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チャプラ(草小屋)からこんにちは

  一章 国際救急医療チーム

 

 1 エチオピアの(かん)ばつ

 

「四年間雨が一滴も降らない干ばつ」

 そう聞いても日本人には、けたはずれの日照りの実感が伝わってこない。

 ダムの水が減った、水を大切にしようといっても、梅雨になると増えて、いつのまにか忘れ去られてしまう。

 一九八四年、エチオピアの干ばつが伝えられた。

 砂漠に変わってしまった大地に砂が舞い、小石がごろごろして、一本の草も生えていない。

 飲み水を探し、食べ物をもとめて、骨と皮ばかりにやせおとろえた人びとは杖にすがり、ぼろをまとってさまよい歩いている。

「飢餓地獄ね」

「国はなにしてるの」

 テレビをみながら夕飯を食べている淳子(あつこ)の娘たちは顔をしかめた。

 大学生と高校生の二人の娘の同じなやみはダイエット。どうしたらやせられるか。テーブルに並べてある料理を、なるべく少なく食べる工夫をしている。

 しかし島田淳子にはテレビの画面からその乾きがのどに、飢えがおなかに伝わってくる。

 長女の恵子は、一九六五年、淳子が三十歳の時、おろぬき菜とキュウリ、カボチャのつるで飢えをしのぎ、五十三キロあった体量が三十八キロに減り、骨と皮ばかりのときに生まれた。

 一九八四年十二月、安倍外務大臣がエチオピアに視察に行き、ただちに外務省より国際救急医療チームが救援に向かうことになった。

 会員として登録してある淳子にも連絡が入った。

 医療チームはあわただしく集まると、持って行くものを決めた。

 医薬品のほかに生活に必要なものがある。

 石油コンロ、なべ、食器などの炊事用品。

 かんづめやラーメン、アルファ米などのインスタント食品。

 それにテント、シュラーフ、簡易トイレ、自転車や日用雑貨品を用意した。

 国際救急医療チームは、災害にあった国から頼まれたら、四十八時澗以内に現場に入らなくてはならない。

 日本の国際救急医療チームは、一九八二年カンボジア難民救援のときにできた。

 そのときの体験をもとにして医薬品や生活用品を準備した。

 淳子たち医療チームは、十二月二十日成田空港からロンドン経由でアジスアベバに向かった。

 アフリカは遠く、飛行機の旅は長い。まる二日かかる。

 若い看護婦のなかには、はじめて海外に出る人もいた。

「島田さん 私 上高地でキャンプしたわ。テントを張って、シュラーフにもぐって寝たわよ」

梓川(あずさがわ)のほとりでしょ。チグレは水がないのよ」

「島田さんは、五年前のカンボジア難民のときも救援にいったんですってね」

 淳子はうなずいた。

「あのニッパヤシの野戦病院は悲惨だったわ」

「島田さんが、国際救急医療活動を始めたのはいつからですか」

「今のあなたと同じ二十五歳のときだったわ。一九六一年の五月に羽田空港からマドラスに飛んだのが、ことの始まりね」

 淳子の頭に、二十三年前の若かった自分の姿が浮かんだ。

 その当時は国際救急医療チームがまだなく、キリスト者医科連盟が、ネパールの病院で看護婦を求めていると聞いて、行くことにしたのだった。

「きっかけはなんですか」

「わからないわ。理屈じゃなくて気持じゃないかしら。前から私、ボランティア活動していたの。三田(みた)さん、あなたは」

 淳子は、若い看護婦に聞いてみた。

「両親は、わざわざ危険な場所にでかけて行くことはないって、猛烈に反対しました。おまえが一人いったからつて、飢餓が救えるわけじゃないって。私一人っ子なんです」

「そのとおりよ。日本で子どもが鍵をしめた家の中においてきぼりにされて、餓死寸前で見つかったら大騒ぎでしょ。日本の子もエチオピアの子も同じよね。私は見て見ぬふりはできないの」

 二日間の空の旅は終わり、十二月二十三日にマカルに着いた。

 マカルは海抜二四〇〇メートルで、富士山の六合目ぐらいにあたり、気温は二十度ぐらいでしのぎやすいが、高地で気圧が低いせいか、少し動きすぎると息が切れる。

「島田さん、干ばつってこういうことだったんですか」

 飛行機で隣の席だった三田さんがあえぎあえぎいった。

 乾燥して砂漠となった大地は、風が吹くと一メートル先も見えないほどの砂嵐につつまれる。

 三田さんの長いサラサラの髪は砂にまみれてもつれ、鳥の巣を頭に乗せているようになった。ほおはきな粉をまぶしたあべかわ餅みたいだ。

 口の中に砂が入り、ジャリジャりする。目もあけていられない。

 二日間の空の旅で時差ぼけしているところに、砂嵐に吹きまくられて、みんな化石のように立ちつくしている。

「風より暑さのほうがましね」

「体力のある人でないとだめね」

 こういうときは経験がものをいう。

「今さら気がついても手遅れよ。したくして」

 淳子はてきぱきと荷物をほどき、難民キャンプに持っていく物を整理した。

「島田さんは、スーパーマンだな」

 外国チームとの交渉係の青木くんがいった。

「私、これでもレディよ」

 淳子は、ジーパンのわきをつまみ、左足を後ろにひいて、腰をかがめておじぎした。

「ごめん、スーパーレディでした」

 みんな笑った。そして精気をとりもどした。

 ここでは難民キャンプをシェルターと呼んでいる。

 各国の医療チームの陣営がかたまってある。

 日本チームはイタリアチームと同宿だった。

 医療班の基地から四キロ離れたところにシェルターはあった。

 西ドイツの援助でテントはすでに設営されていた。しかしまだまだたりない。

 日本チームは、シェルター一の担当となった。収容人員はおよそ七千人。中に入れないでシェルターの外にいる者が約一万二千人。

 なにから、どう始めたらいいのかわからない。

 医療より食べ物だ。

 父親にだきかかえられて七歳ぐらいの女の子が連れてこられた。骨にチョコレート色の皮ふがはりつけてあるようだ。

 名前を呼びたくても言葉が通じない。

 通訳しているうちに、この子の命は消えてしまうかもしれない。

 淳子は、そっと少女の頭をかかえた。

 わりばしに綿をまきつけ、綿に水をふくませて口に入れてやった。吸う力もない。少しずつしぼってやった。

 少女の唇がピクッと動いた。

「リサちゃん、がんばるのよ」

 淳子は、かってに名前をつけて呼んだ。

 水がまちがって気管に入ったら窒息する。

 少しずつ、少しずつ水の量を増やしていった。根気よく淳子はそれを続けた。

 どのぐらいたったんだろう。少女は弱々しく綿にふくんだ水を吸った。

 のぞきこむ父親の目に涙が光っていた。

 その後ろで杖にすがってやっと立っていた少年がくずれるように倒れた。淳子は少女を父親にあずけ、かけよって手首をにぎったが脈はふれない。瞳孔がもう開いている。

 やっとの思いで水も食べ物もある場所にたどりついたというのに、安心して、気力でつないできた命のともしびが、ふっと消えてしまったのかもしれない。一滴の水も口にしないで。

 生と死が秒刻みで目の前にある。手当てもしないで死なせてはならない。気ばかりあせってもどうにもならない。

 水を飲む力のでた子どもにはカロリーメイトを食べさせる。カロリーメイトを食べられるようになればしめたものだ。それまでが淳子たちの腕にかかっている。ポカリスエットや粉末離乳食があったらいいと思う。

 なにかの病気にかかって手当てのかいもなくというのならまだあきらめもつく。

 食べる力もないほど飢えて死んでいく子どもを見るのはしのびない。

 

 2 マカルのシェルター

 

 シェルターの中に病院テントが四帳ある。

 入院患者はおよそ百人。

 毛布は汚物でよごれ、ノミやシラミがはい回っている。

 寝ている子どもの顔や頭、目のまわり、ところかまわずハエがたかり、黒ゴマをまき散らしたようだ。たたけば一度に百匹はとれるだろう。

 竹で編んだアンペラや担架をベッドがわりに使っているがたりない。毛布をじかに土にしいて寝かされている子も多い。パイプ製の折たたみサンデッキのようなものがあるといいのだが。

 非衛生な場所に、死線をさまよっている極限状態の栄養不良児が、ぎゅうぎゅうづめに寝かされているのだから、伝染病がはやらないわけがない。

 マラリア、下痢、発疹チフスがはびこっている。

 高熱のある子、血のまじった便をする子。

 乾燥と砂ぼこりでのどをやられ、せきのとまらない子。トラホームの子。寄生虫がいるのかおなかがいたいという子。貧血があるのだろうが顔色ではわからない。

 また一人五歳ぐらいの男の子が運ばれてきた。意識がもうろうとしている。

 点滴注射をしようと血管を探しても、勢いよく血液が流れているときのような張りがないのでわかりにくい。やっと探しあてても、もろくなっていて液がもれてしまう。そこでおなかに点滴皮下注射をすることにした。

 吸収してくれるといい。死線をのりこえてくれるといい。

 死者は一日平均四十五人から五十人にものぼる。気温の下がる夜明けまえに、衰弱した子どもは長い飢えとの戦いを終えて死んでいく。

 この子たちは、飢えと戦うために生まれてきたのだろうか。子どもたちにとっては、戦争よりもむしろ飢餓の方がむごいのではないだろうか。

 シェルターにきてめまぐるしく三日がたった。淳子がリサちゃんとニックネームをつけた少女は病室に運び込まれ、点滴注射のかいがあって、ミルクを飲めるようになり、ビスケットも食べられるようになった。目に子どもらしいかがやきがもどってきている。

 食べられるまでに回復した病人には、朝、夕、インデラがくばられる。

 インデラは、この地方の主食で、ヒエの一種のテフの粉でつくるが、干ばつでできないため、各国から送られてくる小麦粉でつくる。

 直経五十センチぐらいのクレープで、トタン板で焼く。

 エチオピアの食事は、インデラを食べてコーヒーを飲む。

 入院している病人のところへ、家族が一輪ざしの花びんのようなものに、コーヒーを入れてもってくる。湯のみとちょこの間ぐらいの器に入れて飲む。

 淳子は、それをちょっと飲ませてもらった。

 すると、

「うちのも飲んでくれ」

 あっちからも、こっちからもちょこが差し出される。

「よく平気で飲めるね」

 医師が、にが虫をかみつぶしたような顔でいった。

 竹で編んだ、手あかのついたざるにポップコーンみたいなものが入っている。

 淳子は、どんな味がするのかと思い、ひょいとつまんで食べてみた。

「もっと食べろ」

 うれしそうに分けてくれる。

 救護をしてやっているという態度だと、被災者は、見くだされていると感じる。

 民族の違いをこえた、人と人との血のかよったまじわりが大切だと淳子は思っている。

 シェルターのテント生活は、六畳ぐらいの場所に十八人ぐらいで寝起きしている。

 おじいさん、おばあさん、その子どもたち夫婦と孫。三世代が肩をよせあって暮らしている。せまい所におしこめられてもけんかをすることもなく、不平もいってこない。

 それでもテントに入れた人は運がいい。

 シェルターの外では、吹きさらしの砂嵐の中で、うずくまるように暮らしている。

 なかには、風の吹いてくる方向に石を積み重ねただけの、たよりない砂嵐よけの塀に身をよせている家族もいる。

 マカルは最も干ばつがひどく、七年間も雨が降っていない。農民は種まで食べつくし、農地を捨てて、食べ物を求めて難民となっているという。

 シェルターの難民は農民より遊牧民の方がはるかに多い。

 サハラ砂漠の南に帯状に横たわるサヘル地域は、もともと雨が少なく、砂漠がしだいにくいこんできている。

 遊牧民は草と水を求めて家畜を移動させて歩く。家畜は草木を食いつくして北から南へ下ってきている。

 干ばつで家畜の食べる草木はなく、遊牧民は暮らしを立てる糧の家畜を食べつくして、生活のすべてを失って難民となった。

 砂漠が猛烈な勢いで南下してきている。

 地球全体の気候が変わってきているという人もいる。政治的な問題もあるだろう。

 原因は、どうあっても、現実がそこにある。

 その現実に立ち向かっていくには、そこに住む人たちのその土地にあった風俗や習慣、伝統文化にそった救援が大切なのではないか。淳子は今までの経験からそう考えるようになった。

 淳子はだんだんエチオピアの医療スタッフと友達になっていった。彼らは英語がわかる。

 医師の指示がでると、エチオピアの医療班に説明して、注射をはじめ、すべてのことをやってもらうようにした。

 自分でやるほうがはやいし、まちがいない。

 しかし国際救護班は消防士の役目で、火事が消えればそれぞれの国に帰る。あとはその国の医療班でやっていかなければならない。「シスター 島田」

 彼らは淳子をたよって何かと聞きにくる。

「シスター島田、お茶とビスケット用意しといたよ」

 シェルターの雑役係の少年が、人なつっこい丸い目で呼びにきた。

 状況は一日ごとによくなっていった。

 一月二十六日、淳子たちは日本に帰ることになった。

「あと一か月いてほしい」

「帰らないで」

 エチオピアの医療スタッフは泣いている。

 みんなで空港まで送ってきてくれた。

「シスター島田」

 涙をながして手を振っている。

 空港は軍事基地なので医療班は入れない。

「シスター島田」

 みんなの声が、飛行機に乗っても淳子の耳から離れなかった。

「忘れないわ。あなたたちのことを。友情をどうもありがとう」

 遠ざかるエチオピアの大地をみつめて、淳子は心の中でつぶやいた。もう再び会うことのない人びとに向かって。

 

 3 国境の野戦病院

 

 淳子は今日まで、どれだけの人と会いそして別れてきただろう。出会ったときが生死にかかわる特殊な状況であるだけに、強く印象に残っていて忘れられない。

 エチオピアの干ばつより、五年前の一九七九年十月、カンボジアで政変がおこり、戦争にまきこまれた農民は、着のみ着のままでタイ国境に逃げて難民となった。

 こうした国際的な非常事態がおこったときは二週間が勝負だといわれている。

「日本はなにをしている。同じアジア人じゃないか、もっと積極的になってほしい」

 各国の非難を浴びた。

 日本にはまだ国際救急医療チームがなかった。

 にわかに日本難民救援医療チームが結成された。

 日本医療班が現地に到着したときは、もうすでに竹を柱にしてニッパヤシでかこった各国の病棟ができていた。

 一九八○年三月、淳子は第二次医療班としてタイに向かった。日本班は、サケオとカオイダンで医療活動に加わった。

 アメリカ、フランス、西ドイツ、それに国際赤十字の病棟が、道をはさんで十一(とう)ならんでいる。

 アメリカは四つのボランティア団体が活躍していた。

 病棟のまわりは鉄条網が張り巡らされていて、少し離れた所に難民キャンプがある。

 カオイダンは、国境すれすれの野戦病院で負傷者がたえまなく運ばれてくる。

「一人でも多く運びこむ」

 それが、カオイダンのモットーだった。

 地中に埋めてある地雷をふんで片足をふきとばされた少年兵。

 手のひらがえぐられ、指と手首が筋でかろうじてついている者。

 戦争をしらない日本の若い医師は、重傷患者から治療にとりかかる。

「ノー!」

 アメリカの医師が叫んだ。

「トリアージ」

 緊急患者の選別。

 助かる者からできるだけ多くの負傷者を救う。助からない者は手当てをしても助からない。そのわずかな時間の差が助かる人の命までもうばってしまうのだ。

 戦争医療をしらない日本医療班は、そんな場面にとまどった。

 難民は、日中はめだって動けないので、夜ジャングルを通ってやってくる。

 夜中に、大声で泣き叫ぶ女の人が連れてこられた。

「どうしたの」

 淳子は、白髪のまじったざんばら髪をふりみだし、半狂乱になっている女の人の手をにぎって聞いた。

 彼女はふりしぼるような声で淳子にうったえた。

「国境を越えるときいっしょに逃げてきた娘が地雷をふんで爆死したっていってます」

 そばで通訳がいった。

 淳子は彼女の肩をだいて、そこにすわらせた。

 彼女は床を手でたたき、体をはげしくゆすってうったえ続けた。

「夫は戦死し、息子は少年兵でなくし、三つの子は餓死させ、たった一人生き残った六つの女の子は、今、そこで死んでしまった」

 淳子はなぐさめる言葉もなかった。

 たまたまその時代に、そこで暮らしていただけで、ふってわいたような災難にまきこまれる。これは、どういうことなのだろうか。

 カオイダンの医療センターから一キロ離れると命が危ないといわれている。

 恐怖からデマが飛んでパニックにならないように、各国のボランティアの避難順序が決められた。

 戦場の恐ろしさに、精神錯乱状態になって送られてきた兵隊が、日本医療班が受けもつ病棟に八人もいる。

 最前線は、ただ人間同志の殺しあいの現場以外のなにものでもない。そこはまさに狂気の地獄そのものなのだ。

 淳子は帰りの飛行機の中で、二十余年前の青春時代を思い出していた。

 

 4 オダンチャトラムの国際病院

 

 一九六一年、淳子が二十五歳の五月晴れの朝だった。海外で医療活動をするため、羽田(はねだ)空港からネパールヘの旅に飛びたった。カルカッタを経由し、南インドのマドラスに着いた。

 日本の生活から、いきなりネパールの暮らしに入るのでは違いすぎて、とまどってはいけないからと、関係者が気をつかってくれた。

 まずインドの風習になじんでくださいということだった。インドはイギリスの植民地時代が長く、それだけ異文化を取り込んでいる。

 マドラス空港には、キリスト者医科連盟の通知をうけて、インド人医師タリアン氏が迎えにきてくれた。

 ベンガル湾に面した南インドの都市マドラスは赤道に近く、海岸にはどこまでもヤシ並木が続いていた。

 猛烈に暑い。じっとしていても汗が流れる。

 日中は三十八度ぐらいで湿度が高い。

 タリアン氏がマンゴーをごちそうしてくれたが、おなかがすいているのにあお臭くて食べられなかった。水を飲んでもへんな味がしてなまあたたかい。

 目的地のオダンチャトラムの病院まで車でまる二日かかるという。

 トウモロコシ、マンゴー、バナナ、ヤシ畑の間の道を、土ぼこりをあげて車はひたすら走った。なにしろ広い。行けども行けども景色が変わらない。

 所々に宿場町のような人家の集落がある。レンガを積んだ家。草ぶき、わらぶきの家。石と泥をこねてかためて造った家。

 一マイルおきに井戸が掘ってあるとかどうとか、タリアン氏が説明していたが、淳子は乗り物のよいどめ薬を飲んで意識が半分もうろうとしていた。

 その日、淳子たち一行は簡易宿泊所に泊った。

 淳子と同じ志をもってやってきた日本娘はもう一人いる。彼女は筋がね入りのクリスチャンで、聖書をひろげて夕べのお祈りをしている。

 ほっそりとしてきゃしゃな彼女が元気なのに、小麦色に日やけし、健康美をほこる淳子は、あおい顔をしてぐったり壁にもたれかかっていた。

 パパイヤを二つわりにして、種をくりぬいて牛乳を注いでスプーンで食べると、それでどうやら生気をとりもどした。

 つかれているのに眠れない。そのうちに体中が、かゆくなってきた。どうやらノミ、シラミ、南京虫がいるらしい。

 二日がかりのジープの旅もやっと終わって、オダンチャトラムについた。車をおりても、なんだか体がゆれているような感じがする。

 どっちを向いてもバナナやヤシで見通しがきかない。

 オダンチャトラムは開拓村で無医村だった。

 そこヘタリアン氏が、クリスチャンフェロシップ病院を建てた。

 村人は、仏教徒かヒンズー教徒だった。

 緑の中に、二棟の平屋の建物があった。

 ブー ブー

 タリアン氏がクラクションを鳴らすと、病院の玄関に医師や看護婦がでてきて迎えてくれた。

 看護婦は、みんな白いサリーを着ている。

「はじめまして」

 英語で話しかけられ、手がさしのべられた。

 淳子は、一人一人にほほえみかけて握手した。

 外国では、自分で自分を売り込まなくてはならない。日本式のひっこみじあんは通じない。

 病院は日本とちがって、いたってのんびりしていた。医師も看護婦も気負ったところがない。

 しかし病院の職員とは英語で話し、患者とはタミール語(南インド・マドラス地方の言葉)で話すので、神経を使う。

 男子病棟で脈をとっていると、中年の患者さんがおずおずと話しかけてきた。

「日本でも男の病人を、女の看護婦さんがみるのかね」

 淳子ははじめ、彼のいっている意味がのみこめなかった。

 インドの病院では男の患者は男の看護人がみ、医師も同性に限られている。

 言葉の違いだけではなく、民族によって生活習慣の差があるのに驚いた。

 病院に慣れてきて、インドのことが少しずつわかってくるはずなのに、ますます理解しにくくなる全く不思議な国だった。

 ヒンズー教のカースト制は複雑怪奇で、知れば知るほど迷路の奥深くふみこんでいく感じがするのだ。

 一九六一年五月から十二月まで、八か月間淳子は南インドのフェロシップ病院で、胃袋をインド食になじませ、ヒンズー教のカースト制という風習を体で覚えて、年があけるとネパール王国に向かった。

 日本語にノルカソルカという言葉がある。

 その語源は、仏教用語のナルカ(地獄)ソルカ(天国)であることを知った。そのルーツはインドにあったのだ。

 

 5 白いサリーのユニホーム

 

 ネパールの首都カトマンズのシァンタバーワン病院に淳子は勤めることになった。

 その病院はネパール、キリスト教連盟が運営する国際病院で、ノルウェー、スウェーデン、アメリカ、イギリス、オーストラリアから医師や看護婦が来ていた。

 勤務が始まると、一週間に一時間、ネパール語の勉強があり、三か月修了すると試験が待ちかまえていた。

 試験に合格すると始めて一人前として認められ、落ちたらお帰りくださいというきびしいものだった。

 天に一番近いヒマラヤに来て、試験地獄とは。各国から来ている医師も看護婦諸嬢も同じことだった。

 淳子はヒンズー語を日本で習ってたので、同じサンスクリット文字を使うネパール語は覚えやすかった。

 カトマンズがネパールの花の都パリなら、シャンタバーワン病院はさしあたりベルサイユ宮殿といったところだ。

 ネパールの今の国王、シャハ王朝ができたのは約二百年前、一七六八年と歴史は浅い。

 その間、一八四六年、国王から実権がラナ家に移り、ラナ家専制政治が約百年続いた。

 ラナ家は日本の徳川幕府によく似ている。

 ラナ一族は明治四十年頃四十名の留学生を日本に送っている。

 そんな歴史的なかかわりがあるためか、ネパールは日本人に好意的だった。

 シァンタバーワン病院が、ベルサイユ宮殿のようだというのもそのはずで、建物はラナ一族の邸宅を改造した御殿だった。

 床がタイル張りの部屋は手術室に改造してあった。内科と外科病棟があり、もう一棟には診察を受けに来る人たちをみる外来と薬局があった。

 日本で淳子は東大病院の小児科に勤めていた。そこは食事をする時間もないほど忙しかった。

 病院は忙しい所だと思いこんでいた淳子は、シァンタバーワン病院のゆったりした仕事運びに始めとまどった。

 ティー・ブリークといって午前一度、午後に一度、おやつの時間がある。ミルクティーを飲み、クッキーを食べてゆっくりくつろぐ。

 昼食時間も、たっぷりとある。

「ミス、アツコ、自分の体は自分で守らないとだめよ」

 主任のシスター・キャサリンがいう。

 博愛の精神だけでは海外協力はできない。

 健康と強靱な心がなくては、活躍はおぼつかない。それに言葉の壁をとりはらい、国際的に通用する専門技術を持っていないと、精神だけが先行し、ひとりよがりの自己満足に終わる危惧もある。

 ネパール語試験に合格して、一人前として認められると、オンコールという当直と日直をあわせたような二十四時間勤務がまわってくる。

 二十四時間勤務といっても、昼間勤務したあと宿舎に待機しているだけで、夜に救急患者があったら病院にでかけていけばよかった。

 交通機関は飛行機か徒歩なので、交通事故で運ばれてくる者はいない。

 ヒンズー教徒は、牛や豚肉は食べない。菜食主義で、それも一日に二食なので血気にはやってけんかをすることもないのかもしれない。

 アメリカやイギリスの看護婦たちは、よく大使館にお茶や夕飯に呼ばれて行った。

 当時、日本大使館はまだなかったので、遊びに行く所のない淳子は、彼女たちのオンコールを、たびたび代わってやった。

 淳子の一日は病院で明け、病院で暮れた。

 小麦色の肌の淳子は、ユニホームの白いサリーもすっかり板についた感じで、ネパール娘と見違えるほどだった。

 外見はすぐまねができるが、暮らしになじむには、十年ぐらいかけて体を慣らしていかないと病気になってしまう。

 ある日、村の若者のはや飛脚がきた。村で天然痘が流行しているという。

 医療班が歩いて一日がかりで着くと、夜になっていた。自給自足の村には旅館がない。カーストのない外国人は家の中に入れてもらえず、農家の軒で眠った。その夜淳子は初めてカースト制というものを身をもって知ったのだった。

 

それからまもなく、淳子は日本の青年と出会った。

 

 

  二章 草小屋(チヤプラ)からこんにちは

 

 1 ネパールの日本娘

 

 淳子が島田輝男(てるお)と会ったのは、カトマンズのシァンタバーワン病院で看護婦をしていたときだった。

「フィルムを切らしたので、貸してください」

 やせて日焼けした、ゴボウみたいな青年がやってきた。

 よくヒマラヤにやってくる登山家たちとどこか違う。

 登山家は、ぜいたくな装備をたくさん持ってきて、

「フィルムがあまったから使ってください」

とおいていく。

 島田は修業僧のようになにも持っていない。

「チベットの国境まで調査に行くんです」

「ラマ教寺院の調査ですか」

 彼は手を合わせて、おじぎした。

「やっぱり」

 どことなく、マハトマ・ガンジーといった雰囲気がある。

「いや、農業学術調査の下見ですよ」

「まあ」

「ヒマラヤの日本娘って、どんな人かと思って、楽しみにしてたんですよ」

 島田は、登山家から淳子の話を聞いたのだといった。

 淳子は日本語に飢えていた。くる日もくる日も英語とネパール語ではしんがつかれる。

 淳子は島田と思うぞんぶん日本語のおしゃべりを楽しんだ。

 島田はインドの農学校で先生をしているといった。

「まあ、インドのクラーク先生」

「大志をいだいたばっかりに、ごらんのとおりカマキリのくんせいといったところです」

 島田は、くったくなく大声で笑った。

 彼ならヒンズー社会にとけこめるだろうと淳子は思った。

「インドはガンジー主義だから、酒、タバコは禁止、それに肉も食べられないんです」

「それでゴボウに」

「えっ」

「カマキリのくんせいになったんでしょ。」

「いやぁ、まいったなぁ。淳子さんは、ドレスよりサリーが似合う」

 しばらくして、島田から手紙がとどいた。

 調査は終わり、農学校にもどったこと。ひまをみて、インドの民話をあつめているという便りだった。

 淳子に、ネパールの民話をあつめてほしいといってきた。

 淳子は、よく病院にかよってくるおばあさんの家を訪ねてみた。

 国際病院の中の暮らしと、ネパール市民の日常生活がかけ離れているのに、淳子は驚いた。

 病院の中には食料がたくさんあるのに、一歩外へ出てみると、そこには飢餓がある。

「うわべやみせかけだけでなく、本当に豊かな国にするためには、農業技術を普及しなくてはならないんだ。ぼくは、だからその普及に取り組んでいるんだよ」

 夢中で話していた島田の姿が浮かんできた。淳子は、今、島田の言葉の意味がわかったような気がした。

 淳子は一人のボランティアにすぎない。

 しかし島田は、地域社会をよくしていこうとしている。及ぼす力が違う。

 ある日、淳子は島田に結婚してほしいといわれた。

 淳子はうれしかった。

 この仕事に青春をかけて、悔いはない。

 しかしウェディングドレスヘの夢もある。

 ネパールの耐乏生活につかれてもいた。

 日本に帰って結婚してふつうの暮らしがしたかった。

 淳子は迷った。日本で暮らしたいなんていえない。

 だが、島田はインドの農学校は後輩にひきついで、ひとまず東京に帰るといいだした。

 淳子は島田の足をひっぱったのかとなやんだ。

「目を向けるのはネパールだよ」

 島田の頭には、もう次の設計図ができあがっていたのだ。淳子はほっとした。

 淳子は島田と帰国し、五年ぶりに日本の土をふんだ。

 東京は変わっていた。ヨーロッパかアメリカの都会に来たような錯覚を感じた。

 長い髪を三つ編みにし、お化粧もしていない淳子は洋服よりサリーが似合った。いつの間にか日本娘からネパール娘になっていた。

 

 2 家畜小屋のお嫁さん

 

 日本で結婚式をあげると、淳子は、夫、島田輝男の第二次農業学術調査について、再びネパールにやってきた。なつかしい故郷に帰ったような気がした。

「私なに人?」

 淳子は自分に聞いてみた。

 

「アジア人」

 島田がいった。

 調査が終わると、報告書を母校の東京農業大学に送った。

 ほんとうに報告書どおりになるかどうか、農学校での経験をいかして、ネパールで実験してみたいと島田はいった。

「おもしろいわ、やってみましょう」

「おもしろ半分で、できることじゃないよ」

 それはそうだが、未知の世界への挑戦は、胸がおどる。

 島田のネパールの友人が、島田の計画を聞いて、作物のできが悪いので、収穫が上がるように実験してほしいといって、農地を貸してくれた。

 そして、カトマンズの南、マンダンの農場に淳子たちはやってきた。

「家をつくろう」

 島田は、あたりを見回していった。

「材木はあるの、大工さんは」

 森林と畑があるばかりだった。

「たてあな住居じゃ野獣が危ないな」

「あっそうか」

 原始にもどればいいのだ。

 この地方にはチャプラという草小屋がある。四隅に木の柱をたててあしで囲ったものだ。

 今の西欧型の暮らしは一人の人間が資源をたくさん使いすぎる。思いきって生活をかえてみるのもいい。

 島田は、山の中にくずれた家畜小屋をみつけた。

「これなら、トラが襲ってきても、だいじょうぶ」

 それは、泥と石をこねて造ったものだった。

 淳子は石を集め、島田は土に水を加えてねった。

 泥をべたべたぬって、くずれた所をなおしていった。

「うん、なかなかいい」

 島田は、オブジェでも鑑賞しているみたいにながめている。

 壁はできあがった。床をあげて高床式にして二階に住むようにした。オオカミに襲われる心配もないし、涼しい。

「できた。自家製のマイホームね」

 しかし明りとりの窓を板でふさいだので、まっ暗になった。

「臭い」

 窓をふさぐと、壁にしみついている家畜のにおいが鼻にツーンとくる。

「牛糞で家を造る民族もいるよ」

 島田は平気らしい。

 家ができると、島田はいよいよ農業にとりかかった。

 耕運機は使わないで、ネパールの農民が使っている(くわ)で耕やした。

 淳子は、農業は始めてだったが、島田のまねをしてやった。

 カボチャやキュウリ、持っている種を全部まいた。

 この地方の気候は、雨期と乾期に、はっきり分かれている。六、七、八、九と四か月間の雨期には、野菜はできないものと、農民は決めつけている。

 そこへ日本の若い男女がやってきて、雨期だというのに、畑でなにかやっている。

 村には、テレビもラジオも新聞もない。

 農民たちは、かわった動物でも見るようにものめずらしそうに見物している。

 それに農民は、作物には興味がある。

 ここの農地は化学肥料もやってなければ、殺虫剤の散布もしたことのない、野生のままの大地だった。

 亜熱帯なので育ちがはやい。

 キュウリも、カボチャもつるがどんどんのびた。

「カボチャパーティをひらいて、びっくりさせてやろう」

 淳子は、あれこれ料理のしかたを考えた。

「煮カボチャに、ふかしカボチャ、それから………」

「喜ぶだろうなあ。米とトウモロコシ、カラシ菜しか作れないと彼等は決めてるんだ」

 島田は、カボチャをとった。

「よし、いくぞ」

 包丁で二つわりにした。

「あっ」

 淳子は、へなへなとそこにしゃがみこんでしまった。

 中はぐしゃぐしゃだった。ウリバエで果肉が全部だめになっていたのだ。

「よそものの種はうけつけないか」

 いきごんでいた島田がしょんぼりしている。

「簡単にできるんなら、とっくに作ってるよな。そう、こうやってこの土地にあった種を探していくんだ」

 それは、淳子にというよりも、むしろ自分に向かっていいきかせているようだった。

 そうだ。ヘコタレてはいけない。こんなのは、まだ序の口なんだ。淳子の心に、またファイトがわいてきた。

「やりましょ」

 

 3 実験農場への道

 

 キュウリがなった。

「ここにも、ほら、ここにも」

 淳子は、すずなりのキュウリを指さした。

 見物にくる村人は、日に日に増えてきた。

 カボチャのときは、

「そらみたことか、わしらの土地を、よそ者になにがわかるかね」

 そんなきびしい目が注がれていた。

 それが今日、親しみのこもった眼差でじっとみつめている。

「日本のキュウリを味みしてください」

 島田は、遠まきに見物に来ている、村人に分けてやった。

 伝えきいて、種をもらいに農夫がやってきた。

「日本のキュウリはうまい」

 若い農夫は作り方を教えてほしいという。

 島田は実験農場の成果を喜んだ。

 見物にきている農民は、島田のやり方を覚えるだろう。

 彼の計画は、この土地にあった苗を育てることと、それを農民に作ってもらうことだった。

 こうして村人とのつきあいが始まった。

 そのうちに、頭がいたい、おなかがいたいといってはやってくる。

 日本からもってきた薬はいくらもない。

 新しく手に入れる道がないので、手持の薬を大事に使うしかない。

 セイロガンは万病によくきいた。

「薬をくれ」

といってくると、島田はキュウリをやった。

 ここの住民には、薬より食べ物が必要だと島田は考えている。

 充分食べられれば病気はなおる。みんな食べているがたりないのだ。子どもたちはいつもおなかをすかしている。

 キュウリ作りを、もっと多くの農民に知ってもらうため、講習会を開こうと思い、島田は村長に会いにいった。

 しかし高カーストの村長と外国人は直接話すことができなかった。

 ヒンズー教のカースト制という身分制度ほどわかりにくいものはない。

 ブラーマン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラと四階級に分かれている。これは、江戸時代の階級制度の士農工商と似ている。

 カーストが違う男女は結婚が許されない。

 それを破ると村八分にあい、カーストから追い出される。カーストがないとネパールでは生きていけない。

 カーストが違うと家の中に入れないし、他のカーストの人が作った料理は食べないしきたりになっている。

 カーストのない外国人の淳子たちが、ヒンズー社会で生きていくには、わからない様々な障害があった。

 自給自足の農園生活は、おろぬき菜、カボチャのつる、キュウリなど、畑でとれたものしか食べられない。

 蛋白質と脂肪不足で、淳子は栄養失調にかかり、五十二キロあった体重は、四十キロもたぶんないだろう。

 ネパール食の、バートゥ、ダール、タルカリ、つまりご飯、汁、おかずも今では手のとどかないごちそうになった。

 バートゥは、日本のご飯のようにねばりけがなくてぱさぱさしている。ご飯がふっとうしたら汁をこぼし、米をゆでて食べる。

 ダールは、ダール豆を一日水につけておいてスープにする。

 タルカリ、つまりおかずは野菜で、たまには魚を食べる。

 それは夕食で、朝食は口ーティといって、小麦粉をねってのばして焼き、それにおかずを巻いて食べる。クレープに似ている。

 それに朝食と夕食の一日二食で、昼は食べない。

 だが、それさえカトマンズに住む一部の富裕階級の食事で、人口の九十パーセントをしめる山岳農民の主食は、トウモロコシの粉で、それを厚焼きパンにしたり、油でいためて食べる。

 そのほか、ヒエやツァンパというライ麦の粉に湯を注いでそばがきのようにして食べることもある。

 今、肥満になやむ日本人も、淳子の子どものころは飢えていた。

 ご飯がわりに、ふかしたさつま芋や、ふかしカボチャを食べていた。どの子も栄養失調で体のそこかしこにおできができていた。

 その頃、子どもの間に「さらばふるさと」のかえ歌がはやっていた。

  そののさキュウリ、ナス、カボチャ

      かきねのトマト

  今日は、なれをながむる終わりの日なり

  思えば涙 ひざをひたす

  さらば 古シャツ

  さらば 古シャツ シラミのシャツ

 観賞用の草花を植えるようなゆとりはなかった。ネコの額ほどの土地にも、少しでも食べ物を得るために、人びとはみんな野菜を育てていたのだ。

 

 4 ジャングルのあと

 

 そこヘネパール政府から、そんな小規模でするより、タライ平野で実験してみないかとの話があった。

 五年前、アメリカでジャングルを開拓して農場をつくり、色々な作物の種をまいたが、失敗に終わった土地だった。

 島田が母校の教授に相談すると、東京農業大学の実験指導農場として開くはこびになった。

 農場を開くには、住居がいる。それに農具も必要だ。作業員も雇わなければできない。つてをたよって日本の会社や財団に資金援助をお願いした。

 しかし、無名の若者に、しかももうからない事業にお金を出してくれる所は一つもなかった。ふうがわりな冒険野郎としか思わないのだろう。

 ボランティア活動を続けてきた二人は、お金を持っていない。

 農場の許可願いは、もうネパール政府に出してある。二、三か月後には、タライ平野に入植して開拓を始めなければならない。

 日本からの資金援助のあては全くない。

 計画だおれに終わってしまうのか。とほうにくれているとき、イギリスのオックスファム財団が資金援助をひき受けてくれた。オックスファム財団は、インドのビハール州で深井戸造成や、水あげポンプの貸付、種子銀行などの事業をしている。

 年間百万円の資金援助では、どうしても必要なお金の三分の一だったが、基本金があれば、どうにかやっていける。島田は背水の陣をしいた。

 一九六五年九月六日、淳子は夫と、現地の作業員、クリシナとタマン少年とともに、ラプティ農場に入った。

 五年間も、荒れるにまかせてあった土地は農場とは名ばかりで、二メートルをこすエレファント草やアシ、ヨシが茂り、原野にもどっていた。

「これをトラクターなしで開墾できるの」

 淳子は気の遠くなる思いでながめた。

 原野を切り開き、耕して種をまき、作物がとれるようになるのは、いつのことだろう。

「心配するな、やってみせる」

 島田は、はりきっている。

 ネパールの気候は垂直分布している。

 四千メートル以上のグレート・ヒマラヤは寒帯。しかし三千メートルまでの中央山岳地帯は温帯で住みやすく、ここにカトマンズ盆地がある。

 千メートル以下は亜熱帯でそこにタライ平野が広がっている。そこはジャングルだった。

 トラ、サイ、ライオンなど猛獣のすみかで、夏はモンスーンにみまわれ、高温多湿となり四十度を越す猛暑になる。そのためマラリアなどの疫病が流行し、人びとからきらわれていた。そして昔は流刑地(るけいち)だった。

「タライは昔、タルー族が焼畑(やきばた)やってたよ」

 クリシナがいった。

 焼畑は立木を焼き、灰を肥料としてそのあとに作物を植える原始的農耕で、五、六年で地力がおち、作物のできが悪くなると、場所をかえていく。

 今は開拓が進み、人口が密集している中央山岳地帯から移住して、米やジュート、バナナなどを栽培している。

「さ、陣を張るぞ」

 島田は、クリシナとタマン少年の先頭にたって、鎌で草をなぎたおしていった。

 そこに登山家にもらったテントを張った。

小人(こびと)になった気分」

 巨大な雑草が茂って、見通しがきかない。

「陸の孤島だよ」

 タマンが汗で光っている顔でいった。

 雨期には、がけがくずれて道が断たれ、取り残されて陸の孤島になってしまうらしい。

「ロビンソン・クルーソーだね」

 島田は愉快そうに笑っている。ジャングルに基地を作って喜んでいる子どもみたいだ。

 淳子は、しのびよる野獣のかげにおびえた。

 夜になった。

 ランプは節約して、島田が今日のレポートを書き終わると消した。

 まっ暗やみで、ザワザワ巨大草(きょだいそう)が風ですれあう音がする。

 ケーン

「なに」

 淳子は耳をそばだてた。

「くじゃくだろう」

 クリシナがいった。

 えたいのしれない獣の鳴き声が、入り混じってきこえてくる。

「トラだ」

 タマン少年が叫んだ。

 猛獣におそわれる心配がある。コブラがしのび込んでくるかもしれない。

 島田は、「オオカミだ」といつも叫んでいた少年の話をしてきかせた。

 夜明けがまちどおしい。

 

 5 赤ちゃん

 

 淳子に赤ちゃんが生まれる。

 巨大草との戦いをまえに、ジャングルを脱出して、主都カトマンズにやってきた。

 お産のためとはいえ、一人あのテントからぬけ出すのは、自分だけ助かろうと、くもの糸にすがったカンダタのようで、うしろめたい気がする。(注、カンダタとは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の主人公。地獄へ落ちたカンダタは、天からのびている今にも切れそうな蜘蛛の糸に、なんとか自分だけは助かりたいと必死にしがみつく。)

 島田と結婚するまで勤務していた、なつかしいシァンタバーワン病院に入院した。

 たてあな住居の石器時代から、一足とびに二十世紀にタイムカプセルに乗ってやってきた感じがする。

「アツコ」

「ほんとにアツコなの」

「どうしたの」

 看護婦たちが集まってきた。

「シスター アツコ」

 主任のシスターキャサリンが淳子をだきしめた。彼女の涙がおでこに落ちた。

「お風呂がわいているわ」

 農場をはじめてから、もう一年以上も入っていない。

「これ、着られる?」

 スウェーデンのオフェーリァがパジャマを持ってきてくれる。

 五十二キロあった体重が三十八キロに減っていた。

 それに、持っていた服はほとんど売って資金のたしにしたのでなにもない。

 淳子は里帰りしたようなやすらぎを感じた。

 だがここは国際病院だ。人びとの善意は素直に受けとろう。しかしあまえてはいけない。

 病院は宮殿だといっていた島田の言葉がよくわかった。

「ああ、この香り、おいしい」

 チキン・フライを味わった。

 国際病院にきているヨーロッパやアメリカの医療スタッフは、病院の上等食をとっていた。自分の体は自分で守ることが職務上の鉄則だ。

 筋金入りのクリスチャンで、ネパール食にして栄養失調にかかった人がいた。彼女は肺結核になり、精神的にもおちこんで帰国していった。

 淳子は、そのネパール食でさえ、手に入らなかった。

 チキン・フライのエキスは五臓六腑にしみわたった。そして、元気な赤ちゃんが授かるように、神に祈った。

 淳子はふと、インドの病院に勤務してまもなく、大きなおなかをかかえて入院してきた妊婦を思いだした。

 彼女は、顔色が悪かった。気持ちが悪いといって吐いた。

 彼女の口から出てきたものは、うどんではなく、長短さまざまな回虫だった。

 はきだした回虫は洗面器に二はいもあった。

 淳子も回虫がいるかもしれないと思った。

 入院しているうちに検査をうけて、もしいたら駆虫剤をもらおう。

 新生児室の前に立つと、淳子の心配はふきとんでしまった。

 白い小さなベッドがならび、生まれたばかりの赤ちゃんが眠っている。

 無心に寝ている子、まっ赤な顔で泣いている子。活気に満ちている。

 十月十六日、元気な女の子が生まれた。

「お乳を飲ませてね」

 淳子ははじめてわが子をだいた。ミルクのあまい、いい香りがする。

「あっ、ある」

 にぎりしめたちいちゃな手に、かわいい指が五本ついていた。

 小さくてやせていたが、、五体満足で淳子はほっとした。

 無心の寝顔がかわいい。

 はだかで生まれてくる赤ちゃんはだれからも好かれて育つようにみんなそれぞれにかわいいの。自然はよくできているのね。と、いつか母がいっていた。

 乳幼児のうちに死んでしまう子が、ここではまだ多い。

<五歳までは神のうち>

 子どものころ、おばあさんからきいた言葉だ。日本も、おばあさんの時代までは乳幼児の死亡率が高かった。

「ラプティの希望の女神さま、パパだよ」

 島田がかけつけた。

「がんばるぞ、恵子(けいこ)をラプティに迎えられるように、家もなんとかしよう」

 恵子が三ヵ月ぐらいになるまで、母と子はカトマンズにとどまることにした。

 カトマンズで、淳子は恵子を育てながら、農場と外部との通信事務を受け持った。

 乳飲み子をかかえた生活は決して楽ではなかったが、農場での毎日を思えば、暮らしやすい日々だった。いつしか淳子は人びとの暮らしへ目を向けるゆとりを持っていた。

 ヒンズー教徒の一日は、朝起きると水浴して身を清めることから始まる。

 それから神所(かみどころ)にお灯明(とうみょう)をあげ、お花、水、米を供えて拝む。次にお寺に参拝してお坊さんに額に赤いセガワテアをつけてもらう。昔おばあさんは、毎朝神棚にお灯明をあげ仏檀に花とご飯、お茶を供えて拝んでいた。

 まだ幼かった淳子にも、おごそかな雰囲気は感じられ、なつかしい思い出として心に刻みついている。

 ネパールの人びとの生活には、そんな安らぎを感じさせるものがあった。

 

 6 ラプティに苗を

 

 年があけて一月末に島田がトラックで迎えにきた。

 製材所の社長さんが別荘を貸してくれて、一月初めにテントから移ったらしい。

「親切なおじさんがいて、恵ちゃんよかったね」

「高床式だから、野獣におそわれる心配はないよ。しかし床板をなま木で造ったらしく、すき間があいてるんだ」

「家畜小屋のことを思えば、ぜいたくいえないわ」

 家は農場から一マイルほど離れたところにあった。

「お帰りなさい」

 小柄できゃしゃな女性が出てきた。

「カンチ、タマン」

 島田が紹介した。

「彼女には賄いと雑役をしてもらう。タマンの姉さんだよ」

 人なつっこい目が弟によく似ている。

 一月になって、男一人を新しく雇い、全員で五人の従業員になった。

「農場をみたいわ」

 恵子をカンチに預け、淳子は島田とトラックに乗った。

「六月の雨期までに、できるだけ開墾して水田を作っておかないと田植えにまにあわない」

「作業員も増えたことだし、進むでしょ」

「着いたよ」

「ここがラプティ、広いのね」

 淳子は、トラックをおりた。

 緑の畑が、見渡す限り続いている。

「やったね、花さかおじさん」

 島田は、満足げに笑っている。

「どのくらいの広さなの」

「総面積は百十五エーカーある。作物が植えてある畑は、われわれの食糧さ」

「家族二人、あ、三人と従業員五人、八人分ね」

「半分が馬鈴薯(じゃがいも)さ。小麦、えんどう豆、それに野菜」

畑を指さして島田がいった。

(あら)おこしの所が水田になるんだ。まだ半分も草刈りが残っている」

「あの原野を、よくここまで開いたわね」

「雨期には、マンゴー、パイナップル、パパイヤ、三十四エーカーの果樹園を計画してるんだ」

「いよいよ本物ね。登山家が山頂に立つ気分じゃない」

「いやまだむなつき八丁さ。問題が山積してる」

「米山くんは一月二十四日に横浜をたって、二月十五日にボンベイ入港の予定でしょ」

 島田の助手として、米山くんが来ることになった。

 彼の乗ったラオス号には、農機具、種子、薬品、日用品が積みこまれている。その上、米山くんは海外旅行は初めてだった。

 ネパールには海がない。資材はボンベイで荷上げして、インド経由でカトマンズに運ぶ。

 その通関手続きが大変なので、島田は応援に行く。農場は忙しくなってきた。

 島田がインドに出張の間は淳子と、一番年長の従業員のクリシナが代わってやっていかなければならない。

 二週間の予定で島田は十日にラプティを発った。

 馬鈴薯(じゃがいも)の収穫期だった。

 淳子はクリシナと畑にやってきた。

 あおあおと茂っていた葉は茶色にかわり、倒れた枝にはほとんど葉がついていない。

「一月末に、めずらしく大雨が降ったから、くさったんだ」

 クリシナが額にしわをよせていった。

 立ち枯れ病を心配して、ボルドー液を散布しておいたと彼はいっていた。

 掘ってみると、馬鈴薯(じゃがいも)はついていなかった。

 まわりの農家でも、ネパールの各地で馬鈴薯(じゃがいも)は全滅らしい。

 島田が問題が山積しているといったわけがわかった。

 また、大雨の被害があった一方で、乾期のために二か所ある泉の一つが干上がってしまった。

 

 7 宝物それは(すき)

 

 鳥の鳴き声しかしない田園に、エンジンの音がとどろきわたった。「パパよ、きっと」

 淳子は恵子をだいて外に出た。

 砂ぼこりをあげてトラックが近づいてくる。二台でくる。

 車に宝物を満載して、島田は米山くんを連れて帰ってきた。

「いやあ、大きくなったね」

 島田は恵子をだくと、そこらじゅうほおずりをし、キャッ、キャッいわせている。

「米山くん」

 メガネをかけた、色白で額の広い、長身の青年が淳子にあいさつした。静かな学究肌の若者だった。

 情熱的で冒険家的なところのある島田とは対照的な感じがする。

 農作業をしていたタマンたち従業員が、トラックのまわりに集まってきた。

 彼らは農機具に興味がある。荷物をおろしながら使い道や使い方を聞いている。

 この地方で使っている農具とどこか共通点があり似ている。トラクターやコンバインのような大型機械ではない。

 日本の農村で昔使っていた、牛が引く(すき)や手で押す水田用除草機や、わらを切る押切(おしき)り、(くわ)や鎌などだった。

「雨期までに、もっと水田を開拓して、この農具で苗代づくりや、(もみ)まきをするぞ」

 島田は従業員を激励した。

 しかし四人の作業員の手起こし仕事では、はかがいかない。そこで耕地造成の請け負い人に、水田開墾を頼んだ。

 彼らは一日十一時間から十二時間働いて、みるみる原野を開拓していった。

 いよいよ日本の農機具の威力を見せるときがきた。オックスファム資金の一部で鋤を引く牛を買った。

「使い方を覚えてくれ」

 島田は開拓地に作業員を連れていった。

 そして牛に鋤を引かせて、田の地ならしをして見せ、一人一人に使い方を教えた。

 それを近所の農民が見物している。お知らせなしの農機具の使い方講習会となった。

「やってみたい人は、どうぞ」

 島田は、集まった農民に呼びかけた。

 彼は、この地方で作物がよくできない原因は四つあるといっている。

 一つめは土が酸性であること。二つめは害虫。三つめは農業用水路がなく水不足である。四つめは農業技術者不足。

 なかでも四つめは資金もかからないですぐできる。農業の良い後継者を育てることが、将来の農業の発展につながると島田は考えている。

 言ってきかせて、見せてやり

 やらせてみせて、ほめてやる。

 これが彼のやり方だった。

 島田の講習会が評判になって、口こみで、農機具改良所の所長さんの耳に入った。

 ある日、所長さんが、日本から持ってきた農具を見せてほしいといって訪ねてきた。

「これは、ちょうどいい。これならどこの農家でもすぐ使える」

 二、三千年らい変わらない鎌や鍬の手作業耕作から、いきなりトラクターは使いこなせないと彼はいう。

「トラクターを買える農家はせいぜい五パーセントぐらいでしょう。あとの九十五パーセントは、手も足もでませんよ」

 彼は、牛一頭引き(すき)と、地ならし農具の改良図面をかいてほしいといって帰っていった。

 毎日のように農民が相談にきたり、種をほしいといってくる。

 ラプティ農場は、大にぎわいで活気に満ち、島田は忙しくかけずりまわっている。

そこへ高等学校の先生が生徒を百名ほど連れて見学にきた。

 新しい農法について島田の話を聞いていった。

 乾期は九月から年を越して五月まで、えんえんと九か月も続く。

 水不足は日に日に深刻になってきた。

 海外生活をしたことのない米山くんが、日本からいきなりラプティ農場の自給自足の暮らしに入るのは、きついだろうと淳子は心配した。

 そんなある日、米山くんと入れ替わるかのように、農業技術者のシャハくんが、島田の母校の東京農業大学に留学していった。彼は育種学を専攻するそうだ。

 

 8 命の井戸

 

 小麦が黄金色(こがねいろ)に実った。

「今日は、麦刈りだぞ」

 島田は号令をかけると、鎌をもって口笛を吹きながらでかけていった。

 馬鈴薯(じゃがいも)は立ち枯れ病にやられたが、小麦はなんとか収穫までこぎつけたので淳子はほっとした。

 恵子をだいて畑に行ってみると、村人が見物に来ていた。

「たいしたもんだ」

 彼らはここでは、米、トウモロコシ、カラシ菜しかできないと思い込んできた。

 政府や大地主の広い農園では小麦も作っている。しかしそれは近代機械化農業で特別な耕作方(こうさくほう)だからできるのだと思っている。

「わしらにもできそうだなあ」

「種を分けてもらって、作り方を教わろう」

 収穫は予定の四分の一しかなかった。

 空からはスズメについばまれ、下からは野ネズミに食い荒らされたのだ。

「チュン、チュー軍はゲリラ戦だからまいるよな」

 島田がいった。

「かかし作ったら」

「かすみ綱で一網打尽にして、焼き鳥にしよう」

 量は少なかったが小麦がとれて、島田はじょうだんがいえるほど気持にゆとりができていた。

 熱風が吹いて気温が四十三度まで上がり、土はさらさらに乾いて砂が舞い上がる。

 農業用水路のないこの地方は、水を雨に頼るしかない。

 すぐ近くを、一年中水をまんまんとたたえたナラヤニ河が流れているというのに、それを横目でみながら、日照り続きで野菜の植えつけができないのだ。それはあせりといらだちの毎日だった。

 この辺の土は、ナラヤニ河の沖積層で、地下水は乾期には地面から、二、三フィートも下がって井戸は枯れる。

 その上井戸は素掘りで、コンクリートやレンガ、または木材で土止めがしてない。

 日照りはなおも続き、記録をのばすばかりだ。水の問題は日に日に厳しくなってきた。

 乾ききった畑は砂が舞い、作物を受けつけないばかりか、井戸が干あがって飲み水さえもない。

 島田は、ラプティ農場の湧き水の所を掘ってみようといった。

「クリシナ、今日は全員井戸掘りだ」

 砂をすくっていくと、黒い土がみえてきた。三フィートの所で水がにじみ出てきた。

「わーっ」

 歓声があがった。

 いつのまにか村人がとり囲んでいた。

 さらに深く掘り下げて、三フィート四方の木枠を作って土止めし、簡易井戸を作った。

 しだいに濁りが消え、きれいな水がたまった。

「おお、ヒンズー神よ」

 クリシナが手を合わせた。

「この水を神所に供えて、よくお礼をいっといてよ」

 島田がいった。

「わしらにも、ちょっと分けてもらえめえか」

 見物にきている村人の一人がいった。

「使ってください」

 たちまちうわさが広がって、近くの農家のおよそ二十軒が、朝夕、水くみに来た。

 彼らは一家族が、四、五人で、一日三十から四十リットルしか水を使わない。

「雨ごいをしたが、だめだ」

 村人が相談にきた。

「シュゴディ水路を使えんもんかね」

 それは、雨期には水をたたえた川になるが乾期には石ころのゴロゴロした道でしかない。

 乾期にも水が通る灌漑用水路を作りたいという。

「測量を頼めまいか」

「土木工事は素人ですよ」

「井戸を掘りあてたじゃないかね」

「そうですね。ではできるかどうか、測量してみましょう」

 村人は喜んで帰っていった。

 調べてみると、水路を上流の河口の水源までのばすには、ジャングルを通って、全長十七マイルもある。

「資金さえあればなあ」

 ため息がでる。資金があればコンクリートをうった完全な溝を作ることができ、水が引ける。

 村人は、土木作業は自分達でやるから、どこをどう掘ればいいか指導してくれという。

 島田は彼らの熱意に動かされて、工事が始まった。はじめは順調だったがジャングルの途中で水が逆流し水路の一部をかえた。

 難工事のすえ水はとうとう流れた。しかし下が砂地で水は吸収されてしまった。

 

 9 モンスーン

 

 灌水工事の失敗というにがい経験をへて、待ちに待った雨が降った。

 最高気温は四十度をこえ、湿度が高くてむしむしする。

 雨は降っても乾ききった砂地に吸い込まれ、井戸水は増えるどころかますます枯れてくる。

 ラプティ農場の簡易井戸に近所の農家、二十軒が水くみにきていたが、村の全戸数四十軒が来るようになった。

 苗代(なわしろ)をつくりたくても、土はあいかわらずさらさらしていて、(しろ)かきができない。

 だが、ようやく恵みの雨、スコールがやってきた。

 スコールは、日になん回もやってきて、とうとう赤ちゃけた大地は水をふくんできた。

 さっそく牛に鋤を引かせて、田の耕作にとりかかった。

 それは、戦前の日本の農村でよく見かける風景だった。

 米山くんが日本から持ってきた鋤は、現地の鋤の五倍の能率をあげた。

 苗代ができると、ネパール、アメリカ、イギリス、マレーシア、台湾、日本、中国等々、十九品種の籾をまいた。

「米のオリンピックですね」

 米山くんはうれしそうだ。

「どこの国のが強いか、楽しみだなあ」

 研究熱心な彼は、こういったことに、特に興味があった。

 雨期に入り、田植えの準備に作業員を三人増やし、全員で八人になった。

 増員しても、田植えの準備のほかにトウモロコシの収穫がかさなり、忙しい上に、むし暑いのでつかれ、みんなまいってきた。

「いたい、いたい」

 一人の作業員が、かつぎこまれてきた。彼は、おなかをおさえている。しかし下痢と腹いたをおこす胃腸の病気とは、少し違うと淳子は思った。

 彼は顔色が悪かった。貧血があるらしい。

〈虫かな〉

 トラックに乗せて病院に連れていくと、十二指腸虫症だということで、入院することになった。

 こんどは島田が激しい下痢と腹いたをおこした。アメーバー赤痢だった。

 モンスーンとともに村にも病人が出て、薬をもらいに来る。病院に行くようにいっても薬代が高いからと行かない。

 アメーバー赤痢、コレラ、トラホーム、水ぼうそうと伝染病が多い。次に回虫や十二指腸虫症などの寄生虫病だ。

 水ぼうそうの病人は、話してやっと病院に行ってもらったが、ほかの人は、手もとにある薬でどうにかなおった。

 スコールが足しげく降ると、まわりの水が井戸に流れこむ。

 ネパールには便所がない。そのへんで用をたすので、それが雨水で洗われて井戸に入る。

 そんな環境がますます病人を増やしていった。

 八月に入ると、田に水が入り、畦づくりができるようになった。

 いよいよ田植えだ。

 島田は、ヤシロープに赤い布を同じ間隔を置いてむすびつけて、日本式条植(じょうう)えの陣頭指揮に立った。

 この地方では、手あたりしだいに植える。植えっぱなしで草もぬかないので、稲刈りのときに雑草がじゃまをして手間がかかる。

 島田は、田にロープを張った。

「赤い布のところに苗を植えます」

 島田は田に入って、苗をさしてみせた。

「じゃ、やってみてください」

 横にならんだ早乙女(さおとめ)たちは、およそ十五分で日本式田植えをのみこんだ。

「まっすぐにならんでる。のみこみがはやいねえ」

 島田はうれしそうだ。

 水田を芝生のように、緑の苗がうめつくしていった。

 八月の末になると、井戸はゴボゴボ音をたてて増えつづけた。

 夜中のことだった。外でグォーン、グォーン音がする。カンテラをさげて出てみると、それは井戸からだった。

「ガスでも出たか」

 島田は、カンテラを井戸におろした。

 火が消えないところを見ると、ガスが発生したのではないらしい。

「なんだろなあ」

 その晩は、原因がわからないままだった。

 朝になって、さっそく井戸をのぞいてみると、蛇が泳いでいた。

「お一い、蛇とりの名人はいないか」

 島田が呼ぶと、野次馬が集まった。

「蛇はいやだよ」

 タマンが、あとずさりしていった。

「こわいのか」

「蛇の目におれが映る」

 蛇を殺すと、蛇の目に殺した人が映って、死んだ蛇のつれあい(夫または妻)が、その目を見て、映っている者を殺すのだという。

「ぼくが蛇のお嫁さんに殺されようか」

 島田は、竹竿の先に、輪にした針金をつけ、蛇の首をしめて引きあげた。

「コブラだ」

 取り巻きはとびのいた。

 島田は、コブラをアルコール漬けにした。

 長さが一メートル六十センチあった。

 

 10 出水のあと

 

 天の貯水池の底が破れでもしたように、滝のようなスコールが、くる日もくる日も大地をたたく。

 水深二フィート五インチにもなった。

 一面の湖でせっかく植えた苗は水びたしだ。島田はむずかしい顔で、米山くんと田まわりにでかけた。

「お一い、追ってこい」

「そっちだ、そっちだ」

 タマンと新しい作業員のバハドゥルが田んぼで追いかけっこをしている。

「どうした」

 島田がかけつけてみると魚がなん匹も泳ぎまわっている。

「河からのぼってきたんでしょうか」

 米山くんがつかもうとすると、魚はゆうゆうと身をかわしていく。

「それにしてもいっぱいいるな。どこかの養魚場から逃げてきたんだろう」

 島田は素手で一匹つかまえた。

「おーいタマン、みんなを呼んできてくれ。魚のつかみどりだ。入れ物も忘れないでな」

 作業員、せいぞろいで魚とりが始まった。

「おい、稲をふむなよ」

 みんな、子どものようにはしゃいで魚を追った。

「魚のバーベキューをやろうじゃないか」

 島田は石を積み重ねてかまどをつくった。

 それにトタン板をのせて、魚を焼いた。

「どんどん食べてくれ、天からの授かりものだ」

 みんな、幸せそうにほおをかがやかせて、おいしそうに、舌つづみをうっている。

 ラプティ農場ではじめて食べる魚はおいしかった。

 九月に入っても水は引くけはいもない。

 しだいに稲は黄色くなって、くさってきた。イモチ病が発生したらしい。

 干ばつの次は洪水。用水路さえあれば解決することだった。

 ラプティ農場だけに排水路をつけても、まわりの田んぼに、その水が流れこんで迷惑をかける。

 だが、島田はへこたれなかった。彼は秋野菜の種をまき、なす苗、パパイヤ、馬鈴薯(じゃがいも)を植えた。

 高温多湿で、育ちははやい。

「なんだろう」

 こまつ菜をとりに畑にいくと、蜂の大群のようなかたまりが、舞いあがった。

「ひどい」

 葉はすっかり食い荒らされて、茎だけがむざんに残っている。

「バッタだ」

 島田が、いった。

「バッタが異常発生して、あっちこっちの農場がやられているらしい」

 残っている葉をまだ食べあさっているバッタを淳子はおさえた。

「大きなバッタ。イナゴなら食べられるのに」

 淳子は、こまつ菜のかたきとばかりに、とりまくった。とって減るような数ではない。

 島田がフォリドールを噴霧器で散布した。

 十月も中旬になってようやく田んぼの水が引きはじめ、下旬にちょうどいい水量になった。

 二か月も水びたしで、約半分がくさり、かろうじて残った稲がどうやら実をつけた。

 穂がたわむと、こんどはスズメが食い荒らす。穂が重くたれさがるほど実はつかなかったが、それでもこの地方の二倍の収穫があった。

 作業員八人と家族三人、それに米山くんもいる。十二人分の主食としてはとてもたりない。

 稲を刈った田んぼに小麦をまいた。

 この地方では小麦はできないものときめつけていた農民の考え方が変わってきた。

 二毛作ができれば、農民は今よりよっぽど暮らしが楽になる。

 小麦をまくとカラスがやってきた。

  ゴンベが種まきゃ

  カラスがカァー

 淳子がおもしろ半分に恵子に歌ってきかせていると島田がおこった。

「黒い悪魔め、おもいしらせてやる」

「スズメおどしはあるけど、カラスおどしってきいたことないわ」

「こうかつなカラスは、手ぬるいことじゃだめだ」

 島田は真剣だった。この土地でも小麦が作れるところを農民に見せなければならない。

 彼は、フォリドール原液につけた小麦をまいた。その小麦を食べたカラスが死んだ。

 その死体をぶらさげておくと、さしものグレン隊カラスも小麦畑にこなくなった。

 小麦は芽をだし、緑色のじゅうたんをしきつめたようになった。

 農民たちは、興味しんしんで見守っている。

 農民の要望で、小麦の種がネパール政府の農場から農家へ配られた。

 そして百エーカーの畑に小麦がまかれた。

 いつの間にかラプティ農場にきて一年がたっていた。

 

 11 ナラヤニ河の事故

 

 日照りと出水にふりまわされ、バッタやカラスと戦い、病虫害にやられ、一九六六年も終わろうとしていた。

 恵子はよちよち歩きをするようになって、目が離せない。彼女は農場の人気者だった。

 来年は、もっと実りの多い年にするため、一月早々、ネパール国際市民奉仕団の第一回ワーク・キャンプを計画した。

 アメリカ平和部隊の青年たちが、日本産の野菜の種をもらいにきた。

 フランスの若者、ベルナードくんが仕事を手伝わせてほしいといってやってきた。

 ラプティ農場は、だいぶ知れ渡ったとみえる。

 米山くんを中心に、ワーク・キャンプの準備が進められた。

 宿泊にはチャプラをつくることにした。

 食糧は、ラプティ農場でとれたものを調達する。

 作業は、湧き水の出る場所に、貯水池を作ることにきまった。

 話し合いが終わると、米山くんは、ベルナードくんをさそってナラヤニ河に洗濯に出かけた。

 貯水池ができたら、次のキャンプには水路を造れたらいいと、二人は話しながらいった。

 まもなく、ベルナードくんが青い顔をして走ってきた。

 紫色のくちびるが、わなわなふるえているだけで、なにをいっているのかわからない。

「米山くんは」

 淳子がきくと、ベルナードくんは、わっと泣きだした。

 (なにかあった)

 淳子は島田に知らせ、二人でナラヤニ河に走った。ベルナードくんが、しゃくりあげながらついてくる。

 洗濯物が、河原の石の上に、しぼっておいてある。

「米山くん」

 島田が呼んだ。

「おぼれた」

 ぼそっというと、ベルナードくんは、河原に顔をふせて泣いた。

「どこで」

「ぼくらは、そこから中の島に向かって泳いだんだ」

 ベルナードくんは、洗濯物の置いてある石をさしていった。

「中の島に上がって、振り返ったら米山くんが見えないんだ。あっちこっち探してもどこにもいないんだ」

 ナラヤニ河は、岩があちこち水面に出て深い渕がそこかしこにある。

 まん中は急流でかなり深い。昔はイルカがのぼってきたともいわれている。

 米山くんは、深みにはまったのかも知れない。農場の作業員、総出で探しまわった。

「米山くん」

 こだまが返ってくるだけだ。

 時間がどんどんたっていく。

「はやくみつけないと助からない」

 上流、下流と二手(ふたて)に分かれ、河に入る者、岩の上にはいつくばって渕をのぞく者、すみずみまでみおとしがないように探した。

 いない。重苦しい空気がたちこめ、みんなの顔が、あせりと不安でゆがむ。

 夕やみがせまってきた。

 いつのまにか淳子の心は(助けなくては)という思いから(とにかく米山くんを見つけなくては)という思いに変わっていった。

「帰ろう」

 島田がいった。

「そんな」

 ベルナードくんがおこった。

「二重事故が起きたらどうする」

 暗やみとつかれで、これ以上続けるのは危ないと島田はいった。

「明日の朝、夜朋けを待って探そう」

 島田がいうと、

「ぼくは残る」

 ベルナードくんが、石にしゃがみこんでしまった。

「だめだ」

 島田は、ベルナードくんをむりに引っぱって連れて帰った。

 村人もいっしょに一週間探し回ってくれたが、とうとう米山くんをみつけることはできなかった。

 彼が横浜港から、ラオス号に農具を積んでネパール農業への熱い思いをいだいて出発したときのことを考えると、(くや)んでも、悔みきれない。

 理想と現実の違いには、日本の暮らしの中では想像もできない深いクレパスがある。

 日本ではスーパーにいけば、あらゆる種類の食べ物がならんである。そんな日常からいきなりおろぬき菜の生活では、かすみを食べて暮らすという仙人に一足(いっそく)飛びになれというのに等しい。

 水泳中の、ふとした気持のゆるみが、彼を死の渕にさそいこんだのかも知れない。

 自然は美しいが、日常が死と背中合わせにある厳しさを忘れてはならない。

 

 12 ワーク・キャンプ

 

 一九六七年、ラプティ農場に二回目の新年がめぐってきた。

 のるかそるか背水の陣をしいて水との戦いに明け暮れてきた仲間を失い、暦の上だけのお正月を迎えた。

 新年早々、ワーク・キャンプがある。中止するわけにはいかないので、みんなもくもくと働いた。

 元旦に女性用チャプラを造った。草小屋は通気性があるので暖かくて涼しい。

 それから男性用チャプラ二舎。炊事用チャプラ。それに会議室けん食堂が完成した。

 土建屋さんや大工さんに造ってもらうのではない。島田をはじめ、ベルナードくん、農場作業員が総がかりで造るのだ。

 用意はできた。一月十一日、ワーク・キャンプは開始され、国際市民奉仕団のボランティア十六人が参加した。

 ネパール七人。アメリカ、セイロン、パキスタン、イギリスと外人班あわせて七人。

 それにラプティ農場から島田とべルナードくんが加わった。

 この地域の農業は、水を治めることができれば発展する。

 雨が降らない乾期でも農業用水があれば、野菜は作れる。

 コンクリートで用水路を作って、ナラヤニ河から水を引くには、大がかりな土木工事をしなければならない。それには漠大な費用がかかる。

 とりあえず、できることから始めようと貯水池造成にとりかかった。

 シャベルで土を掘り、もっこでかついで幅四メートル六十、高さ一メートル六十、長さ三十メートルの堤防を築いた。

 雨期にも堤防があれば、田んぼは水びたしにならず、肥沃な土が低い方に流れるのもくいとめられる。

 ボランティアの青年たちは、土木工事の専門家ではないため、工事は思うようにはかどらなかった。資材と食費で一千九十ルピーかかった。

 キャンプが終わってから地元の土木請負業者に聞くと、五三四ルピーでできるという。

 費用の点からみると、ワーク・キャンプは土木作業の素人の集まりで能率が悪かった。

 しかし根強いカースト制の中で、高カーストの知識階級が、労働に参加したことに大きな意味があると島田はいう。

 若い時に、汗を流してボランティア活動に参加したことは、貴重な経験になるだろう。

 キャンプが終わり、ラプティ農場はまた農作業に追われる毎日だった。

 小麦の草をとり、肥料をやり、雨が降らないので水をやる。実るころになると野ネズミがやってきて食い荒らす。サイノガスを送って殺しても、すぐにほかの畑から入ってくる。

 小麦は豊作だった。しまっておく倉庫がいるほど収穫があった。

「倉をたてよう」

 島田がいった。

「すごい勢いね、白壁の土蔵でも建てるの」

「いや茶色いドームだよ」

 バカリーを造ることにした。

 バカリーは、この地方の穀物倉で、木材で土台をつくり、その上にカゴをのせて、牛糞と土で固めて屋根にする。

 六つのバカリーができあがった。

「ラプティ農場も、穀物を貯えるまでになったか」

 島田は、いつまでもながめていた。

「ティコリ村にトラが出たってさ」

 島田が、どこからか聞いてきていった。

「いつ」

「五月二十一日だそうだ」

「ティコリ村なら三マイルも離れてないじゃない」

「日中襲われて、一家三人重傷だってさ。バラトプールの病院に入院したらしい」

「畑でやられた」

「いや、家だって」

 トラやヒョウに襲われる事件が三件も続いておきた。

 ラプティ農場にもいつあらわれるかわからない。チャプラでは危険だ。

 従業員宿命を建てることにした。

 レンガ建ての二階屋で、一階は炊事場と倉庫にし、二階に住むようにした。

 井戸のポンプも手に入り、ラプティ農場は暮らしよくなった。

 七月に京都大学の大場くんが夏休みを利用して奉仕作業にやってきた。

 それを皮きりに十月に東京農業大学の山根くん、大井くん、慶応大学の本馬くんが来て二週間ほど手伝ってくれた。

 戦後生まれの若者たちは、のびのびしていて気負ったところがない。アメリカの平和部隊の若者と、どことなく似ている。

 あまり深刻がらないで、陽気で気軽にやっている。かといって、いいかげんで軽はずみというのではない。

 淳子たちの世代には、悲愴感がある。

 若者たちは、日本の最近のなまのニュースを、政治面から三面記事まで運んできてくれて、帰っていった。

 

 13 ハワードさん

 

 一九六八年、ラプティ農場ができて足かけ四年目の一月六日、資金援助を受けているイギリスのオックスファム財団のハワードさん一家が訪ねてきた。

 島田は農場を案内してまわった。

「トマト、キャベツは、バザールに出荷しようと思ってます」

「ほう、売れるほどとれるようになったかね。それはよかった。よくがんばったね、きみ」

 ハワードさんは、島田の肩をたたいて、親しみをこめていった。

「田んぼもだいぶ開拓したね。きみはトラクターを使わないんだから大変だ」

「ネパールの農民が、そのまま取り入れられる方法でやっています」

「指導農場としての役目を充分はたしてるわけだ」

 島田は、湧き水の出る所を木枠(きわく)を埋め込んで造った簡易井戸に案内した。

「一時は、全村四十軒がこの水にたよっていたんですよ」

「深井戸造成と農業用水路を通せば悪循環から立ち直れるでしょう」

「問題は水ですね」

「それと島田くん種苗(しゅびょう)ですよ」

「はい。その土地にあった品種をみつけて苗を育てるまでが苫労します」

 オックスファム財団の事業には、種子銀行もあるらしい。

 イギリスは、海外援助が進んでいると島田は感心している。

 イギリスと日本では国がたどってきた歴史が違うからではないかと島田はいう。

 イギリスはインドを始め多くの植民地があった。日本はその時代に徳川幕府が鎖国政策をとっていた。そんな点が海外への対応が遅れている要素の一つかも知れない。

 その夜、ハワードさんと島田は、宿舎でこれからの予算について話し合った。

「きみの家族の住居(じゅうきょ)をレンガ建てに新築したまえ」

 ハワードさんは、特別なはからいをしてくれた。

「農場の開拓と整備はできているから、今後は、農業技術の普及に力を入れる方針にしてはどうかね」

「はい。広範囲の普及は、ネパール政府がやっていますから、私は、五、六戸の農家を対象に、きめのこまかい指導をしていく考えでおります。やがて彼らが、その地方の農業を発展させていくでしょうから」

 二月になると、ラプティ農場は訪問客でにぎわった。

 首相をはじめ、ネパール政府の農業省次官農業普及局長、それに駐ネパール・アメリカ大使が視察に来た。

 そんなある日、日本から手紙がとどいた。

「外務省だって」

 淳子は島田に渡した。彼は緊張した顔で封を切った。

「農機具を送ってくれるそうだ」

 ほっとすると、肩の力がぬけた。

「四年目にして、やっと日本政府も、ぼくの仕事を理解してくれたか」

「これまでが大変だったのに。つまみ菜をご飯がわりに食べてたとき、お米の一俵でも送ってくれてたらね」

「今は穀物も野菜も売れるほどある。いい結果が出てよかったじゃないか」

「そうね、家畜小屋のころを思うと夢みたい」

「小麦を売ったお金で鯉をかおう」

「いつだったか、田んぼで魚をつかまえて、食べたわね」

 この地方の住民のほとんどは動物性蛋白が不足している。

 島田は九か月の稚魚(ちぎょ)を買って、貯水池に放した。

 政府でも農民に副業として鯉を飼うことを勧めていて、さっそく養魚局長が視察にやってきていった。

「島田の農場で、近くの農家に鯉の稚魚を分けてやってくれないか」

「苗を育てたり魚を育てたり、忙しいな」

 そして今年もまた深刻な水不足の時期が巡ってきた。砂嵐が吹き荒れると、五メートル先も見えなくなる。

 その熱砂の中を、近くの農夫が杖にすがってとぼとぼと毎日どこかにでかけていく。

 ゴホン、ゴホンとせきをしながら歩いていく。

「どこに行くの」

 淳子はきいてみた。

「病院」

 農夫は、目がうるみ、けだるそうだ。

「熱がありそうね」

 淳子は家に入るようにいった。体温を計ると四十度もある。

「二マイルも歩いたら、死んじゃうわ」

「注射をしてもらって、早く治さないと仕事ができないから」

 病院に行ってきいてみると、農夫は結核にかかっていた。医師と相談して、淳子は家で注射をしてやることにした。

 農夫が注射にくると鯉をごちそうした。

「鯉を分けてやるから、池を作りなさいよ」

 島田がいった。

「鯉を食べれば病気は早く治るよ。そしてたくさん飼って売るのさ」

「わしらが魚を食えるのかね」

「家の人に取りにきてもらって」

 農夫のやつれた顔は喜びにかがやき、淳子たちに何度も礼をいって帰っていった。

 

 14 コロンボ計画

 

 外務省からの手紙で四月に横浜港から船積みしたと書いてあった農業機械が、十月二十七日に着いた。

 四月三十日にカルカッタ港に陸あげされてからラプティ農場に着くまで五か月もかかっている。

 運搬中のとりあつかいが乱暴だったのか、梱包(こんぽう)が破れたり、機械が一部なくなったり、こわれたりしていた。

 試しに作ったスイカがとれた。日本のスイカとだいたい同じ味がした。

 近所の農家ばかりでなく、農業大臣や農業省の関係者、それに王家にも配って試食してもらった。

「わ一、あまい、お砂糖をかけないで食べられる」

と、なかなかの評判だ。

「涼しい時期にスイカを食べて、かぜをひかないかな」

と、心配する人もいる。

「どうして、今、スイカがとれるの」

 時期はずれのスイカを不思議がった。

 そして、一九六八年も暮れようとしていた。

 ナラヤニ河の事故を思いだすと、米山くんのことが悔やまれる。苦しかった開拓時代は終わって、今の農場は彼のような研究者の出番になったというのに。

 農場ができて、あしかけ五年目の正月は、長い年月を苦労を共にしてきてくれた従業員をねぎらうため、カトマンズで休養した。

 元旦には、日本大使公邸で、祝賀会があり、ネパールにいる日本人が集まった。島田はラプティ農場責任者として出席した。

 それからまもなく、在駐ネパールの日本大使夫妻が、ラプティ農場を視察にきた。

 そして島田は、日本政府派遣のコロンボ計画の専門家という肩書きをもらった。

 さっそく日本政府から果樹の苗木が送られてきた。島田はそれをネパール園芸局に試験栽培するように渡した。

 そこヘネパール政府の依頼で、この地で養蚕ができるかどうかの調査をするため、日本政府から杉山氏が派遣されてきた。

 特に野生の桑の群生調査で、土地にくわしい島田は一か月間、杉山氏を各地に案内して歩いた。

 島田は、コロンボ計画の一員としての仕事が忙しくなってきた。

 四月に日本大使館でパーティの催しがあり淳子は夫と出席した。

 そこヘネパール国王が皇后、皇太子をともなってみえられた。

 国王が島田に話しかけてきた。

「スイカは、おいしかった」

「ありがとうございます」

「時期はずれによくできるものだねぇ。きみの農場では、諸外国の色々な野菜の種をとりよせて、育てているそうだが」

「はい、ネパールにあう品種を実験して選び出しております」

「わが国の農民がすぐ使える農機具で耕作しているそうだね。精をだして指導してくれたまえ」

 ラプティ農場は、日本政府ばかりでなく、ネパール王国からも認められるようになった。

 パーティから十日あまりたった五月の早朝、突然皇太子と弟のギャネンドラ王子がジープで農場を訪ねてこられた。

 諸外国からとりよせた種や苗の育ちぐあいを見たいといわれた。

 島田は農場をご案内して回った。

「これは」

 皇太子がニンジンを指さされて聞かれた。

 島田がニンジンをぬいてお見せすると、

「赤いだいこん」

といって、びっくりされた。ネパールにはニンジンがない。

「めずらしい外国野菜が、ネパールでもつくれるんだね」

「はい、土壌を改良して肥料をやれば育ちます。化学肥料はより効果的です」

「化学肥料を、わが国で生産できるといいね」

「はい」

「日本の農具を見せてほしい」

 ネパ一ルも日本も耕地がせまいという共通点があり、農具があっているらしい。

 視察がおわって、淳子がスイカをだすと

「あまい」

 だいぶ気に入られたようだ。

 ネパールと日本のつながりは古くからあった。明治維新の時代に、四十名の留学生を日本に送っている。そのとき彼らは、日本の大根や柿を持ち帰った。

 ラプティ農場は、イギリスのオックスファム財団の資金援助と、国際市民奉仕団の協力で、東京農業大学実験指導農場として出発し、日本政府の協力を得るようになってきた。

 そしてこれからは、ネパール王国政府と日本政府の協力事業へと変わっていくのだった。

 

 15 調印

 

 農業開発博覧会がカトマンズで催されることになった。

 開発の現状を展示して、農民の生産意欲を高めようと企画されたのだ。

 国王、皇太子、首相、政府高官、外交団と農業関係者がいならぶ中で、王妃のテープカットによって博覧会が開かれた。

 ネパ一ルが農業をどれほど重要視しているかがわかる。

 ラプティ農場は、作業風景の写真を壁にはって、そのまえに農機具を展示した。

 とりあつかいを説明しながら実演した。

「簡単で便利だ。これならだれでもすぐ使えそうだ」

 ハンド・トラクターの動かし方を見学していた若者がいった。

 会場のかたすみにつくった技術相談所は、大繁盛だった。

 灌漑用ポンプ。ハンド・トラクター。手動トウモロコシ脱粒器(だつりゅうき)は特に人気があった。

 農機具の展示とならんで、島田は酸性土壌改善に、リン酸カリの必要性と、まき方を主に説明した。そして病虫害対策を力説した。

 農民の相談者があとをたたずに、開催期間が一か月ものびた。

 ラプティ農場のはじめの目的は、ほぼかなったと島田は思った。

 国際入札で、日本の農機具メーカーが落札して、灌概用動力ポンプが急速に農家にいき渡っていった。

 一九六五年に東京農業大学大学院に留学して、育種学を専攻したシャハくんが農学博士の学位をとったという知らせがあった。

「苗も育ったし、後継者も育った」

 島田がいった。

「十年かかると思ってたよ」

 一九七一年、ラプティ農場は、ネパールに対する日本政府の援助事業、ジャナカプール・プロジェクトの調印をもって、東京農業大学から日本政府に移った。

 島田は農場に残り、淳子は学齢期になる娘を連れて帰国することにした。

 振り返ってみると、ラプティ農場の五年間は、時間を凝縮して生きてきた感じがする。

 十年も二十年もたったような気がする。

 海外協力には、その国の宗教や習慣を充分理解することが大切だと思う。自分ではわかっているつもりでも、それは知識にすぎないのではないだろうか。

 国境を越えた友情、心のつながりを一番大切にしたいと淳子は思う。

 淳子は今まで、多くの国の人びとと出会い、別れてきた。

「なにか、お手伝いすることがありませんか」

 おこがましくも、淳子がいうと、見ず知らずの人が、十年来の知合いのように、親類のように、心を開いて信頼してくれた。

 死と隣り合わせのぎりぎりの所に立ったとき、人は虚心になれるのだろうか。

 日本人が繁栄の中で、見失ってしまった、素朴な隣人愛が、そこにはあった。

 

 あとがき

 

 島田淳子(あつこ)さん、旧姓川島淳子さんと私(著者)は、東大看護学校の同級生です。

 二年生の夏に、山上会議所で、セツルメント(ボランティア活動)が、キリスト者医科連盟の説明会を開催しました。

 それをきっかけに、淳子さんはセツルメント活動に入っていきました。

 日曜日ごとに、雑司ヶ谷の盲学校に本の朗読に行きました。

 夏休みには、キリスト者医科連盟の人たちと、無医村の神奈川県の開拓村に、一か月泊まり込んで住民健康診断をしてきたとききました。

 卒業して、東大病院の小児科に就職した淳子さんは、「そのうち、ネパールに行くわ」といっていました。

 勤務が終わると、彼女は英語学校に通い、大学院の学生にヒンズー語を習っていました。

 それからまもなく淳子さんは、ネパールに旅立っていきました。

 このお話しのあと、タマン少年は日本で井戸掘りの技術を学んで、ネパール社会で活躍しているそうです。

 このまえ淳子さんに会ったら、二日まえにジャマイカから帰ってきたのだといっていました。ハリケーン・ギルバートの後の救護だそうです。

(後略)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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尾辻 紀子

オツジ ノリコ
おつじ のりこ 児童文学者 1935年 神奈川県横浜市に生まれる。

掲載作は、ジュニア・ノンフィクションとして1998(昭和63)年11月教育出版センター刊。

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