南方熊楠
蔵書に見る南方熊楠の秘密
和歌山県田辺市の中屋敷町は、紀勢本線の紀伊田辺駅から海岸に向かって約1キロほどの閑静な住宅地であるが、ここにはいまでも南方熊楠の家屋敷と書斎がそのまま残されている。
明治の末ごろから中屋敷町に住み着いた南方熊楠(1867~1941)がここを永住の地と定め、土地と家を自分のものとしたのは大正5年(1916)、51歳(満年齢)のときである。往年の面影を濃厚にとどめる塀の内には、600平方メートルほどの敷地に粘菌(変形菌)を観察した柿の木をはじめ、書斎と書庫の往復時に見上げた楠などをそのまま残している。さすがに彼の愛した樗(栴檀)は二代目となっているが、春ごとに薄紫色の花を咲かせることに変わりはない。二階建ての母屋と離れの書斎、それに同じく二階建ての標本兼図書庫は補修をうけてはいるが、概ね原型をとどめているようだ。
現在この邸は熊楠の愛娘(長女)文枝さんによって守られている(注、2000年6月10日没)。粘菌標本のほとんどは国立科学博物館の筑波植物園に収められ、ノート、植物採集用具、顕微鏡やルーペ、絵筆ど遺品の多くは田辺湾を挟んで6キロほどのところにある南方熊楠記念館に展示されているが、蔵書を筆頭に書簡、日記などの大部分は長期間そのまま書庫の中に保存されてきた。平成3年(1991)8月、地元の南方熊楠邸保存顕彰会の委嘱を受けた松井竜五(東大講師)をはじめとする研究者によって、本格的にこれらの遺品の調査が行われ、近く蔵書のデータベースが完成する予定という。
書庫の扉はいささか重く、ガラガラと音がする。熊楠は真夜中にも遠慮なくこの扉を開け閉 てし、泊まり客を閉口させたという。一歩足を踏み入れると、頑丈な飾り気のない書架に蔵書がギッシリ詰まっている。約5000冊という数は意外に少ないが、和漢洋にわたる幅の広さはさすがといえよう。
それよりも強い印象を受けるのは、保存のよさである。熊楠を論じる人たちがなぜこのことに触れないのか、不思議に思えるほどだ。洋書にせよ漢籍にせよ18世紀中葉から19世紀にかけての書目が中心となるのは当然だが、それらのほとんどが極美の状態で保存されているのである。版元は洋書に例をとればマクミラン、ジョン・マレー、ハラップ、ロングマンなどの有名どころの堅牢なクロス装だが、洋書のクロスは湿度の高い日本(とくに紀州など)へ持ってくると、まず黴害は避けられないものだ。そのほか紙質劣化に伴う造本、装幀の傷みも生じるはすだが、熊楠の蔵書にはほとんどシミ一つ見られない。金箔などの褪色もなく、まるで昨日出版された本のように鮮やかな輝きを見せている。これは菌類分類学者学者の小林義雄(1907~92)が夙に指摘したように、たまたま書庫自体が通風のよい_正倉院_になっているということもあろうし、故人となった熊楠の令婿岡本清造氏を中心とする遺族の保存の努力に負うところも少なしとしないであろう。
第1級の愛書家ライブラリー
しかし、現在そのように美本であるというのは、まず所蔵者により愛蔵されたという事実を重視すべきではないだろうか。それを側面から立証するのが多くの本に付いたままになっているダストラッパーである。日本の古書用語でいう元カバーまたは元パラ(パラピン紙)に相当するものだが、洋書の場合はデザインも素気ないので、本来は購入後棄てるものとされる。とくに学者の多くは愛書家とは無縁なので、ためらうことなく破棄してしまう。それを熊楠は捨てるどころか、逆に自身製作のカバーを付しているものさえある。試みに何冊かを開いてみると、乱暴に開いた形跡は一切なく、学者に特有の書き込みもほとんど見られない。これらはきわめて異例なことではないだろうか。
熊楠はその豪放磊落な風貌や性格の半面、非常に繊細な神経を有する人であったことが知られている。さもなければ粘菌などというミクロの世界の観察などおぼつかないともいえようが、その繊細な神経が蔵書にも張り巡らされていたことになる。漢籍の古典なども当時原本とセットで販売されていた特製の木箱に収納されているが、これ自体も傷一つない保存状態なのである。彼の生きた時代の書籍、とりわけ洋書の貴重性を考えてみれば愛蔵も当然といえようが、どうもそれだけではないような気がする。
熊楠のことばに「学問は活物 で書籍は糟粕だ」(「平家蟹の話」)というのがあるが、これは書に泥みすぎることを警戒しての言であり、書籍自体を粗略に考えてのでないことはいうまでもない。別表は熊楠の蔵書がおよそどのような分野により構成されているかを示すサンプルにすぎないが、これを見ても基本書をおろそかにしない、バランスのとれたものであることが窺えよう。まるで図書館のようだ。和漢の常識的な古典と辞書等の基本的ツールはたいてい揃えている。漢書では四書五経から『史記』や『宋史』のような史書類、『説■ 』や『漢魏叢書』のような大叢書類はたいてい揃えている。同時代の出版物も国書刊行会版『燕石十種 』、徳冨蘇峰『近世日本国民史』をはじめ江戸研究家の三田村鳶魚や民間の民俗学者中山太郎の著書など、書斎人の関心を呼んだものにも目を通していたようだ。彼は不要な本はたとえ寄贈されても送り返したというが、好色と猟奇的ルポで売った酒井潔の『巴里上海歓楽郷案内』を残しているのは微笑ましい。
専門分野の原書についても、文字通りの専門書であるブレサドラの『菌誌』やクックの『英国菌類図誌』などを除けば、19世紀初頭のアメリカの毛皮商人アシュリーの『探検紀行全集』、探検家スタンリーの『暗黒大陸横断記』、ロシアの神秘学者で神智学協会の設立者H・P・ブラヴァツキーの代表作『ヴェールを脱いだイシス』、オカルティズム研究家ルーイス・スペンスの『北米インディアンの神話と伝説』(いずれも仮邦題)など、学者としては異端な書目も目立ち、南方民俗学の秘密をかいま見せている。
このリストのほかに2セットの『ブリタニカ』や『ウェブスター大辞典』『シェイクスピア全集』『金枝篇』などの基本書がしっかり備えられているが、印象的なのは雑誌、紀要類が非常に少ないことである。これは彼が学界とは無縁のところで活動していたからことを示すものだが、一時期頻繁に交渉のあった柳田国男の論文掲載誌が少ないのもそのためであろうか……。
10歳で百科全書を筆写
熊楠書庫での発見はそれだけではない。書棚を見渡していくと、わずか数冊ほどだが、例外的に傷みのはげしい本があるのに気づく。『帝国文庫』と『和漢三才図会』だ。前者は彼が41歳の折りに婚約した松枝夫人(当時22歳で、田辺闘鶏神社の宮司田村宗造の四女)にプレゼントしたもので、熊楠本人の蔵書とは扱い方がちがっていたとしても当然である。肝心なのは後者で、明治17年(1884)刊の菊判3冊本(索引1)は背革のすこぶる頑丈な造本だが、現状は表紙が完全に失われ、露出した背の綴糸も寸断しているほどの損傷ぶりである。それほどまでに読んで、読んで、読み抜いたことがわかる。注目すべきは別冊の索引で、同装幀にもかかわらずまったく傷んでいない。これは不備の多い索引など使う気になれなかったせいもあろうが、そもそも本文の内容など熊楠の脳細胞に完全にとりこまれ、データベース化されていたので、他人の作った索引など必要としなかったというのが真相ではあるまいか。それならなぜかくも頻繁に内容を参照する必要はなさそうだが、熊楠の書物についての記憶は該当の記事が何の本のどのあたりにあったかということにあり、その余は実際にページを開いて確認したのである。しかし、それは単なる便宜的な引用目的だけではなかった。『和漢三才図会』こそは彼の学問の出発点であり、絶えざる源泉であったと思われる。
『和漢三才図会』は江戸時代の半ばごろ、大阪の医師寺島良安より執筆されたわが国最初の図解百科全書で、明の王■ 編『三才図会』にならい、天文から地誌、動植物、鉱物、人間の身体、病気、器財、職業ほか96類にわたる約7900項目を掲げている。良安がこのように壮大な計画に手を染めたきっかけは、師の和気仲安 の「三才(天文・地理・人事)をともに明らかにしてから医を語るべし」ということばに刺激をうけたことにある。以来諸書を博捜し、伝説口碑を尋ねること30余年、ついに正徳3年(1713)全105巻(81冊)の大著を完成するにいたった。西欧でも18世紀前半は百科事典と博物図鑑が輩出した年代にあたるが、東西あい呼応するようにこの種の知的エネルギーが噴出したことは興味深い。
熊楠が知友に与えた書簡によれば「明治八−九年頃、小学生の同級生に久保町の岩井屋といひし津村安兵衛とかいふ酒屋の子に多賀三郎といふありし。小生はその家にある『和漢三才図会』を借り始め明治十四年までかかりて百五巻を悉く写し終れり」とある。これは正確には明治9年(1876)からの5年間ということだが、現在南方熊楠記念館にはその現物が展示されているが、その丹念な筆といい、そもそも10歳の子どもが大部かつ難解な百科全書に惹かれたということ自体、おどろきを禁じ得ないものがある。『和漢三才図会』ばかりではない。明の李時珍編纂になる薬物学の古典『本草綱目』(1590)や貝原益軒の『大和本草』(1709)などという大著を、異常な執念で写しとっている。
熊楠の生家はのちに金融業や酒造業で大いに栄えているが、彼の少年時代は和歌山城下の金物屋に過ぎなかったので、生まれつき学問を好む次男坊に書籍などを買い与える余裕などなかった。「小生は次男にて幼少より学問を好み、書籍を求めて八~九歳の頃より二十丁三十丁も走りありき借覧し、悉く記憶し帰り、反古紙に写し出し、くりかへし読みたり」。学者には初心回帰型といおうか原点に拘泥するタイプが多いが、彼の場合にも子どものころに芽生えた生物への深い興味と愛着に一生を決定づけられたといえる。当然ながら『和漢三才図会』『本草綱目』『大和本草』の3点の書が生涯の愛読書となったわけだが、とくに『和漢三才図会』の影響が大きいと思われる。
現実を超える“もう一つの境地”
この書が彼にとってアルファでありオメガであった理由が、単に宇宙の森羅万象を統べようとする壮大な構想だけにあったとは思えない。そこに現れている比較文化史的な方法論の魅力こそが彼の生まれながらの百科全書派的な知識欲、学問的情熱をかきたてたのではないだろうか。本書は体裁を王■から借用、日本の文献(『訓蒙図彙(きんもうずい)』や『本朝食鑑』など)からもヒントを得ているが、原則として和書との比較対象を貫いている点は良安の独創といってよい。比較引用は近代の学問においては常識とはいえ、熊楠の少年時代にあってはそれによる知識の拡大と普遍化の予感が、ほとんどエクスタシーに近い興趣を呼び起こしたことは疑いないであろう。
たとえば「燕」 の項目を見ると、乙鳥、玄鳥、■鳥 ほかの異名を列挙、『本草綱目』の「燕は大きさ雀の如くして、しかも身長 く、挟める口、豊かなる顎、布 きのべたる翅、岐の尾、仰向けに飛んで向宿 す……」(原漢文)を引用、要所に「和俗に亦燕が常盤国に往来すると謂うは皆非なり」などという注釈を加え、「きさらぎのなかばに成ると知りがほに早くも来けるつばくらめかな」という為家の歌を引用した後、「按ずるに燕は玄き衣、白き頚、赤黄の頷、春来り秋去る。雁鳧 と表裏をなす……」というように良安自身の考証を述べる。この部分が全体の過半を占め、「一の巣あり、故なくして雛皆死す、是に於て其の口の中を見るに麦の禾 、松の刺 等あり。蓋し此母鳥死し後の母鳥の所為也。往々此の如きものを見ると云う」などと興味深い事例も紹介している。熊楠は「燕石考」というエッセイを書くにあたってこの個所を参照している。
良安の考証は和漢書に限られていたし、個人的な仕事に伴う限界も否めないが、この徹底した列挙主義は天与の記憶能力に恵まれた少年熊楠の心をとらえた。これでもかこれでもかという博捜主義によって現実を超える“もう一つの境地”を現出することこそが、彼の学問的情熱の根底を形づくっていることは否定できないだろう。それは記憶力と同様ほとんど体質的なもので、学問の方法論以前の問題といえよう。熊楠は機会あるごとに西洋の半可通な学者を口をきわめて罵倒しているが、そこでは一種の生理的なもどかしさが先に立っているようだ。
後世は彼のこの境地をフォークロア(民俗学)というジャンル名に分類した。しかし、彼自身は常に既成の学問分野に収まりきれないことを自覚し、世俗的なアカデミズムには強い抵抗感をいだいていた。自然界に宇宙を統 べる真理を発見し惑溺することこそが、彼における学問の意味であった。その場合、民俗学と同じ比重で彼の意識に大きな意味をもっていたのが、菌 や粘菌(変形菌)の世界であった。
生命の根源を見据える
粘菌という生物の不思議さは、イギリスのある学者がいったように「他の星界よりこの地に墜ちて来て、動植物の源となったもの」というしかないものがある。
粘菌(変形菌)は朽ちた倒木の樹皮などに寄生する微生物で、胞子の段階では細胞が厚膜におおわれていて動かず、構造や機能はキノコに似ているので、植物といってもよいが、いったん生長をはじめると他のバクテリアを捕食しながら何度も核分裂を繰り返しながら、巨大なアメーバ状の変形体をなしていく。このへんは明らかに動物ということになるので、要するに分類不可能な生物ということになる。
大正15年(1926)、南方熊楠は弟子の小畔四郎が皇太子時代の昭和天皇に粘菌を進献するにあたって草した表啓文の冒頭で「粘菌の類たる、原始生物の一部に過ぎずといへども、その大気中に結実するの故をもつて、一見植物の一部たる菌類の観あり。これをもつて動植物学者互にこれを自家研究域内の物と思はず、相譲り避けて留意せざりしこと久し」と述べている。西洋において粘菌の研究が緒につくのは、ようやく19世紀後半に入ってからで、熊楠の生まれたころにあたる。いわば当時最先端の学問だったのである。
この進献のために選ばれた粘菌は90品で、熊楠の手元にしかなかった18品も含まれている。本邦研究のパイオニアとしての自負心思うべしだが、宮内庁の生物学御研究所の主任をつとめていた服部広太郎から「いや、原生動物ではない、動物と書いてはいけない」と横ヤリを入れられた。熊楠はあくまで原生動物であると強く反対したが、服部の不快を知り、一時は進献そのものがフイになることをおそれて体調を崩してしまった。彼にとって粘菌とは、アメーバ状のものが寄り集まって変形体をなし、かつ捕食を行うという二大特徴を備えているがゆえに、動物以外の何物でもなかったのである。
服部としては、動物でもなく植物のカテゴリーにも入れにくいものを「生物」という中間概念で括ろうとしたのであろうし、その分類学上の便法は現在にいたるも学界に引き継がれているようだが、当時の熊楠にとってはまったく無意味のことでしかなかった。彼が粘菌という対象を動物学の関心のもとにとらえることにより、生命の原初的形態や内部空間にアプローチできると考えていたという見方(中沢新一『南方熊楠コレクション』解題「森の思想」)はおそらく正しい。これは単なる分類上の問題ではなく、彼の粘菌研究の動機に結びつく問題と考えるべきであろう。粘菌を通して生命の本質、宇宙の構造を見ようとしていた熊楠にとって、当時の分類を重視した植物学が本質的に魅力に乏しいものに映じていたことは、大いにあり得ることだ。そこにこそ、彼がこの「痰のようなもの」に終生固執する理由があったのである。
ちなみにこの進献は皇太子に強い印象をもたらし、昭和4年(1929)田辺湾上における進講につながっていく。生涯無位無冠で終わるべく運命づけられた巨人の、これはまさに“人生の星の時”に相違なかった。そのようなことは学問に直接関係はないが、明治中期いらい地元に荒れ狂った神社合祀(後述)の動き、すなわち自然破壊に歴史的な反省を生む機縁となったという点で重要である。機縁といえばもう一つ、生物学者としての昭和天皇が昭和23年(1948)ごろ渋沢敬三(当時常民文化研究所所長)に熊楠の標本調査を依頼したことから「南方ソサエティ」という後援会が生まれたこと、さらにその14年後の南紀旅行にさいし「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠じたことから南方熊楠記念館をはじめとする顕彰事業が緒につき、今日見られるように地域自然のトータルな保存が可能になった点も特筆されなければなるまい。このような挿話1つにも、熊楠とその時代が透いて見えるのである。
柿の木から発見した新種
南方熊楠がいつごろから粘菌に関心を抱いたかは明かでないが、在米時代(25歳ごろ)に親友の羽山蕃次郎あて、粘菌の採集を詳細な説明図入りで依頼した書簡が残っている。蕃次郎は熊楠にとって「浄の男道」の対象(精神的念友)だが、この当時すでに病篤く、熊楠の専門的な依頼には応じられなかった。その後大英博物館時代のノート(いわゆる『ロンドン抜書』)を見てもとくに粘菌についての記載はないが、帰国後10年目ぐらいから南紀の菌類 と併せて粘菌の採集に熱中するようになる。その頂点が自宅の柿の木から新種を発見、大英博物館の粘菌学者グリエルマ・リスター女史に送ったところ、Minakatella longifiaと命名されてイギリスの「植物学雑誌」および『粘菌図譜』第3版にカラー図版とともに紹介されたことであろう。グリエルマはやはり粘菌学者であった亡父の衣鉢をついで図譜の第2版以降を完成したが、序文には熊楠が父親の最も古くからの協力者である旨が明記されている。
顕花植物から隠花植物へと学界の関心がシフトしていた19世紀末にあって、熊楠はその最先端をいく生物学者であり、先進の海外の学者からも一目おかれていた節があるがたようだが、熊楠の側から積極的な交流を図った形跡はほとんどない。日本国内においても事情は同じで、熊楠独自の個性からアカデミズムとは無縁の立場が貫かれた。これが長い間熊楠の植物学関係の業績を埋もれさせ、いまもってその全貌が明らかにされない根因となっている。彼のもう一つの分野である民俗学関係の業績についても、生前わずかに『南方随筆』正続(1926)という雑著の体裁で膨大な著作のほんの一部が集成されたにとどまり、ようやく戦後の昭和26年(1951)に実現した乾元社版の『南方熊楠全集』全12巻にしても多くの遺漏が指摘された。書簡を含めて業績の全貌がある程度窺えるようになったのは、没後30年目の平凡社版『南方熊楠全集』全10巻・別巻2(1971)によってである。
菌類・粘菌類(ほかに若干の淡水藻類を含む)研究の集成はさらに遅れた。先号にふれた熊楠の標本兼図書庫の二階には大きな長持があって、熊楠自筆の彩色図譜(晩年は長女筆)や標本が保存されていた。「小生久しく菌学を修め、ただいまおよそ七千種の日本産を集めあり、内四千種は極彩色にて図画し、記載を致しあり、実に東洋第一の菌類の大集彙に候」(昭和4年、中井秀弥宛書簡)としているが、前述の南方ソサイエティの調査では彩色図に実数は2,034枚であった。ただし、標本カードは約4,500枚に達しているので、約40年の研究期間にそれだけの数を手がけたことはたしかなようだ。
日々これ観察
問題はその形式である。標本が学術上有効となるには、標本(胞子等)、図、ラテン語による観察記録という3つの要件が揃っていなくてはならないが、熊楠の遺品に関する限りは標本と図が必ずしも揃っていない上に、観察記録も英語であるため公認されにくいという。図も菌類だけで、粘菌は1枚もないので、この方面についての彼の業績を通観するには、膨大な書簡中の記述を抜き出して整理するほかないことになる。
さらに熊楠は多くの新種を発見したと主張しているが、昭和47年(1972)に菌類分類学者の小林義雄(1907~92)が調査したところ、新種と思われるものは所収標本の10分の1に満たないことが判明している。もとより、このような理由をもって南方標本が無価値だというのではない。特定の地域における生態観察として不朽の価値がある。小林も「1人の傑出した民間の菌類研究家が40年間にわたって限られた地域の菌の研究に心血を注ぎ、かくも多数を記録し得た点には誰も敬意を表することと思う」(『南方熊楠菌誌』解説)と述べている。
この調査結果は既発見の品種と同定する作業を行った後、『南方熊楠菌誌』全2巻(南方文枝刊、1987~1989)として公刊された。当初予定されていた第3巻は、収録予定の微小菌類がダニに浸食されていることがわかり、中止のやむなきに至った。別に図を100枚選んで実寸大で複製した『南方熊楠 菌類彩色図譜百選』(エンタープライズ、1989)も刊行され、編者の一人は「一つ一つのきのこをこれほどまでに丹念に描画、記載することは凡人には倦んで続かない。幼少の頃に『和漢三才図会』や『本草綱目』を諳んじて写し取ったことに素地があるのだろう」(萩原博光)と賞賛を惜しまないが、これらの図が描かれたときの日常は、つぎの文章に彷彿としている。
昼間は主として変形菌を顕微鏡で見ながら記載の仕事を続け、夕方から夜にかけて茸の写生と自分できめているようであった。習慣になったのか電気をずっと下げて先ず画用紙に胡粉を塗り、それが乾くまでその場で横になり睡眠をとった。……会心の作が出来るまで、時には一つの茸に三日もかかり、夏は仮眠をとるだけで三日位の徹夜は平気であった。……変形菌の記載をおこなっている時は、少しの物音でも、気が散り、顕微鏡の焦点が狂うとして誰も近づけず、食事など告げに行くと「今日は一日何もいらぬ」と怒鳴られたこともしばしばであった。(南方文枝「父のキノコ画のこと」)
ミクロコスモスへの解脱
以上の調査により、今日の学界から見た南方熊楠の評価が可能になったといえるが、それは変形菌研究史の上できわめて貴重な価値を保持している半面、方法論においてアマチュア的側面も否定しがたいということのようである。関係者たちはその点を惜しんで問いかける。なぜ熊楠は菌類について1篇の論文をも書かなかったのだろうか。なぜなぜ学界と交流し、厳密な同定作業を行わなかったのだろうか。なぜ観察記録をラテン文で記さなかったのだろうか——と。その1人、菌類分類学の長沢栄史は「氏の行為ははるか先を見通してのことだったのかもしれない」とし、当時標本を保存することの困難な時代と環境下に、それの伴わない報告が将来において無価値になることを認識していたのではなかろうか、と推測している。しかし、晩年の熊楠がこれらの図の出版を念願していたという事実は、自己の業績の客観性について十分の自信と抱負を抱いていたことを意味するものではあるまいか。彼は学界の慣行などを超越した、独自の学問的宇宙の只中にいた。ラテン文で記さなかったのは、英文のほうが彼にとってはより能動的に自然の構造をとらえ得ると判断したからであろう。いったん信ずることがあれば断じて行うのが彼の身上である。
論文を書かなかったということは、彼にとって菌類や粘菌類の研究とは新種の決定や報告とは別のものだったと考えるほかはあるまい。研究者には採集に情熱を傾けるタイプと、同定作業に力をいれるタイプがあるというが、熊楠は明らかに前者である。採集し巨細に観察することに彼の頭脳構造は完全燃焼をとげた。一切の雑音を廃して単眼の顕微鏡を覗くさいの息詰まるような緊張——集中のエネルギーを感じるとき、彼はおのれの大脳の抑制しがたい衝動がミクロコスモスの宇宙に豁然と解き放たれるのを感じていたのかもしれない。「やはり精神衛生のためもあったのではないでしょうか」(鶴見和子)という捉え方も、人間熊楠と学問の関係を考察する上で重要なのではあるまいか。ちなみに熊楠は自身の体質について「脳が異様の組織と見えハッシュ(大麻)を用いる人の如く個人分解(一人でいながら二人にも三人にもなるなり)をなし申候」と述べているが、顕微鏡に向かう彼は学者とはまた別の存在になっていたのかもしれない。
ともあれ、学界における客観性を保つための煩雑な作業など、彼にとっては桎梏以上のなにものでもなく、凡俗には考えられないほどの努力を要するものだったのかもしれない。その種の精力を、彼は中年以後の神社合祀反対運動のなかで費消し尽くしたともいえよう。
既成学問の枠を超えて
神社合祀反対運動とその背景をなすエコロジー思想こそは、熊楠の超凡なる頭脳が俗界と交わり、切り結んだ唯一最大のステージだった。明治39年(1906)内務省の通牒により強行された神社の統合整理は、邪祠淫祠の整理という名目とは裏腹に、地域と結びついた村社や無格社を廃することによって信仰と憩いの場を奪い、あまつさえ森林伐採などの利権を発生させたという点で、明治の失政の一つにあげられる。熊楠はこの動きを知るや、人情風俗の破壊、勝景史跡の湮滅などの理由を掲げて機敏な反対の動きを示した。柳田国男や中村啓次郎(和歌山県選出の衆院議員)、松村任三(植物分類学者)など中央に協力者を求めたことも彼としては異例に属する。柳田や松村宛の書簡には明確に「植物生態学(ecology)」の見地が打ち出されているが、これはいうまでもなく現在の自然保護運動の原点をなすものである。
地元においても「牟婁新報」の社主毛利清雅のような理解者から、反対論文の発表の場を与えられたり、報復的な裁判にかけられた際にも全面的な支援を与えられたりしているが、一方には無理解な勢力も多く、地方特有の人間関係のしがらみが彼の家族にまで及び、思わざる苦汁をなめさせられている。
しかし、反対運動に全能力を傾ける熊楠の阿修羅のような働きには、深い感動を覚えざるをえない。反対の論拠を求めて古書を読破し、相手の動向を報じる新聞記事を丹念に切り抜き、ジャーナリズムや学界へアピールするための資料撮影には、カメラマンに同行までしている。彼の学問の社会性が発揮されたのがこの時期であるが、得意の領域でなかったことは事実で、働き盛りの意欲を消耗したことも争えまい。
合祀運動が衰微に向かった大正半ば、50歳を目前にした彼は田辺に定住の意思を固めるが、落ち着く暇もなく愛息の発病という不幸に見舞われ、研究に十分な余裕を得ることができない。このような“縛られた”状況が彼の学問の個々の目標(たとえば菌類研究)に軌道修正を促さなかったとは断言できない。支援者の発議で自身乗り気となった南方植物研究所の構想が潰えたことも、相当の打撃であったにちがいない。
もっとも、彼の学問の幅と多様性はそのような制約をこえて、現代の私たちにトータルな方法論の可能性を暗示し続けてやまない。たとえば近年注目されている彼の曼陀羅説は、真言密教の因果律の観念を西欧近代の科学と対置させ、その有効性、優位性を説くもので、アインシュタインの相補性の原理モデルもに匹敵すると評価されている(鶴見和子『南方曼陀羅』)。熊楠が構築しようとしていたものが生物学や民俗学のような個々の学問ではなく、「三才」(宇宙観の万物)を統合する認識の学であったことは疑いないであろう。それは南方学大系と名づけるほかない独自のものであって、ここにこそ彼の自らのに対する自負のほどを解きあかす秘密がかくされているといえよう。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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