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神経質の文学(抄)

(承前)

 十九世紀末の欧洲思想界は正に群雄割拠の乱世である。政治、宗教、倫理、学術、文藝等何れの範囲に於ても、極端まで発達した思想や、主義や、信仰が互に(しのぎ)を削つて戦つて居つて、而かも(いづ)れも天下の人心を支配し、安心立命の地を与へ時代を代表するほどの力は無く、唯渦の如く沸き(あが)り、沸き返つて、人をして眩暈(めまひ)を催ほさしむる(ばか)りである。否、眩暈を催ほした人は知らず知らず其渦の中に捲き込まれて(つひ)には浮瀬(うかぶせ)も無くなる始末。

 斯の如き紀季(Fin de siecle)は実に文明史上空前とも(いひ)()過渡(かと)の時代である、乱調子を極めた混沌時代である。葬式と誕生祝とを一時にするやうな時代である。一方に意気天に(ちゆう)する(ばか)りの興隆の気運が見えるかと思へば、他方には、世を(はか)なみ生を厭ふ腐敗堕落(デカダンス)の暗潮が現はれて居る。夫れで此の時代の人間も同様に過渡の人間で有る。一方には智を重んじ、健康を損ふまでに学問に凝り、神経衰弱を起し、為めに名状すべからざる種々雑多の情緒のために心を掻き乱されて居るかと思へば、他方には万事実用を旨とし、勤勉で、利口で、現世的な栄誉、財産、地位を、求めむ為めには、進んで退くことを知らぬ程な強大なる意力を示して居る。又一面に理性を尊び、迷信を(しりぞ)け、明晰透るが如き頭脳を()つて居るかと思へば、他面には神秘的妄想に感染し易く、深奥不可思議な思想に耽り、科学を迷信の用に供し、(もし)くは迷信を組織して科学の衣を着せるやうな事まで仕出来(しでか)すと云ふ風に有らゆる矛盾や相反が調和なく入乱れて、人の魂を奪合つて居る。

 次に物質的、経済的進歩は生活の程度を高くし、人は出来うる限に於て欲望を満足せしめむとして居るため、欲望は却て強くなり、複雑になつて、更に之が為めに精力を奪はれ、古人が堪へ忍んだやうな困苦欠乏は、今人には到底堪へられないやうになると共に、欲望が高じて居るから、古人よりも更に多くの困苦欠乏を感ずると云ふ一見矛盾極まるやうな現象を生ずるのである。即ち欲望殊に物質的肉体的欲望が人間の精力に比較して、過大になると、これを満足せしむる途も非常に難かしくなる。従つて生存競争が激烈になり、労働が過度になる。過度に疲労した身体や精神を慰めるには、淡泊なものでは行かぬ。そこで少くとも一時は精神を(めくら)まして疲労を忘れしむるやうな刺戟や興奮の方法を求むるやうになる。肉体的快楽といつても其種類は無数で有るのだが、シュトラスブルヒ大学教授チーグレル氏が其著「独逸学生論」の中に述べて居る通りに、現代の年少新進の文学者と、其読者等が醜業婦の描写を好み、其等を以て理想的女性とまでは行かずとも、最も興味ある女性と見做(みな)す現象が有る以上は、Saufen und Hurenが独逸あたりでは教育ある社会に於ても、此上なき娯楽と思はれて居るのも怪むに足らない事で有る。()炯眼(けいがん)なる哲学者は斯う云つて居る、「極端な言分(いひぶん)では有るが、現代の神経衰弱症は、学生の両親や、医師や、官庁等の気の弱い人々が、好んで主張し且つ証明せむとして居るやうに、決して学校教育や勉学から起るのでは無くて、現に吾国の教育ある社会でも盛に行はれて居る酒色と云ふ事が重な源因である。自分の経験によると、学問をする事や、真面目な勉強で健康を害したものは未だ見当らないが、親の罪が児に報い、三代四代とたゝるので有る」

 此迄(こゝまで)述べると読者は神経質の由来する所を理解せられたであらう。其他にも多くの源因は有るだらうが、精神的生活の支離滅裂と、肉慾的快楽と労働の過度とは紀季の神経質を作出した重大な源因と云つて宜しい。即ち神経質は実に十九世紀末即ち紀季(フアンドシエークル)の時代病で有る。これは恰も多情多恨(Sentimentalitat)が十八世紀の時代病で有つたと同様の現象で、文明史上(すこぶ)る興味有る問題では無いか。文明と神経質との関係を論じたものにはヘルバッハの「文明と神経質」と云ふ本が有る。神経質の類型的人間を描いて、微に入り細を穿(うが)ち、殆んど完全に近いと評せられた戯曲は、ハウプトマンの「和睦祭」(Friedensfest)で有る。又Decadenceの天才を中心として、神経衰弱を生ぜしむるやうな婬靡な所謂上流社会を描いたものでは、ズーデルマンの「ゾドムの最後」(Sodoms Ende)が名高い。これは余りに真に逼つて居るので、風俗壊乱の(かど)を以て、一時興行を禁ぜられた程で有つたが、この禁則が解かれて、愈々(いよいよ)興行せらるゝと云ふ時には、劇場の入場券一枚が百麻耳克(マルク)に騰貴したと云ふ話で有る。最後に小説で神経質を描いたものには、ハインリヒ・トフォーテの「我れ、神経小説」(Heinrich Tovote, Ich, Nervose Novellen)と云ふのが有るが、大したものでは無い。以上はたゞ著しい例をあげたのだが、前号にも述べた通りに、神経質に関する文学を挙げよと云はれたら、殆んど有らゆる近代文学を以て答ふるより外は無いので有るから、(こゝ)にはたゞ自分の眼に映じた著しい現象を指摘したのに過ぎ無いので、此等の文学については他日論ずる機も有るだらうと思ふ。

 却説(さて)この時代病に罹つた文学者の病理的、状態は奈何(どう)かと云ふに、今まで自然主義(余が所謂神経質の文学と自然主義との関係に就いては後に一括して論ずる積で有る)の為めに抑圧せられて居た形而上の事物を好む一種の本能が頭を(もた)げ出して、幽霊や妖怪などの怖いものが見たくなり、青天白日の現実世界に居堪(ゐたゝ)まらず、薄闇い陰気な空想世界を怖々ながら覗いては、物好きにも怪物の影を(もと)めて、一種の快感を得んとした其有様は、(あたか)もこの世の有らゆる肉慾を逞うして早老した人間が、早や普通の快楽には感じが無く成つて、刺戟の強いもの強いものと注文して、僅かに生存の価値を得て居る様子と少しも違はぬ。鬱憂患者(ヒポコンデル)は日々(あらた)な病気を妄想して、其病苦を以て却て楽みとすると云ふ話であるが、この文学者等はこの世に生きて居る甲斐には、一分間でも楽んで見たいと云ふことを、唯一つの願望として居るのであるから、(つか)(ふる)した神経でも、出来る丈け刺戟し、興奮して微かながら一種の快感を起すものは、何でも(かま)はぬ、夢でもも(うつゝ)でも何でも御座れと云ふ風に、神経質特有の痙攣的な性急でもつて探し廻つたので有るが、通例の健康体に快感を与へるものは、これ等の病人には()つとも効力(きゝめ)が無いので、已むを得ず空想界に走つて、漸く活路を見付け出した。この活路とは即ち色彩の感覚で、赤、緑、青、紫、黒、白等は皆深刻な悲壮(トラーギツシユ)の記号となり、思想も感情も嗅覚も味覚も皆色から出来上つて、緑色の歌、青色の感覚、血紅色の思想、さては響く色や鳴る感情が出来て、概念も感覚もごつちやまぜになつた。通常の人にも温い色、冷い色、古い色、新い色等は聯想上有るのが普通だが、色も斯う云ふ風に濫用されては、チブス患者も三舎を避けざるを得ない。

 なほ(くはし)く言ふと、これらの患者のためには、母音には色が有るさうだ。例へばAは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青で有る。又楽器の中でも、竪琴(ハルフエ)は白、提琴(ガイゲ)は青、笛は黄、風琴(オルゲル)は黒の響がする。次にOは情慾、Aは偉大、Eは苦痛、Iは繊巧と鋭利、Uは謎と秘密、Rは粗暴と嵐の記号である。プロヱール(Plowert)と云ふ人がこの新発明の言語のために字引を作つて居るさうだから、用事のない人は暇潰(ひまつぶし)に研究して見ても、病理学上の知識は確かに増すだらう。

 此等の文学者は其思想や感情を発表するに記号(象徴)を用ひるから「象徴派」(Symbolistes)と称し、外界から来る印象の奴隷となつて居るから「印象派」(Impressionistes)と称し、神経衰弱の患者の常として道徳的意思が全く麻痺して居るから、到底「腐敗堕落」の人たることを免れぬ所よりして、自称して「デカダン」(Decadents)と云ひ其源因を紀季と云ふ時代に帰して居る。紀季とは世紀の大節季である、これらの「腐敗堕落」の人々よりして見れば、単に人為の時間上の区別にすぎない、紀季と云ふものが、何だか怖い物凄い怪物でゞも有るかのやうに思はれ、自分の無気力は棚に上げて、自己の堕落を時世の罪として弁解せむとして居る。すべて意思薄弱な人間の言草と見て差支(さしつかへ)は無い。

 此文学の元祖は他の流行物と同じく、矢張仏蘭西(フランス)である。巴里(パリ)と云ふ欧洲のゾドム、バビロンである。自然主義の開山、ゾラの飛ぶ鳥を(おと)す威光も漸々(やうやう)(うすら)いで来た処へ醜穢(しうゑ)を極めた「ラ・テル」(La Terre)と云ふ小説が出たので、(さす)がに帰依信仰の深かつた弟子どもも、漸く見切(みきり)を付けるやうになり、五人の弟子の筆頭たる和蘭陀(オランダ)人(詳く言へば、Vlamingen人)ヨリス・カルル・フイスマンス(Joris Karl Huysmans)と云ふ人が千八百八十七年公然師弟の縁を断つて、サムボリズムの新旗幟(しんきし)(ひるがへ)し一味の徒党を集める事になつた。

 さて、此新主義をセイヌ河畔の巴比倫(バビロン)から、シュプレー河畔の巴比倫に伝へた使徒(アポステル)はヘルマン・バール(Hermann Bahr千八百六十三年生)と云ふ墺太利(オーストリア)生れの人で、ヰーン、グラーツ、ツェルノヰッツ、伯林(ベルリン)等の大学に遊んで、法律、哲学を学び、旅行して世間を見、次に巴里(パリ)の都の香油(パルフユーム)に、身も心も滴りつゝ、千八百九十年巴里より驀地(まつしぐら)伯林(ベルリン)に来り、オットー・ブラーム(Otto Brahm)アルノー・ホルツ(Arno Holz)等が創立した「フライエ・ビューネ」に()ることになつた。佛蘭西文学の生粋(きつすゐ)を味はつて、巴里より驀地(まつしぐら)に遣つて来たので有る上、其風采と人物とが亦一異彩を放つて居る。背が高くて、上品で、愛嬌と才気とが溢るゝ(ばか)りと云ふ風で、人なつきが善い所から間も無く伯林(ベルリン)文士の交際社会に入り「サムボリズム」「デカダンス」「ファン・ド・シエークル」の呼声高く、(たちまち)にして文界の獅子王となり、年少の文士たちは、これで以て有らゆる世界の謎を解く真理を見付けた様に喜び、百年二百年の昔の如く、又もや手に手を取つて、佛蘭西文学に(はし)り、バールを押立てて、シュプレー河畔の象徴派の旗頭と戴いた。(かく)の如き速さを以て、一躍文壇の牛耳を握つた新進文士は伯林では未曾有(みぞう)の現象で有る。此事が更にバールの評判を高くする基となり、随分悪口を言ふものも有つたが、貴婦人間にはバールの前額に垂れてゐるハムレット形の房々した頭髪が何とも言へぬ風情が有ると云ふ噂。

 バールは是れより先き「新しき人」「大なる罪」などと云ふ戯曲を公にしたが、伯林に来る迄は少しも評判が無かつた。然るに今やゾラに次ぐべき小説家はこの人を措いて何所(いづこ)に有るかと云ふまで持囃(もてはや)され、人は皆其新著「善き学校」(Die gute Schule)を餓ゑたる者の如くに(むさぼ)り読んだ。

 或る年少画工が神経衰弱患者に特有な、だらしの無い(ざま)で巴里の市街を徘徊(さまよ)うて居る。彼は(かつ)て赤鮭亭と云ふ料理屋で、緑色のソースを食つたことが有るが、このソースの緑色が、前述の象徴派流に、(いた)く彼の心を悩まし、何だか深奥不可測の意味が含まれて居るやうに思はれてならず、この奇怪な色は(つひ)にこの年少画工の為めには一種の宗教となり、世界観となり、新藝術となつたので有る。

 

「画工は此の緑を是非とも画にして見なければ、済まぬ気になつた。さうして、今日のうちにも、(いな)(すぐ)()なければ、他人のために先鞭を着けられるかも知れぬと思つて、気息(いき)もせず、総身冷汗に濡れて(ふる)へた。席を共にして居た友人等は、妙に焦燥(もぢもぢ)して、眩暈(めまひ)のしさうな彼の様子を怪みながら、其訳(そのわけ)を訊いたが、画工は早や口が利けない。たゞ(ども)つて、鼻息を高くさせて居る(ばか)りで有る。……

 彼は突然気が狂つた様に走つて出て、或は歓声を発し、或は両手を()つて疾風の如くに我家に向つて走つて行つた。所が途中で春の初雷が鳴りはためいて、忽ち盆を(くつがへ)す如き驟雨となり、市街には早や人影も馬車も見え無くなつたが、彼れは此れには、ちつとも頓着せず、ひた走りに走つた。雨は車軸を流して降り、嵐は濡れた鞭を揮つて彼を打つた。併し彼は唯ひた走りに走るので、有る時は膝を没するやうな泥濘(ぬかるみ)に踏込み、或は()えるやうな一陣の嵐に帽子を取られたが、彼は少しも(かま)はぬ、たゞ走りたゞ急ぐので有る。又時には息継ぎのために立停り、さも嬉しくてたまらないやうに鋭い声で叫んだり手を拍つたり、(をど)つたり、廻はつたり。全然(まるで)魔に()かれた回々(フイフイ)教の僧のやう。さうかと思ふと、また獅子奮迅の勢で駆け始める。

 彼は当時の光景を追懐すれば、彼の眼に映じたものはこの緑、この新なる緑の外には何も無かつたので有る。()うして其耳にはこの緑が歓喜に満ちた調子で歌つて居るやうに聞え、又天鵝鳥(ベルベツト)のやうな、軟かな艶冶(なまめか)しい肌に触るやうな心地がした。次に神の奇蹟のやうに、この緑から新藝術が燦然と輝き出で、神の御霊(みたま)に感じた予言者たちは、世界に拡がつてこの新宗教を伝へ、この教のために僧徒を募り、善男善女は神の祝福を受けた此新宗教の創立者を礼拝する為めに、薫香と礼拝とを以て各国から集り来り、供養は到る処に行はれ、護摩(ごま)の烟の絶え間なく、この予言者の不朽の光栄を祈り、讃美と歓喜と感謝と驚嘆とは其身を囲んで居る。——画工はラテン区の曲角を通りすぎ、一刻も猶予がならぬと云ふので、更に激しく(をど)り狂ひながら走つたが、(つひ)に息を切らし、気絶して、死人のやうに喉をがらがらと鳴しながら、アラゴー町の自分の工場の前に(たふ)れてしまつた。

 画工はこの例へるものも無い、嬉しさに体も蹌踉(よろめ)くやうな歓喜を追想する毎に血が煮え返つて総身の神経がぶるぶると震動するので有る。——彼は此時のやうに走りたくて走りたくて、坐わつては居られ無くて、又もや同じ道を歩き出したが、何処へ行くのやら何をしに行くのやら、訳も解らず、考へても見ず、唯々其の幸福を(ゆめみ)るので有つた。

 三日の間この幸福が持続(もて)た。彼はこれが為めには全生涯を与へても惜からず思つたので有る。……」

 

 然るにこの緑の(ゑひ)(つひ)に醒め果てゝ、悲しや亦一つの愚を脱却したと云ふことを認識して、今日はそれを(くや)み乍ら、市中を漫歩(ぶらつ)いて居るので有る。彼が時々哀れな眼光(まなざし)で、通行人の緑色の着物を(ぬすみ)見て、再び新なる酔に渇して居る有様は正真正銘の印象派(アムプレッショニスト)で有る、所へ小形な仇めいた女が地獄に仏と云ふ格で遣つて来る、無造作に関係がつく。それから神経家の常として兎や角と考へ抜いた末、情婦と同棲することになつた。所が今度は肉慾の奴隷となり、互に愛憎を尽かし、終に喧嘩して、女を逐ひ出した。併し彼が一切の高尚なる藝術上の修養はこれがために犠牲に供せられ、彼は平々凡々の人間となつて仕舞つたので有る。彼はこの恋と云ふ「善い学校」で「打擲(ちやうちやく)を受けて、馬鹿な考の根を絶つて仕舞つた」丈けで無く、同時に一切の向上心を失ひ、平凡な人生観を作つて満足するやうになつたので有る。

 この小説には恋愛なる者は藝術家を堕落せしめるものゝやうに書いてあるが、これは果して真理で有らうか。又この小説には此問題は未だ決して解決せられては居らぬ。この主人公は官能的の快楽をのみ追求し、瞬間の印象を以て満足し、更に高尚なる理想を()つて居ないではないか。肉慾的恋愛に於て堕落するのは怪むに足らぬ。

 この小説は(もと)より大した価値は無いやうで有るが、独逸に於ける印象派の小説の標本とするには足るのである。即ち神経質はこの小説全体の特徴で、句読が短くて、間歇的な文章と云ひ、全体の調子といひ、すべて神経質的で又殊更に神経質を(てら)つた風も見えて居る。

ヘルマン・バールは其後墺太利(オーストリア)維納(ヰーン)に居を転じて、(こゝ)でも亦年少文士の牛耳を執り、「近代文学批評」「自然主義脱却論」と云ふ論文集を公にして、象徴主義、ロマンチック主義を鼓吹し、自然主義は早や時勢遅れだと論じた。創作には「露國旅行記」「ファン・ド・シエークル」「カフ」「母」等が有つて、皆バールに特有な才気の有る、佛蘭西(フランス)風の筆致を見るに足るのだが、殊に「母」が彼の最も得意の作で有ることは「近代文学論」中に自白して居るので解る。  —以下、割愛—

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/01/21

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片山 孤村

カタヤマ コソン
かたやま こそん 独逸文学者 1879・8・29~1933・12・18 山口県佐波郡に生まれる。東京帝大独文科を恩賜の銀時計をもらい卒業直ちに鹿児島第七高等学校教授、学習院、仙台二高、京都三高、九州帝大などで講筵と著述活動を展開、苦心の『独和大辞典』を完成した。

掲載作は、「帝国文学」明治38年6~9月号に連載した論説の中程を抄録した。逍遙といい鴎外といい漱石といい、明治の知性の西欧文学の咀嚼の早く確かであったことにおどろく。

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