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加藤周一「ある晴れた日に」論

  一、なぜ小説なのか

 

 評論家の加藤周一は小説も書いていることは、最近はあまり知られていないようだ。加藤氏は、著作集(第一期一九七八〜八〇年、以下同じ)第十三巻「小説・詩歌」のあとがきで「私は生涯に強い感動を伴ういくつかの経験をした。そしてその経験を、架空の話に託して語ろうとしたことがある」と書き、自作として長編三つと、短編一つ、短編連作二つをあげている。長編「ある晴れた日に」は、その一つであり、著作集のこの巻に収められている。それ以外にも、私の知る限り、戦後早い時期の短編がいくつかある。

 加藤周一にとっては小説も評論も文学の中の一形式にすぎない。同じあとがきの文章で「私は次第に、目的に応じ、また与えられた条件に応じ、異なる表現形式を用いることの利を考えるようになった」「散文に空想をまじえて小説を作るか、事実に即して伝記を草し、思想を分析して論文を書くかも、時と場合に従うのである」と書いている。それは氏の持論の文学観からして当然のことであろう。知的思想的内容の文章を文学の範疇からはずし、方法はフィクション、内容は感情生活を中心とする小説のみを、散文の文学に数える日本の(もとは英米型の)文学観を、文学を貧しくする狭量な理解として彼は一貫して批判してきたからである。

 ならば、加藤氏の小説の場合、なぜその作品は小説形式が選ばれたのか。内容を読むことと同時に、その前提である形式選択の根拠を問うこともまた必要となってくる。

 

  二、「怒りの抒情詩」につづいて

 

「ある晴れた日に」は、一九四九年に『人間』一~八月号に連載された。中村真一郎、福永武彦との共著『1946 文学的考察』(一九四七年)で加藤の存在が注目されてから二年後である。一九五〇年に単行本として月曜書房から刊行された。いわば氏の長い文学活動の最初期の作品であり、小説としては処女作にあたる。

 のちに氏は、同人誌で書き始めたばかりの自分に、はじめて原稿を依頼してきたのが『人間』の木村徳三編集長だったと回想している。「私の売文業は、木村氏の好意と『人間』によって、はじまったのである」(『続 羊の歌』)。『人間』は、鎌倉文士たちが戦後、私財を持ち寄って発刊した雑誌だった。加藤氏は『人間』と吉野源三郎編集長の『世界』、臼井吉見編集長の『展望』をならべて、一種の理想主義が共通していたとも書いている。

「配給の衣食足りず、闇市が栄え、巷に『米よこせ』運動の赤旗がなびいていたとき、東京には抜くべからざる理想主義があったのである。私はいくさの間の見聞を粉飾した小説『ある晴れた日に』を雑誌『人間』に連載した」(同前)

「粉飾」という言葉は怪訝に思われるが、これは謙遜と受けとった方がいい。自分の著作についてほとんど触れない『羊の歌』正続に、わざわざ題名をしのばせているところに、本作に対する著者のひとかたならぬ思いを見るべきである。

 平和と民主主義を掲げた戦後の出発期。その理想主義的空気の中で書かれたことはこの作品にも強く影響している。

 そもそもまったく新しい戦後世代の登場として文学史に刻まれている『1946 文学的考察』の自分の文章について、三十年後、加藤氏は「今読みかえしてみると、あらためて当時の怒りが甦る。太平洋戦争は多くの日本の青年を殺し、私の貴重な友人を殺した。」「『1946 文学的考察』は、私にとって、何よりも怒りの抒情詩であった」(著作集での追記)と記している。たしかに同書には、堰を切ってあふれ出る言葉、過去の否定のうえに新しい社会と文学を築こうという熱情がほとばしり、評論が詩になりうることを示している。

 戦争中の体験が核となっている「ある晴れた日に」は、それに直接つながる作品である。小説という形式のせいか、あるいは逼塞を強いられた戦争中が舞台のせいか、『1946 文学的考察』にくらべると、かなり落ち着いた、見方によってはおとなしい印象を与える。しかし、ここには紛れもなく同じ戦闘的知識人加藤周一がいるのである。それを見ていきたい。

 

  三、反戦小説である前に

 

「ある晴れた日に」の主人公は土屋太郎という医学部を卒業したばかりの研修医の青年である。日本の戦争の本質を侵略だと見抜いているとはいえないが、「(多くの死にもかかわらず)戦争を正当なものだという根拠はどこにあるのだろうか」「(召集された友人の)彼から自由を奪ったものに抗議しなければならない」と考える反戦感情の持ち主である。戦時下に青年期を過ごす者として、突然の召集令状によってであれ、空襲によってであれ、自分の命の危険を常に感じざるを得ない。そのことがなおさら彼を反戦的にしている。

 一九四五年の四月、召集された友人の姉・あき子に呼ばれて太郎が軽井沢を訪ねるところから小説は始まる。太郎の母も近くのO村に疎開している。あき子は中国にいる弟の身を案じ「軍人の支配する日本が残るよりは、連合軍が日本を占領した方がずっといいと思うわ」とまで言って太郎を驚かせる。憲兵がにらみをきかせるかつての避暑地では、あき子の他にも少数の反戦的な芸術家や知識人が日本の軍国主義の崩壊を待ちながらひっそりと暮らしており、太郎も親しくなる(第一部)

 一週間で東京に戻った太郎は、召集で医者の減った病院で泊まり込みながら懸命に働く。日本の必勝を信じる医師と、戦況をめぐって小さな衝突もおきる。そんななか、太郎は若い看護婦のユキ子との間に恋が芽生える。二人の関係はゆっくり進展していくが、空襲で病院が焼け落ちた夜、突然に彼女と太郎の間の溝が決定的になり、彼女は去る。(第二部)

 焼け出された太郎は軽井沢に疎開し、ユキ子を失った傷心を抱えたまま、四月に知り合った画家や教授とつきあいながら日を過ごす。八月十五日、待ちに待った日を迎え、太郎は生命の充実を感じ「かつて知らなかった希望と力とが溢れるのを意識した」。天皇制打倒と革命を熱っぽく語る画家たちの議論にはついていけないながらも太郎も今後のことを考える。東京へ戻る日、「ある晴れた日に戦争は来り、ある晴れた日に戦争は去った」との感慨で小説はしめくくられる。(第三部)

 以上が大筋の流れである。

 このように「ある晴れた日に」がひとつの戦争体験を描いていることは間違いないが、これを戦争小説としてみたのでは物足りなさが先に立つだろう。大岡昇平や梅崎春生の戦場や軍隊でのぎりぎりの体験には衝迫力でくらべるべくもない。東京の空襲の被害も、疎開先での生活の苦労も、一通り以上に詳しく語られてはいない。

 では、これは反戦小説なのか。確かにあき子や画家、時々顔を見せる吉川というなぞめいた青年、彼らの語る戦争批判や戦後の見通しには、戦時下にも生き続けた良識の存在が感じられる。せりふの中には今でも先見性を感じさせるものが多い。だからこの作品を反戦小説、戦争批判と読むのも理由のないことではない。

 しかし、戦争批判を書くことが中心ならば小説にする必要があっただろうか。同じ戦争批判・軍国主義批判なら『1946 文学的考察』の方が、ずっと熱く訴えるものがあり、天皇制打倒論ならば、匿名の一青年として東大の「大学新聞」に書いた一九四六年三月の「天皇制を論ず」の方が、情理を尽くし、はるかに明快で説得力がある。

 例えば、小説の太郎は天皇制打倒を説く画家に対して「今天皇制を壊したら混乱する」と微温的意見を返している。しかし、「天皇制を論ず」の現実の加藤氏はもっともラジカルな天皇制廃止論者なのである。加藤氏はそこで、太郎が述べたような「天皇制を今廃止すれば混乱が起こる」という必要論に対して「恥を知れ」とまでいっている。「成程起こるかも知れないが、戦争による混乱をわれわれ人民は既に遺憾なく体験した。……戦争を迎えるのに沈黙を以てし、天皇制廃止を称うに混乱を以てする者は恥を知れと云いたい」。

 自分の政治的意見を説くのに(画家など複数の口をかりて盛り込んではいるが)小説が最良の器であるはずはない。ここで「なぜ小説なのか」という最初の問いに戻る。「ある晴れた日に」は一面、たしかに反戦小説であるのだが、それ以上に、描こうとした中心テーマがあるのである。

 

  四、恋愛小説が語る知識人の孤独

 

 結論を言ってしまえば、これは恋愛小説なのである。古今の文学史を振り返るまでもなく、恋愛ほど小説にぴったりの主題はない。太郎の、看護婦・ユキ子との恋と別れにこそ、「ある晴れた日に」一編の中心がある。

 だからといって「戦争中を描いているのにそんな軟弱なテーマなのか」とガッカリする必要はない。このささやかな恋愛を通して、加藤周一は戦後を歩み出す知識人としての大きな決意を語っている。

 ユキ子との恋は最初に女性が積極的に近づいてきて始まり、最後も女性が一方的に去っていって終わる。漁師の家に生まれ、快活で豊かな胸とすらっとした手足を持ったユキ子は、太郎の夜食を作ったり洗濯物をしたりと何くれと好意を示してくれる。太郎も次第に憎からず思うようになり、一度だけ、二人は海に出かける。ユキ子の田舎育ちへの不満を抑えて「好きだ」という太郎に対して、ユキ子は「うそです。……でもそれでいいんです」と身を任せる。

 しかし、空襲の夜、突然の別離が訪れる。太郎とユキ子は二人がやっと入れるほどの防空壕の横穴に隠れたが、いつにもまして空襲は近く激しく、病院も焼けるしかないと思われた。太郎は死の恐怖を思い、とにかく火勢が衰えるまでじっとしているしかないと考えていた。しかしユキ子は病院が焼けるのに黙って何もせずにいるのが我慢できなかった。短い押し問答が起き、「行ったってしようがない」と制止する太郎に、ユキ子は「驚きと軽蔑との半ばする冷たい眼」を一瞬向けると一人で飛び出していった。

 全体の長さからすればごく短いが、この場面の印象は非常に強い。今回読み直すまでは、この小説は十年前に一度読んだきりだったが、おぼろげながらも一番よく覚えていたのは防空壕の二人のシーンだった。

 ユキ子に去られた後、太郎は心に大きな空洞を抱えるようになる。それは軽井沢の、同じ反戦意識を共有する人たちの中でも充たされることはない。逆に「(軽井沢の集まりに)あたたかさと共感を覚えれば覚えるほど、嵐のなかへただひとりとび出してゆきたいという不合理な衝動が心の中に動くのを一方では感じていた」とある。戦争という嵐で一カ所に吹き寄せられてきた少数の良識ある人々の中にいながら、大衆であるユキ子について飛び出せなかった自分を責めているのである。この空洞感は繰り返し顔を出し、強調されている。

 この空洞感の正体は、たとえ自分が冷静で正しくても、無力で非行動的な傍観者にすぎず、行動力のある人民大衆からは冷たく孤立しているという、つらい自己認識である。太郎とユキ子を隔てた溝を通して、知識人の孤独を痛切に描いたのである。

 

  五、「戦争は人を変える」

 

 この小説が、体験そのままではないフィクションであることは、その設定から明らかなのであるが、加藤周一が半生を振り返った自伝『羊の歌』のなかには、「ある晴れた日に」と共通するエピソードもいくつかある。そのなかにはユキ子のモデルになった女性の思い出もある。容貌もさえず無愛想で女性にもてないと自認していた加藤にとって、彼女は「最初の女友だち」だったと書いている。

 しかし『羊の歌』には防空壕や二人の別れの話は出てこない。おそらくこの場面はフィクションなのだろう。ただ、いっしょに彼女の実家のある内房の村に出かけたときの印象が次のように書かれている。

「私は突然よそ者としての私自身を、実に鋭く——あたかもその『よそ者』という言葉のなかに、私と社会との関係の一切が要約されてでもいるかのように、鋭く感じた」

 大衆から切り離された思いは、戦時中の加藤氏が常に感じ続けていたものだ。たとえばそれは、東京大空襲の負傷者の治療に忙殺されたときにだけ忘れることができるものだった。「爆撃機が頭上にあったときに、私は孤独であった。爆撃機が去って後の数日ほど、私が孤独でなかったことはない」(『羊の歌』)

『1946 文学的考察』で加藤氏は「戦争謳歌の光景を眺め、文学を読む不快の情に堪えず、四年の間、一度も映画館、劇場等凡そ人の集まるところに足を入れず、一冊の雑誌も読まなかった」と語っている。強い反戦感情から出たものではあったが、戦争中の孤独は自ら選んだものでもあった。

 ところが、そうした孤独な知識人のありように対し、この戦後に書いた小説では「軽蔑」の目を向けて恋人を走り去らせたのである。

 孤独な傍観者という自分への決別。ここに、戦争によって大きく変わった加藤周一の決意がある。「戦争は人を変える」とは、小説中の八・一五後の主人公の思いである。

『羊の歌』ではこう書いている。

「私はそもそものはじめから、生きていたのではなく、眺めていたのだ。私自身はいくさが大日本帝国の正体を暴露したと考えていたが、いくさが暴露したのは実は私自身であったかもしれない」

「ある晴れた日に」で次のように書かれていることは、右記の回想に重なるだろう。

「横穴の彼女は、振り向かずに走り去ることで、自分のなかにあった本当のものをつき壊してしまった」「ユキ子の非難によって、傷けられ、傷けられたことで、自分の中の何かが変わろうとしていることを、はっきりと自覚した」。

 傍観者から発言者へ。戦争は加藤周一を変えたのである。

 

  六、知識人論から『日本文学史序説』へ

 

 少しわき道にそれるが、傍観か否かという知識人の態度について、「戦争と知識人」(一九五九年)のなかで加藤周一は興味深い指摘をしている。

 まず一つは戦争中の知識人には、戦争反対を表立って言うことはできなくとも「例外的な場合を除いて、沈黙の余地は最後まであった」ということである。だから「反対であれば傍観する他にどうしようもなかった」として、代表的存在として宮本百合子と堀辰雄をあげている。

 もちろん、非協力に重点のあった宮本と、傍観に重点のあった堀の違いもきちんと指摘している。さらにいえば、夫・顕治の獄中闘争を支え、自らもたびたび弾圧を受けてついに命取りとなるほど健康を損ねた宮本百合子を「傍観」というのには抵抗感もあるが、ここでは深入りしない。

 二つ目は、「多くの知識人は積極的な戦争の支持者ではなかったにも拘わらず、多かれ少なかれ進んで協力した」ことの動機についてである。

 そこで中野好夫を例にあげている。戦後は民主的知識人として積極的に活動した中野は、戦争中は文学報国会に参加し、「この時局多難なときにあたっても」外国文学の研究・移植の道を閉ざしたくないという発言をしている。その発言は冷静なものであるが、会への参加自体が戦争協力であることは中野自身も自覚していた。

 そのことを戦後、中野は次のように書いている。

 「一度として聖戦などとは思ったこともない、書いたこともない、勝つともあまり思えなかった。しかし私は決して傍観して日本の負けるのをニヤニヤ待ち望んでいたことは決してない。十二月八日以後は一国民の義務としての限りは戦争に協力した。だまされたのではない。喜んで進んでしたのであります」

 加藤氏はこうした中野の言動を紹介し、その戦争協力の動機に「『社会的関心』の激しさがあり、その『社会的関心』の背景には『正義感』の強さがあるだろう」と推測している。それが、戦後は中野好夫をして、民主主義建設のための積極的な働き手のひとりにしたと。一面の真実をついているのではないだろうか。

 また戦後の民主化のために、戦争を傍観した知識人よりも、戦争に協力した知識人の方が多く積極的に行動した事実にも触れている。加藤氏はその心理的メカニズムは中野好夫の例と共通するのではないかと考えている。

 戦争協力の心理をこのように分析した例を寡聞にしてほかに知らない。戦争中、傍観を貫きその激しい孤独と焦燥感を知っている加藤氏だからこそ、良心的知識人の戦争協力の心理に「社会的関心」と「正義感」を見いだすことができたと私には思えるのである。

 三つ目に、加藤氏は、中野好夫のようなすぐれた知識人であっても「『正義』の概念が『忠誠』の概念に要約集中され」て戦争協力になびいた日本的精神の検討に進んでいる。その結論は実生活に根ざす「祖国」や「日本」を超える、いかなる超越的価値も知識人が持たなかったからだという。超越的価値を持つキリスト教やマルクス主義は外来思想である故に、実生活と思想が乖離した日本的精神風土を変えるに至らなかったし、思想の外来性は「大衆から知識人を切り離す結果をも伴う」。

 加藤氏は、この外来思想を受け入れる日本的特徴を、『古事記』の過去から歴史的にたどる課題に取り組むことを予告している。それを実行したのが、氏の代表作であり、世界に通用する日本文学史として右に出るもののない『日本文学史序説』にほかならない。準備期間をのぞいても、この執筆に加藤氏は足かけ八年かけている。「戦争と知識人」の問題を追究して、ついに日本の思想文学の全面的歴史的検討までやり抜いたのである。モチーフの強さといい、氏のなみなみならぬ努力といい、脱帽の他はない。

 

  七、まとめ

 

 沈黙と傍観からの脱皮。これが加藤周一の戦後の初心であった。自然科学である医学を職業として「文士になる気は毛頭なかった」(「文学的自伝のための断片」一九五九年)加藤氏が、そこから積極的な文筆活動を開始する。

「(知識階級の)この孤立を破り得なければ、語ることは無駄であり、……我々の自由や人権や理性は再び踏みにじられるであろう。しかし、この孤立は破り得る、少なくとも破ろうと試みなければならぬ」「人民のために語り、人民と共に進み、人民の中で闘う以外に、道はないのだ」(「知識人の任務」『1946 文学的考察』)

 その決意の根底には殺された人たちへの思いがある。「ある晴れた日に」であき子は戦争末期、「どうにかして生きてゆくことが一番いいことなんだ」という考えに対して、「しかし生きてゆけない者はどうするのだろう」と考える。「生きてゆける者は(中略)生きてゆくこと、ただそのことだけを考えて戦争のすむまで待っていさえすればよいのであろうか」。

 加藤氏は数年前の週刊誌のインタビューでもこう語っている。「沈黙の誘惑におそわれたときは、いくさで殺された友人のことを思う」。

 小説の太郎は、戦争が終わり東京に戻る駅への道を歩きながら「愛すること、働くこと、力いっぱいに生きること。何れにしても、自分自身の片すみで、小さな声で呟いていた意志を思い切った行いの上に実現すること」と考える。この考えの先に「怒りの抒情詩」を歌い出す加藤周一がいる。

「ある晴れた日に」は、戦後に語り出す行為そのものの根拠を、自他に問うたマニフェスト(宣言書)なのである。

 

  八、補論「星菫派論争」

 

 もう与えられた紙数は尽きてしまったのだが、加藤周一と『近代文学』の荒正人・本多秋五とのあいだにおきた「星菫派論争」について最後に触れないと、「ある晴れた日に」論はどうしても終われない。というのは、本多秋五が論争の中で「念のために、加藤周一の小説『ある晴れた日に』を読んでみた。そして、ああ、やっぱり、加藤周一はあのころ星菫派だったのだな、という確信をふかめた」とあるからである。

 星菫派という言葉は、加藤・中村・福永の三人の共著『1946 文学的考察』冒頭の文章「新しき星菫派に就いて」から発している。筆者は加藤周一である。彼はそこで「戦争の世代は、星菫派である」と書き、詩や哲学に対して十分すぎる教養と審美眼とを持ちながら、戦争という社会政治問題に対しては、政府の宣伝を繰り返して何ら疑問を持たない無学無関心な知識人青年の一群を「星菫派」と批判したのである。「世間知らずのお坊ちゃん」というほどの意味である。それは加藤氏の同世代に多かったという。

 これに対し、当時、評論家の荒正人が、加藤ら三人こそ星菫派ではないか、その自覚がないとかみついた。そのときは、荒の批判と前後して加藤氏ら三人が『近代文学』同人に加わったので、論争はそれきりになった。十年余り後に今度は本多秋五が『物語戦後文学史』のなかで、加藤らの卓越した知性と教養を高く評価しながらも、「この人たちの内部に星菫派が住んでいたことは、よくも悪くもない。事実である」、彼らの理性は「日本の現実を水くぐらぬ理性であった」と批判したのである。論争は加藤氏が「文学的自伝のための断片」を書いて反論し、本多が「世界的知性にもの申す」で再反論するという経過をたどった。

 後年、加藤氏は「『近代文学』の批評家たちは、私を遇するのに寛大な好意をもってしたのである。しかしそのことは話の通じ難いという事実を変えるものではなかった」(『続 羊の歌』)と振り返っている。

 なぜ話が通じなかったのか。

 本多の再反論の中心は次の点にあった。「あの戦争を帝国主義戦争とみとめるだけのことなら、なんでもないことであった」。大事なのは「あの戦争を帝国主義戦争とみとめながら、しかも、なお、銃をかついで外国の土をふみ、泥にまみれてモッコをかつぎ、(中略)やむなく総動員体制下に『協力』の姿勢をとらざるを得なかった人々」の存在であり、そのことを思わないのは星菫派であると。ここからは両者の二つのすれ違いが見てとれる。

 加藤周一は戦争を支持した青年たちを政治的無知のゆえに星菫派と呼んだ。加藤にとって、帝国主義戦争の現実を理解することが日本の現実を知ることなのである。一方、荒・本多は、帝国主義戦争を支持するかどうかは問題にしていない。そこに第一のすれ違いがある。

 かわりに本多らが問題にするのは挫折経験の有無なのである。理想に挫折し、「現実の汚濁」にまみれて手を汚すことが本多たちにとって日本の現実を知ることなのである。加藤はそんなことは問題にしていない。そこに第二のすれ違いがある。

 ここには戦後文学を担った二つの大きな流派の体質ともいうべき違いがよく現れている。

 一つは明らかに世代による体験の違いがある。本多秋五と加藤周一は十一歳違う。戦争体験の違いと、もう一つは戦前のマルクス主義にたつ活動体験の違いである。いま詳論する余裕はないが、本多たちの挫折体験の絶対的重視は、別の回路を通って転向弁護論と結びついていることは指摘しておきたい。

 つまり、吉本隆明の「転向者=日本の現実から逃げずに格闘した人々、非転向者=国民から遊離した根無し草」と見る見方につながるのである。国民の意識・実生活が非常に遅れているのに、前衛党の思想のみが反戦と天皇制打倒を貫くのはおかしい、それは逆に国民から遊離していたという考えなのである。吉本隆明の転向論の原型は『近代文学』派の平野謙にあり、さかのぼれば戦前の転向賛美論にいきつく。

 もう一つは文学観の違いである。加藤周一は「近代日本文学の伝統には、大きく見て二つの系統がある」としている(著作集第六巻あとがき)。一つは、私小説によって「人生いかに生くべきか」を追求する自然主義の流れ。もう一つは「二つの文化の対決」を主要な問題関心とする漱石・鴎外から堀辰雄にいたる流れである。星菫派論争もこの違いを当てはめると理解しやすい。加藤氏が後者の系統に属していることは自ら認めている。本多・荒らの挫折体験絶対論は前者に属するのである。

 その文学観の違いが、思想と生活のとらえ方の違いになっている。「比較文化派」の加藤氏が思想を生活に劣らない大事なものととらえるのに対して、「人生派」の本多・荒は思想は実生活に負ける弱いものと考えている。本多らは思想のとらえ方が倫理的に厳格なように見えて、実は重要度が生活よりも下におかれているのである。こう考えると(さきの転向弁護論もそうなのだが)六節で触れた日本的精神風土についての加藤氏の指摘とも重なってきて興味深い。

 いわば従来互いに交渉することが少なかった文学系統が戦後同じ土俵に立ったところに、戦後文学の豊かな開花が実現したが、もう一方で奇妙な論争も招いたということだったのではないだろうか。

 もう一つ、第三のすれ違いがある。本多たちは加藤たちを大衆とは異なる恵まれた境遇にいることへの自覚がないと批判している。しかし、この批判はまったく当たらない。一つは、これまでるる述べてきたように、加藤氏には十分すぎる自覚があったからである。もう一つは、矛盾するようだが、彼の境遇はそんな恵まれたものではなかったからである。

 本多秋五は「ある晴れた日に」を星菫派のものと評したが、それは私小説的読み方をした誤読である。そういう表面の奥に大衆からの孤立の自覚と新しい連帯の決意があることを小論では示してきた。小説を知的思想的制作物と考える加藤周一の韜晦が生んだ誤読といえるだろう。

 「日本の現実を水くぐらぬ理性」という批判も、戦後六十年近くを通して、戦争と非民主化の逆流に抵抗し続けてきた加藤周一の活動を見れば、当たらなかったといえる。逆に、加藤氏の一貫した言論活動は、「挫折賛美」から抜け出して思想と現実の関係を考える新しい材料を提供している。 (了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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北村 隆志

キタムラ タカシ
きたむら たかし 文芸評論家 1963年 愛知県一宮市に生まれる。主な著書に『反貧困の文学』(2010年、学習の友社刊)等。

掲載作は2003(平成15)年、「民主文学」11月号に初出。

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