最初へ

フランドルの冬

   第一章 病院司祭

  1

「さあおいで。子供たち(メ・ザンフアン)!」鋭い張りのあるバリトンである。ロベール・エニヨンは、ぼってりした腕を力まかせに振った。

「さあ、さあ!」

 黄色い歓声をあげて、我先にと腋の下をすりぬけていく子供たちにロベールは目を細めた。こそばゆい快感だ。が、一人足りない。

「スザンヌ。フランソワはどうした?」

 スザンヌは唇に指を立て、良人の大声をたしなめた。

「二階でねてます。気持がわるいって。風邪ですよ」

 ロベールはぴりっと眉をひそめた。それは彼が自分のたてた計画に少しでも支障が生じると必ず示す癖で、大抵はその次に《爆発》を、顔を紅潮させ唾をとばしての巨大な興奮をおこす前兆だった。

「だって夕食のとき、あの子は普通だったぜ」

「元気がなかったでしょ。蒼い顔をしてブダンを半分残したわ」

 ロベールは《爆発》をおさえた。そうだった。ブダンを半分しか食べなかった。気分が悪いのならそうと言えばよい。黙っているからわからんのだ。まるで女の子みたいだ。いや、女の子だって末娘のキキみたいな強情なのもいる。あの子は女の子以下だ。

「で、熱は?」

「三十八度。頭痛と咳がすこし」

 急にロベールは心配になった。鎮痛剤と鎮咳剤の処方が頭をかすめる。弱った。あの子はピリン剤に弱い。もちろん妻はそんなことを先刻承知のはずだ。何しろ彼女も医者なんだから。でも自分で診てやったほうがいい。

「大丈夫よ。ほっときゃ癒りますよ」

 夫人はあわてている良人をなだめた。

「パパ」書斎から次男のベルナールが小さな顔をだした、「パパったら、早く来てよ」

 続いてカトリーヌとクリステーヌが顔をだした。三人がキンキンと囀る。「パパ、パパったら!」

「お待ち!」ロベールは力一杯に怒鳴った。

 子供たてちも負けていない。

「パパがすぐ来いといったんだ」「そうよ、わたし達忙しいのよ。御降誕飾り(クレーシユ)がつくりかけなんですもん」「そうよ、そうよ」

「お黙り!」

「あなた」スザンヌが小声で注意した。

「ああうるさい。二つのことが一緒にできるもんか」

 スザンヌは良人の額がすでにして汗ばんでいるのをみて微笑んだ。

「えい。何の話だった? そうだ。フランソワだ。あの子はちょっとおりて来れんのか」

「駄目。病気ですよ」

 ロベールは大げさに肩をすくめた。「ああ何てことだ。年に一度の家族会議だってのに」

「なにもクリスマスの相談にあの子が加わらなくたって。あなた」

 スザンヌは良人の太い腕を淑やかにとった。ロベールは妻にたよってびっこをひいた。彼は数年前関節炎を患って以来右膝がきかないのであった。ちょうど医長資格試験(メプイカ)の最中で主治医の忠告を無視して頑張ったのがたたったのであろ。

その時、子供たちの澄みきった歌声がした。

  エニヨンの王様は雷だ

  雷鳴とどろき

  ガラスはわれる

「ベルナールだな」

 ロベールはいたずらっぼく妻に笑いかけた。「ベルナールよ」スザンヌは晴れやかに頷いた。

 まあどこで覚えこんだものか。マルケヴィッチふうに腰をひねり、鉛筆の指揮棒を優雅にふっている。そら、ドラム。管を存分にひびかせて。弱く""

  エニヨンの女王様は雲だ

  雨を降らせて

  広野は緑

 ベルナールはソファの上、アンニイとカトリーヌは机の上。クリスチーヌは床の上で唱うそばから笑いころげている。

 エニヨン夫妻は書斎の入口で立止った。その次がさわりだ。

  ベルナール王子は河だ

  麦をみのらせ

  海をつくる

 ベルナール作詞作曲のこの歌は、家族の一人一人について歌ってあった。いつもは全部きいてやるのだが今夜は忙しい。

「そこでやめ。ベルナール。みんな集まって。キキ。静かに!」

 エニヨンを囲んで円陣がつくられた。長女のアンニイは十二、次男のベルナールは九つ、次女のカトリーヌ(カッチ)は七つ、末娘のクリステーヌ(キキ)は五つ。二階で寝ている長男のフランソワは十だ。カッチとキキはスザンヌの両側に素早く席を占めていた。

「いいかな。静かに!」ロベールは禿げあがった額の汗をハンケチでぬぐった。「では家族会議をやる。議題はクリスマスの準備についてだ。御馳走を何にするか。どんな友達をよぶか」

「ウワー」とベルナールが素頓狂に叫んだ。アンニイとカッチが「シー」と口をとがらす。キキはただもう嬉しくて母親の膝の上にそりかえった。

「まず、ママから御馳走について提案してもらう」

「ウワー」

「ベルナール。いい加減におし!」とロベール。

「ええと、生牡蠣、豚の足、トリュッフ、雁、サラダ、アイスクリーム。ちょっと待って。お料理のほうはお客様の人数によって考えなくっちゃ。ですから、誰をよぶかってほうを先にきめてちょうだい」

 それもそうだ。では議題変更。ベッチュンヌの判事ジュール叔父夫妻は例年よぶことにしているから最優先。サンヴナン(この村の名前である)小学校校長ギョーム先生はベルナールのピアノの先生でもあるからよぶ。それからリールの製鋼所技師でロベールの弟ピエール夫妻も。

「ジャンリュックもよ」とキキが口をはさむ。ピエールの長男で六つになるジャンリュックはキキとカッチの親友だ。もちろんよぶさ。

「これで何人になる?」

「六人。ああ駄目。家のものをいれると十三人になるわ」

「弱ったな。じゃもう一人」

「ブノワをよんでやったら。あなたの内勤医(アンテルヌ)になったんだし""すると婚約者のマドモワゼル・ラガンもよぶことになるかしら」

 ロベールは顎をぎゅっとひいて喉の脂肪をたるませた。

「ブノワか。どうも気がすすまん。あの男は虫が好かん。ベタベタひっつきやがる。腹黒いおべっか野郎だ」

「あなた」スザンヌが目くばせした。子供たちの前ですよ。

「どうだろう。コバヤシは。ドロマールの内勤医をしているあの日本人」

「それは妙案だけど""」

「だけど、なんだね?」

(こぶ)つきですよ。こぶがいけません」

 子供たちに分らぬようにそう言ってスザンヌは顔を顰めた。御存知でしょう。コバヤシが看護婦のニコル・デュピペルといい仲で、ベッチュンヌで同棲してるって話はこの病院中で知らないものはない。いやしくも県立サンヴナン精神病院の医長(メトサン・デ・ゾピトオ)の家庭に看護婦を招くってほうはない。この事をロベールはすぐ了解した。

「すると誰だ」

 ベルナールが身をのりだし、非常な早口で言った。「ぼくは断然、ク、クルトンだな。あの人をよぼうよ」

 エニヨン夫妻は驚いて顔を見合わせた。

 ミッシェル・クルトンは内勤医である。この春、アルジェリアの戦場からひょっこり復員してきた。まだ徴兵期間はあまっていたが重傷を負ってアルジェの病院で治療をうけ、回復するやそのまま除隊になったという。すっかり痩せ衰え、皮膚は褐色に変って、きたならしい病人になっていた。そんな病身のくせに酒は飲む、喧嘩はする、女をめぐっていやらしい風聞が絶えない。しかも無神論者で教会へも行かない。入隊前からカミーユ・タレという患者の家庭訪問員(アシスタント・ソシアル)と内縁の仲だったが最近二人は別居したという。とにかく悪評嘖々(さくさく)たるならず者なのだ。

「ベルナール。これは真面目な家族会議なんだぞ。よりによってクルトンだなんて!」

ロベールは嫌悪のあまり吐きすてるように言った。

「ベルナール」スザンヌがやさしく言った。

「どうしてクルトンをよびたいの?」

「だって親友だからさ。ぼく約束しちゃった。クリスマスには家においでって」

「親友だって! ああ」ロベールはじだんだ踏んだ。

 ベルナールは雀斑(そばかす)のうっすらとついた茶目っけのある小さな頬をふくらませた。「パパ。いい人だよ。あの人。それにひとりぽっちなんだ。カミーユとは別れたんだってさ」

 カッチとキキがベルナールに同調して甲高く騒ぎたてた。「クルトンがいい。彼にしましょうよ」

「ああ」ちっぽけな子供たちにからかわれている具合のロベールは、すっかり落胆して太った体をくねらせた。「ああ、何てことだ。何てことだ」

 一同が混乱状態に陥ったときスザンヌが静かに言った。「アンニィ。お前はどう思う」

 不意に騒ぎが鎮まった。そうだ、アンニィがいた。すっかり忘れていた。アンニィならみんなが納得できる意見を言うだろう。アンニィはいつも落着いている。もう子供じゃない。この春、聖体拝受の白衣を着てアミアンの大聖堂にほかの女の子と並んだとき、すっかり成熟した美しい女性という印象だった。アンニィの胸があんなに豊かにふくらんでるなんて誰が予想しただろう。

 みんなに見つめられてアンニィは面映ゆげにまばたきした。しかし声は穏やかで明瞭だった。

「わたくしはこう思うわ。誰かをよぶとしたら、よばれた人が喜んで、それでよぶほうも嬉しいような人よ」

「クルトンなら大喜びだよ。彼は孤独なんだ」ベルナールがませた口をきいた。

「で、アンニィ。クルトンはどう?」スザンヌがきいた。

「あの人ならいいでしょ。面白い人よ。アルジェリアやモロッコの切手を沢山持ってるし、お話は上手だし、いい人よ。でもパパはクルトンが嫌いなんでしょう」

「そうは言わんさ。これは会議だからな。みんなの意見に従うよ」ロベールは苦笑した。アンニィのやつ、すっかり大人びた調子だ。おれとは全然似ていない。スザンヌそっくりだ。こいつはスザンヌの遺伝なんだ。

「クルトンだ。クルトンだ」子供たちが一斉に叫んだ。

 ロベールは両手で耳に栓をした。

「よし、わかった。彼に決定! スザンヌ。いいだろうね」

「あなたさえよければ」スザンヌは目をつぶった。

 次の議題、御馳走の件をにぎやかに論議しはじめたとき、玄関の鈴が鳴った。いち早く気がついたベルナールが「しっ」と一同を制した。再び鈴が鳴った。こんな時刻に誰だろう?

  2

 ロベールのいいつけで玄関口までとんでいったベルナールが息をはずませて帰ってきた。

「ブノワだよ。ブノワがパパにおりいって話があるんだって。非常にきんきゆうなんだって」

「お通ししなさい」

「ここへ?」

「そうだとも。私たちには秘密はない」

「でも""」

「どうしたんだ?」

「なんだか変なんだよ。小さな声でね、そおっとパパをよんできてくれっていうんだ」

「チョッ!」ロベールは眉をひそめて舌打ちした。「あの男ときたら! 用事なら電話をかけりゃいい。こんな遅くに個人的な話でもないだろうに。それにおれを呼びだすなんて無礼きわまる」

「いっておやりなさいな。あなた。なんてったってブノワはあなたの部下なんだから」

 ロベールは熱くなりかけた《爆発》を腹におさめるかのように丸く突出た腹をなぜ、杖をとった。

 大柄で堂々とした恰幅のブノワは、白衣の上に医師専用の青外套を着て、街灯の光の輪の中に寒そうに立っていた。不安げに肩をゆすぶり、何か思いつめた表情で、ロベールがまだ歩いているうちからせっかちに喋りはじめた。

「弱ったことがおきたんです。大事件です。司祭が発作で倒れたんです。脳溢血の発作ですね。ぼくが診て、たしかに脳溢血なんです。それなのに、院長は信用しないんです。内勤医じゃ信用できん。医長をよべ、それも主任医長をよべ。つまりドロマールをよべ、とこうなんです。ところがドロマールは来ないんです」

「チョチョチョ! 君の話はさっぱりわからん。司祭ってどこの司祭だ。ドロマールが来ないってのは? 順序をたてて話してみたまえ」

「すみません」ブノワは頭を下げた。小鼻に汗が光っている。

「今晩、ぼくは当直医なんです。八時過ぎに電話が入りました。総婦長のヴァランチーヌ尼で、病院司祭様が突然倒れたという。かけつけてみるとエスナール神父がベッドで大鼾をかいていました。瞳孔をみると左が拡大しています。ゆっくりとした呼吸で意識はありません」

「で、なんだと思うんだね」ロベールは、急に論理的な説明調になったブノワの話しぶりに、今度は苛々としだした。「結論をはやく言いたまえ。君の診断は?」

「左側の脳出血です」ブノワはこの重大な情報の効果をたしかめるように、心もち胸をそらし、自分より背の低い医長殿を見おろした。

「ふん。それで?」ロベールはとり合わなかった。

「そこへ、フージュロン院長がやって来ました。ぼくが診察中なのに、ドロマール医長をよべという命令です。まるでぼくを無視してるんです」

 ブノワは口をとがらせ肩をゆすった。この不平屋がよくやる仕種である。

「この病院では、司祭の病気は主任医長が看取ることになっている。単なる習慣にすぎんがね」

 ロベールがいかつく言った。

「そうですが」ブノワは一瞬不快な表情を走らせたが、すぐと元気よく、まるでとっておきの打明話をするように芝居じみた声で語った。

「それからが大騒動なんです。御存知のようにドロマールの公舎には電話がありません。夜の静粛を乱すとかで十年来電話なしなんです。そこでヴァランチーヌが駈出して行きすぐ戻って来ました。玄関の呼鈴をいくら押しても返事がないというのです。ドロマールが家にいることは確かなんです。入るところを見た看護婦が三人もいます。ところが彼が外出した姿をみたものは誰もいない。そこでぼくが出むきました。二階に電灯がついている。誰かが歩いている影がカーテンに映っています。彼は中にいるのですよ。そこで小声でよんでみました。返事がありません」

「小声で?」

「そうですとも。だって、彼は大声を極度に嫌いますからね」

「で、どうしようというのだ?」

「御願いがあるんです。ヴァランチーヌやぼくにできなかったことを先生にやっていただきたいのです。つまり、ドロマールの家の前で、彼を大声でよんでいただきたいのです」

「チョ、チョ、チョ」エニヨン医長は、まんざらでもないといったように何回もうなずいた。当病院ひろしといえども、ドロマール医長に大声で叫べるのはエニヨン医長をおいてほかに無い。

「行ってくださいますか」ブノワはほっとして、急に陽気になったエニヨンに遠慮がちの微笑を送った。

「行ってやるよ。莫迦げたことだがね。とんでもない主任医長殿さ。いったい、受持病棟(セルヴイス)に夜、急患がでたとき、どうやって彼に連絡をとるんだ。君はついこないだまで彼んとこにいたから知ってるだろう。急患はどうするんだ」

「翌日の朝まで待つんです。だって仕方がないでしょう」

「ああ莫迦げてる。それでも医者かね。ところで患者の処置はぬかりないだろうね」

「頭と心臓に氷嚢を置くよう指示しておきました」

「脳出血の場合は最良の処置だ。よろしい」

「コバヤシにたのんでついてもらってるんです。あの男は立派な医者ですから心強いです」

 ロベールは二、三歩外へ出ていき、冷い夜風にふるえあがった。

「スザンヌ。外套!」

  3

 病院の南の塀の外側に、医長公舎が並んでいる。東からマッケンゼン夫人、エニヨン。正門の近くにフージュロン院長邸。門をはさんで西には会計主任(エコノーム)のベカールの家。さらに西寄に通称「小棟{プチ・パヴイヨン}」とよばれる空屋があり、そこから三十メートルほど砂利の小道を行くと突当りにドロマールの公舎が深閑とした闇に漬っている。うしろはフランドル地方特有の陰鬱な巨木の森である。それは寂しいうえに不便きわまる場所なのだ。マッケンゼンとエニヨンの公舎が病棟に近く、国道に面した立派な車庫をそなえているのに、ドロマールのところは、遠いうえに奥まっているので車庫もつけられない。その上、電話もないときているのだ。ブノワの懐中電灯がなかったら道の見当もつきかねたほどに、あたりの闇は濃かった。

 なるほど二階の窓のカーテンにうっすら明るみが染みている。呼鈴を押してみる。電源がきれているのか反応がない。扉をたたいてみる。建物全体が廃墟のように手応えがなかった。

 エニヨンは決心し、持ち前の大音声で二階の窓を呼んだ。

「ドロマール! エニヨンだ。急用だ。司祭が、エスナール神父が倒れたんだあ」

 答はない。すでにエニヨンは腹を立てていた。熱烈な《爆発》が胸から頭へ沸騰した。繰り返し絶叫しているうち、ついには我を忘れて猛り狂っていた。

 とにかく反応はあったらしい。カーテンが動いたとか、電灯がゆらいだとか、足音がしたとか、そんな気配がした。二人は待った。ながい気詰りな時間に思われた。高い梢を黒い風が物凄くきしませていた。ブノワは何かを言わなくては礼儀に欠けるという気持になって自分の医長殿に話しかけた。

「知事が来るそうですね」

「"""」

「もっぱらの噂ですよ。来年のはじめに県知事の視察があるって。ベカールが大車輪で病院中の修理をはじめたのはそのためだって。ほんとうでしょうか」

 エニヨンは肩をすくめた。そんな噂はどうだっていいじゃないか。司祭が発作で倒れたんだ。それ以外のことを考えるのは場ちがいで不謹慎だ。ブノワは恥じ入って黙りこんだ。しかし、心中はおだやかではなかった。ちえっ。医長だと思ってえらぶってやがる。おれが来年医長資格試験(メデイカ)を通れば、おれはこの男と同等だ。もう少しの辛抱だ。みていろ。

玄関のカーテンが、すっと切られたほどに細く開き、誰かがこちらを覗いた。ポーチの電灯がともり、扉が用心深く開いた。

「何の用だ。エニヨン」

 エニヨンが手短かに事情を話した。

「さあ中に入りたまえ。隙間風が気持わるい」

 ドロマールはぴったり入念に扉をしめた。

 エニヨンもブノワもこの家の中ははじめてだった。で、物珍しげに見廻わした。異様な感じである。両側の壁には、入口から奥の階段まで紫色の厚いカーテンが天井から垂れ下っている。絨毯も紫だ。天井も赤っぽく塗られている。廊下はまるで血塗られた洞窟のようだ。

 ドロマールは赤い絹のガウンをまとっていた。痩せぎすな男で背はブノワより少し低くエニヨンよりはるかに高い。驚いたことに白い外科帽をかぶっていた。フランスの年輩の医者によくあるように、院内で必ず外科帽をかぶるドロマールの習慣は有名であった。だが自分の家の中でまでそれを着用するというのはどうした趣味だろう!

 ドロマールはにこやかであった。明らかに同僚のエニヨンを意識している。内勤医や看護婦の前で示す、あの剃刃のように峻厳な態度とは雲泥の差だ。

「失礼した。ぼくは夜、早いんでね。まさか、君がじきじき来てくれたとは思わなかった」

   4

 エニヨンに鄭重な礼をいい、握手して外へ送りだすと、ブノワの怖れていたようにドロマールはがらりと人が変わった。ガウンのポケットからとりだした金縁眼鏡を目の前にかかげ、細字の書物でも調べる具合にブノワの顔に近付いた。

「司祭の容体は? 君の診断は? 処置はどうしたか」

 ブノワは、以前ドロマールの内勤医をしていたときいつもそうだったように、しどろもどろに自分の診たところを報告した。ドロマールは神経質にビリビリと首を振った。

「脳出血か。それだけじゃ根拠が薄弱だ。脳血栓とどうやって鑑別するね。こんなことは医学の初歩だが重要なことだ。脳の血管が破れて内出血をしたのか、それとも脳の血管がつまって脳軟化症をおこしたのか。それによって治療が全然ちがう」

「"""」

「たとえば君はプレボスト氏徴候を調べたかね」

「プレボスト?」

「そうさ。共同偏視(デヴイアション・コンジュゲ)。出血した側に眼球が回転するやつさ」

「ああ。それは""」

「調べなかったのか! 顔面神経麻痺も見落したな。左側の脳出血だと断定している君の根拠は、それじゃ、瞳孔の左右差だけじゃないか」

 容赦なくそう言うや、ドロマールはふと不機嫌に額に皺を立て、口を緘んだ。ブノワは悄然とうなだれた。なまじ背が高いのがかえって気がひける。

 エニヨンの前だったら多少の心のゆとりも持て、ひそかに反抗心を燃やすことも可能なのだが、このドロマールの前では徹底的に押しひしがれてしまう。何もかも見透されてしまい、自分の立つ瀬がなくなるようなのだ。今年、ドロマールが医長資格試験(メデイカ)の審査員であったあいだ、彼はドロマールの内勤医だった。ところが、来年はエニヨンが審査員に選出されそうだという情報をつかむと、彼はドロマールを去つてエニヨンの内勤医になった。もちろんおもてむきの口実は、最近エニヨンが創始した抗酒剤の皮内移植手術を習うためということではあった。が、ドロマールはブノワの小利巧な立ちまわりを見抜くだけの力はもっている。そんなことでブノワはドロマールの前で一層気がひけるのであった。

 もっと悪いことがある。エニョンが審査員になるという情報をもらしたのは、このサンヴナンと同じくパドカレ県立の精神病院であるアマンチェールの新医長ヴリアンである。ヴリアンはつい今年の春までブノワと一緒にドロマールの内勤医をしていた男で、ブノワの幼馴染みでもあり、医長だけがつかみうる秘密情報をブノワに心やすくもらしてくれたのだ。ところが半月程前、ヴリアンは情報を訂正した。エニヨンは審査員にはまだ若すぎるという声が多いため、どうやらドロマールが再選されるらしいというのだ。思惑のはずれたブノワはすっかり意気銷沈した。彼の前に再びドロマールの姿が偉大なる人物として浮かびあがってきたのである。

 白衣に着替えたドロマールは、糊のきいた外科帽を少し斜めにかぶり、青外套——これもブノワのよりは上等品であった——を袖を通さずマントのように肩にかけ、ブノワを従えて外に出た。

 病院の正門を入るとすぐ、桃色の石灰岩造りで、擬ゴチック風の立派な礼拝堂がある。司祭館はその裏手の図書館の前にあった。そこはマロニエの大樹の並木道に面していて、夜は人通りも稀な区域である。が、今夜は看護尼たちがあわただしく往来し、司祭館の窓という窓には煌々と明りがともり、何か尋常ならぬ雰囲気をかもしていた。

 なにしろ有徳のエスナール神父様の御病気なのだ。お年は九十をすぎられたそうだ。本当の年齢は神父様御自身にもわからないという。もう六十年以上も前から、つまり前世紀の昔から、この病院がまだリールの聖母協会に付属していて、現今のように俗人(ライツク)の看護婦など含まず純粋の看護尼だけが働いていた聖なる時代から、エスナール神父は病院司祭をやっておられたのだ。たしかに最近はおとしのせいか御説教もまわりくどく発音も空気がぬけて何が何やらわからないけれども、それでもあのおやさしい御眼や御口元には慈愛の光が充ちみちている。神父様にくらべれば、総婦長のヴアランチーヌ尼なぞまるで生れたての赤子のようなものだ。

 廊下は看護尼の黒い衣で占領されていた。おしなべて深刻そのものの表情をのぞかせ、一人が十字を切ると一律にそれに倣った。ドロマールとブノワに期待をこめた目が集まった。会釈し道があけられる。それでも、看護尼たちの円っこい肩や背中をおしわけて進まねばならなかった。

 狭い部屋の中にこう沢山の人間が犇めいていたのではたまらない。壁にそって看護尼の一団が並び、院長のフージュロンと総婦長のヴァランチーヌの蔭にようやく司祭のベッドがみえた。コバヤシが病人の脈をとっていた。暖房がききすぎているうえに、人いきれが加わり、むんむん息詰まるほどだ。

 ドロマールの登場は劇的であった。待ちかねていた人々がさっと身をひくと、真直ぐベッドにむかって足を速め、肩にかけた青外套を落下傘のように後にあおった。それはブノワが外套の端で顔をしたたか逆なぜされたほどの勢いであった。

 まず病人だ。

「具合はどうか」ドロマールはコバヤシにたずねた。

「危険です。脈が速く、不規則です。完全な昏睡状態です」

「よし」力強くいう。それからくるりと振返った。「ああ君たち、これじゃ診察ができない。医者とヴァランチーヌ尼以外は部屋をでてもらいたい」

 看護尼たち——部屋の中にいるのは病棟主任の尼僧ばかりだった——は不承不承に退出しだした。

「わたしもかね」フージュロン院長が言った。院長は事務官なのである。

「もちろん。医者とヴァランチーヌ尼以外は出ていただく」

 ドロマールの剣幕には院長といえどもかなわない。院長は未練がましく戸口へ行き、そこで出会いがしらに入ってきた会計主任(エコノーム)のべカールを連れて隣室に移った。

 場がこうしてごたついている間にブノワはコバヤシに囁いた。

「氷嚢はどうした?」

「とりはずした」

「なぜ?」

「血圧が低いんだ。心臓の衰弱だ。こんな場合氷嚢は禁忌だよ。ぼくは思うに、これは脳出血じゃないね。脳血栓だ。見たまえ、神父の顔を。蒼白で血のかけらもないだろう」

 ブノワは温度表をコバヤシの手からひったくり食入るようにみつめた。脳血栓だ。ドロマールの言うとおりだった。おれは誤診した。血圧をあげて脳の血流をよくするべきなのに、全く逆の処置をしてしまった""

「さてと」ドロマールが近付いた。「ドクトゥール・コバヤシの診断は?」

 ブノワがあわてて口を挿んだ。

「よく考えてみると、やはり脳血栓らしいです」

「待ちたまえ」ドロマールは邪険にあしらった。

「君の意見はさっききいた。ぼくは、ドクトゥール・コバヤシにきいているんだ」

 コバヤシは日本人特有の、フランス人のいう《神秘的な微笑》(少なくともこの厳粛な場面で笑顔をみせることは異様なことだった)を浮かべて、ゆっくりと、しかしなまりのない正確な発音で意見をのべた。

「ブノワの言う通りだと思います。脳血栓でしょう。突然来たものとは思えません。さっきヴァランチーヌ尼からきいたのですが、司祭殿はこの数年ぼけ

かたがひどく、聖書の文句を忘れたり御説教のさい中に眠りこけたり""」

 ヴァランチーヌは制服の幅広なカラーをわざときしませてコバヤシに注意した。あれは内緒にした話です。医長先生に申しあげるべきことではありません。けれどもこの正直で善良な外国人は、ヴァランチーヌの洗練された合図に全く気が付かなかった。

「つまり徐々にはじまった脳動脈硬化です。その徴候はそろっています。低血圧、蛋白尿、心臓の衰弱、この老齢でおこるべきことがおこったのです」

 ドロマールは満足げに大きくうなずいた。彼がじきじき診察する番だ。ヴァランチーヌが診察器具をのせた銀盆を頃合よく差出した。

 ブノワは感嘆と感謝と嫉妬をこめてコバヤシに片目をつぶってみせた。パリのサン・タンヌ病院で二年間勉強し、今年の四月に、国際的にも有名な精神病理学者であるドロマールの盛名をしたってこのサンヴナンに内勤医として赴任してきたこの男、無類の勉強家で本の虫で日曜日も終日机にむかうかと思えば、看護婦のニコルと熱烈な恋愛をはじめベッチュンヌ(サンヴナンから十三粁南にある人口五万の町)で同棲生活をやってのける。おれにこの黄色い小男くらいの頭と精力があれば、《メディカ》なんかいっぺんで通ってみせるのに。

 

  5

 

 フージュロンは眼鏡をはずし、目を細めて相手を見定め、威厳と親密さを自分の顔に意識しながら、自慢の美しい白髪の頭を動かした。

「で、A三病棟の渡り廊下のペンキは? あれはひどいね。ああ煉瓦が無様(ぶざま)に露出しているとみっともない。ペンキをうんと塗りたくる必要がある」

「あそこは新年早々に手がけるつもりなんです」ベカールは万事抜目なく心得ているというように、酒やけのした赤い顔で院長にまばたきした。この男も白髪である。白髪と赤い顔のため狒狒(ひひ)という綽名でよばれている。

「現在、病院中のペンキ屋は全員屠殺場の改装にまわっていて今年中は手一杯なんです」

「なるほど。まあかけたまえ。君、葉巻をやるかね」

 フージュロンはふんわりとソファーに腰を沈めたが、べカールは謙虚に立ったままでいた。差出された葉巻を丁寧に受取り、ライターで院長のと自分のとに火をつけた。

「結構なお葉巻で」

「なに、先週の日曜日ベルギーへ行ったついでに密輸してきたやつだよ」

「はあ」

 ベカールは、半開きのドアからみえる尼さんの影を落着きなく振返り、急いでドアをしめに行った。部屋の中は二人きりになった。

「実は内密にお話ししたいことがあるんです。屠殺場の改築の件なんですが」

「言ってみたまえ。何か問題があるのか」

「こんな場合、とくに今夜みたいなとりこみの最中に申しあげにくいことなんですが、御承知のように屠殺場の改築は元々エスナール神父の御申し出ではじまったわけでした。つまり殺されていく憐れな牛どもの悲鳴をきくにたえんというので厚いコンクリート塀で囲むことになったわけです。わたし自身は当初から、この病院予算では不足なほどの大工事だと危惧していたので反対意見を申し上げていたわけです。実際はじめてみますと、立案当時より予想外に人件費があがってましてね。できたら今からでも中止したらどうかと""まだ溝を掘っただけの段階ですから、やめようと思えば今からでもやめられます」

「しかし」

 ベカールは院長をおさえて、急に共犯者めいた微笑を近付けた。

「エスナール神父にもしものことがあれば、工事の目的もなくなるわけです。神父の容体によって工事を一時見合わせるとか」

「それはどうかなあ」フージュロンは、その言い分はよくわかるがという風に目で合図しながら考えこんだ。

「しかし、屠殺場の塀の件を主張したのは神父だけじゃないぜ。たしかエニヨンも主張した。自分の病棟が屠殺場に近いから何とかしてくれと言ってた。彼は手強いよ。一度言いだしたら絶対あとにひかん男だ」

「ところがです。あの先生には随分と貸しがあるんです」ベカールは待ってましたと雄弁にまくしたてた。「いいですか。四年前あの先生が着任してから、院内の金をくう工事はほとんど彼のところばかりなんです。音楽療法をやるからB一病棟の全病室にスビーカーをつけろ。患者の作業場にするからB三病棟の壁をぶちぬけ。患者の精神を安定するためには青クリーム色(一体そんな色の塗料なんてあるもんですか)がよいから、全病室の壁を塗りかえろ。作業療法の製品を運搬するトラックを一台とその車庫が必要だ。いやはやです。わたしどもの予算では古い建物を修復維持するのがせいぜいで、とても新しい工事なんかは手がでないのが現状なのに""」

「でも、今いった工事を全部君がひきうけたわけじゃないんだろう」

「それはそうです。請求の三分の一、ことによったら四分の一ぐらいにおさえてはいますがね」ベカールは狡猾に笑った。

「だったら今度の屠殺場の件ぐらいは""」

「そうはいきません。釣合というものがあります。三人の医長のうち、マッケンゼンとドロマールはほとんど要求がないんですからね。エニヨン一人に貸しがあるのです。屠殺場の件を拒否してもまだ貸しがあるくらいです」

「エニヨンはまだ若いんだよ。悪意はない。患者のためにあらゆる新療法をとりいれようと夢中なんだ。熱血漢だよ。大目にみてやったほうがいい。それに、君の話は早すぎる。エスナール神父がもし回復されたらどうするつもりだ」

 ベカールは不満げではあったがおそれいったかのように頭をさげた。二人は隣室のほうに聞耳を立てた。廊下に集まっている看護尼たちのざわめきばかりが耳に入ってくる。べカールは鍵穴からのぞいてみた。

「まだ診察はおわってないようです」

 二人は所在なく葉巻をふかした。ベカールは院長のソファから離れたところをコツコツと歩いたが、葉巻の灰だけは注意深く院長の前の灰皿に落した。

 しばらくするとベカールは半ば遠慮がちな、どことなく馴々しい顔を院長にむけた。

「たしか院長は知事閣下と同窓だとか""」

「そう。彼もモンペリエ大学の法科だからね。ぼくより五年先輩なんだ」

「個人的に親しい間柄だとか」

「というほどでもないがね。まあ多少は交際したことがある」

「それがなによりですよ。なにしろ""」

 フージュロンはベカールの言おうとするところがよくわかった。来年早々に当病院を知事が視察する。県立病院であるからには当然の行事なのだが、厄介なことにはちがいない。病院側の受入れや接待に手落があれば、院長である自分が責任をとらねばならない。知事を満足させれば、それは院長の功績になる。その場合、知事と個人的な面識があればすべては有利にはこぶだろう。もう一月も前から準備をはじめた。ベカールに命じて目に立つ場所は改装させている。医長たちには知事の案内と説明の役をたのんだ。エニヨンはうまくやってくれるだろう。心配なのは奇人のドロマールと病身のマッケンゼンだ。ドロマールはえらい学者かも知れんが、病棟の管理や患者の治療にはあまり熱意がない。エニヨンの病棟が明るく近代的な感じなのに、ドロマールのところは陰気で古色蒼然、まるで僧院みたいだ。マッケンゼンにいたっては論外だ。この結核病みの中年婦人は、一日に一時間病棟にでむくだけで、あとは内勤医のクルトンにまかせっきりだ。そのクルトンがとんでもない偏窟者ときている。院内の医者でネクタイをしないのはあの男だけだ。院長のおれに会っても挨拶もしない。何かよからぬことをたくらんでいる、気味の悪い目。

 フージュロンは何だか心配になってきた。

「ドロマールとマッケンゼンのところは大丈夫かな」

 ベカールは有能な従僕らしくたちまち院長の心を読みとった。

「マツケンゼンはともかく、ドロマールのほうは大丈夫です」

「しかし""」

「御心配なく。先生は好きなんですよ。知事の視察なんてことが。この前の大統領夫人のときだってそうでしたでしょ」

「ああ、あれはそうだ。しかし、大分調子っぱずれだった」

 二人は笑った。隣室のドロマールに気がねして押し殺すような笑いではあったが。

 この会話を理解するには、すでに病院中に喧伝されたちょっとしたエピソードを知らねばならない。

 この秋ドゴール大統領がフランドル地方を遊説に来た。何しろ高名な大統領をじかに見れるというので病院の主だった人々はベッチュンヌの大広場(グランド・プラス)の演説会にあげて出向いた。その隙に、突如大統領夫人が病院に来訪したのである。噂によると夫人には精神薄弱の息子があり、そのため精神病院には並々ならぬ関心を抱いているそうである。外出嫌いのため病院に残っていたドロマールは、大統領夫人ときくと、白衣にレジオンドヌールの略章を飾り応接間に現われた。病棟の内部を見学したがっている夫人の前に、ドロマールは羊皮表紙の《ドロマール論文集》を差出し、延々一時間にわたって自己の業績を、夫人にはチンプンカンプンの分裂病の精神病理学を講釈した。辟易しているうちに時間ぎれとなった夫人は《ドロマール論文集》を手に愛想よく帰って行った。結果として、当病院でもっとも不潔で乱雑で、恥部ともいうべき精神薄弱者病棟は、大統領夫人の目をのがれたわけである。

 フージュロンはふと真顔にかえった。

「笑いごとじゃないぜ。今度はうまくやってもらわないと」

「大丈夫です。わたしに名案があるんです」

 ベカールがそう言ったとき、扉がぱっと開いて、ドロマールが荘重な足どりで入って来た。フージュロンとべカールは、重大な使者を迎える城主と家老といった様子を機敏に演じた。

   

  6

  

 子供たちを寝かしつけるとスザンヌは下におりた。良人は書斎で机にむかっていた。

 毎晩見馴れた光景である。部厚い書物の山、ノート、鉛筆、消ゴム、灰皿、シガレット。すべてはあるべきところにある。彼の仕事の時間なのだ。きっかり午前一時まで坐り続ける。医学雑誌の頼まれ原稿、鑑定書、報告書、症例の整理——仕事はいくらでもあるのだ。昼間やればいいのに、とスザンヌは思う。ところがロベールは昼間は患者の診療に没頭していて寸時も暇がないのだ。医長になったのだから少しは楽をして診療は午前中だけにする(わたしの知ってる医長はみんなそうしている)とかして自分の時間をつくればいいのに、全く内勤医の頃と同じ生活をしている。ロベールの信念はゆるぎがない。医者はまず患者のためにある。正確にいえば患者のおかげである。考えてみたまえ。医学が患者から学ぶことのほうが、医学が患者に与える恩恵よりずっと大きいのだ。そう言われるとスザンヌには返す言葉がない。そのとおりだ。でも、ああ詰めて働いていたら体をこわしやしないかしら。スザンヌは良人が膝関節炎で倒れたときの恐怖を思い出した。

 四人の子供がいた。キキはまだ生れていなかった。私たちはヴォージラール街の狭いアパートに住み生活は苦しかった。ロベールは昼間はデポ(パリ警視庁付属病院)に勤め、夜は《メディカ》の受験勉強をしていた。食事や睡眠の時間も惜しむほどの打込みようで、わたしは子供たちを静かにさせておくことばかり気をくばっていた。ロベールは神経過敏で何かというと《爆発》した。日曜日も祭日もなかった。わたしは子供たちをつれて、よくリュクサンブール公園に避難したものだ。何ヵ月も未亡人のようにわびしい夜がつづいた。そして、突然の激痛と発熱。《メディカ》の二日前だった。外科医は手術をしないと関節が癒着して硬直してしまうと警告した。ロベールはきかない。高熱をおして試験を受け、見事パスした。おかげで彼の右脚はもう曲らなくなってしまった。

 それでよかったのかもしれない。医長になれてこの広い公舎をもらえた。給料はあがり、自動車も二台もてる身分になった。とにかく生活に変化と進歩があった。日曜日とタ食後の二時間はロベールも私たちと過す余裕をもてるようになった。

 問題はロベールが勉強をやめないことだ。今度はセーヌ県の医長の資格をとるという。そうすれば、パリに戻れるし、子供たちもよい学校にやれるからというのだ。相変らず続いている孤閨の夜。毎晩、たった一人で冷いベッドにもぐりこむ味気なさ。でもロベールは正しいのだ。いつだって正しいのだ。

 スザンヌは台所でコーヒーをいれ、書斎に運んだ。ロベールは振向きもしない。左手で書物の行を追い、懸命にノートをとっている。こんなとき話しかけるのは禁物だ。スザンヌはおやすみのキッスもせずに二階にのぼって行った。

   

   7

 

 暗闇の中でスザンヌは耳をすました。子供部屋から寝息がきこえる。窓ガラスの震える音。枯枝のきしみ合う音。風が強い。国道を越えてむこうの畑へ黄色い光が伸びている。ロベールの書斎の灯だ。世界はそこで閉じられている。空も地平も黒々と迫る壁のようだ。

 眠らねばならない。朝は早いし、子供たちを車で送っていかねばならない。キキは幼稚園(エコール・マテルネル)、ベルナールとカッチは小学校(エコール・プリメール)。フランソワは休ませたほうがいい。アンニイはベッチュンヌの中学校(リセ)。ベッチュンヌまで往復二十六粁。それからロベールの朝食、病院の洗濯場へ出す衣類の区わけ、食器の片づけ、手伝いのマダム・シャニヨンが来るまでに買物と掃除と暖房の石炭の量をメモしておく。九時に病棟へ行きロベールの新患診察に立会う。忙しい朝だ。どうしても眠らねばならない。

 胸さわぎがする。エスナール神父は昏睡状態だ。キキの洗礼をなさったとき神父はまだ矍鑠としておられた。奇蹟の九十歳と人は言ったものだ。下の書斎に一本の電話がかかる。それで神父はみまかったことになるのだ。フランソワとベルナールは悲しむだろう。二人とも神父の侍童なのだ。本当に心の底から《おじいさま(グラン・パパ)》を慕っているのだから。

 フランソワが女の子だったらよかったのに。本当にあの子は美しい。性質だって女の子のようにおとなしい。弟のベルナールと喧嘩しては泣かされてしまう。でも男の子なんだからもっと強く育てなくちゃ。どうしたらいいかしら?

 ベルナールの乱暴者! いつも騒動をおこす。知能指数は百七十なのに学校の成績は下の下だ。落着きがないからだ。ふわふわしてじっとしていられない。勉強してるかと思うと歌を唱っている。だけどロベールはベルナールを叱りすぎるんじゃないか。あの子は音楽に才能があるんだ。この頃のピアノの上達ときたら目覚しい。そろそろギヨーム先生でも手におえなくなってきている。田舎にはいい先生がいない。パリへ行きたい。そのためにはロベールが試験にパスしなくちゃ。あら、やっぱりロベールは正しいんだわ。

 スザンヌは眼を開いた。白い粉が渦をえがいて光にたわむれている。雪だ。数日前の雪が雨で半分溶けたと思ったら、また雪だ。雪か雨、たまに晴れると霧だ。毎日暗くて湿って寒い。夜と昼とのけじめが曖昧なのだ。一日中暗くて夜のようだ。春が待ち遠しい。

 ああ春! 春だけだ。田舎にいていいなと思うのは。新緑の森や牧場、ポプラ並木。めくるめく光、花々、蜜蜂、蝶、それから透明な風にのった海燕。どこもかしこも子供たちの恰好な遊び場になってしまう。

 キキはここで生れた。《大地に足がついている》丸々と肥ってきかんぼうだ。父親ゆずりの《爆発》をやらかす。いっだったか、マダム・シャニヨンの手に噛みついたことがあった。階段で「タンタンとミルーの冒険」をみていたときマダム・シャニヨンがちょっと絵本の端に触ったというだけのことなのに。いつもは茶目でひょうきんでお喋べりの子が、ああなると狂暴だ。こわいみたい。顔中血だらけにして床にころがり、手当り次第のものをなげつける。

 キキと対照的に、カッチは《空気の中にいる》。あの子のオハコは《忘れもの》だ。帽子、手袋、外套まで忘れてくる。いつもぼんやり何か考えている。みんなと遊ぶより、ひとりぽっちで芝生の真中や運河の岸辺で、雲や水をみながらじっとしているのが好きなのだ。あの子の目が清らかなのはそのせいかしら。長い睫毛と黒い瞳はロベールにもわたしにもない。不思議な子だ。

 そこにいくと、姉のアンニイは何もかもわたしにそっくりだ。聖体拝受のときみていてどきりとした。わたしの記念写真と瓜二つなのだ。それでつい涙を流してしまった。いとしくてかわいくてただもう泣いてしまった。性質だってそうだ。炊事や裁縫が好きだし、わたしに似て難しい議論が大嫌い、ロベールやベルナールやキキが、エニヨン式の狂躁を演じても、感染もせず、ひっそりとしている。そんなところが弟や妹たちの信頼をえている理由なんだろう。

 風がやんで、垂直の雪が霏々と降っていた。大雪になりそうだ。明朝ベッチュンヌまでの道が心配になる。スザンヌは昨年の暮の大雪でダンケルクにとじこめられたときのことを思い出した。パドカレ県医師会の例会にロベールと一緒に車ででかけたところ積雪で道路が遮断された。汽車も不通であった。両親が帰らないので不安がる弟や妹たちを寝つかせるとアンニイは電話機の前でひとり徹夜した。翌朝やっと電話の回線が修復された。両親の無事な声をきいたアンニイは安心してベッドに入った。しかし、そのまま発熱し二週間ねこんでしまった。寒さと極度の緊張のため気管支肺炎にかかったのである。

 子供たち! わたしの子供たち! スザンヌは幸福な溜息をもらした。そうして平和な沼地の底におりていくように眠りに沈んでいった。遠くで電話が鳴っていた。神父がみまかったなとスザンヌは意識の片隅で感じた。

   

   8

 

 内勤医宿舎(アンテルナ)の食堂である。

 ブノワは白衣をきたまま、大柄な体を前こごみにし両手をこすり合せ、靴音高く歩きまわっていた。

「寒い。寒いなあ。畜生、ベカールのやつ夜になると石炭のたき惜しみだ。ええい畜生!」そうして生ぬるいスチームパイプをたたき、もう何回もひねってみたバルブを腹立たしげにひねった。

「なんてことだ。こんな寒い夜に当直医だなんて、ついてないよ。エスナール神父が朝までもちゃ、ぼくは徹夜しなくちゃならん。ぜんたいだ、医長は当直免除で内勤医だけにその義務があるってえ規則はどこのどいつがつくりやがったんだ。ええい。このスチームぶっこわすぞ」

 ソファに腰かけていたコバヤシがふきだした。

「静かにしろよ。下でベルナデットがヒステリーをおこすぞ」

「かまわん! ベルナデットなんかくそくらえだ」 

 ブノワはそれでも急に足音を弱め、ついには立停り、渋面とともにどっかとソファに身を投げた。アンテルナは病棟の三階にある。二階までは病室だ。患者たちは九時に消灯だから、夜ふかしの多い内勤医と下の病室の主任看護尼ベルナデットとの間にトラブルが絶えないのである。

「なにか飲むかい? 暖まるよ。コニャック、シャルトルーズ、スコッチも少々ある」

「コニャックがいいな」

 ブノワは元気を盛返した。コバヤシは気さくに席を立ちすぐ一瓶かかえて来た。

「ええコバヤシ」ブノワは二杯ばかり流しこむと目をむいて顎をつきだした。「あわれなもんじゃないか我々内勤医は。医長からはしめつけられ、看護尼からは肘鉄を食い、院長からは信用されん。今夜の一件だってそうだ""」エニヨンは横柄だ。ドロマールは学識を鼻にかけ内勤医に恥をかかすことしかしない。しかも、あのお喋りのヴァランチーヌ婆さんの面前でだ。フージュロン院長にいたっては言語道断、医学のイの字も知らんくせに規則だ習慣だとぬかす。この病院から内勤医がいなくなってみろ。たちまち診療はストップ、院長は(くび)、そして医長連が当直だ。ざまあみろ。

 ブノワの怪気焔をコバヤシは当惑した様子できいていた。ふとそれに気がついたブノワは苦々しげに唇をゆがめ黙りこんだ。この男は外国人なんだ。内勤医が嫌になればさっさと帰国すればいい。いつでも逃亡可能な特権的状態にいる。だから諸事、落着きはらって傍観していられる。こののっぺりとした皮膚の内側がくせものだ。おれを軽蔑していやがる。ドロマールの前でのおれの失態の唯一の証人がこの男じゃないか。警戒したほうがいい。コバヤシはドロマールの信頼をえている。告げ口をしたって彼は傷つかない。なにしろ外国人なんだから。が、ブノワの本性として黙っているのは苦痛だった。何かを話さないと耐えられない。

「今、何時だい? 」ブノワは妙に気弱い感じの微笑をつけると、親しそうに言った。

「十一時十五分前」

「そう""」ブノワは髪を乱暴にひっかきまわした。突然、話題がなくなった。共通の話題がみつからない。ブノワは自分の生い立ちから、学校、軍隊、すべてをコバヤシに話しつくしていた。コバヤシからは日本の気候について、日本人の性格、東京、パリ生活について話をきいていた。同じ内勤医同士で、話題がないなんて退屈だ。ブノワはソファにコバヤシと並んでかけながら、仕方なしに沈黙したままコニャックをぐいぐい飲んだ。目の前には、このアンテルナがまだ病室として使用されていたとき、或る偏執病(パラノイア)の患者が描いたという奇怪な油絵が壁面全体にびっしりひろがっていた。毒々しい原色で精緻に表現された様々な姿態をとる裸体女の群像である。ブノワは、濃艶な孕女(はらみおんな)の陰部にはめこまれた亀頭形の瞼の中で開いている目を、あまりにも見馴れてしまい何の感動もおこってこない猥褻な部分をぼんやりと眺めた。彼は婚約者のアンヌが帰ってくる頃だと思った。

 アンヌ・ラガンはコバヤシと同じくドロマールの内勤医をしている。大学をでたての若い活動的な女医だ。今夜もリール大学神経科でネィラック教授の症例報告があるというので出かけたところだ。十一時過ぎには帰ると言っていた。

 ブノワはトイレに行くついでに廊下を隈なく偵察した。アンヌの部屋は暗いままだった。コバヤシの部屋の隣がクルトンだ。もちろん不在だった。勤務がおわるとクルトンは車に乗ってさっさと外出してしまう。行先は誰にもわからない。深夜のお帰りだ。時には朝帰りのこともある。すると今、内勤医宿舎(アンテルナ)にはコバヤシとおれの二人しかいない。ああ、ヴリヤンがいれば! ブノワは、今やアルマンチェールの医長殿に出世した親友の禿頭をなつかしんだ。

 次第にブノワは無遠慮になり、コバヤシのクールボワジェをがぶ飲みしだした。いつまで黙ってるんだ。この黄色人種め。何か喋ってみろ。こん畜生!

 待ちに待った女の靴音がした。アンヌだ。食堂のドアが開く。眼鏡をかけた背の高い女性が姿を現わした。

「誰かと思ったら、あなたたちなのね。まるで葬式みたいに静かにしていて」

「アンヌ。葬式だ。今夜は葬式だ。エスナール神父が死ぬんだぞ」

 ブノワはとびあがった。アンヌの外套をぬがしてやりながら、息をつく間もない早口でまくしたてた。足元がふらつく。舌がもつれる。なに、構うもんか。

 アンヌはたちまちブノワの調子に感応した。女である。好奇心の塊なのである。ブノワにきかせようとしていたネィラック教授の症例などはどこかへ消えてしまった。それで?まあエニヨンたら! ほんとうに? あのふとっちょのヴァランチーヌが司祭の健康のためにお祈りですって! あの尼さんよるとさわると司祭の悪口ばかり言ってたのよ。まあまあ! 

 ブノワは夢中になった。会話というものはかくあるべきである。大股で歩き、唾をとばし、腋臭(わきが)の強烈な臭いを発散させる。ベルナデットもコバヤシも糞くらえだ。

 彼は作り笑いをし、両手をすり合せ、老人じみた硬い歩調で歩き、猫なで声をした。

「さ。ドクトゥール・ブノワ。カーンフルとローべリンを皮下注して。さ。ヴァランチーヌ尼。強心剤の一式をお揃えになって」

「似てる! そっくりよ」

 アンヌが感嘆した。ブノワは有頂天になった。今度は堂々と胸をはり、コバヤシに荘重な会釈をした。

「院長。わたくしはここに悲しい知らせを持って参りました。われらの敬愛するエスナール神父は、実に脳血栓であらせられまする。神のおぼしめしにより、極度の重態であります。最新医学の全知全能をもってしても、神父の命脈は、あと三時間、いや数時間でございましょう」

 アンヌはけたたましく残酷に笑った。が、ふとコバヤシのきょとんとした顔をみて笑いやめた。自分の不謹慎さに気がとがめたらしい。ブノワはコバヤシを憎んだ。この外国人はおれの話がわからなかったのだ。文法とおりの構文で、ゆっくり話してやらないと、ききとれないのだ。

「ちょっと! 雪」アンヌが窓を指さした。

 礼拝堂横の街灯の下に白い粉に飾られた限るい円錐型ができている。冬芝の垢抜けた緑が雪に点々と消されていた。礼拝堂のシルェットが棺のように黒い。

「また雪なのねえ」アンヌが飽き飽きだというように首をすくめた。

「寒いと思ったよ。ベカールのせいばかりじゃない。冬の責任だ」ブノワが後からアンヌの肩を抱きながら、しんみりと言った。

「スチームがとまったようだ」コバヤシがパイプに掌をあてた。

「オーララ。殺人鬼ベカールだ」ブノワはコニャックの最後の一滴を飲みこんだ。瓶に半分ほどあったのをほとんど彼一人で飲んでしまったのである。コバヤシはグラスに三杯、アンヌはほんの一口飲んだだけだった。

「イヴ。エスナール神父はほっといていいの? 」アンヌが心配げに言った。

「大丈夫だ。ヴァランチーヌが付添っている。何か重大な変化があれば電話してくれることになっている」

 ブノワはソファに伸びていた。するとアンヌが叫んだ。「イヴ。なにかあったらしい」ブノワは窓によろよろとしがみついた。

 礼拝堂裏の小路を、ちょうど司祭館の方角から、看護尼の黒い集団が移動して来た。降りしきる雪の中で風に煽られる裳裾をおさえながら、霊柩車のようにゆっくりと滑ってくる感じだ。やがて街灯の円錐光の下に来た。顔が見分けられる。マリー・ジュリア、ジュヌヴィエーヴ、ベルナデット、エリザベート、マドレーヌ、モニック""病棟主任の尼さんばかりだ。何だ。ベルナデットは下に居なかったんだ。だったら遠慮することはない。ブノワは巨体でとびあがるとドスンと思いきり床に靴音をたてた。くそ、ベルナデットめ!

「およしなさい! 」アンヌが叱責した。「あれだけお歴々がかたまってどこへ行くのかしら。何かあったんだわ」

「大方、集会所(コムユノウテ)で病気快癒のお祈りでもしようてんだろ。電話がかかるまでは、こっちには関係がない」

「でも、もし電話が今かかったら? そんなに泥酔してでかけたら醜態よ」

 アンヌはブノワの靴をぬがせ、ソファに横にさせた。タオルで額を冷やしてやる。毛布を運びこむ。「いいわ。わたしも一緒に徹夜するから」彼女はいそいそと世話女房の役をつとめた。

「今、何時だい? 」ブノワがつぶやいた。

「十二時半」相変らずコバヤシは柔和な《神秘的な微笑》を浮べて、おとなしくひかえていた。

 と、唐突に、電話が鳴り響いた。「メルド!」ブノワは驚くべき素早さで受話器にとびついた。

「ヴァランチーヌからだ。神父様が意識をとりもどし、きわめてお元気に葡萄酒を一口めしあがったとよ」

 ブノワはソファに倒れるやあっという間に正体もなく寝こんでしまった。

 

 

    第二章 聖 夜

 

   1

 

 エスナール神父の病気は、一週間ほど人々の噂の的となった。司祭館を中心に看護尼たちが足繁く出入する様や、主治医であるドロマールの奇矯な振舞や、フージュロン院長やベカール主任の沈痛な表情や、話すべきこと伝達すべき材料には事欠かなかった。

 しかし、神父が、その痩せ衰えた体を杖にすがって歩行練習をはじめた頃から、噂は急速に下火になった。新しい話題が、刺激が、行事が近づきつつあった。クリスマスである。

 フランドル地方というのは、《槌でたたいたような》と形容されるほど平坦な低地である。甜菜畑と牧場と沼と森を縦横の運河が結んでいる。北の英仏海峡から吹きこむ強い海風は低地をひとなめすると南のアルトワの高台へと吹抜けて行く。雨が降れば道や田園を没する洪水となり、夏は雷雨が荒れ響き無数の羽虫(ベート・ドラージュ)が群がりとんだ。そして冬は、濃霧と長い長い夜である。その陰湿で荒々しい風土の中に、田園と森に囲まれた県立サンヴナン精神病院の古風な赤煉瓦の建物が、何か中世の城塞か牢獄のように冷々と孤独に立っていた。

 十二月のこの頃となると、日は極端に短かくなる。午前九蒔にはまだまっくらで、電灯のもとで朝の仕事が始められる。しかも午後三時には早くも夕闇が迫ってくるのだ。それでも、地平線のわずか上に、赤茶けた恥ずかしげな太陽が顔を出す日はまだましで、大抵は低い部厚い雨雲が垂れこめているか、絵具のような灰色の霧が視界を閉している。終日夜のような日々が重苦しく続くのである。そんな暗い単調で退屈な冬の唯一の気ばらしがクリスマスであった。

 その日は、夜来の糠雨が降りやまず、院内の枯枝を貧寒と黒光りさせていた。午後には雨があがった。日暮とともにひどい寒さが襲ってきた。

 入浴中のブノワは浴槽の汚水が流れて行かないことに気がついた。冬には時々みる現象で、排水口が凍結したためなのである。こんな場合、熱湯を勢いよく流してやると氷がとけることがある。ところが、全開にしようと力一杯ひねったところ、コックがポロリと捩じ切れてしまった。

 もうもうたる湯気と轟音をあげ、太い熱湯の束が噴出してきた。たちまち浴槽からタイルばりの床に湯が溢れ落ちた。具合の悪いことに床の排水口も凍結してつまっていた。熱湯の洪水は浴室から廊下へと水脈を伸してきた。

「おお!」と吠えるとブノワは濡れた体にガウンをまきつけ助けをもとめに走った。

 アンヌ・ラガンはキッチンにいた。ちょうどクリスマスの料理づくりに熱中していたところである。

 こんな火急の折、アンヌという女性はけっして騒がない。てきぱきと要領よく事を処理するのである。

 モップと雑巾を動員し浴室の敷居の隙間をつめて洪水を塞止めるや、どこからか長靴と針金を探しだしてきて勇敢に浴槽に近付いた。しばらくすると、手応えがあり、ぐびぐびと下品な音をたてて湯水が流れはじめた。ついで、電話で病院の機械工にコックの修理を依頼した。

「アンヌ、君は素晴しい女だよ!」

 ブノワは大きな腕でアンヌの細長い体を抱いた。それから急に憤懣をベカールに向けた。

会計主任(エコノーム)の責任だ。冬になれば排水口が凍るなんてことは、ほんのちょっぴり科学精神があれば予測可能なはずだ。医長公舎でやってるように鉛管に防寒帯をまくのが当然じゃないか。内勤医宿舎(アンテルナ)だけは、いつもあとまわしだ。いいかね。院長邸も医長公舎もちゃんと車庫を持っている。われわれ内勤医だけが車庫なしだ。おかげで車は傷むし、朝はチョークをひっぱっても発車するどころじゃない""」

「風邪ひくわよ。あなた、素裸(すっぱだ)かなんでしょう」アンヌは笑った。

「おお」ブノワは浴室へとびこみ、着物をきかえて出て来た。アンヌはキッチンで小まめに働いている。そうだ。クリスマスだった。アンヌと二人だけの""

 コバヤシは看護婦のニコル・デュピベルとどこかへ出掛けた。多分、ニコルの住んでいるベッチユンヌの素人下宿(パンシヨン・ド・ファミーユ)に泊りに行ったのだろう。クルトンはエニヨンに招待されている。今夜は久し振りにアンヌと二人だけの内勤医宿舎(アンテルナ)だ。わざとおれは当直をかってでた。クリスマスを祝いながら当直費(わずかなものだが)をもらうというのは悪くない。

「アンヌ」ブノワはアンヌのほっそりとした肩を後から抱いた。「来年、ぼくが試験に通ったら、こんな場所はおさらばだ。豪勢な医長公舎で君とクリスマスを祝えるんだ。そのうち君だって試験に通る。すると素敵だぞ。二人で二つ公舎がもらえる。ああ、そうなったらどっちに住もうか。アンヌ、こっちを見てごらん」ブノワは、女の乳房に手をすべりこませ、振向いた顔におおいかぶさって接吻した。

   

   2

 

 スザンヌは書斎をそっと覗いて嘆息した。ロベールはもう六時間も机に齧り付いたままだ。クリスマス前夜の、この忙しい最中だっていうのに! 

 少しは手伝ってくれればいいんだ。どこの家だって生牡蠣の殻をあけるのは男の仕事だ。地下室で葡萄酒の銘柄を選び、それを運びあげる。瓶を拭く。十四人が坐る位置をきめ、テーブルを適当に移動させる。教会への寄付金の額を考え、銀行から引き出してくる。いくらだって仕事があるのだ。ロベールときたら全部わたしにまかせっきりだ。あのまま深夜ミサの直前まで動かないつもりらしい。

 ピアノの音がきこえる。ベルナールだ。

「ママン!」カッチが呼んでいる。スザンヌは、戦場のような騒音の広間に行った。

 クリスマスツリーの置き場所で、ベルナールとキキが喧嘩をした。キキは床の上にころがってありったけの声で泣き叫ぶ。ベルナールは知らんふりでピアノをたたいている。カッチが暖炉の下に並べた靴(贈り物を置くための)をみせようとスザンヌの腕をひっぱった。フランソワが余った宿り木をどうするかききにくる。台所からエプロン姿のアンニイが走ってきた。「ママン! 天火の雁料理(オワ・ド・ノエル)が焦げそうよ」

「静かに!」スザンヌは悲鳴をあげた。まるで狂った手回し風琴(オルグ・ド・バルバリー)だ。びしびしと一人一人に命令を下す。秩序が戻って来た。わたしは母親なのだ。スザンヌは五人の子供たちに対する自分の力を誇らしげに思った。

 玄関の鈴がなった。

「クルトンだ。ママ。クルトンだよ」

 ベルナールが歓声をあげた。子供たちがわっとあとを追っていく。

 両腕を子供たちに引張られたクルトンが、広間に登場した。

「少し早いかと思ったんですが、暇なもんですから、お手伝いでもしようかと参上しました。どうせぼくは深夜ミサに出ませんから、時間はたっぷりあります」

 気にいらない。全然気にいらない。のっけから、しかも子供たちの前で、深夜ミサに出ないことを言う必要がどこにあろう。スザンヌは会釈しかけた顔をこわばらせた。

 まるで重病人だ。気味の悪いほど痩せている。どす黒い薄っぺらな皮膚が、じかに頭蓋骨に貼りつき、頬骨と眼窩を解剖学の標本さながらに際立たせている。瞳の色もわからぬほどひっこんだ暗所から小さな鋭い目が光る。それは、なにものをも射透し破壊してしまう、危険な無頼の目なのだ。スザンヌはぞっとした。

 しかし、今夜、クルトンはお客様なのだ。それにわざわざ手伝いに来てくれたのだ。スザンヌは、精一杯の努力で愛想をみせた。

 さあさあ、どうぞ。ドクトゥール・クルトンには生牡蠣の蓋とりをしてもらいましょう。それがおわったら、ベルナールのピアノをみてやって下さいな。あの子は今夜、皆様の前で聖歌を伴奏することになっているんです。

 ところで、わたしはベッチュンヌまで買物に行かねばならない。キャビア、ロックフォール""今頃になって足りないものが沢山出てきちまいまして。

 クルトンは頷くと、針金細工のようにふらふらと頼りなく奥へ消えた。台所で子供たちの黄色い声が今迄にも増して甲高く響いた。どうしたことだ、子供たちのあのはしゃぎようは。機嫌の悪かったキキまでがまるで嬉しそうに笑いころげている。あんな男のどこが子供たちに好かれるのか。とにかく不思議な男だ。

 車の中でスザンヌは決心した。クルトンにネクタイをさせよう。ロベールの絹の嚥脂のが、あの背広に似合うだろう。ネクタイもなしにクリスマス・イヴの晩餐に出すわけにはいかない。今夜は服装にうるさいジュール叔父と気むずかしいギヨーム先生がみえるのだ。でも""スザンヌは真剣に心を痛めた。どうやってあの男を納得させたものだろう?

   

   3

 

 カミーユは人差指の先にフィリップの柔らかい掌を、子供の懸命な握力を感じながら歩いていた。彼女の皮手袋の湿った内側を、フィリップの毛糸の手袋の外側がまるで強い輪ゴムのようにしめつけている。

「痛いよ」

 カミーユは下の方の子供をのぞきこんだ。フィリップの顔は闇の中に半分融けていた。

「痛い。痛い。この子は」

 けれどもフィリップは、彼女の指をぎゅっと握りしめたままだ。彼女が足を早めると、子供は伸びあがってひきずられてくる。そして、彼女の指は抜けそうに痛む。その痛みが彼女と子供を結びつけているのだ。

 大広場(グランド・プラス)は家々の窓から落ちる複雑な光を受けて薄明るかった。彼女が進むと交錯した自分の影が舗石(しきいし)のゆがみに応じて伸縮した。歩けども歩けども自分のいるところだけが執念深い闇にとざされているように思えた。

 広場の中央には十四世紀の鐘楼(ベツフロワ)が、儀式めいた照明を浴び白々と光っている。その頂上の時計の金文字が、これ見よがしにきらめき、ついさっきまで雨を降らせていた雲が地上の明るみを映して砥石色の腹を曝している。そうして、教会堂の尖塔までが大きな白十字のイルミネーションをつけている。クリスマスの演出なのだ。すべて人々の真面目くさった習慣は今のカミーユには喜劇にみえる。クリスマスこそは最大の喜劇なのだ。

 カフェやレストランの前に黒くざわめいている群衆をカミーユは苦苦しげに見た。喜劇、喜劇と彼女は心の中で繰り返した。そして、繰り返すたびに、言葉は意味を稀薄にし、咽喉の奥で乾いた痛みのようなものに変っていった。

 町役場と銀行の脇を抜け、中学校(リセ)の前に出た。

「ほら、クリスマスツリーよ」

 カミーユはフィリップをひっぱって近付いた。大きな縦の木に、紅白の紙風船と七色の電灯が安っぽく華美にまきついている。

「フィリップ。クリスマスツリー。お前これが見たかったんでしょう」

 子供が小声で何か言った。カミーユは腰をかがめた。

「寒いよ」

 フィリップは鼻をすすりあげている。全身をがたがた顫わしている。寒いのを我慢して、あんなにきつくわたしの指を握っていたのだ。カミーユは子供を抱きあげた。骨ばった子供の肉体は軽く頼りない。さっきまで指にかかっていた重みが信ぜられないほど軽い。この子もクリスマスツリーより暖みが欲しかったんだ。わたしと同じだわ。カミーユは子供をぎゅっと抱きしめた。フィリップはくすぐったがって笑声をたてた。

 安デパート(ユニプリ)は、軽薄なガラス槽で、売物の熱帯魚みたいに人々が右往左往していた。入口でビニール前掛の親爺が生牡蠣の殻を威勢よくあけている。さあさあ、マレーヌ、サン・ジャック、アルモリカン、カンカール。大特売。おあとが少いよ。

「マレーヌを一ダース」

「殻をあけますか」

「いいわ。いれものを忘れたから」

 紙包を受けとるとカミーユの腕は両方ともふさがった。どのカフェも満員だった。数軒歩いたすえ、やっと窓側に空席をみつけた。

「なにが欲しいの。シトロンプレッセ、チョコレート?」

 フィリップは不安げに彼女にしがみついていた。あたりの喧騒にすっかり驚いたらしい。子供が答えないので、カミーユは立ち去って行くガルソンの背に注文した。

「コーヒーとチョコレート」

 カミーユはハンケチで子供に鼻をかませた。突然子供が彼女の手をつかんだ。

「ママ。帰ろうよ。お家へ帰ろうよ」

「待ってなさい。いまチョコレートが来るから」

 子供はむずかり始めた。眠いのだ。あくびをしては涙を流している。カミーユは子供を膝の上にのせた。ガルソンが来たときフィリップは眠りこけていた。

 わたしの子だ。わたしに似て髪が黒い。恰好のよい鼻と、真中でくびれた顎はわたしの血を受けている。あとは""あの青年のもの""六年前に去って行った他人のものだ。フィリップはほんの少しわたしのもので、あとは他人のものだ。それなのにわたし達は二人ぼっち。この子は不幸になるだろう、わたしのように。

 シャンペンの栓が天井にはねた。カミーユはフィリップを守るように抱き寄せ、顔をしかめた。嫌らしいお祭り騒ぎだ。

 お祭ってのは妙なものだわ。ずっと昔からそうすることになっているから、人々もそうするだけ。人が騒ぐから自分も騒ぐ。人が飲むから自分も飲む。すべてそうだ。人が結婚するから、人が神を信ずるから。すると死もそうかしら? 人が死ぬから""

 カミーユは燻るようにうごめいている人々を見た。酔いしれている坑夫たち、農夫たち、ポーランドとイタリーの移民たち。若い独身男ばかりだ。気がついてみるとカフェの中にいる女性は彼女一人だけだった。カミーユは男たちの、汗と脂じみた荒っぽい臭いを窒息する思いで嗅いだ。

 何かが顔をなぜた。ちぢれ毛の青年がちらりと視線を送っていた。カミーユはわざと挑戦的に青年を直視した。相手はどぎまぎとまばたきして目を落してしまった。真赤になっている。まだほんの少年なのだ。

 あの目付。情欲にうるんだ特殊な目付。以前、ミッシェル・クルトンがあんなふうにわたしを見詰めていた。或る日彼が結婚しようと言った。「ただし完全に自由な結婚を。なに一つ誓約なしの結婚を」わたしは同意した。ミッシェルが入営する前のことだった。

「ここへいらっしゃい」カミーユは青年を誘った。青年は躊躇していたが、やがて思い切って席を移してきた。

「あなたイタリー人でしょう」

 青年は吃驚した。

「どうしてわかります?」

「ほらイタリーなまりだわ」

「なるほどねえ」青年はすっかり感心してカミーユに微笑みかけた。人の好い空色の瞳が澄んでいる。若々しい簡潔な皺が走る。

「弟さんですか」青年はフィリップをのぞきこんだ。

「わたしの子よ」

「これはどうも失礼しました」

 青年は顔を赤らめ、指輪のないカミーユの指に目を落した。カミーユは心の防壁が少しやわらぐのを覚えた。微笑""あら、わたしは微笑をしている。長い間忘れていた微笑の感覚が頬に心地よい。青年はあたりの熱気と騒動をもの珍しげに見廻していた。

「あなたは、この国ではじめてのクリスマスらしいわね」

「そうです」青年は、わるびれずに「ランスの炭坑で春から働いてるんです」と付加えた。

「それにしちゃフランス語がうまいわね」

「そうですか」青年は、心から嬉しげに厚い胸を張った。「毎晩、友達とイタリー語の交換教授をやってるんです」

「感心ね」

 カミーユは本気でそう言った。何とこの青年は若いことか。わたしはまだ二十五なのに、この青年がまるで自分の子のように思える。なぜだろう?

「あなたの故郷はどこ?」カミーユは努めて優しくたずねた。

「バーリです」

「ああ、ブリンディジの近くね」

「御存知ですか」

 青年は目を輝かした。あんなふうに目を輝かすことが、わたしにはもう出来ない。

「行ったことはないけど。わたしはまだ外国に行ったことがないのよ」

 カミーユの自嘲めいた言葉を青年は善意に解した。

「当然ですとも。フランスは素晴しい。自分の国だけで充ち足りた国ってのはフランスだけでしょう。ぼくの友達もそう言っていました」青年はフィリップに目を落した。「それにあなたには家庭があります」

「家庭?」

 カミーユの溜息をみて青年はあわてて言った。

「ぼく何か変なことを言ったでしょうか。だったらあやまります」

「いいのよ」

 カミーユは気重になった。この初対面の青年に何もかも打明けてしまいたい破滅的な気持。クルトンとの風変りな同棲生活。フィリップをアミアンの養育園にあずけて、二人で内勤医宿舎(アンテルナ)の一室に暮した。ミッシェルはやがて入隊した。今年の春帰ってきたとき、ミッシェルは心も体も見るかげもなく変っていた。もう、わたしを夜抱こうともしなかった。わたしはその理由を知ろうと躍気になった。そうして夏休み(ヴアカンス)がおわったとき、二人は別居することにした。自然にそうなった。理由は不明のままだった。カミーユは青年の心配げな顔をみた。駄目なのだ。こんな男に何もわかりやしない。

「こんなことをお訊ねしていいでしょうか」青年は文法に合った丁寧な言いまわしをしようとして、かえっておかしな条件法で言った。

「あなたは不幸でおられるかのようですね」

「"""""」

「わかりますよ。ぼく、これでも失恋したことがあるんです」

 青年は彼女をなぐさめようとしていた。その心情はよくわかる。が、見ず知らずの人をなぐさめるという行為はどこか滑稽だ。カミーユは殻を閉じた。殻の外を、相手の空虚な言葉が流れていく。

 青年は自分の恋物語をしている。幼稚なありふれた話。イタリーなまりがききづらい。

《別れて暮そう。どうせ、ぼくらは前のようじゃないのだから》ミッシェルはそう言っただけだ。彼が言わなかったら、わたしがそう言っただろう。わたしは理由を問いはしなかった。一緒になった時、理由を問わなかったと同じようにだ。本当は、その理由こそがわたしが知りたいことだったのに""

 窓の外を見覚えのある女性が歩いて行った。あら、スザンヌ・エニヨンだ。カミーユはガラスの曇りごしに大きな紙袋と毛皮の外套を認めた。子供たちへの贈り物かしら? 多分そうだ。わたしはフィリップに何も買ってやらない。クリスマスに贈り物をする習慣などわたしとは無縁なのだ。この点ミッシェルも同じ意見だった。誕生日の贈り物、結婚式、指輪、教会、儀式、すべてまじめくさった事柄を道化芝居とみなしていた。その彼が最大の喜劇である戦争で重傷を負うなんて、なんという皮肉だろう。

 そうだ。ミッシェルに会おう。今夜のような気分のとき、わたしの気持を分ってくれるのは彼しかいない。

 カミーユは、青年の話半ばで立上った。

    4

 

 数分後、カミーユはベッチュンヌからサンヴナンに向う、曲りくねった田舎道を車でとばしていた。

 雨あがりで凍付(いてつ)いた道は滑りやすかった。用心深く運転する必要があった。

 ヘッドライトが農家の横腹を燃やす。それも一瞬で消え、あとは鉛のような闇が一条の白い細い道に切断されているばかりである。

 フィリップはすぐ横で眠っている。この無限に厚ぼったい海のような夜の底に、彼女と子供だけが弱々しく存在している。

 寒い。めったにないことだが暖房をいれるのを忘れていた。急にわきあがってきた暖い風に下半身が欲望に開くときのようにほてった。

 カミーユには自分の行動が自分でも不可解であった。ミッシェルと別居してから四ヵ月にもなる。その間一度として彼と会って話をしようとは考えなかったのだ。彼女は病院の家庭訪問員(アシスタント・ソシアル)をやっていた関係上、院内で彼を見かけることは屡々あった。二人の間には冷やかな目礼が取交されただけだった。

 サンヴナン教会の鐘楼が見えた。左手に病院の扁平にひろがる陰気な建物群が、今夜ばかりは窓という窓から華やいだ明るい光を溢れさせて、悦楽にふける貴族館のような軽快な姿と変っていた。

 村はずれの下宿へつくと、フィリップをベッドにねかせ、カミーユは再び車をかって病院へ向った。

 

 ミッシェル・クルトンの部屋は暗かった。しかしドアが開いていた。電灯をともすと、家具や衣類の雑然とした配列がカミーユを圧迫した。

 一見、見馴れた室内なのである。四カ月前とベッドや机や衣裳戸棚の位置も変っていない。が、いたるところにヤモメ暮しの痕跡があった。

 シガレットの吸殻が山盛りの灰皿、挨をかぶった空瓶の林立、液体の残ったコップ、古新聞紙の散乱、ベッドの上のよごれた靴下やシャツ、床に投げだされた泥まみれの三足の靴。

 カミーユは衣袋戸棚を開いてみた。ここも乱雑きわまる状態だ。外出用の背広と靴がない。

 出かけたんだわ。でもどこに行ったのかしら。

 考えてみた。しかし心当りはなかった。復員以来ミッシェルは夕方まで病棟にい、タ食も食べずにどこかへ出掛けるのが常だった。深夜必ず酔って帰る。女のところかと疑ってもみた。その可能性はたしかにあるのだが、なにしろ帰ってくるなり眠りこけ、朝はきちんと出勤してしまうのできくこともならなかった。ところが、日曜日や祭日には終日部屋にこもっている。具合の悪いことに、わたしは日曜と祭日はアミアンの養育院までフィリップに会いに行かねばならなかった。ミッシェルは巧妙にわたしを避けていた。

 カミーユはミッシェルのワイシャツを手にとり襟首の汚れに鼻を近付けた。《彼の匂い》がし、不意に陶然とした欲望が乳房を脹らませた。

 ミッシェル。わたしまだあなたを愛しているのかしら?

 カミーユは首を振ると残り惜しげにワイシャツをそっと置いた。別れるとき、あなたは別に強制はしなかった。あのときわたしが嫌だといえば、二人の関係は今迄どおりに続いていたのに""

 廊下に出た。左右の部屋の明りはすべて消えて人気もない。中央の食堂だけが光を洩らしていた。忍び足でドアの前に行き耳をすます。しんとしている。しかし誰かの気配がする。

 カミーユはいきなりドアを開けてみた。ソファの上でブノワとラガンが抱擁していた。

「失礼」カミーユはドアを閉めた。

「いいんだよ。マドモワゼル・タレ。どうぞ」

 ブノワがソファから脱けだしてドアを開いた。さばけた態度である。唇に拭き残りのルージュがついていた。

「なにか用?」ブノワは女性に対するとき彼が慣用する、妙に馴々しく粘っこい笑顔をつけていた。

「別に用じゃないの。ちょっとそこまで来たんで寄っただけ」

「クルトンかい? 彼ならエニヨン家へ出かけたよ。御招待でね」ブノワは哀れっぽく喋り始めた。「彼は御招待。ぼくは当直。人生はままならずさ。どう中へ入らない? ちょうど退屈していたところさ」

「いいわ。わたし行くところがあるの」カミーユは室内に眼を注いだ。アンヌ・ラガンはソファから起きあがり髪の乱れを直している。テーブルの上には沢山の料理がこれ見よがしに並べられている。

 ブノワは声をひそめ、カミーユの好奇心をひこうとした。

「ところでね。今夜は一騒動もちあがるぜ」

「どういう意味?」

「クルトンさ。彼はエニヨンみたいな人間が大嫌いだ。自分でも常々そう公言してただろう。だから、きっとあそこで一騒動もちあがるってわけさ」

「あなたにはそれが面白いの」

 カミーユは思わず声を荒げた。ブノワは、たじろいで弁解を始めた。

「面白くはないさ。厳粛な問題だ。いくらクルトンだって、エニヨンを相手に決闘したって勝目がないからね」

「決闘? 彼は招待されてるんでしょう」

「それはそうだ。それはそうだ。だがただではすみそうもないね、わかるだろう""」

「イヴ !」潮時とみたかアンヌが呼んだ。

 ブノワは首をすくめた。

「ねえ。マドモワゼル・タレ。悪く思わないでくれよ。ぼくはただ、あなたとクルトンとが""」

「別れたわよ」

「そう別れた。だから、彼のことを怨んでると""あ、ごめんよ""じゃ""」

 ブノワはあとをごまかし、そそくさと会釈してドアを閉めた。白豚め! カミーユは憎悪をこめてドアを睨んだ。

     

    5

  

 礼拝堂はひっそりとしていた。無彩色の壁と柱、尖った高い穹窿、それらに区切られた人工の空間に衛生的な白っぽい光が充ちている。脇間にしつらえられたニメートル四方ばかりのキリスト降誕のクレーシュのところだけが、赤と黄の祭めいた色で際立っている。誰かが、咳をした。祭壇の下に、黒い箱のようにかたまった看護尼たちがみえる。二階の聖歌隊席にも若い尼さんたちが行儀よくおさまっている。彼女たちの息が不規則な白いリズムを描いている。寒い。底冷えのする寒さである。

 翼堂の右端、大きな柱の蔭でカミーユは放心した目を開いていた。祭壇の金の十字が視野の中心でぼけている。静寂と寒気が身をつつみ、時間も空気も凝結したようだ。いつまでもそうしていたい気持。

 ミッシェル。わたしまだあなたを愛しているのかしら?

 何度、そう問いかけ、この想念を反芻したことか。しかし答はなかった。クェスチョンマークの先は空っぽだった。まるでこの礼拝堂のように空虚な世界。「愛するだって? おれを憎むこともできない、憎悪のひとかけらも持たない女が愛するだって?」ミッシェルはそう答えるだろう。彼には彼なりの理由がある。わたしには、ついに理解できなかった哲学がある。

 追々に堂内が騒がしくなった。看護婦に引率されてきた患者たちが命令どおり順次に着席していく。珍しげにクレーシュのほうを指さし、職員の家族たちのほうを振返ってみている。網にかかって突然外光の中にひきだされた魚たちのように落着かない。ふと、カミーユは患者たちをうらやんだ。何年も何年も、時には一生の間、壁と鍵の中に拘禁される。医者は変り、看護尼は交代しても、いつも同じ空間のさなかで平安に生きていく。ちょっとした単純な操作、つまりあきらめるということでわたしは患者たちと同じ平穏で安全な状態になれるのだ。それができないから苦しい。いらざる自由などを求めるから、人生は面倒で苦しみ多きものとなる""

 カミーユは自分がいつのまにかミッシェルと同じようなものの考え方をしていることに気がついた。

 ばかだったわ。わたし。ミッシェルが深夜ミサに来るわけがない。カミーユは柱から離れた。そして、聖堂に流れこんでくる人々の混雑に逆らって、外へ抜け出た。

 正面前の広場(フアッサアド)は蒼白い水銀灯に照らされていた。ベカールの発案で、今年から芝生の上に四基のスポットライトを備えつけ、擬ゴチックの礼拝堂が夜空に白々と浮きだす仕組になっていた。そこは、いわば急造の集会所で、病院の主だった人々が正装して、白い息を吐き合いながら、ミサの始まるのを待っていた。いつだって主だった人々というものは時間間際に入場するものなのである。

 アンヌと連立って来たブノァは、目敏くドロマールの姿を探し出した。シルクハットにフロックコートという仰々しいいでたちで一番明るい石段の下に倣然と立っている。立話の相手はフージュロン夫妻だ。院長の後には、いわずもがなべカールの狒狒顔がみえる。

「みたまえ。劇的会見だ。エニヨンが来たぞ」ブノワはアンヌの注意をうながした。

 太り(じし)で禿げあがったエニヨンはとても三十六歳の少壮とはみえない。悪い右脚をひきずり、杖に頼った稚拙な足取りが、かえって堂々とみえる。ドロマールはフージュロンと別れ、エニヨンのほうをむいた。エニヨンが到達するまでの一呼吸にさっと右手の白手袋をぬぐ。握手。それはまさしく劇的な会見である。二人のライヴァルはアーチの真下で意味深長な会釈を交す。

「アーメン」とブノワが言った。アンヌはブノワの腕をぐっとひいて身をすり寄せた。

「みたかい。え。みたかい」ブノワは興奮して声を上擦(うわず)らせた。そして、羨望と野望に胸をふくらませた。来年こそは、おれも彼らの仲間の一員となってみせる。

 小柄な女が足早にすぐ脇をすり抜けて行った。ブノワはそれがカミーユ・タレであることを知ってはいたが、故意に無視した。それどころではないのだ。

「あの(ひと)、今夜どうかしてるんじゃないかしら。ばかに思いつめた様子よ」と、アンヌが不審そうにつぶやいた。

 

 十一時四十分。パイプオルガンが朗々と響きわたった。聖歌隊の看護尼たちが一斉に唱い始める。聖堂はすでに満員であった。

 十一時五十分。晴れやかな《しずけき》のコーラス。火を捧げ持った二人の侍童が現われる。エニヨンの息子、フランソワとベルナールである。赤い衣に白の短衣(スペルペリチウム)を着て、誇らしげに上気した顔を仰向け、六本の蝋燭に火をともした。

 十一時五十五分、鐘が鳴る。連打である。村から町へ、田園から夜空へ、サンヴナンもベッチュンヌもパリも、フランス中が鐘の祝福を受けている。負けじとパィプオルガンも音を高める。国中のコーラスが唱い出す。

 

 しずけき まよなか まきの みそら

 たのしくも きこゆる みつかいの""

 鐘が鳴りやんだ。午前零時。すべての人々が息をひそめる。深夜ミサの開幕である。

 侍童二人に先導され、金の十字を縫いとった白い祭服(カズラ)のエスナール神父が、老齢と病気を克服した奇蹟の翁が、典礼を行いに現われた。

 ミサは浄福であった。人々は日頃の恩讐を忘れ、神の前に平等な小羊となった。エスナール神父こそは、この聖なる集りの中心としてふさわしい人であった。神父はこの古い名誉ある病院の年輪であり樹皮の深い襞であったから、そして、院長・医長・内勤医・看護尼・看護婦・職員・患者、これらすべての人々の敬愛を一身に集めていたから。

 ところが、司祭の説教の時になって椿事がもちあがった。説教壇に立ったエスナール神父がいつまでも沈黙したままなのである。会衆はしばらくは静粛を保っていたが、次第にざわめき始めた。

 神父は説教台を両手で持ち、目をつぶってうつむいていた。皺だらけの顔面は土気色にゆがんでいる。もしやまた発作が? 人々の懸念が高まった。神父が倒れてしまう。あの高い壇の上からころげ落ちる。と、異様な音が壇上からもれてきた。鼾である。人々はしんと鎮まりかえった。ゴー、ゴーと野放図な鼾が室内をゆるがした。司祭は眠っておられる。いや、発作をおこされた。

 フージュロンの合図でドロマールが立上ったとキ、侍童の一人が壇上へ敏捷に駆け登っていた。ベルナールである。手を伸ばして神父の肩をたたこうとしたがとどかない。で、決心すると祭服(カズラ)をはねのけ長白衣(アルパ)の上からお尻を思いきり抓ってみた。エスナール神父はびくりと身震いすると眼を開き、ベルナールに微笑みかけた。

「ありがとう。わが子よ」

 司祭の説教が続けられた。発音が不明瞭でほとんどききとれない。が、それはいつものことだ。謙譲と寛大さから人々は暖い気持で耳を傾けていた。とくにスザンヌは、神父の後で神妙に頭を垂れている小さなベルナールを見ながら、わけもなく涙ぐんでいた。

 

 ""聖なるかな永遠の聖父の聖子を孕みたまいし童貞マリアの御胎、福なるかな今日世の救いのために童貞女より生れ給いし御主キリストの吸いし乳房よ""

    6

 

 氷のように硬く重い空気を全身で受とめているかのようにカミーユはゆっくりと歩いた。なつかしい音が彼女を誘っている。が、そこへ近付くのが怖いのである。ピアノの音に合わせて誰かが唱っている。

 エニヨン邸の裏木戸をくぐったとき、もはや疑う余地はなかった。ミッシェルの声だ。そうっと庭へまわった。テラスの柱に匿れ広間を盗み見た。ミッシェルがピアノを弾きながら独唱していた。

 あれがミッシェルだろうか。別人のように若々しい。といって、アルジェリアに行く前の彼ともちがう。はじめて見るミッシェルなのだ。可愛相なほど痩せているくせに、どこからあの力が、優美な活溌な手の動きが、豊饒な音楽と張りのある声がとび出してくることか。燃える目、削いだように鋭い鼻先、刃のような薄い唇。それは燃えつきようとする火の最後の輝やきのような苦悶と恍惚に彩られている。それはいつか画集で見たカンポ・サントの崇高な死神のようだ。

 カミーユの心で何かが弾じけた。何かが冷々とした夜気のようにひろがった。それを言葉で言おうとすると霧散してしまうような何かである。わたしはあなたを愛していた、今もいる。しかし""その先の言葉。いつか回復した精神分裂病者に会った。彼女は中学校(リセ)の自然科学の教員(プロフェッサー)だった。「前にわたくしが気狂いであったということ、それを自覚しなければ現在わたくしは正常な人間とはいえません。しかし""」あの《しかし》である。あの絶望と恐怖におののく目が雄弁に物語ったもの。理性のめまい。ミッシェルはそれをよく知っていた。

「カミーユ。君は考えすぎるのだよ。それが君の病気だ。君は病的に聰明だ」

 ミッシェルは弾き続ける。低音部を唱っている。暖い明るい室内の中で彼のところだけが陰鬱である。ただの陰鬱さではない。それは悲しみや涙を含まない。乾涸(ひから)びた砂漠の翳のような陰鬱さだ。色とりどりに飾りたてられた大きなクリスマスツリーや磨かれた銀器の並ぶ豪華な食卓を前にミッシェルは雄々しいほどの翳となって唱い続ける。

 ミッシェル。わたしあなたを愛しています。おそらくこの世でわたしだけがあなたを理解できます。

 カミーユはもう考えなかった。そう感じただけである。気がつくとテラスの窓を叩いていた。

「君か""」

 窓を開けてミッシェルが顔をだした。そう驚いた様子でもないが幾分照れていた。

「とんだところをみられたな」

「相変わらずあなた歌がうまいのね」 

 そう言ってみた。言ってみてはっとした。他人からの賞讃の言葉ほどミッシェルが嫌いな言葉はない。何か言うのが怖い。よく考えないと言葉がでてこないようだ。こんなことはミッシェルに対してはじめての経験だった。

「今の歌、昔あなたの唱ったのきいたことがある。誰の曲?」

「デュパルク」

「どうりで、そうね、デュパルクだったわ」

「しかし""」彼は気の毒そうな顔をした。

「ぼくはデュパルクははじめてだよ。そこに楽譜があったので試しに唱ってみたんだ」

「そう""」

 カミーユはみじめだった。歯に衣を着せぬミッシェルに対して見当ちがいの言葉しか出て来ない。どこかに怖れと緊張があって、自然で柔軟な気持を抑圧してしまう。それに外は寒かった。思考まで凍結するほどの寒さなのである。窓から流出する暖気にカミーユは小鼻をうごめかした。

 さすがミッシェルも気がついたらしい。

「入らないか。そこに立ってちゃ風邪をひくよ」と言った。

「いいえ。わたし行くわ」

カミーユは語気を強めた。彼女には相手にすねてみせるような女らしい手管ができない。行くと言ったからには行くのだ。しかし、庭を横切りながら、ミッシェルに呼戻されるのをひそかに待っていた。彼は黙っていた。《このままではみじめ過ぎる》そう思った。で、こちらから問いかけた。

「ミッシェル。あなた、わたしがなぜここに来たか尋ねないの?」

 柱の蔭でミッシェルの姿は見えなかった。待ってみても答はなかった。カミーユは暗黒に向って語りかけた。けれども唇のところで声が停ってしまった。《ミッシェル。あなたを愛してるの。あなたに会いたかった。それだけよ。ああ、わたし、なにがなんだかわからない。あなたに会うべきじゃなかったかもしれない。でもわたしここに来てしまった""》彼女はいつの間にか病棟と医長公舎の間の人気のない道を真直ぐに歩いていた。

 ミサが終ったところだった。カミーユは人々を避けた。自然、暗闇を選ぶことになった。

 小棟(プチ・パヴイヨン)の裏手から森へ行く小道がある。ふと、森の中を歩いてみようと思った。いつのまにか雲の裂け目に清冽な星がまたたいていた。わずかな星明りではあるが迷わずにすむだろう。あの菩提樹のある樹間の空地に行ってみよう。人々という不特定多数から、彼らのまやかしのお祭り騒ぎから出来るだけ遠くへ逃れてみたい。

 

「おや、マドモワゼル・タレじゃないですか」

 いきなり後からそう言われた。ドロマールだった。逃げようとしたが彼はそのままついて来た。意外にも道は先細りでドロマールの家の前で行停りになった。道を間違えたのだ。

 ポーチの明りでドロマールのフロックコート姿がよく見える。喜劇的な恰好だ。カミーユは少し警戒を解いた。

「おや。泣いてますね。どうかしましたか」

「いいえ」

 カミーユは行こうとした。苦手な相手なのだ。仕事の上の接触も稀だった。ドロマールはほとんど患者の身元調査(アンケート・ソシアル)を依頼してこない。自分の受持患者全員の家庭訪問を要求するエニヨンとまるでちがっている。友人としても年をとり過ぎていた。

「お待ちなさい。なんだか妙にさびしそうですね。わたくしでよかったら何かお力になれますよ」

「ほっといて下さい」カミーユはしりごみした。この囁くような声、慇懃無礼な調子には閉口だ。虫酸が走る。

 ドロマールはカミーユの本心など全く気がつかないらしい。囁きながら顔を寄せてくる。

「どうでしょう。聖なる夜です。わたくしのところに来ませんか。多少の御馳走は用意してあります。もっとも独身男のやることですから大したものはありませんが""」

「あのう""わたし""」

「それとも、今夜これから何か御予定でもありますか。どうも無躾な申し出をいたしまして""」

 ドロマールはカミーユの服装をじろりと見た。彼女は不断着のままだった。車を乗回していたので外套なしのジャケツ姿だ。

「いいえ。別に予定はありませんけど、子供がいますから」

「ああ、そうでしたね。お子さんが待っていらっしゃる。残念ですが、それでは」

 フィリップ。すっかり忘れていた。あの貧相な子は、今、孤独なベッドの中でふるえている。あの子がミッシェルの子だったら、わたしはすぐさまとんで帰るだろうに。卑怯なことだが今わたしはあの子を見たくない。

 ドロマールが誘っている。独身男。今のわたしには似合いの相手だ。それに相手が爺様では危険もないだろう。

 矢のようにきらめきながら打算が走った。カミーユはドロマールににっこりした。

「子供なんかどうでもいいんです。御宅にうかがいますわ」

「来て下さいますか!」ドロマールは初心(うぶ)な少年のように喜んで白手袋をすり合わせた。

    

   7

 

 スザンヌは幸福であった。

 何もかもうまくいったのである。けなげなアンニイの手助けですべての料理は時間どおりに、最上の色と味と香りを保ったまま運ばれた。子供たちは礼儀正しく、しかも子供らしい快活さで座をにぎわしてくれた。ジュール叔父はことのほか上機嫌で子供たち一人ひとりに贈物を持ってきてくれた(キキだけはもらった人形があまりに子供っぽい縫いぐるみなのでカッチの精巧なオランダ人形に嫉妬したけれど)。間際になってロベールが地下室から選び出してくれた豊年作の古葡萄酒の風味は一同の絶賛を博した。クルトンもうまくやってくれた。わたしがすすめたネクタイを気軽にしめてくれたし、食事中も節度のある会話で突飛なことはなにひとつ言わないでくれた。彼のしたアルジェリア戦線の体験談はジュール叔父とピエールの好奇心を充分満足させた。クルトンは心臓の前の肋骨を六本と肝臓を半分失ったという。彼は慢性黄疸なのだ。あのどす黒い皮膚の色は胆汁の色なのだ。わたしクルトンを悪い人と見すぎていたかもしれない。彼は普通の人間なのだ。だれだってあんな重傷を負えば少しはぐれるだろう。わたしだって""ああ、いやなこと、戦争なんて""フランソワやベルナールが大きくなる頃戦争がない世の中になってくれればいい。

 

 隣室ではジャンリュックをむかえた子供たちがキャッキャッとはしゃぎまわっている。みんないつもは九時には眠る習慣なのに、午前二時過ぎの今でも一向に睡くないらしい。大人たちとともに徹夜するつもりなのだ。

 大人たちは広間に集まっている。ジュール叔父夫妻、ピエール夫妻、ギヨーム先生、ロベールとスザンヌ。クルトンの姿がみえないのは、さっきベルナールにひっぱっていかれ、子供たちの仲間入りをしたからだ。

 スザンヌはディジェスチフの瓶を並べた盆を持って一同にすすめた。

 ジュール叔父は明らかにロベールの血縁らしい特徴をそなえている。でっぷり肥えて毛が薄い。大酒飲で陽気な冗舌家だ。ベッチュンヌ地方裁判所の判事を二十年近くもやっている。エニヨン一族は北フランス人らしく多産の傾向があるが、どうしたことかジュール叔父には子供がない。叔父はその原因をボルドオ出身の叔母のせいにしている。ロベールの説では叔父の大酒癖が原因だというのだが。

 ジュール叔父はシェリー酒を目を細めてなめながら、テーブルを爪でたたいた。当然みんなの注意が自分に集中する。さて話し始める。

「最近ベッチュンヌで怪事件がありましてね。誰かがシトローエンのバス・ターミナルに忍びいり車掌用の切符販売機を盗みだしたんです""」

 切符販売機てのは車掌が使用するだけの価値しかない。あんなものを売っても一スーの儲けにもならぬ。それなのに、そいつを三つも盗み、目の前にあった手提金庫には手もつけない。奇妙きてれつな犯人でしょう。

 ジュール叔父は自分の話の効果を計算する。きき手の興味をかきたててからゆっくり謎解きにかかる。彼は《ベッチュンヌ夜話》、《フランドル小話》など、一時期リールの読書界の話題をさらった本の著者でもある。

「警察では首を傾げました。犯人は換気孔から侵入した形跡があって、体の小さい身軽な者という見当はついたのですが、何しろ動機が不明です」

「子供のいたずらじゃないんですか」とギヨーム女史が口を挿んだ。このかさかさに乾いた小学校長は酒には一切手をつけず、端正に身を持していた。典型的な教育家であり辛辣な批評家でもあった。

「よくわかりましたね。実は犯人は子供だったんです」ジュール叔父はギヨーム女史に先まわりされたので残念そうだった。「数日後、サンヴナンの憲兵(ジヤンダルム)から報告が入りました。近所の甜菜畑にバスの切符がばらまかれているというわけです。国道に添って小川や森や運河に無数の切符が散乱している""」

「わかりましたね。犯人は、ジャンマリーという少年でしょう」

 ギヨーム先生はにこりともせずこう言った。

「驚きましたね。その通りです。犯人はジャンマリー・デュピペルという十四歳の少年でした。知能がおくれているがなかなかの美少年です。が、どうしてわかりました? この事件はまだ関係者以外には秘密になっている筈なんですが""」

「お話の事件のことは存じません。ただそういう妙なことをする子供は、この近所ではジャンマリーだけだと推論したわけです」

「はあ?」

「ジャンマリーはわたくしの学校の生徒でござんしてね。(頭が悪いのでまだ小学生です)奇行で有名な子なんです。勉強はとんと出来ないくせに不思議と機械の分解が好きでしてね。時計でもラジオでもモーターバイクでも実に器用に分解する。分解するとそのバラバラな部品を近所一帯にまきちらす。それが唯一の趣味なのです。バスの車掌用の切符販売機を盗んで切符をバラまくなんぞ、あの子のやりそうなことですわ」

「で、そのジャンマリーはつかまったんですか」とスザンヌがきいた。

「もちろん。けども起訴猶予になりました。なにしろ、十四歳の白痴ではね」ジュール叔父はもうこの話に興味を失ってしまい、そっけない返事をした。

 しかしギヨーム先生が突然ジュール叔父の気をひく情報を提供した。ジャンマリーの姉さんはこの病院の看護婦で、ドロマール医長のところに働いている。そんな関係で(つまりその姉さんというのがすごい美人なので)ドロマールがジャンマリーの治療に熱心だというのだ。なんでもとても高価な薬を週一度注射してやる。すると少年は頭のおくれをとりもどすというわけだ。それというのも、ドロマールは少年の姉の看護婦の歓心をえようとしているからだ、云々。

 すごいニュースだ。真偽のほどはどうでもよい。医長と看護婦の恋、最新の医学的進歩による精神薄弱児の治療の可能性。ジュール叔父はこの話題にとびついた。ギヨーム女史は相手の熱中を巧妙に煽りたてた。今迄黙っていたピエールまでが話に加わりだした。

 スザンヌはつつましくひかえていた。会話がはずんでいる時はホステスはつつましくしている必要がある。しかし、あまりに会話がながびくと、ジュール叔母やピエール夫人が退屈するだろう。機会をつかんで一同をダンスにさそう。クルトンがピアノを引受けてくれることになっている。

 ドロマールがジャンマリーの姉、ニコル・デュピペルに恋しているなんて実際にはありえないことなのだ。ニコルは確かにドロマールの第三病棟の主任看護婦をしているし美人でもあるが、素行の悪い女で何人かの青年と関係がある。現に最近は日本人のコバヤシとくっついて(もっと上品な表現はないかしら? )ベッチュンヌに住んでいる。そんな女をドロマールのように利巧で気位の高い男が問題にするわけがない。それに、こういう病院における医長の資格がどれほど貴重なものだか、みんなは御存知ない。医長ともあろうものが看護婦ごときに(山出しの賎民の娘なぞに)特別な関心をいだくことはまず絶対ありえないことなのだ。

 しかし、スザンヌにも、ドロマールがなぜ五十歳近い今日まで独身で通してきたか、数々の噂で粉飾されている彼の奇妙な性癖の実態は何なのか、は全く見当もつかないことなのであった。

 ジュール叔父たちの会話がとぎれた。隣室の戸口にクルトンの姿を見てスザンヌはすかさず呼んだ。

「ムッシュー・クルトン。さあダンスをしましよう。ピアノをお願いします」

    8 

 

 エニヨン家で一同がダンスに興じている真最中に電話がかかった。電話口に出たロベールは顔色を変えた。当直医のブノワがエスナール神父の死を伝えてきたのである。

 居眠りをしてベルナールに目を覚まさせられてから神父は何事もなく深夜ミサを終えた。ところが、すぐあと、看護尼たちの集会所(コムユノウテ)で聖夜の祈祷を行っているとき不意に激烈な発作で倒れた。ブノワは必死で緊急処置をほどこしたが神父はあっという間に息をひきとった。ドロマールに連絡をとる暇もなかったという。

「どうするね ?」ロベールはスザンヌにきいた。「みんなには明日知らせたほうがいいだろう。せっかく楽しんでいるんだし」

「そうねえ。でも""」スザンヌは考えこんだ。神父がなくなった。それなのにダンスをして楽しむなんて冒涜じゃないかしら。少くともわたしには耐えられない。

「いいよ。わかったよ」ロベールはスザンヌの心を読んだ。「みんなに知らせよう」

 ダンスは中断された。一同は驚愕して立っていた。転げまわるように踊っていた小さな二組——フランソワとカッチ、ベルナールとキキ——まで痛々しいほどにしょんぼりしている。いうべきじゃなかった。子供たちの年に一度の楽しみを奪ってしまった。が、もう言ってしまったのだ。スザンヌは、神父の侍童だったフランソワとベルナールを両腕でかかえてやった。

 唐突に、甲走った泣き声がおこった。ギヨーム先生が、激しく胸をせきあげている。

「まあどうでしょう""あんな方が""あんな聖人みたいな方が""亡くなられるなんて""しかも""こんな""クリスマスだっていうのに""」

 ジュール叔父が、その太い腕でギヨーム先生の骨ばった肩を抱いた。「ああ、あなた。わかりますよ。その気持。おお、おお」叔父も泣いている。

 ロベールとスザンヌは当惑して顔を見合せた。二人の老人の感動はそれ自体は真摯ではあったが、いかにも場ちがいで芝居じみていた。悲しみはもっとひそやかなものであるべきだ。末娘のキキが身をすりよせて来た。「ママ、あのひとたちどうしたの ?」ベルナールが仰向いてこちらを見ている。いたずらっぽく片目をつぶってみせる。

「静かに ! 神父様がなくなられたんですよ」が、スザンヌは少しも、悲しみを覚えなかった。どうしたことだ。悲しむべきであるのに!

 突然ピアノの演奏が始まった。クルトンが弾いている。底抜けに陽気で急テンポのチャッチャッチャである。真摯に泣きじゃくっているギヨーム先生に対してこれほどの侮辱はない。スザンヌはひやりとした。

 ギヨーム女史はぴくぴくと痙攣すると叔父の手をふりきり、興奮のため唇をわなわなさせてクルトンに向って声を張りあげた。

「おやめなさい! まあなんてことを! おやめなさいってば!」

 クルトンは振向きもしなかった。あるいは声がきこえなかったのかも知れない。それほど声よりピアノの音のほうが大きかった。 

 ギヨーム先生はロベールやピエールに訴えはじめた。

 「やめさせて下さい。全く破廉恥です。神様(モン・ジユウ)! 神様{モン・ジュウ}!」

 女史は涙と汗にまみれて声をからしている。このままでは卒倒するやも知れぬ。スザンヌはクルトンの肩をたたいた。「おやめなさいな。ドクトゥール・クルトン」

 するとクルトンは弾きやめた。

「どういうわけです? え、さあ」たちまち、ギヨーム女史がつかみかかった。

 クルトンは坐ったまま、凹んだ眼を女史にむけた。冷やかな無表情である。

「あなたは、わたしを嘲笑しました。わたしの気持を踏みにじりました」

「ぼくはただピアノを弾いただけです」

「それが何よりの嘲笑です。しかも、よりによってあんな曲をやるなんて」

「あんな曲って。あれは陽気なチャッチャッチャですよ」

「悲しい時に陽気な曲を! おお」

ギヨーム女史は混乱して手足をふるわせた。しかし、先程よりはよほど落着きを取戻し威嚇的な身構えをみせていた。

「死というものは」クルトンはおしころした低い声で言った。「陽気なものです」

「そんな""」ギヨーム女史は相手の真意を測りかねて睨んだ。クルトンは相変らず無表情であった。で、女史は生徒に説諭をする時のような具合に言い足した。「あなた。死は悲しいことにきまっています。ことにエスナール神父のような方が亡くなられた場合はなおさらのことです」

「なぜ、ひとが死ぬと悲しいのですか」

「なぜって、それが当り前のことだからです」相手の生真面目な調子にひきこまれて女史も静かに答えたが、そう言った語尾は何だか自信がなさそうであった。

「あなたのお気にさわったのならぼくあやまります。でも神父の死をきいて、あなたが泣きたいと思われたと同じように、ぼくは陽気にピアノを弾きたくなったのです。それだけです」

「でも、もし、あなたが死んでも誰も悲しまなかったら?」

「結構です。残された者が幸福な喜びにひたれるような、そんな死に方をぼくは理想としていますから」

ギヨーム女史はあっけにとられた。彼女はまた泣こうとして目に手をやったが涙は乾あがっていた。

クリスマス・パーティは中止された。一同は散会した。帰りぎわにクルトンはエニヨン夫妻に「何だか大変失礼しました。でも、今夜はまたとない愉快なクリスマスでした」と鄭重に謝した。

  9

自分の失敗に打ちのめされ、同時に自分の失敗を認めたくないので人々を呪い""そんな矛盾と混乱に苛立ちながらブノワはアンヌに向って喋りまくった。

「失敬なやつさ、ヴァランチーヌは! そりゃ総婦長で経験年数も長いことは長いが、看護婦としては無能だね。自分じゃ静脈注射だって満足にうてないんだからね。そのくせ、ぼくの一挙手一投足を蛙みたいなふくれっつらで監視していやがる。それにフージュロン院長がつったってる。医者でもないくせに、その注射の内容は何か、血圧と体温はどうなったかと、御節介をかく。たまったもんじゃない。これで冷静な診療ができるわけがない。すると患者の呼吸がとまった。心臓はまだ動いている。よくあることさ。チェインストークス氏呼吸なんだ。まだ死んじゃいない。この前の発作のときもそうだった。それでも神父はたすかったんだ。ところがヴァランチーヌのやつが騒ぎたてた。御臨終だというわけで尼さん連を呼びいれた。ただでさえ狭い部屋が身動きも出来ない有様だ。みんなの目がぼくに集まる。御臨終の御託宣を待っているんだね。ぼくは言ってやったさ。まだです。これは神父の病気に特有な呼吸の一時停止です。すぐ呼吸は回復してきます。つまり、チェインストークス氏呼吸ですなと。自信はあった。血圧は充分高かったんだ。ぼくはロベリンを一筒うった。それから注意深くテオフィリンを静注しはじめた。その時、心臓が停ったんだ。いや痙攣が先だったかな。とにかく患者は死んだんだ。まるでぼくの注射のせいみたいに死にやがった。糞! あわてるべきじゃなかったんだ。それが当然ですという顔をしていりゃよかったんだ。そう、コバヤシがやるようににっこりしてやりゃよかったんだ。ところが、異状に気がついたみんなが騒ぎだした。ぼくは完全にあがっちまった。注射器を持った手のふるえがとまらないんだ。そのとたんだよ。注射針が折れてね。そいつを抜こうとすると、逆に押しこんじまったんだ。情けないようにするすると、針が静脈の中に吸いこまれた。それをみんなが見てたんだ。ぼくはやっと御臨終ですといった。声がかすれてたね。仕方がないじゃないか。寿命がつきたんだ。ぼくの責任じゃない。ところが、フージュロンが当て付けがましくドロマールをよべと言う。ヴァランチーヌまでが——ついさっき自分で御臨終だと信じこんだくせにだ——今度は生き返す方法があるかのようにドロマール先生をよぼうと言う。いやはや大混乱だ。ぼくはそこで帰ってきた。エニヨンとマッケンゼンには電話をしておいたがね。ドロマールには連絡のしょうがない」

「それで」アンヌ・ラガンは、美しくはないが知的な眼を眼鏡の奥でくるくるさせた。

「アドレナリンはうったの ?」

「そうだ。アドレナリンだ」ブノワは悲痛な呻き声をだした。「あの長い針で心臓へ一発ぶちこむべきだった。もちろん、用意はしてあったさ。忘れちまったんだ。ああ」

「アドレナリンをうっても駄目だったでしょうよ」アンヌは落着いて慰めにかかった。

「誰がやっても結果は同じだったと思う。あなたは最善をつくしたのよ」

「ぼくはそう思ってるさ。だけどみんなはそう思っていない。ぼくが神父を殺したと思ってる」

「あなたの思いすごしよ。あなたは疲れてるんだわ」

「疲れてるって! 冗談じゃない。ぼくは元気一杯だよ。今夜は徹夜を覚悟して、うんと眠っておいたんだ」

「だったら元気をだしなさいよ。スープをあっためてくるわ」

 ブノワは機嫌をなおした。たちまちエスナール神父のことを忘れ、猛烈な空腹を感じた。料理にかけてはアンヌは素敵な腕を持っている。別に美しくもない彼女をみこんで婚約したのもそのためなのだ。ブノワは満足げにテーブルの上を見渡した。

 盛り氷の上の生牡蠣、冷肉のアッソルチ、肝臓パイ、ロックフォールとポン・レヴェックの大皿、マロングラッセを並べた飾り皿、サラダ、マルテルのコニャックとシャンペン。銀の食器がクリスマスツリーの豆電球を映している。ここに生活がある。雰囲気がある。アンヌはそれを心得ている。内勤医宿舎(アンテルナ)のうらぶれた食堂を魔法の殿堂と化けさせてしまう。

 アンヌが、右手でスープ鍋を左手で鵞鳥の丸焼きを持って現われた。ブノワは、鵞鳥の腹から栗とキャベツがのぞき、習慣に従って黒いトリュッフが添えてあるのをすぐ見てとった。アンヌ、君はすばらしい女だよ。まったく。

 二人は食べはじめた。食べるものも話すこともいくらでもある。そして未来が——豊かで安定して、きちんとフランスの規格にはまった安全きわまる未来が二人に約束されている。《メディカ》に合格、結婚、子供、停年、死、墓場。ブノワは子供のことを考えた。アンヌの腰は細すぎる。骨盤が狭いのじゃないか。子供は二人欲しい。それで丁度いい。エニヨンのように五人もいたひにゃ大変だ。

「ねえ、アンヌ。君はこの頃痩せたんじゃないか」ブノワはそう言ってみる。別に痩せたとは思っていない。

「そうかしら」アンヌは首を傾げる。アペリチフで頬をそめているところが可愛い。

「どうもそうだ。きっと勉強のしすぎだよ。君みたいにがっついてたら痩せるにきまっている」

 何か良人らしい忠告をしてやる必要がある。さっきの醜態を打消す意味で""アンヌは素直に忠告をきく。ブノワの自尊心は満足させられる。アンヌは実に勉強家だ。大学を出たばかりなのに、もうアンリー・エイの大著《精神医学的研究》三巻を全部読んでしまった。末おそろしい。もし彼女のほうがおれより先に《メディカ》に合格したら、このおれが内勤医で彼女が医長てことになったら""これはえらいことになる。

 ブノワは暮と正月に行うサヴォア旅行の計画を情熱こめて話しはじめた。大晦日{サン・シルヴエストル}にはシャモニーにいるだろう。スキーで一年の憂鬱を吹きとばすんだ。予算が余れば山越えしてスイスに行こう。

 誰かがノックした。まだ答えないうちにドアが勢よく開かれた。クルトンの黒っぽい長身が入ってきた。個人的な状況にあるブノアとアンヌを見ても別に逡巡もせず、椅子をひっぱってきてテーブルに向って坐ってしまった。そのまま二人の食べる様子を観察している。

「何か用かね」ブノワは赤葡萄酒で焼肉を胃袋にいそいで流しこむと咎めるように言った。

「別に」クルトンは恬然(てんぜん)としていた。

「だったら""」

「出て行けかね」凹みの底で小さな目が笑っている。

「いや、そういうわけじゃないが」ブノワはあわてて微笑をつけた。膝のナプキンが床にずり落ちた。クルトンはナプキンを見詰めている。いやなやつだ。

「はやかったね。エニヨンとこのパーティはもう終ったのか」

「そう。神父が死んでおじゃんさ」

「なるほど」ブノワの胸が騒ぎだした。この男、おれの失敗を知っているのか。ブノワは先手を制し、自分の失敗は一切伏せて手短かに物語った。「いやはや、とんだ茶番劇さ、フージュロンとヴァランチーヌのやつがさ""」

 クルトンはにこりともしない。ブノワは自分の嘘が見抜かれでもしたように冷汗をかいた。アンヌが片目で信号を送ってくる。はやく追いだしてしまいなさいよ。こんな男。しかし、ブノワは全く裏腹のことを言った。

「どうだね。ミッシェル。一つつままないかね」

「ありがとう。イヴ」クルトンは遠慮なく焼肉にフォークを突立てた。仕方なしにアンヌは葡萄酒をついでやった。クルトンはぱくつきはじめた。すっかり腰を落着けるつもりらしい。

 不思議なことにクルトンがいると、ブノワはアンヌと話すことが何もないのだった。何かを言おうとすると下劣で滑稽に思えて来るのである。黙っている二人に、ふとクルトンが言った。

「留守中、誰かがぼくの部屋に入った。たぶんカミーユだ。香水の匂いでわかる。君たちカミーユに会わなかったかい」

「そういえば彼女が来たね」

「何時頃 ?」

「あれはミサの前だから、十一時か。いやもっと前だったかな」

「十時三十五分」とアンヌが言った。

「で、何か言ってたかい ?」

「別に」ブノワはアンヌに目くばせした。黙ってろよ。クルトンとカミーユのことはぼく達とは関係がない。

「おかしいな。カミーユのやつ、何しに来たんだろう?」

 クルトンは考えこんだ。しかし、手と口は活発に動かして飲み、かつ食べ続けた。

 

   10

 

 移しい書物の集積である。壁という壁は床から天井まで幾段もの書棚がとりつけられ、隙間なく本が並べられている。どの部屋もそんな具合だ。カミーユは歩くに従って驚きを増していき、二階の書斎に入ってその驚きは頂点に達した。三つの部屋をぶち抜いてつくられた広間は、四方の壁が完全に書物でうずまっている。窓の上下の空間までそうなのである。まるで書物の壁でつくられた箱の中にいるようなのだ。古い書籍の黴の臭いと皮革の乾いた臭いが家中に充満している。この家の中で書物に占領されていない壁はないとすると""とにかく夥しい書物の集積である。

 古風な燭台型のスタンドから落ちる光は、中央の仕事机と二脚の肘掛椅子とソファを具合よく照らし、周囲をほの暗い影とぼかしている。ちょうどレンブラントの画にあるような明暗の効果がそこにあって、まるで空間が必要最小限の光を生みだしたかと思われるほどだ。

 ドロマールは、赤い絹のガウンに着換え、白い外科帽をかぶっていた。客人をむかえる服装としては奇態なものだが、彼の様相は室内の雰囲気にぴったり溶けこんでしまい、カミーユにもそれが当然なことだと思われるのであった。

 カミーユの驚嘆をみてとったか、ドロマールは蔵書の説明をはじめた。低い囁くような声でである。それによると、この一見無秩序に並べられたかにみえる蔵書はすべて特殊な分類法で整理されており、旧式な図書館など及びもつかないほど迅速に必要な本がとりだせるのだそうである。集められた本は世界各国の哲学書、医学書が多いが、趣味として美術書と文学書とを集めている。ドロマールは数冊の豪華な大型の美術書を机の上に置いてみせた。

 ドロマールの囁き声をききながらカミーユは院内に流布されているドロマールについての数々の噂話を思いだしていた。そのどれもが確実なものではなく推測の域を出なかったが、こうしてこの書斎でドロマールと向合っていると、すべて本当らしくも思われるのである。

 ドロマールはチェッコ語をのぞくヨーロッパ中の言語に通じている。ドロマールは大きな音や野外の強烈な光に耐えられない。だから彼は小声で語り、やむをえず外を歩くときは夜を選ぶ。ドロマールの家の窓はすべて釘づけされていて絶対に開かない。ドロマールは酒も煙草ものまない。彼が他人を自分の家に招待しないのは煙草ぎらいのせいである。ドロマールは自律神経失調症である。通常の汽車や自動車の旅は彼を眩暈(めまい)で苦しめるので、パリに行くときは村でたった一台のタクシーをやとう。心得た運転手は彼を馬車のようにゆっくりとパリまで運ぶ""云々。

 ドロマールは午前中だけ病棟で患者を診察する。午後と夜はこの公舎にこもっている。外出などめったにしない。ドロマールが外出した。それだけで立派なトピックになるほどなのだ。カミーユは、ドロマールがこの病院の医長になってから十五年間の(あなぐら)の隠微な生活を思ってぞっとした。

 あの顔。あの年寄りじみた蒼白い皮膚、無表情で皺が少ない。それは永年の読書の結果すべてについて無感動になった顔なのだ。そう、皺が少ないというのは重要な発見だ。東洋の仏像には皺がない。あのように異端的でとりすました顔。

 次第に空腹と疲労と睡気がカミーユの気を不快にかきみだした。ベッチュンヌのカフェでコーヒーとチョコレートを飲んで以来何も口にしていない。《多少の御馳走は用意してあります》とドロマールは言ったが、いつまでたっても御馳走の匂いもしないのだ。

 カミーユは机の上のコップを手にとった。ドロマールがついだ水が入っている。水だけしか出さないつもりかしら。それでも飲みほすと多少飢えがしのげた。こなければよかった。適当なときに引揚げよう。カミーユがそう考えたときだった。彼女が思わず顔をのけぞらせたほどの近くに、いつのまにか金縁眼鏡をかけたドロマールの顔があった。

「わたくしは、あなたのお許しを請わねばならない。あなたの今お飲みになった水の中にはリゼルグ酸の五十ガンマーが入っているのです」

「何ですって!」

 カミーユは動顛して叫んだ。リゼルグ酸はLSD25ともいう幻覚剤で、昔ミッシェル・クルトンがマダム・マッケンゼンのもとで学位論文(テーズ)を準備していたとき、カミーユは実験に立会って記録掛を受持ったことがあり、彼女もその驚異的な作用をよく知っていた。ごく微量で幻覚や錯覚を出現させる薬で、しかも無味無臭なのだ。「もしも犯罪者がこの薬を利用したらえらいことになるぞ」とミッシェルはよく言っていたものだ。

「まあ気を鎮めてわたくしのいいぶんをきいて下さい」ドロマールは淡々として囁き続けた。「あなたは偶然机の上のリゼルグ酸をのんでしまった。こんなところに薬を置いておいたのはわたくしの手落ちです。あやまります。しかし、折角お飲みになったのだから、ひとつわたくしに協力していただきたい。わたくしは現在リゼルグ酸の効果について研究中です。あなたもわたくしの症例になっていただきたい」

「わざと置いといたのですね !」カミーユは立上ってドロマールを睨んだ。

「大きな声はいけません。お静かに願います」ドロマールは両手で耳に栓をした。

「そのために、つまり実験材料にするためにわたしを誘いこんだんだ。卑怯者。あなたは卑怯者です」

「いいえ」ドロマールは悲しげに首をふった。「あなたは誤解してらっしゃる。わたくしはあなたの苦しみ(あなたは泣いてたじゃないですか)を癒やしてあげたいと思ってるのです。リゼルグ酸をのめば恍惚状態が来ますからね。他方、わたくしはリゼルグ酸の実験例を一例でも増やそうと思っていた。あなたへの同情とわたくしの都合が論理的に一致したわけです。おわかりですか」

「詭弁です! わたし帰ります」

「それは残念です。ですが、このままお帰りになると、すぐ薬の作用が現われます。これをお飲みなさい」

 ドロマールは書斎の戸口まで追いかけてきて白い丸薬をみせた。カミーユは薄気味悪げにその白い粒を横目でみた。それは見覚えのあるラルガクティルの錠剤らしい。

 ラルガクティルはリゼルグ酸の怖ろしい効果をとめる力を持っているのだ。しかし""カミーユの胸のあたりから異様なものが、熱を帯びた波のようなものが昇ってきた。それは、咽喉から舌へ、そして脳髄に浸み渡っていく。カミーユは狼狽した。もうリゼルグ酸の効果が始まったのだろうか ?  

ドロマールは、じっと手の窪を差出したままである。痩せこけて蒼白い肌が、骨の硬い線をあらわにしている。と、白い肌の色が赤黒く染まってきた。カミーユは深い驚きに心が凍えあがる思いだった。ミッシェルの手にそっくりなのだ。

 ドロマールが囁いている。

「どうしましたな。ドアには鍵がかけてありません。廊下には電灯がついています。玄関の扉は内側からあけられます。あなたは自由なのです」

 カミーユは思いきってドロマールを見た。思ったとおりだった。ドロマールはミッシェルに変身している。褐色の皮膚と凹んだ眼、骸骨のような顔と尖った鼻。カミーユはそれが錯覚だということを知っていた。それなのにしびれるほどの喜びが身内を貫くのであった。

 ミッシェルが遠のいていく。普通に歩いているのに素晴しい速度で遠のいていき、みるみる小さくなり、ぱっとドロマールの姿に戻った。それはリゼルグ酸のおこす典型的な知覚異常なのだ。

「こちらにいらっしゃい」ドロマールがまねいた。

「わたし、おかしいんです。もう正気じゃないんです」カミーユはふるえ声で力無く言った。

「ええ、わかってます。隣の部屋に行きましょう。あそこのほうがべッドがあって楽ですから」

 カミーユは従った。どうしてだか、ドロマールに従うのが気持よかった。歩きながら、下腹部と乳房に甘い快感を覚えた。全身の皮膚は極度に敏感で、ストッキングとブラジャーは電気を帯びているようにビリビリし、下着がぴったり皮膚に貼りつくようだ。まるで素裸で歩いている感じ、つまり衣類の中で裸の肉体だけが孤立して感じられるのである。カミーユは快感に酔いながら全身をほてらせた。

 ドロマールは彼女をベッドに横たえた。

「気分はどうですかな」

「とってもいい気持。いい気持よ」

「それはよかった。テープコーダーをまわしますよ。さあ、そのいい気持というのを表現して下さい。出来るだけ正確に。表現できなければ例えで結構です。たとえばどんなような気持だとか""」

「ああいい気持。何てったらいいかしら。そう、空中に乾いてすべすべした蝶の羽の粉が一杯つまっていて、その中で泳いでいるような""」

 カミーユは首をちょっとあげてみた。首が風船のように軽い。そして風船のようにふわふわと空中に浮いている。

 ここはドロマールの寝室らしい、四方は書物の壁だ。視線が定まらない。箪笥や暖炉や鏡がめまぐるしく移動していく。ものの形がはっきりしない。輪郭がぼやけるかと思うと、つと明確になる。そして紫色の光が部屋の中に眩しいほどに溢れたかと思う間に暗くなってしまう。明暗が脈()っている、そんな感じだ。

 次第に幻覚が彼女をのみこんでいった。床が見るまに紺碧の海となった。風がふくと、さざなみが美しく輝いた。焼けるような太陽が砂浜に映えている。カミーユはけだるく砂の上にねそべっている。と、海が消えた。白樺の林だ。林間の空地には涼しい馥郁たる気流が流れこんでくる。空地の表面が割れ、亀裂から青い炎があがった。のぞきこむと青空である。カミーユはインドかタヒチか、とにかく熱帯地方にいる。裸の彼女を屈強の青年たちが撫でまわしている。悩ましい感覚がカミーユの粘膜をしっとりとぬらす""長い彷徨の末カミーユはドロマールの寝室にもどってきた。

「気がつきましたな」

 ドロマールが白い歯を見せた。それは白く整い過ぎていて入歯に違いなかった。カミーユは、金縁眼鏡の奥の冷い緑色の瞳をみているうち羞恥と屈辱にさいなまれてきた。この男は何もかも見ていたのだ。裸のわたしを、わたしの裏側を、わたしの淫靡な姿を。しかもリゼルグ酸を騙し飲ませたのだ。

 カミーユはとび起きた。少しふらつくが歩けそうだ。一刻も早くこんな場所から逃げだしたかった。

「いま、何時ですか」とカミーユは尋ねた。

「それこそ、わたくしがお尋ねしたい。何時だと思いますか」ドロマールは坐ったまま逆に質問してきた。

 突発的な怒りがカミーユを呑み込んだ。彼女はテープコーダーのスイッチを切り、半分ほどテープを巻きとったリールを床に放り出した。それだけの動作をするのに非常な疲労を覚えた。汗が吹出、関節が錆びたようにぎこちなくきしみ、眩暈がした。

「おかけなさい。マドモワゼル」

 そのやさしい声には、非現実的な怪しい余韻があった。しかも従わざるをえない魔力がこもっている。心ならずもカミーユは従った。

 何がおこったのか? 思いだそうとする。何か無数の幻覚にひたったように思える。が、何一つ具体的な映像が甦ってこない。淫蕩にふけった朝のような虚脱感の中でドロマールに対する怨恨がくすぶっている。たしかなことは、自分がリゼルグ酸をのまされたこと、ドロマールの実験材料にされたことだけである。それから、ドロマールをミッシェルだと錯覚した。それからあとの記憶がない。自分は意識を失っていたのだ。無抵抗で""その間に、もしや? 刺すようた疑惑が胸の底に蟠った。

「ムッシュウ・ドロマール」カミーユの声がふるえた。「わたしの寝ているあいだに、あなたはもしや""」

 ドロマールは眼鏡をとるとガウンのポケットにしまった。

「いいえ、マドモワゼル。あなたの御心配は無用です」眼鏡なしの彼は、再び東洋の仏像のような顔にもどった。「あなたは、眠っておられるあいだに、少し個人的な秘密を話された。だから、わたくしも交換に自分の秘密をもらしましょう。いいですか、マドモワゼル、わたくしは女性には性的魅力を感じないのです」

「それではあなたは""」

「あとは御想像におまかせします」

 ドロマールは、かすかに気味わるく微笑んだ。不能者、男色者、おそらく彼が今まで独身でいた理由は、そのいずれかであろう。カミーユは嫌悪のこもった目で彼を一瞥した。

 体が重かった。椅子に身を沈めると眩暈はおさまったが、全身を針金でぐるぐるまきにされたような拘束感が残った。そして、皮膚を切割き、何かを自由に解放したいような衝動が湧きあがってきた。軽い頭痛がする。

「さあ、食事にしましょう」

 ドロマールにそう言われて気がつくと、テーブルには、粗末ながらもクリスマスの料理が並べてあった。食物の匂いを嗅ぐと吐気がした。カミーユは仰向いて目を閉じた。

「わたし食べたくありません」

「それは残念ですな。気分でもわるいんですか」

「ええ、わるいです。あなたのおかげです」

「それはどうも。本当にわたくしの不注意でした。実験用にリゼルグ酸をいつも用意しとくので、ついうっかりあんな所に置いておいて」

「もう帰ります」カミーユはふらふらと立上った。

「どうぞ。あなたの車まで御送りしましょう」

「結構です。一人で帰れます」

 カミーユはドロマールの腕を撥ね除けた。

 玄関口でドロマールが言った。

「こんな事を申して何ですが、マドモワゼル、あなたはミッシェル・クルトンを愛していますね」

「それがどうしました」

 カミーユは険しい目つきになった。

「いや、わたくしにはあなたの私生活には干渉する権利はない。一般的な問題として一つだけ御忠告したい。一人の人間を愛しすぎてはいけません。愛することのみが生き甲斐なのはいけません。なぜって人間はどうせ死ぬんですからね。愛していた人間が死んだらどうしますな」

「ミッシェルは死にゃしません」

「彼の事じゃないのです。一般的な問題です」

「わかりませんわ。そんな話。人間を愛しちゃいけないだなんて""」

一人の人間をですよ。たとえば全人類を愛するのならかまいません」

「そんな抽象的な愛は贋の愛です。信じられません」

「ところがその贋の愛こそ貴いのですな。科学への愛、書物への愛、みんな贋の愛ですが、これを持てるのはごく少数の人々です」

「御自分がそうだといいたいんでしょう。わたしはあなたみたいになりたくない」

「それは残念ですな。しかし、あなたのミッシェルはおそらくその少数の人々の一人ですよ。あなたの不幸はそこにあります」

「わかりませんわ。そんな話」

 カミーユは何とか逃げようと焦った。頭痛がつのり、吐気がした。何も理解できない。彼女は把手をまわし、思い切って外へ走り出た。

 数分後、病院前の暗い小川でカミーユは吐いていた。吐いても吐いても吐気がつきあげてくる。

「ああ、ミッシェル! 助けてちょうだい」

 彼女は、涙と唾液にまみれながら、またかがみこんだ。

(つづく)

 

 

軽井沢高原文庫

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/12/21

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

加賀 乙彦

カガ オトヒコ
かが おとひこ 小説家 1929年 東京に生まれる。大仏次郎賞受賞。

掲載した「フランドルの冬」は「展望」昭和41年8月号初出、第2回太宰治賞候補作の前半分に当る。

著者のその他の作品