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藝術主義の頽廃について

 福田清人の新著「十五人の作家との対話」の志賀直哉のところを読むと、志賀文学に陶磁器や絵画についての記述が多いことが指摘されている。

 これに関聨して(おも)い出すことは、自然主義文学全盛時代、反自然主義文学に対してジレッタント呼ばわりしたことである。ところが、今日になつて顧みてみると、案外、自然主義作品が残つていないで、ジレッタント呼ばわりされた反自然主義作品のほうが残つている。また、今日残つている自然主義作品の作者にしても、田山花袋は桂園派の和歌を(たしな)んで書に興味を持つていたし、徳田秋声は金沢生れも手伝つて庭や骨董に関心があつたし、島崎藤村は、「夜明け前」が信州の喰べものを巧みに点綴(てんてい)することによつて(すく)なからず長篇の退屈さを救つているように、一種の美食癖があつた。無趣味を誇つている正宗白鳥にしても、今日のわれわれから見るとおかしいほどの歌舞伎愛好癖がある。自然主義の論客が嘗て呼号したように、全く趣味性を排して人生そのものにだけ直面する、そういつたことは、所詮絵空事だつたのである。

 瀧井孝作は「私の作品鑑定法」(群像四月号)なる尾崎一雄との対談で、「ぼくは作品のよしあしは結局文章じやないかしらんと思うんだけどね。材料のほうも大事かもしれないけれど、表現というものはやはり大事なものだという気がする。一にも表現、二にも表現、三にも表現ということが言えると思う」といつている。ところで、これは唯美主義、つまり藝術至上主義の主張ではないか。いまいつたように、今日においては自然主義作品よりも反自然主義作品のほうが遥かにたくさん残つているということは、わが国に近代文学が輸入されて以来、現在までのところでは、結局、藝術主義の作品が優位を占めているということになるのではないか。即ち、瀧井孝作のいう表現第一の作品が、年月に耐えて来ていることになるのではないか。

 確かジイドだつたと思うが、昔は文学・音楽・絵画などが互いに影響しあつていたが、現代では各自がそれぞれ専門的に分化してしまつて、制作面において影響しあうなどということは、全くなくなつてしまつたという風なことを述べていた。この現象はわが国の現代文学を顧みても真実のように思える。しかし、それは飽くまで制作の面においてだけであつて、出来上つたものからの影響は別であろう。初めに書いたように、志賀文学には陶磁器や絵画についての記述が多い。ということは、必然的に、志賀直哉はそれから美意識になんらかの影響を()けるなり、精神的休息を覚えるなりしているに違いない。同時に、それらが志賀直哉の創作衝動を促す刺戟の一つになつていることも確かである。

 夏目漱石はむかし余裕ある藝術ということを唱えて、自然主義陣営からさんざんジレッタント呼ばわりされた。だが、今日残つている反自然主義作品は、殆どがこの余裕ある藝術である。この余裕ある藝術は当然また、瀧井孝作の謂うところの表現第一の作品である。表現第一の作品はさきにもいつたように、唯美主義に立脚しており、直接的な創作衝動は勿論人生的感動によつて促がされているに違いないが、その創作衝動を起こし易く培養しているのは深い趣味性である。志賀直哉においては陶磁器や絵画が創作衝動の培養土となつているが、その他の藝術至上主義の作家の場合も、これに類する深い趣味性が創作衝動の培養土になつている。即ち、深い趣味性は絶えずその作家の藝術的亢奮を(あお)る結果になり、創作衝動の口火を()け易くするからである。

 戦後は殊に、藝術主義の作家が一層深く趣味性に沈湎する傾向が濃厚になつて来たのが目立つ。なかんずく古美術に没頭する作家が目立つて多くなつて来た。一半は出版インフレによる流行作家の未曾有(みぞう)の収入がそれを助長させているかも知れぬが、一番大きな原因は、敗戦による人心並びに自然の荒廃に対する反撥が、これらの作家をして古美術の豊かな美しさに(すが)りつかせたのではないか。いつぽう、古美術にとどまらず、実人生から離れた趣味、例えば谷崎潤一郎の王朝趣味耽溺(たんでき)、瀧井孝作の能見物、これらの趣味は戦前からあつたものであるが、戦争を境に一層深化しているように看取される。若いところでは井上靖の西域思慕など。そして、それらが各作家の創作衝動の培養土となつているのは、前述の場合と同様である。

 ところで、以上のことを今更のように感じさせたのは、川端康成の戦後作「虹いくたび」と「東京の人」を偶々(たまたま)読んだからである。いずれも、婦人雑誌や地方新聞に連載されたもので、随つて通俗小説として書き流されたものらしいが、それでいて実験小説めいた試みもあり、作者自身の好みも露骨に出ている。だが、忌憚なくいうと、二作とも作品としては、通俗小説として書き流されているだけあつて、充分首尾の整つていない失敗作に終つている。大胆な虚構を川端康成の好みで肉附けしでおり、その虚構の大胆さが実験小説臭を発散しているのであるが、一方、肉附けが充分行届かないで、虚構があらわに素顔を覗かせていることが失敗作にしている。だが、(ここ)で問題にしたいのは、二作に露骨に出ている作者自身の好みである。つまり、これが今まで書いて来たところのものを痛感させた次第である。

 川端康成は敗戦直後、国土に対する愛惜の情を切々と吐露していた。同時に、古美術や陶磁器への関心に異常な偏向を増して来た。しぜん、それがまた創作衝動の培養土となつて来ている。ところで、川端康成の場合、古美術愛や陶磁器愛が異常さを加えるに随つて、直接的な創作衝動が人生的感動に誘発されずに、その古美術や陶磁器に対する激しい陶酔感乃至(ないし)感動が人生的感動に代つて、創作衝動を促進させる最も大きな要因になつて来ているように看取される。即ち、人生的感動が人工的感動に()り換えられて来ているわけである。だが、これは創作衝動の本当の在り方であろうか。文学・音楽・絵画などが近代においてそれぞれ専門的に分化して来たというのは、文学においては、人生的感動を情緒的なものに()かされたり流されたりすることを極力警戒して、明確に打出そうというところに胚胎(はいたい)しているのではないか。その証拠に、前記の二作にあつては、生きているのは情緒的なものや趣味的なものばかりである。小説的虚構さえも、いわば情緒的なもの・趣味的なものを生かす方便としてのみ作られている観がある。それゆえ、情緒的なもの・趣味的なものが虚構に生かされ、融合して息づいている跡が殆ど見られない。

 勿論、いま述べたように、これらの作品は通俗小説として書き流されたものであるし、その一方作者は実験小説としてこの二つの作品を役立たせている。例えば「虹いくたび」は「千羽鶴」「山の音」に先行して書かれたものであるが、後者の二作のモティーフになつているものが、既にこの作品に未熟なまま現われている。また、いま挙げたこの作者の戦後の代表作「山の音」においては、虚構が見事に現在の心境的なものに結びついて生き生きと血の色を通わせている。これらの事実はあるが、「虹いくたび」「東京の人」の二作が、前記のような欠点を持つているということは、藝術至上主義がどうかすると陥り易い頽廃ではなかろうか。その拠つて来たところは、既に指摘したように、人生的感動を人工的感動と掏り換えたことである。そして、この頽廃はゴーティエとかユイスマンスとかいつた昔の作者の作品が既に示しているものであり、その頽廃が時代が経過すると共にいかに作品の魅力を(うしな)うものであるかを、それらの作品がよく証明している。その意味で、藝術主義の作品に取つて、人生的感動を喪つて趣味的感動に生きるということ非常に警戒すべきことではないか。また、それは頽廃にとどまらず、破滅をもたらすものではないか。川端康成の場合、それら二作が頽廃に陥つたのには、戦後の虚脱感というものも、(あず)かつて大いに力があるのではないかと思う。それが古美術や陶磁器の深い美しさや、自然とか生物とかの無心の美しさに飛びつかせ、人生的感動を忘れしめたのではないか。一方、「西洋風な小説も西洋の十九世紀が最盛期だつたのなら、現在は下り坂の頽廃であり、分解であり、ヒステリックである。」(文藝三月号所載「ある人の生のなかに」)そういう虚無感も無意識に手伝い、人生的感動を伴わない大胆な虚構小説を書かしめたのではないか。

 次に具象的な例を挙げてみよう。「虹いくたび」は、それぞれ母の違う、随つて性格も異つている三人の娘の心情の起伏を、一人の建築家の父に等しく一様に寄せている愛情を中心にして、熱海・箱根・京都、殊に京都を中心にして描いているのだ。だが、長女を生んでいる最初の愛人を自殺に追込み、次女を生んだ正妻の次に、京都の藝妓に打込んで彼女にまた三女を生ませているという、そういう圭角のある三人の娘の父親にしても、激しい性格の片鱗がすこしも現われないで、単なる物分りのいい好人物にしか描かれていない。それから、戦死すると分つていて、事実本当に戦死してしまう特攻隊員と一度関係したのみの長女が、戦後に次々と美少年を翻弄するに至る経緯にしても、またその長女の特異な性格にしても、説明的描写にとどまつていて、読者のほうに(すこ)しも歩き出して来ない。父、並びに三人の異母姉妹の融和に絶えずこころを砕いている優しい気立ての次女にしても、ひと通り描かれているに過ぎない。

 その他、父がなん年振りかで邂逅する相変らず京都で水商売している藝妓上りの三人目の女、長女の契つた特攻隊員の父の実業家、その特攻隊員の弟の大学生、相手が懐妊したと聞いて自殺を遂げるに至る長女の愛人の美少年、作中に登場するそれらの人物も、単に人間模様を現出しているだけで、淡い影絵のような存在になつてしまつている。登場人物で一番生きているのは、作中で殆ど口を利かない、文楽人形でも写すように、動作だけで写し出している三女の娘の姿だけである。この三女の娘を除くと、熱海のくだりで単なる挿話として描かれている、傍若無人な生き方をしたあの有名な蜂須賀侯爵の姿のほうが(むし)ろナマナマしく生きている。

 一方、重要な場面にしても、生きているのはエロティックな場面、例えば特攻隊員の青年が処女である長女の乳房の石膏の型を取つているところとか、次女と父とが一緒に入浴するところとか、のちの「千羽鶴」「山の音」に通じる場面だけにとどまる。

 さて、以上に引換え、東海道の車窓の眺めとか、熱海・箱根の旧財閥の別荘跡の数寄(すき)を凝らした旅館の印象とか、なかんずく利休の切腹した茶室のあるという聚光院(じゆこういん)、それから桂離宮を中心として京都の風光を描いた辺りは、以上とは打つて変つて、眼も覚めるばかりに鮮やかに描き出されている。つまり、戦後の荒廃した現実に眼をそむけた作者は、古美術や陶磁器の美に沈湎して行つたが、今度は逆にその同じ美しさを自然や造園や古建築の中に再発見するに及んで、そこで初めて創作衝動を覚えているのだ。そして、その感動を吐露しようとして、この一篇の虚構小説を思い附いたわけである。だが、既に述べたように、創作衝動が人生的感動に基づいていないで、飽くまで古美術・陶磁器に対する感動が主眼になつているため、つまり以上の感動は取りも直さずそれらの反射であり再現であるため、虚構が生きないで、主眼的なものと虚構とがバラバラになつて、全体の印象がチグハグになつた失敗作となつているのだ。

 次に「東京の人」を見てみよう。この作品の主題となつている、派手好きで、親切で、人づきあいのいい、その癖、内気で、人みしりをし、執着力の乏しい典型的な東京人が、戦後一時大金を掴むが、インフレの退潮と共に苦境に落ち、人知れず自殺を遂げるに至る経緯は、今日の時代が時代であるだけに、一種の切実感を伴つて一応生きている。また、主人公が病妻がいるにも拘らず連れ子して同棲するに至る戦争未亡人の、その中年女の色気といつたものも生きている。しかし、作中で生きているのは、この二人の交渉のある場面と、この二人の同棲によつて惹き起こす女の家庭内の波紋とだけである。女主人公の前歴、即ち東京下町の宝石商の娘だつたとか、戦死した先夫が鉄道職員だつたとか、戦争直後の混乱期に駅のプラットフォームに弘済会の売店を出して一儲けしたとか、そういつたものは、部分的に生きているところがあつても、全体的には遊離していて、女主人公の性格の中には殆ど溶け込んでいない。また、主人公の前歴も曖昧(あいまい)だし、主人公の病妻の子供子供した性格といつたものも説明にとどまつている。主人公の連れ子の美少女のあどけなさ、女主人公の二人の子供の戦後派的性格、こういつたものも一応である。

 再言すれば、主人公の自殺を思い立つてからの行動、女主人公の肉感的体臭、これらが一番精彩を伴つているのだが、作中でこれと匹敵して、あるいはそれ以上に精彩を放つているのは、最近いずれも流行しているバラの花とか、熱帯魚とか、それから、時計とか美容術とか、そういつた趣味的な部分である。それらが蘊蓄(うんちく)を傾けて披瀝(ひれき)されていて興味を惹く。川端康成には古美術に惹かれる一方、時代時代の尖端的な新しい風俗に惹かれる強い好奇心がある。そもそもは古美術が後でこの方が先だつたわけで、これが川端康成をしていつも流行作家たらしめているのだが、この作品の創作動機は、(せん)じ詰めると戦後の新しい風俗に対する好奇心ではないか。その好奇心によつて採集した集大成を披瀝しようとして、こういう虚構小説を思いついたのではないか。そして、それが一番書きたかつたのではないか。読後の感じではそういう気がする。虚構よりもそのほうがナマナマしく生きているからだ。のみならず、それは充分作中に溶け込まず浮き上つているからだ。随つて、この作品の場合も、古美術と風俗の違いはあれ、やはり人生的感動ではなくて、戦後の新風俗による人工的感動によつて創作衝動を触発されているように窺われる。同時に、この人工的感動であることが、「虹いくたび」と同様、この作品を剥製的作品たらしめて失敗作にしているのだと思う。

 以上、「虹いくたび」「東京の人」の二作について隔意の無い読後感を述べたが、といつて、川端康成の戦後作品のすべてが、藝術至上主義の頽廃に陥つているわけでは決して無い、「山の音」を初めその他の作品は、いずれも作者の自己形成と密着している上に、敗戦の悲哀をにじませていて、哀切な美しさを湛えた瑞々(みずみず)しい作品である。偶々頽廃に陥つた二作が眼につき、自他共に警戒すべき問題だと思つたので、()えてそれを取上げたまでである。最後に、これは余談だが、この作者は戦後好んで不倫の愛情を肉感性を伴つて取上げているが、これは何に由来しているのだろうか。

 

(昭和三十年五月「群像」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/08/10

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淺見 淵

アサミ フカシ
あさみ ふかし 文藝評論家 1899・6・24~1973・3・28 兵庫県神戸市に生まれる。早大予科の頃同期に中河与一、横光利一、井伏鱒二らがいて、小説やがて評論にも力を入れ谷崎精二らと第三次「早稲田文学」にかかわり、文壇史というジャンルに早くに手を付けた。

掲載作は、1955(昭和30)年5月「群像」に初出、川端康成の通俗作をターゲットに藝術主義作家のおちいりやすい人工的感動の稀薄さへ批判の太い釘を刺している。

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