横浜市会の新選組生き残り
風雲急を告げる幕末のころ、天然理心流の剣豪、近藤勇が率いる「新選組」が会津京都守護職の信任も厚く「誠」の旗風堂々と一剣をもって王城の治安を守り、特に池田屋事変で勇名をとどろかせた話は良く知られよう。
翻って一世紀後のこんにちに至り、横浜政界の草分け「川村三郎」が元新選組伍長「近藤芳助」の変身とわかった。
「この話題の主こそ、あなたのおじいさんですよ」
作家の釣洋一氏から突然そう名指しされたのが、筆者の義母中田芳江であった。
事実は小説より奇なりという。
新選組研究者は偽名説をたてるが、近藤は養家、川村は生家である。
すなわち文明開化のミナト横浜で帰商し、その振り出しが代言人であった。現代の弁護士に相当し、この一条は明治二十四年十二月刊行の交詢社「第二版日本紳士録」に見られる。ほかに土地家屋賃貸業、(株)横浜四品取引所、(株)横浜株式米穀取引所の各理事、横浜商業銀行および横浜時事新報の各役員を務め、また横浜三争件の一つ共有物問題の追及で名をあげ、よくいう金港でも珍しい自由党に籍を置く民権家として神奈川県議会の横浜区補欠選挙に初当選し、県会議員四期、横浜市会議員五期を歴任した。
さて、三郎が県会に進出した明治二十年十一月といえば、横浜市制の実施目前であった。貿易商中心の商人派と公民主体の地主派が台頭し、地主派は自治制啓発のうたい文句よろしく横浜公民親睦会を開いて話題を呼んだ。会場の
その記念写真が残る。得意満面の三郎はむろん、仏人ボアソナード、光明寺三郎、高嶋嘉右衛門らの顔ぶれが並ぶ。
地方政治家としての川村三郎であるが、神奈川県会では常置委員に選ばれたほか、議員歳費引き上げ反対の第一号であった。議事録を開くと、実によく質問に立つ。
片や横浜市会での活躍も新聞各紙を飾るが、何しろ初度選挙から連続四回当選し、それから明治三十二年一月の半数改選に伴う抽せんでは、初めてくじ運よく留任となり、つごう五期を数え、渡辺福三郎、西村喜三郎と共に「市会の三・三郎」の呼び名が高かった。比肩する元老は安部幸兵衛、石川徳右衛門、増田勘七、戸塚千太郎、左右田金作、福島辰次郎、山崎弥五郎、矢野甚蔵とされ、これらの議員が議会運営をリードした。
三郎は、横浜市会「常設委員制度」の建議者で、また水道常設委員の最長老と自他ともに許し、「水道先生」のあだ名を持つ。
水道常設委員は経営にも参加し、諸会議や決裁事項をはじめ、わらじがけで水源地や工事現場などを回り、さらに水道債券の売りさばき、あるいは、給水制限の陣頭指揮までやった。
家庭に目を移すと、妻フクとの間に四男ニ女をもうけた。長女登喜子は若死にし、二女ツキは桜木町に住む県議須田重次郎の長男正道と結婚した。新選組びいきの旧幕医学所頭取、時の軍医総監、松本順(良順)は、この須田家伊藤痴遊の生家に当たる関内の薬種商出雲屋へ特診に訪れ、そのたびに川村家へ寄り道し、いつとなく四男徹に目をかけ、将来は医者になれと勧めていた。これが関内六道の辻「川村歯科医院」の由来とか、徹は東京歯科医学校へ入学したとき松本順の墓前へ真っ先に報告している。
松本順は、七十六歳の明治四十年三月に大磯で病没して町葬の礼を受けた。大磯には松本順の墓が二つある。一つは俳句で有名な「鴫立沢」の境内にあり、その建立時の庵主を二宮松汀といい、三郎の孫「俊枝」のしゅうとであった。夫は二宮雄という。
また、三郎は旧幕臣の組織「同方会」の一員で、会長榎本武揚の書幅などを残すが、入会は石橋絢彦の紹介によった。「かねのはし」の異名を持つ吉田橋を鉄筋コンクリートに架け替えたときの工学博士で、なお三郎が住んだ南太田町字東耕地の隣人で文筆をよくし、著述の中に「新選組池田屋夜襲一件」が混ざる。
三郎は信心があつかった。一般に赤門で通る光明山遍照院東福寺や野毛不動と呼ばれる成田山延命院の檀徒総代を務めた。
また川村三郎の名が並ぶ金石も残る。外川神社の開山主追善碑で、同社は保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町に現存する。「語られぬ湯殿にぬらす袂かな 芭蕉」
羽黒山、月山、湯殿山、修験道ではこれを出羽三山というが、関東衆は「奥の三山」と呼び、かつ湯殿山を総奥の院と唱え、なお芭蕉が一句ひねる温泉の湯滝を御神体とあがめ、社殿はない。
開山主とは先達の清宮与一をいい、羽黒山ろくの外川仙人大権現の分霊を勧請して小児の虫封じと海上安全に霊験があった。
建立発起人は、ハマ政界の川村三郎、須田重次郎、伊藤重吉、佐藤政五郎、関内商人の諸星嘉七、今井荘司である。
なお、三郎の住む南太田町にも「羽黒山外川大神」が鎮座し、俗に「お仙人様」と親しまれていた。
変わった口碑も伝わる。神奈川の清水山に鎮座した金歯のエンマ様が、故あって中区山田町の観音堂へ合祭の折という。エンマといえば、うそつきの舌を抜く地獄の大王であるが、事もあろうに金歯を取られて「歯抜け閻魔」の異名を奉られ、信者を嘆かせ、見かねた川村三郎が以前にも勝る金歯を寄進したとか、詳しくは横浜郷土史研究会「横浜の伝説と口碑=第三編」に譲る。
さらに国鉄「横浜線」沿線の旧家から川村三郎と係る古文章が出た。金融、不動産関係の書類が多い。同線の前身という横浜鉄道(株)の敷設時代に当り、実際は長男静一の仕事であるが、それはそれとして、郷土史家・内田四方蔵氏の発見によるだけに、横浜線の側面史につながる期待が大きい。
このように後半生を全うして、大正十一年七月七日の「横浜貿易新報(第七六七七号)に、次の死亡記事が載った。
○ 川村三郎逝く
元県会及び市会議員川村三郎氏は腎臓炎に罹り瀧頭の別荘で静養中であつたが遂に尿毒症を起して五日正午逝去した。享年八十歳。氏は旧幕臣で明治三年横浜に来て商業を始め漸次名望を得て同廿年神奈川県会議員に挙げられし、以来数回県市会議員に当選して功績多く其の盛な当時は政友会神奈川県支部の幹事を為し、故平沼専蔵と共に名物男の一人であつた。因に葬儀は八日午後二時、途中葬列を廃し南太田赤門東福寺で営む由。
率直に言って大方の関心は、むしろ前半生にあると思う。
三郎は天保十四年(一八四三)五月に旧幕臣川村氏の三男として生まれた。えとは
江戸の武家地には町名がない。川村家は代々「川向うの新発田藩下屋敷東塀沿い」にあったとか、深川で産湯を使った江戸っ子といえよう。
晩年の三郎は「横浜市蒔田町字山根」に隠居所を構える。史跡「蒔田城跡」に近く、そういえば生家川村の近隣にも表高家吉良孫六郎の下屋敷があったと語る。
最後の蒔田城主は後北条氏の姻族として房州へ転退した吉良氏朝であるが、その子頼久は足利源氏の名跡がものを言って同族の吉良義弥と共に徳川家康から高家再興を許された。しかし同姓同職の紛らわしさから、幕命やむなく頼久が蒔田氏に改まる。
そして蒔田義祗、義成を経て義俊の代に、播州赤穂浪士が本所吉良邸へ討ち入り、亡君浅野内匠頭のかたき上野介の首をあげ、このため吉良氏はお家断絶、蒔田氏が旧姓に復した。
妙なぐあいに「元禄忠臣蔵余話」となったが、三郎は、そんな長口舌の弾みに、ふと生家付近の俗称を思い出し、「そこがこの話のみそだ」と大笑いしてる。
初名が三郎、通称が芳助、実名が正澄であった。元服は、一族の川村文助(正朝)が冠親を務め、通し字の「正」を贈られた。晩年は「春辰」と号した。
三郎は、両親と早くに死別し、江戸牛込市ヶ谷甲良屋敷南方に住む小負請近藤芳三郎の養子となる。
生家川村は、相州戸張城主川村山城守秀高の末孫とされ、また養家近藤は遠州井伊谷五近藤家の流れをくむ近藤庄三郎正則を家祖とする。系図自慢は置き、共に先祖は冬嗣流秀郷一族であり、両家の本氏は源平藤橘の四大姓に入る藤原氏であったから、この縁組みは「同姓相応」とする武家法度にかなう。
養家近くにあった剣術天然理心流近藤周助道場に通った。師の周助は近藤勇の養父であり、入門は勇との出合いに通ずるが、実は義兄川村恵十郎が同流の松崎和多五郎に師事した影響が強い。
天然理心流は、いなか剣法とされるが、同流の小野田東市は神奈川奉行支配武術稽古所「金武館」師範および講武所師範役であり、そこに天下の剣法という意外性を秘めていた。講武所といえば、一門の川村順一郎「一匡」が三役に入る頭取を三回も務めたほか、恵十郎が、ここで小野田から天然理心流の奥義を授かる。
では、三郎の手並みはいかに、伝法は不明だが、関内壮士の井上仁太郎こと伊藤痴遊の「半生の回顧」に、次の下りがある。
鈴本(稲之輔)と、同じように、剣術が上手で、人に知られたのでは、川村三郎が居た。鈴本に比べて、人物は、一段、上であったが、鈴本のやうに、派手な生活をしないで、金を散じなかつた。その上に、何方かと云へば、締り屋の方であった為に、鈴本ほど、声名はあがらなかつたが、市会議場の、闘将の一人としては、相当に知られて居た。
剣術じょうずの証言や人物評はえがたいが、今一つ裏づけを求めると、三郎に仕込まれた長男静一の居合いが凄い。昭和十八年の「郷土神奈川」五月号に載る「第百三十七回行事、試し斬り、日本試断会々長川村陽堂氏」という記事や川村文書の「刀剣押形集」に散見する「一の胴ニの胴土檀払ヒ味上々」という書き込みなど、思わず目をみはる。
三郎は三人兄弟の末っ子で、長男正芳(正義)、二男は隼人(隼雄)と称したが、いずれも「本所の悪」に染まり、三郎は養家を勘当され、いわゆる浪士の苦渋をなめて新選組に加盟する。
生き残り隊士として、三郎はみずからその体験をつづったが、私信の形をとり、横浜ではその存在を知る者がなかった。
注目を浴びたのは、作家の釣洋一氏が横浜市図書館の「郷土よこはま」に「金港新選組雑爼」と題してその事実を発表したことによる。昭和五十年九月発行の第七十三号であった。
さらに釣氏は昭和五十一年刊「新選組秘録」の一編「川村三郎の軌跡」で、ここに至った苦心と成果をまとめられた。発行所は「新人物往来社」である。
新人物往来社と言えば、去る四十八年刊の「新選組事典」に、次の解説が見られた。「川村三郎手記」
京都府綜合資料館の貴重書目録中に「新撰組往時実戦談書、写一軸近藤芳助(川村三郎)著」という一巻が記載してある。貴重本なので所定の手続を経て閲覧する必要があるが、この手紙が資料として資料館の前身京都府立図書館に入った経緯は明らかでない。
しかし明治四十一年に物故した、高橋正意という人が市、府会議員等の公職を勤める傍ら歴史を探究し、誰も顧みる事のない新選組の事績を探り、生き残りの人達と文通を交した記録の断片として、図書館に寄贈されたのであろうと推察される。
ちょうど巻紙に筆写した形で、約六米六十糎の長さに及び、頭の説明文と本文とが同じ手であるから、残念ながら川村三郎の筆ではない。
ただし内容に行っては興味をひく点が多々あり、例えば流山に近藤勇が捕われるくだりなど従来の諸説に無い真相を伝えており、また牛込市ヶ谷の近藤の道場の位置なども、具体的に説明されており、川村三郎自身、近藤芳助という名であった維新当時、新選組に志願して転戦した有様を順不同ながら書きつらねた文は、いちいち史実に符号するという点で、今後も研究の余地あるものと思われる。
その前文はこの度、新人物往来社刊釣洋一著「新選組再掘記」に載せられている。
義母は、釣氏の処女出版「新選組再掘記(昭和四十七年十一月刊)」を通じて「新撰組往時實戰談書」の所在を知り、筆者といっしょに京都へ飛んだ。目録では、近世古文書の貴重図書第二百七号に指定され、種別は「特」、分類番号は「九二七」、図書記号は「四三五」であった。そして現物を入念に閲覧した。旧新撰組近藤芳助事川村三郎氏 江州国友村出所ニテ 目下横濱ニ住居セラレタリ 該伝書ハ同氏維新際イノ實戰譚ノ書ナリ
謹啓 薄暑之候 御全家御揃益御清穆御凌被為在候段恭賀之至リニ奉存。扨次ニ迂生無矣乍憚御放念可致下候。
偖 先般不遜ヲ不顧弊家々族ト撮影(之分)拝呈仕處 今般尊家御家庭撮影御贈與以下難有頂戴仕永々敬意ヲ表シ可申儘 爰ニ奉謹謝候。
新撰組在京當事ノ御記臆御示シニ能リ(御委ハしきニハ)敬服之外無之 當時を追想スレハ迂生血氣夢中時代中ノ夢中ニテ其事績慙愧ニ不堪候
御書面中新撰組ノ歴史御諮問有之候所 京阪敗走(總テ當時ノ書類等ハ自分負傷セシヲ以毫モ無之候)后負傷者ヲ集メ又新ニ加盟者ヲ募リ(江戸ニ滞在上野寛永寺ニ慶喜公ノ警備被仰付)○歩貳小隊ヲ附属トシテ○(其後御暇ヲ願ヒ)甲州ニ出発 途中勝沼驛ニ戰ヒ同所ニ敗レ 武總境流山ニ募兵中 近藤勇及隊中若干名有之少數ノ折柄 板橋總督府密ニ大兵ヲ梁船ニ乗セ古河より坂東太郎(川ノ名称)ヲ下リ數拾艘流山ニ着岸スルヤ大兵ヲ以勇ノ本陣トセシ家屋十重廿重ニ包圍シ如何ントモ爲之能ハス
従是先甲州出発ノ前 新撰組ノ名称ヲ廢シ (勇ハ)鎮撫隊々長大久保剛ト僞名シ 土方歳三氏川才三 總テ鎮撫ニ名ヲ借リ流山屯營も又其趣意ニ外ナラス
依テ(勇其他)包圍後使者ヲ以總督府ニ於テ鎮撫隊長ニ解隊之上板橋驛ニ來ルベキ旨被申渡 折柄隊中ノ者貳三名ヲ除ク外歩(兵)ヲ引卒シ野外練習之爲壹貳里ヲ隔ツ山野ニ有リ力戰スル事無能
勇ハ已に割腹ノ決心ヲ以暫時時間ノ猶豫ヲ乞ヒ貳階ニ昇リ三四(名)會合ス 土方ノ曰ク 此所ニ割腹スルハ犬死ナリ運ヲ天ニ任セ板橋總督府江出頭シ飽ク迄鎮撫隊ヲ主張シ説破スルコソ得策ナラント云フ
此議ヲ諾シ 若徒壹人 口付(取)壹人 馬上ニテ板橋エ出頭スル事ニ決スルヤ大兵不残引揚ケ 使者ハ飽迄温順ヲ装ヒタリ
之レ總督府ノ策略ニテ 疾々大久保剛ハ近藤勇ナル事ヲ知ラレテノ上如斯ノ次第ニ立至リ 又途中ヨリ大隊ニテ圍ミ 板橋總督府ノ陣營ニ着スルヤ帯剣ヲ取上ケ 人垣ヲ作リ糺問ヲ爲シ 勇ノ面識アル者ヲ出シ近藤勇ナル事ヲ確定スルヤ 種々の詰問スルモ一言も吐露セザルより遂に王子瀧乃川ト申所ニ而斬首シ京都加茂川原ニ送レリト聞ク(リ梟首セラレタリト聞ク) 今瀧ノ川ニ勇氏ノ墓アリ
迂生等 当時ハ敗兵ヲ引キ同志數名ト水戸海岸ヲ經テ陸奥白川ニ出 非常ニ難苦 會津城下ニ着ス 同城下ニ於テ更ニ新撰組ヲ組織シ諸方攻撃ニ防衛ヲ怠ラス
従是先 土方歳三ハ流山より單独計ル所アリテ勝海舟氏ヲ訪ヒ勇救護ニ盡力セシモ功ナシ 迂生等ト別レ大鳥圭助氏等ト計リ宇都宮及壬生城ヲ攻メ日光山より會津ニ出テ 夫より奥羽藩々ニ會藩ニ同盟策ヲ勉メタリ 又其後同氏ハ函館ニ渡リ榎本氏等ト會シ大イニ憤戰シ 戰死セリ。
新撰組ノ事績又其歴史ハ湖江ニ毫モ残ラザル様迂生等ノ希望スル所ナリ 故何となれば假令僅ニ美挙アルモ大体ニ於テ大義ヲ誤ル蛮勇者ノ集合ト云フ(ヨリ外ニ名義ナシ) 元來新撰組ノ初メテ起ルハ御聞及ヒノ通リ元新徴組ノ(幾部分)京師ニ残リ勤王ヲ基トシ国家ニ盡スト云フ名分ナリ 之レ迂生等微力ヲ盡サントシテ同志ヲ盟約セシ所ナリ
迂生等ノ着京セシハ壬生村ニ芹澤鴨ヲ殺害セシ後ニテ勇氏江戸ヘ中途ニテ來リ同志ヲ募りし乙丑ノ(仲)秋ナリ
近藤勇氏ハ江戸牛込市ヶ谷甲良屋敷ト云フ所ニ養祖父前ヨリ撃剣道場ヲ開キ(其比如斯剣術師範多數アリ 皆浪人道場ト云フ 主幹ハ何藩何々ト云フ)諸藩士幕臣江教授スルヲ業トシ可也 立派ノ道場タリ(天然理心流) 勇氏剣道ニ達セシ人ナリ 又才氣アルヲ以養父武平内弟子ナル勇ヲ嗣子トス
沖田總司 永倉新八 又同様内弟子ナリ
迂生等 若輩ノ比より近藤家ノ近隣ニ住居セシ旧幕府ノ小臣者ナリ隣友ト伍シ撃剣ノ稽古ニ参加セシモノナリ
迂生ノ父ハ貳才ノ時母ハ十才ノ時没スヲ以文學ノ素養ナク武又同様 氣儘放蕩ニ而已歳月ヲ送リ 兄二人アルモ又身治ラス皆悪友ニ交リ不良ノ事而已 折柄京三條小橋ニ於テ勇氏外拾名程長州ノ浪人ト戰ヒ出クヲ聞ク
幾程ナク勇氏江戸ニ來リ士ヲ募ル 迂生等同志之結約ヲ爲スモノナリ 乙丑ノ晩秋 貴地ニ登リ組中ノ様子ヲ視テ解約セントスルモ不許 結局死サゞレハ脱隊スルヲ得ス
不知不識内戊辰トナリ 正月三日伏見奉行邸ニ在營中開戰トナリ 同夜伏見町(兵火ニ罹リ)不殘焼失ス 淀町ニ引揚ケ 翌四日鳥羽海道ニ而小戰亙ニ引揚ル 五日拂暁より激戰セシ味方敗セントス 之ヲ回復セントシテ(今日云フ言葉ニ)突貫(鎗ヲ入ル)千両松際ニ於テ激戰數刻 此時會藩及新撰組ノ者死傷多シ迂生モ右腋より腋下ニ銃丸ヲ受ケ重傷ナリシモ幸ヒニ引退ク事ヲ得
淀ノ大橋ニ到着スル時 味方ノ臆病者 橋ニ火ヲ放ツ者アリ
驚テ曰フ 伏見鳥羽海道ニ味方澤山戰フ者アリ 何爲メニ橋ヲ焼失セントスル歟ト負傷も忘レ叱咤セリ
夫より負傷手當ヲ淀城ニ入リテ爲サントスも既ニ城門ヲ閉シ入ル事難シ 依テ舩ヲ雇ヒ淀川ヲ下ラントス 山崎ニアル藤堂家ハ既ニ東軍ノ旗ヲ撤去シ帰順セシヲ以通行ヲ止ムト云フ 貳三同志者(内輕傷アリテ)切死セント云フ 其擧動ヲ見テ密ニ通舩セシム
五日夜半過大阪八軒家京屋ニ着ス 負傷者充満 治療ヲ施ス事不能 翌々七日大阪城中ニ入リ 僅カニ治療ヲ爲スモ既ニ三日間已上洗滌スラ爲ス事不能が故ニ身体も腫レ上リ發熱シテ人事不省ニ相成 拾日迄夢中ニ而臥床ス 四辺重鎗負傷者而已
拾日夜ニ至リ城内放火セシ者アリ 実ニ名状スヘ(ベ)カラサル騒動ニ而 折柄自分ノ兄ガ騎兵隊差図役(指揮役)ニ而入城シ 迂生ノ負傷ヲ聞キ病室ニ尋來リ 自分ヲ兄ト兵士壹人ニ而背負ヒ呉 京橋口より淀川ニ出テ舩ヲ雇ヒ天保山沖合ニ警備シタル富士山艦ニ乗組ミタリ(旧幕府ノ軍艦ニテ榎本氏艦長ナリ) 爰ニ始メテ完全ナル治療ヲ受ケ 拾壹日夜抜碇
拾四日夕横濱ニ着シ 佛語学校ヲ直ニ負傷病院ニ宛 幕臣會藩新撰組等混淆シテ佛人ノ醫師ノ治療ヲ受ケ 貳月貳拾五日比迄横濱ニ治療ヲ爲シ 銃傷ハ快方ニ向ヘハ速カナル故出院ヲ乞ヒ 江戸ニ至リ見レハ 本隊ハ慶喜公上野寛永寺ニ恭順爲シ給フ警衛申付ラレ屈伸モ不自由ナル勤務ヲ爲シ居ル旨ヲ聞キ 同所ニ至リ見レハ 近藤勇氏公ヘ御直々甲府城ヲ守リ東山道ノ防備ニ宛ル願ヒ許可ヲ得 僅々二日間に軍備ヲ整ヘ出發セントス
依テ迂生ハ負傷全ク癒ヘサルモ出發スル列ニ參加シ 甲州郡内道中難所ヲ經テ甲州勝沼ニ達ス少々手前坂路アリ 此下一円土州大垣ノ大兵アリテ戰端ヲ開ク 壹日ヲ支ヘ敗ス
從是江戸ニ引揚ケ 夫より前述ノ流山ノ稿ニ移ル(從テ思ヒ出セシ儘記載セシヲ以不学不文拙筆前後皆御判讀乞而已)
會津滞在 諸口防戰故ニ吾々隊ハ元斎藤四良(一)ト申古參人仮ニ隊長トナリ屡白川口ヲ逆襲シ 白川城ヲ取リ 亦落城シ 再三攻落互ニ在リテ 結局同城守ルヲ得ス
會津ニ引揚 奥州貳本松福島トノ間 會津国境 (此土地高キ平カナル原野ニテ 往古蒲生氏會津ヲ領ス 伊達政宗ノ破リシ所ト云フ通称ボナリ峠ト称スル所ナリ) ニ陣ス 戊辰八月廿日比ト覚ヘ 表面より敵攻メ來リ防戰中 後ロ横ノ高キ山より決死隊顯レ 會藩及迂生等ノ隊大ニ戰ヒ激戰八時間餘ニテ(前後ニ敵ヲ引受)遂ニ此方面敗ス 之レ會津国境官軍總攻撃ノ當日ニシテ此方面より(第壹破レタリ 官軍ハ)迅雷ノ如ク押寄セラレ 急報スル遑アラザリシ 山河ノ間ヲ敗走 漸々會津城下ニ達スルヤ既ニ官軍城外高地占領シ三方より大砲小銃ヲ以攻撃ヲ受ケ 又會津城ハ城門ヲ堅ク閉鎖シ入城スルヲ得ス 老幼婦女子皆入城セントスルモ壹人も不許 其慘況名状スヘカラズ 無拠米澤口ニ退キ両三日ヲ經タリ 從是先 新撰組ノ一隊 士官凡貳拾壹貳名不過 皆幕府歩兵ニ落武者ヲ集メ能戰ヒタルモ 彼ノボナリ峠ノ敗走ニ新撰組ノ死傷及所在不明者多ク 銃器弾薬其他一個人所有物壹品も不殘戰利品となり哀レなる末路四離滅裂 武器ハ弾ナキ小銃ト一刀帯フル而已 會津ニ在留スル内 會津人ニ非レハ却而敵カトノ疑ヲ味方ニ受ル事數回 實ニ身ノ置所ナク 江戸ニ歸ランカ不能ナリ
依テ米澤侯ニ頼リ同城下ニ參着セバ又再擧ノ事も可有之ト決心シ 單身同地ニ向ヒタルモ食ナク疲勞極リ山野ニ宿泊シ辛フシテ五六里山中ニ分ケ入リテ(見レバ)行手ニ六人程ノ士ニ逢フ 此人々我ヲ官軍ノ探偵ナラント疑ハレ既ニ發砲セラレ 策ナキヲ以近寄事ノ次第ヲ噺ス
之レ何カ計ラン米澤藩士有名ノ雲井龍雄氏(雲井氏ハ本名小島龍三郎ナリ 雲井ハ仮姓ナリ 後チ米澤ニテ分明セリ)會藩原直鐡氏ナル(之)壹行ニ而 若松城囲マレタルヲ自分より聞取 驚事一方ナラス
其故ヲ問ヘハ 同氏一行ハ會津公又米澤公ノ内命ニ依リ上州安仲(及)前橋藩公(主)ヘ會米同盟ノ説使トシテ同地方ニ密使トシテ出向タル所 國境戸倉口ト申所ノ関門ヲ通サズ依テ無理ニ関内ニ入リ宿泊 藩主江書ヲ呈ス旨申立居ル内四方より發砲ヲ受ケ 同行中ノ幕臣羽倉 日光山櫻生坊等ハ激戰々死セリ 雲井氏 原氏纔ニ舟ヲ以脱シ 今爰ニ會スル所ナリ
最早若松城ニ入ル事難カルベシ 就而米澤侯ニ計リ再擧ノ策ヲ講スヘシト 同氏ニ連レラレ米澤表ニ入ルヲ得タリ
然ル處藩論一變シ官軍ニ降リ 藩士ノ内佐幕之者及會藩徳川家ノ脱走ノ士ハ藩主より朝廷ニ送レルノ議アリト聞ク
雲井氏藩論ノ一變セシヲ憤慨シ種々説ク所アリ 漸々藩士歸順者ノ列ニ加ヘラレ謹慎セリ
從是先 會米ノ國境ニ而永倉新八ニ會シ 同行者幕臣三名倶ニ米澤ニ入リ 雲井氏ノ儘力ニ而生命ヲ繋キ止メタリ
戊辰九月始メより十一月末迄藩公より白米五合味噌ヲ扶助セラレ謹慎セシも 永倉始幕臣及迂生等も不快ノ念ニ不堪 雲井氏ニ 北海道箱館ニ榎本土方等アリテ 盛ンニ官軍ニ抗シツヽアリ 之ニ合シ死生ヲ倶ニセント其志ヲ述フ
雲井氏(快諾同氏)ノ儘力ニテ國境ヲ安全ニ出テ 迂生ハ仙臺ニ 永倉外貮人ハ越後口ニ 再會ヲ約シ密ニ北海道渡航ヲ志シ左右ニ別レシモ 迂生ハ仙臺公ノ抑留スル所トナリ 新撰組ハ名乗ラズ 幕臣ノ脱走ノ士ナリトシテ出テ降者ノ仲間トセラレ江戸ニ捕虜トシテ送ラレタリ 謹慎糺問ヲ受ケル事數回 静岡藩江引渡サレタリ 之レ明治貮年七月頃ナリ
夫より京都ニ赴キ同年十一月京都府ノ嫌疑ヲ受ケ拘留百五拾日 取調貮回ニテ嫌疑氷解 静岡藩江引渡サレ 其後横濱ニ移住シ 今日無事ニ生存致シ 誠ニ往時ヲ思ヘバ長キ悪しき夢ヲ視テ居リ申候
前申上候通 新撰組ノ事蹟ハ殘ラサル様致度 迂生勝手ノ事而已思ヒ出セシ儘ニ書認メ嘸々御判讀も惓ミ給ハント恐懼ニ不堪候
頓 首
六 月 廿 日
川 村 三 郎
高 橋 正 意 様
再啓 御惣客様ヘ宜御鳳声奉願候
此書面相認メかけ候処ニ 又々御書信頂戴 別紙ニ相認メ 申候 凡テ(旧記)書類 毫末も無之 只記臆テ認メ申候 本月拾八日御認之端書は拾九日到着 難有拝讀 御懇篤ナル御主意感謝之至リニ御座候 人名ヲ認メ 其上ニ記臆スル所相認申候 京阪ニ於ケル新撰組ノ事蹟御詳シキニハ實ニ敬服之外 無御座候左ニ 並トアルハ役付ノナキ普通同志者
三 浦 常 次 郎
當時既ニ老人ニテ仮同志トシテ局長附トセリ
○ 大阪八軒ニテ死ス
(因ニ誌ス新撰組加入ノ隊中文武ノ劣者ヲ仮同志トシテ下級ニ置ク制ヲ設ケアリ)
鈴 木 直 人
戊辰正月廿四五才
元上總鶴舞藩士ニシテ剣術ニ長セシ人ナリ 教授心得
○ 千両松際迂生ト同所ニテ銃弾ニ発ヲ受ケ即死
田 辺 太 三 郎
不祥
此人記臆ナシ 必仮同志ナラン
並 水 口 市 松
四十四五才
京師ニ住居セシ 人通常ノ士
○ 右筆ニ同シ
池 田 小 三 郎
同二十(三)四五才
江戸ノ人剣術ニ達シ教授心得文学ナシ
○ 同右
並 宮 川 数 馬
同廿八才位
武州多摩郡ノ郷士土方歳三ノ従弟
○ 同
並 斯 波 緑 之 助
戊辰正月三十才位
元僧侶ナリト云フ出生地ヲ不聞文武共劣等
○ 御認之通
並 逸 見 勝 三 郎
同三十才位
出生地其他記臆ナシ
○ 同
並 三 品 一 郎
同廿八九才位
京都在住ノ幕臣ナリ 此人ノ弟モ開戦當時より入隊 會津迄同行 其後生死不詳
井 上 源 三 郎
同三十七八才
武州八王子同心之弟ニテ近藤土方等ト倶ニ新撰組ヲ組織セシ人ナリ 依テ副長助勤
ト名称シ局長會議ニ参輿スル務ナリ乍併文武共劣等ノ人ナリ
並 宿 院 良 三
同四拾七八才
京師ノ人ナリ古参中老ト云フ
山 崎 進
同三十四五才
丞ナリ出生地不詳 京師ニ長ク住居シ文章学才アルヲ以浪士調役トナル
○ 山崎ハ重傷ニテ大阪八軒屋京家宅ニテ確ト見認候 遺骸ハ大阪ニアランカ
青 柳 牧 太 夫
同五十才位
江戸ノ人 文才アリ主計ヲ掌ル戦事トナリテ小荷駄方ト云フヲ勤ム
○ 右同く大阪城ニテ迂生同室ニアリ
並 今 井 勇 次 郎
同廿三才位
江戸ノ人 剣道優ナリ 文事普通
○ 大阪八軒家ニテ見認申候 其他モ入城セシモ若干アリ
並 古 川 小 次 郎
同廿壱才位
江戸ノ人 幕臣 前ニ同シ
眞 田 四 目 之 助
同廿八九才位
信州ノ人 剣術ニ達シ撃剣教授心得ヲ務ム文ナシ
並 甘
同廿六才位
越後村上辺ノ人
同 小 林 峯 三 郎
同廿七才位
上州ノ人
新撰組惣人員 其開戦前百四拾七人位ト記臆致候 現存者 迂生ノ知得セシモノ僅カニ左記之通リ
永 倉 新 八
六十八才
松前藩復帰後杉村義衛ト改メ両三度弊家ニ来リ目下北海道ニアリ元沖田等ト同等ノ人ナリ副長助勤ノ名アリ
斎 藤 一
六十才位
東京ノ人 目下藤田五郎ト改メ互ニ信書ノ交付セリ
松 原 惟 忠
六十ニ才位
白川ニ長年住居シ一眼ヲ失シ息弁護士ノ職ニアリ目下東京ニ在住
粂 部 親 正
大阪天満與力ノ息ナリ 迂生ト同組ニアリテ倶ニ伍長ヲ勤ム 維新後降伏隊ト云フ兵士ニセラレ勤務中文才アルヲ以累進シ大尉トナリ仙臺鎮隊付トシテ長年同所ニ在リ休職処息北海道ニテ中尉トナリ卅七年旅順ニテ戦死大尉昇進嚮ニ父ハ改名猪野忠敬ト称ス招魂祭ニ来リ弊家ヲ訪問セラレ夫婦ニ而一泊此程ハ奥州白河ニ老養セラル年六十八才書画能クス
足 立 鱗 太 郎
加 納 鷺 雄
川 村 三 郎
無能ニ恥入生存ノ甲斐ナシト存候
以上七名程京濱之間又ハ去遠方々ニ生存ス誠ニ稀ナル高運者ナリト同信ス
六 月 廿 日
川 村 三 郎
高 橋 正 意 様
この談書であるが、実は文中至る所に加除添削のあとが見られ、その生々しさにとまどった。
一例をあげると、新撰組について「假令僅ニ美挙アルモ大体ニ於テ大義ヲ語ル蛮勇者ノ集合ト言フヨリ外ニ名義ナシ」という下りであるが、ありようは「……ト言フ人モアリ」「……ト言フ人モアレハ」と、書いては消した手跡が歴然とし、写本にあるまじき不合理さを否めなかった。
誤りも見られる。三郎が新選組に加盟して上洛したのは元治元年十月であるから、えとは
このとき近藤勇ら一行は朝廷の攘夷督促使として東下した武家伝奏(公卿)坊城俊克が帰京する護衛に任じ、三郎ら新隊士もこれに従う。この点、松本順の「
なお、井上松五郎の「新撰組加盟上洛名簿」では近藤湛助とつづり、さらに杉村義衛(永倉新八)の「同志連名記」では近藤芳祐と記すが、はじめから西村兼文編述「新撰組始末記(一名壬生浪士始末記)」に載る近藤芳助が正しい。
三郎は、武田観柳斎の五番隊に配属され、久米部正親と共に伍長を務めたが、その後、斎藤一の四番隊へ異動し、ここでも伍長として小川一作、佐野七五三男、中西昇、安富才助を預かった。
新選組といえば、はでなチャンバラを連想するが、三郎は、
国友は、公儀御用の金看板を誇る鉄砲
当時隼雄は養家近藤に入るべく近江へ下ったが、その足で新選組に入隊して浪士調役となった。
三鷹市大沢竜源寺所蔵「新撰組金銀出入帳」の慶応四年二月三日の項に「一、拾両也、近藤隼雄、原随之進」とある。
また日野市土方家所蔵「新撰組同志名簿」に辰閏四月廿七日大谷地村ニ而戦手負、軍目 島田魁、歩兵頭取 近藤隼雄」とあり、その島田魁の日記では「当隊並ニ会遊撃隊合兵シテ大弥地村ヨリ白川口エ向フ所 早敵兵当村迄繰出シ、昼九ツ時ヨリ戦争と相成、味方兵隊不残山之上ヱ散兵ニ配リ付、烈シク打掛ケレハ、敵追々引上ケ一旦勝利ナルモ応援ナクシテ遂ニ敗走シテ巻田村迄夜中引上ケ、数日休戦ス……此戦ニテ我輩手負ヒ福良村病院ニ行ク」と見られた。
隼雄は御一新後に東京で病没したが、詳しいことは伝わらず、川村文書に隼雄あての「近藤勇書簡」だけが残る。
このように国友村と三郎の因縁は深く、明治になってからも三男丞を国友家へ養子に出した。丞は静岡新聞記者であった。
三郎は、伏見で戊辰の開戦に加わり、淀千本松の激戦で銃弾に傷ついた。大阪城で治療中に放火騒ぎが起こり、危うく兄の騎兵隊差図役とその配下に救出され、天保山沖の旧幕軍艦富士山丸で新選組と合流し、一月十四日夕方に横浜港に着いた。
わが国外科病院の始まりは、官軍の野毛仮病院(旧幕修文館)とされるが、実は旧幕方が海辺通二丁目の
三郎は仮病院でフランス軍艦から招いた医師の治療を受けた。入院中の二月十四日に義姉敬子の死を聞いた。一橋家随従の幕臣として高千石の寄合に進んだ川村恵十郎の妻である。また兄正芳の妻スワが四月ごろに出産予定と知らされた。そして退院前の二月二十五日に近藤勇の使者が来院し、三郎たち役付き隊士に江戸城から賜ったミカンと
旧幕仏蘭西語学伝習所は、慶応元年九月板の二代広重作「横浜一覧之図」に描かれ、三郎は、その版画をたいせつにした。同地は、後に元浜町四丁目と改正され、また払い下げになるが、その入札を巡って三郎と若尾幾造が激しく競り合う。結果は若尾の手に落ち、三郎はじだんだを踏む。
話は戻って、三郎は仮病院を出て江戸に現れた。新選組は、旧幕遊撃隊(元京都見廻組)頭の命により
三郎は、銃創手当てのため江戸新シ橋の北、里俗に言う「向柳原」の医学館へ通うが、やがて甲陽鎮撫隊に参加した。
しかし、世に東山道軍第一戦という勝沼の緒戦で、もろくも敗走し、同志はそれぞれ江戸に潜る。三郎は浅草の高橋鍋三郎にかくまわれた。後年その恩に報いるため鍋三郎の未亡人テツを横浜へ呼び、隣地に家を新築し、また二男正夫を養子に入れる。
武総国境流山屯集も失敗し、近藤勇が捕われ、三郎は三品一郎らを率いて会津へ走る。三品の弟二郎は伏見で戦死していた。
元副長助勤の斎藤一を仮隊長に新選組を復活し、三郎も隊長代理を務めたりしたが、母成峠の敗戦で本隊とはぐれてしまう。
舞台は米沢城下に変わり、雲井龍雄を中心に再起を図る。雲井龍雄の著「
米沢藩が恭順した。上杉謙信の遺風を慕う雲井らの夢は破れ、また意見も割れ、三郎は決然と単独行動をとるが、しかし、土方歳三が戦う箱館への船便を探すうち仙台藩に捕われ、官軍の手で
旧幕脱走の士として、これより先に府中藩(静岡藩)へ移封された徳川宗家で謹慎し、明治三年に寛宥之勅が下り、やっと自由の身になった。
三郎が帰商した横浜には長兄の川村正芳と義兄の川村敬三が住み、この人たちの話題も見逃せない。
正芳は、かつて高三百俵、御役料百俵の陸軍奉行支配騎兵隊差図役を務め、れっきとした旗本であるが、御一新後は神奈川県使部の川村文助と養子縁組を結び、また家督を許された。
正芳が明治五年に県庁へ差し出した「由緒書」が残り、手に取ると関東三関の一つ武州駒木野小仏の関守川村氏十二代に及ぶ系譜が見られる。
初代 川村帯刀。
| 二代 主計。
|
三代 庄兵衛。
| 四代 権左衛門。
|
五代 権右衛門。
| 六代 彌助。
|
七代 権右衛門。
| 八代 主計。
|
九代 一學。
| 十代 喜八郎。
|
十一代 文助。
| 十二代 正芳。
|
そして養父川村文助の条は、次のように記されていた。
文政十二丑年養父喜八郎跡番代相勤 明治三午年正月迄小佛關ニ罷在候處神奈川縣江被 召出使部拝 命高拾石五斗相下置 同年九月病気ニ付養子正芳江家督相願候處無相違家督下置候
敬三は、上野にある江戸城守護の法燈「東叡山寛永寺」に集結した彰義隊の頭並、さらに頭へと進んだ。これは「彰義隊戦史」や「能久親王事蹟」に載るが、実は恭順派の旧幕閣が任命した幹部であり、上野攻めの直前に辞任した。
後に横浜へ移り、英語の通弁として活躍中、天下の糸平と呼び名も高い豪商田中平八に見込まれて女婿となったほか、私塾同文社、相生町の横浜市学校、横浜野毛修文館の各校長を歴任した。
神奈川県会史に収録の明治七年十月三十日付け「種痘証明書」に「神奈川県管下、第一大区三小区、文館、岡本惣三郎、十四年」と見られるが、第一大区は武蔵国久良岐郡横浜、三小区は戸部町、宮崎町、平沼町、岡野町、芝生町および修文館があった野毛町の範囲をいう。
また明治八年十月二日の横浜毎日新聞に、次の記事が載る。
○ バラー氏表彰
米国人「バラー」氏本港野毛修文館の教職に雇ハれて慈に五年の歳月を送りたり其為人篤実にして生徒を教導する事一日も怠ることなし此頃満期解職に臨み該館より金貨若干円を贈て其功労に報したり其文にいわく
貴下当校に指導する者ここに年あり而して生徒の学歩大に進めり是全く其教諭の懇到なるに頼れり今其職を解く由ていささか感賞の意を表して左の目録を贈呈す幸に受領せよ
明治八年九月 修 学 館
ジョン・バラー貴下
神奈川県布達全書の明治九年六月の項に「修文館を廃し師範学校に改定の事」とある。敬三はここで東京へ去った。
このほど、神奈川県津久井郡城山町小倉の馬場厚氏から「故従七位山口融埋葬列順次=明治二十六年九月」の写をいただいた。
四十六歳で病死したという融は、津久井郡若柳村の名主・山口専老の子で、ひところは古田を称した。なお姉が川村恵十郎の妻敬子、兄が厚氏の祖父で津久井郡湘南村の村長を務めた馬場健二に当たる。
山口融は、維新に際して長州奇兵隊に加わり、のちに宮内省に出仕して車馬監などを務めた。
幕末から長州の遠藤謹助と親交を結び、その引き立てを受けたとか、遠藤は若き日の伊藤博文らと横浜から英船キロセツキ号でロンドンへ密航した一人で、後に大蔵大丞や造幣局長を歴任したが、厚氏の祖父やその長兄に宛てた手紙を残すという。
葬列では、親族の中に川村文助、川村敬造(三)、川村三郎が並び、また親族ではないがジョサイア・コンドル Conder, Josiah が三郎らといっしょに歩いた。
この点、香典帖では、皇族、華族および官員などのほか、グラバーやブレンクリンという外国人の名も見られ、「金弐千疋 コンドル」「金壱円 川村三郎」等々と記されていた。
コンドルは英国の建築家であるが、いわゆるお雇い外国人として工学寮や工部大学校で建築学の教鞭を握り、そこから辰野金吾、片山東熊、妻木頼黄らが巣立った。また上野の博物館や横浜山手教会など、明治期におけるゴシック風の代表的な建築設計を多く手がけた。
三郎の遺談によると、コンドルは三郎より十歳も年下というから、この葬儀のときは四十一歳といえようか。
コンドルの話相手や通訳は、もっぱら川村敬三が務めたというが、その敬三も、明治三十八年七月に病没した。
ついでながら子息たちに触れると、劇作家川村花菱は正平(恵十郎)の実子である。また川村敬三の息子・泰次郎は沖縄病院長であった。
三郎は、こうした長兄や義弟を頼って来浜したわけだが、その前身だけは「新撰組往時実戦談書」を著すまで隠し通した。
ともあれ、義母は冒頭の「弊家々族ト撮影之分拝呈仕為、今般尊家御家庭撮影御贈與以下難有頂戴仕」という一節から、家族写真交換にかかわる兄正己の遺談を思い出し、高橋正意一家の記念写真を持ち出して来た。明治三十九年六月三日付け消印の付く古い郵便封筒に収まり、これが談書執筆の時期を雄弁に物語る。
さらに義母は三郎の手跡という「二男正夫
「正夫は騎兵第一連隊に入営して日露戦争に出征しました。
こうして筆をとったことから、「新撰組往時実戦談書」と一対になる「川村高橋両家交換写真」がそろった。
不思議な因縁を感ずる。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/23
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