一
いや、驚いたよ君、何ものほほんで歩いて居た訳ぢやなかツたが、不意に横ツ手から、
「あら、まア、梅原さんぢやアありませんの。」
と甲の高い、調子の走ツた、化生の者の叫び声だ。何者と振返ツて見ると、銀鼠の頭巾を深く黒のコートに羽衣ショール、犇と鎧ツて居るのだから、正味は解らなかツたが、しやなりとした姿から最う、只者ではない。見たやうだが、思出せないで居ると、向うは馴れ馴れしく、
「まア、お珍らしいぢやアありませんか。」
と近く、ぱツちりとした涼しい眼でぢツと見る。此方は少からず狼狽いた形、変な調子で、
「失礼だが誰方だツたか……。」
「あら、お忘れなすツたの。実が無いのねえ。私は彼の下谷の若狭屋に居ました時分……。」
「むゝ、今ちやんか。」
「おほゝゝゝ、昔の名を仰有ると恥かしうござんすわ。」
「や、然うだツたかい。様子が変ツて了ツたから、すツかり見違へたよ。」
啻に様子ばかりぢやない、何から何まで変ツて了ツたのだがら、見違へる方が至当だ。僕がそれや、彼の時には君にも苦い異見を喰ツたが、お笑ひ草さ、例の小房ね、彼女と一つ家に抱妓で居た、其時分は小今と言ツた女だ。
古い談話で、何しろ最う一昔前、今ぢや夢さへも見た事がない。跡形もなく忘れて居たのが不意に這麼出幕になツたので、何だか妙な心持になツたが、併し恁う廻遇ツた処で、何うの恁うのといふ仲ぢやないのだから、其儘別れる気で、当座の挨拶をして居ると、
「矢張し気が差したんですね。今日は朝ツから、何だか嬉しい事が有るやうな心持がしてならなかツたんですが、此処處で突如にお目に掛られようとは思ひもしませんでしたわ。本当に何年振でせう。でも思ひは届くものですねえ。」
と恁うだ。妙な事を言ふとは思ツたが、寄らず障らず、
「いや全く此処で遇はうとは思掛けなかツたよ。不思議な処で珍らしい人に遇ツたもんだね。」
と言ツて、別に人目もなかツたから、
「今ぢや何処の奥様だね。」
と態と言ツた。すると訳もなく笑出して、
「おほゝゝゝ、這麼で奥様に見えますかね。生憎と未だ独り者よ。」
「はて、何う間違ツたのだ。其様子で独り者なぞとは、勿体なさ過ぎて本当にされないぢやないか。」
「まア、いゝやうな事を仰有ること、それはね、相手は降るほど有りは有りますけれどもね……。」
「ふむ、余りお高いんで……。」
「とでもして置きませうか。未だ御存じない中は、何とでも言ツて置けますからね。おほゝゝゝ。まア、それはそれとして、あの不意に這麼事を言ふのも何ですけれど、実は貴方には、種々とお談話もしお願ひもしたい事が前から有るのですが、何うでせう御迷惑でも一寸、宅へお寄りなすツて下さる訳には参りますまいか。あの、つい此先なんですが。」
「え、家へ。」
と何だか様子が知れぬから、流石に少し躊躇した。それと見て取ツたか直ぐに、
「なに些少もお心遣ひの要るやうな家ぢやありませんの。外にお差合ひも何にもありません。貴方、本当に後生ですが……。」
「だが私に何の用だね。」
「まア、那様事を仰有らないで、お馴染甲斐に一寸ねえ、あら、何を考へていらツしやるの。」
「なにそりや、幸ひ用もないんだから、寄るには寄ツても可いがね……。」
と少しは好奇心を先に立ツた。相手は舌を置かせず、
「まア、有難い事。本当に、這麼嬉しい事はありませんわ。何しろ路中でお談話も出来ません。それぢや御案内を致しませう。さア入らしツて下さいまし。」
といそいそ先に立つ。何だか訳が解らない。少々魅まれの姿ぢやあツたが、丁度身體は明いて居たし、内々面白づくが手伝ツて、何も談話の種位の気で、一処に出掛けたと思ひたまヘ。何でも五六町、只有る新開へ入ツて、二度ばかり曲ツたと思ふと、未だ真新らしい門構への、庭に小広く、手の入ツた植込を越して、奥に気の利いた二階家が見える。其処だ。表の標札に大川いま。
見た処で恁ういふ向きの住居とは思はれぬ。それも案外だ。さては被囲だな、と早合点に見渡した途端、
「此処でございますよ。本当に汚穢しい処で。」
「や、恐入ツた。大方這麼始末だらうとは思ツたが、大分いゝ者を捉まへて居るね。」
「あら那様のぢやアないのですよ。これでも今度、自分で買ツて入ツたのですよ。」
「ふむ、自分で、と言ふと?」
「おほゝゝ。まァ、お話申しますからお入りなすツて。」
潜門を開けると、花崗の短册石に、左右を敷松葉、掃除が届いて、塵一つない。ばらばらと出迎へに来た十三ばかりの小婢と、三十一二の見苦しからぬ女中、
「お帰りなさいまし。」
続いて、
「お帰りなさいまし。」
此方は心易げに、軽く、
「はい只今。あの、お客様をお連申したよ。」
と振返ツて僕に、
「さア、何うぞ此方へ。」
少々処か、いよいよ魅されの姿になツて来た。玄関、中の間、座敷の模様全く不相応な普請の態に、猶更不思議立ツて兎もあれ導かれるまゝに座に着くと、やがて上の物を脱捨てゝ来たお今は、座敷へ入るから既走込むやうにして、
「本当に能く入らしツて下すツた事。いゝえねえ、這麼時が何うかしたら来る事があるだらうかと当にしないやうにしてもつい当にして居たのですが、恁うして思掛けなく来て戴かれる事にならうとは、全く思ツて居ませんでしたの。貴方は御存じありますまいけれど、私最う、這麼嬉しい事はありませんわ。」
見ると裁下しの黒縮緬の羽織に、深川鼠の縞御召の小袖、銀杏返しに薄化粧して、年は三つ四つも若く、何処となく垢抜けのしたのに、昔の影を残しては居るが、見馴れた其頃の俤とは、さながら別の人のやうに変ツて居る。
何れにしても腑に落ちないので、
「併し私には何だか全で了解めないね。」
「おや何がえ。」
とお今は先づ微笑みながら訊く。
「何がと言ツて、何から何まで解らないづくめだ。第一まアお今さんの今の身からして全で読めないね。」
「おほゝゝ、まア何に見えませう。」
「然うさね、萬更堅気でもなしと言ッた処で此の體だらう。そりや主のあるには決まツちやア居るが……。」
「あら、先刻も独り者だと言ツたぢやありませんか。」
「むゝ、然う言はれると猶の事だ。何だか野暮の事を訊くやうだが、全體今何をしてお出だね。」
「遊んで居ますのさ。御覧の通りで。」
「はてね、そして。」
「それツきりなの。何も有りはしませんわ。」
「さアいよいよ解らないね。」
「何もむつかしい事は有りはしますまい。兎に角恁うして暮して居るんですもの。これでも御覧なさるよりは生帳面ですよ。そりやア泥水上りにしちや可哀想な位で。おほゝゝゝ。」
「解らない。矢張り解らない。」
「おほゝゝ、大層気になさるのねえ、居心がお悪いやうなら申しますがね、正は最う後家さんで……。」
「むゝ、少し当りが付き出したね。」
「今ぢや元の素人ですの。お差障りはないのですから、其処だけは御安心なすツて下さい。おほゝゝゝ。」
「なに、然ういふ訳なら、有ツた処で仔細はない。むゝ、それぢや疾うに足を洗ツて了ツたのだね。併し折角然うなツたに、余り早い別れやうぢやないかね。今の若さに何といふ事だらう。様子は知らないが、お気の毒の事だね。」
「はい、まア然う仰有られて見れば那様ものですけれど、なに、然うまで思合ツた仲ぢやなし、言はゞお互ひの便利で同棲になツた人なんです、いゝ塩梅に仕事が当ツて、めきめき、儲けたのを其儘で残して逝ツてくれたのですから、お蔭は、十分に受けて居ますがね、なに、亡くなる時にも、外にくれて遣る先もないから、残らず貴様に譲ツて遣る。無理に俺ん処へ来た埋合せに、これから浮気の仕放題をしろ。何うせ又、濡れ手で掴んだ泡沫錢だ。遣へるだけ面白く遣つて見ろ。と恁う言ツて逝ツた位なんです。一咋年ですよ。台湾熱でね、急に取られて了ツたのです。貴方、私は台湾までも流れて行ツたんですよ。此方へ舞戻ツて来たのはつい此頃の事です。」
「それぢや其迄の間には、随分面白い芝居も打ツた事だらうね。」
「はア、そりや種々の風にも吹かれましたよ。相応の苦労もしましたわ。何しろ最う十年越しですからね。」
「むゝ、訳のありたけ仕尽してかね。」
「おほゝゝ、飛んだお綱ですね、なに、気の利いた事は一つだツて有りやしませんよ。御覧なさい。未だに恁う遣ツて一人ぼツちで居る位ですもの。」
「では最う跡釜を探して居るといふのかね。」
「いえ最う其方は沢山ですから……。」
「当分お休みかね。」
「さア、昨日までは然うでしたがね……。」
「先は請合はれないのかい。や、油断がならない。」
「本当に御用心なさいよ。おほゝゝゝ。」
「はゝゝ、なに、此方には那様心配はないから安心さ。」
と這麼事にはなツたが、全體何で此処へ招かれたのか、其方は未だ一向に解らない。僕は只旗色を見て居たのだ。
二
其中に酒が出る。肴は並ぶ。何か手を尽した事で、一寸は帰れないやうな始末になツて来た。それにしても、何を言はれるのか、様子が更に知れないので、それとなく切ツ掛けを待ツて居ると、お今は其中に稍改まツた形で、
「まア、何からお話し申しませうね。」
と少し考へて居るやうに見えたが、
「貴方も御存じの通り、以前の商売にも不向な位でしたから、這麼時に巧く訳なしに出て来ないから困るんですよ。なにね、厚顔しい段に掛けちやア、相応に場数も踏んで来たんですから、随分阿婆摺れの気ぢやア居るんですけれど、何うかすると地金が出て来るもんですからねえ……。」
と何か怪しく言悪い様子で、不意に、
「まア最一つ戴きませう。」
と進んで盃を受けて、其儘衝と干した。
此方を見て、笑ひながら、
「何だか酷くむつかしいやうだね。」
「はア、一寸出やうがないもんですからね。」
「むゝ、全體何の事だい。」
「待ツていらツしやいよ。せかれちや猶仕様がありませんわ。おほほゝゝ、何だか生娘のやうに、極りが悪いから可笑しいぢやありませんか。」
と言ツて急に投げ出したやうに、
「馬鹿々々しい、這麼事におこついて何うなりませう。恁うして焼継だらけの身體でもツて、那様なお人柄な事を言はれた義理ぢやありませんね。面倒ですから最う、色を付けないで露出しに言ツて了ひませう。」
「むゝ、何だか口上が馬鹿に長いが、全體これから何うしようと言ふのだね。」
言ふと事もなげに、
「これから貴方を口説かうと言ふのですよ。」
「なに、口説く?」
「はア、飛んだお談話でせう。」
「然うさね、何う間違ツたか知らないが、此方にやとんと支度がないのだから、何とも挨拶の仕様がないね。」
「ですから取付きやうがないので、這麼にうぢついて居るぢやありませんか。」
「第一口説かれる覚えがないからね。」
「おほゝゝゝ、でも此方に覚えがあるんですもの。仕様がありませんね。」
「はゝゝ、冗談ぢやない、調戯ひやうが些少くど過ぎるね。」
「あれ、本当なんですよ、これでも。」
「最ういゝ加減にしないかい。馬鹿々々しくツて談話にもならないぢやないか、いくら火移りが早いと言ツたからツて、昔は只の見知り越、今の先不意と遇ツて、未だ、久し振の挨拶さへ切れない中に、余り手軽過ぎて、其方の御了簡方が積られるやうな談話だ。まさかに那様安ツぽいのでも無からうと思ふが、余り盛付けられると此方もつい言ひたくならうぢやないかね。」
と笑ひに紛らしながら、少し突込んで言ツて見た。聞くと居住居がら、何も冗談でないやうな風で、
「然うでせう、そちらぢや御存じない事ですから、然うお思ひなさるのも御無理はありません。ですが貴方、此事は、昨日や今日に始まツたのぢやないのですよ。今になツて這麼事を言ふと、取ツて付けたやうにもお思ひなさるでせう。身體はさんざんに持崩して了ツて、勝手な時に這麼事を言はれた義理ぢやないのですけれど、可哀想だと思ツて下さい、これでもねえ、彼の時十六の、未だ何も知らない時分から、恁うして思込んで未だ忘れずに居るのです、折がなかツたし、縁がなかツたので、打明ける間もなくツて居る中に、何うでせう、貴方、最う一昔になツて了ひましたわ。」
と何か知らず俯向いた。最う口先ではなくなツて来たので、流石に又驚いたが、言はれるほど猶更に了解めない。
「むゝ、変な、思ひも付かない事になツて来たぜ。訳は解らないが兎も角承らう。今も言ツた通り、覚えのない事だから、何とも御返事は出来かねるがね、一體まア何うしたといふのだい。然うまで言ふからにはまさか冗談ではあるまいがね。」
「冗談処ですか……冗談なら貴方、もツと気の利いた言ひやうが有りますわね。本当に先刻お目に掛つた時は、あゝ未だ縁が尽きなかツたかと、心ぢやそれこそ手を合はさないばツかりでした。来て下さると仰有ツた時、これを機に、とてもと胸に思ツて居た事を、出来るなら何うかして、と直ぐに思付きはしましたものの、お目に掛ツた今日が今日、最う、恁う言出されようとも思ツて居ませんでしたが、余り長い事胸に疊ツて居たもんですから、つい堪へられないで口に出して了ひました。貴方、恁うなると愚に返ツてねえ、何だかわくわくするばかりで、思ふ事の十分一も全で言へませんの。笑ツて下さい。これで二十六ですよ。おまけに相応に塩も踏んで来たのぢやありませんか、何だか焦れツたくて癇癪が起ツて来さうですわ。」
「だがね、其方ぢやまア然うでもあらうがね、聞く身の此方ぢやア全で初耳だからね、いきなり然う無暗に浴せ掛けられちやア、面喰ふばかりで全で始末が付かないさ。考へなくツても知れて居る。全で此方の気も知らないで、だしぬけに那様事を言出すのは、余り醉興が強過ぎるぢやないか。」
お今は其儘にぢツと見たが、
「あゝ、貴方は私がほんの浮気で這麼事を言ツて居ると思ツていらツしやるのですね。」
「よしんば、然うでないにした処がさ。」
「そんなら最う少し身を入れて下さるだらうに、いくら這麼身だからと言ツて、貴方も又余りですわ。」
「まア何方にしろさ、てんで本当にはされないぢやないかね。」
「いゝえ、そりや御無理とは言ひませんよ。何うせそれは然うでせうけれど、些少は、些少だけでも此方の気が知れさうなもんだのに、矢張り思ひやうが足りないのかしら。」
「むゝ、仰有る事は大分殊勝だがね。」
「貴方、何うしたら可ござんせう。」
「然うさ。まアいゝ加減に笑ツて了ふのだね。」
「まア、何故然うでせう。最う浮かれてお談話をしては居ない積りですが、まさか底に工みでもあるやうにはお取りなさいますまい。」
「なに、那様事より、実は頭から全で解らないのだよ。」
「ですから、最初から今初まツた事ぢやないと言ツたではありませんか。それでなくて這麼事が、なんぼ何でも遇ツたばかりで言はれるもんですか。何の、出来心なら貴方、這麼餘計な氣を揉まないでも、何処にでも好きな者が選取りのやうに転がツて居ようではありませんか。為ようと思ツたら那様事に不自由をする身ではありません。」
「勿論然うさ。言ふがものはない。何も物好きに、這麼処へお鉢を廻して来るには当らないと思ふ。何か以前からとかお言ひだツたが、これと取留めた談話すらした事のない私に、何うの恁うのといふそれからして解らないぢやないかね。」
「それですよ、今から言ふと可笑しいやうですがね、最初お面識になツた時から、貴方は最う人の物、手を出す事も出来はしませんでしたし、羨ましいとは思ツても、那様方の気は出もしませんでしたが、忘れもしません彼の房ちやんの亡くなツた晩私も見舞ひに行合はして居ましたが、彼の時貴方が枕元で、臨終の房ちやんに仰有ツたお言葉を聞いてからの事なんです。あゝ、思合ツたとは言ひながら、恁うまで真実の方があるものかと、涙が飜れるやうに真から身に染みましたが、あれから以来自分でも何うかしたのかと思ふやうに、貴方の事を思はない日はなかツたのです。それは最う本当に自分でも抑へきれないで居たのですが、場合が場合で、それに未だ十六になツたばかりのずぶ子供で居た時なんでせう、一人で気ばかり揉んで居る中に、貴方は最う遠くなツてお了ひなさる、私は濱の方へ行ツて了ふやうな事になツて、それから先は、自分で自由にならない身で、彼方へ縛られ、此方へ縛られて、到頭今までお目に掛れなかツたのですもの、覚えが無いと仰有るのも御至当で、此方には又、無理にも強く出られない引け身があるのですから、本当に何うしたらば、此事が、貴方のお肚に入るやうに出来るだらうかと、実は先刻からそればツかりに気を尽して居るのです。」
「むゝ、まアそれにした処がさ、大抵最う黴が生えるまで、一途に那様事を思ツて居る柄でもなからうぢやないか。知らないで言ふのも不躾だが、それからこれまでには、那様事よりはもツと実のある面白い達入れが何の位あツたか知れないと思ふがね。」
「はア、それは最う何も隠すには当らないから申しますが、随分浮気も仕尽しましたから、思ツたよりは種々な目にも遇ひました。けれども其度に思出されるのは貴方の事ばかり、貴方だツたら恁うぢやあるまい、あゝ、這麼に焦躁りながら何故恁う貴方に遠くばかりなツて行く事だらうといつも思はない事はないのです。と恁ういふと何だか、勝手な事を言ツて居るやうに聞えますが、あゝ何うしたら私の真の心を言ツて見る事が出来るでせうねえ。」
変ぢやないか。これまで類のないのにも随分出遇ツたが、未だ這麼目に遇ツた事はない。冗談には応答ツて居ながら、先刻から見て居ると、何も飾ツて居ない確かな影が何処にも動いて居る。此処に至ツて稍退避がざるを得ないのだ。それとはなしに、
「そこで結局、何うしようと言ふのだね。」
「まア、何をお聞きなさるの。解ツて居るぢやありませんか。お察しなさいよ。」
と言ツて不意と見て、
「ですが然う言ツたら、嘸厚顔ましいやうにお思ひなさるでせうね。」
「はゝゝ、酷く又其方を遠慮するぢやないかね。なアに、今更那様事を洗立てした処が仕様があるものか。」
「あら、本当に。」
「だが返事には少し狼狽くよ。」
「だからさ、察して下さいと言ふのですわね。」
「まアさ、それにしてもさ、些少は此方の了簡も見据ゑるが可いぢやないか。何しろ些少向不見だぜ。第一那様事を言出すには、相手の気心を最う少し知ツてからにするが可いぢやないか。私が今甚麼に変ツて居るか知りもしないで、那様安價で思切ツて卸して了ツて飛んだ器量を下げたら何うするのだ。」
「いゝえ、それは外の人になら、何で這麼事を言ふものですか。貴方にだからこそ何も最う考へないで言ふのですわ。それは私のやうな這麼者ですけれど、誰にもこれまで、此方から手を下げた事はありはしません。思込んだ弱身といふものは這麼ものだらうかと、自分ながら口惜しくもなる位ですもの。いゝえ、正味を言ひますがね、余り此方の気を汲んで下さらないと、実の処腹が立つやうな気にもなるのですわ。いゝ加減最う目は見えないんですからねえ。」
「なに、此方だツて浮気で行くなら文句はないのだ。二つ返事でお辞儀は不躾、御意は好しさ、何の事はありやしないがね、最う那様上づツた方は、今ぢや全で気がなくなツて居るからね、一寸融通がむづかしいのさね。なんなら異見の一つも様子によツちやア言ひたい位に、疾うから質実になり切ツて居るのだからねえ。」
「それこそ猶更ですわ、私の願ふのも最う、那様空ツ調子で行かれる事ぢやないんですもの。」
「ふむ、それも一つ聞いて置かう。」
「はア、聞いて戴きませう。ですが貴方、私がねえ、若しか顧ひが叶ツたら、此先何うするとまア思ツていらツしやるの。」
「解るものかね、それが解る位なら、這麼餘計な口を利いて居るものかね。」
「おほゝゝ、まア、それから先へ言ふのでしたわね。」
「はゝゝ、何だか独りで了解んで居るぜ。性が知れないだけに気味が悪いね。併し兎も角地道に聞かう。で何うするといふのだね。」
「聞いて下さい、私はね、假令此思ひが此儘届いたからと言ツて、全で其上の慾は何も有りはしないのです。貴方も勿論最うお一人の身ではお有んなさるまいし、外にお楽みの方もないとは思ツて居もしません。其中へまア割込んで、無理な願ひを押付けにするのですもの、それも這麼身でなかツたなら、何とか取りやうもあるでせうけれど、今更何が言はれませう。貴方、此場になツて這麼事を言ツたら何う又お思ひなさるかは知りませんが、私はこれまでに、それこそ数ばかりは掛けましたが、真から思込んで恁うと言ツたのは、遂に一度ありはしないのです。貴方の事を思出すのも只それなので、いつでもねえ、たゞの一日でもいゝから、何うかして貴方のやうな方に一言優しい事を言はれて見たいと、それなのです、今の願ひも只それなのです、同棲にならうの、一人占めにしようのと、那様大それた事を何思ひますものか。様子が何うの気前が何うのと、那様事も最う通過ぎた昔で、只最う今迄一度も受けた事のない人の真実を、一度は身に受けて見たいばかりなのです。あゝ何だか理に落ちて、お聞きなさるのも厭におなりでせう。自分ながらも愚癡ツぽくなツて、言ふ事が皆これですもの。平素は這麼私でもないのですが、何うしたのでせう、何を言ツて居るのか解らないやうな事がありますわ。」
ぢツと其儘に眼を着けて居た僕は、其時思はず知らず、
「最う可い。何も能く解ツた。それほどまでに思ツて居てくれたとは、聞くまで全く知らなかツたよ。併し此私が那様に思込んで居るほどの者だか、何うだか、請合ふ事が少しむづかしい談話だ。」
「いゝえそれは最う、何と仰有ツたツて聞くのぢやありません。それでなくツて誰が貴方、下谷の時から今迄も思続けて居られるものですか。」
「用心おし、間違ふぜ。」
「えゝ、那様事なら何とでも仰有いまし。あゝ併しまアこれだけ言ツたので安心しました。百分一でも私の心が通じたと思へば、最う昨日とは、心持が違ひますからね。さア最う一ツきり息を抜きませう。貴方、お一つ。」
と小盃、銚子を取りながら、
「貴方も併しお変りなすツたのねえ。此頃彼の土地へは」
「最う一向さ。なに彼處ばかりぢやない。然ういふ方はとんと知らずに居る。」
「何ですねえ。御卑怯な、お隠しなさるだけ罪が深いわ。」
「はゝゝ、それ処か。此頃は後生願ひだ。だから今の談話だツて内々珠数を繰ツて聞いて居た位だ。」
「おほゝゝゝ、那様珠数なら、いつでも切ツて見せますわ。」
「や、恐ろしい。まア精々お手柔かに願はうよ。」
「呆れますね。那様風ぢやア、全で本当の事は仰有いますまいね。」
「何をさ。」
「お佯惚けなさるな。それだから先刻も、人が一生懸命になツて居る傍から、那麼事ばかり言ツていらしツたのだわ、憎らしい。」
「はゝゝ、那様に気が付いて居るのなら、彼の時何とか言ツて教ヘてくれるが可い。此方は何も知らないから、まごつきながら間の抜けた返事ばかりして居たのだ。」
「仰有いよ。本当に人の悪い。」
「はゝゝ、這麼事ばかり言ッて居れば罪はないが、何しろ今日は思ひも付かない事で、何だか恁う昔の夢を見て居るやうな気持がする。全くね、何処で誰に遇ふか解らないもんだね。」
「其上飛んでもない事を言はれたんですもの。ですが、偶には這麼目にもお遇ひなさるのが可いのですよ。平素の罪滅しにね。」
「はゝゝ、這麼罪滅しならいくらあツても可いね。」
「おほゝゝ、宜しければいくらでも持合はして居ますから。」
「では腹一杯にまア頂戴して見ようか。意地の汚い処で。」
「那様事を仰有ると又持出しますよ。今度は最う、はぐらかしだけぢや聞きやアしませんから、其積りで些少は御用心をしてお置きなさいまし。」
「や、又続け打ちか、今度は最う討死だ。」
「巧い事を。何うして手に負へるもんですか。間際へ行ツたら、又逃げられるは決ツて居ますわ。」
「なに、いつまでも那様逃げを張ツて置られるものか。第一其方様が承知が出来まいと思ふがね。」
「あれ、私が最う、何う悶いたツて仕様がありますものか。残ツて居るのは貴方の御挨拶だけぢやありませんか。」
「むゝ、それぢや若し、聞かなかツたとしたら何うするね、綺麗に笑ツて了ツてくれるかね。」
「まア、貴方は那様に訳なしに見ていらツしやるの。聞かれなかツたらそれまでで引下れるやうな、那様根の浅いのぢやないのですよ。貴方、口でかう言ひますけれど、恁うまで十年越し思続けて、何う思切る事が出来ませうか。勝手なやうですが、察して下さいましと、言ツたのはそれなんです。」
「むゝ、併しこればかりは無理押し付けに出来る事ぢやない。何うでも又聞かれなかツた暁には……。」
「えゝツ、そ、そんなら貴方は……。」
「なにさ、なにさ、此方は未だ、何とも挨拶をしたのぢやないぢやないか。其暁は何うすると聞いて居るのだ。」
「まア、那様事を聞いて何うなさるんです。」
「可いから考へだけを聞かして貰ひたい。さア何うする其時は。」
「なに、然うすりや此儘で。」
と無理に微笑むと見せて、沈んだ影を眼縁に隠したが、
「死ぬまで片思ひで居るばかりですわね。」
「むゝ。」
と僕は稍行詰ツた形で、思はず目を下にした。途端に耳を打ツて、さながら思入ツた声音に、
「あゝ貴方、本当に最う、何処まで人をお虐めなさるの。」
時の拍子であツたか何か知らぬが、僕は此時、言ふ事の出来ぬ心地を覚えた。敢て其悽婉の目眦が、例の蘭燈の下に恐ろしい力を持つ那様方の肌合のものぢやない。顔を見合せたが、最う冗談口も利かれない気になると、調子も妙に変ツて、
「可し、お前の心持は十分に腹へ入ツた。さアそれぢや、本気になツて些少話合はう。」
「えッ、本当。」
と声に迫ツて、躍立つ気勢に、お今は眼を輝かしたが、何を言ふかと思ふと不意に、
「貴方、今日は最うお帰し申しませんよ。」
* * *
事情が通じまいと思ふから、有りの儘を君に話したのだ。去年の春の事だがね、其処で些少妙だが、久し振で上京して来た君に改めて僕の妻を紹介する。此室へ連れて来るが、君今言ツた女がそれだよ。
待ちたまヘ。恐らく僕も娶る筈で居た、桐原家の令嬢の事を君は必ず何とか言ふだらう。地位と言ひ、才藝と言ひ、殊に品性の上に何の缺點もない彼の人を捨てゝ、何で物好きに這麼古物を拾ツたのか。兎に角にまア見てくれたまヘ。
指には絲道が着いて居るだらう。首に枕胼胝もあるだらうがね、談話で想像したやうな女だか何うだか、見ての上で聞かうぢやないか。なに、馬鹿な、何処に酔興で嚊を呼ぶ奴があるものか。
(明治三十九年二月}