弁天小僧
私は文士劇で弁天小僧を二回やった。はじめは歌舞伎座で稲瀬川の
「もう化けちゃいられねえ。俺ア尻尾を出しちゃうぜ」
と、初めて男の声でいって、窮屈な衣裳を脱ぎかかる瞬間の気持は、重罪人が許されて、監獄の外へ出たようにほっとする。全く女になるという事は大変な仕事だ。それでも歌舞伎には形と約束があって、姿の美しさが中心になるが、新派の女形は現代女性にも扮しなければならず、形の外の気持の表現が一通りの努力ではあるまい……と、僅か数分
「この見立は何だ」
と、黙阿弥の新七が、絵草紙屋の前に立って見上げた三枚続きも豊国の役者絵で、市村羽左衛門が
「何だか判りませんが、
と、弟子の新作も、絵草紙屋の店先に立って、風にゆれる
「おいでですか師匠!」
と、鞍馬の踏石に立って呼んだ。七十を過ぎた豊国は、目も耳も遠くなって、働き盛りの新七を羨しそうに、
「こりゃあ河竹さん。何と思ってこんな所へ。天神様へお
「いやいや、そんなのん気な話じゃありません」
と、買ったばかりの錦絵を示して、
「こりゃあ師匠の新作でしょう」
と、ずかずか座敷へ上り込む。豊国は細い目をしょぼつかせて、
「
と、満足そうに微笑する。
「緋縮緬の片肌を脱ぎ、桜の彫物を
「本当は男なんだ」
と、豊国も膝を乗り出して、
「この見立絵は、机の上の筆先の仕わざじゃあない。この絵のままの人間が、橋村の
「へーえ、面白い男がいたもんですね」
「頭は文金の高島田。根ががっくりと曲ったのを、
「一体其奴は何者なんです」
「まあまあ
と、豊国は目を細めて喜び、老妻を呼んで酒の支度を命じ、見立絵を正面に飾って不思議な物語りを始めた。
「ちょうどそれは去年の秋で、そろそろ名物の空っ風が、妙見様の森の梢を渡り出した時分です。仕事に
『豊国先生ですね。おかしな恰好をしているからお目に止まったんでしょうが、怪しい者じゃありません。わたしゃこう見えても男です』
そういう声が、成程男には違いない。度胆を抜かれてまごついていると、
『こんな恰好も今日限りで、明日からは前髪を落し、男になり切るつもりなんで、女は今日がお名残りです。もし好かったら、書きとめて置いては下さいませんか』
と、先方からいい出すじゃありませんか。
「それじゃア師匠。この見立絵を拝借して、狂言を仕組んでも好うござんすか」
と、新七が目を輝やかせていえば、
「いいどころじゃない。是非書いて下さいと此方からお願いしたいくらいだ。若太夫がこんな姿で舞台へ出たら、見物はきっと
「そうして、この男はそれからどうしました」
「其奴がね。実は私も探しているのだが、何処へ行ったか未だに行方が判りません。然しその晩は橋村の冷酒を飲みながらとっくりと身の上話を聞いてやりました」
「男の癖に女の恰好をしているのは、大方芳町の
「いいや違う。れっきとした
「浜崎屋なら、今でも繁昌しているじゃありませんか」
「
「そんな人がどうして又、女の姿をして居たんです」
「よくある奴だ。大店の御総領で、あんまり大事にしすぎたせいか、どうも体が弱くって、医者にばかりかかっている。芝口の三交堂という易者が、この子を無事に育てようとするなら男にして置いてはいけない。男でいると十歳までに剣難で死ぬ。十五歳まで女で置けば、必ず無事に育つだろうといわれて、父親の幸右衛門さんは、可愛い坊やの髪をのばし、亀戸の萩寺裏の寮へ連れて来て、女姿に育てたんです」
「成程」
「それが生涯の不幸になるとも知らず、子供可愛さの一念で総領息子の菊之助を、綺麗なお嬢さんにしてしまいました」
「菊之助とは、いい名前ですね」
「十五になっても男にはならず、十八九の水の
「面白い話ですね」
「あんまり噂が
お控えとは今でいう、二号の妾宅。大名ならば下屋敷、
「これはまアお菊様ではありませんか。こんなところで何をなすっていらっしゃいます」
と、お琴が口を切れば、お菊もにっこりと
「小鳥ですのよ」
と、萩むらの中にひそませた囮籠を示していった。
「それで、小鳥がつかまりますか」
「ええ、いろいろな鳥が来て、一日に三羽もかかる時がありますよ」
「ちょっと見せて下さいまし」
と、萩を分けて地境から、浜崎屋の庭へ入り込み、啼いている囮の頬白を面白そうに眺め出す。
「お茶でございますお嬢様!」
と、女中が
「おや、お隣りの御新造様。よくお出で遊ばしました。どうぞこちらへ……」
「いえもうお構い下さいますな。直ぐにお暇いたします」
「まあ、そうおっしゃらず、どうぞ少しはお遊びにお出で下すって。お菊様もお一人で淋しがっていらっしゃいますし、時折りはお訪ねいたそうかと、思う事もございますくらいで、お隣り同志ですから、御懇意にお願い申上げとうございます」
と、世馴れた女中の扱いに、
「それはもう願ってもない倖せです。お嬢様のような好いお友達が出来れば、どんなに嬉しいか判りません」
と、お琴も嬉しげに、
「ちょうどよいお近付きの糸口が出来ました。是非これからはよろしく」
と、お菊が手を取って、床几へ行き、女中の出す茶をすすりながら囮に集まる小鳥を眺めて日の暮れ方まで遊んで行った。隣同志の顔見知りで、会えば挨拶を交しているが、さ程親しくもなかった二人が、こんな事から糸口がついて、お菊も伊丹家へ遊びに行けば、お琴も浜崎屋を訪ねて来る。萩むらをかき分ければ自然に出られる心安さに若いお妾と町娘とは、不思議なつながりの友達になった。お琴はもと麻布市兵衛町の
「そろそろお迎えが来るでしょう」
と、淋しげにお琴が、
「今夜は旦那様がお留守だから泊って行って下されば好いのに」
「いくらでも泊って行きますよ」
と、お菊は嬉しそうに寄り添って、
「女中を使いに出し、戸締りするようにいって下さい。そして今夜は遅くまで遊びましょう。私はまだ芸者を見た事がないし、姉さんが柳橋にいた頃はどんなに美しかったか、一度は見たいと思っていたから、もしその頃の衣裳があったら着て見せて下さいな」
「おや、お菊ちゃんはまだ芸者を見た事ないの」
「だから、お姉さんが芸者になり、私がお客になって遊びましょう」
「それならば、少しはお酒も飲み、三味線も弾きましょうよ」
と、子供のように浮き浮きとはしゃぎ、柳橋へ出ていた頃の、仇めいた衣裳を着て、美しい
「さ、お酒を一つ上れ。お酌しましょう」
と、盃をとって酌をする。そして、
「お菊ちゃんは好い声だからきっと唄も上手でしょう」
「あい、先日憶えた淀の川瀬なら唄えます」
「もう遅いから爪弾きで弾きますよ」
とお琴が三味線を取って弾き、綺麗な声でお菊が唄う。萩寺の寮の外へは出た事もなく、世の中を知らぬお菊には、こんな遊びが楽しくてたまらない。お琴にしても、年上の源之丞に引かされ、まだ十九の若い盛りを、籠の鳥同様に閉じ込められ、淋しくてならない矢先へ願ってもない友達に、すっかり心を許し切って、
「まあ、何という好い声でしょう。綺麗だけではなく、女には出来ない渋さがあって、何ともいえなく情が深い」
と、うっとりと目を閉じながら、
「もう一つ唄って下さい」
と、又もや三味線を取上げて同じ曲を二度弾いた。女にはない渋さといわれた声に胸が狂って不思議な動揺を感じながら、
「もう唄えない。胸が少しどきどきして」
と、苦しそうに片手を突いた。お琴は驚いて三味線を置き、お菊にすり寄って肩を抱いて、
「苦しければ帯を解いて」
と、帯上げの紐を解こうとした。お菊は慌ててさえぎって、
「いいえ、大丈夫。苦しくなる程お酒を飲んではいない。唄を唄い出したら胸がつまって来て」
「それならいっそ、もう少し飲んでごらん。その方が却って気持ちが落着くかも知れない。さお酌をしましよう」
「でも、この上飲んだらもっと酔うのではないでしょうか」
「いくら酔っても好いではないか。どうせ今夜は此処へ泊るのだし、一晩中介抱をするから、さあ、もっとお飲み。盃を持って姉さんのいう事をきかないと許しませんよ」
と、なまめいた躰を寄せ、盃を持ち添えて無理に酒を飲ませようとする。年の違う主人を持って、何か心の満されないお琴が、お菊に寄せる気持ちには、奇妙な情愛の深さがあった。満たされぬ心の穴をお菊の中に求めて寄り添えば、ふんわりとしたお琴の胸へ、お菊の躰が沈んで行く。飲んだ盃を返しながら、
「私ばかりでは厭ですよ。姉さんも飲まなければ」
「ええ戴きますとも。お菊ちゃんの酌ならいくらでも喜んで飲む。正体もなく酔い潰れて、一晩中お菊ちゃんをいじめてやりたい」
と、両腕の中へ抱きすくめて、せつなそうな溜息をつく。お菊も、
「お酌をしますからもっとお飲みなさい」
と、抱かれた手を離そうともせず、躰の中にみなぎる変化を必死になって押えている。それは今までのお菊にはなかった不思議な情感で、女であるのか、男であるのか、判らぬ心の迷いだった。一箇所の不具を怪しみながらも、それほどの疑いも持たなかったのが、今夜のお琴の、艶めいた躰に抱きすくめられると、女の気持ちが少しずつ消え、男の意識が
「一体、私は何なのだろう」
と、お琴に抱かれて考えた。女の嘘と造り事には、辛抱が出来なくなりそうだ。
「飲みましたよ。今度はお菊ちゃんですよ」
と、盃を返してなみなみとつぐ。酔が深くなるにつれて、男の意識の強くなるのを感じながらもう避けようとはしなかった。つがれる酒をぐいぐい飲み、動悸のたかまりにも気をとめず、
「何だか目がまわって、家中がぐるぐる廻り出しました」
「何が廻ろうとも好い。女中ももう寝てしまって、起きている者は誰もいない。何をしようとも気兼ねはないのだから、心を許して遊びましょう。さあ、もっと飲んで、私の躰をしっかり抱いて」
「お姉さんを抱くの」
「今までは私が抱いて上げたから、今度はお菊ちゃんが抱く番よ」
いわれてお菊は、両手を拡げてお琴の躰を、腕の中へすっぽり包んだ。ふくよかな躰がゴムのようにはずんで寄りかかると、押え切れぬ男の意識が、むらむらと湧き上って、
「姉さん。私は本当に女でしょうか」
と、あえぐような声でいった。
「本当の女とは、何の事」
と、盃を持ったお琴の目がうっとり見上げる。お菊は隠すのが厭になった。酒に乱れた目と心が、長い疑いを払うように、
「私、自分の躰が不思議なんです」
「どう不思議なの」
「本当は女ではないのです」
「お菊ちゃんが女でなかったら、命を投げ出してしまっても惜しくはない」
と、酔にもつれた口元で、
「本当に男であったらどんなに嬉しかろう。私は麻布の駕屋の娘で、貧乏な親を助けようとして芸者になり、若い盛りを苦労にもまれて、楽しい思いなぞした事もない。少しは芸も憶え、これからは好きな岡惚れの一人も出来るかと楽しみにしていたところを、旦那様に身受けされてこの家へ閉じ込められて、外へ出る事も出来ない躰になり、暫らくは、世の風にあたる事も出来ないでしょう。お菊ちゃんとお友達になれたのは、全く地獄に仏で、逢う事が出来なかったら、人恋しさに狂ったかも知れない。こうして抱かれていて、これがもし男だったらどんなに嬉しかろうと思う時もありますよ。お菊ちゃんが男になる筈はないのに……」
「いいえ。私は半分男です」
「嘘にもそんな事をいってはいけない。お菊ちゃんが男と聞いただけでも躰中が慄えるじゃないか」
「私だってこんなに慄えている」
と、お琴の手をとって胸に乗せた。誰にも打ちあけた事のない心の秘密を、初めて口にする怖しさに、躰中を慄わせながら、
「本当なのよ。本当は男なの。私が生れた時、芝口の占者が、この子には剣難の相があって、十歳までは育たない。無事に成長させようとするならば娘姿にするがよい。女になれば剣難の相も消え、立派に成人するでしょう。と、いわれ、芝の本宅から亀戸の寮へ移され女になって育ちました。子供のうちは女と思い込んでいたけれど、姉さんを知るようになってからは、だんだん男の気持ちに返るのです。姉さんを抱きながら、胸の
と、お琴の胸を抱き締めていった。
「本当なんですか」
「こんな事をいうのも今が初めてです。姉さんと遊ぶようになってから、女でいるのが苦しくなり出したのです」
「それがもし本当なら」
と、振り向いた目がきらきら光って、
「本当に男なら、男であったら」
と、狂ったようにいいながら、するすると紐をとき、ゆるんだ襟元に手をさし入れた。
「あれッ」
と、身を縮めても避けようとはしない。くつろげた襟元の女で育った優しさの底に、男の躰の骨組みが、お琴の指にちくりと触れた。
「あれ、あれ」
と、身を揉んで、畳の上に崩れ伏す、お菊の躰を見つめながらお琴は行燈を吹っ消した。
萩が散って空が高く澄み、逃げ水が庭の後を走り出す秋になった。浜崎の寮も、伊丹の控え家も表は変った事もなく、秋日の中に穏かであり、お菊は美しい娘姿、お琴はつつましやかな御新造で、花を生けたり、三味線を弾いたり、誰の目にも仲がよく怪しまれる事がなかったが、心の底のもの思いは昔と全く変っていた。夜になればお菊は必ず伊丹家へ行き、奥まった座敷の中に、深か深かと屏風を立てめぐらし、家人の目を避けながら、ひそひそと
「何というお仲の良いことでしょう」
と感心する者はいても、非難めいた蔭口は一つもない。
が、人目を避けた奥座敷の、ほんのりと暗い行燈の影に、夜更けて向い合うお琴とお菊は、女同志の遊びではなかった。禁断の
「女でいるのがだんだん辛くなり出した」
と、お菊は悲しげな溜息をつく。初めて知った喜びの一夜は、埋もれていたお菊の胸に、激しい炎を燃えあがらせ、消えて行く日がなくなってしまった。
「さりとて、男と知れたら逢うことが出来なくなります」
と、お琴は今にも泣き出しそうに、
「そうなったら、私は死んでしまいます」
「それは私も同じで、姉さんに逢えぬ程なら生きている甲斐もない」
と、お菊の声が何時とはなく、男の響きに変り出して、
「此頃では、
「その日が来たら私も此処を出て行きます」
「然し、早まってはいけません。相手はお侍なのだから、もしも知れたら、どんな事になるかも判らない」
「出来るだけ知れぬようにして行くけれど、幸抱が続かなくなったらどうしよう」
こんな繰りごとも一夜でなかった。逢う瀬が重なれば重なるほど、心の思いがまさるばかりで、誰の目にも気付かれぬ愛情は、日とともに強くなり、知れまいと思う女中達も、何となく怪しみ出して、
「このごろのお琴様とお菊様は、ただ事と思われませぬ」
なぞと、いい出す声も耳につき、やがては源之丞の耳へも入った。彼が亀戸へ来る日にはお菊も傍へ近寄らぬが、留守になると入りびたって、泊って行く夜も次第に多く、お琴の態度も少しずつ変って、源之丞の帰りをば喜んで迎えた昔はなく、
「お帰りなさいまし」
と、言葉だけで、態度は何となくよそよそしい。くつろいで酒を飲もうとしても、気持ちが沈んで明るさが見えない、
「躰でも悪いのか」
と
「いいえ」
と、答えて打ちしおれている。お琴には源之丞が堪えられない。同じ部屋に眠るのかと思うと肌に粟を生ずる思いだ。その思いが顔へ浮ぶと気附かれぬ筈はなく、
「お前は少し人間が変ったようだ。私の顔を見ると何時もふさぎ込んで、嬉しげな色を見せたことがない。躰の具合が悪いのであれば、医者を呼んで見せてはどうだ」
「そのようにおっしゃるのなら一度見て頂く事に致しますが、何処も悪いとは思いません」
「それならば、心に悩んでいる事でもあるのか」
「いえ、何もございません」
「何もないのなら、今少し気持ちを明るく持ち、くよくよと悲しげな顔をするな。気持ちが暗いと卑屈になって、やがては人にうとまれるぞ」
と、戒められ、済まぬとは思いながらも、沈む心をどうしようもなく、源之丞が出て行けば直ぐにお菊を呼びにやる。お菊も待ち兼ねたように走り寄って、
「昨夜はさぞ嬉しかったであろう」
とか、
「思いのまま可愛がって頂いたのであろう。どのような事をして楽しんだか教えておくれ。私はまだ何も知らぬゆえ教えて貰わねばならぬ事がたんとある」
なぞと恨みがましくいう声に、男とも女ともない不思議な執念がからみついて、源之丞の帰った朝は、昼のうちから閉じこもって、部屋の外へは一足も出ない。
浅野家の上屋敷は、霞が関にあり、源之丞の住居も屋敷うちにあって五日に一度ずつ亀戸へ行く。行く度毎に疑いを持って、それとなく女中達にもいい含め、平素の生活を問いただすと、
「外へ出た事もなく、訪ねて来るお客様もありません。お出でになるのは隣家のお菊様只お一人で、一晩中奥の間に入り、むつまじそうにお遊びになっていらっしゃいます」
と、いうばかりで怪しい事もない様子だ。が、只一人のお菊と、夜更けるまでむつまじく語り合うというのが、何となく
「あれ、旦那様、どう遊しました?」
と、驚く女中を押えながら、
「声をたてるな、お琴に知らせてはならぬ」
「でも、お知らせ申さないと叱られます」
「いや好い、棄て置け」
と、小声で叱って、
「浜崎のお菊がいるであろう」
「はい、いらっしゃいます」
「奥の間か」
「はい」
「声を立てるな。廊下へも出るな」
と、女中部屋に押し込めると、足音を忍ばせて奥へ行った。が、部屋の中には物音もなく、たまさか聞える
「いやだ。私はもういやだ」
と、お菊ではない別の声が、まぎれもなく男の響きだ。
「この上嘘を続けたくない。私はもう男になる」
「今更そのようにいっても困るではありませんか」
「いや。芝の本宅へ戻って元服し、男になって夫婦になる」
と、廊下へ洩れる男の声を押えるお琴の泣き声が
「あれっ」
と叫ぶお琴の悲鳴。
行燈が倒れて真暗になった。引き戻して二度目を横に払ったが、屏風の角を少し斬った。その間にお琴とお菊とは、次の間へ転び出た。追いかけて刀を持ち替えるはずみに、油さしが足に触れると、つるりと辷って手をついた。途端に刀が廊下へ飛んだ。ころがる一刀を拾いあげると片手をついた源之丞へ、躰と一緒にぶっかった。何のたしなみもないお琴の、躰当りの一突きが、脇腹の急所深く刺した。
「うむ」
と、うめいただけで声もなく、片手をついたそのままの姿で、へたへたと畳に崩れ落ちる。
「お菊ちゃん、お菊ちゃん」
「菊之助とお呼び」
暗い中できっぱりいった。男になりきって這いよりながら、
「突いたんだね」
「一突きで息が止ってしまったんです。みんなはずみです。旦那が斬ろうとなさるから、逃げるはずみにこんな事になってしまったんです」
「もう息の根が止ったのか」
「夢中で突いたのが急所へ当ってしまいました」
「逃げよう。今の物音で女中たちも起きて来る。見つかったら命はない。今の間に外へ出よう」
「逃げてもつかまります。私は此処で死にますから貴方一人で行って下さい。私はどうなろうと構いはしない。お前の身に間違いがあったら、それこそ死んでも死にきれない。どうか一人で逃げておくれ」
「馬鹿な事をいえ。今更お前を殺す程なら、こんな苦労をするものか。今までと違って私も男だ。お前一人の罪にはさせぬ」
と、気強い声でお琴を起し、あり合う男羽織を引かけて外へ出た。秋も末の十一月、曇った空には星影もなく、枯れ萩を踏みしだいて萩寺裏の小道へ出た。
「まあお前。
「野暮な羽織を着ているから見えなかろう」
「その頭では怪しまれる。手拭いで隠して行って……」
と、頭を包んで土手を上って、妙見様の表まで来ると、夜風にパラパラと雨がまじった。
「こりゃいけない。降り出して来た」
「何処かで一休みして下さい。その間に
と、指さした境内の、木がくれに見える灯が茶屋橋村の行燈だった。菊之助を店先へ突き入れて、
「駕の来るまで此処を離れちゃいけませんよ」
と、小雨のぱらつく境内を、小走りに駈け出して行った。
「お琴が駕を呼びに行った後、息つぎの冷酒を飲んでいるところへ、私が入って行ったんです。亀戸に長くいる者で、浜崎のお嬢さんを知らない者はありゃアしない。その美しさは亀戸中に響いていたから、この物語りを聞いた時には、私も全く
『どうせ私達も長い命ではありません。たとえ今夜は逃げのびても、
と、こういうのです。好いとも好いとも、噂のほとぼりのさめるのを待って今夜のお前の不思議な姿を、必ず描いて上げますと、約束をしてやると、さも嬉しそうにうなずきながら、
『三代目の大師匠に描いて頂ければ、この上思い残す事はありません。今日が女の別れかと思うと、何だか名残りが惜しくって、何処かで頭の毛を斬る時には悲しい心持ちがするでしょう。女と男の真中に居て、どっちつかずの人間だったのが、飛んだ間違いをし
と、淋しそうに笑った時、お琴が外から声をかけて、
『お前さん、駕が来ましたよ』
と、暖簾の蔭からいいましたが、その声はもう全く菊之助の女房になり切って居りましたよ」
「面白い話だねえ」
腕を組んで聞いていた新七が、小さな
「面白いでしょう。そのまま芝居になるような話じゃありませんか」
「然し、女と思って惚れ込んだ相手が、男であった嬉しさは、こいつは師匠、芝居じゃ書けません」
と、謹厳な新七が、苦笑いを洩しながら、
「そうして、お琴と菊之助さんは、それからどうしたんです」
「それが皆目判らない。まさか浜崎屋へ聞くわけにもいかず、それとなく様子を捜って聞いて見るが、未だに手がかりは何にもない」
「殺された伊丹さんの方はどうなりました」
「そいつがね。浅野家のお留守居が、妾の家で殺されては、それこそ家名に
「それじゃア只の殺され損か」
「娘のお美加さんが養子を取って後目を継いだという噂だが、病気で事を済ませた上は、菊之助さんもお琴さんも、何の罪にもならないそうだ」
「私が仕組んで舞台へのせても、お二人のお身上に疵のつくような事はないでしょうね」
「さあ、そいつは何ともいえません」
と、首を捻って豊国も、何やら少し不安そうだ。が、
「まさか菊之助さんを、そのままに書くわけでもありますまい。どうせ面白く作るのだから、思い切ってやってごらんなさい。何か事が起ったら、又その時の話にしようじゃありませんか」
と、
「菊之助という名前をそのまま使ったのは乱暴じゃないか」
といったが、新七はむしろ首を振って、
「本名を書いて置けば、御当人が見に来やアしないかと思い、わざと名前を使いました。今じゃア男でいるだろうが、会えたら話が訊きたいと思い、内々楽しみにもしているんです」
と、大当りの見物席を見渡して、
「お蔭でこんな大当りを取る事が出来ました。みんな師匠のお力で、有難うございます」
と、後年の黙阿弥が両手をついて礼をいった。市村座の弁天小僧は四十数日を打ちつづけ、近年にない当りであったが、そのモデルの菊之助は、豊国の香蝶楼へも、市村座の新七にも遂に姿を見せなかった。
こうして数年の月日が流れて、元治元年十二月には歌川豊国が世を去った。間もなく徳川が
十三代目の羽左衛門は尾上菊五郎を襲名して明治三年の正月に、二丁目の森田座で二度目の弁天小僧を上演した。この時に新七は五十五歳、初日の桟敷に坐りながら、亡き豊国の面影を偲び、すぎ去った昔をなつかしんでいると、芝居茶屋の小女が、
「お師匠さんにお目に掛りたいといって、尾張屋の二階にお客様が待っておいでなさいます」と知らせに来た。
気軽く尾張屋の二階へ行くと、見知らぬ美しい青年が新七の来るのを待っている。
「
と、問いかける声も待たずに、
「弁天小僧菊之助です」
と、笑いながら青年はいった。その一言に新七は、さっと顔色を変えながら、
「それじゃア亀戸にいた浜崎屋の菊之助さんじゃありませんか」
「はい、お初にお目にかかります」
「そりゃアまアよく来ておくんなすった。是非一度はお目に掛りたいと思って居りましたのに……」
「私も是非御礼を申上げたいと思って居りました」
「飛んでもない。お礼は私がいわなきゃアなりません。亀戸の師匠の見立絵から、貴方の身の上を聞かせて頂き、そのお蔭でこの狂言が出来ました」
「お師匠さんも惜しい事を致しました。もう一度お目にかかりたいと思いながら、お会いする時もなく、未だに心に残っています」
「そうして、今はどちらにお住いです」
「芝の
「ええええ、何なりともおっしゃって下さい。私に出来る事ならば、弁天小僧のお礼代り、どんな事でもいたしましょう」
と、話しながら姿を見れば、素性の好さに品があって、女で育った昔の影がどこかに薄く残っている。
「河竹さんのお住いの近くの矢大臣門に、伊丹屋という酒屋がございます」
「へーえ。その酒屋がどうしました」
「ご存じでもございましょう。萩寺の控え家で、命を落した伊丹源之丞の娘さんが御一新になりましてから、商人になって酒屋を始めたのです」
「そりゃ又、思い切った事をしましたね」
「亀戸の師匠からお聞き及びになった通り、お気の毒な末路を遂げて、お琴も私も未だに気になって堪りません。殺された伊丹様に悪い事は一つもなく、罪は私達にございますのに、何の報いも受けないばかりか、のめのめ生きておりますと、気が
と、旧幕時代の小判百両を、膝の前に置いて言った。
「成程ね。考えて見ればお前さん方が悪いので、伊丹さんには何の罪もなかった筈だ」
「それだけに、何だか世の中へ申し開きの立たない気がして、気持ちが悪くってならなかったのです」
「然し、私もまだ伊丹さんには、会った事もなければ顔も知らない。金を預かるのも気になるが、
「有難う存じます。どうぞお願いいたします」
「そうして、お琴さんはどうなさいました」
「はい。実は、今日の芝居をこっそりと拝見して居ります」
「そりゃ丁度好い。一寸会わせて頂こうか」
「いいえ師匠、会わずに置いてやって下さい。お目にかかって昔を思うと罪の深さが辛いのです」
「成程。それじゃアお目にかかるまいが、どうぞ二人が末長く、仲よく暮して下さいましよ」
「有難う存じます。お師匠様もどうぞ御健勝に」
と、
そして又、長い月日がゆっくり流れて、明治二十六年の一月に、河竹新七の黙阿弥は、七十八歳の生涯を終った。葬儀はその月の二十四日、浅草清島町の源通寺に一族だけの密葬だったが、密葬とはいっても、一代の大作家を送る人の数は少くない。その葬列の人に混って、黙阿弥の親族や、芝居の関係者にも縁のない二組の夫婦が、源通寺の本堂の、はずれの畳に坐っていた。一人は芝愛宕下の呉服商中浜菊之助と妻のお琴、それに並んだ一組は浅草馬道の酒商人伊丹利彦と妻のお美加だ。菊之助夫婦も早や五十に近く、白毛の混る髪の毛に昔の名残りをとどめながら、宿縁の伊丹遺族と並んで坐って黙阿弥の霊を送った。が、二組の夫婦は、お互いの身の上を知り合う筈もなく、一月の末の寺の畳に、肩を並べて坐りながら、一言の言葉も交さずに、やがて又、別れ別れに帰って行った。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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