最初へ

智慧の相者は我を見て

智慧の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語らく、

()眉目(まみ)ぞこは(さが)悪しく日曇(ひなぐも)る、

心弱くも人を恋ふおもひの空の

雲、疾風(はやち)(おそ)はぬさきに(のが)れよと。

(ああ)遁れよと、(たを)やげる君がほとりを、

緑牧(みどりまき)草野(くさの)の原のうねりより

なほ柔かき黒髪の(わがね)の波を、──

こを如何(いか)に君は聞き()きたまふらむ。

眼をし(とづ)れば打続く(いさご)のはてを

黄昏(たそがれ)頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、

飢えてさまよふ(けもの)かととがめたまはめ、

その影ぞ君を遁れてゆける身の

乾ける旗に一色(ひといろ)の物憂き姿、──

よしさらば、(にほひ)渦輪(うづわ)(あや)の嵐に。

──『有明集』巻頭より──

「有明集」の前後   蒲原有明

 明治三十八年(=1905)に「春鳥集」を出したときには、多少の自信もあり自負もあつた。わたくしのやうな気弱なものも詩作上思ひきつて因襲に反撥を試みたのである。あの稚拙な自序を巻頭に置いたのもその為で、少しきおつたところが見えて落ちつかぬが、それも致しかたない。

 さて象徴詩がどういふ筋道を通つてわが詩壇に導かれたかは、今こゝに述べにくい。それは別に研究を要すべきことである。然し思つたよりも早い時代に始まり、ヴェルレエヌの.死(一八九六年一月)がその機縁を作つたと云へば、さもこそと(うけ)がはれる道理がある。即ち同年(明治二十九年=1896)三月発行の「文學界」は上田柳村氏の草した、この落魄の詩人を紹介する記文を載せてゐる。この事はすでに「有明詩集」自註の中に誌しておいた。それから後になつて森鴎外氏は「めざまし草」の数号に互つて「審美新説」を訳出した。これが一冊の本になつたのは明治三十三年であるから、無論その前のことである。この「審美新説」には自然主義と象徴主義との関連推移を説くこと(つまびらか)で且つ斬新であつた。わたくし共はこのめづらしい藝術の部面のあることを知つて啓蒙された。それからまた少し程経て、今度はあの有名なシモンズの「象徴派運動」(一八九九年初版)に注意が向けられる順序となるのであるが、この本は長谷川天渓氏が最初に取寄せたもので、(田山)花袋、(島崎)藤村、(岩野)泡鳴の諸氏も、それにまたわたくしも、その本を借りて廻し読みにした。藤村氏がわざわざ小諸からイプセンの「ボルクマン」を小包にして、これを見よと云つて送り越したと殆ど同時であつたらう。わたくしからはシモンズの本を廻送したかとおぼえてゐる。ヴェルレエヌの死からシモンズの著書までの間には、イプセンも、ハウプトマンも、ユイスマンも、マアテルリンクも、一応は読まれ且つ紹介されもしたがたとへばマアテルリンクにして見ても、あの「温室」の詩篇の方は、これも柳村氏が「海潮音」(明治三十八年)刊行の後訳出して、それが「明星」誌上に掲げられるまでは一般によく知られてゐなかつた。われわれ多数はもともと英語訳にたよつてゐたので、かういふ不便は免れ難かつた。

 それに就て挿話がある。岩野泡鳴氏はあの負け嫌ひであるが、それも随分とやかましいマラルメを(えら)んで、佛蘭西語の原本から直接に翻訳するといふ意気込みであつた。「白鳥」もさうであるが、「泡」と題する詩が手始めで、をりからわたくしは同氏を訪問してゐたので、少しは字引の方の手伝をした。詩は短いが、一字一字洩れなく引くのであるから大変である。まづさういふ熱心さはそのころ誰しも抱いてゐたところである。佛蘭西語を全く知らないでゐて、マラルメを原詩から訳さうとするのは無謀である。笑はれてよいにはちがひないが、そこには眞剣味もあり強味もあつた。とても才人ぶつてはゆけなかつた時代である。

 わたくしは與謝野寛の紹介で、内海月城氏に伴はれて、上田柳村氏を本郷西片町にはじめて訪づれた日はいつであつたか(たしか)にはおぼえてゐないが、新詩社が麹町番町にあつた頃のことである。それから幾回目かの訪問のをりに、柳村氏はルコント・ド・リイルを頻りに推奨して特にあの「眞昼」の一篇を讃嘆して、原詩を誦して、その作風に就てわたくしに親しく語るところがあつた。わたくしはその時の柳村氏の言葉を忘れずに魂に刻んでゐる。パルナッシャンの套語「無痛感」はどこか「非人情」の禅語に類するものがあり、マアテルリンクの神秘感と共に極めて東洋的である。これ等の詩人の思想がわたくしの触れ易き心の養ひとなつたこと幾許(いくばく)なりやは量り難い。わたくしの詩にパルナッシャンの影響がありとすれば、それは全く柳村氏の鼓吹によるものである。

 自然主義より象徴主義への推移といふことは、評論家によつてあまり唱へられないやうであるが、わたくしは前に述べたとほり、「審美新説」を読んで感化されたことが先入主となつてゐる故か、この両主義の関係をさういふ風に密接に考へてよいものと思つてゐる。ロマンチシズムから直ちにシンボリズムには移れぬわけである。この両主義の推移といふことは例を挙げて見れば、ユイスマンスの一生の経路がこれをよく語つてゐる。この作者には(にしん)の有名な描写がある。これなど自然主義的描写に即する一面の帰結と見て然るべきものである。自然主義はつとめて感傷風の表現の混入を退けた。この事はかの高踏派の非人情とおのづから相通ずるところがある。考察の熱意と描写の精緻とはこゝに起らざるを得ない。その熱意が幻想に入り、その精緻が滲透して暗示となるとき、そこに感覚の交徹による象徴主義が生れるのである。然しながらわたくしの言はうとしてゐる所は、象徴主義に就てその解説を試ることではなかつたはずである。端的にわたくしの本意を明すならば、わたくしの詩は「春鳥集」より「有明集」に至るまで、上に挙げた諸種の思想の影響を蒙つてゐたといふことを述べて置きたかつたまでゞある。わたくしの作詩の動機に就いては「有明詩集」自註に大略書いておいたのを見てもらひたい。概して抒情的動機は幾許(いくら)も無く、そこには却て「非人情」が附き纏つてゐる。純情をきおふこの頃の若い方方にはかゝることも飽き足らぬ一つであらう。

 わたくしの詩のごときは説明せよと要求せられても説明の仕様のないものである。あらゆる思想の混乱であるとも云はれよう。然しその混乱にしても中心を得ればおのづから形をなすのである。その形をわたくしはいつも渦巻に喩へてゐる。卍字であり巴宇である。

 生動の態がそこに備つてゐる。わたくしはさう信じて、これを純情風の直線式のものと対蹠的に観てゐるのである。わたくしはこゝで純情的の詩風を(けな)すつもりは毛頭ない。ただどちらからも妥協の道はあるまいといふことを云つておけばよいのである。この渦巻式の流儀は今は全く詩壇に跡を絶つてゐる。(もつ)ともわたくし以外に誰がこんな面倒な詩を書いてたであらうか。それさへも確かなことは判らない。かやうなわけで、「有明集」は思想的にも表現的にも渦巻の中心をなすものであるが、その思想情念の傾向はいつでも東邦的であつた。わたくしの中に若しエキゾオチシズムが潜んでゐるとすれば、それは単に西欧への憧憬ではなくて、西欧でいみじくも採択された新藝術主義を通じて、わたくしの生れ故郷なる東邦の文化に対する反省より以外のものではなかつたのである。

 「有明集」は明治四十一年(=1908)歳首に刊行したものである。わたくしはこゝで集の巻頭に添へた著者の小照について断つておきたいことがある。著者は生れつき痩身で、未だ曾つて肉づいたといふことを知らない。然るにその写真に撮られたところを見れば、似ても似つかぬ肥満さである。わたくしは必ずしも痩躯を庇ふものではないが、あれを見てゐると忽ち胸が悪くなる。実を言ふと、あれはその前年の師走の初めに発行所の易風肚から写真師をよこされたので、寒い日の庭の隅で撮らしたものである。ひどい病気の前提としてあれ程まで水気が來てゐたものを、不注意にも医療を嫌つて、そのまゝにしておいたのであるが、その応報として月の中頃から床に就て了つた。「有明集」の初校を検べ了つたかどうかといふ時分であつた。わたくしが身體を悪くしたのは、その年の夏、木曾御嶽に登山を試みて少からず無理をしたことも一の誘因であつたらう。秋から絶えず寒冒(かぜ)をひいてゐて、挙句の果は扁桃腺を腫らしたりなどした。それまではまだ好かつたのであるが引つづいての本患ひである。急にひどい眩暈を起して(たお)れてしまつたのである。病氣は腎臓炎で、三月ばかり寝てゐて、漸く離床したが、その後もずつと健康を害してゐた。わたくしが藝術よりも宗教的の気分に傾いて行つたのは、さういふ理由からでもあつた。兎に角「有明集」出版後は、わたくしの詩風に対する非難が甚しく起りつゝあつた。要するに新時代がまた別働隊を組んでこゝもとに迫つて來たのである。わたくし如きものが苦しんで一の詩風を建てゝから未だ幾年も過ぎてはゐない。さう思つて、その當時の詩壇の狭量さに驚くよりも、全くいはれなき屈辱を蒙らされたものと推測したのである。口語體自由詩に対しても(あなが)ちにこれを排撃してはゐなかつた。わたくしにしても素より因習に反撥して起つたものである。然るにわたくしは図らずも邪魔扱ひにされたのである。謂はば秀才達の面白半分の血祭に挙げられたといつてよい。意外な目に遇つて、後に事がよく判つて見ても、わたくしは詩に対して再び笑顔は作れなくなつた。殊に詩人が嫌になつたのである。

 わたくしはいづれの盟社にも属せず、終始孤立して來たといつてよいであらう。一時は藝術上新主義の母胎とまで噂さされた龍土會の一員として、幾分の陶冶(とうや)を経て來たにはちがひないが、その龍土會自体の様子は今眼前に離合しつゝある詩人の団体とは余程の懸隔があつた。その龍土會すら影を薄くした。時勢の変は止む事を得ぬものである。

 

──昭和四年(1929)十月──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/12/17

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

蒲原 有明

カンバラ アリアケ
かんばら ありあけ 詩人 1876・3・15~1952・2・3 東京麹町に生まれる。日本藝術院会員。日本近代詩創始期の大きな存在。

象徴詩の代表作「智慧の相者は我を見て」は第4詩集『有明集』1908(明治41)年1月の巻頭を飾った。回想「『有明集』の前後」は1929(昭和4)年に書かれている。講談社「日本文学全集22」に拠りつつ若干よみがなを加えた。

著者のその他の作品