鵠が音(たづがね)
昭和十九年 ――五十首――
この日頃 一
雪ほのに見えて しづもる向ひ山。 暗きに起きて、兵を
健やかに征きてかへれと 告げて後、たち征きにしが、まだ暗き
若くして
この日頃 二
きほひ来し学徒も 今はおちつきて、おのも しづけき兵となりゆく
近々と 山の
この日ごろ。深く身に沁む戦ひの夢に 目ざめつ。しづけき眠り
敵、まあしやる(*マーシヤル)に上陸す
つばらかに告ぐる戦果を きゝにけり。こゝに死にゆく兵らを われ知る
若きらが たち征きて
さ夜ふかく 心しづめて思ふなり。一人々々 みなよく戦はむ
*
兵とある自覚を 深くおのがじしもてとさとして、たかぶり来たる
宵早く 道の
別れ来て
別れ来て、勤めに対ふすべなさよ。とほ
春畠に菜の
つゝましく 面わやつれてゐたまへば、さびしき日々の 思ほゆるかも
朝けより 彼岸中日空低く、霰のはしる道を 来にけり
人のうへのはかなしごとを しみじみと喜び聞きて、師はおはすなり
村田正言を憶ふ
かへり来て、夕日まだある空ひろし。さびしき死にを 思ひやまずも
今はまたく遙かになりし
一兵卒として 過ぎにけり。よき
年長く つひに 音なき汝が死は、思ひ見れども さびしかりけり
この日頃 三
春の日の 山にはたらく
雨ののち 照る日しづけき春の日の空に澄みゆく鳥は、さびしき
朝晴れて 芽ぶきに早き
*
営庭に 暁起きの肌寒く、兵をたゝせて 点呼を
しみじみと兵を諭して、うつらざるかたくな心に さびしくなりぬ
五六人の兵を起たしめて、民族のたぎる血しほをもてと 言ひ放つ
明け
ひそけき思ひ
さ夜ふかく 別れをのぶる顔々の、はればれしきに 思ひしむなり
民族の血のたぎり かく大いなる時ぞとさとして、たゝしめむとす
たゝしめて後 ひそかなる思ひなり。深き夜空を仰ぎつゝ来ぬ
友をたゝしめて 心むなしきに、若者は、烈しき
幾たびか兵を教へて たゝしめぬ。今年の暑さ すでに 身にしむ
かくばかり 世界全土にすさまじきいくさの果ては、誰か見るべき
たちゆきて なほぞしづけき。大いなる作戦行動近きを おぼゆ
知り人の戦死の噂 あひ
営外自然
公園の 朝しづけき水の上。花かきつばた 日ごろ咲きつぐ
柿若葉 つらつら照りて、ひた土にかすかに動く朝かげを 踏む
晴れつぎて 目ざめすがしき日ごろなり。朝空高く 鴉なき過ぐ
道のべの草を
谷に這ふ
山上の池の
わが馬の歩みしづけく なりにけり。
昭和十八年 ――百首――
家 居
兵とゐし
年深く にはかに召され立つ人の若々しきを、ねもごろ祝はむ
戦ひにゆかず かへり来て、あわたゞしく年かはりたる思ひの かそけき
朝庭の霜凍て土に 年あけて、こぞより来鳴く鶯の声
さびしみて 後ほがらかにゐむとすも。睦月明るき庭土の面
戦地よりとくかへり来し若者を 春の客とし、なごみて対す
睦月立つ
睦月の海山
たゝかへる春のしづけさ。塩尻より 友をまじへて、木曽谷に入る
乗りつぎて入りゆく山は、雪浅し。夕冷えしるく おぼえゐるなり
夕
山の駅の 夕阪寒く出づる人。宿ある如く たち別れ行く
木曽谷の深きに宿り、朝目よく まむかふ山の冷え 身にひゞく
戦ひの春立つ山の つゝましき日毎おもほゆ。雪の浅きに
湯をいでゝ向ふ山の端の夕空は、山と
木曽川の淀みに近くとまる駅。水照り返す朝の しづけさ
明あかと 土に凍てつく雪の色。冬木荒れ立つ山の むなしさ
蒲 郡
波の
日の没りの暗き
夜をふかしゐつゝ、おちつくことのよさ。ほてる(*ホテル)のとばり閉ぢて 久しき
朝目よく 知多の山なみ晴るゝなり。睦月八日の海遠く凪ぐ
磯山に 凍て土乾くあはれさよ。踏みくづしつゝ ひゞくなりけり
朝の間の 島の社をまかり来し姥三人過ぎて、海のあかるさ
正月の 家並みとざせる海の町。
修善寺
冬水の湛へに深く 棲む鯉の 浮き出で来るを、まもりゐにけり
霜凍ての
湯の村の睦月の道の ものげなさ。頼家の墓に来て もどるなり
風の音
春山の 木ぬれの風を仰ぎ来て、
庭さきは
くぬぎ山。
芽ぶき山 つらぬきてとほる道の空。編隊つぎ来る 航空機の 音
村口の寺は 素壁の荒びゐて、くぬぎの萌え葉 山をしづむる
篁
おぼほしく 朝けをかすむ峡の空。川上とほく たぎつ水見ゆ
湯の村は 青葉に深き竹の秀の 曇りしづけき朝と なりけり
水の音 みちて澄み行く庭中は、若竹むらの たゞそよぐなり
春一日 いで湯に来たり、
峯近く 松にまじれる常磐木の つらつら照りて、日はゆふづきぬ
山 道
春の日に一日こもりて 降るなり。夕日にのこる朴の 白花
山岸は うまら うの花咲き乱れ、白じろけぶる雨となりゆく
足柄は 遠嶺の奥になほ晴れて、夕霧 すでに
春一日 曇りとほせる
はろばろに
青き起伏
ほとゝぎすの 真昼しばなく原中は、
演習のとよみ 移りゆきて、山原は 青き
浅間嶺をつゝみし雲の 夕近く やゝ
原中の木むらにこもる
山高原 夜の色となる靄の底に、まだ鳴きてゐて鳥の しづけさ
鳴きゐたる鳥は静まり、夕靄の下べに冴ゆる 青草のいろ
をちこちの
浅間嶺の夜はのすがたと ひた澄める若者の
浅間嶺の夜はを とゞろに
盛 夏
南のむんだ(*ムンダ)の陣の たゝかひのはげしきを感じ、夜はに目ひらく
山道にたち働ける自動車兵の、かひがひしきに 心はれ来ぬ
おしだまりて 日中歩み来し山かげに、くさりくねれる紫陽花の はな
身にしみて 山の木草はさやげども、心あそばず 夏ふけにけり
たへがたき土用つゞきの朝起きて、身に近く 人を悼みやまずも 波多郁太郎君死ぬ
死は つひにさびしかりけり。をしめども すべてかひなきものに なりゆく
ほのぼのと
みむなみに 相つぎて国独立す。我がいくさ人の 流血
重工場 ひけしづまりて、白々と 夕づく道は、山原にとほる
駅ごとに かならず
墓原の盆夕時を人むれて しづけき村を、汽車に見下す
筑紫より帰還兵一人のぼり来て、いふ挨拶の 何ぞしづけき
若人の ことばとぎれは、ながかりし転戦のさまを 思ふなるらし
いやはてに昭南島ゆ かへり来し兵士を迎へ、ねぎらひもなし
必しも全きことのみ願はねば、還りし汝よ。語りくらさね
*
さ夜ふかく 月
虫のねの さすがに 夏のふけゆけば、いよゝしづけく たゝかひ身に沁む
湘 南
騒然と とらつく過ぐる道の空。鳶のとほ音の 海よりに澄む
かすみつゝひより
一つ橋
町の
町中の 夕照り強き橋のうへ。すぎつゝひゞく 自動車のおと
若き人々
若くして征かむ学徒の ひとりひとりに、いたはれよ 身をと 言ひたかりけり
学校をいでて たゞちにたちむかふいくさのにはを 思ふなるらし
かへりみて
航空隊に入ると
身にかけて 国の危きをなげき居るこの若き者も 親を思へり
親ありて言ひおこすことのふしぶしの、
春寒し
人知れぬ怒りをもちて かへり来ぬ。若きがゆゑに ゆるし難しも
人を さげすみて来し 道の空。桜を見れば、さびしまむとす
あかあかと 炎たちゆく庭芝の 底にしばらく
再、出でたつ
召され来て 五日ことなき起き臥しに、伊太利降伏の報道を 聞く
大君は 我をふたゝび召し給ふ。歩兵少尉の かずならねども
ふたゝびを召され来たりて、我を知るよき兵士らに 親しみにけり
若々しき将兵 多くたちゆきて、日毎秋づく兵舎に わが居り
わが馬のうしろにつゞき 兵がひく馬 馬、ひづめの音高く来る
山岸の葛葉の垂りの さはさはに、ひきつゝ 馬の 口やめずはむ
秋山は あまりしづけく晴るゝなり。家さかり来て 兵と起き臥す
かの若き兵らも すでに 南の基地に至りぬと聞けど かそけき
とほどほし 峡の
公園の木立ちをぬけて わが通ふ道は、日暮れの 早くなりたり
病棟の 宵の点呼の やみてのち、空は すぎゆく風の むなしさ
雨ののち 砂の流れのこまやかに、
*
子がいくさ かくひたぶるにありけりと、我にきかしめ、しづけかるらし
死にゆける若き命の
いさましき空の軍を たのむなり。この家をいでて 子はすでに死す
鵠が音 追ひ書き その三 釋迢空
敵一機 琵琶湖東岸を北上すと まさに受信し、哨兵に告ぐ
我々にとつて、思ひの深い歌の一つである。最初、この歌集を出さうとしたのは、まだ、春洋が、硫黄島の守備に、生きてはたらいて居た時である。東京では、情報局や、報導部で、今日明日にも、本土に上陸して来さうだ、と公言して廻りながら、ひどくなつた戦争の実情については、国民に告げる勇気を失つてしまつた頃である。
さう鈍感でもないつもりだつた私どもすら、「たづがね」と言ふ古語が、かの島に渡つた人々の運命をそろそろ前兆し初めてゐたのに、気がつかなかつた。其と言ふのも、さう言ふ心が、痛切には起つてゐなかつたからである。集の名を、古代の霊魂信仰に寄せて考へたのも、今になつて見れば、謂はゞ、いまいましいはずの名だが、思へば、さう言ふ軽い物思ひを圧倒するほどの感情が、「われ人よりも」の心にあつたのである。此は当時の烈しい心持ちに生きた人々は、誰しも記憶の底に持つてゐるに違ひない。
草稿が出来あがると、この原稿を整理してゐた春部(注――伊馬春部)が、亦せはしなく、中部支那の戦場にたつて行つた。
急いで、報導部の検閲を受けると、暫らくして数个処の附箋をして返して来た。忘れもしない、此歌も、其一つであつた。ところどころ、その時の検閲人の判が、歌の脇にある。|親泊(オヤドマリ)と言ふ苗字であつた。親泊は、沖縄固有の姓であつて、その同姓の幾人かを知つてゐる。たゞ偶然検閲人だつた親泊氏には、逢ふ機会がなかつたのである。確か当時少佐で、陸軍報導部に居たと言ふ人に違ひない。
戦争がすんで、いちはやく自決した人々の中に、この人の名が見えてゐた。まるで、他人とも思はれぬ黙会する心があつて、私を寂しがらした。
この歌一つで見ると、実戦のものゝ様な誤解が起りさうだが……此は、其よりずつと早い、昭和十七年はじめて召集せられた時の連作中の一首である。金沢の町における訓練空襲の夜、某百貨店の屋上に機関銃を据ゑた時の歌である。単に演習想定を心に持つて作つたに過ぎないので、親泊氏の指定では、一度「琵琶湖」といふ地名を消したらしいが、之を活して、「さしつかへなし」と書き加へてゐる。演習だと言ふことに、気がついたからである。私だけの考へ方に過ぎないかも知れぬが、この一聯の歌などは、戦ひの歌として、範囲も、雰囲気も、多くの人間の動きも、又都会の夜のしづけさも、ぴつたり把握してゐる。大きくて空しい時代の感銘――戦争の中の過ぎ去つた夢を、極めて静かな、虚空に映写してゐるやうな気がする。
春洋の作物には、これに似た印象を与へるものがあつて、読過の際、ちらとふりかへりたくなるものがある。「さうだつたか」と気がついて、一歩ひつ返すと、もう何処へ行つたか、影も形もない。さう言ふ匂ひが感じられるか知ら。出来れば、心切に読んでやつて貰つて、さう言ふ機会に接してやつて頂きたいものである。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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