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風呂場の話

 風呂場を建てよう、と言い出したのは父だった。

「木は山へ行ったら、いくらでもあるけん」というので、僕は父について山へいった。

 僕はそれまで、父の山へ行ったことがなかった。

「お前もうちの山がどんな山か、どこが境か見ておいたらいい」と父は言った。

「うん」と僕はきまり悪げに返事して、この年がきて(僕は今年、満三十七才になった)まだ父に百姓仕事は任せ切り、気儘な学校勤めをしていることを恥ずかしく思った。僕はこの家へ養子に来てから、ほんとに百姓仕事はしなかった。しなかったというよりは、そんな百姓仕事を極端に嫌って、スキがあればいつか都会へ飛び出そうと、身構えて暮していた。が、そんな身構えはすぐ父や母や妻に見破られて、こっぴどく叩きのめされ、「うーん」と唸って僕はくたばった。くたばりながら僕は思った。〈今に見ておれ、ぼくだって……〉だがそれはいつも失敗して、僕はとうとう田舎の百姓家に縛りつけられ、その運命をはね返すファイトも、もう湧いて来そうになかった。

 その頃、「風呂場を建てよう」と父が言い出したのだ。

 僕も風呂場が粗末なことは知っていた。

「こんな風呂場やけんど、汗を流してぬくもったらええんや」と、僕がこの家へ養子に来た当座、父はよくそう言った。

 その風呂場は、釜場の裏で、通りに面した土塀とその釜場との間にある半間(はんげん)の通路を仕切り、庇をつけて中へ鉄砲風呂を据えていた。天井はトタンぶき、三方は小砂利の混った荒壁で、それがもう何十年か経っているので、ザラザラして、ちょっと手を触れたらポロポロと小砂利がこぼれた。だから湯の中には豆粒位の小砂利がこぼれ込んでいるのは珍らしくなく、いきなり尻を据えると、チクリと臀部の柔らかい部分をやられるので、いつも、足の裏か手の先でさなの上を撫でまわし、無事を確認して尻を落付けるのだった。

 昼間でもおバケが出るように薄暗い。通路に面した一方には小窓が開いており、入口になった所は一年中開けっ放しだ。その入口の半間を二つに仕切って、右側に風呂の焚き口がある。だから小さな鉄砲風呂は心持ち右に寄り、荒いセメントがその鉄砲風呂を抱きしめている。風呂の入口は、やはりセメントで二段ばかりの階段になっている。体を洗う所はないから、風呂の中に立ち上がって足を釜の縁に持ち上げたり手を伸ばしたりして体をこする。勿論父や母は石鹸など使わないので、風呂の中がそんなに汚れることはない。僕ははじめ、石鹸が使いたいがどうしたものかともじもじしていると、「中で使うたらええが、むりに石鹸を使いたいんやったら」と父は、少し皮肉げにそう言った。

「すみません」と僕が言うと、「ええが、そんでも」と父は言い、「クニ子やって」と僕の妻の名を言って、「こっそり使いよった」と言って笑った。

 シャツやパンツを脱いでも置く所はないから、すぐそばに積み上げたタキギの上にひっ掛けておく。はじめは電気もそこへ引いてなかった。風呂場の隅に三角の木の台を置いて、そこへ蝋燭を立てるようにはしてあった。が、父や母は蝋燭を灯して入ることはなく、妻も入口が見通しになっているものだから、絶対に蝋燭はつけなかった。僕がブツブツ不平を言うと、父はやっと電気を引いて、五燭光の豆電球を取りつけた。それだけでも随分文化的な感じがした。僕が実家にいた子供の頃の風呂もひどかったが、これ程ではなかった。所が電気をつけると厄介なことが一つ出来た。どうしても入口の戸が必要になったのだ。風呂場は、少し奥まった所にあるとは言え、人が来れば、その土塀に沿ってチラと見通しになる位置にあるのだ。それに入口の戸は何といっても必要なものだ。特に冬の木枯しの吹きすさぶ頃、寒風にさらされながら風呂に入るというのも、風流どころの話ではなかった。温まりながら耐寒訓練をしているようなものだった。所が父や母は勿論妻までが、その寒風に吹かれながら風呂に入るのを、それほど苦痛とは思っていないようすだった。

「ぬくもるのはええが、立って洗えもしないし、出た時の寒さ、これじゃ風呂になんか入らん方がましみたいだ」とある夜僕が、妻と寝ながらたまりかねてそう言うと、「それほど寒いこともないのん」と言って、妻は僕の体に抱きついてきた。僕はその時ほど、永年の習慣というものは恐ろしい!と感心したことはない。

 妻は口ではそう言いながら、本当は寒いに違いない。だが自分でどうこうすることはようしないし、それに僕が、電気をつけさせてもらって、又その上に戸までつけるなどと言い出すと、余程の贅沢だと父に叱られることを恐れ、僕をなだめ説き伏せて、何とか平穏無事に、この僕を、この百姓家の一員に馴致しようとする、必死のあがきのせいかも知れなかった。それは徐々に僕の、心に了解されてきたことだが……。

 僕は風呂の入口に、古い莚を垂らす工夫をした。勿論夏は暑くていけないが、冬だと湯気がこもって暖かく、温泉気分だった。父や母は絶対に莚は使わなかった。妻も父母に遠慮してか面倒だからか、莚は使わず、電気を消して風呂に入った。だから莚は僕の専用で、はかない僕のレジスタンスの象徴みたいに見えた。

 すべてこの家には、昔からのしきたりがあるのだ。それを破ることは、例えば釘一本打つことも、それが新規な工事であれば許されなかった。「そんなこと位」と思うことでも、それはすべて僕の、スキがあれば都会に飛び出そうという身構えに通じている、と解釈された。解釈されるぐらいは構わないし、義のためにはチャランバランも演じかねない僕だったが、人の情には弱いという僕の弱点がある。人を泣かせて何になる、すべては自分に撥ね返ってくるという諦めや、イージーな保身の術にも通じている。

 考えてみれば、父も母も妻もかわいそうな人間だ、と僕は思った。戦争中は海軍に行って、短剣下げていた男といえば、きっと体は剛健で、精神も逞しいと父や母は思ったに違いない。それに終戦後は学校勤めをしているのだから、田舎の百姓家にはもってこいの養子だった。

「どうしても、来てもらわんにゃ」と、仲人をしているおクメ婆さんが、三日にあげず実家へ通ってきた。

「これからは百姓がええんや、どない時代になっても、食いはずれはのうて……」と、僕の実父も実母もそう言い、それに僕は僕で、あの戦後の虚脱感という奴が、人並みに僕の心にも押し寄せて、毎日小学校で五年生を教えていたが、一カ月の月給は百姓が作る芋一貫目の相場だし、銃火の下をくぐった身には何といってもままごとみたいな生活で、時たま生徒を並べて一列ピンタを食わせるぐらいが生き甲斐みたいに(今考えれば、ひどいことをしたもんだ)何の張合いがある訳でもなく、それより白いご飯や新鮮な野菜をたらふく食うて、妻と寝て、こどもをこしらえて、山の中で平穏な一生を送ることも、これからの時世にはそれ位が喜びだろうと適当に判断し、判断するより女と寝られるという平和な喜びみたいなものが先立って(あの戦争中、銃火の下をくぐった者でなければ、その実感は湧かないだろう)僕は一も二もなく養子に行った。

 学校勤めはしていても、百姓仕事にも精出して、一家の中心になって働いてくれると信じ込み、養子に迎えたその男が、どんな風の吹きまわしか、事もあろうに一文にもならぬブンガクとやらに熱中し、スキをねらって都会に飛び出そうと身構えている。そんなことなら離縁をすればいいものの、男と女の仲はそれほど単純に割り切ることも出来ず、次の年には八重も生れ、続いてクニオも誕生し、妻は掻爬を繰り返し、僕自身何のために苦しんでブンガクなどしているのか、自分ながらバカくさくなることもあり、それほど才能もない男がと、持前の自己嫌悪からノイローゼ気味、そんなことならこの田舎で、かわいい妻と抱き合って、偕老同穴とまではいかなくとも、平穏無事な生涯を終えることも自分の身に合っているなどと、変な諦めもしているのだった。

 そのようにして十五年、せめて風呂場に電気をともし、莚をぶら下げる位が関の山で、僕はすっかり田舎者になり切って、ブンガクの方もボチボチというところだった。

「風呂場を建てよう」と言い出したのはその頃だった。僕は全く驚いた。驚いたというのは、何も客観的な根拠がある訳ではなく、もう風呂場を建ててから四十年(僕よりも年寄りだ)、祖父母に父母、そして父の兄弟姉妹が八人、僕ら夫婦と二人の子供、それらがうようよわいわいと、四十年近く使い古してきたのだから、もう使い甲斐は十分あったし、天井のトタン板も、煙突の熱気のためか、すぐ赤茶けてボロボロし、部屋全体が煤けてタヌキの巣のようだった。そんなものだから、風呂場を新築するのは何も不思議はないのだが、それが父の口から言い出されたので驚いた訳だ。

「風呂場を?」と僕は言った。

「そうや、こないにはどんどん新築の家が出来よるやろ。ブロックや鉄筋の家まで、こない山の中にも出来る時世や、それに人間一代働いて、一つ位の家は建てにゃ笑われるがい」と父は言い、

「おりや(母屋)や納屋までは手が出んけん、風呂場でも建てるんや」と言って、「お前も手伝え」と僕に言った。

 手伝え、というのは、肉体的な労働もあるが、お金を出せという意味でもあった、僕の月給は、毎月僕のタバコ代と小遣いを差し引いて、そっくり妻の手を経て父に渡されていた。父はタバコも吸わず酒も飲まず、道楽は何一つしない男だから、そのお金は誰かの名義で貯金されているのに違いなかった。しかしそんな通帳を僕は見せてくれとも言わないし、見せてくれたこともない、僕は余り不自由せずに、どうにかその日が過ごせればいい方だから、そんなことには恬淡としていた。それだけは多分に父の気に入っているらしかった。そんな手前父は、僕に多少の義理立てをするつもりで言ったのだろう。

「そりゃ、風呂場を建てるのは賛成やけんど……」と僕は言って曖昧に笑った。父もきっと照れ臭かったに違いない。父が家のことで僕に相談を持ちかけたのは、後にも先にもこれだけだったのだから……。

 

 父と一緒に山へ木を見に行ったのは麦蒔きも終った十一月の末の、よく晴れた日曜日の朝だった。

 長女の八重と妻は、小学五年になるクニオを連れ、バスに乗って町へ買物に行った。八重は中学三年になるのだが、冬物のスラックスが欲しいと言っていた。クニオはバスに乗るのがうれしいものだから、どうしても一緒に行くと言ってきかなかった。

「今日は、みんなお出かけかえ」と母が、干した柿をすばぶりながら、玄関の所まで出て来て、

「おバア一人はさみしかよ」と柄にもないことを言った。

「何モウロクしよったか、アホタレ。猫のミーもおるし、鶏のハミもやらないかんのや」と父がどなった。

「ほいでも、さみしかよ」と母は言い、腰を曲げて、ひょこひょこ庭をうろついていた。

 母は六十三になり、父より四つ若いのだが、誰が見ても母の方が五つや六つは年寄りに見えた。それは腰が曲がっていることと、歯が殆どないことと、髪がすっかり白くなっているのでそう見えるのだった。

 腰が曲がっているのは或程度体質で、僕がこの家に来た時の五十才近くの頃から、大分くの字になっていた。八重が生まれてから母は百姓仕事は妻に任せて、八重の子守りにかかり切ったが、もうそのころは最敬礼をした位になっていたので、子守りには都合がよかった。背中にひょいと放り載せると、帯で締め上げる必要もなく、ずり落ちる心配もなく、ひょこひょこ歩く母の背中に取り付いて、八重はままごとなどして遊んでいた。

 最近では、頭を垂れた稲穂みたいに、水平以下に頭が落ちこんで、亀みたいに顔だけ持ち上げて歩いていた。随分苦しいだろうとこちらは思うのだが、病気一つしたことはなく、腰が痛いとも言わず、ちょこちょこした足取りで、二十羽ほどの鶏の世話をして毎日呑気にくらしていた。

 歯は奥歯が二三枚あるだけで、前歯は上も下もすっかりなかった。それでもかなり固いものでも食いちぎり、漬物など、カリカリと音を立てて奥歯でかんだ。それで消化不良もおこさないのだから、歯ぐきもすっかり硬化して、歯のように固くなっているのに違いなかった。唇は内側へ漏斗状にくぼみ、放射状の皺が顔の下半分を絞り上げて唇に向って走っていた。それだけでも、随分年寄りに見えるのだ。髪が白いのはかえって気品がある位のもので、朝夕椿油をつけてきれいに撫でつけ、「禿げとるのよりよっぽどましや」と言って自慢した。それを言うと父はすぐ気嫌を悪くして母を睨みつける。父は額ぎわから頭のてっぺんまで、つるつるに禿げ上がっていた。これは一種の遺伝みたいな病気で、耳の上や後頭部には黒い髪が密生している。それで体こそ小さいがでっぷりして、浅黒く灼き込んでいるのだから、遠目には幕末の志士のはしくれみたいに、精悍な容貌にも見えていた。

「しゃんとしたオナゴやけんど、おバアも年が寄ったわい」と父は、僕と一緒に山道を登りながらそう言った。

 

 この頃母はよく、一人になると淋しがった。

「はよ、もんてこいよ」と、誰かが外出する時には必ず言った。それは母が、つい半年ほど前に、実家の兄を失ったからではないか、と僕は思った。母の実家の兄は七十三で死んだ。二人だけの兄妹で、その兄に死なれると、やはり年は取っていてもかなりこたえるのだなと僕は思った。

「お前もうなんぼになったや」と父が言った。

「満で三十七や」と僕が言うと、

「若いのォ」と父は言い、「わっしゃかしお前位の時にゃ、それこそ働き盛りやった。力も強うて、一俵の米俵は軽うに差し上げとった。八段歩の田をおバアと二人で耕して、その上秋と春には蚕も飼いよった。ようけ飼うた時は、繭が五十貫もでけたことがある」と昔を懐しげに言い、「ちょっと見てみい」と言って、坂の途中で立ち止って向うの山を指さした。

「今、あそこにみかんを作っとろう、あそこがもとはうちの桑畑やった。この下の道をおバアと二人で、しいこら、しいこら、たなかご(4字に、傍点)に一パイ桑を摘んで、担うて帰ったもんや」

「ほォ」と大げさに、僕は感嘆を示し、「えらいこっちゃったなァ」

「えらいも何も、その頃は感じざった。ただ働くのが面白うてのう」

 父は僕の方をチラ、と見ると、又先に立って坂を登った。父がそんなに親しげに僕に話しかけるのは珍しいことだった。しかしそのチラとした流し目には、やっぱり不甲斐ない僕を(さげす)んだ色があった。それは僕のヒガミかも知れないが……。お前がもっとしゃんとしとったら、近所並みにタバコもどんどん作れるし、桑畑を人手に渡すこともない、と言っているようだった。しかしこの頃になっては、父も百姓仕事が割に合わない仕事だということは知っていた。知っていながら、僕の前では、そんな素振りはおくびにも出さなかった。僕には父の強がりが(いた)ましい位に思われ、「この年がきて、そんなに働かいでも」と僕は思った。でも若い時から叩き上げた百姓仕事は、父にとっては一つの道楽みたいなもので、用事がなくても朝は暗いうちから起き上り、ズボンの裾をまくってあちこちする。動物園にいる或る種の動物の本能的な習性にも似ていると、僕はそんな父のようすを眺めてもいた。

 その年の梅雨は一ト月位早くきて、半熟になった麦が立ち腐れの状態になっていた。近所のタンボでは刈り取るのは手間損やからと、タンボに火をつけて燃したりした。所が父は、「もったいない」と言って、僕の妻を督励し、すっかり刈り取って母屋と納屋の軒下に積み上げた。堆肥にでもするのか、と僕が思っていると、次の日曜日を当てこんで、「お前も手伝え」と、朝早くから発動機を唸らせた。麦こぎをして、たとえどれだけでも麦をとらにゃ、と父は言った。「油代も出んじゃろう」と僕がブスッと言うと、しばらくして「のほほんと遊びくさって、たまの日曜日に手伝う位が何ぞ」と父は、向うへむいてうそぶいていた。母がそれを取りなすように、「鶏のハミ位はでけるけん、まあこいでみんな」とアヒルが泳ぐような恰好で、大した仕事も出来ないのに、忙しそうにちょこちょこしていた。

 僕は手拭いでホーカムリをし、綿ボロを耳の穴につめ込んで(あの発動機のパンパン言う音を耳元で聞いているのは耐えられない)生乾きの腐れ麦を機械の中にかましていった。

 麦こぎ機は最新式の自動型で、一握りずつ位の麦をかまし台の上に押し並べて、順々に歯車にかましてゆく。すると、その歯車が自動的に麦を送って、麦粒だけを弾き落し、麦殻は向う側ヘポタポタ落ちてゆく。僕はその麦を並べてかます役目だ。父は全体の指揮や機械の点検、その合間で麦束を僕の側まで運んでくる。妻は麦殻を大きく束ねて庭の一方へ積み上げてゆく。母はかますを当てがって麦粒を入れる役目だ。どの仕事も一刻の猶予もないが、僕の役目は細かい注意を必要とする。うっかりすれば、麦と一緒に手を歯車の中へかましてしまう。又一度にどっと麦を送ると、荷重になって、エンジンは停まらないまでも革ベルトを外してしまう。一度ベルトを外したりエンジンを停めたりすると、弾んだ調子を狂わせられて、みんな気嫌が悪くなる。だから僕の仕事は一番責任の重い仕事だ。用心はしていたが、僕はその日、再三エンジンを停めたりベルトを外した。でもそれは僕のせいではないのだから、みんな吐息をついて、「何さま麦が半乾きじゃけん」と天とうさんを恨んでいた。

「そうや、もっと干さにゃこげられへん」と僕も勢いに乗って言いまくった。

「しょうがないわ、ほいだら干すか」と父が言った。僕はもう半分こいだのだから、そして大して麦粒もこぼれ出してはこないのだから、後の半分位は堆肥にしても、と思っていたが、父はあくまでこぐのだという。「堆肥にするのは麦殻だけで十分じゃ」と父は言い、庭一面に残った麦を拡げていった。僕は庭の隅に突き坐って、みんなのようすを眺めていた。父はチラッ、チラッと僕の方をはがゆげな顔して見るが、僕はてんで取り合わず、取ってつけた咳払いなどしてはかない抵抗を試みたりした。しかし後になって考えてみると、父も七十に近くなって、いくら本能的な習性とは言え、そのすさまじい執念は、僕の心に一つの感動を呼ぶほどのものでもあった。

 僕は父のそんな執念を、僕の知っている作家の一人に当てはめても考えてみるのだった。その作家は、誠実な文学の鬼と定評されている作家だ。自分から不幸を買って出るような人で、安楽なくらしの出来る身分だのに、純文学一途に打ち込んで、それも地味な私小説だから原稿の売れ行きも悪く、終戦直後に狂った妻を死なせていた。ところが最近、六十を幾つか過ぎて脳溢血にかかり、歩行もかなわず痩せ衰え、自分で原稿を書くことも出来ず、看護の妹さんに口述筆記させているのだった。その口述もたどたどと、永年つきそった妹さんにも聞きとりにくく、それでも小説を書くことを諦めようとはしていない。僕はそんな話を聞くたびに、執念の恐しさをまざまざと見る思いだ。僕の父とこの作家と、一口に論ずることは出来ないが、僕は父の執念も、決して笑いごとではないと思うのだ。僕は肉体労働を本質的に蔑視はするが、それでは僕にどんな執念があるというのだ。何につけてもジレッタントで、口を開けば不平を言い、適当にお茶を濁してその場をしのごうとする。恥ずかしい!と僕は思った。

 チラッと父が流し目をくれるのも、僕にとっては頂門の一針なのだ。

 

 道は猫車がやっと通れるほどの山道で、それが雑草に覆われ、つづら折りになってどこまでも続いていた。時々視界の開けた所に出ると、僕の村がはるか目の下にかすんで見えた。細長い谷間の村だ。一本の白い県道が、その谷間を縫ってくねくねと続き、その道をはさんでパラパラと在所がある。一つ二つと読んでいっても、数えるほどしかないその家並みを、僕はじっと見下していた。父も坂の途中に突ったって、それを見ていた。

「ツネヒコはんきが見えるじゃろう」と父は僕に言った。

 ツネヒコはんきの話は聞いていた。ツネヒコはんは僕より二つ三つ上らしく、終戦直後僕と前後してこの村へ養子に来た。だから僕は父母から、ツネヒコはんの話はよく聞かされた。二つ三つ向うの村の村長の末子だということだった。農学校を出ており、来た当座は村役場へ勤めていた。が、それも一種のアクセサリーだったらしく、二、三年で役場をやめると、十年このかた百姓仕事に打ち込んでいる。タバコ耕作組合理事、村会議員など三つ四つの肩書きを持ち、村の顔役らしかった。百姓は落ち目だ、と言っても、多角経営で骨身惜しまず働けば安月給よりよっぽどいい。ツネヒコはんはそれを実証しているそうだ。

「ツネヒコはんはしっかりしとる。お前も一ぺん聞きに行け」と父が言ったのは、三年ほど前の村会議員の選挙のときだった。ツネヒコはんは部落の人に推されて、村会議員の選挙に立候補したのだった。その立会演説会が、村の小学校の講堂で催された。父は、二三日前の街頭?演説でツネヒコはんの話を聞き、大変感心して帰ったのだった。

「ああ」とは言ったが、僕は気が進まなかった。ライバルなどという意識はちっともないのに、そんなことをけしかけて、ちっとは僕をましな人間にしようとする父の魂胆らしかった。

「頭が痛うて、ふらふらする」と僕は嘘を言った。父は見下げたろくでなしだと言う風に、僕の方をチラッと見ると、「じゃ、留守番しとるか」と言って、父母と妻との三人は、てんでに座布団など小脇に抱え、旅行にでも行くようなよそ行きの顔つきつくって学校へ行った。

 ツネヒコはんは最高点で当選した。前村長の実父の威光もあったかも知れないが、それはツネヒコはんがこの村へ養子に来て、いかに立派な家庭を築き、部落や村のために献身しているかの何よりの証左となった。僕の一票など、ツネヒコはんの前には、吹けば飛ぶようなものだった。

「ツネヒコはんは、今、鉄筋の家を建てよるっちゅう話や、ここから見えろうが」と言って、父は左手の山分部落の方を指さした。

 僕はツネヒコはんきがどの辺か、ちっとも知らなかった。この十五年村に住んでいるとはいえ、僕は毎日町の学校ヘバスに乗って通っている。僕にとっては二十軒程の部落の人さえ、その顔と名前が一致せず、ひどい醜態を演じたことも再三だった。それはひとえに僕の生活態度にかかっていた。この村は仮の里、という観念が、ぼくの心にこびりついている。もう十五年、夜がくれば帰ってくるが、愛着などというものはちっとも湧かない。だから子供の方がよっぽど詳しい。どこそこに栗が落ちているとか、あの淵にはうなぎがいたとか、誰さんきの婆さんが中風で寝ているとか……。僕はそんなことばを聞くたびに、抱きしめたくなるほど子供がいとしい。が、そんな時に限って僕は、キョトンとした蛙みたいな顔つきで、こんなことを考える。僕の住む所は、はるか彼方の、その茫漠とした雲霞の果ての、ちっちゃな文化住宅の、ネオンまたたく……。

「クソバカ!」と叩きのめされ、「うーん」と唸るたびごとに、僕の心は現実に引き戻されて、「あっそうだった、ここは田舎だ。ツネヒコはんも鉄筋の家を建てるのか」と、それがちっとも自分には関わりのない、バカみたいなことの連続で、それでもそのバカみたいなことが、本当は僕を閉じこめ苦しめて、息の根も止めようとしているのだった、と思いつく。

 なるほど父の指さす彼方を見ると、鉄のやぐらがひょろりと伸びて、黒っぽい塊みたいなものが山の麓にもり上がっていた。

「おじいは五年ほど前に死んだけんど、ツネヒコはんがこじゃんとしとるけんのォ」

 僕は嫌な気がした。いくら性分とはいっても、そして今まで、いくらこれに類したことはいわれておるとはいえ、余りにも露骨に僕に当てつけたそのことばは、コチンと僕の心に突き当たる。僕は返事もしなかった。

「さあ、もう一息、すぐそこや」と言って父が立ち上った時、ヒョロリとひょろけて、ドシンと尻餅をつき、そこが急勾配だったものだから、上体を僕の方へ仰向けてきた。僕は一間ほど後にいたが、慌てて駆け寄り、片膝折ってどうにか上体だけは受け止めた。

「どしたんぜ」と言うと、「うッ」と父は白い眼をむいて下から僕の顔を(はす)かいに見上げ、「何でもない、ちょっとひょろけたんや」と言った。もし僕がいなかったらどうだろう、とその時僕は思った。そう思うことはちょっと小気味よい位のものだった。コツンと石か何かで頭を打って、ついでに二つ三つは転げていよう。「あ、いたッ」とか何とか言って、父が顔を(しか)めて立ち上がっている姿が浮かび、僕は思わずほくそ笑んでいた。

 父は最近とみに足が脆くなっていた。二年ほど前「オートバイに乗ってみる」といって、母や妻が止めるのも聞かず、近所の若い衆にモーターバイクを借り、広庭でしばらく稽古した。「世話ないがい、こんなの、自転車と同じや」と言って、調子に乗って無免許で走っていた。ところがそのあげく、家の前の深い田圃へ飛込んだ。現場を見ている者はなかったが、近所の若い衆が二三人来て、モーターバイクを引き上げた。どこも怪我はしていなかった。「止まった時、ちょっとひょろけたんや」と父は言った。それはそうかも知れなかった。が、以後父はモーターバイクに乗ろうとは言わなかった。父も、自分が老いぼれたということは感じたらしかった。僕に対することばでも、昔のような覇気はない。

「ここやで」と言って父が立ちどまった。僕はその沼のほとりに立って上を見上げた。ジャングルみたいに雑木が茂り、(僕は木の名前を殆ど知らないので何でも雑木だ) その中にポツポツと曲がりくねった松が、ひょろりとした枝ぶりで伸びていた。山と自慢するから、もっとどっしりした大木がぎっしり生えているのかと思ったら、そうでもなかった。「この沼から上がそうや。一通り見て廻るきん、境を覚えておけ」と父が言った。

 僕は興味がなかったが「うん」と生返事した。生返事はしたが、僕にはズシンとこたえるものがあったのだ。〈この山も、いつかは僕の山になる〉という、一種めいるような重い感じだった。

 境の左手は、ヒデマサはんきのみかん山だった。

「ヒデマサはんは、毎年一尺位境を切り込んできやがる」と父は言った。

「見てみイ、この木など枯れよろうが」と言って、父は一本のかなり太い松の木を両手で揺すった。それはちょうど境にあって、境の溝を深く切り込んだために、根が半分位切断されていた。これはひどい、と僕も思った。

「もうボチボチ枯れかけとるんや」と父は、ちょっとうるんだ、いかにも無念そうな目で梢の辺りを眺め上げ、「去年まではこの根もあった」と言って、切り落とされた小さな木の根の、こぶこぶした所を撫でていた。

「うっかりしたらすぐこれじゃ、どうせ枯れようが、枯れたってこれは置かにゃいかん、何よりも境の目印じゃけんのォ」

 父もヒデマサはんの悪どいやり方には、何十年も手を焼いてきたらしかった。

 頂上へ登った所で、「これからが分りにくい」と言って、「用心せにゃ、急な下りやから足元も危いし、それに、何が出るやら知れん」と言った。それは全くジャングルだった。「ここに石があろう、これから左がヨシオはんきの山だ」と父は言った。「この石だけが目印じゃけん」

 その石は、男がゆっくり一抱えするほどの何の変哲もないものだった。「おじいの代から、そのまま据わっとる」と父は言った。そんな石が十間間隔位で、ジャングルの中の芝の腐れや枯枝の中に埋まっていた。そんな石をさぐりながら父は、時々山の中へ踏み込んで、

「これはいい、棟木になる」とか、「これは柱や」とか言って、そんな斬る予定の奴に持参した赤紐を巻きつけていった。

 父が思わぬ災難にあったのは、そんなことをして二時間余り山の中をうろついて、もうすぐ、さっきの沼へ出る小径へ下りようとする時だった。

「いたッ」という父の悲鳴を僕は聞いた。「どしたんぜ」というきまり文句で、僕がジャングルの中を掻き分け、父の所へ近づくと、父は手拭で顔を覆ってしゃがんでいた。

「蜂じャ、クマン蜂じゃ、目をやられたッ」

と言って、父は「はよ、ションベン出せ」と言った。そう言ったってたやすく小便の出る訳はないが、僕は慌てて、チョビ、チョビと出して、それで手を濡らして父の右目の上へすり込んだ。もう目の上は赤く爛れて上脹れていた。それがケチのつきはじめだった。

 

「永年山へ行くけんど、こなんことは初めてじゃ」と父はにがり切って座敷に寝転がり、濡れた手拭で目の上を冷やしていた。

「今朝は、何か悪いことがあるような気がしたんじゃ」と枕元に坐った母が、もういっぱしの病人扱いだった。

「アホ、気のせいじゃ。淋しかよなどと、変なことを言うからよ」と父は怒った。

 妻も二人の子供も、父の枕元をちょろちょろして、今だかつて見たことのない父の、そんな病人姿を不思議そうに眺めていた。

「病院行くかぜ」と僕は言った。

「こななことで病院行ったら、それこそ笑われるが」と父は言い、「もう治っとろが」と言って手拭を外した。それはいかにも父の強がりを示すものだった。右目は赤いボタ餅を押し当てたように脹れふたがり、左目にも波及して、目の潰れた伎楽面のようなまずい顔になっていた。

「気が重たーい」と言って二三日ぶらぶらしたが、十日程して父は大工を呼んできた。大工といってもこの村にいる叩き大工だ。叩き大工というのは、金槌でやたらに釘を打つだけの間に合わせの大工のことだ。やぶ医者というようなものだった。

 叩き大工の善さんは、父と二人で風呂場を建てる位置を物色した。現在の鉄砲風呂がある位置は狭すぎる。それに、拡げるとしたら釜場まで改造しなければいけなくなる。木は山にいくらでもあるのだから、そんな補修のようなことをするのは父の気に入らぬらしかった。

「一戸建ちの、ごりっとした奴を建てる」と父は言い、そうなると、どうしても釜場の裏の柿の木のある所、ということになる。そこは土塀が鍵の手になった三角形の空き地で、牛屋の寝座をかえる時などは、その柿の木に牛を繋いで遊ばせておいたりする。そこを通って裏の小路へ抜ける開き戸が、土塀をくり抜いてつけてある。

 そこにある柿の木は古い奴で、僕が養子に来た時から、ちっとも変らぬ枝ぶりだ。西条柿という奴だ。渋柿だから熟さないと食べられない。母はその柿が好物で、熟した奴を一日に十個位は平気で食べる。青い柿の実の皮をむいて、藁に通して土塀に鈴なりにぶら下げ、こげ茶色にしなびた奴を冬口まで、母はうまそうにしゃぶっている。

「柿の木も斬らにゃ」と言い出した時、母はまっこうから反対だった。善さんはそれが仕事の邪魔になるので嫌な顔をしたが、結局枝を刎ねるということに落付いた。

 仕事にかかると善さんは、四五人の若い衆を引き連れてきて、父の山から木を斬り出し始めた。猫車を引いて善さん達は毎日山へ通っていた。四五日も行ったろうか、庭に大小とりまぜて三十本程の松の木が並べられた。父と母とが朝暗いうちから起き出して、毎日松の皮をむき、善さんが墨をつけて手斧を掛けた。一方、三角形の空き地は別の人夫が三人程来て、セメントで地形(ぢぎょう)した。二坪程の小さな家でも、叩き大工の善さんには大仕事らしく、二十日かかってもまだ棟が上がらなかった。僕の男の子は、毎日人が来るもんだからお祭みたいにはしゃいで、木屑を振り撒いて忍者霧隠れの術を演じたりしていた。

 暮の二日と正月の三日、善さんは仕事を休んだ。そして一月中旬の、棟が上がるという前の日に、突然父がぶっ倒れた。それはほんとにぶっ倒れたという感じだった。朝起きると、父の顔はブクッと脹れていた。脹れているのは顔だけでなく、胸から腹、足の先まで全身そうだった。朝起きて来ないものだから、母が不思議がって寝間を覗くと、「うん、うん」唸っていたそうだ。

「どしたんぜ」と母が言うと、「うーん、えらい」と一こと言って父は歯をくいしばったそうだ。母が呼びに来たので僕がとんで行くと、父は蒲団で顔を隠した。

「脹れとるんじゃが、見てみい」と言って、母が父の蒲団を無理にはがした。父が、しぼみかけた風船玉みたいな顔を向けた。

〈蜂の毒!〉と一瞬僕はそう思った。〈今頃ぶり返すとは何ごとだろう!〉

 僕はすぐ近所のタバコ屋へ走って医者へ電話をかけた。村の医者がやってきたのはそれから一時間もたっていた。

「ご苦労さんです」父は慇懃に医者に礼を言った。若い時から医者に手を握られたことがないというのを自慢していた父だけに、その時の気持はどんなだろうか、と僕は思った。

「一週間位前から、力仕事したら胸がえらかった」「昨日から、小便がツイも出とらん」などと父は、医者に訊かれると、ボソボソした声で返事した。

「どうしてわたしに、何もかも言わなんだんぜ」と言って母が悔やんだ。

「やっぱり腎臓げなな、よっぽど急性ですわ」と一通り診察したあとで、医者が自信ありげにそう言った。

「ジンゾウ?」と母がおどろいた。

「ゾウのつく病いは、むつかしい言うて、聞いとりますけんど」

「ま、手当てが早かったら何とか、とにかく町の病院へ入院せないきまへんな」と医者が言い、黄色い注射を一本打ってから紹介状を書いてくれた。

 僕はすぐ車を呼んで、妻と二人で父を車まで運んだ。父は無理に歩くと言ったが、二三歩あるいて諦めた。父は黒っぽい着物をゾロリと着て、毛糸の首巻きをし、妻の地味なネッカチーフで顔を隠した。

 町の病院でも診立ては同じく腎臓病で、父はその日から重患病舎に入れられた。

 次の日の棟上げは延期して、善さんも病院へ見舞に来た。

「ほんに、縁起が悪いこっちゃ」と母が陰でぶつぶつこぼした。

「あの風呂場を建てるんが悪いんじゃろうか……」と母が言った。そう言えば、僕がはじめて父と山へ木を見に行った時が、ケチのつきはじめのような気もした。そして棟上げの前の日に倒れたのだ。僕はそんな縁起はかつぎたくないが、「風呂場を建てよう」と言い出してからの父は何もかもついてなかった。

「ほんまは、山へ木を見に行った前の晩に、夢見が悪かったんや」と母が言い出した。僕はその時、「さびしかよ、さびしかよ」と言った母のことばを思い浮かべて気味が悪くなった。

「あんたがな、死んだ夢見たんや」僕はドキンとした。

「あんたがな、今頃になって、急に東京へ行く言い出したんや。みんな止めたが聞かなんだ。ほいだらどないなったんか、あんたが死んで戻っとるんや」僕は二度ドキンとした。「言おうと思うたが、どうしても今までよう言わなんだ」僕は薄暗い病院の廊下に佇んで、十五年間の僕の所行を取りとめもなく思い浮かべた。

 バカの一つ覚えみたいに、ブンガク、ブンガクと眩きながら、あてどなく暮してきた十五年だった。それで何ほどのことがあったというのか。僕はもうブンガクはやめよう、山の中に埋もれて清らかな庶民の一生を終えようと、そんな法悦みたいなものを考えはじめている。が、それが又機縁になって、ブンガクのしがらみの中にさ迷い込む凡夫になったりもした。そんな僕の心の陰微な揺れは、家の者には分らない。妻にだって分らない。

「あんたがブンガクなんかで身を立てたって、わたしはチッとも嬉しいとは思わない」

 高等女学校を出た十九才の春から、妻は百姓仕事一式で、新聞もろくろく読まず、まして小説などと言うと、都会の若且那の寝言ぐらいにしか考えていない女だった。顔は浅黒く灼き込んで、手は男みたいにごつごつしている。そんな彼女に腹を立て、ブンガクの本など投げつけて、目くじら立ててどなり合い、身も心もくたくたで、そのくせ夜がくると抱き合って、男と女の哀しいさがも見せていた。が、そんなファイトも今はなく、僕は東京へ行きたいなどとは、もう思わなかった。が、僕の求めるものが、やはり田舎の風物にそぐわぬものであることは、僕自身、そして父母も妻も知っていた。僕は何よりも煩わしい近所付き合いや、ごてごてした人の噂に耐えられない。だから僕のそんな思想傾向は、すぐ東京ということばに結びつけて考えられてしまうのだった。

 父は頼りにならぬ男にアイソをつかし、「死んでもお前らの世話にならん」と言いながら、僕を連れて山へ木を見に行ったりもするのだった。やはり今となっては、僕以外に頼る男はないという、諦めの境地であろうか。それは父の気力の衰えを示していることでもあった。

「そんなんは、迷信や!」と言って、僕は母の前でチェッと舌打ちした。

 

 父の病気は一進一退で、もう二カ月にもなるのに、一向恢復の見込みは立たなかった。「医者の薬は信用でけん」と言って、母は、煎じ薬やまじないなどを、人から聞いては取り寄せて、「お父はん、やってみんな」と言って、いやがる父を無理に説き伏せ、医者の目を盗んで色々試みた。それはトウモロコシのヒゲであったり、蛇の皮であったりした。トウモロコシのヒゲは煎じて飲むが、蛇の皮は飯粒をつぶして足の裏に貼りつけるのだった。それはまじないで、微熱も取れて小便もよく出るようになる、ということだった。が、一向に効果はなく、父の衰弱は日増しに目立った。

 一方僕は、うっちゃっておいた風呂場の工事を、善さんに頼んで始めていた。僕はその棟上げの日を心配した。三度目の正直ということがあるからだ。が、棟上げが終った夜おそく僕が病院へ行くと、父は案外元気で、うつらうつらと眠っていたが、「建ったかや」と言った。「建ったけんど」と僕が言うと、「ほいだら、瓦ぶきは、山分のハジメはんにたのめ」と言い、浴場にはタイルを張って、脱衣場には大きな姿見をつけるんや、それから蛍光灯も引くように」と言った。

 その時、ベッドの下へうずくまって寝ていた母が、「お父はん、心配ないわな、みんなけっこうにしてくれるけん、早う治っていのうなァ」と殊更哀れげな声で言った。父に悪い!と瞬間僕はそう思った。

 父は黙って顔を横へふり向けた。その顔は、一頃のような脹れは引いたが、黴びたような色で、たるんだ皮膚が、ぶよぶよしていた。変れば変るものだ、と僕は思った。病気は悪魔がとりつくというが、ほんとにそんな感じだった。あの幕末の志士のはしくれみたいな精悍な顔が、今は虫の息で、いとどなよなよと気力も失せて息づいている。

 よく見ると、その横顔が小刻みにふるえていた。〈おや?〉と思って僕はそれを見ていた。僕が話しかけても、父はもう返事もしなかった。父は泣いていたのだった。

 それから三日ほどして僕が病院へ行くと、「やっぱり竜奠(りょうてん)はんにおがんでもらおう。もう頼りになるのは竜奠はんだけや」と母が言い出した。それは、僕にも父にも哀願するようなひびきがあった。

 母は竜奠はんの信者だった。実家の兄が七十三で死んだ時にも、母は竜奠はんにおがんでもらって、実家の庭の五葉の松を根こそぎ切らせた。ために兄は、半年以上は長生きしたと母は信じていた。竜奠はんはこの地方にはやっている占師で、この人が占えば大ていの病気は治る、という迷信があった。母だって、もともと迷信だということは知っているのだ。父は今まで母がいくらすすめても、「クソバカが」と言って相手にしなかった。が、今度ばかりは、母の説得になびいたようだ。なびくというより、父はもう体力も気力も衰えて、「すきなようにしたらええが」という諦めの方が強かった。父はもう、自分の死期の近いことを悟っていたのではなかろうか。

 それから二三日して、僕が竜奠はんに頼んで行くと、赤ら顔のコロッと肥えた六十がらみの竜奠はんが、洋服姿でスクーターに乗ってやってきた。

 早速座敷のまん中に急拵えの祭壇を作り、派手なベロベロした着物を纏うと、父の姓名や生年月日などを詳しく聞いて、「竜奠大明神」と書いた金や銀の紙きれを、手品師みたいな手付きで打ち振り、卦を出しては、ぶつぶつ口の中で呪文を唱えた。それから竜奠はんは、懐中時計のような磁石を出して方位を確かめ、邸の中心を測った。それから家の中や邸の中を、呪文を唱えながら歩きまわった。やがて祭壇の前に戻った竜奠はんが、しばらく呪文を唱えていたが、赤ら顔のキョトンとした顔を僕の方へ向けて、おごそかに言った。

「家相が悪いなァ」

 そのことばは、真実、感に打たれた者でなければ到底発することが出来ない程の、威厳と寂蓼に満ちたものだった。僕の心の中を、瞬間、悲哀感がつき抜けた。〈やっぱり!そうか……〉と僕は思った。妻も僕に並んで坐り、男みたいに頑丈な拳を膝の上で握りしめている。二人の子供はすっかり怯えて、竜奠はんが来た時から、どこへ隠れたのか姿も見せない。

「こんな不吉な家相の家も珍しい。これでよう、障りもなしに持ってこられた。不思議な位じゃ」と竜奠はんは言い、「大明神様のおかげで原因も分ったんやから、この上は、まず何よりもあんたが(と僕の方をじっと見て)、竜奠大明神様を信仰することじゃ。それともう一つ、さし当っての応急処置と、これが必要じゃ」と言った。

〈何や、いい気になりやがって!ケチをつけるのもいいかげんにしたらいいわい!〉僕の心に不思議な闘志が湧いてきた。それは今まで眠っていたものが、非常に自分にとってかけがえのない何かが、ガバッと身を起す感じで、僕自身驚いた。

「それで何ですかいな、こんな不吉な家相も珍しいんですかい!」と僕は皮肉をこめて、露骨に反感を示した。妻がはげしく僕の袖を引いて泣顔を作った。

「まァ、そうむきになりなさんな、これもみんな大明神のお告げなんじゃ、今はまだ顕現しとりなさらんようじゃが、普段の竜奠大明神の信仰が何より大切じゃ、それさえあれば、そんなものは抑えられんことはない」

 その勿体ぶったことばが気に食わない。こんな迷信にやりこめられてたまるもんか、人事を尽くして天命を待てばいいんだ。家相もクソもあるものか。

詐欺(さぎ)みたいなもんや」と思わず僕は呟いてしまったのだ。

 その時、僕の頭上で大音声が爆烈した。

「バチ当りめ!きっと呪われてあるぞ!」

 それはたしかに、人間の声とは思われなかった。僕は心臓が潰れるほど驚いて飛び上り、妻はキャッと叫んでのけぞった。

「今のは、大明神のお声です。わたしは、その怒りを鎮めてもらうよう、十分とりはからいます。ただあなたが、大明神の怒りに触れたということは、これは取り返しのつかぬことになるかも知れません。今のように、大明神がお怒りになるのは、一年に一度か、二年に一度のことなのです。わたしはこれから、そのお怒りをとくために、随分努力いたします。あなたもそのおつもりで、大明神への信仰を早速今日から始めなくてはなりません。いいですか。あなたは詐欺みたいだとおっしゃったが、この家の家相がこんなに悪いのは、実はその原因はあなたにあるのですぞ。あなたは、この家には全くふさわしくない。わたしはそんな筈はないと、何度お祈り申しても、やっぱり大明神はそうおっしゃるのです。これは恐しいことです。ですから思わず時間を取って、大明神のご気嫌も大分そこねてはいたのです。わたしはこれをあなたに言いたくはなかった。しかしあなたは、この凶言をわたしに言わせるようにしたのです。よう今まで持ってこられた、とわたしが言ったのは、実はそのことだったのです。でもあなたが、これから後、大明神に本当の信仰を尽くされるならば、それは徐々に好転し、禍を転じて福となす、一家の繁栄……」

 いつ果てるともなかった。〈この野郎!〉と僕は思った。(たぶらか)されてたまるものか……。この家の不吉の中心が僕にある……何たることだ!あくまで僕はこんな奴に抵抗してみせる、こんな奴に組み敷かれて、めそめそしていてたまるものか!

「どうぞ、信仰の生活に入って下さい。お父さんの全快、ひいては家庭の幸福のためにです。もう一度言いますが、今はそれが顕現してないんですよ。だから、竜奠大明神の信仰で、本当に安心立命した幸福が得られるのです。お父さんのご病気も、徐々に快方に向います」

 僕は返事もしなかった。

「もう一つ、応急の処置の方ですが」と今度は妻の方へ向いて、竜奠はんは、「風呂場が悪いですなァ」と感にたえたようにそう言った。これには僕もドキンとした。

「風呂場を建てたりこわしたりするのは、慎重の上にも慎重を要することです」と竜奠はんは言った。

「前の風呂場の跡もその儘ですが、あれがいけない。風呂場の神が宙に迷うて、それが悪さをしとるんです。それと、今度の風呂場の方角が又悪い。(うしとら)といって、家の中心から考えると、一番悪い方角に風呂場を建てた。もう建てたもんはしょうがないから、(たつみ)の壁に穴を開けて下さい。それでどうにか(しの)げるじゃろうとは思います」

 それから竜奠はんは、風呂場の神を鎮め導く神事を行ない、邸の四隅の土を二尺五寸の深さに掘らせて丸い穴をあけ、そこへうやうやしく竜奠大明神のキラキラしたご幣を埋めてお祈りをした。

 夜に入って妻が一合程の酒を出すと、竜奠はんは黄色い歯を見せてケラケラと笑い転げ、「これでこのやしきは、竜奠やしきになりました」と言いおいて、スクーターに乗って帰って行った。

 次の日僕は、竜奠はんがありがたいご祈祷したと母に報告した。母はすっかり喜んで、「お父はん、もう治るぜ、竜奠はんが治して上げる言うたんぜ」と父の体をゆさぶった。が、父は返事もしなかった。

 それから一ト月ほど父は入院していた訳だが、よくなるどころか、食欲は少しもなく、心臓も結滞がちで、事実上医者も見放していた。ものを言うのも大儀そうで、呆けたように眠ってばかりいた。

「竜奠はんも竜奠はんや……」と言って母は嘆いた。妻も僕も、父が死んでからのあれこれの処置を、真剣に考えねばならなくなった。

 父が、「もう家へ帰る」と言い出した時、母も、「帰るかぜ、そうやなァ、帰るかぜ」と、小さい子をあやすように言って涙を拭いた。妻も僕も観念した。医者に相談すると、「好きなようにさせて上げなさい」と言った。事実上、間近かに迫った死を宣告されたのだった。

「病人が、家に帰る言い出したらあかんのや」と、僕と二人で父を家に運ぶタクシーの中で、母は泣き続けた。父に聞こえたら悪い!と思ったが、母はすっかり興奮し切り、父はタクシーの中も知らぬげに、眠り続けていた。

 家では妻が、父の蒲団を敷いて待っていた。「さあ、お父はん、もんたぜなァ、うちがええなァ、六十何年住んだ家じゃけんなあ、長いこと病院で、ほんまにえらかったなァ」と言いざま、母は蒲団に縋りついて泣いた。妻もその母に取りついて、声を殺して泣いていた。

 僕はそんな姿を見ていると、僕だけが、あんかんと、竜奠はんにも楯ついて、父を死に追いやる悪鬼のような気がして、父の部屋をかけ抜け、風呂場の方へ走って行った。僕は風呂場の入口の柱の一つに取りついて、柱の根元を蹴っとばし、泣きたくなるのを我慢していた。が、とうとう辛棒し切れずに僕は泣いた。僕の目からは、後から後から涙が湧いて、もうどうしようもないのだった。竜奠はんが言うように、浴室の壁に僕が開けた四角い穴。それに何の意味があったというのか。浴室のタイル張り、脱衣場の姿見、蛍光灯も取り付けている。父の言うように、それらは取り付けたが、父は風呂場を見たいとも言いはしない。父の思う、一戸建ちのごりっとした二坪の風呂場……、僕はそんな風呂場の中を、あてどなく見渡しながら、僕と父と、その確執の十五年を、慚愧の念に打たれて思い出していた。

 おクメ婆さんはとうに死んだが、おクメ婆さんが三日にあげず僕の実家へ通って来たこと。結婚式の夜のにぎわい。初めて八重が生れた時の父の喜び。妻にブンガクの本をぶっつけて、額から血が出た時の父のけんまく。「出て行け!」「よし、出て行く!」と、ケツをまくって渡り合い、刃傷沙汰にも及びかねない夜々のできごと。それらはもう、遥かな昔の出来ごとなのだが……、僕の心の傷は癒されそうにもない。

 僕がこの家に全くふさわしくない、などと言った竜奠はんの言い草はどうでもよいが、僕がブンガクなんかに取りつかれ、現実の人間関係をおろそかにして、「お父はん」と呼んだことはただの一度もなく、父のためにも、とうとうよい養子にはなり得なかった、その僕の償いはいかにすべきか……。父に対してではない、僕の僕自身に対するつぐないだ……。

 ──家に帰って一週間目に、父は死んだ。何も食べず、何も言わず、眠りながらの往生だった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/05/18

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門脇 照男

カドワキ テルオ
かどわき てるお 小説家 1924年 香川県高瀬町に生まれる。1963(昭和38)年「蛇」により第65回讀賣短編小説賞。

掲載作は「文芸広場」1966(昭和41)年1月号初出。「赤いたい」(文学集団 1949〈昭和24〉年5月号)以来の作風をあざやかに定着させた人生半ばの代表作で、永く野に隠れた優れた書き手の至極の私小説、叙述にゆとりがある。自己批評もある。舅を婿が描いたこれほどの秀作を見たことが余り無い。文芸広場叢書11『火花』所収。

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