一
郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて来た。
「福島磯……といふ人が居ますか。」
彼は焦々した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼つた封の厚いのを取り出した。
道頓堀の夜景は丁どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間になつたらしく、讃岐屋の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場もテンテコ舞をする程であつた。
「福島磯……此処だす、此処だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷がけでクルクルと郵便配達の周囲を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の為めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。
「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
怖い顔をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身体の向を変へて、靴音荒々しく、板場で焼く鰻の匂を嗅ぎながら、暖簾を潜つて去つた。
四十人前といふ前茶屋の大口が焼き上つて、二階の客にも十二組までお愛そ {勘定の事}を済ましたので、お文は漸く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつくづく見た。手蹟には一目でそれと見覚えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不明瞭ながらも、兎も角読むことが出来た。
「何や、阿呆らしい。……」
小さく独り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披くのが 怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……私が名前を変へたのを、何うして知つてるのやろ、不思議やな。叔父さんが知らしたのかな。」
お文はかう思つて、またつくづくと厚い封書の宛名の字を眺めてゐた。
河岸に沿うた裏家根に点けてある、「さぬきや」の文字の現れ た広告電燈の色の変る度に、お文の背中は、赤や、青や、紫や、硝子 障子に映るさまざまの光に彩られた。
一しきり立て込んだ客も、二階と階下とに一組づゝゐるだけになつた。三本目の銚子を取り換へてから小一時間にもなる二階の二人連れは、勘定が危さうで、雇女は一人二人づゝ、抜き足して階子段を上つて行つた。
二
新まいの雇女にお客と間違へられて、お文の叔父の源太郎が入つて来た。
「お出でやアす。」と、新まいの女の叫んだのには、一同が笑つた。中には腹を抱へて笑ひ崩れてゐるものもあつた。
「をツさん、えゝとこへ来とくなはつた。今こんな手紙が来ましたのやがな。独りで見るのも心持がわるいよつて、電話かけてをツさん呼ばうと思うてましたのや。」
お文は女どものゲラゲラとまだ笑ひ止まぬのを、見向きもしないで、銀場の前に立つた叔父の大きな身体を見上げるやうにして、かう言つた。
「手紙テ、何処からや。……福造のとこからやないか。」
源太郎は年の故で稍曲つた太い腰をヨタヨタさせながら、銀場の横の狭い通り口へ一杯になつて、角帯の小さな結び目を見せつゝ、背後の三畳へ入つた。
其処には箪笥やら蠅入らずやら、さまざまの家具類が物置のやうに置いてあつて、人の坐るところは畳一枚ほどしかなかつた。其の狭い空地へ大きく胡坐をかいた源太郎は、五十を越してから始めた煙草を無器用に吸はうとして、腰に挿した煙草入れを抜き取つたが、火鉢も煙草盆も無いので、煙草を詰めた煙管を空しく弄りながら、対う河岸の美しい灯の影を眺めてゐた。対う河岸は宗右衛門町で、何をする家か、灯がゆらゆらと動いて、それが、螢を踏み蹂躙つた時のやうに、キラキラと河水に映つた。初秋の夜風は冷々として、河には漣が立つてゐた。
「能う当りましたな。……東京から来ましたのや。……これだす。」
勘定の危まれた二階の客の、銀貨銅貨取り混ぜた払ひを検めて、それから新らしい客の通した麦酒と鮒の鉄砲和とを受けてから、一寸の閑を見出したお文は、後を向いてかう言つた。彼女の手には厚い封書があつた。
「さうか、矢ツ張り福造から来たんか、何言うて来たんや。……また金送れか。分つてるがな。」
源太郎は眼をクシヤクシヤさして、店から射す灯に透かしつゝ、覗くやうに封書の表書を読まうとしたが、暗くて判らなかつた。
「をツさんに先き読んで貰ひまへうかな。……私まだ封開けまへんのや。」
かうは言つてゐるものの、封書は固くお文の手に握られて、源太郎に渡さうとする容子は見えなかつた。
「お前、先きい読んだらえゝやないか。……お前とこへ来たんやもん。」
「私、何や知らん、怖いやうな気がするよつて。」
「阿呆らしい、何言うてるのや。」
冷笑を鼻の尖端に浮べて、源太郎は煙の出ぬ煙管を弄り廻してゐた。
「そんなら私、そツちへいて読みますわ。……をツさん一寸銀場を代つとくなはれ、あのまむしが五つ上ると金太に魚槽を見にやつとくなはれ。……金太えゝか。」
気軽に尻を上げて、お文は叔父と板前の金太とに物を言ふと、厚い封書を握つたまゝ、薄暗い三畳へ入つた。
「よし来た、代らう。どツこいしよ。」と、源太郎は太い腰を浮かして、煙管を右の手に、煙草入を左の手に攫んで、お文と入れ代りに銀場へ坐つた。
豆絞りの手拭で鉢巻をして、すらすらと機械の廻るやうな手つきで鰻を裂いてゐた板前の金太は、チラリと横を向いて源太郎の顔を見ると、にツこり笑つた。「此処へも電気点けんと、どんならんなア。阿母アはんは倹約人やよつて、点けえでもえゝ、と言やはるけど、暗うて仕様がおまへんなをツ
さん。……二十八も点けてる電気やもん、五燭を一つぐらゐ殖やしたかて、何んでもあれへん、なアをツさん。」
がらくたの載つてゐる三畳の棚を、手探りでガタゴトさせながら、お文は声高に独り言のやうなことを言つてゐたが、やがてパツと燐寸を擦つて、手燭に灯を点けた。
河風にチラチラする蝋燭の灯に透かして、一心に長い手紙を披げてゐる、お文の肉附のよい横顔の、白く光るのを、時々振り返つて見ながら、源太郎は、姪も最う三十六になつたのかあアと、染々さう思つた。
毛糸の弁当嚢を提げて、「福島さん学校へ」と友達に誘はれて小学校へ通つてゐた姪の後姿を毎朝見てゐたのは、ツイ此頃のことのやうに思はれるのに、と、源太郎はまださう思つて、聟養子を貰つた婚礼の折の外は、一度も外の髪に結つたことのない、お文の新蝶々を、俯いて家出した夫の手紙に読み耽つてゐるお文の頭の上に見てゐた。其の新蝶々は、震へるやうに微かに動いてゐた。
「何んにも書いたらしまへんがな。……長いばツかりで。……病気で困つてるよつて金送れと、それから子供は何{ど}うしてるちふことと、……今度といふ今度は懲りごりしたよつて、あやまるさかい元の鞘へ納まりたいや、……決つてるのや。」
口では何でもないやうに言つてゐるお文の眼の、異様に輝いて、手紙を見詰めてゐるのが、蝋燭の光の中に淡く見出された。
「まアをツさん、読んで見なはれ。面白おまツせ。」
気にも止めぬといふ風に見せようとして、態とらしい微笑を口元に浮べながら、残り惜しさうに手紙を其処に置き棄てて、お文は立ち上ると、叔父の背後に寄つて、無言で銀場を代らうとした。
「どツこいしよ。」と、源太郎はまた重さうに腰を浮かして、手燭の点けツぱなしになつてゐる三畳へ、大きな身体を這ひ込むやうにして坐つた。煙管はまだ先刻から一服も吸はずに、右の手へ筆を持ち添へて握つてゐた。
「をツさん、筆……筆。」と、お文は銀場の筆を叔父の手から取り戻して、懈怠さうに、叔父の肥つた膝の温味の残つた座蒲団の上に坐ると、出ないのを無理に吐き出すやうな欠伸を一つした。
源太郎は、蝋燭の火で漸と一服煙草を吸ひ付けると、掃除のわるい煙管をズウズウ音させて、無恰好に煙を吐きつゝ、だらしなく披げたまゝになつてゐる手紙の上に眼を落した。
「其の表書なア、福島磯といふのを知つてるのが不思議でなりまへんのや。」
手紙を三四行読みかけた時、お文がこんなことを言つたので、源太郎は手紙の上に俯いたなりに、首を捻ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が続いてえゝと、私が福造に言うてたがな。……それで書いて来よつたんや。われの名も福島福造……は福があり過ぎて悪いよつて、福島理記といふのが、劃の数が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて来よれへんか。……私んとこへおこしよつたのには、ちやんと理記と書いて、宛名も福島照久様としてよる。源太郎とはしよらへん。」
好きな姓名判断の方へ、源太郎は話を総て持つて行かうとした。「やゝこしおますな、皆んな名が二つつゝあつて。……けど福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
世間話をするやうな調子を装うて、お文は家出してゐる夫の判断を聞かうとした。
「名を変へてもあいつはあかんな。」
そツ気なく言つて、源太郎は身体を真ツ直ぐに胡坐をかき直した。お文はあがつた蒲焼と玉子焼とを一寸検めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序に聞いてやつたら、福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命数の終りや。性質が薄情残酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだんだん悪い方へ填つて行く』と言やはつたがな。ほんまに能う合うてるやないか。」
到頭詰まつて了つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顔をしてゐた。
三
源太郎がまた俯いて、読みかけの長い手紙を読まうとした時、下の河中から突然大きな声が聞えた。
「おーい、……おーい、……讃岐屋ア。……おーい、讃岐屋ア。」
重い身体を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰硝子の障子を開け、水の上へ架け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな声が聞えた。
「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」
「へえ、あの……」と、変な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色変りの広告電燈が眩しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツさん、をツさん。」と、お文の声が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は両手を左の腰の辺に当てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
漸く合点の行つた源太郎は、小さい声でかうお文に答へて、「へえ、今直きに拵へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ声の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、真下の石垣にぴツたりと糊付か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の点いてゐる小さな舟の中に、白い人影がむくむくと二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出来て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰り下された。
「サンキユー。」と、妙な声が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿馬鹿しさうに微笑を漏らした。
雇女が一人三畳へ入つて来て、濡れ縁へ出て対岸の紅い灯を眺めながら、欄干を叩いて低く喇叭節を唄つてゐたが、藪から棒に、「上町の旦那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏全で休んではりましたんやな。……もう出てはりますさうやけど、お金もたんと出来ましたんやろかいな。」と、源太郎に向つて言つた。
随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、対岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥の音も其の辺から流れて来るやうに思はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る両岸の灯と色を競ふやうであつた。
名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
手紙を前に披げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍暫くしてから、空になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から迫り上つて来たのを見たので、突然銀場の方を向いて、「これ、何んぼになるんやな。」と頓狂な声を出した。
「よろしおますのやがな、お序の時にと、さう言はしとくなはれ。」 算盤を弾きながら、お文が向うむいたまゝで言つたのと、殆んど同時に、総てを心得てゐる雇女は、濡れ縁から下を覗き込んで、
「よろしおます、お序の時で。」と高く叫んだ。水の上からも何か言つてゐるやうであつたが、意味は分らなかつた。やがて、赤い灯の唯一つ薄暗く煤けて点いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る両岸の灯の影を乱しつゝ、暗の中に漕ぎ去つた。
四
腕組をして考へてゐた源太郎は、また俯いて長い手紙に向つた。さうして今度は口の中で低く声を立てて読んでゐたが、読み終るまでに稍長いことかゝつた。
お文は銀場から、その鋭い眼で入り代り立ち代る客を送り迎へして、男女二十八人の雇人を万遍なく立ち働かせるやうに、心を一杯に張り切つてゐた。夜の更けようとするに連れて、客の足はだんだん繁くなつた。暖簾を掲げた入口から、丁字形に階下の間と二階の階子段とへ通ふ三和土には、絶えず水が撒かれて、其の上に履物の音が引ツ切りなしに響いた。
これから芝居の閉場る前頃を頂上として、それまでの一戦と、お文は立つて帯を締め直したが、時々は背後を振り向いて、手紙を読んでゐる叔父の気色を窺はうとした。
「二十円送れ……と書いてあるやないか。」と、源太郎は眼をクシヤクシヤさしてお文の方を見た。
「さうだすな。」と、お文は軽く他人のことのやうに言つた。
「福造の借銭は、一体何んぼあるやらうな。」
畳みかけるやうにして、源太郎が言つたので、お文は忙しい中で胸算用をして、
「千円はおますやらうな。」と、相変らず世間話のやうに答へた。
「この前に出よつた時は千二百円ほど借銭をさらすし、其の前の時も彼れ是れ八百円はあつたやないか。……今度の千円を入れると、三千円やないか。……高価い養子やなア。」
自然と皮肉な調子になつて来た源太郎の言葉を、お文は忙しさに紛らして、聞いてはゐぬ風をしながら、隅の方の暗いところでコソコソ話をしてゐる男女二人の雇人を見付けて、
「留吉にお鶴は何してるんや。この忙しい最中に……これだけの人数が喰べて行かれるのは、商売のお蔭やないか。商売を粗末にする者は、家に置いとけんさかいな、ちやツちやと出ていとくれ。」と、癇高い声を立てた。男女二人の雇人は、雷に打たれたほどの驚きやうをして、パツと左右に飛んで立ち別れた。
「味醂屋へまた二十円貸せちうて来たんやないか……味醂屋にはこの春家出する時三十円借りがあるんやで。能うそんな厚かましいことが言はれたもんやな。」
何処までも追つかけるといつた風に、源太郎は、福造の棚卸をお文の背中から浴びせた。
「味醂屋どこやおまへん。去年家にゐて出前持をしてたあの久吉な、今島の内の丸利にゐますのや。あそこへいて、この春久吉に一円借せと言ひましたさうだツせ。困つて来ると恥も外聞も分りまへんのやなア。」
また世間話をするやうな、何気ない調子に戻つて、お文は背後を振り返り振り返り、叔父の言葉に合槌を打つた。
「味醂屋や酒屋や松魚節屋の、取引先へ無心を言うて来よるのが、一番強腹やな……何んぼ借して呉れんやうに言うといても、先方では若し福造が戻つて来よるかと思うて、厭々ながら借すのやが、無理もないわい。若しも戻つて来よると、讃岐屋の旦那はんやもんな。其の時復讐をしられるのが辛いよつてな。取引先も考へて見ると気の毒なもんや。」
染々と同情する言葉つきになつて、源太郎は太い溜息を吐いた。
「饂飩屋に丁稚をしてた時から、四十四にもなるまで、大阪に居ますのやもん、生れは大和でも、大阪者と同じことだすよつてな。私等の知らん知人もおますよつて、あゝやつて東京へほつたらかしとくと、其処ら中へ無心状を出して、借銭の上塗をするばかりだす。困つたもんやなア。」
漸く他人のことではないやうな物の言ひ振りになつて、お文は広く白い額へ青筋をビクビク動かしてゐた。
「あゝ、『鱧の皮を御送り下されたく候』と書いてあるで……何吐かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を読んで笑つた。
「鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。」
夫の好物を思ひ出して、お文の心はさまざまに乱れてゐるやうであつた。
「鱧の皮、細う切つて、二杯酢にして一晩ぐらゐ漬けとくと、温飯に載せて一寸いけるさかいな。」と、源太郎は長い手紙を巻き納めながら、暢気なことを言つた。
五
堺の大浜に隠居して、三人の孫を育ててゐるお梶が、三歳になる季の孫を負つて入つて来た。
「阿母アはん、好いとこへ来とくなはつた。をツさんも来てはりますのや。」と、お文は嬉しさうな顔をして母を迎へた。
「お家はん、お出でやす。」と、男女の雇人中の古参なものは口々に言つて、一時「気を付けツ」といつたやうな姿勢をした。
「あばちやん、ばア。母アちやん、ばア。ぢいちやん、ばア。」と、お梶は歌のやうに節を付けて背中の孫に聞かせながら、ズウツと源太郎の胡坐をかいてゐる三畳へ入つて行つた。
背中から下された孫は、母の顔を見ても、大叔父の顔を見ても、直ぐベソをかいて、祖母の懐に噛り付いた。
「あゝ辛度や。」と疲れた状をして、薄くなつた髪を引ツ詰めに結つた、小さな新蝶々の崩れを両手で直したお梶は、忙しさうに孫を抱き上げて、萎びた乳房を弄らしてゐた。
「其の子が一番福造に似てよるな。」と、源太郎は重苦しさうな物の言ひやうをして、つくづくと姉の膝の上の子供を見てゐた。
「性根まで似てよるとお仕舞ひや。」
笑ひながらお梶は、萎びた乳房を握つてゐる小さな手を窃と引き離して襟をかき合はした。孫は漸く祖母の膝を離れて、気になる風で大叔父の方を見ながら、細い眼尻の下つた平ツたい色白の顔を振り振り、ヨチヨチと濡れ縁の方に歩いた。
「男やと心配やが、女やよつて、まア安心だす。」
戦場のやうに店の忙しい中を、お文は銀場から背後を振り返つて、厭味らしく言つた。
それを耳にもかけぬ風で、お梶は弟の前の煙管を取り上げて、一服すはうとしたが、煙管の詰まつてゐるのに顔を顰めて、「をツさん、また詰まつてるな。素人の煙草呑みはこれやさかいな。」と、俯いて紙捻を拵へ、丁寧に煙管の掃除を始めた。
「福造から手紙が来たある。……一寸読んで見なはれ。」と、源太郎は厚い封書を姉の前に押しやつた。
「それ、福造の手紙かいな……私はよツぽど今それで煙管掃除の紙捻を拵へようかと思うたんや。」
封書を一寸見やつただけで、お梶は顔を顰め顰め、毒々しい黒い脂を引き摺り出して煙管の掃除を続けた。
「まア一寸でよいさかい、其の手紙を読んどくなはれ。それを読まさんことにや話が出来まへん。」
「福造の手紙なら読まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が読めやへん。何んならをツさん、読んで聞かしとくれ。」
煙管を下に置いて、巧みな手つきで短くなつた蝋燭のシンを切つてから、お梶はスパスパと快く通るやうになつた煙管で、可味さうに煙草を吸つて、濃い煙を吐き出した。源太郎は自分よりも上手な煙草の吸ひやうを感心する風で姉の顔を見つめてゐた。
孫はまた祖母の膝に戻つて、萎びた乳も弄らずに、罪のない顔をして、すやすやと眠つて了つた。
「福造の手紙を読で聞かすのも、何やら工合がわるいが、……ほんなら中に書いてあることをざつと言うて見よう。」
源太郎はかう言つて、構へ込むやうな身体つきをしながら、
「まア何んや、例もの通りの無心があつてな。……今度は大負けに負けよつて、二十円や。……それから、この店の名義を切り替へて福造の名にすること。時々浪花節や、活動写真や、仁和賀芝居の興行をしても、ゴテゴテ言はんこと。これだけを承知して呉れるんなら、元の鞘へ納まつてもえゝ、自分の拵へた借銭は自分に片付けるよつて、心配せいでもよい。……長いことゴテゴテ書いてあるが、煎じ詰めた正味はこれだけや。……あゝさうさう、それから鱧の皮を一円がん送つて呉れえや。」と、手紙を披げ披げ言つて、逆に巻いて行つたのを、ぽんと其処へ投げた。
怖い顔をして、ヂツと聴いてゐたお梶は、気味のわるい苦笑を口元に湛へて、
「阿呆臭い、それやと全で此方からお頼み申して、戻つて貰ふやうなもんやないか。……えゝ加減にしときよるとえゝ、そんなことで此方が話に乗ると思うてよるのか知らん。」と言ひ言ひ、孫を側の座蒲団の上へ寝さし、戸棚から敷蒲団を一枚出して上にかけた。細い寝息が騒がしい店の物音にも消されずに、スウスウと聞えた。
「奈良丸を千円で三日買うて来て、千円上つて、損得なしの元々やつたのが、福造の興行物の一番上出来やつたんやないか。……其の外の口は損ばつかり。あんなことに手を出したらどんならん。……一切合財興行物はせんこと。店の名義は戻つてから身持を見定め、自分の借銭のかたを付けてから、切り替へること。それから、何うあつても家出をせぬといふ一札を書くこと。……これだけを確かり約束せんと、今度といふ今度は家の敷居跨がせん。」
もう四五年で七十の鐺を取らうとする年の割には、皺の尠い、キチンと調つた顔に力んだ筋を見せて、お梶は店の男女や客にまで聞える程の声を出した。
銀場のお文は知らぬ顔をして帳面を繰つてゐた。
六
夜も十時を過ぎると、表の賑ひに変りはないが、店はズツと閑になつた。
「阿母アはん、今夜泊つて行きなはるとえゝな。……今から去なれへん。」
漸と自分の身体になつたと思はれるまでに、手の隙いて来たお文は、銀場を空にして母の側に立つた。
「去ねんこともないが、寝た児を連れて電車に乗るのも敵はんよつて、 久し振りや、そんなら泊つて行かう。……をツさんは、もう去ぬか。」
其の日の新聞を披げた上に坐睡をしてゐた源太郎は、驚いた風でキヨロキヨロして、「あゝ、去にます。」と、手を伸ばして姉の前の煙草入を納ひかけたが、煙管は先刻から煙草ばかり吸ひ続けてゐる姉が持つたまゝでゐた。
「狭いよつてなア此処は、……此処へ寝ると、昔淀川の三十石に乗つたことを思 ひ出すなア。……食んか舟でも来さうや。」と、お梶は煙管を弟に返 し、孫の寝姿に添うて横になつた。
「をツさん、善哉でも喰べに行きまへうかいな。…… 久し振りや、阿母アはんに一寸銀場見て貰うて。……なア阿母アはん、よろしおまツしやろ。」
何もかも忘れて了つたやうに、気軽な物の言ひやうをして、お文は早や身支度をし始めた。
「いといで。眼がわるなつたけど、こなひだまでしてた仕事やもん、閑な時の銀場ぐらゐ、これでも勤まるがな。」と身を起して、お梶はさツさと銀場へ坐つた。
「またもや御意の変らぬ中にや、……をツさん、さア行きまへう。」
元気のよいお文を先きに立てて、源太郎は太い腰を曲げながら、ヨタヨタと店の暖簾を潜つて、賑やかな道頓堀の通りへ出た。
「牛に牽かれて善光寺参り、ちふけど、馬に牽かれて牛が出て行くやうやな。」と、お梶は眼をクシヤクシヤさして、銀場も明るい電燈の下に微笑みつゝ、二人の出て行くのを見送つた。
七
筋向うの芝居の前には、赤い幟が出て、それに大入の人数が記されてあつた。其処らには人々が真ツ黒に集まつて、花電燈の光を浴びつゝ、絵看板なぞを見てゐた。序幕から大切までを一つ一つ、俗悪な、浮世絵と も何とも付かぬものにかき現した絵看板は、芝居小屋の表つき一杯に掲げられて、竹に雀か何かの模様を置いた、縮緬地の幅の広い縁を取つてあ るのも毒々しかつた。
お文と源太郎とは、人込みの中を抜けて、褄を取つて行く紅白粉の濃い女や、萌黄の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを掲げた女やに摩れ違ひながら、千日前の方へ曲つ た。
「千日前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動もすると突き当らうとする群集に、一 人でも多く眼を注ぎつゝ言つた。
「兵隊は別だすかいな。皆洋服着てますがな。」
例もの軽い調子で言つて、お文はにこにこと法善寺裏の細い路次へ曲つた。其処も此処も食物を並べた店の多い中を通つて、この路次へ入ると、奥の方からまた食物の匂が湧き出して来るやうであつた。
路次の中には寄席もあつた。道が漸く人一人行き違へるだ けの狭さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ声は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。芸人の名を書いた庵看板の並んでゐるのをチラと見て、 お文は其の奥の善哉屋の横に、祀つたやうにして看板に置いてある、大 きなおかめ人形の前に立つた。
「このお多福古いもんだすな。何年経つても同し顔してよる… …大かたをツさんの子供の時からおますのやろ。」
妙に感心した風の顔をして、お文はおかめ人形の前を動かなか つた。笑み滴れさうな白い顔、下げ髪にした黒い頭、青や赤の着物の色どり、前こゞみになつて、客を迎へてゐる姿が、お文の初めてこの人形を見た幾 十年の昔と少しも変つてゐないと思はれた。
子供の折、初めてこのお多福人形を見てから、今日までに、随分さまざまのことがあつた。とお文はまたそんなことを考へて、これから後、この人形は何時までかうやつて笑ひ顔を続けてゐるであらうかと思つてみた。
「死んだおばんが、子供の時からあつたと言うてたさかい、余ツぽど古いもんやらうな。」
かう言つて源太郎も、七十一で一昨年亡つた祖母が、 子供の時にこのおかめ人形を見た頃の有様を、いろいろ想像して見たくなつた。其の時分、千日前は墓場であつたさうなが、この辺はもうかうした賑やかさで、多くの人たちが、店に並んだ食物の匂を嗅ぎながら歩き廻つてゐたのであらうか。其の食物は皆人の腹に入つて、其の人たちも追々に死んで行つた。さうして後から後からと新らしい人が出て来て、食物を拵へたり、並べたり、歩き廻つたりしては、また追々に死んで行く。それをこのおかめ人形は、かうやつて何時まで眺めてゐるのであらう。
こんなことを考へながら、ぼんやり立つてゐる中に、源太郎はフラフラとした気持になつて、
「今夜火事がいて、焼けて砕けて了ふやら知れん。」と、自分の耳にもハツキリと聞えるほどの独り言をいつて、自分ながらハツと気がついて、首を縮めながら四辺を見廻した。
「何言うてなはるのや。……火事がいく、何処が焼けますのや、……しようもない、確かりしなはらんかいな。」
お文はにこにこ笑つて、叔父の袂を引ツ張りつゝ言つた。
「さア早う入つて、善哉喰べようやないか。何ぐづぐづしてるんや。」と、急に焦々した風をして、源太郎は善哉屋の暖簾を潜らうとした。
「をツさん、をツさん……そんなとこおきまへう、此方へおいなはれ。」と、お文はさツさと歩き出し て、善哉屋の筋向うにある小粋な小料理屋の狭苦しい入口から、足の濡れるほど水を撒いた三和土の上に立つた。小ぢんまりした沓脱石も、一面に水に濡れて、切籠形の燈籠の淡い光がそれに映つてゐた。
「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらいお見限りだしたな。さアお上りやす。」
赤前垂の肥つた女は、食物を載せた盆を持つて、狭い廊下を通りすがりに、沓 脱石の前に立つてゐるお文の姿を見出して、ペラペラと言つた。
「上らうと思うて来たんやもん、上らずに去ぬ気遣ひおまへん。」
かう言つて駒下駄を沓脱石の上に脱ぎ棄てたお文の背中を、ポンと叩いて、赤前垂の女は、
「まア御寮人さん……」と、仰山らしく呆れた表情をしたが、後から随いて入つて来た源太郎の大きな姿を見ると、
「お連れはんだツか。……何うぞお上り。さア此方へお出でやへえな。」と、優 しく言つて、窮屈な階子段を二階へ案内した。
茶室好みと言つたやうな、細そりした華奢な普請の階子段から廊下に、大きな身体を一杯にして、ミシミシ音をさせながら、頭の支へさうな低い天井を気にして、源太郎は二階の奥の方の鍵の手に曲つたところへ、女中とお文との後から入つて行つた。
「善哉なんぞ厭だすがな。こんなとこへ来るといふと、阿母アはん が怒りはるよつて、あゝ言ひましたんや。」
向うの広間に置いた幾つもの衝立の蔭に飲食してゐ る、幾組もの客を見渡しつゝ、お文はさも快ささうに、のんびりとして言つた。 「御寮人さん、お出でやす。」
「御寮人はん、お久しおますな。」
なぞと、痩せたのや肥えたのや、四五人の赤前垂の女中が代る代る出て来た。 其の度にお文が白いのを鼻紙に包んで与るのを、源太郎は下手な煙草の吸 ひやうをしながら、眼を光らして見てゐる。
肥つた女中は、チリンチリンと小さく鈴の鳴るやうな音をさして、一つ一つ捻つた器具の載つてゐる杯盤を運んで来た。
「まア一つおあがりやへえな。」と、女中は盃洗の底に沈んでゐた杯を取り上 げ、水を切つて、先づ源太郎に献した。源太郎は酌された酒の黄色いのを、しツぽく台の上に一寸見たなりで、無器用な煙草を止めずにゐた。
「こんな下等なとこやよつて、重亭や入船のやうに行きまへんが、お口に合ひま へんやろけど、まアあがつとくなはれ……なア姐はん。」
自分に献された初めの一杯を、ぐツと飲み乾したお文は、かう言つてから、二 度目の酌を女中にさせながら、
「姐はん、このお方はな、こんなぼくねん人みたいな風してはりま すけど、重亭でも入船でも、それから富田屋でも皆知つてやはりま すんやで。なかなか隅に置けまへんで。」と、早や酔ひの廻つたやうな声を出した。
「ほんまに隅へ置けまへんな。粋なお方や、あんたはん一つおあがりなはツとくれやす。」と、女中は備前焼の銚子を持つて、源太郎の方へ膝推 し進めた。
「奈良丸はんと一所に行かはりましたのやもん。芸子はんでも、八千代はんや、 吉勇はんを、皆知つてやはりまツせ。」
かう言つてお文は、夫の福造が千円で三日の間奈良丸を買つて、大入を取つた 時、讃岐屋の旦那々々と立てられて、茶屋酒を飲み歩いた折のことを思ひ出して ゐた。さうして叔父の源太郎が監督者とも付かず、取巻とも付かずに、福造の後 に随いて茶屋遊びの味を生れて初めて知つたことの可笑しさが、今更に込み上げて来た。
「阿呆らしいこと言はずに置いとくれ。」と、源太郎も笑ひを含んで漸く杯を取 り上げ、冷めた酒を半分ほど飲んだ。
雲丹だの海鼠腸だの、お文の好きなものを少しづゝ手塩 皿に取り分けたのや、其の他いろいろの気取つた鉢肴を運んで置 いて、女中は暫く座を外した。お文は手酌で三四杯続けて飲んで、源太郎の杯に も、お代りの熱い銚子から波々と注いだ。
「お前の酒飲むことは、姉貴も薄々知つてるが、店も忙しいし、福造のこともあ つて、むしやくしやするやらうと思うて、黙つてるんやらうが、あんまり大酒飲まん方がえゝで。」
肴ばかりむしやむしや喰べて、源太郎は物柔かに言つた。
「置いとくなはれ、をツさん。意見は飲まん時にしとくなはれな。 飲んでる時に意見をしられると、お酒が味ない。……をツさんかて、まツさら散財知らん人やおまへんやないか。今度堀江へ附き合ひなはれ。此処らでは顔がさしますよつてな、堀江で綺麗なんを呼びまへう。」
かう言つて、お文は少しも肴に手を付けずに、また四五杯飲んだ、果てはコツプを取り寄せて、それに注がせて呷つた。
もう何も言はずに、源太郎はお文の取り寄せて呉れた生魚の鮓を喰べてゐた。
八
お文と源太郎とが、其の小料理屋を出た時は、夜半を余程過ぎてゐ た。寄席は疾くに閉場て、狭い路次も昼間からの疲労を息めてゐるやうに、ひつそりしてゐた。
「私が六歳ぐらゐの時やつたなア、死んだおばんの先に立つて、あのお多福人形の前まで走つて来ると、堅いものにガチンとどたま(頭の事)打付けて、痛いの痛うなかつたのて。…… 武士の刀の先きへどたま打付けたんやもん。武士が怒りよれへんかと思うて、痛いより怖かつたのなんのて。……其の武士が笑うてよつた顔が今でも眼に見えるやうや。……丁ど刀の柄の先きへ頭が行くんやもん、 それからも一遍打付けたことがあつた。」
思ひ出した昔懐かしい話に、酔つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎らになつた千日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
「をツさんも古いもんやな。芝居の舞台で見るのと違うて、二本差したほんまの武士を見てやはるんやもんなア。」と、お文は笑ひ笑ひ言つて、格別酔つた風もなく、叔父の後からくツ付いて歩いた。
「これから家へ行くと、お酒の臭気がして阿母アはんに知れますよつて、私もうちいと歩いて行きますわ。をツさん別れまへう。」
かう言つて辻を西に曲つて行くお文を、源太郎は追ツかけるやうにして、一所に戎橋からクルリと宗右衛門町へ廻つた。
富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が点いて、陽気な町も湿つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如 くに思はれた。
「私、一寸東京へいてこうかと思ひますのや。……今夜やおまへんで。……夜行でいて、また翌る日の夜行で戻つたら、阿母アはんに内証にしとかれますやろ。……さうやつて何とか話付けて来たいと思ひますのや。… …あの人をあれなりにしといても、仕様がおまへんよつてな。私も身体が続きま へんわ、一人で大勢使うてあの商売をして行くのは。……中一日だすよつて、其 の間をツさんが銀場をしとくなはれな。」
酔はもう全く醒めた風で、お文は染々とこんなことを言ひ出した。
「今、お前が福造に会ふのは考へもんやないかなア。」と、源太郎も思案に余つ た。
九
日本橋の詰で、叔父を終夜運転の電車に乗せて、子供の多い上町 の家へ帰してから、お文は道頓堀でまだ起きてゐた蒲鉾屋に寄つ て、鱧の皮を一円買ひ、眠さうにしてゐる丁稚に小包郵便の 荷作をさして、それを提げると、急ぎ足に家へ帰つた。
三畳では母のお梶がまだ寝付かずにゐるらしいので、鱧の皮の小包を窃と銀場の下へ押し込んで、下の便所へ行つて、電燈の栓を捻ると、パツとした光の下に、男女二人の雇人の立つてゐる影を見出した。
「また留吉にお鶴やないか。……今から出ていとくれ。この月の給金を上げるよ つて。……お前らのやうなもんがゐると、家中の示しが付かん。」
寝てゐる雇人等が皆眼を覚ますほどの声を立てて、お文は癇癪 の筋をピクピクと額に動かした。
「何んやいな、今時分に大けな声して。……兎も角明日のことにした らえゝ。」と、お梶が寝衣姿で寒さうに出て来たのを機会 に、二人の雇人は、別れ別れに各の寝床へ逃げ込んで行つた。
まだブツブツ言ひながら、表の戸締をして、鍵を例ものやうに懐中深く捻ぢ込んだお文は、今しがた銀場の下へ入れた鱧の皮の小包を一寸撫で て見て、それから自分も寝支度にかゝつた。
──「ホトトギス」大正三年一月初出──