（一）
夕暮の忙しさは、早や家へ帰る身なるに襷脱るのも打忘れて匆卒と、吾妻下駄の歯に小石の当りて騒がしく、前垂帯の上より締めて、小包持てるは髪結なるべし、恁る商売柄には似もやらぬ正直らしき顔色したる四十歳余の女、通りがてに角の豆腐屋の女房に一寸会釈して、隣れる我家の格子戸啓くれば、裡より娘の優しき声して、乳母や、今お帰りかと言ふ。
乳母と言はれしは、いそいそと内に入りて、はい唯今帰りました。嘸やお淋しう御座んしてでしよ。燈火の点かぬ中にと存じまして、升屋の女中衆のが済むだら、もう今日は切上げにしてと楽で居りましたに、生憎、二階に昨夜から女のお客が三人許旅宿て居るから、是非結て進げてお呉れ、と内儀様のお頼。お得意の事ではあり、真逆に勝手な事も出来ず、島田が一つに丸髷を二つ、厭々結て参りました。真箇に悪いことを言ふのでは御座んせぬけれど、其お客は田舎の人達と見えまして、若い人の方なんぞの髷の形と申しましたら、それはそれはお嬢様にお眼にかけたう御座んした。両端が押開いて肝心の真中が低くつて、どれ程結難う御座んしてでしよ。何と申しまする形やら、あれが大方田舎形とでも申すので御座りませう、と跡は主の機嫌取りた気にほゝと打笑ひぬ。実に話上手の元気よき女ぞかし。
娘も共に打笑ひ、乳母が又いつも面白い話ばかり。夫はお前商売だもの。稀には義理にも結はねばならぬ折のありて、思ふ様にならない事もあらうけれど、夜に成ると私が淋しからうと気遣つて、決して無理な事を為てお呉れでないよ。大切な御得意を失くして仕舞つては、後の為にならないし、それに私はもう馴れたから、些も恐いとは思ひませぬ。麻布のお邸の様に庭が何処迄続て居るか分らないで、狐や狸の泣声がしては薄気味が悪けれど、此家は隣も裏も密接て居て、大きな声さへ出せば何処へでも聴えるのだもの。これが恐くては真箇に何処へ往ても居られやしませぬ。夫は然と此様なお饒舌を為て、乳母やは嘸お腹が空たらう。早く御飯を喰べると可い。お湯は先刻から沸立つて居るから、と鉄瓶の蓋に一寸手を懸けしが、湯気に当られておゝ熱つと振払へば、乳母は気遣ひ顔に、あお嬢様、熱傷を為さりは致しませぬか、お早く恁うしてお耳へお手をお当て遊ばしませ。真箇に勿体ない。其様なお心遣遊ばさずと、奥にぢつと為て居て下さいまし。如何も恐入ました。夫ではお嬢様に煎れて戴きましたお茶で、早く喰きませう。嘸や旨う御座んせう、と勝手へ起ちしが、やがて聞ゆるお茶漬の音さらさらさら。
程なく軽く楊枝遣ひながら入来て、此家に置くはあたら惜しとも思はるゝ桐の長火鉢の前に坐りて、骨休の煙草吸ひながら、つくづく主の顔を打守りて太息吐き、お嬢様、此様な家に恁うしてお居遊ばすのは、嘸やお厭で御座りませう、と今更の様なる乳母の言葉に、娘は眼を円くして、又乳母が始まつた。親とも思ふお前の傍に居る事、何の厭なことがあるものかね、と如何にも懐し気に言へば、それ其様に仰有つて下さいます程、猶私はお可憐しう御座んす。貴嬢様も今年はもうお十七、殿様か奥様かせめてお一方でもお在り成さんしたら、今頃は清様とご婚礼のお仕度で、大騒ぎで居らつしやらうものを、遽に御両親共お隠れ遊ばしたばつかりに、髪結風情の此様な家へお引取られなされて、朝は蒼蝿くもお饒舌の人が大勢見えて、嫉みから何の彼のとお噂して、中には当付けなど言ふ者ありてお心持を悪くお為せ申せど、お得意といふ弱身のあれば、左様つけつけと私が怒りも出来ず。家といふたら狭くつて汚くつてお邸の車部屋よりも甚く、せめてはお気晴しにと思ふ猫の額程の庭も、美しい花一つ咲て居るではなし、枯れかかつた万年青の鉢が横倒になつて居るばかりでは御座んせぬか。私はそれを思ひますと、お口にこそお出しなさらね、貴嬢様のお胸の中はまあ如何様で居らつしやらうかと、悲しくつて悲しくつて涙が滴れまする、と堪へ兼けむ膝に落す一雫、これは頼もしき乳母が真実を籠めたる溜涙なり。
娘は何思ふらむ恍惚として、差俯向ける花の姿は、乳母が秘蔵の箱に張りたる北斎画の美人も之には及ぶまじく、高島田に金糸の房々と燈火に照り添ふ美しさ。乳母は見るに悲しさ増さりて、始めの元気よかりしには引かへ、いとゞ涙に咽び入れば、娘は驚きて種々に慰むる素振の優しさ。恁る嬢様をお残き成されて、先立ち給ひし御両親の、就中奥様は心弱き御方の事とて、其お心残りは如何程なりしかと、当時の様の眼に浮ぶぞ愁し。良久ありて乳母は懐出したらむやうに、夫は然とお嬢様、とやうやう涙を歛めて乗出し、私の留守に、折々は清様からお便りは御座りまするかと問へど、返事はなくて唯打萎れ居る娘の様子気遣はしく、重ねて聞けばやうやう顔を挙げて、乳母や、清様は如何遊ばしたか。此家へ来てよりもう余程になるに、未だ一度もお便りのなきは、若しや御病気ではあるまいか。夫とも彼国の御婦人方などゝ御交際遊ばしたれば、私のやうな不束者には、もう秋風がお立ちなされたのではなきか、と面羞げに言出づるも、哀れに可愛しき。
（二）
乳母が歎くも道理や。父母だに世に在さむには、桜川家に唯一人の秘蔵娘と冊れて、金屏風の内に浮世の荒き風を知らず。人喰ふ鬼は何処に住むものやら、身も心も長閑にお米の相場も得知らで暮さるゝものを、憎きは病魔、満つれば欠くる世の習の是非なく、一度に杖柱の両親に逝かれてより、春の海の静けかりし家内は乱脈。少からぬ財産の残れるを目的に、常は往来も為ざりし遠縁の者迄、慾に燃え立つ声優しく、跡の片付我世話せむ。娘は我子の嫁に為てと、彼方此方より蒼蝿く言寄りて、娘の久子は中原の鹿やらむ、誰が手に落つるとも分らざりけり。
然れども、久子には早や聘定の夫あり。春野清とて秀才の風聞高く、一昨年大学に業を卒へて、若き歳に似合はずと衆人に望を属され、文学士として立派に持て囃さるゝ身を、驕らぬ心に、今一修業と英吉利国に乗出し、来年は博士の月桂冠を戴きて帰る意気込の頼もしさ。此天晴なる婿と夫婦に為て、並べて似合はしき姿を見ぬを何よりの心残にして、夫に別れて病付きし母親は、臨終の枕元に、外の者は差措きて久子が乳母のお勝を呼寄せ、先立つ我身は定まれる天命の是非なさ悲しくはなけれど、唯心懸りなは彼久子、親には別れ兄妹はなし、便りに為ねばならぬ親類は数あれど、皆腹黒き者のみなれば、我亡き暁には、如何なる憂目に遇ふ事やら。然れば頼むは其方ばかり。始めこそ他人なれ、其方の乳で育ちし久子の、言はゞ親子も同様、渠の為を思ふて呉るゝ志あらば、聘定の清が帰朝迄、久子に疵の付かぬ様、世間に後指さゝれぬやう、守つて此桜川家を立てゝお呉れと、虫の息になるまで言続けての呉々の遺言なれば、お勝は確と心に占めて力を入れ、親類会議の席へも出でゝ、私への奥様の御遺言確と守り、お嬢様は箱入にして、錠をかけてお預り申しまするからは、誰様もお構ひ下さるな、と断然言て退けて一同を驚かせしが、腹黒き者の女一人と侮りてか、飽迄意地張りて声鋭く、其方は他人、我等は親族、義理にも桜川家の滅亡を傍観出来ぬ間柄なれば、娘は其方に預けるとしても、財産は我等管理すべし。若し之にも異議あらむには、是非を法廷にて争はむ、と何処迄も権柄づくに威赫されて返す言葉なく、久子丈は自由な身となりしをせめてもの取柄にして、此憐なる金箔剥ちたる主人を我家へ引取りしを、憎くや彼方はせゝら笑ひて、彼れ見よ広言吐きて、あはれ財産は誰が守るやら。遽に別荘を新築せし人もあれば、新橋の美形に千金を投じて、手活の花と眺め暮す者もありとかや。
されば、久子もやうやう世の憂を知り初めて、今迄は誰も同じと思へる人の心の恐ろしく、我もし彼の人々に預けられたらむには、終日泣暮さねばならぬものを、と懐出でゝは我知らず身の毛立ちて、優しき乳母のいとゞ懐しく、親なき心には夫と頼む身の、幽に世渡りせる者に世話受くる事の心苦しさに堪へず、最早恁くなりし我の外聞も要らねば、内職とやら為てなりとも手助けにせむ、と賢しくも打出すを乳母は悲しく、勿体ない。何故其様な事仰有つて下さりまする。然る浅ましき事お為せ申しては、草葉の蔭の御両親に申訳が御座りませぬ。来年は立派に奥様とお成り遊ばすの故、暫時の間御辛抱なされて、髪結風情の娘と思はれぬやう、何処迄も勿体ぶつて、御主人顔に何も為さらず居て下されまし、と涙を流して引溜むるに、再び言出づるよしもなく、済まぬとは心に思ひながらも、唯々と乳母の言ふがまゝに、お嬢様気の去らぬぞ尊し。
家は浪花町の表通にこそあれ、裏店と同じく手狭にはあれど、奥の六畳は出来ぬながらも奇麗にして、一閑張の机の上に和綴の書物は歌書と床しく、此間を久子の居間と書斎に兼ねて、次の四畳半は乳母が部屋やら髪結場所やら、玄関もあらぬ家は朝早くより此処に待合はす女輩の、俳優の噂、近所の男の品評、果は惚気話など声高に話し合ふ浅ましさ。次の間の事とて手に取る様に聞ゆるを、初心なる久子の打塞ぐ耳にも入りて、聞くに得堪へず、独り思はずも顔赧むる折ありき。
お勝もこれを気遣ひて、朱に交れば赤くなるとやら、末だ世に馴れ給はぬ嬢様の、これより善くも悪しくならるゝ御身の、恁る話の自然と御胸に染みて、万一浮きたる御心となり給ふ事あらむには、此乳母の顔が立たず、やがて旦那様と成りたまふ清様に対しても、面目なくてお目通りも出来ねば、恁る商売は止めて、何処か山の手辺の人足繁からぬ場所へ引移りたきものと心のみ憔れど、然る事しては活計に差支へて、今にも増せる苦労をお見せ申さねばならずと、身一つに主を思ふて思煩ふこそ、実にや殊勝なる女なりけれ。
お勝は此処に五年近く髪結してければ、根が器用なる手の進むに早く、髪結のお勝といへば日本橋随一と呼ばれて、得意の数も日に増し殖え行く程に、然のみ活計には差支ゆる筈なく、倹しく成さむには小金も少しは溜まるべきを、我身は古布子着てお茶漬喰べながら、久子丈には恥しからぬやうにと、千々に心を砕きつ、成べく衣も柔く美しきを撰び、繁忙しき中にも髪は三日に上げず奇麗に取上げて、化粧迄何呉れとなく世話焼けば、服装こそ麁末なれ、姿は元の邸にあるに異らぬ美しさ。掃溜と鶴とはあの事と近所合壁に評判高く、乳母の真心知らぬ人々は、今にお勝が左団扇の種とぞ噂しける。
聞くに情なく、我心の中を知り給はぬお嬢様にあらねど、恁る事を聞給はゞ、娘心の唯一筋に嘸や味気なく思召さむと、いとゞお勝は心を痛めて、然る事なきを吹聴すれど、誰とて真実とせぬ中に、桐の家とてさる怪しげなる待合の女将、或日折入つてのお頼みといふに耳を借せば、金高は何程にても苦しからねば、彼の娘を一月許我家へ借して呉れとは、お勝、皆まで聞かず赫と打腹立ち、お主様を勿体ない。滅多な事をお言ひなさるなと、散々に言伏せて、ふいと出しまゝ其家の閾は二度と跨がざりき。
（三）
衆人の遊ぶ時程此方は休まれぬ髪結の悲しさ。春は殊更忙しく、来る客を済して、今日も乳母はお得意へと廻り行きぬ。跡に久子は唯一人、退屈なるまゝ歌など詠みつゞけて居たる正午少し過ぎし頃、案内知つてか、鍵をかけたる格子戸がたつかせて、阿母様、今日は珍らしく家に居るね、と声かけながら、見識らぬ男のつかつかと昇り来て、奥に見馴れぬ美しき人を訝し気に眺め居けるが、思当りけむ笑顔を向けて、あ、これは失礼致しました。母かと思ひまして、と慇懃に会釈為てけり。
乳母がかねての話に、一人息子に定吉とて、今年廿五歳になるがありて、蠣殻町の米商仲買の店に番頭を勤め居ける由を聞きしが、さては此男ぞと思へば、何となく懐しくも覚えつ、口籠りながらも初対面の挨拶行儀よく、何の気なしに打仰げば、乳母の子とは思はれぬ華奢姿は父親に似てか、色くつきりと眼元優しく、口元締りて、言いはぬに愛矯あり。衣服も羽織も唐桟の対なるを着て、黒八丈の前掛狭く、鳥打帽子を持ちたる様、如何にも店者のちやきちやきと見えて、門に雪駄の音せしも、成程と思はれぬ。
定吉は有繋に商売柄とて愛想よく、人を反さぬ口前の面白けれど、他人に揉まれぬ久子には、男と対坐の席の唯羞しく、先方よりの問に否唯の返事が関の山、早く乳母の帰れかしと、祈る心の穂に見えてか、将、余りの手持無沙汰なるを見兼ねやしけむ、定吉は遽に煙管筒納めて、忽卒に挨拶してぞ立帰りける。
跡にて気付けば我身の歯痒さ。何故彼様に卒気なく為しか。稀に我家へ帰り来しものを、定めて親にも逢たかりしならむに、せめては小説なりとも出して、乳母の帰るまでお待ちなされと引留めざりしか。彼方は我の余りに愛想なきを打腹立ちて、直に帰行きしなるべきに、万事世話になる乳母の子に悪き事為しと、久子は世に馴れぬ娘気の仇なく、種々に気を揉みて、例の如く夜に入りて帰り来し乳母の姿を見るが否や駆け寄りて、詫るやうなる言葉にて定吉の事を話せば、お勝は嬉しげにいそいそとして、いゝゑ何の渠が其様な事を気にかけるもので御座んすか、それは私が居ませぬ故、遠慮して早く帰つたので御座りませう、それは然と珍らしく、まあ能く来て呉れました事、如何様様子で御座んした、別に蒼い顔も為て居ませんでしたか。眼と鼻の間に居りますけれど、昨年の夏逢ひました限、もう半年余にもなるに、一度も尋ねて来ませねば、如何して居るやらと案じながらも、私が恁いふ装してお店へ逢に参りましては、彼様な派出な場所に居る忰の、定めて肩身が狭からうと余計な心配して、それはそれは一寸なりとも無事な顔が見たいも我慢して我慢して居りました。真箇に親といふものは、馬鹿な者で御座んせぬか。先方では夫程に思ふても居ますまいに、雨につけ風につけ、今年廿五歳にもなる大男を、未だ十一二歳の小供の様に考へられて、薄着を為て風邪を引きは為まいか。常々気の荒い性分なれば、若しや友達と喧嘩でもして、何処ぞへ怪我を為はせぬかと、他人様がお聞き成されたら、お笑ひなさるやうな事のみ思ひ続けて、お嬢様の御身と同じ様に、渠の事を片時も忘れは致しませぬ。
今も親父が居て呉れましたなら、私の傍へ措て一人息子で大切に可愛がつても遣られまするものを、親父に死なれましたばつかりに、私は此様な商売を始め、忰も奉公に出たいと申して、廿歳の年から彼店へ参りました。彼様な店でなしに、如何ぞして堅気なお店へと思ひましたれど、窮屈な事は大嫌な渠が、自分に望みまして勝手に行つて仕舞ましたの故、詮方が御座りませぬ。其代り身体も楽だ想で御座んすが、心配になるは夜遊の事、朋輩の交際と申しては、洲崎吉原と浮れ歩いて、女郎の写真も何枚持つて居まするやら、夫にお酒も過しますると見えて、幼少時から甘い物でなくては片時も居られませんでした程の下戸が、すつかり飲馴れまして、一升位はいつでも飲で見せますると、威張つて私に申す程で御座んす。真箇に呆れまする馬鹿もの。お嬢様、嘸や可笑しう御座んせう。それでも親の身になっては可愛くって可愛くって、不養生を為て身体を傷めてはと存じ、逢ふ度につかまへて、私が異見を致しますと、母様見た様に其様な野暮な事言つて、彼店に居られますものか。人間は何でも放蕩を為ないでは垢抜がしない、堅ツくるしい事ばかり言つて居る人には、とても相場などは遣られない、と御主人からして仰有るものを、朋輩の手前交際を為ないでは、退物にされて意気地無しと思はれ、後の為にも成りませぬと、彼いふ店と申しまするものは、主人からして皆夫で持切つて居るものと見え、なかなか止める所では御座んせぬが、天にも地にも唯一人の大切な忰は、彼様な危険な店へ手放して置く程、心配な事は御座りませぬ、と息をも吐かず語り続けしが、やがて洟去む振してそツと涙を拭ひながら、此頃も相変らず行つて居ますやら。
（四）
其翌日復もや定吉は訪ひ来ぬ。昨日の例もあれば、久子は勉めて愛想よく接待して、美しき顔に笑を湛へて口軽く話しながらも、此人の性来を乳母より聞きたる身は、何となく恐ろしくてや、真底よりは打解けて見えぬを、彼方はもどかしげに膝のみ摺寄せて、胸の中に何事か思ふらむ様子なりけり。
窓より射す日影もやうやう薄らぎて、いつしか点燈頃となれば、遽に気付きたらむ如く定吉は慌てゝ暇を告げぬ。母に用事のありて来しなるべしとのみ思へる久子は、幾度か引留めて、程なく乳母も帰ればと言へど、今日は母に内証故、帰つても私の来た事は言ふて下さるな、と堅く口止を頼むに、訝しくは思へど有繋に嫌ともいはれず承知の色を見すれば、定吉は嬉し気に会釈して、格子戸啓けて立出でむとする出逢頭に、おや定吉かえ、今帰つたよ。能くまあ来てお呉れだつた。今一足後れたらば、又逢へなかつた所さ、早くお上りな、と如何にも懐しげなる女の声は、嬉しや乳母の帰れるにぞありし。
久々の対面なれば、子の身になりても嬉しさはさぞと、久子の思ひしには違ひて、定吉は詮方なげなる頭を掻きつ、これは母様か。余り遅いから今帰らうとした所さ、と上へ昇りて坐れば、お勝はちやほやと下へも措かぬ嬉しき顔して、昨日も来て呉れた想だが、生憎留守で済まなかつたね。去年から以来別に病も為ないかえ。余り久しく来ないから、若しや如何か為やしまいかと案じ抜て居たに、よくまあ尋ねてお呉れだつた。御主人の方の首尾も可いかえ。而して何か急な用でもあつてかえ、と畳みかけて急はしく問ふは、子煩悩なる身の、聞かぬ中は安心の成らざればなるべし。
定吉は大方に聞流して、なに別に用でも無いが、余り久しく逢はないから、如何様子かと思つて来て見たのさ。母様、臍繰金は随分溜つたらう、と言ふに、お勝は打笑ひて、あゝあゝ山程溜つたよ。少しお呉れと言ふ謎だらう、と先を越せばこれも打笑ひて、然さね、貰つても悪くはないね、と空嘯く。困り者だねえ。相変らず浮かれ歩て居るのかえ、とお勝が此度の問は、元気よき中にも打湿りて聞えぬ。
傍聴の久子は、木の葉の落つるを見ても可笑しき娘の癖とて、昨夜の乳母の話を懐出しけむ、思はずほゝと笑を洩せば、定吉は昵と其顔見詰め居けるが、やがて何思ひけむ遽に膝を正して、母様、真個に今のは冗談だがね、此頃はもう断然止めて仕舞つたよ。追々年も加て来るに、いつまで放蕩を為て居るでもあるまいと気が着たから、母様にも安心為せやうと考へて、此頃は何程誘はれても、決して行つた事はないよ。思へば金銭を費つて女郎買なんぞ為るのは、真個に馬鹿々々しいからね。先方は欺すが商売の嘘で固めて、惚れたの好たのつて真実らしく嬉しがらせを言ふけれど、皆誰にでも規則を読で聞かせるやうに、同じ事を言つて居るのだもの。夫を我にばかり言つて呉れるのだと己惚を起して、精々と逆上て通ふなんざあ、実に馬鹿の骨頂さ。私もそれと気が付てからは、もう遊ぶのは弗々と厭になつたから、今迄大切に為て居た写真なんか皆焼て仕舞つて、酒も性根を乱す種と断つた程だから、母様、もう安心為てお呉れよ、と何時の間に悟を開きけむ、遣理を分けたる我子の改心嬉しく、お勝は飛立つ想して、感心に好くまあ其様いふ心懸けに成つてお呉れだつた。其上は早く精出して店でも開いて、お前の好いた女房でも持つて、早く私に安心を為せてお呉れ、と猶も母子は四方八方話に余念なかりき。
常すら子には甘き母親の、改心と聞きてよりはいとゞ可愛さ増さりて、定吉が好物のあらゆる品々取寄せて、心の限り馳走しつ、十時を打たぬ中にと、此侭帰しともなき心を励まして、態々外迄見送りなどして其夜は無理に帰しぬ。
それより定吉は用もなきに三日に揚げず尋ね来つ、其都度両人に土産物など持て来て、今迄にあらぬ優しき情の程を見せぬ。お勝は嬉しさ胸に余りて、持病の血の道も此頃は起らず、何となく心地すがすがしきに苦を忘れて、定吉の来ぬ日は此家の淋しく、いとゞ物足らぬ想してけり。
久子も気鬆なる面白き定吉の話に、恐ろしかりし心やうやう解け初めて、此人の帰る折は何となく名残惜しく思はるゝ程になりしが、定吉は初めこそ久子を主人扱にして隔の垣を据ゑたれ、馴るゝにつれては遠慮なく、名も知りたるまゝにお久ちやんお久ちやんと呼付けて、一緒に人形町の夜店でも素見して来べし。今日は水天宮様の縁日なれば参詣為て来む。明日は末広に上等のが懸れば、両人で聞きに行き給はぬか、と果は寄席行など勧むるやうになりぬ。お勝は滅想なと唯一口に打消して留むれば、久ちやんだつて若い身空の、偶には寄席位行つたとて可いではないか。何も私と一緒に歩きしとて、彼是言ふ人もあるまじ。是非にと言ふに、久子も利発なりとて未だ年端行かぬ娘心に、浮と口前に乗せられて、乳母や、行つても可きか、と聞く折のあるに乳母は打驚きて、あゝ我は今迄気付かざりし。子故に迷ふ親心は闇にて、お嬢様の為にはならぬ定吉の、日毎に来るを引留めざりしか。改心したりとはいふものゝ、今迄が今迄なる放蕩の渠なれば、如何なる出来心より大切なる主人を唆して、取返しの付かぬ事を起すやも知れじ、と思廻せば心配に堪兼ねて、可愛き我子も主人には変へられずと、涙に籠る心を鬼にして、定吉に以後禁足申付けぬ。
（五）
実にも定吉の日毎に母の家を訪ひしは、深き所存のありてなり。
過ぎぬる日、主用にて浜町迄行きし帰るさ、ふと通りかゝる我家に立寄りて、ゆくりなくも美しき久子を一眼見てしより、恋しさ床しさの念むらむらと起りて、其面影の忘られず、男と生れし甲斐には、如何もして我妻に貰受けたきもの、と思ふ心の切なるより、用もなきに足近く通ひて久子に馴染初め、母の心をも取入れむと、さてこそ改心の様を装ひて、孝行の心根をぞ見せしなりける。
然れども、忠義一図の母親は、我子の愛を引割きて、万一の主人の身の為め、世間の聞えを憚りて、お嬢様の御在の間は、決して此家の閾は跨ぐまじきぞ、と堅く言渡されし上、久子には早や定まる夫ありと聞きし悲しさ。男子なりとて心弱き者ならむには、失望に浮世を観じて、我と命を捨つる例のあれど、根が人擦れて気の荒き定吉は、一旦思込みし事を中途に折れては、江戸ツ子の一分立たずと、要らぬ所へ力瘤入れて、此恋何処迄も遂げずに置くべきかとは、さても恐ろしき一念ぞかし。
然れば、母親の鋭き針も、此心を縫留むる能はざりけむ、定吉は親の眼を忍びて、鬼の居ぬ間に洗濯の為所は昼の間と、それよりは久子が独居の隙を覗ふて、相変らず以前よりは繁く通ひ、あらむ限りの愛矯振まきつ、只管久子の意を得むとぞ為たりける。
さりとて清浄潔白なる久子の、何とて操を曲ぐるべき。我は早や人の妻なり、と明暮心を許し居る身は、仇し心のあるべき筈なく、唯機嫌かひにあらぬ性質より、世話になる乳母の子と思へば、麁略にはせず接待すものゝ、如何にも訝しさに堪へざるは、此事母には決して言ふて下さるな、との堅き口止の言葉なり。
久子は定吉の禁足されしを夢にも知らねば、我家へ来るに何遠慮あるべき。継しき母ならばいざ知らず、優しく子煩悩なる乳母の、喜びこそすれ嫌な顔する筈はなきものを、と或日夫となく打出して見しに、定吉は好機会と思ひてか、いつもの口軽きに似合ず、諄々と切なる胸の思を打明けて、他国へ一緒に逃げては下さらぬか、とそれはそれは恐ろしき事言出しぬ。
余りの思懸けぬ定吉の言葉に、聞くと等しく久子は怖毛立ちて、逃出しもせむ様子なりしが、屹と心を押鎮めつ、常にもあらぬ声鋭く、無念の眥釣上げて、私には清様とて、早や定まりし夫のあるを、知らぬ其方でもあるまじきに、何故其様な言を、と半言はぬに打消して、それは知つて居まするなれど、貴嬢の為を思ふていふ言葉、心を鎮めて聞き給へ、此頃清様よりは少しもお便ありますまじ。それも其理なり。清様は彼国に肺病に罹り給ひて、去年冥土へ旅立たれしなり。然るを母は貴嬢に押包みて、我迄を遠ざくるは、表面こそ主思に見せて親切をば尽し居れ、胸には絶えず悪計のありて、今に貴嬢の眉目よきを玉に、大金を儲けむ下心の恐ろしや。恁る家に居て顕然知れたる憂目を見むよりは、我と共に来給へ。一生大切にして、苦労は露程も為せまじければ、と言葉は巧に真実らしき顔色なりけり。
あの正直なる乳母の、何とて然る恐ろしき心あるべきかと、偽とは思へど気にかゝる清の、絶えて音信なきを懐起せば、やゝ疑はしさも胸に衝き来て、もしこれが真実ならむには、我は此末如何に為べきと、久子は悲しさに得堪へず、よゝとばかりに泣沈めば、猶も定吉は親切らしく慰めて、御身に降りかゝる禍を逃れ参らせむには、我とて家来に変らぬ身の、何厭ふ事かは。明日は準傭して今時分に復来べければ、貴嬢も旅用の足しに此家の目星き物を取揃へ置き給へ。それと母に気取られぬやうに、と繰返し繰返し言聞えて、もし此事母に告げ給はむには、我は死なねばならぬ憂目に遇ふなり。さすれば貴嬢は手こそ下さね、我を殺すも同前。人殺しの大罪を犯せし身は、貴嬢とて安々と末長く暮さるゝ事にあらず、と可憐しや何も知らぬ久子に因果を言含めて、母の帰らぬ中にと、慌てゝ逃ぐるやうにして立出でぬ。
跡に久子は唯泣くばかり。途方に暮れし悲しさに襦袢の袖を噛め占めて、起上る気力だになき姿の哀れさ。我は何として恁くは不仕合をのみ見る事かと、泌々と今は在さぬ父母の恋しく、正直なる乳母の心を疑ふにはあらねど、定吉の言葉に偽なくば我は何と為む。心待にせる清様は、最早此世にては御眼にかゝられぬとかや。あのお優しき笑顔も二度とは見られぬ事に為つたのか。然すれば、我身は此世に何の楽もなければ、生永らへて詮もなし。死で懐しき父様母様と、恋しき清様のお傍へ行かるゝならば、寧そ一思に命を捨てゝ、差懸る明日の大事を忘れて仕舞ふべし、とやがて覚悟や為たりけむ、決心の面涼く遽に涙を歛めしも気遣はしき。
（六）
此日お勝は虫の知らせてや、仕事に出でゝも何となく胸安からず、いとゞ先のみ急がるゝに、もしや留守居のお嬢様に、御恙でもあるのではなきかと、さまざまに打案ずる耳元には、我が行く先々の屋の棟に、喧しく乱れ鳴く烏の声の忌はしく聞えて、片時も落付ては居られぬ心配に堪へず、いつよりも早く切上げて帰る我家近くになりて、不図行途を見れば、忍びやかに格子戸閉めて、彼方へ駆け行く男の姿の、瞥と眼に留りたるに、打驚き、熟々後を追うて見れば、禁足したりとはいふものゝ、可愛さは片時も忘られぬ我子の定吉に紛ふ方なし。
おゝ定吉かと呼懸けて、懐しき顔一眼なりともと願ふ想は胸の裡に燃ゆれど、復思返せば我子の素振合点行かず、親の眼を忍びてと気付くと共に、更に久子の案じられ、お勝は夢心地になりて、慌てゝ立寄る我家の窓の内に、手に取るやうに聞ゆるは唯ならぬ主の泣声。こは何と為む。訝しやと、窃と裏口へ廻りて奥を差覗けば、久子の正体もなげに泣伏したる様見るに悲しく、猶も様子を見済せば、彼方は夫とも心付かず、力泣く泣く起上りて、鏡台の抽出より取出せしは剃刀なるらむ。ぴかぴかと光るを打返し打返し眺めけるが、有繋に心怯れてや、はらはらと涙を流して眼を閉ぢぬ。お勝は最早見るに忍びず、狂気の如くに我を忘れて駆寄りながら、お嬢様、こ、こ、……これはまあ何を為されまする。恐ろしい刃物三昧。お気が狂ひは致しませぬかと声も震ひつゝ剃刀取上ぐれば、久子は打驚きて、これは乳母や、いつの間に帰つてか。私は如何でも死なねばならぬ訳がある程に、情願見逃して、と言ひつゝわつと泣伏しぬ。
乳母は切なき溜息の下より、お嬢様のお心のお恨めしい。何故此乳母に打明ては下さりませぬ。思へば思へば恐ろしや。今少し後れて帰つて来たならば、可惜花の盛の大切お主様をむざむざと散らして仕舞ふものを、虫の知らせたは何よりの幸福。神様、仏様、有難う存じまする。夫につけても聞かぬ中は心配でなりませぬ。一体如何様事が起つたので御座んす。膝とも談合とやら。此様に見る影もない私なれど、貴嬢様の御為には命を捨てゝも、始終そればかりを存じて居りますれば、お早く其訳を話して下されまし。屹度お気の安まるやう、如何事でも致しますればと、涙ながらに掻口説けど、久子は猶も泣くばかり、左右の返事も為ざるは、定吉の言葉の恐ろしければなるべし。
勿体なくも我を親と頼み給ひて、日頃何事にも隔を措かれし事なきお嬢様の、我へ打明難き訳とはと思へば、我子の上の考へられて気遣はしさは弥益さりつ、お勝は此方より定吉の事打出して種々に問へば、久子も乳母の優しき情に絆されけむ、泣く泣く始終を打明けぬ。
聞けばいとゞ驚かるゝ我子の挙動。其心根の憎さは殺しても慊らぬ奴と、切噛を為て口惜しがりしが、仏性なるお勝の身には、恁る子程可愛くやありけむ、むらむらと起るは例の子煩悩。夫程に恋れて居るものを、これが御主様でなくば、如何にかして渠の望も遂げさせて遣らるゝものをと、つくづく侭ならぬ浮世恨めしく、我知らず悲しくなりて涙組みしが、傍に可愛しき久子の姿を見ては、復もや忠を懐出でゝ此心の愧しく、泣き居る久子を種々に慰めて、何の御心配には及びませぬ。お便こそなけれ、清様が然る忌はしき事にお成り遊ばす筈なく、私の心も御存じで御座んせう。夫は何も彼も定吉の作言。大切なお主様を欺す忰の心憎さ、もう親とも子とも思ひませぬ。明日は私がよいやうにして、屹度お心の安まるやう致しまする程に、死ぬなどゝ其様不了簡はお起し遊ばすな。貴嬢様の御身体は早や清様の物、御自分お一人のと思ふて居らしては間違ひまする、と笑交りに言ふて退けて、掻挘らるゝやうなる胸の中を、勉めて隠す素振ぞ哀なる。
おぼろ気ながら、久子も乳母の心を汲めばいとゞ胸苦しく、我が為に定吉を如何なる目に遭はす事かと思へば、心配に堪へ兼ねて、乳母やいゝやうにするとは一体如何する積、定吉にいはれた言もあれば、私は案じられてならずと、幾度か裏問へども、お勝は唯頷きて、御心配遊ばすな。親舟に乗つたお心で居らつしやいまし、と言ふばかり。外には二言といはざりき。
（七）
然れば、其翌日はお勝仕事に出でず、今か今かと羂を掛けて待設け居るを、夢にも知らぬ定吉は、案の如く身支度して、狐鼠々々と裏口より忍び来にけり。
恁る折になりても、お勝は猶異らぬ親心に、定吉の顔を見れば恋しく、其声を聞けば懐しさに堪へねど、心弱くては叶はじと、屹と胸を据ゑて、強異見の数々聞かせたる末、其方のやうな悪き心を持つ者は、此正直なる母の子とは為て措かれねば、如何でも勝手に為るが可いと、涙ながらに勘当の旨言渡しぬ。
世に替掛のなき唯一人の母親が、恁く迄にしての異見には、子の身に為りては然こそうらかなしう、真底より折れて砕けて、改心すべしと思ひきや、邪なる定吉には、さながら糠に釘程の利目も見えず、ふゝんと空嘯きて、私だとて男子だもの。一旦思立つた事を後へ引いては顔が立たない。母様、其様な頑固を言はずに、粋を利かして女房に為て呉れたが可い。然さへすれば何もいふ事はない。逃げも隠れもせずお望通り孝行も為るさと、久子の前をも憚らず、難題の数を尽していかな立去る気色のなきに、持余してお勝は泣声になり、成りませぬ。
よくよく考へても見るが可い。大切の主ある主様を勿体ない、仮にも其様な事が出来るかえ、と道理を分けて諭せども、親が許さなければ夫迄さ。詮方が無い。何もお前の世話にならなくつても、我は我の心があるから、と先刻より此成行を気遣ひながら、彼方の隅に身を縮めて、震ひをのゝける久子の手を執りつ、さあ早くお立ち成さい。昨日の約束通り一緒に行きませう。貴嬢も彼程堅く承知を為て措きながら、母に告げたは如何いふ心。今更否といふても肯きませぬ。さ早くお歩き成さい。如何でも嫌といふならば、貴嬢を殺して死ぬばかり。其侭には措きませぬぞ。さ早く早く、と独り憔りて、此言葉冗談とは見えず。
久子は余りの恐ろしさに歯の根も合はず、乳母や助けて、と声を挙げて泣出しぬ。お勝も威赫とは知れど、有繋に我子ながらも空恐ろしく、駆寄りて衝と定吉を突退け、此不孝者奴が！ 最う勘当したにいつまでも出て行かなければ、巡査さんに引渡すぞえ、と言ふ声も震ひて憤り立てば、定吉は冷笑ひて、こりや面白い。引渡すなら渡して貰はう。其代り此方にも了簡がある。と何思ひけむ慌しく勝手へ行きしが、やがて出刃庖丁逆手に持ち来て声荒く、さあもう恁う成つては、主人だらうが、親だらうが、何でも構はぬ。我の言ふ通りにならなければ、皆殺して仕舞ふぞ、と故とぴかぴか閃かしつゝ、血相変えて狂ひ廻る恐ろしさ。久子は身も消え魂飛ぶやうに覚えて、犇と乳母の袖に縋れる憐の姿は、露にも得堪へぬ女郎花の、情なき雨に打たれし風情にも似たらむかし。
物見高きは東京の習、況して人足繁き場所の事とて、此騒動の外に洩れけむ、お勝が家の前には、一人立ち二人立ち、果は物珍らしげに彼方此方よりの人山を築けば、折ふし見廻りの巡査も聴耳立てゝ、少時様子を窺ひ居けるが、唯事ならじと見て取り、こりやこりやと声懸けながら、靴音荒く格子戸蹴開けて入来ぬ。
有繋に定吉は我に弱点のあればにや、はツと打驚ける様にて、刃物を懐中に押隠しつゝ、慌てふためき逃出さむと為るを、お勝は力に任せて押据ゑながら巡査に打対ひ、定吉が悪心の始終を逐一物語りて、其処分をぞ願ひ出でける。
お上の所思、世間の手前、然りとは人情に外れはせぬかと、無き肚探らるゝ胸苦しさは、さながら錐で揉まるゝやうにはあれど、此侭に打捨て置かむには、主人も親も見堺の付かぬ腹黒き忰の、仮令威赫にもせよ、刃物を持出すなど、さる恐ろしき心ある以上は、折ふし如何なる悪き魔のさして、大切なる主人をむらむらと殺す気の起るやも計られじ。兎角は清様の御帰朝ありて、誰も手出しはならぬ高き玉の台へ、奥様として御引渡し申すまでは、不便なれども暫時の間、自由の利かぬ闇き所へ押込めて、お上の張番願ふより外道なし。然なくば我身が仮令不寝番して御附添申せばとて力強き男の事、如何なる業なりとも為かねまじと、主を思ふ一念には、我子の可愛しさも言ふて居られず、包み切れぬ眼中の涙を隠してのお勝が決心を、巡査も道理とや思ひけむ定吉を懲治監へと引連れ行きぬ。跡に久子は憐がりて、乳母の心強きを掻口説きつゝ怨み泣きぬ。
お勝の心の中はそも如何許なるらむ、悲しさはいとゞ想遣らるゝ。
（八）
恁くて、貞節なる久子が清を慕ふ思と、子煩悩なるお勝が定吉を案ずる念とは、日々に異る事なく其年は暮れぬ。
清様さへ御帰朝あらばと、主従が明暮胸に刻みて忘られぬ此年を迎ふる嬉しさは、然ぞと思ふも甲斐なしや、清は如何に為たりけむ、海路遥かに何千里を隔つる悲しさは、顔も見られねば口も利かれず。せめてもの気安めに久子が深く優しき想を籠めて書送りし文は、千束にも余る程なれど、彼方よりはそよとの音信もなきに、空しく西の天のみ眺めて、恨は永く夜毎の夢に残りつ、紅き涙は友禅の長き襦袢の袖にも置き余る程可憫の風情を、乳母は悲しく、慰めむにも早や詞は尽きて、遂には共泣の是非もなきぞ哀れなる。
鳥は歌ひ花は笑初めて、いつも春は長閑に廻り来て人の心を浮立たせ、上野に向島に花見客の賑はふと聞けど、主従の胸は暮行く秋の侘しくも、いとゞ打湿りて過せる此頃、ふと春野博士が帰朝の噂は、新聞に雑誌に其評判喧し。
お勝は独り勇み立ちて、お嬢様、お嬉しう御座んせう。待てば甘露の日和とやら、永々の御苦労を御辛抱成された甲斐ありて、此様な佳いお話をお聞き遊ばすので御座りまする。清様御帰朝になり次第、目出度く御祝言遊ばして、御夫婦交情睦しく、やがて一年か二年経つ内には、可愛らしいお人形様のやうな赤児様お生み遊ばして、御喜悦事の数重なるが、今から眼に見えるやうで、嬉しくつて嬉しくつて堪りませぬ。真箇に然なれば、私が嬉しいばかりでは御座んせぬ。御両親の御位牌へ対しても申し訳が立てば、世間の人達に向つても顔が立ちまする。
それに、も一つ嬉しいは、忰もやうやう明るい処へ出させて遣られまする。自業自得とはいへ、永い間窮屈な暮を為して、愁さ苦しさに此母を怨んで居りませう。あの虚飾家が嘸や汚なく成つて居ませうに、一日も早くと言ひかけて遽に顔を背けしが、思直し為けむやがて故とらしき笑を絞り出して、ほゝ私とした事が悪党の忰の事などを懐出して、お嬢様の御目出度に此様な話を初めまして、何たら気の利かない女で御座んせう。それは然と吃度清様は貴嬢様を御覧なされましたら、吃驚遊ばしませう。少時の間にすツかり大人にお成り遊ばして、お見それ申す程御容色もお上りなされ、其上何時の間にやらお口前もお上手に、口説も沢山お言ひ遊ばしませう程に、真箇に如何様にお喜び遊ばしてお可愛がり成されますやら。乳母やにも少とあやからして下さいましなね、と如何にも楽しげに話上手の口振は、眼のあたり懐しき人に逢ふやうなる心地のするに、久子も顔を赧めて胸轟しつ、少しは眉を開きけれども、然りとて何故一度のお便もなきにか、と疑ひ惑ふをお勝はあれまあと打消して、夫はお嬢様、御手紙が屹度行違になつて着きませんでしたので御座りますよ。此様な家にお在遊ばすので御座んすもの。彼のお優しい御方が打捨てお措き遊ばす筈が御座りませぬ、と例の同じやうなる慰め言にはあれど、久子は気の引立てる折からとて、成程左様かとも思ひぬ。
清が着京の当日は、新橋停車場に出迎への人数多集りぬ。やがて定めの時刻となれば、遠く臼を舂くやうなる音は次第に近付きて、汽笛一声車は止まりぬ。それツと人は動揺ける中に、清は徐々と無事に帰朝為てけり。何時の間にやら八字髭濃く美しう生ひて、燕尾服にいとゞ品位を備へて見えしが、一人と思ひきや、睦しげに傍に附添ふは、二十二三歳のいと美しき西洋婦人なり。
折から彼方の隅にて、わツと魂消る女の一声。
＊
それより人形町通を、一人の狂女徘徊ひぬ。いと悲しげに声を絞りて、神様、仏様、聴えませぬ。何故あのお可愛しいお嬢様を助けまして上げて下さりませぬ。お嬢様は立派に奥様とお成り遊ばす筈の所を毛唐人の為に清様に捨てられて御病気になり、死ぬ死ぬと仰有つては、日増に重くなつてお在成されまする。あゝお可愛想な。此侭に捨てゝ措ては、終には屹度お逝去遊ばしませう。おゝお嬢様、お泣き遊ばすな。乳母やが今に毛唐人を殺して、清様と御夫婦にお成りなさるやうに為てお進げ申しますから、お気を強く持つて、少しの間死なずにお待ち遊ばしませ。それ其方へお出なすつては、大川で水が一杯あつて怖う御座んすに、何処迄も私の袖の中へ這入つて居て下されまし。あれ又お嬢様が井戸端へお出なさる。誰か抱留めてお呉れなされ。真箇に毛唐人さへ居なければ、何も彼も都合よく行きますに、えゝ口惜しい口惜しい、と狂ひ廻る姿の憐れや、袖は千切れて肌もあらはに、きよろきよろと四方を睜しつ、巡行の巡査の袖に縋りて、毛唐人を殺して、お嬢様をお助け成されて下されまし。えゝ聴えませぬ聴えませぬ、と声を挙げてぞ打泣くなる。されど巡査は振払ひて過ぎぬ。見物人は面白げに弄りて笑ひぬ。あはれ此狂女に涙を濺ぐ者はなきか。
（明治二十九年五月）
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