合わぬ貝
『小鍋夫人覚書』に拠ると、一世を
もっとも桃青自身、最初の上梓本であり、故郷の天満宮に奉納した三十番俳諧合の判詞に「今こそあれ、われも昔は
わずか三人扶持の、氏も素姓もない手習師匠の三男である松尾甚七郎が、譜代の家臣である同輩に伍して、鋭意出世を計ろうとすれば、こうした幇間的な所業をも、敢えて甘んずる必要があったのだろうか。それとも、天性彼に歪んだ資質が隠されていて、偶々発芽の機会を得たものであろうか。
……奈辺の事情は知らない。ただ、当時に於ては、衆道はさほど奇異な事柄ではなかったことを、付記しておく。
松尾甚七郎は、幼名を金作と云った時分に、新規召抱えとなった藤堂新七郎家の「
「伽」の者とは、嫡子の小用を勤め、かたわら学問や武芸などの相手もする子小姓であったが、なぜか新七郎家では、そのように呼び慣わしていた。
「伊賀の上野の新七玄蕃、藁で髪結うて五千石」と言う
新七郎家の初代良勝は、元和元年夏の陣に、大坂方の驍将木村長門守をむかえ撃って、戦死を遂げた豪の者であり、その勲功に依って、当主良精は父禄五千石を賜わった。士大将に命ぜられたのは、寛永十三年だと記録に残っている。
士大将と云うと、ひどく格式もあり、武骨な家柄を想像しがちなものだが、藤堂藩にあっては、士大将は徳川家の小普請組に似た――云わば閑職である。極言すれば、殿中で正面に座席を与えられるのみの、名目だけで実権の伴わない役職であったらしい。
したがって、新七郎良精が、茶道具の蒐集に凝ったり、柔弱な嫡子主計良忠に、身分不相応な連歌や俳諧の師を付けたりしても、家名を瑕つける振舞いだなどと、
新七郎良精の生涯を、簡潔に表現すると、児運に恵まれず汲々とした――の一語に尽きる。元和八年に生れた長男良春が、十三歳で病歿したのをはじめ、次男竹鶴は早世、長女捨も同じく夭折している。「他人子を養えば拗ね子を得ると云うが、試みてはどうじゃ」藩主高虎の、こんな冗談すら真に受けて、梅原某の娘を養女に迎えたりした程だから、尋常ならぬ彼の焦慮ぶりがうかがえよう。
三男主計良忠は、良精が不惑を過ぎて思いがけなく誕生をみた正腹の嗣子であった。しかし、産湯を使わせながら老女たちは、「恐らく育ちますまい」と、小首をかしげて囁き合ったと
懸念されたごとく、この三男はおう(=オウ部に王)弱であり、神経質な性格であった。薬と侍医を片時も離すことなく、それだけに父の愛寵を一身にあつめて育った。水疱瘡を病んで、
主計十二歳の春、何時までも腰元を付けて置く訳にもゆかぬので、甚七郎を含めて六人の伽の者を召抱えた。いずれも家臣の子弟で、ひとり甚七郎のみが新参者の陪臣だったが、当の主計はこの父の配慮を嫌って、しばらくは子小姓たちに口も利かなかった。
幼時から、女性だけにかしずかれ、脂粉の香の入り混った優雅な環境で成長した、主計良忠である。六人の伽の者たちは、少年主計にとっては、馴染みのない別世界の人間ででもあるような、ある種の異性の匂いすら放って感ぜられたのだった。
『小鍋夫人覚書』には、当然のことではあるが、この前後の経緯は
彼が幾歳の頃かは判然とせぬが、何でも樹遊びする位だから、気候のよい時分のことであろう。桜の樹に
下を
「金作!」
と、その名を
「其処、動くまいぞ」
「――御意」
間髪を入れず、小水が頭上から
その様子を目撃したとき、主計良忠は名状し難い、恍惚と差恥の
小鍋夫人は、この挿話を単純に、甚七郎が主計に
藤堂采女元住の五女小鍋が、主計良忠の再室となったのは寛文二年四月。
このことは、伊賀上野の司城職日誌『庁事類編』に、「寛文元年十一月十一日、采女末ノ娘、藤堂新七郎息主計へ縁組ノ儀相願候事。願ノ通被仰付候ハ寅四月二十日也」とあるのに明らかである。時に小鍋十六歳。
主計良忠とのわずか五年の結婚生活は、彼女の形容をかりれば、微温湯に浸っているような歯がゆさ、味気なさに満ちた日々であった。
五千石ぐらいの大身となると、奥向きも大名のごとく表と奥に別れていて、奥の用事は、片はずしで
多くの大名の奥方がそうであったように、小鍋夫人もおそらく無聊を
城内丸之内にある上屋敷の、書院と茶室は舅の自慢で、茶室は廊下伝いに、書院は茶の間から飛石伝いに造られていた。書院は五つの座敷からなり、廻廊下は桂の一枚板、欄間の彫物は四君子で、銀泥の襖を取り払うと五十畳の居間となった。
こんな贅を凝らした建築が、案外気に入っているらしく、殆ど終日、夫は書院の中で暮していた。新婚当初、小鍋夫人は主計良忠の生活ぶりに、何ひとつ疑問を挿まなかった模様である。学問好きの男には、こうした厭人癖や気むずかしさがあることを、
でも、彼女が注意して観察すれば、主計の態度に、努めて妻を避けようとする素振りや、悔恨に蝕まれながら
あきたりぬ単調な生活の中で、だから小鍋夫人の愉しみは、城から退出して来た舅に薄茶を献じて、藩中の人々の噂に耳を傾けることだった。そしてこの細やかな愉しみも、やがて苦痛なものに代る。
新七郎良精の、露骨な視線が小鍋夫人の腹部のあたりを撫で廻すようになり、
「
と、
舅の言葉は決して冷淡なものではない。だが、その口吻には、孫を待ちわびる剥き出しの希望と、不妊に対する
――嫁して三年、子無きは去る。
この庭訓の一節ほど彼女をひとり苦悩に駆り立てるものはなかった。後嗣なくば家名断絶――と云うのが、徳川時代の武家の慣例である。
寛文四年の秋のことだった。
小鍋夫人の居間からは、裏庭をへだてて物置や書籍庫が見える。日除けをかねて植えた柿の木が、ひとしきり
伊賀上野の秋は短い。
――また、厚霜の冬が訪れてくる。
そんなことを考えながら、障子を閉めに立った彼女は、書籍庫から夫と
向う側に位置していて、相手の人物は定かでないが、とっさに彼女は腰元たちの顔を思いうかべ、ひとりひとりを嫉妬の
――上屋敷から、決ってお供する腰元は誰だったろう。
混乱した頭の中で、ぼんやり思考を続けていると、だしぬけに、頬を撲たれたような憤りがこみ上げてきた。堪え難い辱しめを受けたような、そんな気持もした。暗い
……この場合の、小鍋夫人の勘は正しかったのである。嫉妬――明らかに嫉妬と呼べる感情から、彼女は腰元たちの動静と、書院と書籍庫を結ぶ裏庭とに、絶えず神経を張り巡らすようになった。この監視じみた哀しい習性が、ようやく身につきはじめたある日、足袋はだしのまま体を躍らせて、小鍋夫人は裏庭へとはしった。
夕靄に包まれた書籍庫の中は、肌寒いほどのしめやかさであった。暗さに馴れるまで、半開きの樫戸に背をもたせかけて、彼女ははずむ息を整えた。
――夫の秘密が、この庫の中にはある。
跫音を忍ばせ、息を詰めながら、梯子段の下まで辿りついた彼女は、入口を気づかいつつ、階上の気配を、
――
息をのみながら、それでも小鍋夫人は
愉悦をもとめ合う獣の声なのだと、十八歳の稚い本能が敏感に嗅ぎ分げたとき、一瞬、背筋は凍った。思わず彼女は階段に
「誰かッ!」
荒っぽい
『陽炎は伊賀の名物なれど、秋の
狼狽を隠した夫の声音には、愕きからすりかえられたいかりと、威厳を取繕おうとする必死な響きあった。日頃、女中や小姓にも、声を荒立てたことのない主計良忠である。それだけに、二階の
だが、今こそ夫の秘密を
あの切ない息づかいは、まるで申し合わせたように、
でも、小鍋夫人はうずくまって動かなかった。彼女をこれだけ頑なにさせたのは、矢張り舅良精の言葉であったようである。あるいは司城職の末娘として、我儘一ぱいに育って来た彼女の、世智に
空恐しい気持に抵抗しつつ、唇を噛みしめて小鍋夫人は起ち上った。そうして、血の気のなくなった
『中小姓甚七郎、袴の紐を結び居り、ふためきて候。わが殿には気色あしく、衣紋とり繕い給いて侯いき』
彼女は、主計良忠と甚七郎との
期待が裏切られた腹立たしさと、事の意外さに
彼女は主計から疎まれる原因が、おぼろ気ながら掴み得たように思えた。あの夜以来、夫は自分をおそれはじめている。
言葉づかいや、起居振舞などの
襖一つ隔てて、夫の静かな
――あの男。
小鍋夫人は低く呻いた。充たされぬまま、
舅の言葉が、再びギリギリと軋みながら、肺腑深く喰い入って来る。指折り数えてみると、新七郎家の人となってから既に
――迂闊であった。あの憎い男から、夫を取戻さねばならぬ。私は主計の妻なのだ。私は子を妊まねばならぬ。
夫を閨に迎えることは
しかしながら、小鍋夫人にとっては、その時、夫を閨に迎える――
……一箇月ほど経って、甚七郎は台所用人を命ぜられて、書院や居間から遠い勘定部屋に起居するようになった。台所用人というのは、いわば会計をつかさどる重要な職務である。
中小姓から台所用人となるのは、異例な抜擢であったから、自然、松尾甚七郎は上役や同輩たちの
恋仲の主従にとって、この
腰元のひとりに、髪を
でも心の底では、軽い闘志が山峡の霧の如く湧いては消え、湧いては消えしていたのだ。はっきり、彼女は甚七郎に敵対していた。
「台所の甚七郎を知っているかえ?」
と、彼女は訊いた。何故か捨は狼狽して、吃りながら、
「存じて居ります」と答えた。
(覚書では、この腰元の捨が後年、江戸深川の芭蕉庵で病歿した寿貞尼だと、指摘してある。捨は甚七郎の退身後、洛の白拍子に身を堕して、献身的に彼の生活を援助した女性らしいが、このことに触れるのは筆者の本意でない。従って省く)
「甚七郎は評判の美男ゆえ、女中どもにも
小鍋夫人はわざと、くだけた調子で云って腰元の顔を覗き込むようにした。捨は顔を火照らせると、何か云いかけてうつむき、言葉すくなく――存じませぬ、と呟いた。
彼女は腰元の横顔を凝視していたが、ふと身震いするような計画を思い付き、ぎくりとした。捨が部屋から退った後も、小鍋夫人はしばらく身動きしなかった。不らちな誘惑と闘っていたのである。だが、その空恐しい計画は終日、彼女につきまとって、夜、蒲団の襟に顎を埋めて暗い天井を睨め付けているときを頂点として、
――翌朝、
鉄漿つけは、人妻のしるしに染めるもので、
「そなた、甚七郎は嫌いかえ? 捨もどうやら好いているような」
それから独語のように「甚七も、そろそろ身を固めたいと殿に申したそうな。妾の口添いならば、否とは云わぬであろう」と、含み笑ってみせた。
腰元は消え入りたい風情で、眼を伏せた。
「そなた、甚七が好きなら、妾がとり持とうぞ。文を
顔を挙げたとき、その真剣な
近く、下屋敷で観桜の宴があった。
小鍋夫人は腰元から、その文を受取ったが、もとより甚七郎に手渡す意志は毛頭ない。この艶書は、勘定部屋と玄関の間の廊下で発見され、甚七郎の出世を
小鍋夫人の計略は、図に当ったのである。不義密通は、たちどころに男女成敗という掟ほど、彼女を
果然、差出人が詮議された。
そのあまりの苛酷さに堪えかねたものか、くだんの腰元は石を抱いて、屋敷の古井戸に投身した。だが、なにひとつ、事情を洩らさなかったので、甚七郎はお構なしと云うことになった。
『この夜よりわが殿、甚七郎疎んじられ給いしが、程なくむかしに立還りたる模様なりし、くちおしく候』と、覚書にはある。
舅新七郎良精に、小鍋夫人が閨の不満を訴えたのは、覚書に拠ると寛文四年霜月ということになっている。
良精は孫の誕生をみず、
「孫の顔をみたいと、日頃からの余が執着、其方に判らぬ筈はあるまい。金作と衆道のこと、かねて聴き及んでいたが、好い加減にせい。小鍋に不服か。不服ならば何故云わぬ。侍女をとらせてもよい。頼む。早う孫の顔を見せて呉れい」
この慈愛の籠った父の言葉に、ややあって主計は悲しそうな声で、沈鬱に返答した。
「
三百六十箇の蛤の貝殻を、両片に分ち、仰向けて並べた地貝に他の一片の
小半刻ばかり聞きただして、良精は
別室に控えていた小鍋夫人は招き入れられて、かような次第だが如何したものかと、舅から身の処置を問われた。良精の
「耐え候」
と、答えたのだそうである。
――人倫に
正常な性生活が営まれていてさえ、義父と嫁の醜行はかなりある。その意味からは、不倫の道徳感は薄く、女性が子を産むための道具として軽視されていた当時では、なんら矛盾も感じられなかった――のかも知れない。当然、夫である主計良忠も、父が妻の腹を藉りることを黙認していたものと察せられる。
寛文五年の秋、良忠は喀血した。
翌る丙午の歳三月、彼女は出産のため里方へ帰ったが、四月二十五日未明に新七郎家からの急使で、身重な躯を夫の枕許に運んだ。主計は彼女の手を握り、良精の顔とを等分にみつめると、
「わしの子を、たのむぞ」
と、喘ぎながら云った。瞼が閉じられ、ピクピク痙攣していた。
この終焉の言葉は、真実味に乏しい。だが、談林風の新俳諧に凝っていた彼の日常から帰納すると、皮肉ではなく、むしろ贖罪めいた性質の言葉と考えるのが妥当のようである。悔恨と不道徳感に
脈搏をとっていた医師蘭軒が、静かに
松尾甚七郎が遺骸に
新七郎家の菩提寺は、高野山報恩院であったが、墓地は上野の山渓寺にある。出棺には
男児を分娩して産褥にあった小鍋夫人は、葬儀に参列できなかった。甚七郎は次棺の青侍に択ばれて、棺に付添うたが、通夜の席の愁嘆ぶりとは、打って変った神妙ぶりを示した。くち許には、翳のある微笑すらたたえているのである。
彼と若殿との衆道は、家中では誰ひとり知らぬ者はない。それだけに甚七郎の態度は奇異なものとして眼に写り、さまざまな臆測も飛んだのであった。
『此日、甚七郎が振舞い、わけて神妙に存ぜられ候。既に立身は失われたり、生くるも疎し、とて孫太夫に告げしとぞ。されば追い腹の噂しきりに行われ候いぬ。舅どのにも聞き侍り給いにしや、かのおとこ
甚七郎は、喰い入るような、その実、心を遠く遊ばせているような視線を、良精公に向けていたが、ややあって瞳を逸らすと、
『――御意、有難く承り置き候』
と答えた。
文中の孫太夫とは、城孫太夫のことで、彼が新七郎家出奔の際、
新七郎良精は、別知三百石で分家していた主計の弟、五良左衛門良重を嫡子と定めて藩主に届出で、後室小鍋を
しかし、こんな俗事よりも、小鍋夫人にとって興味の焦点は、矢張り甚七郎であった。殉死は禁ぜられていたが、それだけに殺伐な魅力をもつ行為なのである。甚七郎だけが、自分の秘密を握っているのだという危惧の念が、密かに彼の死を希わせるのであった。真実、小鍋夫人は彼の殉死を心から期待していた。――
四十九日の法要を済ませ、主計良忠の位牌と日牌を、報恩院に納める使者が派遣されることになった時、甚七郎はその一行に加わりたいと申出た。
――さてこそ、殉死。
と、小鍋夫人の胸は躍った。出発の前夜、彼女はわざわざ甚七郎を居間に呼び寄せて、使者の儀を
「なんぞ望みは、ないかえ?」
と、はやる気持を抑えながら云った。彼女は、甚七郎の殉死を疑わなかったから、せめてもの心づかいを示したのである。甚七郎は平伏したまま、「金子が欲しゅうござります」と、他人事のように返辞したと謂う。手文庫から、三十金を取り出して、彼女はこの憎むべき男に
城内の藤堂邸から高野山までは、名張越えに紀州路さして歩き続けると、往復六日の行程である。使者の一行は、七日目の朝、無事に帰参復命したが、ひとり甚七郎の姿は見えなかった。その日の昼過ぎ、城孫太夫が託されていた書置の書状を懐に、松尾甚七郎退身の儀を届出た。
書状を一読するなり火中にした良精は、憮然として、
「尋ね出すに及ばず」と眼を
松尾桃青が、藤堂家を脱藩したように伝えられ、またこの説は広く世に流布されているが、これは誤りである。『甲子夜話』に、「備前にては暇を遣と云うこと昔より無きことにて、書置して立退候えば、明日表門の前を通りても構なく候」とあるように、甚七郎も作法通り書置して、自ら退身したのであった。ただ、小鍋夫人のみならず新七郎家の家臣たちが、殉死決行の際、主家に累を及ぼすまいとの意図から、彼が前もって退身したのだと善意に解釈したがったのは、人情である。
歳月が流れて、小鍋夫人は良重との間に一子を設ける幸福な妻の座にいたが、――そんな頃家臣のひとりが京洛の鴨川べりで甚七郎らしき人物に出会ったと言上した。まさか、と思った。他人の空似であろう、と放置していたが、二度ならず彼に会うたと申出た者がいるし、甚七郎生存の噂は拡がる一方であった。捨ててもおけず、調査させてみると事実であった。しかも北村季吟の門弟となって、学者たらんと志していると云うのである。
――
小鍋夫人は
殉死を信じて疑わねばこそ、
城孫太夫は、
何処かで、甚七郎のぬるぬるした水苔のような瞳の色が、彼女をせせら笑っていると考えると、小鍋夫人は苛立った。絶えず心の中で、自分を
寛文の終り近く、甚七郎が釣月軒宗房と云う号名で、天満宮に、『貝おおい』と題する句合を奉納したと聞いたとき、再び彼女は嚇怒した。嘗て、前夫主計が合わぬ貝と述懐した言葉が想起され、この俳諧合の題名は、甚七郎の自分に対する痛烈な皮肉だとしか考えられなかったからである。
因縁めくが、小鍋夫人の二番目の夫良重は、甚七郎が『貝おおい』を奉納したその寛文十二年の暮に頓死している。
藤堂探丸子の招請に応じて、折柄帰省中であった芭蕉庵松尾桃青が、別墅八景亭に伺侯したのは貞享五年の春二月。
国柄の厚霜も消えて、盆地の伊賀上野には、野と云わず畠と云わずいたるところに陽炎が立ち昇って、城の天守閣をゆらめかせている。春の日射しは、物憂いばかりの睡気を誘って、新七郎家下屋敷には、桜の花が
広縁の柱にもたれて、感慨深い視線を庭のあたりへ向けていた桃青は、
探丸から少し遅れて、母堂小鍋も座に着いた。型の通りの挨拶の後、早速、酒肴が運ばれて、天下に喧伝されている蕉風俳諸について、探丸から質問があり、それをきっかけに雑談から想出話に発展して行った。
――あれから、二十数年。
小鍋夫人は空虚な瞳の色をうかべた。
自分は心の隅で、絶えずこの男に負い目を感じ、絶えず意識して、決して不安な関心なしには生きて来られなかったのに、この男は何ひとつ傷ついていなのだ。その桃青の風貌には、長年の労苦を偲ばせるものが滲み出ているにしろ、
ふッと彼女は佗しい気持に誘われたが、
「甚七郎。いや、桃青どの」
小鍋夫人は、客に呼びかけた。
「其許が退身してから、二十三年。――早いものじゃ。そなたの噂、絶えず気にかけていたぞ。したが、この良長の見事な成人ぶりはどうであろう。亡き良忠どのに、生き写しであろうがな」
この
「御意、良忠公に似られ、御立派な侍大将ぶり、桃青、恐悦至極に存じ奉ります」
……この日、重ね硯の蓋をとった桃青は、料紙に「さまざまの事おもい出す桜かな」と筆を走らせて、当主探丸子に示した。暫く苦吟ののち探丸は、「春の日はやく筆に暮れ行」と次句を添えた。
『此の一句にて、昔を想出し、大笑いいたし候』と、桃青は露言宛の書簡に記している。小鍋夫人の覚書には、
『桃青が返答ぶり、桃青の発句の手並み、流石に曲者にて候』と、書かれてある。余程、口惜しかったものらしいが、もしかするとことごとくは、彼女の
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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