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合わぬ貝

『小鍋夫人覚書』に拠ると、一世を風靡(ふうび)した俳人松尾桃青が、野心の強い、しかも倒錯した性欲の持主であったことが、かなり露骨に書かれてある。

 もっとも桃青自身、最初の上梓本であり、故郷の天満宮に奉納した三十番俳諧合の判詞に「今こそあれ、われも昔は衆道(しゅどう)ずきの云々」と、述懐している位だから、さして(おどろ)くには足らぬ。――御承知でもあろうが、衆道とは、男色の謂である。

 わずか三人扶持の、氏も素姓もない手習師匠の三男である松尾甚七郎が、譜代の家臣である同輩に伍して、鋭意出世を計ろうとすれば、こうした幇間的な所業をも、敢えて甘んずる必要があったのだろうか。それとも、天性彼に歪んだ資質が隠されていて、偶々発芽の機会を得たものであろうか。

 ……奈辺の事情は知らない。ただ、当時に於ては、衆道はさほど奇異な事柄ではなかったことを、付記しておく。

 

 松尾甚七郎は、幼名を金作と云った時分に、新規召抱えとなった藤堂新七郎家の「(とぎ)」の者である。

「伽」の者とは、嫡子の小用を勤め、かたわら学問や武芸などの相手もする子小姓であったが、なぜか新七郎家では、そのように呼び慣わしていた。

「伊賀の上野の新七玄蕃、藁で髪結うて五千石」と言う俚謡(りよう)に示されたごとく、伊賀上野の城下で藤堂御三家として親しまれていたのは、七千石の城代家老である采女家を筆頭に、奉行職の玄蕃家、それに士大将の新七郎家である。

 新七郎家の初代良勝は、元和元年夏の陣に、大坂方の驍将木村長門守をむかえ撃って、戦死を遂げた豪の者であり、その勲功に依って、当主良精は父禄五千石を賜わった。士大将に命ぜられたのは、寛永十三年だと記録に残っている。

 士大将と云うと、ひどく格式もあり、武骨な家柄を想像しがちなものだが、藤堂藩にあっては、士大将は徳川家の小普請組に似た――云わば閑職である。極言すれば、殿中で正面に座席を与えられるのみの、名目だけで実権の伴わない役職であったらしい。

 したがって、新七郎良精が、茶道具の蒐集に凝ったり、柔弱な嫡子主計良忠に、身分不相応な連歌や俳諧の師を付けたりしても、家名を瑕つける振舞いだなどと、(そし)られる心配はなかったわけである。世もようやく、泰平に狎れ始めた四代将軍家綱の治下であった。

 新七郎良精の生涯を、簡潔に表現すると、児運に恵まれず汲々とした――の一語に尽きる。元和八年に生れた長男良春が、十三歳で病歿したのをはじめ、次男竹鶴は早世、長女捨も同じく夭折している。「他人子を養えば拗ね子を得ると云うが、試みてはどうじゃ」藩主高虎の、こんな冗談すら真に受けて、梅原某の娘を養女に迎えたりした程だから、尋常ならぬ彼の焦慮ぶりがうかがえよう。

 三男主計良忠は、良精が不惑を過ぎて思いがけなく誕生をみた正腹の嗣子であった。しかし、産湯を使わせながら老女たちは、「恐らく育ちますまい」と、小首をかしげて囁き合ったと()う。早産だったのである。

 懸念されたごとく、この三男はおう(=オウ部に王)弱であり、神経質な性格であった。薬と侍医を片時も離すことなく、それだけに父の愛寵を一身にあつめて育った。水疱瘡を病んで、薄痘痕(うすいも)となった嫡子のために、わざわざ雀斑(そばかす)のある腰元を雇い入れる――溺愛ぶりであった。

 主計十二歳の春、何時までも腰元を付けて置く訳にもゆかぬので、甚七郎を含めて六人の伽の者を召抱えた。いずれも家臣の子弟で、ひとり甚七郎のみが新参者の陪臣だったが、当の主計はこの父の配慮を嫌って、しばらくは子小姓たちに口も利かなかった。

 幼時から、女性だけにかしずかれ、脂粉の香の入り混った優雅な環境で成長した、主計良忠である。六人の伽の者たちは、少年主計にとっては、馴染みのない別世界の人間ででもあるような、ある種の異性の匂いすら放って感ぜられたのだった。

『小鍋夫人覚書』には、当然のことではあるが、この前後の経緯は(つまびら)かでない。ただ、主計良忠が折に触れて、彼女に告白したという一節に、衆道の端緒と覚しき挿話があるから、ここに書く。

 彼が幾歳の頃かは判然とせぬが、何でも樹遊びする位だから、気候のよい時分のことであろう。桜の樹に()じ登って、碧空を眺めながら兼題の発句を考案していた彼は、不図尿意を催したのだそうである。

 下を()ると、甚七郎が控えていた。主計はこの『ほそおもて、いろ白く小兵』な小姓を、いじめてみたい衝動に(そそ)られて、

「金作!」

 と、その名を(わめ)いた。甚七郎は眩しそうに、樹上の主君を見挙げ、桜の根元近くまでにじり寄る。

「其処、動くまいぞ」

「――御意」

 間髪を入れず、小水が頭上から(そそ)ぎかけられた。無論、相手が身を(かわ)すであろうことを予想しての、悪戯である。だが甚七郎は、いささかも逡巡することなく、この無頼の雨に平然と打たれていた。

 その様子を目撃したとき、主計良忠は名状し難い、恍惚と差恥の()い混った一種の興奮に誘われたのだという。それは未だ嘗て経験したことのない、不可思議な性欲の萌芽であったろうか。

 小鍋夫人は、この挿話を単純に、甚七郎が主計に(へつら)うための行為だと解釈している風であるが、正鵠(せいこく)を失している。嗜虐的な、しかも多分に自己陶酔的なこの小事件は、主従の倒錯した仲をつちかう契機となったのである。

 藤堂采女元住の五女小鍋が、主計良忠の再室となったのは寛文二年四月。

 このことは、伊賀上野の司城職日誌『庁事類編』に、「寛文元年十一月十一日、采女末ノ娘、藤堂新七郎息主計へ縁組ノ儀相願候事。願ノ通被仰付候ハ寅四月二十日也」とあるのに明らかである。時に小鍋十六歳。

 主計良忠とのわずか五年の結婚生活は、彼女の形容をかりれば、微温湯に浸っているような歯がゆさ、味気なさに満ちた日々であった。

 五千石ぐらいの大身となると、奥向きも大名のごとく表と奥に別れていて、奥の用事は、片はずしで裲襠(うちかけ)を着た老女の指図にまかせた。親戚訪問か、仏参でもなければ、滅多に外出もできぬ不自由な身であるし、さりとて腰元や女中に加勢して、立ち働く格別の用事もない。

 多くの大名の奥方がそうであったように、小鍋夫人もおそらく無聊を(かこ)ったに違いないのである。

 城内丸之内にある上屋敷の、書院と茶室は舅の自慢で、茶室は廊下伝いに、書院は茶の間から飛石伝いに造られていた。書院は五つの座敷からなり、廻廊下は桂の一枚板、欄間の彫物は四君子で、銀泥の襖を取り払うと五十畳の居間となった。

 こんな贅を凝らした建築が、案外気に入っているらしく、殆ど終日、夫は書院の中で暮していた。新婚当初、小鍋夫人は主計良忠の生活ぶりに、何ひとつ疑問を挿まなかった模様である。学問好きの男には、こうした厭人癖や気むずかしさがあることを、予々(かねがね)聴いていたし、妻である自分にひどく丁寧で他人行儀なのは、実家の父が城代家老のせいだと考えていたからだった。

 でも、彼女が注意して観察すれば、主計の態度に、努めて妻を避けようとする素振りや、悔恨に蝕まれながら(ふる)えている、病葉(わくらば)に似た眼差しが隠されていることに、気付いたはずである。

 あきたりぬ単調な生活の中で、だから小鍋夫人の愉しみは、城から退出して来た舅に薄茶を献じて、藩中の人々の噂に耳を傾けることだった。そしてこの細やかな愉しみも、やがて苦痛なものに代る。

 新七郎良精の、露骨な視線が小鍋夫人の腹部のあたりを撫で廻すようになり、

懐妊(しるし)は未だか(のう)

 と、不躾(ぶしつけ)に訊いたりすることが、しばしばとなったからである。還暦を過ぎても、病弱な夫とは較べものにならぬほど、良精は矍鑠(かくしゃく)としてはいたが、矢張り年齢は争えず、孫の顔をしきりと見たがるようであった。

 舅の言葉は決して冷淡なものではない。だが、その口吻には、孫を待ちわびる剥き出しの希望と、不妊に対する忿懣(ふんまん)めいた感情がふくまれている。この種の質問は、はじめのうち彼女を貞淑に羞らわせたが、度重なるとさすがに(ねや)に淡白な夫への苛立たしさが嵩じてきて、舅の言葉は、詰るような催促としか受取れなかった。

 ――嫁して三年、子無きは去る。

 この庭訓の一節ほど彼女をひとり苦悩に駆り立てるものはなかった。後嗣なくば家名断絶――と云うのが、徳川時代の武家の慣例である。

 寛文四年の秋のことだった。

 小鍋夫人の居間からは、裏庭をへだてて物置や書籍庫が見える。日除けをかねて植えた柿の木が、ひとしきり落暉(らくき)を浴びて、熟れ残った梢の果実を朱く燃え立たせていたが、今は力のない薄黒い影となって書籍庫をおおっていた。

 伊賀上野の秋は短い。

 ――また、厚霜の冬が訪れてくる。

 そんなことを考えながら、障子を閉めに立った彼女は、書籍庫から夫と(おぼ)しき人影が、誰やらの肩を抱き、(もつ)れるような足どりで裏庭を横切ったのを、認めたのだった。それは愛撫するような恰好に見えた。

 向う側に位置していて、相手の人物は定かでないが、とっさに彼女は腰元たちの顔を思いうかべ、ひとりひとりを嫉妬の(くろ)い焔にかざして行った。洛の季吟や、摂の宗因を招麾(しょうき)して、俳筵を興行することが、主計良忠の唯一の道楽である。そして、この俳筵のお供が腰元たちの楽しみにかぞえられていることを、小鍋夫人は知っていた。

 ――上屋敷から、決ってお供する腰元は誰だったろう。

 混乱した頭の中で、ぼんやり思考を続けていると、だしぬけに、頬を撲たれたような憤りがこみ上げてきた。堪え難い辱しめを受けたような、そんな気持もした。暗い(あなぐら)に似た裏庭の彼方を、空虚な瞳で眺めやりながら、知らず手首が痛くなるほど、彼女は拳を固く握りしめて、わなわな顫わせていた。

 ……この場合の、小鍋夫人の勘は正しかったのである。嫉妬――明らかに嫉妬と呼べる感情から、彼女は腰元たちの動静と、書院と書籍庫を結ぶ裏庭とに、絶えず神経を張り巡らすようになった。この監視じみた哀しい習性が、ようやく身につきはじめたある日、足袋はだしのまま体を躍らせて、小鍋夫人は裏庭へとはしった。

 夕靄に包まれた書籍庫の中は、肌寒いほどのしめやかさであった。暗さに馴れるまで、半開きの樫戸に背をもたせかけて、彼女ははずむ息を整えた。

 ――夫の秘密が、この庫の中にはある。

 瞋恚(しんい)を籠めた眼眸(まなざし)で、小鍋夫人は中二階を見上げ、懐剣をまさぐった。たしかに彼女は視たのだった。そうして、彼女の心を掻き(むし)るような物音が、確かに聞えてくる。

 跫音を忍ばせ、息を詰めながら、梯子段の下まで辿りついた彼女は、入口を気づかいつつ、階上の気配を、()ッと嗅ぐような眼の色になる――彼女は、陽炎(かげろう)のゆらぐような、淡い呻きを耳にしなければならなかった。低く()せるような、喘ぐような息づかい。それはふッと、癲癇(てんかん)を連想させた。

 ――癲癇(くっち)

 息をのみながら、それでも小鍋夫人は躊躇(ためら)っていた。それは、苦痛に耐えている体のものではない。……

 愉悦をもとめ合う獣の声なのだと、十八歳の稚い本能が敏感に嗅ぎ分げたとき、一瞬、背筋は凍った。思わず彼女は階段に獅噛(しが)みついたのである。

「誰かッ!」

 荒っぽい誰何(すいか)の言葉が、直ぐ突刺すように飛んできた。

『陽炎は伊賀の名物なれど、秋の(おわ)りには立ち申さず、妖しき揺らぎは声に似て声に非ず、癲癇にやと胸轟き云々』と、彼女は記している。非常に即物的な描写ながら、この前後の件は、文中の白眉である。

 狼狽を隠した夫の声音には、愕きからすりかえられたいかりと、威厳を取繕おうとする必死な響きあった。日頃、女中や小姓にも、声を荒立てたことのない主計良忠である。それだけに、二階の(ただ)ならぬ気配は、ひしと胸を()ち、罪の意識に駆り立てて、彼女を白く怯えさせ、呂律(ろれつ)を喪わせもしたのだった。

 だが、今こそ夫の秘密を(あば)き得るという残忍な喜びは、矢張り隠し切れぬ実感としてある。

 あの切ない息づかいは、まるで申し合わせたように、(はた)とやんでいた。しかし、やがて気忙しく(ただよ)いはじめた新しい音が、彼女の脳底を(ものう)く葡い廻って、小鍋夫人をたとえようもなく苛立たせる。――その苛立たしい衣擦れの音に、きき耳を立てながら、何度か、はしたない行為を()じてその場から、逃げ出そうと考えたか知れぬ。

 でも、小鍋夫人はうずくまって動かなかった。彼女をこれだけ頑なにさせたのは、矢張り舅良精の言葉であったようである。あるいは司城職の末娘として、我儘一ぱいに育って来た彼女の、世智に()けぬ性格でもあったろうか。

 空恐しい気持に抵抗しつつ、唇を噛みしめて小鍋夫人は起ち上った。そうして、血の気のなくなった(かお)を、泣かんばかりに歪ませながら、階段に足をかけた。一段昇るたびに、眼の前が昏くよどんでゆくような気がした。

『中小姓甚七郎、袴の紐を結び居り、ふためきて候。わが殿には気色あしく、衣紋とり繕い給いて侯いき』

 彼女は、主計良忠と甚七郎との(いまわ)しい仲を、このとき教えられたのである。

 期待が裏切られた腹立たしさと、事の意外さに動顛(どうてん)した小鍋夫人は、顔中をくしゃくしゃにして肩をおののかせて嗚咽した。

 

 彼女は主計から疎まれる原因が、おぼろ気ながら掴み得たように思えた。あの夜以来、夫は自分をおそれはじめている。

 言葉づかいや、起居振舞などの慇懃(いんぎん)さは、以前と変りなかったが、何かの拍子にお互の視線が出遇うと、あわてて瞳を逸らすのだった。(うった)えるような妻の目差を扱いかねて、困惑とも屈辱ともつかぬ、わびしい(かげ)が主計良忠の表情をさっとかすめるのである。

 襖一つ隔てて、夫の静かな(いびき)に耳を澄ませながら、小鍋夫人は頭が冴えて寝つかれぬことがしばしばだった。輾転(てんてん)と躯の位置を換えつつ、知らず微かな情欲に、足の拇指までが火照ってくるのである。

 ――あの男。

 小鍋夫人は低く呻いた。充たされぬまま、()えたように胸腔一ぱい拡がった感情は、あの色白の中小姓に、はけ口を求めて憎悪の火を燃え立たせるのであった。

 舅の言葉が、再びギリギリと軋みながら、肺腑深く喰い入って来る。指折り数えてみると、新七郎家の人となってから既に三歳(みとせ)(なんな)んとする星霜があった。

 ――迂闊であった。あの憎い男から、夫を取戻さねばならぬ。私は主計の妻なのだ。私は子を妊まねばならぬ。

 夫を閨に迎えることは(めずら)しく、病弱を口実に月に数度あるか、ないかであった。だが主計良忠が、彼女の覚書に記されたような性格の人物であるならば、それすら正常な営みと称べるものであったか、どうかは頗る疑問である。

 しかしながら、小鍋夫人にとっては、その時、夫を閨に迎える――手段(てだて)のみが焦眉の急のごとく感ぜられたのだった。不倖せにも、彼女は夫の欠陥に気付かなかった。松尾甚七郎を夫の傍から引き離すことだけが、念頭にあった。またそれは、稚い彼女の精一杯の智恵でもあったようである。

 ……一箇月ほど経って、甚七郎は台所用人を命ぜられて、書院や居間から遠い勘定部屋に起居するようになった。台所用人というのは、いわば会計をつかさどる重要な職務である。

 中小姓から台所用人となるのは、異例な抜擢であったから、自然、松尾甚七郎は上役や同輩たちの(そね)みを買った。それでも彼は結構愉しそうに、精勤を励んでいると聞いて、小鍋夫人は安堵した。そうして、計算したもう一つの効果があらわれることを期待したが、それは無慚にも裏切られたのである。

 恋仲の主従にとって、この障碍(しょうがい)は、強い思慕を高める新鮮な刺戟となったのは、皮肉であった。「書院で暮すのも飽いた」などと弁解しながら、主計良忠が母屋に生活の場を移したとき、小鍋夫人は憔悴した。

 

 腰元のひとりに、髪を()かせながら、拳を握ったり開いたりして、小鍋夫人は深い溜息を吐いた。灰色の冬は去り、鶸色(ひわいろ)の春が訪れていたが、彼女はめっきり(やつ)れていた。

 でも心の底では、軽い闘志が山峡の霧の如く湧いては消え、湧いては消えしていたのだ。はっきり、彼女は甚七郎に敵対していた。

 鼈甲(べっこう)(かんざし)で、頭の地肌を掻きながら、見台を片付けはじめた腰元の(すて)に、

「台所の甚七郎を知っているかえ?」

 と、彼女は訊いた。何故か捨は狼狽して、吃りながら、

「存じて居ります」と答えた。

(覚書では、この腰元の捨が後年、江戸深川の芭蕉庵で病歿した寿貞尼だと、指摘してある。捨は甚七郎の退身後、洛の白拍子に身を堕して、献身的に彼の生活を援助した女性らしいが、このことに触れるのは筆者の本意でない。従って省く)

「甚七郎は評判の美男ゆえ、女中どもにも(さぞ)、騒がれることであろう」

 小鍋夫人はわざと、くだけた調子で云って腰元の顔を覗き込むようにした。捨は顔を火照らせると、何か云いかけてうつむき、言葉すくなく――存じませぬ、と呟いた。

 彼女は腰元の横顔を凝視していたが、ふと身震いするような計画を思い付き、ぎくりとした。捨が部屋から退った後も、小鍋夫人はしばらく身動きしなかった。不らちな誘惑と闘っていたのである。だが、その空恐しい計画は終日、彼女につきまとって、夜、蒲団の襟に顎を埋めて暗い天井を睨め付けているときを頂点として、(さいな)みつつ燃え熾った。彼女は何度か心に打消しながら、暁方近く、悪魔の虜となってまどろんだのだった。

 ――翌朝、鉄漿(かね)つけにきた腰元が、この不幸な生贄(いけにえ)にえらばれたのである。

 鉄漿つけは、人妻のしるしに染めるもので、御歯黒(おはぐろ)とも云う。五倍子(ふし)蜂が白膠(ぬるで)の木に巣をつくり、分泌した嚢状(ふくろ)のものをこわすと褐色の五倍子粉が取れる。これに鉄汁を加えて黒くした液を、鳥毛の楊枝に浸して歯を摩擦するのであった。

 含嗽(うがい)をしながら、小鍋夫人はその腰元に昨日と同じようなことを訊いた。さり気なく高価な城殿の眉墨や伽羅油を与えて、

「そなた、甚七郎は嫌いかえ? 捨もどうやら好いているような」

 それから独語のように「甚七も、そろそろ身を固めたいと殿に申したそうな。妾の口添いならば、否とは云わぬであろう」と、含み笑ってみせた。

 腰元は消え入りたい風情で、眼を伏せた。

「そなた、甚七が好きなら、妾がとり持とうぞ。文を(したた)めやれ。甚七を呼んで、そなたの文を取らすほどに。――」

 顔を挙げたとき、その真剣な眼眸(まなざし)を鷹揚な微笑で受けとめる、主人の顔があった。腰元は陥穽(かんせい)に落ちた。上気して、手を(ふる)わせながら、媾曳(あいびき)の手紙を眼の前で認めたのである。

 近く、下屋敷で観桜の宴があった。篝火(かがりび)を焚き、徹宵城中の家臣を招いて酒を酌む夜桜の催しは、新七郎家の年中行事のひとつであった。津の居城から、藩主も出席して、この夜ばかりは無礼講である。この日の夜、子の刻に近くの赤坂土堤で、人目を忍ぼうと云う艶書だった。

 小鍋夫人は腰元から、その文を受取ったが、もとより甚七郎に手渡す意志は毛頭ない。この艶書は、勘定部屋と玄関の間の廊下で発見され、甚七郎の出世を(そね)む同輩の手によって、当主良精の手許に差し出された。

 小鍋夫人の計略は、図に当ったのである。不義密通は、たちどころに男女成敗という掟ほど、彼女を(うず)かせるものはなかった。

 果然、差出人が詮議された。

 そのあまりの苛酷さに堪えかねたものか、くだんの腰元は石を抱いて、屋敷の古井戸に投身した。だが、なにひとつ、事情を洩らさなかったので、甚七郎はお構なしと云うことになった。

『この夜よりわが殿、甚七郎疎んじられ給いしが、程なくむかしに立還りたる模様なりし、くちおしく候』と、覚書にはある。

 

 舅新七郎良精に、小鍋夫人が閨の不満を訴えたのは、覚書に拠ると寛文四年霜月ということになっている。

 良精は孫の誕生をみず、忿懣(ふんまん)を側近の者に洩らしていた位だから、息主計の歪んだ生活を嫁の口から聞かされると、蒼く顔の色を変えた。直ぐ、主計良忠を呼びにやった。

「孫の顔をみたいと、日頃からの余が執着、其方に判らぬ筈はあるまい。金作と衆道のこと、かねて聴き及んでいたが、好い加減にせい。小鍋に不服か。不服ならば何故云わぬ。侍女をとらせてもよい。頼む。早う孫の顔を見せて呉れい」

 この慈愛の籠った父の言葉に、ややあって主計は悲しそうな声で、沈鬱に返答した。

(つと)に存じ奉り候。されど病ならむ。女性が閨は苦痛にて、所謂(いわゆる)合わぬ貝かと存じ候」

 三百六十箇の蛤の貝殻を、両片に分ち、仰向けて並べた地貝に他の一片の(だし)貝を合わせて数を競う、「貝合わせ」という女性の遊戯がある。古来、蛤は女性の貞操の象徴だとされているが、「合わぬ貝である」と述懐した主計良忠の言葉は、この遊戯に絡ませて男女の性と、身の不具を表現し得てなお余韻がある。

 小半刻ばかり聞きただして、良精は驚駭(きょうがい)した。(かれ)が余生の望みを託して来た後嗣の主計は、男性としては敗北者であったのだ。女性には一向に性欲が動かぬ不具の体質であってみれば、孫の誕生など到底覚束ないのである。

 別室に控えていた小鍋夫人は招き入れられて、かような次第だが如何したものかと、舅から身の処置を問われた。良精の銷沈(しょうちん)し切った(かお)は、さすがに見るに忍びない。彼女は低く、

「耐え候」

 と、答えたのだそうである。

 ――人倫に(もと)った話だが、小鍋夫人はその後、数度舅を閨に迎えた。彼女や良精が、どのような気持からかかる不倫な関係を結んだのかは知る由もないが、憑かれたような後嗣欲しさと、娘不愍(ふびん)という感情が、良精には働いていたのではあるまいか。小鍋夫人も、夫が一種の片端(かたわ)である以上、舅の胤を受けることを拒まなかったのであろう。

 正常な性生活が営まれていてさえ、義父と嫁の醜行はかなりある。その意味からは、不倫の道徳感は薄く、女性が子を産むための道具として軽視されていた当時では、なんら矛盾も感じられなかった――のかも知れない。当然、夫である主計良忠も、父が妻の腹を藉りることを黙認していたものと察せられる。

 寛文五年の秋、良忠は喀血した。癆痎(ろうがい)である。その時、小鍋夫人は良精の胤を懐胎(みごも)っていた。

 翌る丙午の歳三月、彼女は出産のため里方へ帰ったが、四月二十五日未明に新七郎家からの急使で、身重な躯を夫の枕許に運んだ。主計は彼女の手を握り、良精の顔とを等分にみつめると、

「わしの子を、たのむぞ」

 と、喘ぎながら云った。瞼が閉じられ、ピクピク痙攣していた。

 この終焉の言葉は、真実味に乏しい。だが、談林風の新俳諧に凝っていた彼の日常から帰納すると、皮肉ではなく、むしろ贖罪めいた性質の言葉と考えるのが妥当のようである。悔恨と不道徳感に(さいな)まれつつも、神への反逆行為をなお追い求め続けた主計良忠の、精一杯の演技――であったろうか。

 脈搏をとっていた医師蘭軒が、静かに一揖(いちゆう)した。臨終である。筆の穂先に水を含ませ、死人の(くちびる)を湿らせてやりながら、小鍋夫人には何ひとつ苦痛も感慨も湧かなかった。

 松尾甚七郎が遺骸に取纏(とりすが)って、大仰な嗚咽(おえつ)を絞り出し始めるのを、彼女は(おぞま)しい気分に支配されながら見まもったのみである。

 

 新七郎家の菩提寺は、高野山報恩院であったが、墓地は上野の山渓寺にある。出棺には門火(かどび)を焚き、暮六つから戊の刻にかけて葬儀を行うのが通例であった。喪主は無紋小袖を着て、竹の皮で編んだ沓を履いた。

 男児を分娩して産褥にあった小鍋夫人は、葬儀に参列できなかった。甚七郎は次棺の青侍に択ばれて、棺に付添うたが、通夜の席の愁嘆ぶりとは、打って変った神妙ぶりを示した。くち許には、翳のある微笑すらたたえているのである。

 彼と若殿との衆道は、家中では誰ひとり知らぬ者はない。それだけに甚七郎の態度は奇異なものとして眼に写り、さまざまな臆測も飛んだのであった。

『此日、甚七郎が振舞い、わけて神妙に存ぜられ候。既に立身は失われたり、生くるも疎し、とて孫太夫に告げしとぞ。されば追い腹の噂しきりに行われ候いぬ。舅どのにも聞き侍り給いにしや、かのおとこ御麾(まね)き遊ばされ、爾が奇特の志、夙に存じ居りつれば等閑(なおざり)には□□ず(原文二字虫クイ)。忘れ遺児新之助、(むつき)の中なり。申迄はなく候え共、ふかく料簡いたし、主計同様に相勤めよ。と御言葉賜いし由』

 甚七郎は、喰い入るような、その実、心を遠く遊ばせているような視線を、良精公に向けていたが、ややあって瞳を逸らすと、

『――御意、有難く承り置き候』

 と答えた。

 文中の孫太夫とは、城孫太夫のことで、彼が新七郎家出奔の際、留別(りゅうべつ)の一句「雲と隔つ友かや雁の生別れ」を託したと伝えられる人物である。

 新七郎良精は、別知三百石で分家していた主計の弟、五良左衛門良重を嫡子と定めて藩主に届出で、後室小鍋を(めあ)わせることにした。良重は妾腹の子で、小鍋夫人よりは三歳も若かった。

 しかし、こんな俗事よりも、小鍋夫人にとって興味の焦点は、矢張り甚七郎であった。殉死は禁ぜられていたが、それだけに殺伐な魅力をもつ行為なのである。甚七郎だけが、自分の秘密を握っているのだという危惧の念が、密かに彼の死を希わせるのであった。真実、小鍋夫人は彼の殉死を心から期待していた。――

 四十九日の法要を済ませ、主計良忠の位牌と日牌を、報恩院に納める使者が派遣されることになった時、甚七郎はその一行に加わりたいと申出た。

 ――さてこそ、殉死。

 と、小鍋夫人の胸は躍った。出発の前夜、彼女はわざわざ甚七郎を居間に呼び寄せて、使者の儀を(ねぎら)ってから、

「なんぞ望みは、ないかえ?」

 と、はやる気持を抑えながら云った。彼女は、甚七郎の殉死を疑わなかったから、せめてもの心づかいを示したのである。甚七郎は平伏したまま、「金子が欲しゅうござります」と、他人事のように返辞したと謂う。手文庫から、三十金を取り出して、彼女はこの憎むべき男に(はなむ)けとした。

 城内の藤堂邸から高野山までは、名張越えに紀州路さして歩き続けると、往復六日の行程である。使者の一行は、七日目の朝、無事に帰参復命したが、ひとり甚七郎の姿は見えなかった。その日の昼過ぎ、城孫太夫が託されていた書置の書状を懐に、松尾甚七郎退身の儀を届出た。

 書状を一読するなり火中にした良精は、憮然として、

「尋ね出すに及ばず」と眼を(しばたた)いた。

 松尾桃青が、藤堂家を脱藩したように伝えられ、またこの説は広く世に流布されているが、これは誤りである。『甲子夜話』に、「備前にては暇を遣と云うこと昔より無きことにて、書置して立退候えば、明日表門の前を通りても構なく候」とあるように、甚七郎も作法通り書置して、自ら退身したのであった。ただ、小鍋夫人のみならず新七郎家の家臣たちが、殉死決行の際、主家に累を及ぼすまいとの意図から、彼が前もって退身したのだと善意に解釈したがったのは、人情である。

 歳月が流れて、小鍋夫人は良重との間に一子を設ける幸福な妻の座にいたが、――そんな頃家臣のひとりが京洛の鴨川べりで甚七郎らしき人物に出会ったと言上した。まさか、と思った。他人の空似であろう、と放置していたが、二度ならず彼に会うたと申出た者がいるし、甚七郎生存の噂は拡がる一方であった。捨ててもおけず、調査させてみると事実であった。しかも北村季吟の門弟となって、学者たらんと志していると云うのである。

 ――(あざむ)かれた。

 小鍋夫人は嚇怒(かくど)した。

 殉死を信じて疑わねばこそ、憐憫(あわれみ)をかけて与えた金子だったのだ。その三十両が学資となっていると悟って、彼女は歯ぎしりした。あの男は、口留料のつもりで貰ったのだと、身の迂闊さが腹立たしく、憤怒は彼の退身を届出た家臣に向けられた。

 城孫太夫は、致仕(ちし)を命ぜられたばかりでなく、家名断絶の憂目に遭ったのである。

 何処かで、甚七郎のぬるぬるした水苔のような瞳の色が、彼女をせせら笑っていると考えると、小鍋夫人は苛立った。絶えず心の中で、自分を嘲嗤(あざわら)っている、その甚七郎の瞳を憎みながら、彼女は閨の若い夫を責め続けるのであった。

 寛文の終り近く、甚七郎が釣月軒宗房と云う号名で、天満宮に、『貝おおい』と題する句合を奉納したと聞いたとき、再び彼女は嚇怒した。嘗て、前夫主計が合わぬ貝と述懐した言葉が想起され、この俳諧合の題名は、甚七郎の自分に対する痛烈な皮肉だとしか考えられなかったからである。

 因縁めくが、小鍋夫人の二番目の夫良重は、甚七郎が『貝おおい』を奉納したその寛文十二年の暮に頓死している。癆痎(ろうがい)だと伝えられたようだが、医師蘭軒の控によると腎虚(じんきょ)と記されてある。甚七郎が殺したのだと、彼女は譫言(うわごと)のように口走っては、慟哭し続けたが、これは被害妄想に過ぎるようだった。

 

 藤堂探丸子の招請に応じて、折柄帰省中であった芭蕉庵松尾桃青が、別墅八景亭に伺侯したのは貞享五年の春二月。

 国柄の厚霜も消えて、盆地の伊賀上野には、野と云わず畠と云わずいたるところに陽炎が立ち昇って、城の天守閣をゆらめかせている。春の日射しは、物憂いばかりの睡気を誘って、新七郎家下屋敷には、桜の花が(けん)を競って今を盛りと咲き乱れていた。

 広縁の柱にもたれて、感慨深い視線を庭のあたりへ向けていた桃青は、警蹕(けいひつ)の声にあわてて座に戻った。当主探丸子は、彼が退身のみぎりに誕生していた良精の胤である。新之助は良重の死後、良精の嗣子となって家督を相続したのであった。

 探丸から少し遅れて、母堂小鍋も座に着いた。型の通りの挨拶の後、早速、酒肴が運ばれて、天下に喧伝されている蕉風俳諸について、探丸から質問があり、それをきっかけに雑談から想出話に発展して行った。

 ――あれから、二十数年。

 小鍋夫人は空虚な瞳の色をうかべた。

 自分は心の隅で、絶えずこの男に負い目を感じ、絶えず意識して、決して不安な関心なしには生きて来られなかったのに、この男は何ひとつ傷ついていなのだ。その桃青の風貌には、長年の労苦を偲ばせるものが滲み出ているにしろ、(きず)ついた者の陰惨さはない。

 ふッと彼女は佗しい気持に誘われたが、眩暈(めくる)めくような激しい瞋恚(しんい)がもたげはじめ、ぐいぐいと盛り上ってくるのを抑えようもなかった。

「甚七郎。いや、桃青どの」

 小鍋夫人は、客に呼びかけた。

「其許が退身してから、二十三年。――早いものじゃ。そなたの噂、絶えず気にかけていたぞ。したが、この良長の見事な成人ぶりはどうであろう。亡き良忠どのに、生き写しであろうがな」

 この台詞(せりふ)は、彼女にとって云わば二十数年耐えて来た、すべての総決算でもあり、恩讐に止めを刺そうとする刃でもあった。松尾桃青は莞爾(かんじ)として、静かに頷いてみせた。そうして老獪な渠は、この必死な刃をやんわりかわしたのである。

「御意、良忠公に似られ、御立派な侍大将ぶり、桃青、恐悦至極に存じ奉ります」

 ……この日、重ね硯の蓋をとった桃青は、料紙に「さまざまの事おもい出す桜かな」と筆を走らせて、当主探丸子に示した。暫く苦吟ののち探丸は、「春の日はやく筆に暮れ行」と次句を添えた。

『此の一句にて、昔を想出し、大笑いいたし候』と、桃青は露言宛の書簡に記している。小鍋夫人の覚書には、

『桃青が返答ぶり、桃青の発句の手並み、流石に曲者にて候』と、書かれてある。余程、口惜しかったものらしいが、もしかするとことごとくは、彼女の杞憂(きゆう)に過ぎなかったのかも知れない。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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梶山 季之

カジヤマ トシユキ
かじやま としゆき 小説家 1930・1・2~1975・5・5.11 朝鮮京城生まれ。敗戦と共に父のふるさと広島に引き揚げる。広島高等師範学校(現・広島大学)在学中に文芸活動を始め、卒業後上京して、第十五次「新思潮」に参加する。ルポライターとなり、「週刊明星」そして「週刊文春」でトップ屋として活躍。産業スパイ小説『黒の試走車』を発表して文壇デビューし、人気作家となる。推理小説、風俗小説、時代小説からポルノ小説までこなし、文壇の一匹狼を通した。

掲載作は「新思潮」から推薦され、「新潮」昭和31年12月号「同人雑誌推薦作」に入選掲載された。松尾芭蕉は衆道(男色)であったとする、初期異色作で、河出文庫(昭和60年2月)より採録した。

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