玉、砕ける
ある朝遅く、どこかの首都で眼がさめると、栄光の頂上にもいず、大きな褐色のカブト虫にもなっていないけれど、帰国の決心がついているのを発見する。一時間ほどシーツのなかでもぞもぞしながら物思いにふけり、あちらこちらから眺めてみるけれどその決心は変らないとわかり、ベッドからぬけだす。焼きたてのパンの香りが漂い、飾窓の
九竜半島の小さなホテルに入ると、よれよれの古い手帖を繰って張立人の電話番号をさがして、電話をかける。張が留守のときには、私は菜館のメニュを読むぐらいの中国語しか喋れないから、私の名前とホテルの名前だけをいって切る。
翌朝、九時か十時頃にあらためて電話をすると、きっと張の、初老だけれど迫力のある、
張はやせこけてしなびかかった初老の男だが、いつも、うなだれ気味に歩いてきて、突然顔をあげ、眼と歯を一度に
顔を崩して彼がいちどきに日本語で何やかや喋りはじめると、私は黴の大群がちょっとしりぞくのを感ずる。それはけっして消えることがなく、いつでもすきがあればもたれかかり、蔽いかかり、食いこみにかかろうとするが、張と会ってるあいだは犬のようにじっとしている。私は張と肩を並べて道を歩き、目撃してきたばかりのアフリカや中近東や東南アジアの戦争の話をする。張ははずむような足どりで歩き、私の話をじっと聞いてから、舌うちしたり、呻いたりする。そして私の話がすむと、最近の大陸の情勢や、左右の新聞の論説や、しばしば魯迅の言説を引用したりする。数年前にある日本人の記者に紹介されていっしょに食事したのがきっかけになり、その記者はとっくに東京へ帰ってしまったけれど、私は香港へくるたびに張と会って、散歩をしたり、食事をしたりする習慣になっている。しかし、彼の家の電話番号は知っているけれど、招かれたことはなく、前歴や職業のこともほとんど私は知らないのである。日本の大学を卒業しているので日本語は流暢そのもので、日本文学についてはなみなみならぬ素養の持主だとはわかっているけれど、小さな貿易商店で働きつつ、ときどきあちらこちらの新聞に随筆を書いてポケット・マネーを得ているらしいとしかわからない。彼は私をつれて繁華なネイザン・ロードを歩き、スイスの時計の看板があって『海王牌』と書いてあれば、それはオメガ・シー・マスターのことだと教えてくれる。
小さな本屋の店さきでよたよたの挿絵入りのパンフレットをとりあげ、人形がからみあっている画のよこに『直行挺身』という字があるのを見せ、正常位のことだと教えてくれたりする。また、中国語ではホテルのこと××酒店、レストランのことは△△酒家という習慣であるけれど、なぜそうなのかは誰にもわからないと教えてくれたりするのである。
最近数年間、会えばきっと話になるけれどけっして解決を見ない話題がある。それは東京では冗談か世迷言と聞かれそうだが、ここでは痛切な主題である。白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ{殺せ}!』、『ターパ{打て}!』、『タータオ{打倒}!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。
何かそんな例はないものか。名句はないものか。 はじめてそう切りだしたのは私のほうからで、どこか裏町の小さな飲茶屋でシューマイを食べているときだった。いささか軽い口調で謎々のようないいかたをしたのだったが、張はぴくりと肩をふるわせ、たちまち苦渋のいろを眼に浮べた。彼はシューマイを食べかけたまま皿をよこによせ、タバコを一本ぬきだすと、鶏の骨のようにやせこけた指で大事そうに二度、三度撫でた。それからていねいに火をつけると深く吸いこみ、ゆるゆる煙を吐きながら、呟いた。
「馬でもないが虎でもないというやつですな。昔の中国人の挨拶にはマーマーフーフーというのがあった。字で書くと馬馬虎虎です。なかなかうまい表現で、馬虎主義と呼ばれたりしたもんですが、どうもそう答えたんではやられてしまいそうですね。あいまいなことをいってるようだけれど、あいまいであることをハッキリ宣言してるんですからね、これは。これじゃ、やられるな。まっさきにやられそうだ。どう答えたらいいのかな。厄介なことをいいだしましたな」
つぎに会うときまでによく考えておいてほしいといってその場は別れたのだったが、張はつよい打撲をうけたような顔で考えこみ、動作がのろのろしていた。
シューマイを食べかけたままほうってあるのでそのことをいうと、彼は苦笑して紙きれに何か書きつけ、食事のときにはこれが必要なんですといった。紙きれには『莫談国事』とあった。政治の議論をするなということであろう。私は何度も不注意を謝った。
その後、一年おいて、二年おいて、ときには三年おいて、香港に立寄るたびに張と会い、散歩したり食事したりしながら——すっかり食事が終ってからときめたが――この命題をだしてみるのだが、いつも彼は頭をひねって考えこむか、苦笑するか、もうちょっと待ってくれというばかりだった。私は私で彼にたずねるだけで何の知恵も浮ばなかったから、謎は何年たっても謎のまま苛酷の顔つきの朦朧として漂っている。もしそんな妙手があるものとすればみんながみんな使いたがるだろうし、そういう状況は続発しつづけるばかりなのだから、そうなれば妙手はたちまち妙手でなくなる。だから、やっぱり謎のままでこれはのこるしかないのかもしれなかった。しかし、ときには、たとえば張があるとき老舎の話をしてくれたとき、何か強烈な暗示をうけたような気がした。ずっと以前のことになるが文学代表団の団長として老舎は日本を訪れたが、その帰途に香港に立寄ったことがある。張はある新聞にインタヴュー記事を書くようたのまれてホテルへでかけた。老舎は張に会うことは会ってくれたが、何も記事になるようなことは語ってくれなかった。革命後の知識人の生活はどうですかと、しつこくたずねたのだけれど、そのたびにはぐらかされた。あまりそれが度重なるので、張は、老舎はもう作家として衰退してしまったのではないかとさえ考えはじめた。ところがそのうちに老舎は田舎料理の話をはじめ、三時間にわたって
「……何しろ突然のことでね。あれよあれよというすきもない。それはもうみごとなものでしたね。私は老舎の作品では『四世同堂』よりも『駱駝祥子』のほうを買ってるんですが、久しぶりに読みかえしたような気特になりました。あの『駱駝祥子』のヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモアですよ。すっかり堪能して感動してホテルを出ましたね。家へ帰っても寝て忘れてしまうのが惜しくて、酒を飲みましたな。焼酎のきついやつをね」
「記事にはしなかったの?」
「書くことは書きましたけれど、おざなりのおいしい言葉を並べただけです。よくわかりませんが老舎は私を信頼してあんな話をしてくれたように思ったもんですからね。それにこの話は新聞にのせるにはおいしすぎるということもあって」
張はやせこけた顔を皺だらけにして微笑した。私は剣の一閃を見るような思いにうたれたが、その鮮烈には哀切ともつかず痛憤ともつかぬ何事かのほとばしりがあった。うなだれさせられるようなものがあった。二つの椅子のあいだには抜道がないわけではないが、そのけわしさには息を呑まされるものがあるらしかった。イギリス人はこの事を“Between devils and deep blue sea ”{悪魔と青い深海のあいだ}と呼んでいるのではなかったか?……
「これは風呂屋ですよ。
明日は東京へ
帳場の男は椅子からたちあがると、肩も腰もたくましい大男であった。手招きされるままについていくと、壁の荒れた、ほの暗い廊下を通って小さな個室につれこまれた。個室には簡素なシングル・ベッドが二つあり、一つのベッドに白いバス・タオルを巻きつけた客が
手真似で誘われるままに個室を出ると、草履をつっかけてほの暗い廊下をいく。そこが浴室らしいが、べつの少年が待っていて、手早く私の体からバス・タオルを剥ぎとった。ガラス扉をおすと、ざらざらのコンクリートのたたきがあり、錆びた、大きなシャワーのノズルが壁からつきでていて、湯をほとばしらせている。それで体を洗う。
浴槽は大きな長方形だが、ふちが幅一メートルはあろうかと思えるほど広くて、大きくて、どっしりとした大理石である。湯からあがった先客がそこにタオルを敷いてもらってオットセイのようにどたりとよこたわっている。全裸の三助が繃帯を巻きつけてその団々たる肉塊をゴシゴシこすっている。おずおずと湯につかると、それは熱くもなく、冷たくもなく、何人もの男たちの体で練りあげられたらしくどろんとして柔らかい。日本の銭湯のようにキリキリと刺しこんでくる鋭い熱さがない。ねっとり、とろりとした熱さと重さでたゆたっている。壁ぎわにたくましいのと、細いのと、二人の三助が手に繃帯を巻いて全裸でたち、私があがるのを待っている。たくましい男のそれがちんちくりんのカタツムリのように見え、やせた男のが長大で図太くて罪深い紫いろにふすぼけて見える。それは何百回、何千回の琢磨でこうなるのだろうかと思いたいような、実力ある人のものうさといった顔つきでどっしりと垂れている。嫉妬でいらいらするよりさきに思わず見とれてしまうような逸品であった。それを餓鬼のようにやせこけた、貧相な小男がぶらさげていて、男の顔には誇りも
張がいったように垢すりの布は三種ある。一つは麻布のように硬くてゴワゴワし、これは腕や尻や背や足などをこする。ちょっと綿布のように柔らかいのは脇腹とか、腋とかをこするためである。もっとも柔らかいのはガーゼに似ているが、これは足のうらとか、股とか、そういった、敏感で柔らかいところをこするためである。要所要所によってその三種の布をいちいち巻きかえとりかえ、そのたびにまるで繃帯のようにしっかりと手に巻きつけてこするのである。手をとり、足をとり、ひっくりかえし、裏返し、表返し、男は熟練の技で、いささか手荒く、けれど芯はあくまでも柔らかくつつましやかにといったタッチでくまなくこする。しばらくすると、ホ、ホウと息をつく気配があり、口のなかでアイヤーと呟くのが聞えたので、薄く眼をあけてみると、私の全身は、腕といわず腹といわず、まるで小学生の消しゴムの屑みたいな、灰いろのもろもろで蔽われているのだった。男は熱意をおぼえたらしく、いよいよ力をこめてこすりはじめる。それはこするというよりは、むしろ、皮膚を一枚、手術としてでなく剥ぎとるような仕事であった。全身に密着した垢という皮膚をじわじわメリメリと剥ぎとるような仕事であった。男は面白がって、ひとりでホ、ホウ、アイヤーと呟きつつ、頭のほうへまわったり足の方へまわったりして丹念そのものの仕事にはげんでくれた。そのころにはもう私は羞恥をすべて失ってしまい、両手をまえからはなし、男が右手をこすれば右手を、左手をこすれば左手を、なすがままにまかせた。一度そうやってゆだねてしまうと、あとは泥に全身をまかせるようにのびのびしてくる。石鹸をまぶして洗い、それを湯で流し、もう一度浴槽に全身を浸し、あがってきたところで二杯、三杯、頭から湯を浴びせられ、火のかたまりのようなお紋りで全身をくまなく拭ってくれる。
「ハイ、これ」
そんな口調でニコニコ笑いながら手に垢の玉をのせてくれた。灰いろのオカラの玉である。じっとり湿っているが固く固く固めてあって、ちょうど小さめのウズラの卵ぐらいあった。それだけ剥ぎとられてみると、全身の皮膚が赤ん坊のように柔らかく澄明で新鮮になり、細胞がことごとく新しい漿液をみたされて歓声あげて
個室にもどってベッドにころがりこむと、かわいい少年が熱いジャスミン茶を持って入ってくる。寝ころんだままでそれをすすると一口ごとに全身から汗が吹きだしてくる。少年が新しいタオルを持ってきて優しく拭いてくれる。爪切屋が入ってきて足の爪、手の爪、踵の厚皮、魚の目などを道具をつぎつぎとりかえて削りとり、仕事が終ると黙って出ていく。入れかわりに按摩が入ってきて黙って仕事にかかる。強力で敏感な指と掌が全身をくまなく這いまわって、しこりの根や巣をさがしあて、圧したり、撫でたり、つねったり、叩いたりして散らしてしまう。どの男も丹念でしぶとく、精緻で徹底的な仕事をする。精力と時間を惜しむことなく傾注し、その重厚な繊細は無類であった。彼らの技にはどことなく重量級の選手が羽根のように軽く縄跳びをするようなところがある。涼しい
やが男の強靭な指から体内に注入され、私は重力を失って、とろとろと甘睡にとけこんでいく。
「私のシャツ」
「…………?」
「昨日まで着てたシャツですよ」
「…………?」
翌日、ホテルの部屋へやってきた張に、テーブルにのせた垢の玉をさしてそういったが張はひきつれたように微笑するだけだった。彼はポケットから一服分の茶の包みをとりだし、全香港で最高の茶をさがしてきました、東京で飲んで下さいといったが、そのあと黙りこんで、ぼんやりしていた。三助、爪切屋、按摩、少年、お茶、睡眠、一つ一つをかぞえて私はこまかく説明して絶讃し、あれほどまでに人と体を知りぬいて徹底的に没頭できるのは手に爆弾を持たないアナキストとでもいうしかないという意見を述べたが、張は何をいっても発作のようにうなずいたり、微笑するだけで、あとは暗澹とした眼になって壁を眺めて茫然としていた。あまりそれがひどいので、私は話すのをやめ、スーツケースの荷作りにとりかかった。澡堂の個室で私は完全に気化してしまい、形をとりもどして服を着て戸外にでたときは、服、シャツ、パンツ、靴、ことごとく肉とのあいだにすきまができて薄寒いほどで、街の音や匂いや風のたびによろめくかと感ずるほどだった。しかし、一晩眠ったら、骨も筋肉ももとの位置にもどり、皮膚には薄いけれど濁った皮膜ができて赤裸の不安を消している。垢の玉はすっかり乾燥して縮んでしまい、ちょっと指がふれただけでも砕けてしまいそうなので、注意に注意して何重にもティッシュ・ペーパーでくるんでポケットに入れた。
空港へいって何もかも手続を終り、あとは別れの握手をするばかりというときになって突然、張がそれまでの沈黙をやぶって喋りはじめた。昨夜、新聞社の友人に知らされた。北京で老舎が死んだという。紅衛兵の子供たちによってたかって殴り殺されたのだという説がある。いや、それを嫌って自宅の二階の窓からとびおりたのだという説もある。もう一つの説では川に投身自殺したのだともいう。情況はまったくわからないが、少くとも老舎は不自然死を遂げたということだけは事実らしい。それだけは事実らしい。
「なぜです?」
「わからない」
「なぜ批判されたんです?」
「わからない」
「最近どんなものを書いてたんです?」
「読んでない。わからない」
「…………」
ふるえそうになって張を見ると、いまにも落涙しそうになって、やせこけた肩をつっぱっている。日頃の沈着、快活、ユーモア、すべてが消えてしまい、怒りも呪いもなく、ただ不安と絶望で子供のようにすくんでいる。辛酸を耐えぬいてきたはずの初老の男が、空港の人ごみのなかで、眼を赤くして、迷い子のようにたちすくんでうなだれている。
「時間です」
「…………」
「また来て下さい」
「…………」
「元気でネ」
張はおずおず手をあげると、軽く私の手をつまんで休をひるがえし、うなだれたまま、のろのろと人ごみのなかに消えていった。
機内に入って座席をさがしあて、シート・ベルトを腰に締めつけたとき、突然、昔、北京の自宅に彼を訪問したときの記憶がよみがえった。やせこけてはいるが頑強な体躯の老作家が、突然、たくさんの菊の鉢から体を起し、寡黙で
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/10/25
背景色の色
フォントの変更
- 目に優しいモード
- 標準モード