止めのルフレヱン
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この二三年来、私は機会ある毎に、現今の文壇の中心勢力を成すが如く見える一種のリアリズム文学を攻撃して来た。私の論議は多くの反感を買つたのみならず、一時は文壇全体が反新感覚派の声で充満したかの感さへあつた。然し、時は経過した。私が絶えず攻撃した一種のリアリズム的文学は次第に
もはや幾度も詳論したことで、今更ら繰返へす興味もないが、従来のリアリズム文学を信奉する者は、作品の人間が「よく描けて居る」か否かを甚だ重要視した。そして「よく描けて居る」時、その作者は人間をよく知る者であり、「よく描けて居ない」時、その作者は人間を知らない者であるとさへされるのであつた。では、
或る客観存在の再現が、実感的に浮き出るためには、その存在に就て既定の共通認識、
人生は苦悶の結晶であるとは、彼らの人生観の基調である。その苦悶に処するに諦めの心境を以て眺めたら、それで彼らは満足なのだ。然し、苦悶多き人生を受入れる心が、如何に洗練され、
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然し、新しい文学は上述のやうな人生観に失望した者の、新しい人生観の上に建つのである。彼らの第一の功績は、時代環境と共に変化し進化する人間性の発見にある。賢明にも、彼らは固定した人間観を超えて、時代と共に変化する人間性を、彼らの触覚によつて捉へたのである。
彼らにとつて、人間性の固定が否定された限り、彼らの描写する人間は、必ずしも人間性の公理に準じないのである。従来のリアリストの眼によつて、如何に彼らの描く人間が「出て居」ようが居まいが、問題ではない。彼らは勝手に人間を創る。人間性を創る。
もし人間性が時代と共に変化するものなら、その時代に生きる人間の主観から創られるあらゆる性格は存在可能の範囲内に於ける人間である。作者が創り出した人間即ち作者の人間性の創造である。それは固定概念の打破であると同時に、新しき真実の創造である。新しき生活の創造である。新しき運命の暗示である。
既に、このやうな新しい人生観を把握した者にとつては、その客観的世界も亦既成作家のそれとは
茲に人類の新しい運命の暗示がある。
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リアリズムの作家にとつては、人間性は時代を超越して固定し、新感覚派その他にとつては、人間性は時と共に進化する。これをもつと分り易く云へば、前者にあつては、人間は原始時代の意識でなくとも、
それに就ては、今更ら我は論じるだけの熱情を持たない。が、兎も角、私は、時代環境のかもすセンセーション、物質的文明の効果が人間の感覚を進化せしめると同時に、新しき情知意の動きが生れると信じて疑はない。且つ資本制度が、社会の面に刻むレリイフが時代につれて尖鋭になる程度に従つて、生活関係の或る部面が特にその時代に露出を甚だしくすれば、当然道徳の一部分の是正が要求される。たとへば、女性の経済的独立の程度が高くなればなるだけ、女性の性的行為が自由となり、従つて従来の性道徳の適用が人間の不幸を増大する結果を伴ふが如きである。即ち、道徳の是正によつて
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順序として、私は茲に私の意識する現代を説明しておく必要を認める。けれども、それに就ては、私は「文藝時代」創刊号の小感想を出発として、度々の機会に詳論したから今日それを繰り返す煩を避けたい。要約すれば、機会文明爛熟と云ふ事実から発生した時代的特色であり、センセエションであり、それらの渦中にある生活意識である。新感覚派は、その生活意識が決定する所の価値の上に建つものであることは、口の酢つぱくなるほど説明した所である。
新感覚派に就ては、もはや分らぬ者には分らぬ、分る者には十分に分つた事が承認される。「不同調」本年三月号の月評会記事はその一例證を提供するであらう。兎も角、固定した人間観に執着して、コツコツ人生の相も変らぬ一断面や、苦悶の意義を捜して居る過去派と分立して、我々は現代に生きる者として、現代に壮麗なる新しき建築を打建てて行くのである。
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以上の議論は、私にとつて一連のルフレヱンである。同時に、論敵に対する止めの短刀でありたいと希望して居る。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/06