはただ熱さと眩暈(げんうん)ばかりの時間が続いた。男のイメージは乳白色。それが黒い胎内に広がって行くのがわかった。

 男が身を起こし、

「風呂を沸かそうか」

「でも……」

「瞬間湯わかしだから簡単だ」

 体が汗ばんでいた。男の匂いもふんだんに残っている。

 やがて水音が響き、

「先にちょっと入るよ」

 と、男の声が聞こえた。

 少しは眠ったが、あまり深いまどろみではなかった。カーテンの外が白い。アパートの下を手押車みたいな響きが通って行く。古都は早起きの町なのだろうか。

 寝返りを打つと朔田が眼を醒ました。うっすらと髭の浮いた笑顔がまぶしい。

「何時だろう」

「四時ぐらいかしら」

「よし、起きよう」

「どうして」

「大原へ行く。行くんだろ。案内する」

 朔田はそう言いながら亜矢子の肩をさぐり、唇を求めた。

 昨夜の余燼(よじん)がまた燃え上がろうとする。それをさえぎって朔田が布団を蹴った。本当に大原に行くのなら、グズグズしていられない。

「簡単に洗面をして、すぐ出よう」

「はい」

 亜矢子も用意は速いほうだ。二十分後に二人はもう家を飛び出していた。

 まだ人通りの少ない朝の町を車が疾駆(しつく)する。

 高野川に沿って北に向かい、三千院、寂光院と訪ねたが、まだ朝が早過ぎて寺門は閉ざしている。塀越しにわずかに庭掃除をする僧たちの姿が(うかが)えるだけだった。

 山道を迂回して翠黛山へ入った。名刺の裏の地図もそう記してある。一、二度迷ったが朔田はひるまない。この男には、いったん決めたことはかならず実行するといった、たくましい意志がある。

「たぶんあのあたりだな、その地図に書いてあるのは」

 山の中腹に(ぶち)でも作ったように白い花の群が見えた。

「あんな崖のとこ、近くまで行けるかしら」

「行ける、行ける」

 もうこの時には、朝の光がくまなく山の斜面を照らしていた。車はあえぎあえぎ石の坂道を登る。

 道のかたわらに車を止め、二人は人気(ひとけ)ない山道を歩きながら花を仰いだ。花の露が光に触れて鮮かに輝く。

「昔は今に比べると、ずっと色彩は少なかったんじゃないかな」

「だから露の光なんかを見ても、ものすごくきれいに見えたんじゃないかしら」

「今は宝石だの、ネオンだのがあるから露の光くらいじゃそれほど感動しないんだ」

 桜の群は西側の斜面にそってさらに幹の数を集めている。草のあいまに細い道があるので亜矢子は一、二歩踏み込んだ。

 そして急に足を止めた。

「どうした?」

すぐには答えられない。

思考が一つの結論を得るまでにいくばくかの時間が必要だった。

 草の中に男物の短靴が揃えて置いてあった。その靴に見覚えがあった。靴の色合いに、アクセサリイのデザインに記憶があった。ワイン・カラー、Gのマーク。

 ──あの人の靴だ。どうしてここへ──

 その理由は見当がつかないでもなかったが、靴の下には紙が置いてある。その紙に記された文字が尋常ではない。

"驚かないでください。この先で死んでいます"

 亜矢子は死体を見なかった。

 朔田の話では、一きわ太い桜の枝にかかって、花の中で短冊のように揺れていた、と言う。

 あれから十数日たった今、亜矢子はまた新幹線で西へ向かっている。春は深まり、亜矢子の心も深まった。京都駅には今日も朔田が迎えに来ているだろう。

 中村紀男という男の死については夕刊で読んだ。

 東京で事業に失敗し、故郷に帰って花の中で死んだのだった。"願はくば花の下にて春死なむ〃と()んだのは西行だったろうか、などと思う。自殺をする人は、なにかの形でこの世への未練を残すものだと言うが、あの男が名刺の裏に自分の死場所を書いたのも、その一つだったのかもしれない。亜矢子が助けてくれるのを心のどこかで待っていたのかもしれない。

 草の中に並んだ靴のイメージが浮かんだ。

 男は言っていた。"恐ろしいのは死にたがる靴です"と。

 ──あの男の靴がそうだったのだろうか──

 いったんその靴を履いたらもうどうにもならない。糸に引かれるように、男は京都に向かい、翠黛山へ登り、ただ靴の動くままに崖の縁まで行ったのだろうか。

 ──そんなこと……信じられない──

 とも思う。

 朔田に話したら、

「それはおもしろい」

 と言って陽気に笑うだろう。

 だが、薄闇を縫って走る列車は奇妙に心を高ぶらせる。まるでこの列車は、避けられないものに向かって走っているようだ。

 亜矢子はふと自分の足もとを見た。今日も紺のスエードの靴を履いている。今日もまた彼女は男の住む町へ向けて心を弾ませている。糸に引かれるように、靴に運ばれるように。

 ──あの男は、もしかしたら私の靴についてもなにか感じたのかもしれない──

 だが、男はなにも言わなかった。

 言わなかったのは、それがよくない運命だったからではないのか。

 しかし、たとえそうであったとしてももうあとへ戻る気持ちはない。

 妻に捨てられた男が、あの美しい町で待っている。今夜も二人はあの素っ気ないアパートで抱き合うだろう。これからは何度も何度も亜矢子はこのレールを走るだろう。

 そのあげく、行く手にはなにがあるのか。

 かならずしも幸福ばかりを期待しているわけではない。是が非でも朔田と結婚をしたいと願っているわけではない。

 ──では、なんのために──

 今は、ただ会いたい。それだけのこと……。

 列車の響きが心を()かすように鳴っている。

 スエードのハイヒールは確かに亜矢子を乗せて走り出したのかもしれない。足を組み直すと、キュッと小さな声が聞こえた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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阿刀田 高

アトウダ タカシ
あとうだ たかし 小説家 1935年 東京生まれ。短編集「ナポレオン狂」で直木賞受賞。2007年から日本ペンクラブ第15代会長(電子文藝館館長兼務)に就任。

掲載作は「小説現代」1981年6月号に初出。講談社文庫『ガラスの肖像』所収。

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