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星のない街路

 ベルリンの十一月は、いつもながら、ひどく陰気な、じめじめした天候が続く。太陽はわずかに白っぽい光となって層雲の背後に隠されてしまっている。ときどき、しめやかな雨が過ぎる。霧ともつかない湿った空気が自然と微細な水滴となって降りだすような実にこまかい冷雨である。街はいつもくすんだ灰色に閉ざされ、人々は外套の襟を立て肩をすぼめて道を急いでいる。

 爆撃の跡がまだあちこちに目についた。殊にティア・ガルテン地区には瓦礫(がれき)の山がそのままに放置されており、それがこの都市の見事な復興ぶりと鋭い対照をなしていた。一部分破壊されて廃屋になっている旧日本大使館もこのはずれにある。

 クルフュルステンダムの大通りは、有名な壊れかかった教会から始まる。遠方からもビルの谷問に、そのつぶれた屋根や、崩れおちた壁や、()げかかった内部の壁画などが望見された。そばに行くと、首や羽のもげた天使像がころげたままになっていたりもする。しかし選挙侯通り(クルフユルステンダム)の鋪装は鏡のようだ。雨が降ると、夜にはとりどりのネオンが路上に映える。雨が降らなくとも、この季節には湿潤な空気がすべてをしっとりと濡らしているのである。ところどころに地下鉄の入口があり、二階建ての黄色い巨大なバスがゆっくりと往来する。

 その選挙侯通りの裏手を、夜もかなり遅い時刻、間宮は一人で歩いていた。

 裏通りといっても道幅はかなりある。両側の商店はとうに店を閉ざし、バーの門燈ばかりが明るい。ときどきソーセージを売る屋台が出ていて、本を小脇にした学生が恋人らしい若い女性と一緒にそれを齧っている。彼らはたいてい粗末なレインコートを着ている。それで余計にうそ寒そうな印象を与える。

 そのような夜ふけの街を間宮は通っていった。

 いくらかは酔っていた。しかし快い酔い方ではなくて、押えられるように頭は重苦しく、索寞とした気分に満たされてくる。留学生が誰でも一度は経験する憂鬱症にかかったのだろうか、とも彼は考えてみた。あるいは単なる旅人の感傷にすぎないのであろうか。何よりもベルリンを閉ざしているこの湿っぽい気候、抑圧された雰囲気のせいではあるまいか。

 間宮がそれまでいた西独の首府ボンは、静かな整った街であった。森の多い、政府と大学と住宅地の街である。ラインはゆるやかに流れ、スイスやベルギーの長細い荷船が行きかい、ときに美しい観光船も過ぎる。彼はそこで、心理学教室の研究員として平静な半年余の生活を送ってきた。

 ボンに比べると、ここベルリンは遙かに暗く、湿っぽく、重苦しい刺戟に満たされている。四カ国に分割されているこの都市は東独にあり、西ベルリンに入るには空路よりない。しかし東ベルリンと西ベルリンの往来はかなり自由である。間宮は数日まえに初めてこの地へ来た。東ベルリンに住む高名な心理学者に会うのも目的の一つであったが、そういう幾つかの仕事のほかに、嘗ての首都であるこの都会で、もっとなまなましい現在のドイツを感じとりたいという気持もないではなかった。

 東ベルリンへのもっとも主要な境界は、かのウンター・デン・リンデンの始まるブランデンブルク門である。六つの柱をもつ崩れ残った門の頂きに赤旗が立っていて、こちら側には緑色の制服を着た警官がたむろし、やはり緑色に塗ったフォルクスワーゲン、サイドカーなどが並んでいる。車がくると、警官は白ペンキを塗った丸い標識を差しだし、停った車に首をさしいれて言う。

「証明書を(アウスワイゼ・ビッテ)」

 鄭重な、同時に峻厳な態度であった。Ausweise bitte! これは国境だけのことではない。街を歩いていても常に聞かされる言葉である。

 ベルリンも郊外へ行くと林があったり湖があったりして静かな散策を楽しめる。しかしところどころに立札があり、「注意! 百三十メートル先境界」などと書かれている。湖の中央あたりから先はソ聯地区だったりするのである。

 ベルリンの象徴のごときブランデンブルク門を一歩越すと、西独の人々が「イワンの馬鹿」と呼んでいる大きな図体のソ聯兵が、丸い弾倉のついた機関銃を手にして歩いている。しばしば東独の若い人民警官が一緒だ。一望の瓦礫の山があり、戦火の跡は西ベルリンよりもずっとなまなましい。ビルディングの横腹には、赤地に白く「アメリカ帝国主義を葬れ」などと大書した布が貼られていて、旅行者は、どことなく不気味な、なにか保証のない心境におしやられる。正直のところ、西ベルリンに戻ってきたとき間宮はほっとしたものだ。

 それにしても、薄暗く湿っぽい天候には変りがない。夜にはもとより星も月も見られなかった、曇天だけが定められたように続くからである。

 そうした夜の街を、間宮は索寞とした気持で通っていった。途中ひっかけた幾杯かのビールにも心のしこりは増すばかりである。もう十一時に近い時刻で、そろそろ宿舎ヘ帰らねばならなかった。しかしここ何日か泊っている安宿(パンジオン) の部屋に戻ったとて何が待っているというのだろう。

 閉ざされた商店の軒下には夜の女が立っていて、「遊ばない?」とか「おもしろいことしない?」とか英語で話しかけてくる。この土地でも彼女らの常客は現在はアメリカ兵なのだ。うら若い子もいれば随分の年増(としま)もいる。厚いオーバーを着て唇を濃く塗りたくっている。間宮は口をきかずにすりぬけて、かなり広い裏通りをさ迷っていった。

 少し先を一人の若い女が歩いている。茶色のながい髪が肩のあたりにながれている。片手に粗末な黒いバッグをさげ、うす汚れたレインコートを着て、いかにもうすら寒げな後ろ姿であった。彼はなにげなく横を追いぬいた。まだ十七、八くらいの年齢であろう。透きとおるようにあおざめた、頬のこけた顔立ちであった。彼女はどこか虚脱したような目つきで、周囲の店の商標などを見あげながら、力ない足どりで歩いていた。傍らを追いぬいた間宮にも気づかない様子だった。

 間宮は数歩先へ行ってから、ためらい、立止り、そしてとぼとぼと歩いてくる女を待った。近づいてもやはり同じ顔つきである。彼は声をかけた。

「失礼ですが、お嬢さん、お茶でもいかがですか」

 自分でもどうしてそんな気になったのかわからなかった。おそらくこの夜ふけのベルリンの裏通りの、暗く淀んだ気配に堪えがたかったためかも知れない。

 女は足をとめ、無関心な目つきで間宮を見た。街燈の光の下で、その目はほのぐらく、しかしまがいようもなくうるんで見えた。碧眼(へきがん)というものはなによりも憂愁をおびているものだな、と間宮は妙に客観的な気持でそう思った。

 彼はもう一度、同じ言葉を繰返した。

 何秒か女は表情も動かさずに立っていて、それから、低い、うつろな声で言った。

「ええ」

 二人は、そのまま肩を並べて歩きだした。ゆっくりと歩きながら、間宮は女のレインコートの肩にたれている柔かそうな感じの茶色の髪を眺めやった。柔かそうなのは髪だけであった。女は口をきかない。ややうつむいて間宮と同じ足どりで歩いてゆく。ちょっとかたくなな、同時になげやりな顔つきだった。問いかけると、ヤーとかナインとかだけ呟くように返事をする。

 バーにはいった。内部は煙草の煙が濛々とたちこめ、かなり喧噪を極めている。スタンドはアメリカ兵が占めていて、ドイツ語はほとんど聞かれなかった。

 適当な席がないので、米兵と女がふざげあっているテーブルの向い側に坐った。米兵は白髪のまじった空軍の曹長で、かなり酔っぱらっていた。戦争映画を見るとたいていこんな曹長がでてくるものだ。女のほうは四十をとうに越した脂肪肥りのしたドイツ人の娼婦で、胸元のあいた薄い恰好をしている。この盛りを過ぎた二人はまるで小猫がじゃれあうように、ひとこと言っては相手をつねり、ひとことしゃべっては大口をあけて笑っている。

 どうもこの娘を連れてくるにはいい店じゃなかったな、と間宮はやや閉口しながら思った。

 しかし女はうつむいてはいるものの、それほど困惑した様子を見せなかった。なによりも疲れきり、虚脱しているようである。間宮は自分にはビールを、女にはコカコーラをとった。ぼつぼつと彼女が話すのを訊くと——ベルリンアクセントで間宮にはかなり通じにくかったが——彼女は東ベルリンからの逃亡者で、いま郊外にある収容所にはいっている、実は十ペニッヒもなくて帰ろうにもバスにも乗れなかった、ということらしかった。

「どうして街に出てきたの?」

 職を求めにきたのだ、しかしどこへ行っても断わられた、と女は答えた。

 東西に分割されたドイツについて、間宮はこちらにくるまであまり認識がなかった。国境はかなりの間隔をあけて樹がきられ建物が除去されている。越境は場合によっては生命にかかわるのである。そのころ評判になった映画に『星のない空』というのがあった。西独の警官が東独に住む娘に恋をする。彼はなんとかして彼女を西独に連れてこようと思っている。一方、その娘にドイツ語を習ったソ聯兵が同情して、娘が西独に行けるように手続きをとってやる。そんなことを知らぬ警官は越境してきて娘を誘いだして逃げようとする。ようやく証明書を手に入れたソ聯兵は驚いて、娘の名を連呼しながら追いかける。西独の警官は自分が追われるものと思いこんでソ聯兵を射ってしまう。二人は必死に逃げる。音響弾が打ちあげられ、シェパードをつれた追手があとを追う。ついに国境のところで警官は射たれ、娘も西独側から射たれて相ついで死ぬ。

 間宮はこの映画をボンで見たが、暗い夜空にこだまする犬の遠吠えが、長いこと耳にこびりついて離れなかったものだ。

 しかしベルリンだけは特殊地帯でほとんど自由に往復ができる。東ベルリンから西ベルリンに入りそのまま帰らなければ逃亡者だ。主に職を求めて逃亡してくる者が多いということだった。彼らは収容所に入れられるが、政治犯でなければやがて釈放される。収容所に起居して外出を許され職を捜すこともできるらしいが、この女もその一人だったのだ。

「西独に知合はないの?」

「ええ」

「これからどうするつもり?」

「わからない」

 それから女は手洗いに立った。その力ない後ろ姿が殊さらに間宮の心を刺した。

 テーブルの向い側で陽気に飲んでいた老娼婦が、間宮を見て笑いかけてきた。もう老残の姿であるが、灰色の目が柔和で、見るからに気っぷのいい女らしかった。彼は思いついて、ポケットから五マルク貨をとりだし、脂肪肥りのした女の手に握らしてやった。

「あの子の意向を確かめてくれないか。彼女の発音は僕にはわかりにくいんだ」

「あいよ」老娼婦は相好を崩して合点してみせた。「ホテルヘ連れてくつもり?」

「いや。……彼女は素人(しろうと)かしら」

「素人らしいね。待ってな。あたしがうまく訊いてやるから」

 米空軍の曹長はドイツ語がわからぬらしく、自分の女が間宮と話をしている間、あからさまに嫌な顔つきをしていた。彼はこちらの話がすむと、だしぬけに肥満した女を大げさに抱き、なにやら大声に唄いだした。

 若い女が戻ってきた。どこを見ているかわからぬ途方にくれた表情である。間宮は訊いた。

「ビール飲む?」

「いいえ」

「じゃ、コカコーラをもう一つお飲み」

 注文をしてから彼はトイレットに立った。手をふいていると、さきほどの老娼婦が外にきて目くばせした。

「あの子、素人だよ。処女かも知れないよ」

「嘘だろう」

「とにかく大丈夫だよ。あたしが手伝ってやるよ」

 そして肥満した老娼婦は間宮の肩を叩き、「うまくおやり!」と物分りのいい母親のような調子でつけ加えた。五マルクの効用だけではなく、彼女らは概して律儀で責任感が強いのである。

 席に戻ってくると、若い女は、米軍の老曹長がしきりと手まねで話すのを、やや迷惑げに、それでも生真面目に聞いていた。

「お(なか)すいている?」

 女は首をふった。

「今晩どうするつもり?」

 返事がないので、さらに言った。

「ホテルに泊ったら?」

 女は首をふったが、確信のないふり方のように思われた。

 薄暗い照明の下で青い目がほのぐらく、間宮はその目の色から何かを掴みたかったが、ただほのぐらく見えるばかりであった。

 収容所へ帰るよりないが、気のりはしない、とやがて女はぼそぼそと言った。

「お金がないならホテルへ連れてっておもらいよ」と、前の席から老娼婦が如才なく口をはさんだ。「あたしが知ってるホテルに電話かけてやるよ」

 若い女は黙ったままだったが、結局了承した様子だった。老娼婦がさっそく電話をかけてくれた。二人が店をでるとき、老娼婦は間宮に目くばせして、だぶついた頬を崩して笑った。米軍の老曹長がまた嫌な顔をして、ひとしきり彼女を抱きしめ、大きな胴間声で唄いだした。なにやら舟乗りの歌らしかった。

 車を拾うまえに、間宮は屋台でソーセージを食べた。女は腹はすいていないと言ったものの、ほとんどがつがつと食べた。

 彼女はタクシーの中でも無言だった。

「アメリカ人と一緒に行ったことあるか」と訊くと、はっきり「ナイン」と答えたが、そのほかは黙りこくって、痴呆のようにうしろに寄りかかっている。それがまた間宮の心を緊めつけた。

 彼の泊っている安宿(パンジオン)よりましだったが、安っぽいホテルだった。受付にいる右頬に傷のある男が、うなずいて、パスポートと証明書を調べて、「十二マルク。二部屋で二十四マルク」と言った。それから男は間宮に向い、自分は戦争中捕虜でロンドンにいた、などと話しかけてきた。間宮のパスポートがロンドン発行になっていたからである。

 二階の部屋に入ると、女はのろのろとレインコートをとった。下は白いブラウスだけで、はじめ思ったよりも痩せて見えた。痩せているというより、まだ成熟していないようにも思われた。更にのろのろした手つきでレインコートを椅子にかけている。間宮が自分の部屋へ行ってオーバーだけ置いて帰ってきてみると、彼女はもうやることも思いつかぬという恰好で、ぼんやりとベッドに腰をおろしていた。室内はスティームが通って暖かかった。しかし彼女の頬には血の気がよみがえらず、髪だけが柔かそうに肩にかかっていた。

 適当な言葉も見つからぬまま、彼は煙草を吸い終ってから、無言で服をぬぎだした。脱ぎながらそっと女の様子を窺うと、それまで気の抜けたようにベッドに腰かけていた彼女は、ふいに立上り、下をむいてそろそろと白いブラウスを脱ぎはじめた。ぎこちなくそろそろと、それから急にそそくさとシュミーズだけになって、先にベッドの中にもぐりこんでいった。

 そのどこか投げやりな諦めきったような態度が、三たび間宮の心を緊めつけた。

 ベッドは粗悪なものではなかった。大きなふわふわした枕で、頭をのせると、そのまま沈みこんでゆく感じである。

 あちらを向いている女は、手だけ毛布からだしていて、その腕が異様なほど白く見えた。いくらか節くれたような指だった。

 間宮は彼女の髪をそっといじり、やせた肩を撫でた。身を固くしているのが感じられた。それから女はだしぬけにこちらを向いた。冷たい額にキスをすると、彼女はじっと目をつぶったままで、ただ口の辺りがひくひくと動いた。口紅もつけていない、乾いて色あせた、それだけかえって若々しい唇であった。

 女がはじめて目をあけたとき、間宮は訳もない動悸を覚えた。その青い瞳孔が、思いがけぬほど澄んで、うるおって、非常にいじらしく見えたからである。

「こんな経験、前にあるかい?」と言ってしまってから、彼はそんなことを訊いた自分に腹が立った。幸い、彼の言葉は女にはよく通じなかったようだった。

「前に、恋をしたことある?」と間宮は言いなおした。

 彼女は首をふり、ボーイフレンドはいた、東独の警官だった、と答えた。間宮は『星のない空』のいくつかの情景を憶いだした。犬の遠吠えのこだまする陰鬱な夜空のことを。

「君は幾つ?」、

 (ドウ)という呼びかけがこのときごく自然に出た。

「十七」

「ええと、名前はなんだっけ?」

 間宮は言ってから少し可笑しくなった。それまで名を訊くことも思いつかなかったのだ。女も気がほぐれたらしく、ためらうように白い歯を見せた。

「アルムート。アルムート・マイスナー。あなたは?」

「アキラ・マミヤ」

「そう? アキラ、アキラ」女は低く口のなかで繰返し、また白い歯を見せた。

 その口の上に、間宮はそっと自分の口を重ねた。そして、やがて彼女の唇が自分から彼の唇を求め、閉じた睫毛(まつげ)がふるえるのを見たとき、彼はこの娘を恋していた。

 間宮はとうに三十歳を越していたが、まだ独身だったし、結婚しようという気持もなかった。何年かまえに生れて初めて遅い恋をしたが、いろいろな事情からその女と一緒になることはできなかった。もう二年余、二人はずっと会っていない。しかし日本にいたときは月に一度だけ電話で声を聞きあうことにしていた。お互いの安否だけを尋ね、それ以上何も言わずに受話器をかけるのである。だが、そんなことを繰返していても、一緒になれそうな事態は永久に訪れそうになかった。間宮はときどき女を買って暮した。(つて)があったのを幸い急に英国に、更にドイツに来るようになったのも学問のためばかりではなかった。こちらに来てからは、間宮は研究室にこもって勉強をし、異邦人ということもあったが一度も女に近寄らなかった。

 しかしそのとき、彼はこの娘に恋していた。恋ではなかったかも知れないが、もう二度と味わうことはあるまいと思っていた不思議な過去の心情に浸っていた。そんな心情のなかで、彼は、痩せた女の身体を愛撫した。

 その夜、間宮は妙にやるせない、後悔がましい夢を見つづけた。夢のなかで、まるで幼子のように泣きたい気持になったりもした。

 目を覚ますと、朝になっていて、白っぽい光がカーテンの隙間から流れいっている。

 女は先に起きていて、すでに白いブラウス姿になっていた。彼が目ざめたのに気づくと、彼女はベッドのそばにきて、間宮の髪をいじったり、眉毛のあたりにそっと口をあてたりした。間宮も仰向いたまま同じ仕種(しぐさ)をし、女のやせた肩を撫でた。しかし、昨夜のふしぎな心情は消えてしまっていた。彼女はもう彼の心を波立たせず、まずしい、うらぶれた、一人の若い異国の娘にすぎなかった。

 それでも、以前から親しかったような隔てのなさがそれに代っていた。アルムートと呼びアキラと呼ばれると、一層その感じは強まった。

 ルーム・サービスを頼み、部屋に朝食を運んでもらった。食事しながら、昨夜はほとんど聞かなかった彼女の身上話に沈んだ気持で耳をかたむけた。ところどころ意味がわからなかったが、父親は戦争で死に、母親だけが残っているという話であった。

「東独にいるの?」

 女はうなずき、粗末な黒いバッグを開け、角封筒の手紙を取出した。母親からのものだという。東独共産党書記長ウルブリヒトの横顔の切手が貼られてあった。間宮は宛名の文字を眺め、そのまま手紙を彼女の手に返した。

 もう別れるより仕方がなかった。彼女自身そのつもりでいるらしく、それでも愛想のつもりか、アキラと会えて嬉しかった、などと言った。

 昨夜あの老娼婦に、幾らくらいやったらよいかと訊いたとき、素人だから特に金をやる必要はあるまい、ちょっとしたものでも買ってやればいいだろうとの返事だったが、もちろん間宮は金を与えるつもりでいた。しかし今は金をやりたくはなかった。とうに不思議な気持は消えてしまっていたが、単に一人の女を買ったにすぎないという意識を持ちたくなかった。それでも、金が()るかと訊いてみると、彼女は何遍も首をふった。出しても受取りそうにない顔つきだった。

 帰り支度をしていて、ベッドのわきになにか落ちているのを間宮は拾いあげた。彼女の身分証明書であった。女はトイレットに行っていたので、彼はなにげなくポケットに入れた。そして部屋を出るときにも、友人のするような軽い抱擁のためか、旅人の感傷がつよくおしのぼってきたためか、それを返すのを忘れてしまっていた。或いは間宮の無意識のなさせたわざで、このままずっと別れてしまいたくないという気持がひそんでいたためかもわからない。

 バスの停留所まで送ってゆくことにして、二人は相も変らず曇りきった空の下の鋪道を歩いた。革のレインコートを着た男が行き、自転車に乗った男が行く。黄色い二階建ての大きなバスが通る。緑色のオーバーを着た背の高い警官が街角に胸をはって立っている。

 彼女は間宮の腕をとっていたが、固い、そのくせどこか放心したような顔つきであった。もう話すこととてあまりなかった。

 途中、小綺麗な雑貨屋の店がひらいていて、ショウインドウの前で彼女はふと立止り、なかを覗きこんだ。間宮はとっさに訊いた。

「なにか欲しいものある?」

 女はこちらを見て、少しためらって、低い、すまなそうな声で、実はストッキングを欲しいと長いこと思っていた、と答えた。非常にひかえ目な言い方だった。しかし、もっと高価なものを買ってやるよりそのほうがよいかも知れなかった。

 間宮は店にはいって、女の言うとおりにありふれたストッキングを二つ買った。一つでいいというのを、二つだけ買った。一つ六マルクであった。

 それでも女は包みを受取ると、嬉しそうに間宮を見あげ、低い声で「ほんとに有難う」と言った。

 バスの停留所まできて、切符代として一マルクだけ渡した。女はまた低く「ダンケ」と言った。

「これでいいの?」

「ええ」

 中年のぎすぎすした女がやはりバスを待っていて、二人をじろじろと見た。バスはなかなか来ず、ようやく黄色い四角ばったその車体が街角に見えたとき、間宮はかえって安堵を覚えたほどだった。「さよなら」を言い、女を乗せてしまうと、彼はそのまま背をむけた。しかし、動きだそうとしたバスの気配を感じたとき、なにか思いもかけなかった痛みが彼の心をつらぬき、彼は衝動的にふりむいてアルムートの姿を求めた。バスの窓硝子ごしに、彼女の曇った顔がこちらを向いていた。硝子ごしにその表情がうごき、口がうごくのがわかった。しかし、もとより何も聞えはしなかった。にぶい響きを残してバスは去った。

 雨もこないのに湿っている街路を一人で歩きながら、間宮の心はかすかに痛み、後悔がましい昨夜の夢のつづきを見ているような気がした。それからだしぬけに彼女に証明書を返すのを忘れたことを思いだし、彼はその場に立ちどまった。

 緑色のかたい表紙の証明書を開けてみると、実物よりももっと少女っぽい、もっと栄養のわるそうな感じの写真が貼ってあり、いつ東独より逃走して云々ということが書きこんであった。収容所は調べればわかるから郵送してやればいいだろうと間宮は考え、もう一度アルムートの小さな写真を眺めた。痩せて頬のこけた顔だったが、その瞳はやはり彼の心に触れてくるものを含んでいた。

 三日ほど所用のために忙しい日がつづき、間宮がベルリンにきた表向きの目的はそれで終った。あとはいくらかの見物をしてボンに帰るばかりだった。用が済んでしまうと心はひとしきり空虚で、定められたように薄暗い天候がそれを駆りたてた。

 その夜、彼はあてもなく街を歩き、二階建ての黄色いバスに乗り、ついでまた街路から街路をたどった。途中いくらかの酒を飲むと、ますます索寞となる気持をどうするわけにもいかなくなった。いつしか彼は選挙侯通りをよこぎり、いつかの晩アルムートに出会った裏通りを歩いていた。彼はまだ証明書を彼女に送っていなかった。収容所の番地は調べてあったが、つい所用にまぎれて送るのを怠っていたのだ。明日は必ず送らねばいけないな、と彼は思ったりした。まだ時刻も早いので街にも活気があったが、ソーセージを売る屋台や、レインコート姿の学生が恋人と歩いているのや、夜の女が呼びかけてくるのはこの前の晩のとおりであった。夜空は曇りきって暗く、もとより星も月もみられなかった。ところどころネオンがすべすべした路上に美しい色彩を映していた。

 見覚えのあるバーの入口を見つけると、間宮はためらわずそこをくぐった。愚かしいことだったが、ひょっとしたらアルムートに会えはしまいかという予感がしないでもなかったからだ。

 しかし、もちろんそんな姿は見られなかった。客も少なく、二、三人のアメリカ兵がスタンドで飲んでいるだけだった。ただこの間の老娼婦がいて、笑いながら向こうから近寄ってきた。客はついていないようだった。彼女はもういくらか酔っていて、間宮の席にくるとしつこく前の晩のことを訊きはじめた。

「本当にチェリイだったか?」とも言ったが、チェリイとは処女というGIスラングである。本来は童貞という意味なのだが、ドイツの女が誤って転用した言葉である。

 間宮はわからないふりをして、彼女にビールをおごってやった。この初老の、肥満した、気のいい老娼婦は、コップを一息であけ、いっそう陽気になって間宮に説いてきかせた。あんたの彼女はなかなかいい、ぜひもう一度会ってやれ、彼女だって待ってるにちがいない、収容所に尋ねて行くがいい。

 そう話されると、そうするのが当然のような、ぜひそうしなければならぬような気持が湧いてきて、抑えつけることが難しかった。どうしても、もう一度だけ会いたかった。もう一度会って、改めてさよならを言ってからボンへ帰りたかった。どうせ証明書を返さなければならぬのではないか。

「じゃあ、そうする。明日収容所へ会いに行く」と間宮は言った。

「そう、そう。あんたは物分りがいい」

 老娼婦は薄い服につつまれた肥った身体をゆすって陽気に笑い、ビールを一息に飲みほした。

 次の日、間宮は本当に収容所を尋ねていった。自分でも可笑しいほど、年甲斐もなく落着きのない気持であった。収容所は破壊された建物の跡らしく、塀だけが石造りで、内には木造のバラックが幾棟も建っている。塀は低く、老人から幼児に至るとりどりの男女が生活しているさまが、外から一目で窺えるのである。

 門衛に彼女の名を言って尋ねると、電話をかけて調べてくれた末、相手は言った。

「あなたは外国人だろう。アメリカの係りのところへ行ってくれ」

 教えられた小さな部屋に行くと、長身の若い米人の情報部員が、机の上にフランス語の本をひろげて読んでいた。彼はあから顔をふりむけると、なんだか照れたみたいに本を閉じ、非常に事務的な口調で言った。何の用か、ガールフレンドを捜しているのか、お気の毒だが、アルムート・マイスナーはいま警察に留置されている。

「どうした訳です?」驚いて間宮は尋ねた。

 証明書を持っていなかったのだ、今こちらで再発行する手続きをしている、べつに心配はない、それが済み次第釈放になるだろう、という話であった。

 ドイツ人であっても証明書を持たなければすぐ留置されるという事実に、間宮はこのとき初めて気がついたのだった。してみると彼女は証明書を持たぬまま職を求めて街へ出ていったのだろう。間宮はさらに落着かなくなった。すべてが自分の(せめ)のようで、警察へでもどこへでも行き、彼女のために一言弁じてやらなければ、という気持が強くおしのぼってきた。それも非常に性急な欲求で、一刻も愚図愚図してはいられない衝動であった。

 収容所を出ると、彼はすぐにタクシーを停めた。一見いかつい顔をした運転手だったが、話好きと見えて間宮にいろいろと問いかけ、それは警察へ行ってみてもまた何処へ廻されているかわかったものじゃない、どうです、女が見つかるまで二十マルクでは? などとメーターを倒すふりをして言った。

「高すぎる」

「じゃ十マルク。女って奴はさがすとなるとなかなか見つからないものですぜ」

 警察というところはどこの国でも似たような雰囲気をもっている。受付で、身分や用件をこまかく問いただされて長い時間をとった。いらいらしながら間宮は待っていた。緑色の制服の警官が忙しく出入りしているが民間人は少ない。ショールで頭をつつんだ老婦人が一人、おぼつかない足どりで廊下を歩いてゆく。額にかなり突出した瘤があり、とがった鉤鼻に義眼みたいな目をしている。魔法使いの婆さんに似ているな、と間宮はちらと思った。

 ようやくのことで一室に通されると、これから肥満のきそうな年齢の、どこか精力的な感じの婦人警官がいて、アルムート・マイスナーは取調べが済んで次の建物に移っている、そちらへ行って欲しいといって、頑丈そうな腕をあげて道順を教えた。

 間宮は一人で森閑とした薄暗い廊下をたどり、階段をのぼった。あちこちの部屋からタイプを打つ音が、まるではげしい雨音のように聞えてくる。彼はいくらか心細くなってきた。なぜ自分はこんなタイプの音のひびく薄暗い廊下を歩いているのか、アルムートについて一体何を言いにきたのか。間宮は固い廊下に伝わる自分の跫音(あしおと)にだけ耳をすませながら歩いた。

 教えられた保安課の主任というのは、五十歳ばかりの、頭の毛の薄くなった痩せぎすの男であった。生れつきの顔なのだろうが、苦い薬をいま()めたばかりという顔をしていた。そいつが、くどくどと、わかりにくい早口で、なぜ彼女に会いたいのか、どういう理由だと問いただすので、間宮はますますうんざりした。

 それでも彼は、憂鬱に疲れた頭の隅で語尾変化なぞに気を使いながら、アルムートの件は自分の責任のような気がするのだ、できるだけ早く彼女が釈放になるよう取計らって貰いたいのだ、という意味のことを一生懸命に述べたてた。

「ふむふむ」と主任がなんとも渋い表情で言った。「それで、あなたは彼女を好きなのか」

「好きです」と間宮は答えた。半分は面倒臭かったのである。「非常に好きです」

 傍らの机に三十歳ほどの女秘書がいた。決して美人ではなく、親しみにくい鋭い顔立ちだったが、彼女は間宮の話に共鳴するところがあったのか、或いは単なる親切気からか、途中から主任にしきりと早口で話しかけだした。あまり早いので間宮にはほとんど通じなかったが、とにかく自分のために主任をくどいてくれていることだけはわかった。彼女は話の合間にこちらを見て、安心しろというようににっこり笑いかけたりもした。

 ついに主任は、特別製の苦い薬を一息に飲みくだしたという顔をして言った。

「彼女はこれから身体検査を受けねばならない。何でもなかったら釈放されるだろう。あなたも一緒に衛生局へ行ってかまわない」

 それから彼は電話をかけた。相変らず苦い表情を崩さないまま。

 五分も待っていると、ドアが開いた。そして、いつかの晩会ったときのように、痴呆のごとく無気力に、レインコート姿のアルムートが私服の警官に連れられてはいってきた。

 彼女は間宮を認めた。すぐ下をむき、そのままうなだれて立ちすくんだ。しかしうつむいている彼女の両眼から、まるで芝居かなんぞのようにたやすく涙があふれ、頬をつたって流れるのを彼はたしかに見た。

 女秘書が間宮をふりかえってにっこりした。それから彼女はじっと立っている若い娘に、この日本人がなぜここに来たかを早口に説明しだした。アルムートはうつむいたきりで、聞いているのかどうかわからなかったが、ふたたびぽろぽろと涙をこぼしはじめた。

「さあ行こう」と、アルムートを連れてきた私服が大きなほがらかな声で言った。

 彼はずんぐりと肥った飲手らしい感じの男で、なによりも甚だ愉快な性格の持主のようだった。部屋にはいってきてから秘書の話のあいだにも、口こそはさまなかったが、なんとも愉快そうにもじもじと手をゆすっていたものだ。

 間宮は主任や秘書に礼を言っていたので、部屋を出るのが少し遅れた。廊下の向こうでアルムートと私服がエレベーターに乗りこむところだった。扉のない箱を幾つも重ねたようなエレベーターで、彼が駈けつけたときそれはさがりはじめ、アルムートの下半身が隠れようとしていた。そこに間宮は急いでとびおり、少なからずよろけた。それを見て私服の男はさも愉快そうに笑った。

 このずんぐりした男は身体つきからして循環気質の持主と見えたが、衛生局へ行く自動車の中でも、さかんに持前の噪々(そうぞう)しい性格を発揮しだした。間宮の肩を叩いては、いや実にいい話だ、ホットロマンスだな、などと言って一人で笑声をあげるのである。アルムートは私服の向こう側に黙りこくっていた。私服が一人で悦に入ってしゃべった。笑っては間宮の脇腹を突ついた。間宮は仕方なしに頷いてばかりいた。

「あなたは運がいいな」と、私服はうなだれているアルムートの肩を叩き、くすくす笑った。

「日本に連れて帰る気か?」今度は私服は間宮にむかって言い、愉快げにずんぐりした体躯をゆさぶると、またもや間宮の横腹を突っついた。

 衛生局につくと、私服はアルムートを連れて内部に入り、間宮は一人きりで外で待った。玄関の前にかなり広い花壇があり、黒い土がならされてある。もとより花は見られず、芝が黄いろく霜枯れていた。所在なしに間宮はその脇を数歩あるき、むきを変えてまた数歩あるいた。今日もまた低く雲のたれこめた空である。

「へーイ、ジョー」という嬌声が上から降ってきて、見あげると、三階の窓から一見して夜の女とわかる二、三人の女が首を出し、こちらに呼びかけているのだった。

「ジョー、あんたに話があるよ」

 女たちはいろいろと野卑な英語のGIスラングを使った。

 間宮は空に目を移した。重苦しくどんよりと雲がたれこめ、いつになったら晴れた空が見えるのか、一体、太陽や星のあるそんな空があるのか疑われてくるような雲のたれ具合だった。

 十分ほども待ったか、意外に早く私服とアルムートが出てきた。おそらく性病があるかないかの簡単な検査だったのだろう。

 私服は間宮の前までくると、女の腕をとり、もったいぶって差しだすようにして言った。

「これであなたは自由だ」

 彼はいわゆるバタパンを食べたあとのようにRの音を器用に舌先で丸めた。それから、幸福を祈るとか、俺もこんな目に会ってみたいとか、ひとしきり愉快げに身体をゆすってしゃべったのち、あっさりと自動車に乗って行ってしまった。

 間宮は、かたわらの女を見た。彼女は無表情にそこに立っていた。薄いレインコートにつつまれて、貧しく、うそ寒げに。その柔かそうな茶色の髪のうねる小さな頭には、なんの考えも浮んでこないようだった。

「行こう」と間宮は言って、歩きだした。

 女は無言で従った。うつむいたまま並んで歩いた。

 さっきよりも空はどんよりと曇っていて、雨になるのかな、と間宮は思ったりした。いつの間にか霧のように降っていてびっしょりと道路を濡らし、またいつの間にか気づかぬうちに降りやんでしまう、いつもそんな雨なのである。しかし空気は湿っぽく冷えきっているものの、このときはまだ降りだす気配はなかった。

 小路の入口に焼栗を売っている老婆がいた。丸い鉄製の容器から栗をつかみだしている。子供たちがまわりに集っている。地味すぎてあまり似あわない黒い帽子をかぶった可愛らしい少女が、買物籠を脇にかかえて栗を買っている。ここら辺りには古びた建物が多い。明らかに爆撃の跡を修理したものも目につく。やがて道は広い街路に出た。

「ひどい目に会ったね」しばらく無言で歩いたのち、間宮は言った。

 それでもアルムートは黙りこくっていた。

「申訳ないことをした」

「あなたのせいじゃないわ」呟くように女は言った。

「これからどうするつもり?」

 彼女は片腕を間宮の腕にあずけ、うつむいて歩きながら、その茶色の長い髪につつまれた小さな頭には、やはりなんの考えも浮んでこないらしかった。

 いくらか経ってから、女は低く言った。

「収容所に帰るわ」

 それから不意に立止ると、大きく(みひら)いた青い目でまっすぐに間宮の顔を見つめた。

「アキラ、バスの停留所まで送って」

 間宮はうなずいた。それ以外なんの方法があったろう。

 この娘は明日からまたあてもなく街を歩きまわることだろう。なんとか勤め口が見つかるといい。

「向こうまで送ろうか」

「いいの、バスの停留所まで」

 停留所には人影がなかった。

 間宮はいくらかの紙幣を無理に彼女の粗末なバッグの中におしこんだ。もちろん些細な額で、彼女の心をも自分の心をも傷つけないほどのものであったが。アルムートは少し拒んでから、目を伏せて低く、「ダンケ」と言った。

 二人はしばらく街角を眺めながら話もなく(たたず)んでいた。

 思いだしたように、若い女は少しこごんで自分の足を指し、——それは裾の長いレインコートのため、平たいかなり(いた)んだ靴をはいた先のほうしか見えなかった——「アキラ、あなたにもらったストッキングをはいている」と言った。

 二階建ての黄色いいかめしいバスが近づいてきたが、行先が違っていた。

「寒くない?」

「いいえ」

 それから彼女は呟くように訊いた。

「いつベルリンを発つの?」

「……二、三日のうちだ」

「そう」

 雲がこれ以上低くなれないほど低くたれこめ、空気は湿って冷たかった。むこうの街角に虚脱したように目をやっている女と、これ以上一緒に佇んでいることが、間宮には急に堪えがたくなってきた。結局、そうする以外なんの方法があったろう。

「さようなら(アウフ・ヴイダーゼーン)」と、彼女の額の辺りに間宮は言った。

 こちらを見あげた女のほのぐらくうるおった目を彼は見、痩せた身体を固く抱き寄せた。その頬は冷たく、頬骨の感触がした。それから彼は身体のむきを変えて歩きだした。

 彼はふりむかずに歩いた。もう夕刻に近いのだろうか、街路には薄明が漂っていた。煉瓦造りの建物がくすんだ色に立ちはだかっている。路上をオートバイがにぶい音を立てて過ぎ、オーバーの襟を立てた男たちが急ぎ足に過ぎてゆく。

 間宮の心は嘗てなく空虚で、曇りきった空よりも憂鬱であった。二、三日後、彼はこの都会を去って行くだろう。彼が初めてテンペルホーフ飛行場に着いたのは何日前だったろうか。空から見ると、森林の多い黒々とした東独国境を越えてベルリンに着くわけだ。空港というものは慌しい中に特有の空虚さがある。各国の大型機がひっきりなしに発着し、さまざまな人種の旅人がバッグをさげて行きかっている。その合間を案内を告げる場内アナウンスが縫ってゆく。それははじめドイツ語で、さらに英、仏語で繰返されるのだが、またあの重々しいアナウンスを聞き、それからあの黒々とした国境地帯を越えてゆくのであろうか。

 空は抑えつけるように曇りきり、空気は湿って冷たかった。街角まで来たとき、はじめて彼はふりかえってみた。

 バスの停留所には、三、四人の人が立っていた。そしてアルムートもまだそこにいた。レインコート姿でうす寒そうに、ぽつねんと前をむいて立っていた。しばらく見ていても顔をあげる気配もなかった。街路(シユトラーセ)にはもう薄明が漂いだしていて、彼女がどんな表情をしているのか、見とどけることはできなかった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/11/14

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北 杜夫

キタ モリオ
きた もりお 小説家 1927年5月 東京都生まれ。芸術院会員。東北大学医学部在学中に「文藝首都」に投稿、同誌の同人となる。昭和35年、水産庁調査船に船医として乗船し、世界各地をまわった体験をもとに描いた「どくとるマンボウ航海記」がベストセラーとなる。同年、「夜と霧の隅で」で芥川賞、昭和39年『楡家の人びと』で毎日出版文化賞受賞。「どくとるマンボウ」ものでユーモア溢れた作品を書く一方で、精神科医としての良心と学識に裏打ちされた重厚な作品を手がける。

掲載作は「近代文学」(昭和33年9月)初出、『北杜夫全集2 夜と霧の隅で・遥かな国 遠い国』(新潮社 1977年5月)より。

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