最初へ

ぜひ言いたい二つ

  「玉砕」が今意味すること

 

 私の小説「玉砕」(新潮社・一九九八)を、イギリスの「BBC・ワールド・サービス」がラジオ・ドラマにして(二〇〇五)八月六日に放送する。ドナルド・キーン氏の英訳(The Breaking Jewel)(Columbia Univ. Press.2003)を土台にしてのことだが、先日、どう使うかはこれから決めるらしいが、ラジオ・ドラマの主任プロデューサーが「出向」中のニュージーランドから重い録音機を持ってひとりで日本に来て、五時間にわたって私にインタビューして行った(八月六日の放送はグリニッジ標準時午後六時半から一時間、短波放送なので、日本でも聞ける。「八月六日」は言うまでもなく「ヒロシマの日」である)。

 私の小説の主題は文字通り「玉砕」——当時の日本での呼称で言えば「大東亜戦争」の末期、一九四四年から四五年にかけて太平洋の島々で日本守備軍が圧倒的に強大なアメリカ上陸軍に対して次々に行なって敗れた「自殺攻撃」(アメリカ軍側はそう呼んだ)だが、訳者キーン氏は最初の「玉砕」戦にアメリカ軍の通訳の「言語将校」として参加したあと、さらには沖縄での「玉砕」戦にも参加の体験をもつ。その体験から彼が考えて来たことは、「日本人はなぜこんなことをするのか」だった。答は「日本人は狂っている」しかなかったが、その彼の考え方を私の小説が変えた。私との対談での彼の発言を使って言えば、「玉砕は決して気違い沙汰ではなかったんだ」(「崇高にしておぞましき戦争」——「私の文学—・『文』の対話」(新潮社・二〇〇〇・所収)。それが判って、彼は「玉砕」を英訳した。

 たしかに私は自分の作品のなかで「玉砕」を狂気の産物として書かなかった。正気でまともなふつうの日本人がある局面に追いつめられたときやってのける行為として書いた。その日本人は、たとえば、私だ。「玉砕」だけではない。「特攻」についても同じだ。そう考えて書いた。

 一九四五年に中学一年生だった私は、もし沖縄に生きていればもう少しで「玉砕」戦に駆り出されていた。戦争がさらに長びいて「本土決戦」になっていれば、その可能性は増す。そのとき私は狂っていなかったにちがいない。狂っていたとすれば、戦争自体が狂っていた。日本側の戦争だけが狂っていたのではない。アメリカ、連合国側の戦争も狂っていた。一方に「玉砕」「特攻」があれば、他方に一方的殺戮と破壊だった都市焼きつくしの空襲、そのはての原爆投下があった。少年ながら、都市焼きつくしの空襲を三度にわたって私が生まれ育った大阪において体験した私は戦争について、その狂気の実感と確信をもつ。この実感と確信に基いて、私は小説「玉砕」を書いた。

「BBC・ワールド・サービス」のインタビューのなかで、「『玉砕』をなぜ書いたか」を問われて、私は次のように答えた。

 まず、述べたことは、「大東亜戦争」がそれに先立つただの侵略戦争だった「日中戦争」とちがってそれなりの論理と倫理——大義名分をもつ戦争だったことだ。「東洋平和」のために中国に攻め入るという「日中戦争」の理屈づけは小学生の私をさえ十分に納得させなかったが、積年の強大な力による西洋のアジアの植民地支配からの解放、独立したアジア民族の共存共栄の「大東亜共栄圏」の確立という「大東亜戦争」の大義名分は国民学校生になった私を納得させた。もちろん、その大義名分の裏には独立アジア民族の共存共栄をうたい上げながら朝鮮、台湾などには独立を許さず、日本の植民地支配をつづけようとしたマヤカシがあったのだが、ここで子細を論じるつもりはない。要は「大東亜戦争」が少年の私が納得できる大義名分をもっていたことだ。

 しかし、「大東亜戦争」はアメリカ、西洋諸国という圧倒的に強大な敵を相手とした戦争だ。戦争は長びき、日本は決定的劣勢におちいり、ついには「玉砕」「特攻」に至る。これは追いつめられた弱者のそれなりの合理的選択であって、ねっからの「気違い沙汰」ではない。しかし、この合理的選択は戦争全体の狂気のなかでそれ自体が狂気だ。

 私はインタビューに来たBBCのプロデューサーにそう答え、そのなかでパレスチナにおける、イラクにおける、三年前の「九・一一」以来の現代における「玉砕」「特攻」の「自爆攻撃」に言及した。それらは決してただの狂気の産物ではない。またそうかたづけ去っては、問題の解決にならない。強者の力づくでの戦争の強行では問題解決にならないし、平和は来ない。平和が来たと見えても、それは変わらず戦争を内包し、「玉砕」「特攻」を必然にする。

 そう述べた上で、私は日本の憲法の「前文」に言及した。それは、そこには「専制と隷従、圧迫と偏狭」に満ちた世界の現状を今世界各国はおたがいの努力によって、その努力を平和的、非暴力的、非軍事的に行うことによって変えなければならない、変えないかぎり世界の未来はない——と書かれているからだ。今世界が必要としていることはこの「前文」の実現だと私は述べ、この「前文」と「前文」を基本の原理とした憲法は、「戦争」「玉砕」「特攻」の狂気の長い歴史のはてに日本人が初めてもった正気でまともな国のあり方、人間のあり方の原理だ、だからこそ憲法を変えてはならないと改憲反対の努力を私は今しているのだとことばをつづけて、インタビューをしめくくった。

 

   2005年(平成17年)5月31日(火曜日)毎日新聞「西雷東騒」欄

  「文史哲」のすすめ

 

 私は一九五八年から一年間、「フルブライト留学生」としてハーバード大学に「留学」している。大学でたいして勉強しなかったが、アメリカ社会で暮らして大いに学んだ。その意味で「留学」と引用符つきでいつも書くのだが、それでも大学は寄付の要請もよこすが種々の報告、資料も手まめに送ってくれる(ついでに言っておくと、私は日本の東京大学を卒業しているのだが、そこからは何も来ない)。ハーバード大学はアメリカのピカ一大学——それを自認している大学なので、それらを読んでいると、アメリカ合州国の学問、知的世界の先端の動向がよく(わか)る。

 私が「留学」したのは、日本ではやりの「ロー・スクール」や「ビジネス・スクール」ではない。まったくはやらぬ(と思う)<Graduate School of Arts and Sciences>で、訳せば「芸術科学大学院」か。入っておどろいたのは私が専攻した西洋古典学とともに数学、物理学の学科もそこにあったことだ。なるほどこれが西洋の大学の根幹にある<Humanities>かと納得したが、これは、つまり「人間学」だ。

 今、学問は、あまりにも専門化、細分化されすぎてしまってよくない。ことに学問の最大の課題である「人間」をとらえようとするなら、今のような専門化、細分化されすぎてしまった学問では太刀打ちできない。もっと総合的に学問をたてなおすべきだ——との反省が強く出て来て、とどのつまり「人間学」をつくれ。これは世界的な学問の動向だが、日本でもあちこちの大学で「人間何とか学科」ができたり「総合学部」が出現して来ている(現に私はこの六月、広島大学総合学部制作科学講座に頼まれて話しに行くことになっている)。こうした動きのなかでは、わがハーバード大学の「人間学大学院」は時代おくれどころか逆に時代の先端を行っている。

 そのせいか最近そこから送って来た報告は元気がいい。そこでも「人間学」(「ライフ・サイエンス」が原語だが、「生命科学」ではあまりにことが小さい。やはり、人生、生活、文化もろもろをふくめての「人間学」だ。)を医学、歯学、公衆衛生などの「スクール」をまとめ上げての大計画でやるらしいが、その中心に位置するのは、もちろん、「人間学大学院」だ。

 そうことが決まれば、「人間学大学院」に元気が出るのは当然だが、もうひとつ元気が出るのは、「人間学大学院」をめざす志願者の数が激増していることだ。二〇〇四年度では九五〇〇人で、これは創立以来の歴史で二番目に多い数だ。そのうち七〇〇人が合格したが、なかで二五%がそうした大計画専攻を希望している。そして、全体の三割が留学生、そのうちの二割が中国人。

 こうした「人間学大学院」の元気のいい報告を読んで私が考えることのひとつは、学力テストに示された日本の子供の学力の低下で、数学をもっと教えろ、漢字を丸暗記させろとせっかちに騒ぎ立てないで、問題をもっと総合的、それこそ「人間的」にとらえて方策を講ずる必要があることだ。ことに今、目のカタキにされているのが「ゆとり教育」の総合学習だが、世界の学問、大学での「人間」「総合」重視の動向を見ていると、「ゆとり教育」の総合学習は世界のその動向にじかに結びついていて、私にはまさにいい線を行っていると見える。それがうまく行っていないのなら、うまく行かせるように手間とひまと金をかけて努力すべきで、朝令暮改式にやり始めたかと思ったらうまく行かぬ、やめる——では、せっかくの小学校での「ゆとり教育」の総合学習は大学の総合学問の「人間学」に結びついて行くはずがない。

 学力テストで韓国の子供のできがよくて、韓国の教育のことがよく引き合いに出される。しかし、取り沙汰されるのがたいていノーベル賞をめざしての英才教育、記憶力増強の特殊教育のたぐいばかりで、そんなことを今さらここで論じてみても仕方がない。それよりは韓国に昔からある「文史哲」の考え方について少し考えておきたい。

「文史哲」の「文」は広範な意味での文学。「史」は歴史認識、「哲」は哲学、思想。この三つが土台にあって人間のまともな「知」は成立する——これが私の解する「文史哲」の思考だが、この思考は韓国にあっても今ははやらぬものになっているし、これが韓国の子供の学力の高さにつながっているとせっかちに言うつもりはない。ただ、それでも韓国はこの「文史哲」の思考が根にあって来た社会だ。それはそれだけものごとの処理、解決にあたって、そうした思考の伝統のない日本人とくらべて原理原則的、論理倫理的、思想的であるということだろう。それは問題をただ技術的にかたづけるのではなく、根源にまでつきつめて考えることだが、学問は、この根源的なつきつめの上にかたちづくられるものだ。そう考えれば、韓国社会、韓国人の根にあって来た「文史哲」の思考は、どこか根本的なところで韓国の子供の学力の高さにまで結びつく。私たち日本人も日本の社会も「文史哲」の思考を今必要としているのではないか。小学校の「ゆとり教育」の総合学習、大学での総合学問の「人間学」も「文史哲」が土台にあってまともなものになる。

 

   2005年(平成17年)2月22日(火曜日)毎日新聞「西雷東騒」欄

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/06/27

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

小田 実

オダ マコト
おだ まこと 小説家 1932年~2007年7月30日 大阪府に生まれる。『HIROSHIMA』によりロータス賞、『「アボジ」を踏む』 により川端康成文学賞。最期まで、表現者として十全の活動をした姿は、感銘を与えた。

掲載作は、「毎日新聞」2005(平成17)年5月31日、同2月22日の連載「西雷東騒」欄に初出の2編に編集室で題を附した。