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七月二十二日の夜

 歳月の経つのは早いもので、小説家S氏が物故してから、あわたゞしく三年が過ぎた。明七月二十三日は銀座裏の日本料理屋「丹頂」で三周忌の小宴が知友の間だけで催されるといふ、つまり祥月(しやうつき)命日の前の日、私は世田谷(せたがや)太子堂に遺族を訪ねることにした。私は世間からはS氏門下とまで言はれるほど死者の晩年は側近に()した日も多かつたのであつた。従つて亡くなつた当座の間は、私はたびたび仏様を拝みに行つたものであるが、その後私自身にもこれといつて格別嬉しいことがあるわけでもなし、藝術が栄えるではなし、何や()やと生活が、心の(せは)しさが、近来は特にそれを許さなくなつてゐた。のみならず去年の十二月に、忘れがたみの幼い次女が、S氏命終(みやうじゆう)真際(まぎは)に私が買つて行つた瀬戸の火鉢を抱いたまゝ上り(あがりかまち)から土間にのめつて、ひどい火傷をしたことを人伝に聞いて以来、私はひどく気を腐らし、縁起が悪いやら気の毒やらで、自然顔出しするのに拘泥(こだわり)を感じ強ひて控へてゐた。でも、此度こそは是非にもと思ひ決して、ユキを()き立て早めに夕食を済ました私は一しよに行きたがる彼女を連れて家を出た。

 矢来通りの消防署前のホーリネス教会の黒板に、……われ時を知れり、今は(ねむり)より醒むるの時なり——と書いてあるのが不図(ふと)眼に留まつた。病的なまでその聖書の章句が、私の魂を混乱させた。私はわれを忘れて唖のやうに口を動かしぶつぶつ呟きを繰返し、時々立止まつたりしながら考へ考へ飯田橋の停車場へ歩いた。山手線の中でも、功利的に何等かの解釈の実感を呼び起さうと頻りに思案を重ねたが、畢竟、何事も己のはうですすんで時を知ることは出来ない、唯、受身の場合の外は宇宙人生に就いて毫も知り得ない愚しい自分だと言つたやうな、至つて頼りない、(もどか)しい気持であつた。

 太子堂に着いたが、暮るるに長い夏の晩方はまだ薄明りを留めてゐた。停留場から白い埃で埋没した狭い枝道を一丁も入つて行くと、電車やトラツクやの響きも次第に遠のく程に、折からリンリンリンと(ひぐらし)の金切声が、一斉にあたりの多い木立の間に降り(そそ)ぐやうに起きた。私は耳を(そばだ)てユキを顧みて歩みをゆるめた。西の故郷の村の家で午睡の眼を静かに開くと太陽は落ちてゐて向うの山麓で蜩がしげく鳴いてゐるのを枕の上の頭を捩ぢてぢつと聴き入つた時の遣瀬(やるせ)なさが憶ひ出された。行くうち、丘の上の鉄筋コンクリート建ての小学校の新校舎とか、竹藪の中の塗りかへた赤い稲荷堂とか、藁葺の間にペンキ塗りの新しい西洋風の家屋とか、四囲の開化変遷に眼を向けつ、S氏御在生のむかし足まめにここを通つた時分に比べ、何か少時感慨めいた思ひに浸るのであつた。

 二年前に故人の旧友の方々が、藝術壇の各位に醵金(きよきん)を仰いで、買ひ取つてあてがつた荒物屋の、撒き水をした、電燈の暗い、ひつそりとした店先で、乳色のアイスキヤンデーを子供に売つてゐた未亡人は、

「おや、まア、お久しぶりで……」と、幾分テレたやうに白い歯を見せて、突然そこに現れた二人を慌てて迎へた。

 私共は凹凸の土間に履物を脱いで店の板の間に上り、半間の葦のすだれをくぐつて、お店のほか一ト間きりの我楽多(がらくた)を乱雑に詰め込んだ六畳に導かれると、先づ無沙汰の言分け、詫言を並べるのもずゐぶん極りが悪かつた。丁度まだ挨拶のやりとりの終らないところへ、焼けどした女の児が裏口からとことこと駈けて入つて来た。両頬から口もとと(あご)にかけて見るも無惨に焼け(ただ)れ、()へ切らない傷痕からは(うみ)のやうなものが浮き出し、喉の中でがらがらといふ音がしてゐた。

 と見た一瞬、筋を引きつる胴震ひが頭の先から足の先きまで走り、私は低く俯向いてしまつた。

「嬢ちやん、いらつしやい」と、ユキは抱き取るが早いか、直ぐ湧き出た涙をはらはらと零した。

「困つたことをしましたね」と、私も長大息を吐いて言つた。

「えゝ、わたしも、この子は育ててゆく気力がなくなりましたの。こんな情ない顔になつて。火鉢ごと店の土間にのめりましてね、火鉢は真二つに砕け、いつぱいに拡がつた灰の上に突つ伏して(おき)を口に入れましてね、一週間ぐらゐは口が腫れて開きませんでしたの。これでだいぶん癒つたはうですが、いづれも少し日が経つて口を切つて大きくしてやらなければ、自由に食物が入りませんでしてね」

 全く未亡人の言ふ通り、子供はユキの膝を下りると持つてゐたキヤラメルを片つ方に歪んで醜く位置の変形した口に持つて行つたが、唇の両端の上下の皮がくつ着いてゐてキヤラメルほどのものでさへ押し込めば痛むらしく、へんに眉根を寄せて(しか)(つら)をする顔に、また私共は見てはならないものを見るやうに恐る恐る夫々の眼をちらとそそいだ。

「いつそ死んでくれたのならと思ひますのよ」と声を絞り、母性としての際限なき愁歎、譬へやうのない苦悩の表情を未亡人は両手で蔽ひ隠した。「……慶応病院の整形科にかかりますとね、焼けた皮を剥ぎ取つて、腿の皮を切り取つて張りかへてくれるさうですがね、痕には縫目だけのこつて、それも大きくなつてお化粧でもすると分らないくらゐになるさうですけれど、二百円やそこらはかかるさうでしてね、酒屋の二階に間借りしてゐる慶応の医科の書生さんが家へ煙草を買ひに来なさるたんびにさう言つてすすめて下さるんですが、もう怪我してから何んだ()んだ百円の余もかかつて、家賃も三ヶ月分滞つてゐるやうな始末でしてね」

「整形科……それは是非に……」

 私は出かかつた言葉をぐツと咽喉の奧に嚥み込んだ。所詮私如き微力で(びた)一銭も思ふにまかせて助けとぐることは(あた)はないと思へたから。そして又、キヤラメルを口の内でもぐもぐしやぶつてゐる子供を盗み見てゐると、やはり私は、その整形科なるもので、離別した先妻との間に産れた自分の故郷の子供の、六つの時打つちやり放しに他国に放浪して七年も顔を見ない間にヘボ医者の手術から瞼が引つ張つて赤ん眼になつてゐるといふのを、今にも東京に呼び寄せ進歩した技術の力で癒してやりたい、さうして置いたら子供が年取つてから苦しまなくてすむだらうに、不行跡な父として多少でも子供への申し訳にと突き詰めて考へ出すと、私は切なく騒ぎ出して来た心を掻い抱くやうに腕組みして眼を屡叩いてゐた。

 するうち、出し抜けに、

「時に、近頃、あなたのご商売のご様子は如何(どう)ですの?」

 未亡人の問ひに、はツとして私は頭を振り上げた。未亡人の目尻の微笑を見ると私の臆病な胸は俄に熱くなつた。私は言ひやうのない不幸な思ひをした。あの、何時の時か、S氏が故もなく私を怒つて、ヘーイ、君なぞ作家になれるもんかよ、俺にさう言はれて口惜(くや)しかないか、ヘーイ、と酔ひどれて毒吐き出した時、傍の夫人もS氏に追従(つひしよう)して私に投げた口尻の微笑が、咄嗟に思ひ出されたのだ。それは恐らく私に対した時だけかもしれないが、未亡人の、酒に酔つた時のS氏の見よう見真似で、目下のものに遣ふ幾らかナメたやうな口調の影が、殊に今日此頃の(ひが)みつぽくなつてゐる私にぐツと来たといふわけでもなかつたが、しかし女の癖に、割合にアレで新聞の文藝消息欄や広告には注意する方で、まア、無名に近い私などは問題外であるにしろ、故人の仲間で誰それが振るつて誰それが振はない、そんなことを知らうとすることが、(しほ)らしさのない、慎しみの欠けたこと、限りもなく浅間しいことのやうにさへ思へて、つい大人気もなく叩きつけるやうに、

「一向どうもお恥づかしいことで。しかしですね、斯う申し上げるのも何んですが、先生なんかも好い時機に死なれたものですよ。今頃まで生き延びられましても、世の中がすつかり変りましたから……先生の嘗められた苦労より、もちつともちつと苦労を今の藝術家はしなければなりません」

 と反抗的に口を滑らしてしまつた後で、女ひとりと思へばよくよく馬鹿にして自分も飛んだ不遜を口に出すやうになつたものだと、何んとも言へぬ自棄(やけ)クソな、捨鉢な、あああ、と言つたやうな歎息が胸壁を圧して込み上げた。

 つづいて未亡人は、不景気で商売の思はしくない上に、最近は近所にできた公設市場に圧倒されて、もう二進(につち)三進(さつち)もやつてゆけない状態を(うつた)へた。如何(いか)にもそれは(もつとも)な話で、しかも女の細い腕で周囲に対抗しようとして、前の頃は蓬々(ばうばう)と乱してゐた髪もきれいに結ひ、小ざっぱりした服装にも、商人としての真剣さや尋常ならぬ心遣ひが察せられ、平素はさうした愚痴の聞人(ききびと)もないのだらうからと、その、心根にしみじみ同情もされた。が、どうも其日は私の虫の居どころが普通でないのであつた。

 全体、私はこんな立ち入つたことを軽率に言ひたくも思ひたくもないのであるが、故人の親しい友達の皆さんの発起で、途方に暮れた遺族扶養の目的で、一ト口五円の寄附金を文壇の方々にお願ひするといふ(くわだて)を余所ながら聞いた時、北の片州にゐられる故人の正妻なら兎も角、謂はば事情のある内縁の妻である未亡人並びにその間に出来た遺児の世過ぎのために、印刷物を公の文壇の間に配付するといふことは、およそ策の得たるものでない、人情としては涙ぐましい美挙であり、他の窺ひ知らぬ温い友情の発露であることは十分に承知し乍らも、何か非常に不条理な、筋道の通らぬもののやうに思はずにはゐられなかつた、仮令(かりに)百計尽きたとしても。藝術家の最後の理想として、われ陋巷に窮死す——とのS氏のきびしい藝術観と言はうか、生活観と言はうか、とまれ、左様な秋霜烈日といつた、いちじるしい気魄に対して、遺された妻子たちは諸共に饑ゑた犬か猫かのやうに其処辺の道端に手脚を投げ出して死んでしまつたのなら、土埃にまみれてプンプン悪臭の発散する板のやうになつた死骸を通る人々が下駄で蹴飛ばしベツと唾を吐いたりするのだつたら、それを烏の群が集まつて食べるのだつたら、それこそ故人の本懐、貧乏徳利と盃とを前にして貧弱な庭の遅咲きの躑躅の花を見やり伸びた口髭を引つ張りながら、人ト()リ友親ヲ絶ス——と口吟(くちづさ)んでゐた信念の勝利、将又(はたまた)、遺作全集五巻へ錦上更に花を添へるものとして、(けだ)しその(ほこ)りと幸福とはどんなであつたであらうか! 私には切歯し、声を挙げて号泣しても足りない思ひがある。

 それこそ、未亡人のお心掛としては、まことに感心な、見上げた、真似のならないことではあるが、箸の上げ下げにも、死んだお父さんの流儀ですから、流儀ですから、と二言目には言ひ出すことを忘れないなら、おめおめ他人様(ひとさま)の御喜捨に縋つて日々不平を言ひ、まだ不足々々の思ひをするとは、何んといふ生くるものの悲哀、生存の醜さ——と言つて何も決して決して未亡人ひとりの御姿とは申さない迄も、それが取りも直さず私の姿であり、よし万人の姿であらうとも、私にはこの人生及び藝術なるものが、理想と実際が、ただただ残念で残念で堪らないのである。

 斯うした非難と矛盾の感情とを噛み締めながら、ややして私は、痺れた足でふらふら立ち上り、床の間に積み重ねたビール箱の上のお粗末な御仏壇に向ひ、線香を立て、(かね)をチーンチーンと三つばかり鳴らして、藝術院善巧酒仙居士——と書いた位牌に掌を合せ、毎度のやうに、(どうぞして私の拙い小説にも日の照る時が訪れますやう、先生のやうに文名が挙りますやう、出世の望みがかなひますやう、南無)と、一心こめて祷らうとしたが、複雑な思ひ、不謹慎な心、何一つお役にも立ち得ないに拘らず、とや(かく)ケチケチした横着な批判、余計なおせつかいを加へるなど、それらの邪念の(やま)しさが胸の中でごつちやになつて、狼狽し眼を伏せて、逃げるやうに暇乞(いとまご)ひして屋外へ出た。

 私はたしかに呪ひを受けて、顔色蒼然と、紫色になつた唇をぶるぶる顫はし、よろよろと帰途に就いた。渋谷で郊外電車を棄て、省線に乗り替へ、代々木でまた乗り替へると、「ああ、頭が痛い、ふとすると眩暈(めまひ)がくるかもしれん」と、私は両手で頭を抱へた。

「困りましたね、わたしの膝に伏しついてゐて下さい」と、ユキもおろおろ声で言つた。

 車内の人目も憚らず私はユキに凭れかゝると、行きなり怪しい睡魔に襲はれて、とろとろと意識が間遠になつて行つた。

 ——共同便所の入口に友達を待たして置いて、自分はぐんぐん家に入つて行き、出て来た顔の丸い色白の奥さんに取次を頼んだ。ところが、この偏屈な、気むづかしい大家(たいか)が会つてくれることになつて、自分が玄関に上つたところへ、をかしなことには、奥さんが瀬戸の大火鉢をかかへて出て、(これを二階に持つてあがつて下さい)と命じた。私はかかへようと焦るけれど、重くて持ち上げられず弱つてゐると、二階からとんとん梯子を踏んで大家が降りて来、なんなく火鉢をかかへて廊下伝ひの落間(おちま)に私を通した。二人が初対面の挨拶をするはずみに二人の額と額とがカチ合つて、双方の眼から火花が散つたが、二人ともあツ痛いとも言はねば、笑ひもせぬ。大家は一段高い室に上つて私を見おろしながら親切に話してくれてゐたが、私は共同便所に残して置いた友達が気がかりで仕方なく、(わたくしはバツトを吸はなければ片時もゐられません、そこまで一寸買ひに行かして下さい)と許しを乞ひ中座して外へ出た。(君、君、大家が会つてくれたよ。不思議ぢやないか。では、失敬だが君は××さんのはうへ独りで行つてくれたまへ)と自分が言ふと、友達は(ぢや僕、夜汽車で行く)と不機嫌に言つてぷいと(きびす)を返した。自分は再び大家のもとに引き返さうとしたが、今度はどうしても家が分らない。()り立つた花崗岩が銀白色にぎらぎら光る傾斜した街に駈け上つたり、と思ふと窪地を尋ね歩いたり、狂気のやうになつて捜してゐるうち古寺の台所口ヘ出た。それが芝の青松寺である。お寺の娘さんが、(その家ならこの前の家ですのに)と言ふ。私はほツとして玄関に入ると、奥の方で天狗のやうな四角な顔のS氏が、(野幇間<のだいこ>め! あんな野郎は贋物だよ贋物だよ。ちよつとも心掛がなつてないぢやないか、藝術家になどなれるものか!)とかんかんに怒つて夫人と共に自分のことを罵つてゐる。私はわツと泣き伏した……

 ユキが、あなたあなた、と(しやが)れ声でゆすぶり起す先に、私は自分の泣声で眼が覚めてゐた。車内の人々はびつくりして、或者は立ち上つた。ピリピリと笛が鳴つて電車が一時停車をしさうな気がした。(いぶ)かつて車掌が訊き(ただ)しに来たので、ユキが私を見守りながら何か言ひわけをした。夢の中の(贋物だよ贋物だよ)との罵声がきざみこまれ、眉間が裂けるやうにづきづき疼いてゐた。間もなく全身の脂汗が引くと、ぞくぞくと寒気が襲つた。飯田橋駅で下りるとユキは注意しいしい私の手を(たす)けて見附(みつけ)へ出た。暗いお濠の上に点在したボートのアセチリン瓦斯(ガス)の灯が、二重三重に私の衰へた眼に(ぼか)して映つた。ユキの言ひなりに私はそこの氷屋の縁台に腰かけて、心悸の亢進を鎮めた。そしてサイダーを飲んでゐるうちに、だんだん元気が回復して来た。私は二三度頭を振つて見て、

「もう大丈夫だ、気遣ふな」とユキを慰めて言つた。

 神楽坂の夜は今が人の出盛りであつた。いとけない児は手をひかれて立ち、年老いた人は杖にすがつて歩いてゐた。私共は両側の夜店の、青々とした水を孕んだ植木、草花の鉢、金魚屋などの前で足を止めたりして坂を上つた。肴町の交叉点近くの刃物店「菊秀」の前まで戻ると、(とう)から散歩の度毎に覗いて、欲しくて欲しくて堪らなく思つてゐたナイフを、今夜もまた見ようと思つて明るい飾窓に近づいた。

「あのナイフですよ。僕が欲しがつてゐるのは!」と、私はユキに人さし指で差して言つた。

「お買ひなさいましよ。三円五十銭?……いいぢやありませんか。思ひ切つてお買ひなさいよ。買ひそびれたらなかなか買へませんよ」

 ユキの応援にまだ躊躇してゐると、前垂れがけの小僧が、へえ、どれですか、と寄つて来たのに誘はれて到頭私は店の中に這入つてしまひ、あれこれ手に取り上げて鑑定したが、結局、(あらかじ)め気に入つてゐた品にした。私は大そう満足であつた。この一挺のナイフを守り刀にして魔を払うて行かうといつたやうな至極子供らしい考へに興奮して、大急ぎで家に帰つた。

 私が思ひがけなく買物をしたのでユキも喜んでくれてそはそはしてゐた。鞘には三つのボタンがついてゐて、安全弁を左に廻して置いて一つを押せば長い方、一つを押せば短い方、一つを押せば爪切りが跳ね起きる仕掛になつてをるのを、私は代る代るボタンを押してはパチンパチンと跳ね起したり、折り畳んだりしてゐたが、突如、

「どうも、こいつは、狂ひが来さうだな」

 さう言つて私は顔を曇らせた。あれだけ欲しく思つてゐたものをやつと手に入れれば入れたで、直ぐ自分からケチをつけ出した不仕合せが恨めしかつた。私は机の上にはふり投げたり、未練げに手に取つたりして暫らくの間苛々(いらいら)してゐたが、

「やつぱし、五円五十銭といつたアハビ張りの方が簡単に出来てゐていい。あの方にすればよかつた。失敗した!」と、私は絶望的に言つた。

「ぢや、アト二円足せばいいんですね。それではわたしが買ひかへて来ませう。あなたのことだから、さう言ひ出したら、夜つぴて眠らないんですからね。わたしまで眠られやしない。……取つ替へて来て今度はイヤとは言ひませんね。よろしいですか?」

 心配して着物も着替へず側に寄り添つてゐたユキは、斯う念を押してナイフを蝦蟇口の中に入れ急ぎ勝手もとの下駄をつつかけたが、振り返つて、「ほんとに五円五十銭も出せば、夏羽織だつて古着なら相当のものがあるぢやありませんか。明日の会だつて、あんな染め直しのよれよれを着て行つて、あなたはそれでよくつても女の恥になりますよ。羽織を買はうと言へば呶鳴り散らしたりして、近頃ほんとにあなたは病気ですね」と言ひ捨てて出て行つたが、ものの三十分も経つたと思ふと、顔ぢゆうに汗の粒を浮べぜいぜい息を切らして帰つて来て、ナイフを手に握つたまま自慢さうに講釈を始めた。

「これは、ヘンケルと言つて、ドイツの会社でも一番有名だつて、さう主人が言ひましたの」う

「さうか、ヘンケル……なるほど」と、私はほくほくして言つた。

「先刻のはハーデルと言ふんですつて。でも、ハーデルよかヘンケルのはうが一枚上ださうですよ。この上の品は菊秀にはないのですつて」と、ユキはいよいよ調子づいた。

「さうか、ハーデル……あなたも感心によく覚えて来ましたね、お利口さん、どれ、かしてごらん」

 私は小づくり乍ら頑丈に出来たヘンケル製とかを手の腹に乗せ首を傾げて重量を計つて見た。それから爪で中身を起したり、息で白く曇るのを袖で拭いたりして、ユキの鼻先に突きつけて()り廻した。

「こうれ、おれの言ふことを聞かんと、これだぞ」

「おゝ、怖い……」ユキは大袈裟に笑つた。

 (やが)てユキは私に言ひつかつてナイフを入れる袋をこさへるため、押入に頭を突つ込んで古葛籠(ふるつづら)の中を掻きまはしてゐたが、厚板の小切れを取り出して、火熨斗(ひのし)をかけたりしてゐる間、私は彼女の傍に仰向けに寝そべつて、猶、ナイフをつまぐり、刃先を飽かず眺めてゐた。

 暫らく沈黙がつづいた。

「あなたのことですから、物を大事にする人ですから、一生涯持つてゐらつしやるでせうね」

 きゆうきゆう縫糸を爪でこきながら、(はな)をすすつてユキは何気なく、そんなことを言つた。

「うん……」

 私は軽く頷いたが、途端、今までの喜び全部が、暗い淵の底に石でも(なげう)つたやうにドブンと音を立てて沈んで行つた心地がした。S氏が世田ケ谷のごみごみした露地内の、狭苦しい、蒸し暑い家で、口をパクパク二つ三つ喘がせて息を引き取つた時、隣家の垣根を飛び越えて来た大きな虎猫がミヤンミヤンとドラ声で鳴いて近寄ると、未亡人が、「それ描が来た!」と縁側に出て手を上げて追つ払ひ、室に駈け戻ると生前S氏が使つてゐた仕事机から、錆びた、安つぽいナイフを出して、死人の枕もとに置いたことが、ふーツと頭に()き出したのだ。——実のところ、私もそんなに長く生き永らへる自信は持ち合せてないのであつた。時とすると死が足音をひそませて忍び寄るやうに思へることが度々である。定めしユキ一人に看護(みと)られ、何処かの佗び住ひで寂しく閉眼するだらうが、生臭いにほひを嗅ぎ知つた黒い野良猫が黄金(きん)色の目玉を光らせて死体を喰ひに来た場合、剃刀は平日から持つてゐないので、泣き沈んだユキが、「しツ!」と猫を叱りながら周章(あわ)ててこのナイフを取り出して枕辺に置く——続いてさうした光景が眼に見えて描かれて来ると、そんなこととは知らずに一生懸命に針を動かしてゐるユキの顔が、もう正視出来なかつた。

 だが、と何ものかが絶え入るやうに滅入つた自分を強く()ね返した。自分一箇としては、独生独死は、かねての覚悟であり深く思ひ知つてゐる筈ではなかつたのか? 今日私がどうにかしてほんに見窄(みすぼ)らしき存在にありついたのも、先師藝術院ゐまさずば、このたび空しく過ぎなまし、(ひとへ)に専らS氏の矜哀、彼岸からの鞭撻によるもの、引いては又、あれを思ひこれを思ひ、(たび)に落涙に打咽(うちむせ)ぶのであるが、さりながら、S氏が例の口をパクパク動かして名残(なごり)おしさうに死んで行つた際、一座の恋慕涕泣の真只中、私も外儀(そとみ)の姿は如何にも殊勝らしき悲歎の色を装はうてゐたとは言へ、口でこそ何んとでも言ふとは言へ——やれやれ、これで(らち)があいた、実に骨の折れる人であつたが、ああ助かつた——自分は自分の狭い安堵の心を神の前に秘め隠すことが出来ようか!

 せめてもの自分の改悛が最早神を恐れない程に高くしようとして、えんさこらさと梶棒でも()くやうに、私は幾度もお念仏を唱へた。

 眼をつむつてゐると、S氏未亡人の境涯が(あらた)(あはれ)みを以て心底から同情された。そして二時間前の浅墓な、感情にかられた末梢的な非難が又改めて悔いられた。人の身の上わが身の上、根本のことは、大した悲劇でも喜劇でもないとまで今は容易に言ひ得るのであるが、地上の娑婆にあるあひだは、根無草のやうに違順した愛憎の花が咲く。それにつけても、肉親らしいものも寄方(よるべ)もないユキの身の振り方——我慢もいい加減にして、この際ユキを故郷に連れて帰り、両親に引き合せて因縁をつけ、継子ながら自分の子にも因縁をつけて置いてやることが、意気地ない哀しい打算ではあるけれど、私に死別した後の彼女の平安のために、何より焦眉の急であることに思ひ到つた。

(了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/10/12

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嘉村 礒多

カムラ イソタ
かむら いそた 1897~1933 山口県に生まれる。葛西善蔵の流れを汲み「私小説の極北」といわれる諸作品を遺した、得も云われぬ或る優れた小説家と云わねばならないだろう。幼少から成年まで多彩なコンプレックスそのものを内的力として、ほとんど自虐的に私小説を純文学として昇華した。

掲載作は、1932(昭和7)年「新潮」1月号に初出の、一読まことに特異な小説で言葉を加える余地もない。作者の死がこの翌年であることをことさら言い添えておく。

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