妖妄譚
女は仁和寺の門前に立っている。
さっきから、いくたび彼方此方を見つめたことだろう。
(まだ、陽のあるうちは諦めてはならぬ)
念ずるように、己にそういいきかせて立っているのだが、ひだるさも募った。はじめのうちは、ここに待っていれば吉兆が掴めると意気込んでいた。だが、黄昏時のうら寂しさは、心の張りを押し流している。熱を帯びた瞳にも疲労の色が濃かった。
女はさる
俗縁の者が死に絶えていた女には、行くあてがなかった。そこでふと以前に聞いた、三条
早朝、女はその陰陽師を訪ねた。
「何を占ってしんぜよう」
几帳のむこうに、祭壇のようなものがあった。ひとかかえもありそうな唐金の
煙の向こうに見える男は、年齢がわからなかった。麻の法服を身にまとい
女は首をかしげた。
男の顔つきは尋常ではなかった。色黒の引き締った表情に、眼窩が大きく窪んでいる。鼻はいやに高い。人を威圧するような眸は、
しばらく数珠を爪繰っていた男は、波々
「ほう」
赤い唇が開いた。
眸は甲羅に浮き出た幾筋ものひび割れを追っている。
「
「兌?」
「つまり、西じゃな」
「………」
「西の方、大内山仁和寺あたりで待ってみることだ」
女は暇を出されるときにもらった、なけなしの餅を数個、陰陽師に礼として置いた。
言われたとおり、女はさっきから門前に佇んでいる。やがて陽が落ちた。あたりを闇が包みはじめ、物の影が黒々と大きくなった。女は初めてたじろぎの色をみせた。一心に張り詰めていた気根が思わず跡切れ、女は弱くなった。
「どうしたものか」
今宵の宿すらないのである。
と、不意に鐘楼の壁から黒い影がひとつ吐き出された。
「ついて参れ」
影が呼んだ。有無を言わせぬ口調である。
もう歩き出している。女は後に従った。影は
やがて、山裾の
「あっ」
女が驚きの声を上げた。
「おまえさまは……」
今朝の陰陽師である。男は
「やはり待っていたな」
「わたくしをなぶったのか」
「なぶりはせぬ。まずそのように怖がらずとも、ここへおじゃ。それ
いつの間に用意したのか、
「すまぬが
女は素直にいいつけに従った。それから女も勧められて、その黒酒を呑んだ。
ほどなく、女は楓の梢をわたる
石炉にくべ足した
「
存外、男は情がこまやかだった。
女はあくる日からこの庵に居所を定めた。男は時折、忘れぬほどに忍んで来た。
「やはり、わしの目に狂いはない」
と、男はつぶやいた。
(思ったとおり、淫薬のような
男は童子のように眼をかがやかせた。
「変わったの」
辞色をあらためて反問したほどに、女は瑞々しくなった。
「はて、それは」
女は、ほろほろと笑った。その顔に匂うような艶がある。二人は日ごとに
女はおのれの躯の変化に驚いたものだ。乳房が片手でたわむほどはちきれた。湯巻の上から臀のまろみがあきらかに透けている。
無論、女もはじめからその気になったのではない。あの夜、陰陽師の
「もう、ゆくか」
先に目覚めていた男は、女の小袖をくるくるとぬがせた。襟をひろげた。
「なにをなさる」
「こうつかまつる」
と、
女は目を伏せ、当惑していた。
欲望を吐き出すだけの男は、女の上を幾たりも
急に気が萎えていった。
「これが前世からのさだめか……」
と気を取り直してみると、満更いやな苦行をしているのではない。ゆらい夫婦のえにしとはこういうものかも知れぬ。
女は男の出自も来歴も聞かされていない。男も好んで語ろうとはしなかった。ただ、名を尋ねたことはある。
男はちょっと鼻白んだ。
「
そう人は呼ぶという。
二
この年、京洛は旱魃が続き、各地で雨乞の祈祷がおこなわれた。しかし、さっぱりその効目は現れず、ついに都中の井戸が枯渇した。
鳰の海の竹生島へ徒渉できるとか、満月寺あたりでは
わずかに神泉苑の泉池だけが残った。この泉水は、平安京
しかし、雨はついに降らなかった。三日三晩続いたその祈祷も徒労に帰した。民草の顔は、どれも蒼くしぼみ死人のようにみえた。
陽は嘲笑うかのように三竿に昇り、峻烈な熱気を降り注いでいる。
「そうじや、竜神はことのほか
治部省の
楽の余韻は西山、北山、東山の尾根から渓谷に谺し
天はぴくりとも動かない。
「竜神はわれらを見放したか。御幣をこれだけ振ってもかなわぬものとは」
「もうわしらは干物になるしかないの」
ある者は白く
空は雲を孕むことを忘れたように、熱風を吹き上げている。
群衆の一角から一人の男がゆらぎ出たのはその時である。麻の
つとひれ伏すと、
「されば、申し上げまする。真偽のほどはわかりませぬが、水神や竜神を冒涜すると、雨が降るようでございます。水神を怒らせ大いに暴れていただくのでござる。たとえば、
「牛をどうする」
「
このような非常の際である。効目のありそうなことはすぐ始められた。釣鐘を引き出す縄がないというので、女たちは
集められた都中の牛も屠られた。祭壇からは
ところが西山の彼方にぽつりと黒い点が見えた。ずんずん巨きくなる。黒雲はまたたく間に広がっていった。人々はどよめきの叫びを上げ、手を握り合った。
やがて厖大な雨雲は、ついに天を覆い、待望の雨が沛然と地を叩いた。歓喜の声が都中に溢れていった。男の姿はその声に紛れて消えた。
「あれは狐狸妖怪ではない。
誰ともなく囁かれた
女は
——白珠は 人に知らえず 知らずともよし知らずとも
われし知れらば 知らずともよし
細い声である。どこかしら
「………」
女を呼ぶ声がした。
「わしじゃ……」
「あっ」
既に躯を抱き竦められている。ことりと杼が落ちた。
「お待ち下さりませ」
女は初めて
(なんということ)
うろたえてかぶりを振った。
躯は火照ってゆくが、このまま男のなすがままにされてよいものだろうか。昨日も、あれはこの世のものではない
女はかすかな声で訊ねた。
「竜神を差し招くとは、生身のお人とも思われませぬ」
「なんの、しさいはない」
男は鼻で嗤った。
「あれはの、ただ潮時と見ただけのことよ」
「潮時?」
「そうじゃ、よいか、千変万化この世の移り変わり、すべて末がある。花に三春の約あり、
「まあ、では……」
「あのとき、鐘など放り込まずとも、牛など屠らずとも雨は降ったわ。このわしが竜神を
三
大内裏の西北、一条大路を越えたあたりを北野という。古くから雷神が祭られていたが今日では菅原道真の霊を祀って、天満大自在天神などといわれている。五日ごとに市が立ち、たいそうな賑いをみせていた。
冬というのに都の空は巻雲がかかり、そのせいか天が一段と高くみえていた。
市のなかほどに、小袖に半袴の男が
そのとき、
童は火のついたように泣き出す。
あたりの人々はたちまち人垣を作って、このありさまを遠巻きにした。赤鼻の商人は猶も懲らしめようと拳を振り上げて、童を打とうとした。
その手を取った男がある。
「やめなされ、その童にも罪はあろうが、もう好い加減にしておきなされ。なんぼう仏罰があたりますぞ」
手にした刺高数珠をジャラジャラと押し揉んで、男は
「のう、
男は続けた。
「仏の功徳のためじゃ、その柑子ひとつ、童にくれてやらぬか。それ、まだ柑子は笊にいっぱい、溢れるほどあるではないか」
「あきれたことをぬかす坊主じゃ。たかがひとつというが、これは飯のたねじゃ。欲しければ銭を出すがよいわ」
商人は
男はそうか止むを得ずと頷いて、懐から銭を出した。商人からその柑子をひとつ受け取ると、振り返って言った。
「こう童、面白いものを見せてやろう」
その男は人垣を前に、見せびらかすように柑子の皮をむき、ほつほつひとりで食べ始めた。
「ほう、酸い味じゃがうまいぞ」
食べ終わると何やら手に小さい物が残った。
種子である。男は傍らにしゃがんで、ひそひそとその種子を土に埋めた。終わると、
「誰ぞ水を汲んで来てくだされ」
と声を上げた。気働きのよい女が、柄杓に一杯の水を差し出した。礼を言って男は受け取ると、種子を蒔いた土にびたびたと注いだ。
それから手の数珠を押し揉んで、滑らかに
たれもかれも息を殺して、じっと土の上を見つめている。すると、何やらもぞもぞと動き出して、苗色の芽が出た。ゆるゆる動いて双葉が出る。次第に大きくなって艶のよい葉を繁らせた。真言はまだ続いている。
赤鼻の商人も人垣をわけて、その様子を窺っていた。
じわじわ柑子の木は高くなっていく。やがて一丈ほどにもなったころ、こぼれるような白い花をつけた。芳香がする。と思うまもなく今度は散りはじめ、たちまち青い実をつけた。たふたふと大きくなった柑子はやがて色づき、枝もたわわに垂れ下がった。
その間、誰も声をあげるものはなかった。ただもう驚き呆れて、息を吐くのも忘れている。猿引などは口をあんぐりと開けたまま涎を垂らしていた。
男は眉毛も動かさず真言を終えた。
そしてしごく当然のことのように、柑子をもぎ取って人々に与えた。もちろん、童の手にもしっかりと載せてやったのである。
人垣は大きく崩れ、喜色を湛えた人々は去っていった。道端には、一木が残っているばかりである。男は
赤鼻の商人は、まだ熱に浮かされたように、ぼんやり立っている。とつぜん跳び上がった。我に返って笊を見ると、山盛りの柑子が見当たらない。箒で掃いたように悉皆、消え失せていた。
「なに、あれは
女は男の
自然は頬に若々しい血をさしのぼらせた。人を
女は聞きとれぬほどの声で訊ねたものだ。
「こなたさまは、まことに人間でござりまするか」
男は呵々と
「
「あれ」
妖婉な声を上げた。女の躯は
男は唇で耳を塞ぎ、右手で乳房を掴んでいた。指先を深く肉の奥に入れ、女の震えを感じている。すると闇の中の
快楽に沈もうとする躯を、いくたびも波打たせて、ふたりは折り重なった。貪るのは跡切れ跡切れの声ばかりではない。男は瞼を開けて、女の鼻梁から肩へ、さらに腰から
自然は目のさめるような思いで、この女を見ている。悶えながら声をあげ、にわかに躯の奥を溶かしたように、女は半身を鋭く反らせた。自然は小鼻をふくらませ、その声に聞き惚れていた。
四
京洛も水温む頃となり、吉野の花の噂も、ちらほら聞かれる麗らかな春の日のことである。如意ヶ岳には雲烟がかかり、山の麓では静かに陽炎がのぼっている。
清水寺あたりは、花を愛でる善男善女で埋まっていた。
白張の仕丁もいれば手無し姿の女もいる。立烏帽子に水干の男は、蒸し暑いのかしきりに
この清水は観音の霊場として老若貴賎の信仰も篤かった。常から人出がある。古来、観世音菩薩を本尊とした寺には滝が多いようである。この清水にも音羽の滝があった。
その滝を見下ろす岩かげに、男は立っていた。麻の衣をまとい刺高数珠を持っている。横の松の木には、どういうわけか一幅の画が掲げられている。
参詣の群衆は面白そうに、近寄ってそれを見た。そこには鳩が一羽、描かれてあった。ただそれだけである。しかし、人々がなおもそこを立ち去らないのは、その鳩が
色彩は華麗といっていい、
当代どこを探しても、これ程の品は見つからなかったに違いない。落款はと見ると
「ほう」
冷やかし半分に覗きに来た者は、きまってその一軸の前で
「あっ、動いた」
白張の仕丁が頓狂な声を発した。
「えっ」
「ほら、たしかに」
「まさか」
指さした老人が口火を切り、やがて居合わせた人々が次第に垣根を作った。口角に
するとそこへ、
やがて、横柄な口調で声をかけた。
「この一軸はおぬしがものか」
「いかにも、さようでござる」
数珠の男はかすかに頷いた。
検非違使は朗々と言った。
「気に入った。
群衆のざわめきが、驚きの声に変わっている。見物の目は検非違使に集まった。
「ほほう、これは味なことを申される」
数珠の男は大仰に驚いてみせた。顔には嗤いがある。眸を細めながら、
「お言葉ではござるが、これは売り物ではない。
と、取り付く島もない。
検非違使は
「わが別当殿への献上品にいたしたい。誉れであろう。売値はいかほどか」
「耳がござらぬのかの。見世商人ではないと申しておる」
半分、揶揄している。
不穏な雲行きを感じ取った群衆が後ずさりしはじめた。二人を遠巻きにする。
検非違使は、それでも諦めずに食い下がった。しつこく価を申せと、言い募ったのである。
数珠の男は根負けしたように顔を上げた。
「されば、曲げてお譲りいたそう。ただし、価は黄金一包。いかがかな」
「な、なんと、黄金一包とな。途方もないことをぬかす」
この日、検非違使は憤懣やるかたなく去った。けれど納まらないのは胸のうちである。酔いに任せて別当の屋敷に参上し、ついこの一件を物語った。別当は面白そうに終わりまで聴くと、眉宇をひそめた。妙案を練っていたのである。やがて検非違使に何やらぼそぼそと耳打ちした。
翌朝、検非違使は何喰わぬ顔で、黄金一包を差し出してその一軸を買った。
西山の峰には靄がかかっている。
数珠の男が黄金を懐に歩き出すと、いつの間にか一人の放免がその
数珠の男は気付かぬままに、七条大路を西へ歩いていった。ひたひたと、歩調も乱れない。やがて鴨川を渡り高瀬川を過ぎると、鬱蒼とした竹林にさしかかった。この道は陽もささぬほど暗く、人馬の往来も稀である。
ここぞと思った放免はあたりを窺うや、太刀を引き抜いた。相手は丸腰である。
「祝着至極。よい手並じゃ」
検非違使は黄金の重さを確かめると、放免をねぎらった。
「ひまどらぬうち、この一軸を別当殿に奉ることにしよう」
立ち上がったが、念のためにとその掛物をするするとひろげた。その途端である。バサバサと羽音が聞こえたと思うやいなや、一羽の鳩が検非違使の袖の下をすり抜けた。
「ああっ」
驚いて一軸を広げると、絹本の上には何ひとつ、
検非違使は思わず知らず、軸を取り落とした。激しく震えている。放免はあわてて太刀を抜き、しげしげと見つめたが、確かに仕留めたはずの刃には血のくもりがない。
「
放免の顔から血の気が引いている。二人はあたりをはばからず
あくる朝、検非違使は巡邏の一行から注進を受けた。花の盛りの清水に、またあの見世物が立っているという。半信半疑の検非違使は、放免を従えて恐る恐る覗きに行った。
あの男がいる。
同じ場所に、同じ光景が繰り広げられている。数珠の男は平然と顔を上げていた。二人を見つけると、にたりと嗤った。
「これ、そこのお方たち、この一軸はいかがでござるかな。黄金一包みならば、お譲りいたしてもようござるよ。ただし、
その声はまさしくあの男である。
検非違使達は蒼白になって逃げ帰った。
五
天に口なし、人をもって言わせよ、と誰かがしむけたのだろうか。あるいは面目を失った放免が、密かに浮説を流したのかもしれない。風聞が広まるにつれて治安を預かる別当としても捨ててはおかれず、検非違使を呼びいだし、見つけ次第とらえることを命じた。
自然居士は、逃げも隠れもしない。たちまち縄をかけられ、別当の御前に引き据えられた。
「名を申せ」
「自然居士」
べつに恐れるふうもない。
別当はいましめを解かせた。内心その
「おいでいただいたのは、願いの筋がござってな」
別当が促すところに、
一瞥して、自然が言った。
「この馬、さては衝立を抜け出るのでござろう」
「ほう」
驚いた。
「なぜわかる」
「よう御覧じろ。馬の
「では、この馬を静めてもらえぬか」
「いと易いこと。まず筆と墨を給れ。ふむ、出来れば硯は
そんな逸品が揃うはずもない。しかたなく舎人は有り合わせの文房具を並べた。
「やれやれ、金殿玉楼に起き臥しされて、このていたらくでござるか。さぞや目もあやな
自然は苦笑した。別当は顔をひきつらせている。
「このような茶墨は駄墨と申して、乾くと
咳払いをした。
大きな棟の木を描いた。それから馬に
「いかがでござる。これで最早いつぞやの鳩のように消ゆることもござるまい」
自然は上目遣いに別当を見た。
「ほう、おぬしは画法にも明るいとみえる」
と別当は言ったが、その顔は苦虫を噛みつぶしたように歪んでいる。胸の奥ではふつふつと恐怖心が沸き上がっていた。
(これは生かしてはおけまい)
さあらぬ態で、別当は慇懃に続けた。
「自然居士殿、話には聴くが、仏の行法のなかに真言の呪術というものがあるそうな。是非それをここで観照させてもらいたいが、いかがでござる」
自然は坐りなおした。なかば得意である。
「されば何をいたそう」
「ふむ。では、あの
頃は初夏である。しかも別当が指さしたその桜は、朽ちているのか幹に精気うすく、青葉若葉の影もない。自然は
居並ぶものは目を凝らし、息を呑んでいた。張り詰めた雰囲気が、
自然は己の姿に酔っている。
ところが、その屋敷の南の
和田は先程から、自然居士の
(面妖な。はて、どうしたわけか)
雲を掴むが如く、
やがて、ものの半時もたたぬ間に、老木は甦った。木肌が潤い、萌葱の花芽がつきはじめる。しばらくするうち、莟がふくらみ出した。衆人は色めきたった。ひとひら、またひとひら桜の花がひらいていく。まさに春のながめである。
しかし、この呪術はついにこれ以上すすまなかった。驕りの心が、自然の無想を乱したのかもしれない。真言を
(今夜あたり、訪ねてやらねばなるまい)
双ケ丘の麓に囲っているあの女である。
(あの
どれをとっても自然の
(あれは、わしの
これが、自然居士の不幸につながった。
まさにその同じ時、和田は
急に胸苦しさが失せた。自然居士の幻惑が落ちたのだろう。
「喝」
骨を
ほどなく、自然居士が別当殿の御勘気にふれ、ついに討ち止められたという風聞が流れた。双ケ丘に住む女の耳にも、当然ながら聞こえた。
それからしばらくして、女の姿も消えた。西国へ旅立ったというが
六
その年の初冬、二条大路を東に向かって歩いている一人の女があった。無紋の小袖に市女笠を冠っている。供の者はなかった。よく見ると衣は色褪せて挨にまみれている。眼はくぼみ頬はこけ、顔には
女は脂汗を滲ませながら、それでも歯を食いしばって歩き続けた。やがて西大宮大路も過ぎ、大内裏の朱雀門の前で、枯れ木のように倒れ伏した。事切れたのだろう。ついに起き上がらなかった。
京洛が疫病の巣窟と化したのは、それからひと月もたたぬうちだった。
真先にやられたのは、朱雀門にほど近い別当の屋敷である。知らずに別当は門前の
おそらく天然痘であろう。
筑紫太宰府を軸に蔓延した痘瘡が、都にまで飛散したのは、ただこの一人の女によってである。女が
別当のみならず、蔵人所の下役から検非違使、衛門府官人、
とまれ、疫病は止まるところを知らない。瞬く間に一条から九条、東京極、西京極と都大路を駆け巡り、その猛威を存分に奮った。
日没の
宮中では、霊験ある諸神社仏閣に
悪疫の
かつて女が佇んでいた仁和寺も人影は見えず、荒廃した堂宇に
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/08/25
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