ユダヤ人問題と人類の将来
1. 不思議なユダヤ民族
全人類の中にユダヤ民族がいるのです。これは不思議な民族でありまして、現在ユダヤ人と自ら称している人は、約二千万人です。
ユダヤの国が滅びたのは、今から二千五、六百年前です。国が滅びて二千五、六百年経過しても、ユダヤ民族はいるのです。こんなおかしなことはありえないことです。
国が滅びれば、およそ百年ほどでその国の民族は消滅するのです。バビロニアという大きな国がありましたが、現在バビロニア人はどこにもいません。ユダヤより何百倍も大きな国でしたが、完全に消滅してしまったのです。
ユダヤは日本の四国ほどの国です。ユダヤ人は国が滅んでも民族だけが残っています。そんなばかなことがあるはずがないのに、あるのです。しかもわずかなユダヤ民族が、世界の政治、経済、軍事上の急所を押さえているのです。ロシアとアメリカの政治に大きな影響を与えているのがユダヤ人です。自然科学、人文科学、社会科学の学理学説は、ほとんどユダヤ人学者が理論づけをしたものばかりです。
現在の文明が行き詰まって、どうにもならない状態になっている原因は、学校教育です。これが文明の真ん中に座りこんでどうしようもないのです。これに世界中が振り回されているのです。もう一つは労働組合運動です。それから宗教です。この三つによって、文明が押さえられている。この三つをユダヤ人が押さえているのです。
ユダヤ教の神を、それぞれの国の言葉で言い直し、つくり直したものが、世界中の何百何千という宗教になっているのです。二千六百年程前に国を追われたユダヤ人が、文明というアイデアをつくって全世界を支配している。ユダヤ人の思うままに世界が動いているのです。
そこで、聖書が本当に神の言葉であるという証明は、世界にユダヤ人がいるということだけで言えるのです。もし聖書が神の言葉でなかったら、国が滅びたユダヤ人が二千六百年も存在し続けているはずがないのです。ごく少数のユダヤ人が、六十三億の人類を押さえこんでいるはずがないのです。
ある説によれば、ユダヤ人が全世界の過半数の経済力を握っているといわれていますが、このような事実を何と考えたらよいのでしょうか。文明の主要概念は、ほとんどユダヤ人の発想です。その他、為替制度、株式制度、銀行、保険制度はユダヤ人がつくったものですし、デパート、スーパーマーケット、コンビニも、ユダヤ人が考えたものです。
もしユダヤ民族が絶滅していたら、神はないといえるかもしれません。聖書の神が本当の神であるいう証拠は、ユダヤ人が今もなお存在するということです。ところが、神の民であるユダヤ人が、神の一人子であるイエスを殺したのです。神の目的をめちゃくちゃにしたのです。こういうおかしなことになっているのです。
その結果、神はユダヤ人を人間として扱わないと決定したのです。だからアウシュビッツのような事件が起きたのです。ヒットラーにより、ガス室などで推定700万人のユダヤ人が殺されても、神は知らん顔をして助けようとしないのです。
今はユダヤ人の文明が否定されて、本当の神の文明が実現される直前の状態です。これがいちじくの枝が柔らかくなったということです。イエスは枝が柔らかくなれば、葉が出て、実を結ぶ時が近いと預言しています。これが神の文明が現れる前兆になるのです。
聖書によれば、時間の流れが説明できるのです。時間とは何かと言いますと、ないものです。しかしあるのです。ないけれどもあるものなのです。しかも、時間の流れがあるのです。時間の流れが歴史です。歴史の説明が聖書によってできるのです。現在の世界歴史も、ユダヤ人問題を勉強すればおのずから分かるのです。
アメリカのユダヤ人がなぜいばっているのか、超大国になるのをなぜ神が認めているのか。その理由があるのです。アメリカではキリストを自由に信じてよいのです。そのためユダヤ人を自由に受け入れ、文化、経済活動を自由に許しました。ですから神が超大国になることを許したのです。
ユダヤ人には世界革命という思想があるのです。スポーツとセックス、マスメディアが世界中を席巻しています。このように世界は具体的にユダヤ王国になっているのです。
あとはユダヤ人が表面に出て、世界を押さえるだけなのです。
世界の王朝はほとんどユダヤ人の血を引いています。「王たちもあなたから出るだろう」(創世記17・6)と聖書に預言されているのです。
なぜそうなるかと言いますと、ユダヤ人の考え方は次元が違うのです。モーセの掟によって家庭生活を営んでいますと、セックスのしかたとか、教育のしかた、経済社会活動のしかたが異邦人とはまったく違ってしまうのです。生活のしかたが、優生学的にすばらしく高等になるのです。
ユダヤ民族は幼い子供の時から神の掟を教えこまれるために、それが世界観、価値観の根底になっているのです。だから、生活の心構えが、異邦人とは全く違ってしまうのです。体質が違うのです。考え方が違うのです。学理学説の根本原理は、ユダヤ人でないと案出できないのです。彼らは異邦人が考えられないことを考えるのです。
文明の利器と言われるものは、ほとんどユダヤ人の発明によるものです。現代文明は名実共に、ユダヤ文明なのです。
文明の利器を用いるのはいいのですが、困ったことに、ユダヤ人はキリストについて考え違いをしているのです。ユダヤ人は自分たちで考えるキリストというメシアをつくろうとしているのです。これが世界革命の根本原理です。これがユダヤ人のメシア思想です。
ユダヤ人が言うメシアは、人間がつくったメシアを意味するのです。彼らはそれで世界を統一しようと考えています。やがてそれをするでしょう。アメリカとロシア、ヨーロッパが、その段取りをするでしょう。ユダヤ人がその大芝居を打とうとしているのです。
理性的に物を見れば、こういうことが分かるのです。現在の文明のトリックがどうなっているかが、勝手に分かるのです。
理論物理学で言いますと、物質はないが物理運動はあるという理屈があります。そのとおりです。そこで原子爆弾をつくることができるのです。
物質はないというのは、本当なのです。もし理論物理が本当でなければ、原子爆弾や水素爆弾はできるはずがないのです。原子爆弾ができるということは、物質がないということを証明しているのです。このように、人間の常識は頼りないものです。空間の説明は、原子爆弾の説明をすればできるのです。
歴史の流れの説明は、ユダヤ人問題の説明でできるのです。すべて聖書の預言どおりに流れているのです。日本人の考え方のスケールが小さいから、歴史の流れが分からないのです。時間と空間と人間の説明ができないようでは、理性的とは言えないのです。
本当の神というのは、時間と空間と人間の上にあるのです。時間と空間と人間について、はっきり説明ができることを、絶対真理と言うのです。これは信じるとか信じないということではなくて、皆様がご存じないだけのことです。知ってしまえば信じないわけにはいかないのです。信じるか信じないかの問題ではなくて、知るか知らないかの問題なのです。
神とは信じなければならないものとは違うのです。絶対だから、従わなければならないものなのです。
皆様の心臓が動いているという事実が神です。これは全く馬鹿みたいなことですが、本当です。人間は心臓が動いているから、仕事ができます。レジャーを楽しめます。心臓が動いていることが、絶対です。もし、心臓が停止すれば、その瞬間に人間の生活は終わるのです。これには、誰も反対できません。絶対です。絶対は絶対です。絶対ということが、神という事実なのです。これが分かれば、死ななくなるのです。絶対が分かれば、死ななくなるのです。だから信じようと考えるよりも、従おうと考えたほうがいいのです。皆様が生きていらっしゃることが神ですから、そうなるのです。
自分が分かったら従おうというのではなくて、分かろうと思っている自分が、消えてしまえばいいのです。分かろうとか、分からなければならないと思うのは、自分が生きていると思っているからです。自分が生きていると思っていることが、人間の一番大きな妄念です。
(2001年文芸社刊『ユダヤ人が立ち直れば世界が見事に立ち直る』に初出)
2. 行き詰まった文明を打開する唯一の方法
旧約聖書の創世記三章で、アダムが善悪の木の実を食べたという記述がありますが、これがどういう意味なのかキリスト教ではまったく分かりません。
なぜ分からないかと言いますと、仏法の哲学をマスターしていないからです。また、聖書の本体をとらえなければ、仏法が分からないのです。
西欧文明の基本である聖書と、東洋文明の基本である仏法と、この二つを一つにまとめなければ、本当の命は分かりません。牧師や神父さんは、キリスト教の教学は知っていますが、仏法の哲学は分からないのです。だから本当の命が分からないのです。
イエスの言動、気持ちをよく見ていけば分かることですが、彼は釈尊を知っていたのです。また、釈尊もキリストを知っていたのです。彼は、後にイエスが生まれることを、直感的にとらえていたのです。これが釈尊が見た明けの明星です。
釈尊はイエスが生まれることを、予見していたのです。イエスが生まれることが、キリストの誕生であることをユダヤ人が認識したその根底は、どこにあったかということです。
新約聖書マタイによる福音書第二章のはじめに、つぎのような記述があります。イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのべツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東のほうでその星を見たので、その方を拝みにきました」(2・1,2)。
東方の博士たちはユダヤの民ではありません。異邦人です。異邦人が何のためにキリストを拝みにきたのでしょうか。この説明ができる牧師さんも、神父さんも、未だかつて地球に生まれたことがないのです。
教皇でも、神学を教える大学の教授でも、マタイ伝二章の説明ができる人は、一人もいないのです。この説明ができなければ、明けの明星は分からないのです。
イエス自身がヨハネの黙示録で、「わたしは輝く明けの明星である」(22・16)と、はっきり言っています。釈尊は輝く明けの明星を見たのです。つまり、復活のキリストを見たのです。
釈尊は明けの明星を見て、一切空と看破しました。仏法の根本は、明けの明星です。新約聖書の中心も、明けの明星です。仏法も、新約聖書も、明けの明星、つまりキリストの復活を中心にして展開している。ですから仏法と新約聖書は、根本的に一つのものなのです。これに気づいている学者、宗教家は、世界中に一人もいないのです。
現在、東洋と西洋はまったく異質なもので、ばらばらに展開し、それが様々なトラブルを生じさせている。政治、宗教、人種の違いが、世界中を混乱に陥れている。明けの明星の本当の意味が分かれば、東西文化は完全に融合し、世界に真の平和が訪れるでしょうそれ以外に、行き詰まった文明を打開する方法は、まったくないのです。
空とはいったい何であるか。釈尊はなぜ一切空と言い切ったのか。これを知るためには、明けの明星である復活のキリストをどうしても知らなければならない。現在の仏教が完全に堕落したのは、復活のキリストをまともに勉強しようとしないからです。仏法と淵源を共にする新約聖書を勉強しないからです。
ヘロデ王は、東方の博士たちから言われなければ、キリストの誕生についてまったく気がつかなかったでしょう。キリストの誕生に気がつかなければ、新約聖書も誕生しなかったのです。つまり東方の博士たちが、新約聖書への道案内になっているのです。
従って、新約聖書を正しく学ぶためには、まず東方の博士たちの気持ちを理解しなければならない。東方の博士たちの気持ちとは、一切空ということです。
現在のキリスト教が根本的に間違った原因は、自分が救われたいと思っているからです。自分が幸福になりたい。自分が学びたい。自分が理解して、自分が天国へ行きたいと考えているのです。この「自分」の気持が悪魔の気持ちなのです。この点が、イエスとユダヤ人が激突した最大原因なのです。
ユダヤ人は、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」(ヨハネ伝8・41)と主張したのです。
それに対してイエスは、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちに真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。しかし、わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない」(同8・44,45)と言っている。
イエスから見れば、ユダヤ人の考えが、まさに悪魔の考えだったのです。神以外に自分を考えることが、外道の考えになるのです。
そこで、新約聖書にある永遠の生命、神の国を得るためには、まず間違った自分の考え方、即ち悪魔の考えを捨てなければなりません。これが、釈尊の言った一切空を悟ることです。色即是空、五蘊皆空、究竟涅槃を体得することによって、明けの明星である復活のキリストを学ぶことができるのです。だから、般若心経と聖書の両方を学ぶことは、真実を学ぶための唯一の方法になるのであって、それ以外には命を知る方法はまったくないのです。
私が述べていることは、日本人を救うことが目的ではない。ユダヤ人に覚醒を与え、完全に行き詰まっている文明を徹底的に打開して、この歴史の真ん中へ、死を破ったキリストをお迎えしたいのです。そうすると、文明がまったく新しくなってしまうのです。本当の文明は、死を破ったキリスト自身が、復活の命をそのまま持って、地球上に現われる時に実現します。これはイエス・キリストの再臨というテーマであって、歴史的な大問題です。これを私は願っているのです。
(2001年文芸社刊『ユダヤ人が立ち直れば世界が見事に立ち直る』に初出)
3. 世界に絶対平和を実現するために
肉体人間は一種の動物でありまして、動物的原理から逃れることはできません。猿の世界にボスがいるように、人間の世界にもボスがいます。個人的にも集団的にも、ボスがいるのです。国家群にもボスが自然にできています。これがいいか悪いかの問題ではなくて、自然にそうなるのです。
人類のボスは誰か。これがユダヤ人です。
かつて、ユダヤ人の祖先のアブラハムが、人類で最初に、本当の神を発見しました。そのために、人類を指導し、ユダヤ人によって恵みが与えられるという約束を、神がしました。
皆様は、鴈の群れが、への字になって空を飛んでいくのを、ご覧になったことがあるでしょう。先頭を飛ぶ一羽の鴈がいて、その左右に一列になって、飛んでいくのです。先頭を飛ぶのがユダヤ人でありまして、異邦人はその後について行くしかないのです。これが、ユダヤ人と人類の関係です。
ユダヤ人問題は、現代文明の中心テーマなのですが、これが分かる人は、日本では非常に少ないのです。
日本は文明国の中では、一番遅れていた国でした。日本がようやく世界の仲間入りをしたのは、日露戦争が終わってからなのです。それまでは、白人社会の中ではほとんど問題にされていなかったのです。今でもヨーロッパでは、経済問題をのぞくと日本をあまり重要視していないようです。
日本の歴史が、非常に立ち遅れていたこと、また、地理的に東の果てに位置していたこと等の関係で、外国の影響を受けることが少なかったので、ユダヤ人についての見解が、非常に弱かったのです。
ユダヤ人は、現代文明をリードしている民族です。現代文明を承認して、讃美するような立場で考えると、ユダヤ人ほど傑出した民族は、他にいません。現世で一番素晴らしいのが、ユダヤ人です。
ところが、聖書から見ると、一番悪いのです。現世を引きずりまわしているのが、ユダヤ人なのです。つまり、現世に生きていることだけが人間のすべてだと思わせて、人類に、永遠の理想を示していないのです。
この世で王国を造ることが、ユダヤ人のねらいです。この世で生きることだけを考えると、ユダヤ人ほど立派な民族はいないのです。日本人など問題にならないのです。
イエス・キリストはユダヤ人です。世界歴史の流れで、良い意味で特筆大書されているのは、ほとんどユダヤ人です。しかしまた、一番悪いのも、ユダヤ人です。
どう悪いかといいますと、生活主義、肉欲主義、欲望主義をまき散らしているということです。これが、現世のユダヤ人の特徴です。
これは一種の陰謀であって、そうすることによって、彼ら自身がもうけなければならないから、しているだけのことなのです。
私は、ユダヤ人に反省を促すことが目的で、色々な本を書いているのです。ユダヤ人さえ良くなれば、世界は良くなるにきまっているからです。
ユダヤ人が祖先のような状態になれば、世界は驚くべき平和な状態になります。ユダヤ人が一番大切な民族であるから、一番かわいいから、私はユダヤ人をぼろくそに言うのです。
ユダヤ人に反省を促すことが、全世界に平和をきたらせる、唯一無二の方法なのです。日本がいくら経済的に有力な国になったところで、とてもユダヤ人の真似はできないのです。
ユダヤ主義は、現世に生きている人間の欲望主義です。ユダヤ人は、現世的には素晴らしく傑出した、大民族といえます。ところが人間というものは、命が中心で、現世の生活が中心ではないのです。人間の本質は魂ですが、それを、生活が中心であるように言いふらして、その方向へ世界全体を引きずっていったのは、ユダヤ人なのです。
ユダヤ人の考えが悪いために、全世界が物質文明に引きずり回されているのです。この物質文明は、やがて大混乱をきたすにきまっているのです。
人間が生まれてきたのは般若ハラミタを実践すること、彼岸へ渡ることが、目的なのです。現世で生活することが目的ではありません。日本も経済大国になることが目的であってはいけないのです。
実は日本人は、単一民族ではなくて、二通りの種族があるといえます。天皇の一族から分かれた一族と、日本に土着していた一族です。
ユダヤ人も、現世主義のユダヤ人と、神の国の実現を目指しているユダヤ人とがあります。ユダヤ人が目指している神の国とは全世界の完全な平和を意味するのです。戦争をなくすことだけではだめなのです。
核兵器をなくせば平和になるというのは、非常に安直な考えで、戦争はなくなっても、人間の中にある泥棒根性がなくなるわけではありません。泥棒根性がある間は、本当の平和は決して実現しません。戦争はなくても、強盗とか、殺人をする人がいて、刑務所が繁盛するようでは、街にやくざがたむろしているようでは、本当の平和とはいえないのです。
本当の平和とは、神の国を実現することなのです。最も優秀なユダヤ人が、それを目指しているのです。ただ、今のユダヤ社会の中で、それを言うユダヤ人はほとんどいません。ユダヤ人は話せば分かる民族です。般若ハラミタの本当の意味が分かる民族なのです。実は、ユダヤ人問題が分からなければ、本当の般若ハラミタも分かりません。
日本人は、般若心経を読んでいますが、その意味が本当に分かって、生活で実践している人は、めったにいないのです。文字の意味さえも、充分に分からない状態になっています。
ところがユダヤ人は、命のルーツが分かるのです。ユダヤ人は決して悪い民族ではないのですが、現在の物の考え方が悪いのです。
ドイツのヒットラーによって、推定六百万人のユダヤ人が惨殺されました。ところがこの大事件が、世界であまり問題にされていないのです。一人や二人の人間を殺しても問題になるのに、六百万人の人間が殺されていながら、いっこうに問題にされていないのはどういうことなのか。ここに、ユダヤ人問題の秘密があるのです。
ユダヤ人は、骨身にしみて残念無念だと思っていますけれど、世界でそれを追求しようという空気はありません。ユダヤ人社会だけが文句を言っているのです。なぜ、そんなことになっているのかということを、日本人はほとんど知りません。
要するに、ユダヤ人さえまともになれば、アブラハムの思想に立ち返れば、世界は見事に立ち直るのです。人間の考え方のどん底が、すっかり変わってしまうのです。神の国が実現するのです。神の国が実現することが、本当の平和なのです。これは、ユダヤ人でなければ実行できないのです。
だからユダヤ人問題は、大した問題なのです。世界が腐っている原因は、ユダヤ人です。
しかし、全世界を腐らせているユダヤ人が、まともな根性に立ち返れば、世界に完全な平和が実現するのです。
一人の人間を立ち直らせようとしたら、歴史全体を立ち直らせるような方法がいるのです。だから、宗教ではだめなのです。宗教では、これができないからです。
一人の人間は、全世界の人間の命と同じ意味があるのです。同じ値打ちがあるのです。六十三億の人間と、一人の人間とは、本質的には同じものなのです。だから、魂が、本当に命を見つけるためには、全世界の歴史の流れの中心をつかまえなければだめなのです。
全世界を良くするのでなかったら、一人の人の魂を、本当に良くすることはできません。人間一人を広げると、世界全体の歴史になるのです。世界全体の歴史をしぼると、一人の人間になるのです。一人と全体は、同じなのです。
(2001年文芸社刊『人類の救いも滅びもユダヤ人からくる』に初出)
4. 本当の世界が必ずやってくる
人間が完成されるということは、文明が完成されることでなければならないのです。それは、文明と地球とが同時に完成するという意味です。「平和」といいますが、戦争がないことが平和かというと、そうではないのです。もちろん、戦争がない方がいいに決まっています。しかし戦争がなくても、泥棒や強盗、殺人があります。また、いつ起きるかもしれない地震もあります。台風もあり、旱魃、津波、洪水もあります。こういう事がらや現象は、地球が、そして文明が未完成だから起こるのです。
ところで現在の文明は、ユダヤ人が中心になっています。ユダヤ人が牛耳っているために、混乱した文明になっているのです。信じた、悟ったといって、喜んでいてもだめです。なぜなら、人間は生きていないからです。今生きているのは、「私」の命ではないのです。だから、信じたとか、悟ったとかいうのとは違うのです。現在まで、常識で生きていたことが、はっきり間違っていたことを知れば、本当の命は何であるかが、分かるにきまっているのです。
泥棒や殺人がある文明は、本当の文明ではないのです。人間が考えている世界平和は、本当の平和ではありません。それではどのような世界が本当に平和な世界なのでしょうか。「死」がないのが、本当の平和です。これを神の国というのです。神の国は来るにきまっています。なぜかといいますと、私たちの気持ちの中に、そういう世界が実現して欲しいという願いがあるからです。そして人間は、そういう世界が必ず実現するということを知っているからです。
伝染病とか、地震が発生するのは、地球が未完成だからです。南極、北極、砂漠では人間は住めません。人間が住めない所があるというのは、地球が未完成だからです。人間は未完成です。地球も未完成です。歴史も未完成です。これらのものを本物だと思っていることが、間違っているのです。
釈尊が見た明けの明星は、朝日が昇る少し前に出るのです。釈尊はそれを見た時に、やがて太陽が出ることを直感したのです。これが「一見明星」ですが、これを説明できる人が日本にはいないのです。
私たちが現在常識によって生きている命は、死ぬにきまっている命です。未完成の人間の命です。未完成ということは、本物ではないということです。これをよく考えていただきたいのです。
私たちは、目で見る力や、耳で聞く力、また、考えることができる心理機能を持っています。ところが、その与えられた能力を、本当に使ってはいないのです。大脳生理学によると、今の人間は、脳細胞のわずか五〜六%しか使っていないそうです。つまり、本当の命が全然分かっていないということになります。
命は霊なのです。私たちが鼻から息を出し入れしている姿が、本当の霊という意味なのです。生きていることが、霊なのです。宗教団体などで、霊友会とか、霊法会とか、霊という言葉を使うところがありますが、それはシャーマニズムの霊であって、聖書の霊とは全然違うのです。
現世の人間が、いくら幸福になっても、死んでしまえばそれで終わりなのです。死ぬにきまっている人間が、いくら幸せになっても、満足できないでしょう。しかし、本当の世界が必ず実現するということを、聖書は断言しています。イエスが死から甦ったことを、学の対象にするくらいの真面目さがあれば、人間が死なないということが分かってきます。こうなると、文明の完成、地球の完成がくることが考えられるのです。人間の霊魂が完成されるということは、宗教で考えているような、死んでから天国へ行く、といったこととは違います。生きているうちに、はっきり神の命を認識することです。これが人間完成です。宗教は、神の前に三文の価値もありません。どうか、自分の本心を見て下さい。皆様の潜在意識、魂が、何を求めているかということが大切なのです。宗教を求めているのではないはずです。もっと具体的なもの、もっと実感的なもの、命を求めているのです。
地球が造られたのはなぜなのか。文明がなぜ現在のようなものになったのかということについて、もっと勉強して頂きたいのです。
まず私たちに必要なのは、宗教ではない、般若心経と聖書を勉強するということです。現在の文明が間違っていることを知って下さい。人権という思想があるために、どれだけ社会が混乱しているかということを。文明は、ありもしないものを、あるように言いふらしています。その結果、家庭内暴力や学校内暴力が頻繁に発生し始めたのです。資本主義社会では金権が問題になり、社会主義社会では人権が問になっています。資本主義も社会主義も、両方とも不完全だからそうなるのです。この世の生活のことは、学校で教えてくれますが、命のことは、自分自身で勉強するしかないのです。
(2001年文芸社刊『人類の救いも滅びもユダヤ人からくる』に初出)
5. やがて地球は完成される
日本は国ができたのが比較的新しいのですから、日本人は世界的なスケールで見ることが、できないのです。世界的という言葉はありますけれど、日本人はそれを非常に小さい感覚で使っているのです。人間が五、六千年の間地球上に生きている。これを歴史の全体のように考えているのです。
地球が存在することを正しく理解することが、道を知ることになるのです。日本人は道を知らないのです。道とは天地創造の原理のことです。天皇制はそれを現しているのです。
日本の国ができたのは、今から千五百年くらい前のことです。たいしたことはないのです。ですから、日本人のものの考え方は、実に小さいのです。小さいスケールで見ていますから、天皇制が分からないのです。
日本を造った原点が天皇制です。日本人が考えたことが天皇制になったのではないのです。天皇制が日本を造ってきたのであって、日本人が集まって天皇制を造ったのではないのです。これがイギリスやベルギーの王朝と違う点です。天皇制は人間が造った制度ではないのです。
地球存在はプロジェクトです。これはすでに出来上がったもの、終点を意味しないのです。発展段階のプロセスを意味しているのです。地球があること、人間がいることも、時間空間があることも、プロジェクトの対象になるのです。
プロジェクトというのは計画、研究課題という意味です。すべてが研究課題であって、完結されたものとして、鵜呑みにしてはいけないのです。
地球があることが絶対だと考えたらいけないのです。釈尊はこの点を間違えていた。後からこれが分かって驚いた。自分の考えが小さすぎたので、恥ずかしくて、甚だ赤面の至りだと言った。これが一切空です。一切空は、私は恥ずかしい、ああ恥ずかしいという言い方になるのです。
釈尊は王家の皇太子でした。なぜ人間が生まれてきたのか。なぜ死んでいくのか。こればかりを考えていたのです。生老病死という四つの人間の苦しみがなぜあるかというところから発生した。これが小さいのです。人間のことだけを考えていたからです。
釈尊は地球がなぜあるかを考えなかった。牛がなぜいるか。馬がなぜいるか。これが分からなかったのです。釈尊の出発点は小さかったのです。ところが明けの明星を見てびっくりしたのです。明けの明星を見て、裕然と大悟した。地球があることが、プロジェクトだということが分かったのです。これを疑問の対象にしてこなかったのです。
臨済等の禅宗では、大疑団を持てといいます。釈尊は疑いの魂を持っていたから、それについての解答を、神から与えられたのです。それでびっくりしたのです。
生老病死-人間はなぜ生まれてきたのか。なぜ年老いて、病気になって、死んでいくのか。これが大きな疑問になるのです。
人間の細胞はいつでも新陳代謝しているのです。一週間もすると、脳細胞以外は、ほとんど新しくなる。そのように、人間の細胞はいつでも変化しているのです。新陳代謝しているのです。新陳代謝しているというのは、いつでも若返っているということです。ですから細胞は老化するはずがない。若返っているものが、老化するのはおかしいのです。これは医学では説明できないのです。
人間の肉体細胞は、絶えず新陳代謝しています。従って、細胞が老化現象を起こすのはどういうことなのか。説明ができないのです。とにかく宇宙は不思議なものです。人間がなぜ年をとるのかわからないのです。聖書にははっきり書いています。神の約束に大関係があるのです。
地球は完成を目指して進歩しているのです。完成を目指してということは、終点を目指してということです。地球の物理構造が、終点に向かつて動いているのです。細胞の新陳代謝でも、終点に向かってという原理を持っているのです。
地球存在が目的を持っているのです。目的に向かって進んでいるのです。地球はできた時から、終点に向かって、完成に向かって進みだした。完成ということは、物理的に完熟することを意味するのです。完熟するということは、やがて新しいものに脱皮するということです。
今の地球は、幼虫的な存在です。幼虫は成虫に変化するためにあるのです。地球はそのように変化していくのです。これは預言的な思想でないと分かりません。宗教や法律、哲学では分かりません。科学でもわからないのです。私はそういうものを全部含んだ立場から見ているのです。
地球存在全体がプロジェクトです。これは出来上がったものではありません。成長過程にあるのです。従って、人間が地球をどのように見るかによって、人間の命が決定するのです。
その人自身の世界観によって、その人の生命観が、その人の生命になるのです。自分の生命をどう見ているかです。それによって、その人の命が、永遠にもなるし、死んでしまう命にもなるのです。自分の思想を限定すると、死んでしまうのです。
今の地球は完成に向かつて進んでいるのであって、完成したものとは違います。地球は未完成です。ですから、地震があったり、洪水、津波、台風、噴火、飢饉があるのです。
アフリカでは砂漠が広がっている。伝染病、ガン、エイズが発生する。病気になるというのは、地球の未完成さをはっきり証明しているのです。こういうものを、本当の住み処と思うことが、間違っているのです。
聖書を学ぶと言うことは、人間存在の本質を学ぶことであって、これが本当の学です。法律学、社会学、科学、哲学などの学は本当の学ではありません。ただの知恵です。知恵とは人間生活の工夫です。
人間がこの世で生活することを工夫するのが科学です。ですから、本当の学という程の値打ちはありません。学は人間存在の本質に関する認識でなければならないのです。
人間の命とは何か。肉体とは何かということは、地球を見ないと分からないのです。釈尊でさえも、生老病死を一生懸命に考えていたのです。七年間バラモンで修行していたのです。
現在の人間は本当の人間ではありません。幼虫みたいなもので、発展途上にあるのです。地球が未完成ですから、人間が完成しているはずがないのです。
地球が未完成ですから、地球上の物質も、全部未完成です。腐るか、砕かれるか、風化するか、消滅してしまうのです。すべて、暫定的な存在です。地球そのものが暫定的なものだからです。地球が未完成ですから、地球の物質も未完成です。完全な物質は一つもありません。ダイヤモンドでさえも、風化するのです。
こんな地球を神が本当に造りたいと思って造ったのでしょうか。かつて造られた「天地創造」というアメリカの映画は、ユダヤ人の御伽噺でした。
なぜ神は地球を造ったのか。創世記に、「地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあり、神の霊が水の表をおおっていた」(1・2)とあります。神は物理的に不完全な地球を造ったのです。「淵」が不完全なものであることを知らせるために、淵のあり方の通りに地球を造ったのです。
地球全体が淵です。闇が淵の表にあった。だから闇が地球全体を占領するのはあたりまえです。闇は地球にかじりついているのです。現在の地球は、悪が支配しています。政治、経済、社会に、不正行為、矛盾が満ちていますし、死が堂堂と存在しています。地球に死が存在しているということが、闇が地球を支配しているという、明らかな証拠になるのです。地球が自分の住み処であると思っている人は、全部、闇という悪魔の子になるのです。
地球に生きていながら、地球を信じない。こういう人が出ることが、地球というプロジェクトが造られた理由です。これを今の学者は全然知らないのです。学者は、今の物質が完全なものだとは思っていないでしょう。おかしい、おかしいと思っているのですが、それ以外の物質があるとは思えないのです。
皆様は地球でお生まれになりましたけれど、それは神が皆様に本当の知恵を与えて、将来、朽ちず、汚れず、萎むことのない、全く新しい永遠の地球、完成された地球を財産に与えようとしているのです。これが聖書に示された壮大なキリスト計画です。
今の地球に満足していることは、とんでもない間違いです。現在の地球を認めてしまうと、現在の地球と一緒に、滅びてしまうことになるのです。こんな地球と心中することがいやな人は、朽ちず、汚れず、萎まない地球を求めたらいいのです。皆様の霊魂がそれを望んでいますし、聖書にはそれを求める方法がはっきり示されているのです。
現在の地球が消滅して、本当の地球に生まれ変わるのです。朽ちず、汚れず、萎むことのない永遠の宝としての地球になる。聖書はこれを「新天新地」とよんでいます。神はそれを与えると言っているのです。
現在の地球は不完全である。こういう思想が今までの日本になかったし、欧米社会にもなかったのです。
東洋では、釈尊が初めて、地球の不完全さを見つけたのです。やがて、地球が完成する。新しい黄金世界が現れることを、釈尊が見つけたのです。だから、今の地球はだめだと言い出した。これが「一見明星」の思想です。この説明を未だ日本でした人がいないのです。
地球が新しくなる。人間も万物も新しくなることを釈尊は見た。だから今の地球はだめだと言い出した。これが一切空です。
釈尊は東洋で一番最初にこれを言い出した。聖書はイエス・キリストが復活したことによってこのことを具体的、歴史的に実証したのです。釈尊が見た明けの明星とは、イエス・キリストの復活の世界を見たのです。
現在の物質は不完全であって、完全な物質に進化するのです。ですから、不完全な人間、不完全な肉体、不完全な地球、不完全な道徳、不完全な法律を信じていることが、間違っているのです。
現世に生きている間は、この世の法律は守らなければなりませんけれど、これを信じたらいけないのです。肉体としての義務は、現世の法律を守らなければなりませんけれど、霊魂の義務は、社会、国家、憲法によって拘束されないのです。霊魂は日本国よりも大きいからです。地球よりも尊いのです。私は地球一周を二回して、このことをよくよく感じたのです。
やがて、全く新しい世界が現れる。釈尊はこれを華厳経で説いたのですが、あまりに難しすぎて、誰にも分からなかった。華厳浄土は、地球が完成した後の三世諸仏のあり方を説いているのです。人間が完成し、地球が完成した後のことです。全くの黄金浄土です。これを説いたのです。だから華厳宗には大仏が並んでいるのです。
地球が存在していることに、重大な秘密があるのです。やがて地球はどうなるか。人間は死んでからどうなるか。人間の霊魂には、どれほどの可能性が含まれているのか。今の人間には全くわからないのです。
今の地球は研究課題であって、これを完成したものとして考えてはいけないのです。今の太陽は不完全です。地球も不完全です。現在の太陽系宇宙を、完全なものとして認めるのがユダヤ思想です。そういうものではなく、本当のものがあるのです。イエスが提唱した神の国は、完成した地球のことです。地球が完成しますと、朽ちず、汚れず、萎まない、完全な物理が現れます。そのとき、太陽系宇宙はすっかり変わってしまうでしょう。今の太陽は消えてしまいます。
聖書は恐ろしい預言をしています。「主の日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼け崩れ、地とその上に造り出されたものも、みな焼き尽くされるであろう」(ペテロの第二の手紙3・10)。
やがて太陽が大爆発を起こすときに、地球がのみ込まれて焼失することを、預言しているのです。
しかし、この地球にはイエス・キリストが復活したという事実があるのです。この事実はどうすることもできません。そして、イエス・キリストが復活して、地球に新しい物理が誕生したこと、それを信じる人がいるということです。イエス・キリストの復活が、全く新しくなった地球に現れるのです。そうすると完全な地球ができるのです。それを今の地球は待っているのです。
6. 地球に神の国が実現している
異邦人は神を恐れ畏むことができない民族です。
キリスト教は神をバカにしています。神の言葉を信じるために、どういうマナーが必要かを知らないのです。マナーの次元が低いからいけないのです。この世に生きている人間が、神を信じられると思っているからです。
この世に生きている人間を第一に考えています。そんなものは信仰とは違います。キリストが現世にいるときに、大いなる叫びと涙とを持って、魂を救うものに祈ったとパウロが言っていますが、そういう気持ちにならなければいけないのです。自分のためと考える必要は無い。そう考えるから間違ってしまうのです。
イエスは次のように言っています。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって思い煩うな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなた方の天の父は、これらのものが、ことごとくあなた方に必要であることをご存知である。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6・31〜34)。
現代人の生活が豊かになっているために、生きていることの意味が、痛切に感じられなくなっているのです。イエスは生活難があるような生活をしながら、それを問題にしないようにしなさいと言っているのです。
皆様は本気になって、自分から真理を求めたことがないでしょう。人に教えられているのです。そういう条件でいますから、自分で神にむしゃぶりつくようなファイトがないのです。
生活の安定度が高いと、三十一節を読んでもピンとこないのです。自分自身の生活のために闘わねばならないという厳しい条件を、ほとんど経験していないからです。
特に現代の日本社会の経済状態が良いので、霊的に腐っているのです。失業保険制度、社会保険制度、社会厚生福祉制度等があるために、三十一節の実感が日本人にはないのです。こういう社会的な悪条件と、皆様の霊的条件の悪さがあるのです。
皆様は日用の糧を今日もお与えくださいと、本気になって祈ったことがないでしょう。こういう人に、神の国と神の義を求めさせるということは、至難なことかも知れませんが、しなければならないのです。
人間は現在の状態で、はっきり救われているのですが、これが分からない。神がそのように見ているのに、自分が生きていると思っているから分からないのです。自分の気持ちを信じているから分からないのです。
皆様は有難すぎるほどの条件を与えられているのですが、それが分からない。これは生活が保証されているという意味ではありません。霊的な意味で、皆様は完全に救われているのです。これが分かれば、現在の生活について、思い煩う必要はないのです。
現世が全く幻だということが分からないのです。むしろ、三十一節にあるような思い煩いがあると現世が幻だということが、比較的に分かりやすいのです。これがないから、皆様の考えはいつでも、空回りしているのです。
聖書に神の国ということが書いてありますが、それが空回りしているのです。理論的に分かっても、マナー(生活態度・生活実感) として分からないのです。頭で理解できても、信仰ではありません。信仰とはマナーの問題です。これが分からないのです。
いつまでも、人間的な次元で考えていることが悪いのです。神の子の次元になっていないからいけないのです。人間のマナーで聖書を勉強していますが、そんなものは信仰ではないのです。神が聖なるように、人もリビングのマナーにおいて聖であれと言っています。これができないのです。
三十三節でイエスは、神の国と神の義を求めよと言っています。この口語訳が間違っています。英訳を直訳しますと、汝ら、第一に彼の王国を探し求めよとなるのです。口語訳には汝らという言葉が入っていない。汝らとは一般的な、平凡なユダヤ人に向かつて言っています。これらの人々に当然神の国と神の義が分かるからです。
キリスト教は困ったものです。キリスト教がなかったら聖書は伝承されませんでした。ところが、キリスト教があったために、人間の言い伝え、人間の信仰ばかりが伝承されたのです。神の信仰が全く伝えられなかったのです。
聖書の字句は神の信仰の表現であって、人間の信仰の表現ではありません。これをよく承知しなければいけないのです。聖書の言葉の重みが分かつていないのです。
神は次のように言っています。「私は、あなたのわざを知っている。見よ、私は、あなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである」(ヨハネの黙示録3・8)。
神の言葉を守るというのは、自分自身の心に保つことを言うのです。これがなかなかできないのです。皆様は自分の心で、神の言葉をキープしているのでしょうか。それが生活のマナーになっているのでしょうか。神の言葉をキープしていれば、生活のマナーが神の子のマナーになるのです。この世に生きていないマナーになるのです。
ところが、神の言葉をキープしていないから、聖書の言葉が心に貼りついていない。神の言葉をキープしていたら、聖書の言葉がいつでも生きていることの中心に貼りついているはずです。これがマナーです。神の言葉がキープされている状態です。後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばすような姿勢がないから、いけないのです。
昔の人は今のような生活条件ではなかった。だから闘ったのです。生活と闘う、自分の肉(自我意識)と闘わなければならなかったのです。まなじりの決しようが違っていた。顔つきが違ったのです。
やがて日本は高齢化を向かえ、二人で一人を養わなければならない時が来るでしょう。世界中も、福祉社会へ進むでしょう。これが偽キリスト王国の実現になるのです。
米、ロシア、ヨーロッパの国々が話し合って、核軍縮を実現するか、非核条約を締結する方向に進むでしょう。そうなると、世界の国々は国境をなくすということを考えなければならないのです。国境がある間は、どうしても軍備を考えなければならないからです。
とにかく、軍備についても、経済についても、政治の基本的なテーマについてもー国平和主義が通用しなくなっているのです。これが現在の日本の安定を作り出す原因になっているのです。
人間がだんだんとお互いに保障しあうようになって、神を必要としない社会が実現するのです。人間の力で、神の国を実現しようとするのが、キリスト教の意識です。
世界に平和を、平和を世界に、これがキリスト教の考えている神の国です。キリスト教はどこまでも、人間と世界をたぶらかそうとしているのです。キリスト教のアイデアは、人間と世界を徹底的に腐らせるアイデアです。それほどキリスト教は悪いのです。
現在の文明の中で、キリスト教ほど悪いのはありません。軍縮とか、民主主義とか、近代政治運動の基礎に流されている精神は、全部キリスト教から出ているのです。マルクス主義は政治経済運動だけでしたが、キリスト教は啓蒙主義を通して人間改造を考えている。これをユダヤ人が上手に操っているのです。そういう状況をユダヤ人が作ってきたのです。
やがて、ユダヤ人とキリスト教は一つになるでしょう。労働組合の大同団結と、宗教の団結です。政治も団結するでしょう。その結果、国がなくなるのです。国がなくなれば国境もなくなります。領土問題で争わなくてもいいのです。これが偽キリスト王国です。
そういう方向へだんだん腐っていくでしょう。それを皆様は身において経験しているのです。堕落するはずです。生活に対する根本的な脅威を考えなくなったからです。もっと自由に、もっと自由にが実現するからです。
経済的にも、セックス的にも、もっと自由にと考えるのです。これが偽キリスト王国のテーマであって、これに対して全世界の人間は拍手喝采するのです。
偽キリスト王国が現れると、世界中が喚声を上げて賛成するでしょう。バンザイ、バンザイと叫ぶでしょう。人間がますます解放されるからです。
その時、何を食べ、何を飲み、何を着ようと思い煩うなという聖書の言葉が、全く空文になるのです。何を食べ、何を飲み、何を着ようと思い煩う人には、真剣に聖書の勉強ができるのですが、今の人間にはそういう条件がないのです。何を食べ、何を飲み、何を着ようと思い煩らわなくてもいいからです。
異邦人はなぜ何を食べ、何を飲み、何を着ようと思い煩うのか。なぜ思い煩わねばならないのか。
イエスは皮肉な言い方をしたのではない。人間を生かすのは、神の責任です。思い煩うことが、神の仕事です。人間の仕事ではないとイエスが言っているのです。なくてならないものを思い煩うのは、神の責任です。それを人間は自分の責任のように思っている。これが間違っているのです。神の国と神の義を求めるものは、生活の責任を持たなくてもいいのです。神の国と神の義を求めない者は、むしろ思い煩った方がいいと神は思っているのではないか。このようにさえ思えるのです。
このイエスの言葉は、十字架にかかるまでの言葉です。ここに注目して頂きたいのです。山上の垂訓は、十字架にかかるまでのイエスの言葉であって、実は神の国と神の義を求めよという言い方は、現在では通用しないのです。
現在では通用しないという見方をすることが、聖書的に正しいのですが、十字架以前にイエスが言っていた言葉でさえも、今の異邦人にはついていけないのです。
山上の垂訓は十字架以前の問題ですから、マナーとしては間違っていませんが、言葉の表現としては古い事になるのです。イエスは旧約時代の人間をつかまえて発言しているのです。新約時代の人間をつかまえたら、こんなことは言わないでしょう。
人間が現在いる状態のままで救われているというのは、新約時代の言い方になるのです。現在は神の国が来てしまっているからです。神の国を求めよと言われなくても、神の国は来ているのです。今はそういう時代なのです。
この結構さが、今の人間に全然分かっていません。失業保険制度、社会保証制度を霊的に見れば,それが神の国になっているのです。現在の地球のすべてのあり方がそのまま神の国になっているのです。神の国にいる人間は、生きていることが救われていることになっているのです。だから商売で成功しようとか、得をしようとかを考える必要がないのです。喜び楽しみにあふれているはず。何がなくても生きていることがあるだけで、常に喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できるのです。現在生きている人は、神の子ばかりですから。
人類は、一体、キリスト紀元をどう考えているのでしょうか。これは神の国が来ているという明確な神の歴史的介入です。神が歴史に介入しているのです。これがキリスト紀元です。
神自身が御子の十字架と復活を通して、神自身が歴史の中に入り込んできたのです。これがキリスト紀元であって明々白々に神の国が来てしまっているのです。だから私たちは、何を食べ何を飲み何を着ようと、思い煩う必要がないのです。全くないのです。
ですから、マタイによる福音書の六章三十一節から三十四節までのイエスの言葉は、十字架以後は必要がないのです。神の国と神の義を求めよと言わなくても、もう来てしまっているのです。これがキリスト紀元です。
神の国に生きることが、あたりまえです。これを特別のことと思う必要がないのです。思い煩わないのがあたりまえ、とこしえに生きるのがあたりまえ、死なないのがあたりまえなのです。聖霊が降臨したことは、神の義が現れている証拠です。
なぜ死ななければならないと思うのでしょうか。病気になったからと言って、死ななければならないと思う必要はないのです。病気になることと、死ぬことは別問題です。神の国が来ているのですから、病気になっても悲観することはないのです。
キリスト紀元はそういう時代であって、生ける神が歴史の中に介入しているのです。だから、病気や戦争は本来あるべき道理がないのです。それを病気があるのはあたりまえ、犯罪があるのはあたりまえ、戦争があっても仕方がないと考えている。私は世界中の人間に向かってこういう考えが全く間違っていることを気違いのように、狂った人間のように言っているのです。
世界中の人間は、キリスト紀元を知らなさすぎるのです。キリスト王国が現れているのに、なぜ原子爆弾を造る必要があるのでしょうか。なぜ生活のことを考えなればならないのでしょうか。なぜ病気のこと、犯罪のことを考えなければならないのでしょうか。
来るべき千年王国には病気はありません。伝染病、疫病、ガン、エイズがなくなってしまうからです。自然災害も一切ありません。米や麦は年に何回も取れるのです。従って食糧問題はすっかり消えてしまうのです。こういう時代に、国際連合がなぜ必要でしょうか。もう神の国は現れているのです。
神の国が現れて千九百年以上にもなるのに、まだ人間が死ななければならないと考えている。これはどういうことでしょうか。
何よりも悪いのは、キリスト教です。彼らは新約聖書を全然読んでいません。神の国と神の義をふうふう言って追い求めているのです。このイエスの言葉がもう古いのです。イエスは言っています。私より後から来る者は、私より大いなる業をするであろうと。私が言っていることは、気違いが発言しているのではありません。あたりまえのことを言っているのです。山上の垂訓の神の国と神の義を求めよという発言は時代遅れですが、マタイによる福音書の五章、六章は、来るべき千年王国時代の人間生活のあり方を書いているのです。右の頬を打つなら左を向けよとか、下着を取ろうとするものには上着をも与えなさいとか、訴える者と一緒に道を行くときには、その途中で早く仲直りをしなさいと言っていますが、王国時代にこれが実行されるのです。
死ななければならない事実は、もうなくなっているのです。第三天においてキリストが神の右に座している。この人を信じていて、なぜ死ななければならないのでしょうか。神の右に座している人の名前は、死を消してしまっているのです。
肉体人間が死ななければならないのは、旧約時代の原理です。人が死んで裁きを受けることは、旧約時代の原理です。これをなくすために、キリストが一度死んだのです。裁きを受けたのです。それ以後、人間が死ぬことが消えたのです。新約時代を真正直に見れば、こういうことがはっきり分かるのです。新約時代をまっすぐに見ることを、神の言葉を守ると言うのです。
フィラデルフィアの教会はこれをしなさいと神が言っているのです。神の言葉をキープするのです。もう死がない時代が来てしまっている。これは歴史的事実です。こういう立場で考えるのです。そうすると、夫婦関係とか親子関係、対人関係が全部変ってしまうのです。
山上の垂訓は、肉体を持った人間を相手にしています。これは千年王国のあり方です。神の国が分かつている人は、現在の地球が消えた後の、新天新地の信仰で生きられるはずです。
山上の垂訓は千年王国の生活レベルのことを説いていますが、これでもレベルが低いのです。新天新地に生きている気持ちを持つのです。肉体がない状態で生きるのです。
イスラエルの王国とは、千年王国のことを言うのです。千年王国の指導者を指導するのは、新天新地の原理によるのです。
キリスト教は肉体人間がいるというところから出発しました。これが根本的な間違いです。パウロは肉体人間がいるという考えでパウロ書簡を書いています。パウロの意識が低かったのです。パウロは肉体人間についての注意を色々書いています。キリストの福音を世界に伝えるために、キリストの福音を異邦人に伝えるために、人間がいるという意識で書いたのですが、私たちは違うのです。イスラエルへ福音を伝えなければならないのです。
今の異邦人の時代に、キリスト王国を飛び越えて、新天新地の信仰を望んでいかなければ、千年王国の指導者を指導できないのです。
すべての肉に私の御霊を注ぐと神は言っているのです。例えば、目の前に花があるとします。この花に御霊が注がれるとどうなるか。御霊とは大自然を動かしている神のエネルギーですが、新しい神のエネルギーが注がれるとどうなるかです。
聖書の預言通り、森羅万象一切に神の霊が注がれているはずです。そうすると、花という物質存在は消えて、美しさだけになるのです。美しいという霊的事実だけになっているのです。
御霊が注がれる前は形がなければならないと考えていますが、今はそうではない。形は美しさという点からだけ言いますと、美しさが花に現れているのです。花はないのです。そうしたら、私たちが今見ている花は何かということです。
私たちが生きている世界は、言葉に命があるのです。ことに新約時代の現象世界は、第三天の栄光の現れです。目に見える物質があるというのは、第一の天の思想であって、旧約時代(イエスの誕生以前)には通用したのです。第二の天は天文学で考える天で、これも旧約時代にあったものです。第一の天は人間の感覚の世界です。見たり聞いたりしたその通りのものがあるという考えです。唯物論の世界です。第一の天の原理を第二の天に押し上げたのが、唯物論です。これが唯物弁証法という理屈です。第一の天を第二の天のように言いふらした。これがマルクスの思想です。これは第三の天と全然関係がないのです。
神の国が実現しているという角度から見るとどうなるか。すべての肉に私の霊を注ぐとあります。その結果、第一の天として存在するものが、すべて第三の天にかかわりを持つようになったのです。神はすべてのものに、霊を注いだのです。聖霊の降臨によって、人間の心にまで神の御霊が注がれた。それまで人間の心は悪魔の虜になって死んでしまったのですが、死んでしまったものまで神の御霊が注がれた。
人間の心は死んでしまっていたが、動物、植物は死んでいないから罪の下にいるのではない。人間が罪を犯したから、動物植物はただの物になってしまったが罪の下に売られたのは人間だけなのです。
人間が罪の下に売られた結果、万物が無になってしまった。それをパウロは次のように述べているのです。「今のこの苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意思によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから開放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている」(ローマ人への手紙8・18〜22)。
人間が罪を犯した結果、被造物が虚無に服したが、イエス・キリストの十字架によってすべてのものに、神の御霊が注がれた。その結果死んだ人間の心が、皆生き返ったのです。神の側ではすべてが新しくなっているのに、それが歴史的な事実になっていない。イスラエルがそれを受け入れないので、新しい世界が現実に展開していないのです。もしイスラエルがこの事実を受け入れれば、地球に全く新しい世界が現れて、千年間の驚くべき平和、絶対平和が訪れるのです。私はこの日が来ることを切に願っているのです。
7. 輝かしい地球の未来
現在の異邦人の時代では、神が世界の表面に現われていない状態にあります。異邦人が聖霊に従って、隠れている神を信じることは、なかなかできないことです。
神はありてあるものです。地球が自転公転していることが神です。神は良いものも悪いものも鵜呑みにする状態にあるのです。
私たちは神的なものと、悪魔的なものとを、区別して考えなければならないような精神状態を持っています。これはキリストです。霊的な問題と肉的な問題を、仕分けして考えなければならないような精神状態にあるのです。これはキリストに属する思想なのです。
神は肉も霊もそのまま鵜呑みにして裁いていくのです。肉は肉のままで、霊を霊のままで見ていく。これがエホバです。キリストはそうではない。肉は肉として裁きながら、霊を霊として恵みながら見る。
ただ生きていることがエホバです。神です。聖書を生きることになりますと、キリストになるのです。
ありてある状態がエホバです。信じる状態がキリストです。存在していることは何か。良い意味で存在していますし、悪い意味でも存在したいと考えることがキリストです。人間はエホバから外れることはありません。
詩篇に「愚かな者は心の内に『神はない』と言う」(53・1)とあります。これは非常におかしな言葉です。神が本当にないのでしたら、神がないという思いが出るはずがないのです。神があるからそういう思いが出てくるのです。
人間は無意識に神を知っています。知っているから神なんかあるものかと言いたくなるのです。
私たちが生きている宇宙は、物理的に存在する宇宙です。これについてパウロは次のように述べています。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも、地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ人への手紙1・15〜17)。
万物は神の言葉で造られ、私たちは神の言葉の中にいるのです。肉体的に生きているのは、このことを知るためです。日本人は神の言葉の中にいることが、全然分からない民族です。現象世界は神の言葉の世界です。聖書は神の言葉のことを御子と言っています。御子とは神の子のことです。御子は神の言葉です。御子はすべてのものの先に生れたのであって、すべてのものは御子によって造られた。又、御子のために造られたのです。
御子とは御言葉です。御言葉はキリストです。キリストとは何か。現象世界の根本を洗いなおすと、キリストになるのです。信じようが信じまいが、人間が肉体を持っているということが、キリストの内にあることなのです。肉体を持っていながらキリストを信じていないということは、自分の命の本質を、知らないことになるのです。
万物があるとは何か。神の言葉が万物になっている。万物が存在するのではなくて、神の言葉があるのです。キリストとしての神の言葉があるのです。地球が造られたことがキリストです。キリストによって地球が造られたのです。御子がすべてのもののいや先に造られたと言うことはそれなのです。
現在の宇宙が造られる前に、御言葉が生れたのです。御言葉によって宇宙が生れた。まず神の言葉が生れた。神の言葉によって宇宙が生れたのです。
この宇宙が生れた目的は何か。神の言葉のために、神の言葉が宇宙を造ったのです。神の言葉が天地万物に現われているのです。天地万物はそのまま神の言葉を証しているのです。人間の肉体はもちろんそうです。あるものと造られたものとは違います。
太陽系宇宙を離れると、茫々漠々たる宇宙になります。いわゆる原始宇宙になるのです。これはありてある世界です。これは造られた世界ではありません。
太陽系宇宙は造られた世界です。造られた世界がなぜあるかと言いますと、キリストという絶対原則が実現するためです。
茫々漠々たる原始宇宙が太陽系宇宙に進化し、太陽系宇宙がさらに進化すると、完全な宇宙に変化するのです。これが新天新地です(ヨハネの黙示録21・1〜27)。
現在の太陽系宇宙は進化の過程にあるのです。
太陽系宇宙は物理的には存在していなかった。ただ茫々として存在していた。漠然たる存在であった。漠然たる存在のままでは進化しないのです。これが物理的存在に変化したのです。
物理的な存在は進化するのです。これが新天新地になるのです。新天新地は現在の物理的な地球が消滅した後にできる全く新しい世界です。私たちは宇宙が完全な宇宙になるためのプロセスを経験しているのです。これが現象世界です。
現象世界は中間の世界です。原始でもないし、完成されたものでもない。原始世界と完成された中間状態が存在する。これが宇宙進化の法則です。これは聖書にだけしか示されていません。聖書以外のものには書かれていないのです。だから聖書を信じないものには地球が何のためにあるのか。何のために地球ができたのか。これから地球がどうなるかということは、皆目分かりません。
聖書を学ぶことによって、地球の未来が分かるのです。人間の肉体は、かつて、空であった。空であったものが実になり、実であるものが、やがて光に変化するのです。
般若心経では空と色との関係だけしか説明していません。空が色になったということを説明していますが、色が光になることは全く言及していません。色(現象世界)はやがて光になるのです。これが現在の人間の知恵では説明できないのです。聖書はこれをはっきり説明しています。宇宙が完成することをはっきり書いているのです。
私たちが肉体的に生きていることの中に、神の言葉が働いています。私たちの肉体を、神の言葉の働きに同調させるような考え方を持っていけば、私たちの肉体は神の言葉の進化と同時に進化をするのです。
肉体の中に神の言葉が働いている。それは肉体という不完全な肉体の中に、完全な言葉が入っているのです。
私たちが肉体を持っているのは何のためか。肉体に所属する思想ではなく、肉体に働いている言葉に所属するような思想を持ちますと、私たちの肉体が言葉に引っぱられるのです。言葉が持っている上級の力に引きよせられて、肉体が変化するのです。
その結果、肉体が肉体ではなくなってしまう。これが(けいきょ)と言われる人間完成です。それと同じことが地球にも起きるのです。人間存在は地球の理性と良心です。人間がしっかりしますと、地球がアウフヘーベンされるのです。
人間が精神的に神を信じますと、人間の肉体が神に同化されますように、地球が神に同化されるのです。これが新天新地です。
キリストがすでに、これを実現しました。私たちがキリストに続いて、キリストの真似が少しでもできるようになりますと、地球の物理状態が変化します。そして、地球が黄金浄土になるのです。
釈尊は地球が黄金浄土になった状態しか述べていません。どういうプロセスを経て地球が黄金浄土になるかということを一切説明していないのです。聖書はこれを述べているのです。
人間がキリストを信じることくらいは、小さなことだと思われるかも知れませんが、そうではない。キリストを信じることは大変なことです。キリストを信じる信仰が、地球を完成させる力を持っているのです。これを自覚すれば、その力が確実に働くことになるのです。物理運動は完成するための事前運動です。現在の物理条件は未完成の条件ですが、物質が完成するための条件です。物理を完成するためには、神の思想がいるのです。物理的原理の中へ神の原理を加えると、物理が完成するのです。これが(けいきょ)と言われる完成の原理であって、地球そのものが完成するのです。
地球の内部にいる私たち、地球の精神である私たちが、神を信じることによって、地球を物理的に完成させることができる。これは大変なことです。
キリストの復活という事件が、地球全体に及ぶのです。キリストの復活という事実が、地球全体の条件になるのです。この時、皆様の功績が、神によって正式に称えられるでしょう。
皆様が神を信じるということは、偉大な功績です。この偉大な功績が、正当に顕揚される時が来るでしょう。これが教会の完成です。皆様の信仰によって、皆様が救われるのではない。地球が完成されるのです。そういう大きな期待を、神が皆様に対して持っているのです。それが聖書にはっきり書いているのです。
皆様はそれをしようと思えば、十分にできるのです。前進したいという気持ちを持ちさえすれば、実現できるのです。皆様の霊魂は、救われることを願っているのではありません。地球が完成することを願っているのです。神の言葉が地球全体を覆ってしまうこと、神の栄光全体が地球全体を覆ってしまうこと、地球全体が神の都になることを願っているのです。地球全体がエルサレムになることを願っている。そうなるに決まっています。聖書はそれを預言しています。この預言は必ず実現するのです。
私たちの信仰は頼りがないかもしれません。異邦人の私たちに、神が信じられるのです。絶大と言えるようなすばらしい功績が、私たちの信仰の中に秘められているのです。これはキリストの復活によって、すでに部分的には完成しているのです。イエス・キリスト一人の人が甦ったということは、全人類が甦ることの前兆です。全人類が甦るということは、地球全体が完成することになるのです。
キリストの復活が、地球全体の完成を予告しているのです。自分の意識で聖書を見る、信じることがいけないのです。聖書の意識で自分を信じればいいのです。
「心の内に神はない」とあります。心の内とはどういうことか。外に向かって堂々と言っているのではありません。自分自身の精神状態の中で、神なんかあるもんかと言っている。神なんかあるもんかとはっきり思わなくても、多分神には分からないだろうと思ってつぶやいているのです。これが愚かなことです。
心の内にというのは、その人自身の主観においてという意味です。神は人間の主的概念の中にはいません。そこだけに神はいない。その外には、神はいっぱいつまっているのです。人間の主観的概念の中にだけ、神はいないのです。そこは悪魔の領域ですから。
人間の主観的概念は、悪魔の国です。この世は男性の主観的な概念で造っている世界です。この世の概念の中には、神はいないのです。ここだけに神はいないのです。ここが地獄です。
この世で通用する理屈、この世でもてはやされる理屈が、地獄を造っていくのです。例えば民主主義の概念は、立派に地獄を造っていくのです。民主主義は、個々の人間の主観意識を尊ぶのです。これは偽キリストの概念になるのです。
個々の人間の主観意識を尊んで何になるのでしょうか。何のために尊ぶのでしょうか。それを尊ぶと、その人は地獄へ行くに決まっているのです。
地獄はどうしてできるのか。地獄は初めからあるのではない。人間が勝手に造っていくのです。自分の地獄を、自分の主観によって、自分が造っていくのです。バカなことをしているのです。
心の内に神はないというのは、地獄を造る思想です。地獄は神が造るのではない。人間自身が造るのです。自分の地獄をていねいに造って、その地獄へ行くのです。その人は死ぬに決まっているのです。心の内に神なしという気持ちが地獄を造っていくのです。自分が造った地獄ですから、自分で納得していくのです。もし自分が造ったものでなければ、こんなバカなことはないと言って、神に文句を言うことになるのです。神に文句を言うようでは、地獄が地獄にならないのです。亡者が組合を造って、神に反対運動を起こすことになる。そうすると裁きが実行できなくなるのです。地獄の民主化運動が起きるかもしれない。そういうことができなくなっているのです。
亡者は一人ひとりであって、団結できないのです。万国の労働者というわけにはけかないのです。生きている間の理屈は、死んでから一切通用しないのです。
地獄は神が造るものではありません。一人ひとりの人が、自分にきちっとあてはまる地獄を造っていくのですから、一切文句を言えません。だから恐ろしいのです。
結局、地獄を造っていく自分自身を、現世で十字架につけてしまうしかないのです。自分自身を十字架につけてしまえば、地獄の造り手はなくなってしまうのです。自分が地獄を造らなければ、地獄はないに決まっています。
一切人を裁かないで、自分が悪いと思えばいいのです。悪い自分もいないのです。十字架によって消えているからです。こう考えると、地獄はできるはずがないのです。聖書には地獄に関する創造記事はありません。地球が終わった後にある火の池のことは書いていますが、これは地球の始末記です。自分の妄念を消してしまえば、火の池はないのです。
人間は色々と考え違いをしていますし、聖書についても考え違いをしています。聖書を正しく了解することは、なかなか難しいのです。できるだけ正しく了解しようとして頂きたいのです。
地球に人間という妙な生物が造られたことは、おかしいことです。肉体を持っていながら、人格を持っているのです。人格がありながら肉体がある。人格があるというのは、神と同じ霊的状態にあるということです。神と同じ霊的状態にありながら、肉体を持つというはずがないのです。
肉体を持つということは悪魔的状態です。人格を持つことは神的です。悪魔的な面と神的な面が同居している。こんなバカなことがあるのです。
人間が文明形態で地球上に生きている間は、だいたい七千年ですが、この間に宇宙の大運命が決まるのです。宇宙の大運命を決定するものが、神の教会になるか、悪魔になるか、どちらかです。これが聖書に書いてあるのです。恐ろしい予告です。これは宇宙構造に係わる大問題です。基本的人権があると言わなければ、民主主義は成立しません。これが日本の政治です。民主主義をあまりぼろくそに言われると、日本の政治の根本原理が成り立たなくなるのです。現在民主主義が天皇制にかわっているのです。民主主義をぼろくそに言われると、どうしたらいいか分からなくなるのです。
人間が考えることは地獄を造ることばかりをしているのです。民主主義は地獄を製造する主義なのです。死んでからの人間が、地獄へ入ること、その場所を製造することばかりをしているのです。
まず黄泉を造る。それから地獄を造る。そして永遠の苦しみに入る。この原理を民主主義と言います。ばかなことをしているのです。日本には天皇制がありますからまだいいのですが、天皇制がない国は悲惨なものです。
現代文明は民主主義によって、人間を尊ぶのです。人間が人間を尊んで何になるのでしょうか。お互いに、地獄を尊重する結果になるだけです。愚かな人間ばかりができていくのです。
現世だけが人間生活だと思いこんでいる。これは欧米人の最も悪い考え方です。ところが人間の魂は、昨日と今日、明日をはっきり弁えています。昨日がなければ今日はない。今日がなければ明日はない。それがはっきり分かつているのです。分かつていながら、今日だけしかないと思いこもうとしている。これが民主主義です。人生は現世だけと教えている。学校教育という愚かなものが、人間の情操を造りかえてしまったのです。これがユダヤ思想の教育主義です。学校教育というバカなもので、日本人がどれだけ困っているか。子供の教育のために、親がどれだけ振り回されているか。全くバカなことをしているのです。
天皇の自由さが悪い意味で日本人に浸透し、日本人一億二千万人が皆天皇になってしまっているのです。
本当の紳士淑女は何かというと、神を恐れるということです。どうしたら神を恐れることができるのか。五官が神を恐れているということの忠実さを見習うのです。人間は自分の五官の正直さを勉強する必要があるのです。
食事をする時に、舌が感じることに感心するのです。舌が食物の味を、正確に見分けてくれるのです。甘いもの、辛いもの、酸っぱいものを見分けてくれる。どれが健康にいいかを知っているのです。これが霊です。
五官は神の言葉をよく知っているのです。目の働き、耳の働き、鼻の働き、舌の働きは神を正確に知っています。肉体は衰えても、五官は衰えないのです。足や腰は弱っても、五官は弱らないのです。
五官はこの世を去る時まで、働き続けるのです。これが霊魂の本体です。人間の魂は五官の働きに現われているのです。五官は何をしているかと言いますと、神の言葉を聞きわけているのです。甘い、辛い、すっぱい、苦いというのは神の言葉です。五官はこれを聞きわけているのです。
世界の構成原理について、パウロは次のように述べています。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現われているものから出てきたのではないことを、悟るのである」(ヘブル人への手紙11・3)。
この世界という所を文語訳では、もろもろの世界と訳しています。もろもろの世界とは、味の世界、色の世界、形の世界、香りの世界、栄養の世界のことです。天候の世界、気候の世界、感覚の世界も入ります。
目は形の世界、色の世界を見ています。耳は音の世界を聞いています。もろもろの世界は何によってできているかと言いますと、神の言葉によってできているのです。味も香りも色も形も、すべて神の言葉です。それを五官が受け止めているのです。
人間の霊魂は、神の言葉を毎日、朝から晩まで受け止めている。見たり聞いたり、触ったり、味わったりしている。これは五官で神の言葉をいつも経験しているのです。神の言葉にいつも接触している。これは生れてから死ぬまで続いているのです。肉体が働いているのではない。五官の働きが魂の働きになって、生活の原理を造っているのです。五官はいつも神と交わっている。味を通し、形を通し、色を通して、見たり聞いたりしていつでも神と交わっているのです。だから私の前に歩んで全かれと言われるのは、当然です。
五官の働きの根源をなすものは、神の言葉です。神の言葉の原理は神自身です。神の原理が形になったり、色になったり、味になったり、香りになっている。これと人間の五官はいつも接触しているのです。神の前に歩むとは、この一つ一つを神としてとり扱うことなのです。
こういうことが自分でできるようになれば、人に教えてもらわなくても、勝手に信仰ができるのです。味がある。形がある。香りがある。色があること。寒いこと暑いことが、皆楽しみになるのです。命を楽しんでいるのです。神を楽しんでいるのです。私たちは毎日、こういうことを知らず知らずのうちに、五官を通して、死なない命、とこしえの命を、朝から晩までたえず経験しているのです。
(2003年JDC刊『ユダヤ人問題は地球の運命を左右する』に初出)
了
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/04/04
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