世界状況と芸術の啓示性
序
1919年に『文化の神学の理念について』を発表したティリッヒは、次いで1926年に『今日の宗教的状況』を、更に1945年に『世界状況』を発表している。いわゆる時代批評としては、他に16篇を数えるが、いずれも「文化の神学」の成果(1)を適用し、具体的、具象的次元での議論の展開ではこれらの二論文はその代表的なものであろう。ティリッヒの弁証神学の根幹にあるのは、人間の本質主義的要素から疎外された実存主義的要素を指摘し、そこから生じる問いに答えるという方法論である。しからばその指摘する実存的状況の分析の妥当性が問われなければならない。『世界状況』においては状況の一般的性格規定に続いて、文化的生活に反映した状況、経済的、政治的、国際的諸領域での状況、知的領域における状況などが分析される。
これらの状況分析で特徴的なのは、「ブルジョア精神」あるいは「ブルジョア社会」という概念がキーワードとして用いられていることである。ブルジョア精神とは言わば、有限の中に安住する精神であろうが、本論では、特に「ブルジョア社会」の発展段階を示すティリッヒの見解を先ず分析する。次に絵画が共同体における個人をいかに描写し、それが時代の性格をいかに表現しているかを検証する。更に芸術と人間の精神的状況との関連に触れる。そして、そのような状況分析に実存主義文学や絵画の果たす啓示的性格、予言的性格が無視できない点、及びブルジョア社会の反映である印象主義に対するティリッヒの批判の根拠を明らかにしたい。
Ⅰ ブルジョア社会の発展段階
ティリッヒは、四分の一世紀の間に二度の世界大戦を経験したことは「いわゆる世界が一つの歴史的現実(historical reality)になったことを示している」(Tillich[1945], p.165)とし、歴史的な世界は、人類を形成するあらゆる集団が相互に依存し、その結果、世界のある一部で生じた出来事は、あらゆる他の部分にも直接影響を及ぼすとしている(ibid.)。
現在でも世界的に発達した交通網、世界的な規模での貿易やグローバルなスケールを有する大企業、あるいは国際政治上の諸関係を考えれば、そして更にティリッヒは触れ得ていないが、世界的な規模での通信網の加速された発達に伴う情報の、即時的交換が可能となった事実を考慮すれば、一つの世界の存在という認識は一層現実的なものとなっている。世界の相互依存性や形式的な意味での一つの世界は考え得るが、ティリッヒは1945年の時点では、精神、文化、組織、目標の統一は何ら存在していないと指摘している(Tillich[1945], p.166)。
しかし、現時点では、例えば文化や組織や目標の統一は、徐々にではあるが進行している。無論、中国やインドや中近東諸国の、独自な文化の尊重という主張によって、文化的統一などという発想それ自体に、多くの疑問の余地はある。しかしながら、環境や自然破壊に対抗する闘争や国際的諸機関の充実、経済的相互助成の創設、あるいは世界平和維持軍の創設など、世界共通の目標の統一は少しずつ段階的に実現しつつある。このような歴史の可変動性を越えて、近代史に内在する状況の中心的課題をティリッヒは、『世界状況』において提示している。
即ち現在の世界状況は、いわゆる「ブルジョア社会」と名づけ得る社会が勃興し、勝利し、危機に瀕したことによって生じたというティリッヒの独自な世界状況の解釈とその視点が、次のように展開する。まさにこの点にティリッヒの状況分析の特質がある。
1945年の『世界状況』において、ティリッヒは先ず世界状況の一般的な性格を規定している。そして、現在の世界状況はいわゆる「ブルジョア社会」を三つの時期に分けて分析することにより認識されるとする(Tillich[1945], pp.166-167)。これは『今日の宗教的状況』における論点の継続性を示すものである。
ブルジョア社会の発展は、三段階にわたって遂行され、ティリッヒによればその第一段階は、新しい社会が自己を確立しようとして、残存勢力である封建秩序と争っている段階であり、ブルジョア革命の時代と称される段階である。第二段階では、ブルジョア社会の勝利の時代が実現し、生産と通商の世界機構が作り出されている。そして第三段階は、工業社会の支配によってもたらされた自己破壊の諸勢力を再度支配する力を回復しようと戦っている段階であり、いわゆる文化の危機の時代である。こうしてブルジョア社会の崩壊と変質とが、現在の世界状況のダイナミックな中心点であるとティリッヒは分析する。その上で、このブルジョア革命期の指導原理を作ったのが理性に対する信仰であり、自然と社会とを支配する人間が理想とされた点をティリッヒは強調する。また、この理想はルネサンスの人文主義的理論に由来し、絶対主義(2)の守護の下にあって成熟し、ブルジョア革命によって成就したのだとティリッヒは指摘する(ibid.)。即ちフランス革命時には「理性」が女神として崇拝され、人間は全て理性的存在であって、自立的能力を持つという共通認識が存在した。封建主義、絶対主義、独裁制に対する戦いの中から近代世界が出現したが、そこには暗黙の前提があった。その前提とは、ティリッヒによれば、個人と社会との間に一つの調和の体系が発展するという信仰(3)である。この信仰は自動的調和の原理(principle of automatic harmony)があらゆる生活領域の中に出現するであろうという信仰である。例えば、経済の分野で、各個人が何らかの制限もなく自分自身の経済的利益を追求すれば、社会の福祉は最善の仕方で繁栄するだろうという信仰である。これが経済の自由放任主義の根本原理である。あるいは政治的判断においても、多数派の市民が引き出す正しい政治的決断に自動的に導かれ、利害の共通性が健全な民主主義的施政を守ると信じられたのである。国際政治の分野では、一つ一つの国民の利害を自由に競争させれば、そこから主権国家相互間に比較的安定した力のバランスが生まれると考えられ、教育の分野では、人間本性に属する合理性が、各個人の自由な表現を通して、一つの調和ある共同体に導くだろうという視点が支配的であった。これら全ての分野に支配的な理念はライプニッツやその学派が展開した「予定調和論」(4)において哲学的に表現されているとティリッヒは指摘する(Tillich[1945], p.167)。これは、われわれが個々のモナド(単体実体)として相互にコミュニケートすることが可能なのは、神的根拠へとわれわれを結びつける「予定調和」によってのみであるとする思想である。これがブルジョア革命を推進した全ての精神的、政治的指導者の信仰であり、現実がその信仰を確証しているように思われたのである。経済、宗教、政治、教育のどの分野でも、個人的理性が解放された結果として破壊的な方向には向かわなかった。逆に膨大な想像力が解放され、17世紀の数学は驚くべき進歩を示し、自立的民族国家が発展し、社会倫理と個人倫理の中に自然法(5)が樹立された。これらの事実が熱狂的な理性信仰を正当化し、調和の法則が現実の本質を表現し、この信仰の力により新しい社会は封建主義と絶対主義に勝ち、19世紀ブルジョア階級の勝利の時代が到来したというのがティリッヒの分析である。
理性は人間の内でも外でも自然を支配し、それは自然と理性とは本質的に調和しているという信念に基づくテーゼであった。しかしブルジョア革命が成功すると、革命の精神的昂揚、あるいは革命の推進力は消滅し、指導原理としての理性の性格も変質した。新しい支配階級は封建主義や絶対主義の残存部分と妥協し、真理と正義の原理であった理性を犠牲にして技術社会に役立つ道具として使用し、この「技術的理性」(6)が新しい生産体制、商業体制の道具となったというのがティリッヒの見解である(Tillich[1945], p.168)。
確かに人類は物理的な自然の支配について更に研究を進め、「技術的理性」が利用に供した種々の手段により全世界に巨大生産と経済競争のための広大な機構を建設した。グローバル企業や大企業の出現がこれを実証している。ところがこの機構が物理的自然に対する「第二の自然」という形態をとって人間を隷属させるに至っている。つまり物理的自然を巧みに管理する間に、人類は「第二の自然」の支配には失敗しつつあるとティリッヒは分析する。人々は個々の労働力の単位となり、少数者の利益と多数者の貧困とがこの体制を推進し、生産と消費のメカニズムの動向は、非合理で予測不可能なものとなった。このメカニズムは、大衆の理解し難い運命として彼らの生活を規定し、その水準を引き上げはしたが、反面この運命が、極度の困窮と慢性的失業という不安の感覚も生み出している。人間理性は今や人間の歴史的実存に対する支配力を喪失し、このブルジョア階級の勝利の時代の特徴を示している。二度の世界大戦と、それがもたらした心理学的、社会学的諸帰結がこのことを明示していて、このブルジョア社会の自滅が現在の移行期の特色である。ブルジョア社会の動態(dynamics of bourgeois society)が、このように非常なスピードで現在の世界状況を形成したというのがティリッヒの視点である。この状況は、ヨーロッパの工業国、アメリカやイギリス、そしてロシアやアジアでも支配的である。特にロシアとアジアでは近代的な社会発展の第一段階から一挙に第三段階へと飛躍する方向へと向かい、封建的、権威的社会から全体主義的秩序への飛躍を示しているとするのがティリッヒの分析である(Tillich[1945], p.169)。ブルジョア社会の発展段階を歴史的に考察すれば、アジアの中でも日本は異質であり、中国が示している社会主義体制の中での市場経済やゴルバチョフからエリツィンを経て現在のプーチン体制下についても若干異なる視点が必要であるが、1945年以前の視点でとらえられた世界状況の把握ではこれらが抜け落ちているのは当然であろう。しかしブルジョア社会の自滅という視点は世界的規模において妥当する。
第三段階においては、ブルジョア社会の基礎を成した個人の利益と一般の利益との間に自動的調和が存在するという信仰は崩壊する。というのも、この調和の原理の妥当性は特定の諸条件に依存していたにすぎないからである。諸条件とは、先ず様々な伝統的価値や制度が継続的な力を保持し、調和の原理がもたらす破壊的帰結に十分対抗し得る強さを持っていることである。次に自由経済がその強さを増加させ、封建的、絶対主義的残滓が力を持続させていることである。更に、社会生活の全体が市場体制に変質してしまうのを抑制できる強さを持続させることなどである。これらの諸条件が取り外された時、自動的調和の原理はそれ自体として不十分であることが明らかとなり、この原理に替えて「計画経済」(7)が採用され、一部の国々は「第二の自然」を支配し得る「合理化」に着手する。
その第一歩が全体主義であり、その一つの形態がファシズムである。ファシズム体制は自動的調和の原理が崩壊した事実を把握し、大衆の生活を守るための計画的組織化を実現しようとし、その点ではブルジョア社会を一歩越え出たと言えよう。しかしこのファシズム体制も技術的理性を最大限効果的に用いたが、その土台が極端な民族主義であるため、かえって人類の分裂を促進した。特にナチス・ドイツのプロセスを考慮すれば、このことは明らかである。
計画社会に向かうもう一つの体制は言うまでもなくソビエト体制である。ファシズム体制の部分的成功と同じ理由で、しかもファシズム体制が与えた以上の大きな安全性を志向して、この体制はある時期成功した。しかしこの体制も絶対主義への回帰というプロセスを辿り、官僚支配の手中に陥り、個人の自由は失われた。
これら二つの体制は、自動的調和を信じたブルジョア的信仰に対する反動であり、両義的(ambiguous)であるとティリッヒは分析する(Tillich[1945], p.170)。即ち、一方で予測不可能な世界経済のメカニズムを人間の支配下に回復させようと試みるが、他方ではブルジョア社会の第二段階で生じた自己破壊的諸力を強化している。そしていずれの体制も技術的理性を「計画する理性」(planning reason)に引き上げようとする。この「計画する理性」こそ第三段階の、即ちわれわれの現在の世界状況を規定している原理である。
「革命的理性」から「技術的理性」を経て「計画的理性」にいたる理性の発展の中に、生存を賭けたブルジョア社会の論理が見られるとするティリッヒは、この発展はもはや逆行できないと主張する(ibid.)。即ち何らかの半封建的絶対主義へと回帰することも、経済上のリベラリズムである自由放任主義に表現された自動的調和にもどることも出来ない。つまり現在の世界破局は、既存状態を再建するのに必要な政治的、社会的諸条件を破壊したのであり、残された道は、「計画的理性」のイニシアティブの下で全体主義的絶対主義を回避し、リベラルな個人主義をも回避する社会組織を打ち立てることだとする。
現在の世界状況が有する一般的性格が、人間実存の全ての面を規定し、その規定の外にある分野は一つもないとするティリッヒの状況分析は、その発想の根底に、啓蒙主義がもたらした諸問題を意識してのことであろう。それはまた、「理性の自律」についての再考をわれわれに要請するものである。
Ⅱ 視覚芸術における人格の表現
人格と共同体とは、両者とも相互依存の関係にあるが、それらはあらゆる社会構造の実体であり基礎でもある。ブルジョア社会では、封建主義と絶対主義に勝利すれば、その結果として完全に発展した自律的人格が生み出され、同時に人格的自由へと解放された万人の真の共同体を生み出すという信仰が支配的であった。
自動的調和の原理がここでも生きていて、調和のとれた社会が保証されると信じられたが、「この人格と共同体の関係という問題においてまさにブルジョア社会はその破壊的影響を最も明白に表わした」(Tillich[1945], p.171)というのがティリッヒの見解である。そして、この視点を「芸術は精神の状況がいかなる状態にあるかを示す。芸術はそれを、科学がなすよりも更に無媒介的、直接的に示す」(Tillich[1926], p.47)(8)という『宗教的状況』において示したテーゼによって次のように解明する。
ティリッヒは先ずレンブラント(9)(1606-69)の肖像画を例証し、特に後期レンブラントの諸肖像画に見られるのは「自己完結した世界」のような様々な人物像だという。強く、孤独で、悲劇的だが破れてはいない。それぞれの顔の特徴が示すのは、独特な人生史の跡である。そしてそれらは人文主義的プロテスタンティズムがかつて持っていた人格の理想像を表現している。レンブラントは、バロック様式時代の画家である。アムステルダムの肖像画家として知られ、カラバッジョの明暗表現を採用し、より内面化して、個人のみならず集団を成した群像の肖像も数多く描いた。特に1669年の≪自画像≫において、際立った精神性を表現し、個人の歴史がまさに刻み込まれた印象が強い作品である。だがジョット(10)(1266-1337)の描いた聖フランシスコや修道士達はそれぞれの個人的な性格や経験を超えて、人間がとらえられ、高められている神的力を表現している。ティリッヒは、ジョットの絵の人格に関して、「超越的リアリティとの関わりが、個人の生活に対して意味と、中心と、内容とを与えていた」と書いているが、これは主としてジョットの時代と、その作風が意味し、啓示するものについての主観的考察である。ジョットはルネサンス期以前のゴシックとビザンチン様式が優勢であった頃の、イタリア最大の宗教画家であった。つまりレンブラントとジョットにおける二つの世界の対比をティリッヒは強調する。時代的にレンブラントとジョットの中間にあったティツィアーノ(11)(1488/90頃-1576)には、このジョットが示した人格や感情を超越的リアリティに屈服させたような画風は消え去り、ヒューマニズムそのものを個性的に表現し、人間の偉大さ、美しさ、力強さが強調されている。しかし、その後のレンブラントが示した初期ブルジョア精神の人格は未だ姿を表わしていないとティリッヒは見ている。彼ら三人は、近代世界における人格の理想を、それぞれの古典的方法で表現しているとティリッヒは指摘する(Tillich[1945], p.172)。
19世紀半ば以後の肖像画に関しては、ティリッヒは具体的な画家の名を挙げていない。ただ概括的にその特質を、高度に発展した知性と強烈な意志を持ち、技術的理性の保持者、世界経済と巨大な独占の創造者、自然の諸力の征服者、資本主義社会というメカニズムの匿名の指揮者であるような人物像というものを記述する。そして、この意志の力と技術的理性とが結合し、ファシストの人間類型(12)へと向かう道が準備されたとしている。
こうした人物は19世紀後半から20世紀初頭における政治的、経済的に世界を牽引した現実の諸人物を想定しての描写であろう。実際に肖像画として残されているものもあろうが、ティリッヒのこの記述の目的は例えばジョットの時代には超越的リアリティとのかかわりというものが、個人の生活に対して「意味と中心と内容とを与えていた」(ibid.)こと、即ち、「神的根拠」における人間の結合が現実に存在したことを強調するためであろう。またティツィアーノの作品を通して「人間的なものの神性と、神的なものの人間性(humanity of the divine)に対する信仰が意味の中心に備わっていた」(ibid.)ことを実感し、レンブラントの諸作品に描かれた人物像からは「悲劇と最後の希望を持った人生の経験が個人の実存の中に刻み込まれていた」(ibid.)ことを読み取った事実を明らかにすることであった。それによってティリッヒは19世紀のブルジョア階級の勝利の時代においては、14世紀のジョットが描いた人格、16世紀のティツィアーノが描いた人格、そして17世紀のレンブラントが描いたような人格が、消滅したことを示している。そしてブルジョア社会における人格や人物像が、究極的な意味を持たない種々の諸目的や、精神的中心を持たない種々の諸感情や諸行動によって形成されていることを、対比的に示している(13)。
無論人々にとって啓蒙主義以来、理性と自然の調和の原理によって、人格的中心というものが身体的機能と精神的機能とを結合させ、意味ある統一をもたらすという期待があった。そして「人格理想は教養ある個人なら、どの個人にも見られるあらゆる人間的可能性の実現」(ibid., p.173)として考えられていた。しかしこの人格理想は「教養の有無を問わず、誰もが等しく一つの共通の精神的現実に与ることが可能だという参与の理想にとってかわった」(ibid.)のである。参与される共通の精神的現実は、個人を超越し、同時にその現実は、どの個人に対しても人格的中心を与える。だがこの個人主義的目標の実現に過半数の人々が参与するのは不可能である。多数の人々は宗教的伝統の残滓に身を委ねるか、技術的理性と慣習的道徳の形成に挺身した。特権階級でも同じ状況を示し、人文主義的理性に技術的理性が取って代わり、技術による人間の非人格化が拡大して全世界に及んだとティリッヒは分析する(ibid.)。
技術的理性が優先すると、人間の様々な生命力の反作用を喚起し、これらの生命力が高まって理論においても実践においても力を発揮したことにティリッヒは触れる。生命力とは「本能」「情熱」「リビドー」「関心」「力への意志」「生の躍動」「無意識の根底」などの別名でも表現されるが、ティリッヒはこの生命力が「人間を知性と適応能力とを有する単なる心理学的メカニズムに代えることを不可能にする」(14)と指摘し、単なる功利主義的理性の支配に反抗し、生きた人間のダイナミックな中心を蔽っていた慣習的ヴェールを引き裂いた生命力あるいは「生の躍動」が人文主義の合理的中心にとって代わったと指摘する(Tillich[1945], p.173)。ティリッヒがファシズム体制に「適応した人格」は「非合理的で無条件的な目的に熱狂的に屈服するので、すべてを支配する意志に役立つ最もよい道具になる」と指摘するのは、ナチズムが台頭した伏線を示している。
ジョットの絵画が表現する第一段階では、個人は、その超越的リアリティへの忠誠により創出される一つの共同体に参与している。その共同体は、全てを包括する共同体であり、同一の精神的リアリティによる維持される。ラファエロやティツィアーノのルネサンス時代の生活では、卓越した個人という存在が出現し、優位を占め、それらの個人は孤立し、自分なりの仕方で一般的な人間性を表わしている。そこにあるのは特権的社会であり、隣人との関係を規定するような共同体(15)ではない。
ブルジョア社会の第二段階では、共通の精神的基盤のみならず共通の精神的目標も消失し、共同体の種々の形式も解体し、個人は孤独な仕方で社会機構に身を委ねている。国家共同体が現実味を帯びるのは、外部から攻撃される場合のみである。
つまりブルジョア社会は、その第二段階で共通目標と共通基盤を解体させ、それによって共同体を破壊し、大量生産のメカニズムに従っているが、一つの共同体に何らの精神的中心を与え得ない。かえって個人と個人とを切り離し、精神的孤独を助長し、互いに他を引きずり落とす。個人は機械的プロセスに従事するアトムと化すとティリッヒは分析する。無論このメカニズムに従事するのは、経済的及び心理学的必然性によるのであるが、共同体が崩壊して共通の基盤も目標も持たないような大衆に分解している。即ち大衆は、客観的実存に即して言えば、生産機構の予測不可能な動きに追い立てられ、主観的側面から見れば大衆心理の法則によって追い立てられている。このような大衆の存在がブルジョア社会の第二段階における主要な社会学的特質を形成しているとティリッヒは言う(Tillich[1945], p.174)。
無論、世界的視野で言えば、こうしたブルジョア社会の傾向が、全世界的に、全面的に浸透したわけではない。ティリッヒによれば、前ブルジョア社会的グループや前資本主義的態度も残存し、アメリカでは人格と共同体のプロテスタント的、あるいはヒューマニズムの理想が生きており、ロシアでは大部分の国民が共同体の崩壊をほとんど経験せず、アジアでも家族制がアトム化の傾向に耐えてはいる。しかし今日では、共同体の崩壊に接していなかったロシア国民がソビエト連邦の解体と共産主義国家の崩壊を経験し、中国では社会主義体制の中での資本主義的経済との妥協を図るなどの新しい事態が生じている。いずれにせよ、全体主義が取り込んだ諸集団では、一人一人が組織され、その思考、行動、感情は全て計画され指図されたのである(ibid., p.175)。重要なのは機械化のプロセスに抵抗した試みが、いずれもその抵抗したメカニズムに自ら吸収されたという事態である。それらの諸集団は、今やファシズム諸国と共産主義諸国において若い世代全体を包括しているのであるが、いずれも命令を受け、指図される共同体である(16)。そしてこれらは、ブルジョア社会の第二段階を支配した孤独の感情を克服するには、「実際的に非常に有効な方法」(ibid.)である。それらの諸集団において、個人は全てを支配する意志に自発的に仕える道具である。一つの目的を無条件で承認し、無条件に献身し、自律を断念し、熱狂的に忠誠を果たし、かくて意識的に非人間化されている。これは19世紀の工業大衆が自動的に非人間化されたのとは異なる現象である。ブルジョア的発展の第三段階で、共同体の再建が試みられはしたが、これら諸集団の中に現実的な共同体が形成されたかどうか、機械化された社会のアトム化を克服し得る新しい「我ら意識(we-consciousness)」が成立したかどうかは疑問であることもティリッヒは指摘する(ibid.)。このような問題点が教育においても明瞭に存在し、非人間化に対する戦いが、更に強力に機械化された教育方法を使用することで、一層非人間化のプロセスが促進されていることをティリッヒは明示する。つまり完全な人間性のための人文主義的教育が、特殊な目的のための職業訓練に取って代わり、技術的理性の諸要請に従い、現実主義的教育が自然科学や技術に自己の根拠を求めたという指摘である。
Ⅲ 精神状況と芸術
近代史の第一期においては、科学と哲学の分野が時代の性格をより深く理解し認識する重要な分野であった。理性は真理の道具と見なされ、真理探求としての理性の発展は人間性の発展と同一視され、人々は真理を政治、倫理、芸術及び宗教も包括する人生全体としての真理として把握した。18世紀は「哲学的世紀」とも呼ばれたが、それは巨大な哲学的体系をもたらしたからと言うより、「人生のあらゆる局面を哲学の領域に引き入れる試みを理論的にも実践的にも実施したからである」(ibid., p.184)というのがティリッヒの見解である。つまり18世紀は全ての存在領域と意味領域とが「自然な思惟と生の体系」の構成に引き込まれていた時代である。
しかるに19世紀においては、工業文明の巨大なメカニズムは拡大し、思惟と人生の全ての側面をその圧力下に置き、人間精神の指導原理と人間実存の現実的諸条件とを根本的に変革していった。19世紀の時代精神は、「18世紀の革命的な合理主義に対する反作用によって規定されたもの」(ibid.)であり、懐疑的、実証主義的、保守的性格を帯びたのである。そして技術のみが例外となり、自然科学が全ての認識のモデルを提供した。実践生活や宗教のモデルをも提供し、科学それ自体が実証主義的となり、現実はそれがあるままに受け入れられねばならず、「事実」とこれに対する崇拝が意味や意味解釈にとって代わり、統計が規範にとって変わり、合理的真理に本能やプラグマティックな信条がとって代わった。こうした本能やプラグマティックな信条は支配階級のものであり、哲学は認識論に狭められ、技術的進歩、その科学的基礎あるいは経済的支配の僕となったのである。そして技術的理性が決定的なものとなり、本能や意志が措定する諸目的を実現する手段のみを提供したとティリッヒは記述している(ibid., pp.184-185)。
近代的発展を辿ったこれら二つの時期は、人間が自身を明確に解釈しようと試みた時期だと言うことができよう。それはまた自己疎外の歴史であり、自己自身に回帰しようとする歴史である。「自発性のない物理的メカニズムと自由のない心理学的メカニズムとが互いに分離され、両者は自然という普遍的メカニズムにおける諸要素として別々に取り扱われた。即ち、物理的力学か機械的心理学の諸概念で、もしくはこれら両者の根底にあると見なされる形而上学的メカニズムの諸概念で取り扱われた。このようにして全ての人間の実存の生きた統一が人間の自己解釈のプロセスで失われた」(ibid., p.185)とティリッヒは見る。つまり現実を支配することを志向した人間は、自ら抽象的メカニズムを創出したが、自身がこの抽象的メカニズムの一部分となり、自身と世界とを理論的、実際的に一つの機械に変え、自身がその機械の部分となり、現実を支配することを求めながら自身を喪失したのである。
これらの諸傾向と同一の傾向を最も敏感で極端な表現によって示したのが芸術的領域で、既に述べたように、技術文化の優勢と、人格にそれが及ぼす結果とに対するリアクションが最初に現われたのが芸術の分野であるとティリッヒは指摘する(ibid.)。文学及び絵画における自然主義は、大量生産という機械主義的経済やその理論的相似物である全リアリティの機械化に伴って出現し、この芸術的自然主義も科学的自然主義と同様、客観的リアリティの領域から出発した。即ち、「第二の自然の支配で、メカニズムの支配下にある世界を言葉や色彩によって描写したのがリアリズムである」(ibid., p.186)というのがティリッヒの見解である。そして、それは単に人間とその芸術作品との間の対立ばかりでなく、人間と人間との間の社会における断絶をも暴露したためにリアリズムに対する強い反動が生じ、自然主義は主観的なものの領域に後退し、感覚的主観に現実が与えた印象を描写しようと試みた。無論、印象主義は科学としての光学を採用するなどの科学的芸術でもあるが、この印象主義に対するティリッヒの独自な見解が生み出される。即ち「印象主義は主観的な自然主義であり、それは客観的リアリティをその全ての歪みや戦慄と共に美的直観の素材に供した」(ibid.)というものである。つまりリアリズムが残虐な自己の現実を理想主義のマントで覆い隠してきた社会に脅威を与えるものであったが故に印象主義は、支配者層にとっては歓迎すべき流派だったのである。印象主義に対する批判は1956年の『近代芸術の実存主義的様相』という講義録では、更に強く次のように表現されている。「美」そのものの完成を目的とする印象派の絵画に対するティリッヒの反発は、こうしたドイツにおける歴史的体験に根差したものである。「理想化された自然主義は未だに多くの人々にとって好ましい芸術様式である。この好ましい形式は実存主義的観点からは何を意味するのか。それは我々の真の状況を見たり、それに直面することを望まないことを意味する」、「我々は—そしてそれがこれらの(表現主義的・実存主義的)芸術家達の偉大な業績であるが—我々の現在のリアリティーに、それがあるがままに直面することができなければならない。これらの芸術家達は否定的性格のみを持っていると非難される。ヒトラーは彼らの諸作品を頽廃芸術の美術館に積み上げたが、その中には後に米国に持ちこまれた偉大な芸術作品という最も偉大な宝も含まれていた。絶望的なプチブルジョア階級の代表の一人としてヒトラーは、これを歪んだ堕落した芸術と呼んだのである」、「ヒトラーが好んだ芸術は美化的リアリズムであり、リアリティを覆い隠す芸術である。従って、我々の状況から覆いを除去したこれらの芸術家達は、我々の時代における預言者的機能をもっていたのである」(Tillich[1956], pp.278-279)。
多くの印象主義絵画の傾向は、ティリッヒも指摘したように、確かに芸術のための芸術という逃避的傾向を示し、美学は自己目的的となり、純粋に美的享受において人間の自己疎外は忘却される。一方でブルジョア社会の第二段階における発展の気分を表現し、反面人間の自己疎外を隠蔽し、次の時代の革命的反撃に寄与したと言えよう。19世紀の絵画と文学において自然主義は最大の様式であったが、ロマン主義や古典主義による抵抗も部分的に混在したのも事実である。芸術上及び哲学上の理想主義は、「第二の自然」を生んだ中産階級に属する人々により育成された。この中産階級の人々とは、ファシズムの主要な支持者でもあったというのがティリッヒの指摘である。
また第二段階から第三段階へと進展するブルジョア社会を反映したのが表現主義とシュールリアリズムであるというのがティリッヒに特徴的な見解である。それは20世紀初頭の芸術家や作家が、来るべき破局に対する預言者的感受性を持っていたことであり、神秘主義的様式とも言うべき表現主義、あるいは更にデモーニッシュで幻想的様式とも言うべきシュールリアリズムは、いずれも自然主義からの造反であるという視点を示すものである。これら二つの様式のうち表現主義は預言的であったし、シュールリアリズムは形態を破壊し、「リアルな世界は消え、対象はブルジョアのリアリティの諸判断からなるファンタスマゴリア、即ち走馬灯的描写に変換される」(ibid.)。これらはしかし、パニックに突き動かされる人間性というものがその世界の没落を芸術的、詩的諸作品によって露わにされているとティリッヒは指摘する。表現主義もシュールリアリズムも世界の精神的、文化的頽落現象を反映したものだとする見解である。
ティリッヒは、続けて実存的真理は両義的であり、一方では真理の原理としての理性を犠牲にした生産のメカニズムに対する抵抗を示すものだが、他方、実存的真理によってそのメカニズム、即ち「第二の自然」を強化すると見ている(ibid.)。というのも、この実存的真理も、真理の原理としての理性を放棄し、非合理な目的の為に技術的理性のみを使用するからだとしている。つまり、実存的真理は、真理の基準を無効にし、それによって非合理的諸勢力に抵抗する防壁そのものも無効にするという見解である。とすれば、真理はこのように人間実存にかかわるものであり、他の特殊な認識に関わるのは、その特殊な認識が、人間実存の本質や意味に関する決断に、直接的あるいは間接的に依存する限りにおいてである。かくて実存的真理は「認識の基盤に関係し、人間が自身をいかに理解し、世界における自身の状況をいかに理解するかに関係する」(ibid., p.188)。従って、実存主義芸術が人間の歴史的状況(17)を摘出し鋭く提示するものであることが、ここに含意されている。実存的真理が具体的状況に対して適合するが故に妥当な真理であり、生にかかわる真理は生から生じるべきだという思想にこそ、実存主義的芸術の価値が評価される原点が存在する。
結 論
1933年に渡米してから1951年の『組織神学』第一巻に至るまでのティリッヒの主要な著作に、芸術についての記述がほとんど見られない。約20年間のブランクがあるが、唯一の例外が『世界状況』である。この論文では、ブルジョア社会やブルジョア精神が時代状況の形成に主要な作用を及ぼしたことが主張されている。そうしたブルジョア社会を背景に誕生した印象主義なる絵画様式に対するティリッヒの批判は、いわゆるブルジョア精神を支えた中産階級が、やがてナチズムを生む土壌を形成したと指摘する。印象主義に対する批判は、前述のように1956年の『近代芸術の実存主義的様相』という講義録では激化している。
状況と芸術の相関というティリッヒの視点は、美術史や芸術史において人間の精神的状況を把握し、考察する上で、新たな契機をわれわれに提供する。神が存在しないとすれば、全てが許されるという仮定を背景としたドストエフスキーの『罪と罰』、メカニズムの一部品と化した人間を風刺したチャールズ・チャップリンの『モダン・タイムス』、セールスマンがその生涯をかけてエネルギーを消費した代償なるものを悲劇的に描いた、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』、人間の老衰と心理的葛藤を残酷に描写し、人間実存の実態を活写したテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』など、いわゆる実存的芸術家とされる人々の諸作品は、まさに人間の状況を鋭く描写し、人間をして現実に直面させるものである。
このような視点からの芸術的遺産を、更に系統的、分析的に考察する課題が数多くわれわれに残されている。この芸術の「啓示的、預言者的」機能に着目することは、精神文化の崩壊を顕著に示す現在、緊急の課題である。『世界状況』が提示した事柄は、14、5世紀には存在し得たその時代を集約的、包括的に象徴する肖像画が、19世紀末から20世紀にかけては存在し得なくなったことを暗示する。それはまた、精神的共同体の喪失と共に、絵画の表現形態や様式に極度の大変革があったことをも暗示する。現代美術そのものが、リアリズムや印象主義から、シュール・リアリズムへ、キュービズムや抽象表現主義へ、更にポップ・アートやジャンク・アートへと目まぐるしく急変し、更に様々の諸様式が同時に混在する状況を示している。現代美術の多様性からみても、その中で代表的な肖像画を抽出することは不可能に近い。『世界状況』の議論の展開において、20年間のブランクの中で、例外的にティリッヒが視覚芸術に触れたのは、例えばジョットの描いた作品世界には、明らかな精神的共同体が存在し、神と人とが調和したその時代に対するノスタルジアがあったことも否定できない。
ティリッヒが個別の画家の諸作品から、個人と共同体との関係性を読み取ろうとすることは、芸術における様式の累層や歴史的様式などの問題点を提起している。従って歴史的様式と個人的様式、並びに時代様式と民族様式等の考察から、絵画の特徴から判断され浮かび上がってくる時代的性格の妥当性を吟味する必要がある。
この作業は、近代絵画史との関連、並びに啓蒙主義以降の芸術史の分析という手順を経て可能となる。従って、『世界状況』によって提示された、人間の近代の歩みとその状況を、近代芸術史や美学ないし芸術学の変貌と対比させつつ、検証されなければならない。これが次なる課題である。特筆すべきは、ティリッヒの状況分析の真の意図は、本論の末尾に記述された「キリスト教的解答の道標」を提示することにあったことは言うまでもない。それは現在のわれわれの歴史的状況の深みから出たものでなければ、いかなるメッセージも説得力を持たないということである。
<ティリッヒの著作>
MW: Paul Tillich Main Works/ Hauptwerke. Walter de Gruyter 1987-1998
1922: Masse und Geist. Studien zur Philosophie der Masse, in: MW.3
1926: Die religiÖse Lage der Gegenwart, in: MW.5
1945: The World Situation, in: MW.2
1951: Systematic Theology vol.1, The Univ. of Chicago Press
1956: Existentialist Aspects of Modern Art, in: MW.2
1967: Perspectives on 19th and 20th Century protestant Theology, in: A History
of Christian Thought (ed., by Carl E. Braaten), Simon and Schuster 1972,
pp.297-541
<その他の文献>
1.成瀬治・山田欣吾・木村靖二編著『世界史体系 ドイツ史2』山川出版社、1996年
2.ヘーゲル著、長谷川宏訳『歴史哲学講義』上・下、岩波書店、2000年
3.『岩波 哲学・思想辞典』岩波書店、1998年
4.木谷勤・望田幸男編著『ドイツ近代史』ミネルヴァ書房、1999年
5.井上靖・高階秀爾編著『カンヴァス世界の大画家』1巻(1992)、9巻(1996)、16巻(1982)、中央公論社
(1)
文化の神学においては、神律と自律、宗教と文化が、単に相互に区別されるにとどまらず、意味行為の中で統一的に把握されている。神律は常に自律的文化において現実化されねばならないというのがティリッヒの積極的な姿勢である。しかも「神律—自律—他律」は、精神史や宗教史を解釈する際の枠組みを構成する。「世界状況」に登場する画家ジョットの聖フランチェスコの肖像画は、最盛期の中世を支配した「神律的理想」の表現として解釈される。自律、他律、神律の間に存在する弁証法的関係の中で、宗教的様式は、神律的要素にそれがどの程度に接近しているかによって規定され、神律的理想とは綜合の状態なのである。これらのことが具体的、具象的次元で『世界状況』や『今日の宗教的状況』の中での特に絵画に触れた部分で論述されている。
(2)
絶対主義という用語が定着したのは1830年代以降のドイツにおいてである。当初この概念は絶対王政による平準化に服した旧身分制の立場、あるいは絶対王政の克服を志向する民主主義ないし社会主義の立場から、否定的な意味で用いられた。次第に専制的支配一般、例えば議会多数派の専制、軍事的独裁、大衆的支持を得た統領の専断をも指すようになる。国民国家の完成をめざす19世紀ドイツ史学は、その前段階としての、特にプロイセンの絶対王政を積極的に評価し、絶対王政の諸業績を近代国家形成の指標とした。つまり国家形成との関連で、封建的分裂を克服して集権的体制を樹立した「近代国家」の第一段階として肯定的に位置付けられたのである。ティリッヒはこのような歴史学上の自由主義者による「絶対主義」の概念をここで用いていると考えられる。参考のため加筆すれば「啓蒙絶対主義」は19世紀の学者ロッシャーの造語だが、この概念は「啓蒙」より「絶対主義」に力点をおいて解釈される。この造語の一部の「啓蒙」を18世紀の同時代の啓蒙思想、特にその社会批判的な側面と直結させて理解すると啓蒙絶対主義の現実は概念規定と矛盾する。にもかかわらず、この概念が用いられるのは、啓蒙とのかかわりが強いためである。即ち「啓蒙」は第一義的に社会契約論から出発して「公共の福祉」を追求しながら、その実現の機動力を絶対主義君主権力に求めた。この君主権力全能論とは、同時代のフランスの重農主義者が「合法的専制主義」を主張し、理性の指し示すところを洞察する君主に全権力を集中することこそ、不合理を排し、自然の法を実現する道だという「君主全能論」を指すものである。ヨーゼフ二世の「ヨーゼフ主義」は国家教会主義を柱とする啓蒙絶対主義的「上からの改革主義」で上からの改革は19世紀へと連結する。ドイツ史における「第一波」の改革の時代(18世紀後半)に君主全能論は啓蒙君主や改革派官僚の理論的支柱であった(成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界史体系ドイツ史2』山川出版社、1996年、117-118頁参照)。
(3)
ティリッヒは、このような「調和」の概念を啓蒙主義の4つの基本的特徴の一つと考え、自律、理性、自然と共に『キリスト教思想史』の中で解説している(Tillich[1967], pp.320-341)。ヘーゲルは『歴史哲学講義』の序論のC「世界史のあゆみ」で「発展の原理」を展開し、「人間には現実に変化していく能力があり、それもよりよいものへの変化であって、つまりは完全なものをめざす衝動があると思える」(訳文97-98頁)と記述している。世界史を理性のあゆみ、自由の発展の過程として描き出そうとしたヘーゲルは、その歴史哲学において「自由を透視し、理性を洞察できる」と見ていた。(G.W.F.Hegel, Vorlesungen 歟er die Philosophie der Geschichte 長谷川宏訳『歴史哲学講義』上・下、岩波書店、2000年及び訳者の解説、375-378頁参照)。
(4)
ライプニッツ哲学の全体像を表わす中心的概念「予定調和」(harmonie pr試tablie)は先ず、①実体間の調和というレベルでは、|単体実体(モナド)は他の実体から直接影響を受けることなく、全てはそれ自身の内で自発的に生じているとし、そこで生じている出来事は外界の出来事と完全に適合していると見る。つまり個体と世界との間の調和である。次の②精神と物体との調和では、精神は目的の法則に従い、物体は運動の法則に従って作用し、互いに他の領域を侵犯することはないが、その間に調和があるとする。③自然と恩寵との調和は、精神と物体を含めた自然の世界と恩寵の道徳的世界との間、即ち建築家としての神と立法者としての神との間に調和があるとする。これらの調和はいずれも神の創造が世界の事象を全て、見とおした上でなされているという認識によるため<予定>されたものだとされ、オプティミズムの世界観と表裏一体を成す。
(5)
トマス・アクィナス的自然法思想は近代において俗化し、イギリスのホッブスが「理性の戒律」として自然法を相互契約により強い公権力を成立させることを目的として考案した。ロックは、他人の所有権を侵害すべきではないことは、理性の法たる自然法によって知る。その上で各自の所有権が十分保証されるように相互契約を通して政治社会を成立させる「近代社会契約説」を主張した。18世紀末のカントは、立法者の意思から生じる実定法とは区別された自然法を、アプリオリな純粋原理に基づく各自の理性が認識する法と規定し、国内法、国際法、世界市民法体制などを構想した。いずれも理性への信仰を強調する意味でティリッヒは自然法に言及している。
(6)
「技術的理性」は目的に応じて手段を整えるが、いかなる種類の目的でなければならないかは指示しない。第一期においては理性は既存の秩序のかなたにある諸目的と関係したが「技術的理性」は既存の秩序を安定させるための手段と関係した。革命的理性は手段に関してこのように保守的であったが、目的に関してはユートピア的であった。しかし「技術的理性」は目的に関しては保守的で、手段に関して革命的となり、真理と正義の意味での理性を否定する目的のためにも自分を供することを意味した(cf., Tillich[1945], p.168)。「技術的理性」について、ティリッヒはさらに『組織神学』第一巻の中の「理性の二概念」という項目で詳述する。ティリッヒは「理性の存在論的概念と技術的概念とを区別することができる」とし、「この理性の存在論的概念は理性の技術的概念によって常に随伴され、時には代置される」と述べている。そして「技術的な意味の理性は手段を決定し、目的を他の場所から受け取る。技術的理性が存在論的合理性に随伴して共に歩み、技術的理性が存在論的理性の要求を充たすために用いられる限り、そこに危険はない」と指摘している。19世紀の中頃、その危険が支配的現実となり、その結果、権力意志に仕える恣意的諸決定といった非合理的諸力によって目的が定められることになるというのがティリッヒの説明である。ティリッヒは技術的理性の認識方法が形而上学的次元を捨象し、認識の非人間化をもたらす点に警告を与え、技術的理性の対象となる物理的諸事象の背後にある形而上学的諸問題を扱う理性を存在論的理性としている(Tillich[1951], p.102)。
(7)
「計画経済」。本来は経済発展が社会の側からの意識的コントロール下におかれる経済を言うが、この思想を社会主義と結合させたのがマルクスとエンゲルスで、ソ連型の中央集権的計画経済(指令経済)につながる思想。社会主義イコール非市場経済という思想は第一次世界大戦中のドイツにそのモデルが見られた。ソ連では1921-28の新経済政策を経て1928-32の第一次五箇年計画のドラスティックな工業化努力が、資源の行政的配分を必要とするようになる。つまり経済への政治的介入が露骨となるわけである。このような物動型の経済システムが作動可能なのは経済水準が低く、産業構造や連関が比較的単純な段階までである。経済が高度化し複雑化した段階では情報処理だけでも計画的制御は困難になる。ソ連や東欧州国での体制転換第一段階では自由経済ユーフォリアが支配的だったが、最近では移行期経済での「政府の役割」が見直され、制御の思想としての計画経済の意味は失われていない。
(8)
ティリッヒが『宗教的状況』において示した「科学と芸術」の比較とは次のようなものである。つまり科学は、時代の精神状況に対し、それを破壊したり築き上げたりして直接原因的な意義を持つのに対し、芸術は間接的な原因として評価されるべきこと。芸術の直接的課題は本質の把握ではなく、解釈に表現を与えること。芸術はある精神状況がいかなる性質であるかを示すが、芸術は科学ほど客観的な顧慮に煩わされないが故に、科学より更に直接的にこれを示すこと。芸術はその諸象徴の中に、科学より更に啓示的なものを有するが、科学的諸概念は客観的妥当性の故に象徴的なものを後退させなければならないこと。従って、精神状況の生成にとって科学の方がより重要だが、その精神状況を認識するために芸術の方がより重要である。そして形而上学の中で両者はバランスを保つとしている。
(9)
≪夜警≫(1642)、≪十字架降下≫(1663)などが代表作。シチリアの芸術愛好家貴族からも支持され、アムステルダムの布地商組合から集団肖像画を依頼されるなど、その強烈な光と影の作風は多くの人々に支持された。身近な人々を作品の主題とし、神話や宗教的主題を含む歴史画も多く残した。≪夜警≫の場合、市民隊の出陣という劇的な場面を、その場にふさわしい劇的構成によって描き出される個々の人物以上に、人物たちが演じるドラマが強調されている点にレンブラントの個性がある。多くの自画像にはまた厳しい自己省察の態度が見られる。人間の表情と性格を探る描法に特徴がある。≪キリストとサマリアの女≫(1655)、≪エマオのキリスト≫(1648)、≪聖家族≫(1645)、≪エルサレムの破壊を嘆くエレミヤ≫(1630)などが宗教画としてよく知られている。
(10)
ティリッヒはジョットの絵の人格に関して「超越的リアリティとのかかわりが個人の生活に対して意味と中心と内容とを与えていた」と書いているが、これは主としてジョットの時代とその作風が意味し啓示するものについての主観的考察である。ジョットはルネサンス期以前のゴシックとビザンチン様式が優勢であった頃のイタリア最大の画家で、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂やパトヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画に代表作を残している。空間表現や人間の感情表現においてルネサンスの開幕に影響を与えた意味での近代性は感じられるが、リアリズム以前の様式美が勝ったものである。作品の主題はほとんど聖書物語、キリスト、聖母子、聖人の諸像で、宗教画家として多大の足跡を残す。14世紀の聖堂と礼拝堂の大部分の壁画の構想はジョットによるとされる。特にフィレンツェではジョットの範例が画家たちにより反復された。ジョットの作品で人間の顔はレンブラントほどに写実的ではないが、抽象化された独自な表情、個別性、情感や生気、自然な姿態などに特徴がある。少し前の時代の聖像画特有の教義的、装飾的なものより人間的交流と空間の奥行きが格別に意識されている。ベネチアの西南約40キロにあるパトヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に、聖母伝とキリスト伝を中心とした総計39の場面が左右側壁と内陣のアーチを埋めている。「個人の生活に意味と中心と内容」とを与えていたとは、このような宗教画そのものの宗教的敬虔の態度により生じる印象であろう。
(11)
ルネサンス後期のベネチア派最大の画家。華麗な色彩と大画面による画風を確立し、多くのヨーロッパ諸宮廷に迎えられ、晩年は重厚な様式で精神性の深い作品を残した。1543年の≪この人を見よ≫、1544年と1570年の≪荊冠のキリスト≫、1544年の≪アベルを殺すカイン≫、1560年の≪受胎告知≫、1570年の≪ピエタ≫などの宗教画や、貴族、法皇、皇帝の肖像画や自画像を残している。登場人物の個性化がみられ、宗教画や聖母子像にも人間的なふくらみが感じられる。ヴィーナス像など裸婦も多く、それぞれの表情に一種の充足感がみられるのが特徴である。こうした諸作品は、確かにティリッヒの言うヒューマニズムに立脚した人間肯定の印象が強い。ルネサンス絵画の中心課題は物語の表現であるが、ティツィアーノが描く生命力溢れる肉体のヴィジョンは、「肉体そのものの生動であると同時に画家のパトスと官能のふるえでもあるという両義的なイルージョンなのである」(森田義之「ジョルジョーネとティツィアーノの様式・画法・ヴィジョン」『世界の大画家9』、中央公論社、参照)。つまり「再現」と「表現」のせめぎ合いと二重性が顕著な作風であり、その近代性は人間の情動や多義的な感覚に浸透された、いわば人間化された自然のヴィジョンにある。これがティリッヒが否定的に見る「理想化された美」なのであろう。
(12)
ファシストの人間類型では古典的、人文主義的な人格理想の最後の痕跡は完全に失われていくとティリッヒは記述している。
(13)
ティリッヒは『大衆と精神』(1922)の中で、大衆と人格の問題を論述し、「大衆」や「人格」の概念が示す最初の観念を絵画作品の中で発見しようと試みたことを明示している。絵画は、時として概念的用語よりも更に明晰に、本来の精神を説き明かし、直截な力で迫るという考えから、ティリッヒは大衆が描かれ、中心的人物像がそれに相応する関係で絵の中に配置している絵画の様式の中に、時代精神下の大衆の存在様式や理解が示されていると言う。『世界状況』に登場するジョット、レンブラント、ティツィアーノが描く「人格」や人間性の説明とは異なり、ここでは、個人と群衆の描き方によって、その時代の様相を捉えようとしている。例えば中世初期ゴシック絵画では、絵画全体がある理念で支配され、個性的人物は存在せず、登場人物はみな同じ様相を帯びていると指摘する。即ち、至高な神を頂点とする普遍的概念でのヒエラルキーが現実だということが示されていると説明する。次に後期ゴシックと初期ルネサンス絵画では、個人や自然が注目され、個が普遍の前に躍り出て、中世社会が崩壊し、超自然が急速に色褪せ、理念の実在性が唯名論の批判に晒され、個が王座に押し上げられた時代であり、社会革命の胎動期、農民戦争を間近にひかえた絵画様式だと指摘している。そしてバロック芸術ではルーベンスを取り上げ、再び形而上学的ではあるが超自然的ではなく、自然と人間とを結ぶ内面的で躍動する生が、大衆をあるダイナミックな統一に導いていると指摘する。つまり超自然的、宗教的内容が、個人の内面で人格的な対象になった時代だとしている。そして現代については、19世紀後半の個人主義的ブルジョア階級の様式形態としての印象主義と、事象世界の根拠を問う新たな神秘主義として、人間の自然主義的な事実より形而上学的意義を重視するものとしての表現主義を取り上げている。印象主義の画家にとって大衆は何ら本質的なものではなく、光と色と動きのスケッチにすぎないという、きわめて個性的な見解をティリッヒは示している。そして表現主義が明らかにするのは、内在的な神秘主義の大衆、世界大戦、ロシアの精神的混沌、共産主義者らの殉教の時代などであるとしめくくっている(cf., Tillich[1922], pp.35-90)。このような方法での時代性の摘出は、ミシェル・フーコーが『言葉と物』において提唱した各時代の思考を規定する「エピステーメー」の発掘、即ち「知の考古学」についての再考を促すものでもある。
(14)
「生の躍動」(四an vital)は生命が内部から飛躍的に発展すること、つまり創造的新化を意味するベルグソン哲学の用語である。「創造性」の根源としてティリッヒも認める「自律性」には「欲望の充足」というファクターも認められる。つまり創造性の現実化である文化は「欲望の充足」が推進力となり、あらゆる欲望に加えて美的充足(視覚的・聴覚的な意味での)への欲望が一つのエネルギーとなっている。
(15)
プロテスタント的ヒューマニストは純粋教理を守る、絶対主義に対抗する、あるいは神の国の樹立のため十字軍的戦いのためといった共通目的で結合された活動的集団のメンバーである。しかし、それは普遍的権威を共通の基礎とする共同体ではなく、戦うべき特別な諸目的への共通の献身を土台とする共同体であるとティリッヒは説明する(Tillich[1945], p.174)。
(16)
全体主義運動に若い世代が吸収された状況は以下の通りである。1930年の9月選挙で、ナチスは議席を12議席から107議席へ、80万票から5640万票へと獲得票数を伸ばした。その背景には、敗戦とベルサイユ条約による国民的ルサンチマン、1923年インフレによる中産階級の一体感の喪失、社会秩序に対する信頼の心理的な崩壊、29年以降の大恐慌時における経済的破綻など共和国のわずか15年間に発生した諸要素が考察される。大衆の急進化はワイマール体制の拒否へと大衆を向かわせ、この「体制」への大衆の不満を吸収し、その原動としたのはヒトラーの「人種論」と「領域論」、即ちドイツ民族の発展は人種的純潔を伴う東方への生存圏の拡大で、獲得できるという確固たる世界観であった。1930年のナチス党員構成を検証すると、他のどの政党よりも全国くまなく、しかも労働者を含むあらゆる層を組織し、変更された「国民政党」という性格を持った。しかも1930年に党員の70%は40歳未満、37%が30歳未満という「若い党」であり、「新しい党」であった。1920年代半ばからの「国民社会主義ドイツ学生同盟」の成功、あるいは諸組織、各種団体の名望家支配に対する若い世代の批判は、既成体制に対する反逆であった。また恐慌の激化する中で職のない多くの青年が突撃隊などの擬似軍事組織に吸収された。こうした歴史的背景を考慮しつつティリッヒのファシズム体制論が展開している。つまり近代化から生じる旧秩序の崩壊からナチスは利益を得たのである。また反共産主義、反自由主義、反ユダヤ主義はワイマール期の国粋派に共通するイデオロギーで、ナチ党独自のものではなく、これがナチスに対する保守・国粋派の親近性を示す要因でもあった(木谷勤・望田幸男編著『ドイツ近代史』ミネルヴァ書房、1999年、118-120頁参照)。
(17)
ティリッヒは「今日の世界に対してキリスト教のメッセージが説得力や更新力(transforming)を持つ真のメッセージ足り得るのは、ただそれが今日の我々の歴史的状況の深みから生じている場合のみである」(Tillich[1945], p.195)と記述し、『世界状況』の末尾で「キリスト教的回答のガイドポスト」という項目を特に設定してこうした世界状況ひいては人間の近代の精神史に対するその立場や役割を明らかにしている。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/10/05
背景色の色
フォントの変更
- 目に優しいモード
- 標準モード