祖母(あじ)さん
1
日本というのは小さな国だ、とずっと思ってきた。
わたしの机の上には古い大きな地球儀があって、校正刷りを点検する仕事に疲れると、わたしはよくそれをくるくる回す。行ったことのない国ばかり……。しばらくでこぼこした表面を眺めてから、かすかなため息をつき、最後にはたいてい母国である日本の細長い国土を眺める。どうしてなのかはわからない。わからないけれども、きっとそうして自分の存在場所を確かめているのだろう。確認が済むと、わたしはいつも、ふむと一声呟いて仕事に戻る。「ふむ」にはその時々でいろいろな意味合いがあったけれども、「小さいなぁ」がいつでもその中心にはあった気がする。
こんなせまい所でいったい自分は何をしているのだろう。
日本の姿を眺めていると、そんなぼやきのヴァリエーションが、からだの底からふつふつとたちのぼってくるのだ。
けれども、どうして、なかなか日本は広い。
わたしは、緑一色の窓外の光景を眺めながら、急ににじみ出てきた額の汗をぬぐって、薄手の服を持ってこなかったことを後悔しはじめていた。
膝の上で寝ているもうじき二歳になる娘の上着を脱がせていると、
「島は暑いでしょう。今日は特に暑くてね」
空港まで出迎えてくれた源叔父が、ルーム・ミラー越しにわたしと息子の高志を見て、気の毒そうに声をかけた。
「ええ、真夏のようでびっくりしました。まるでタイム・マシンに乗って来たみたいで……」
「タイム・マシン?」
「一瞬のうちに季節をさかのぼってしまったような、不思議な感じなんです。今朝、家を出たときは、庭に霜がおりていたし、風景そのものが冬枯れで、街に色というものが感じられなかったから……」
わたしは戸惑ったまま答えた。夫と姑の故郷であるこの島・沖永良部島にやって来るのははじめてではなかったから、冬でも気温が高いことは充分承知しているつもりだったのに、いきなり緑鮮やかな光景に放り出されると、まるで浦島太郎にでもなったような気分なのだ。
フロント・ガラス越しに前方を見ると、ハイビスカスの赤い花がガードレールのように続いている道を、夫と姑を乗せたもう一人の親戚・守小父の車がのろのろと走っている。その車を追って、源叔父はのんびりとハンドルを操作しながら、
「枝里子さんは島は久しぶりでしょう。何年ぶりになる?」
と、目は前に向けたまま訊いた。
「この子が一歳になったばかりでしたから……」
わたしは、傍らの高志の背中に手を当てて、ほんの少しの間考えてから、
「もう十年になるんですね……」
と、最後は独り言めいた口調になった。
はじめての曾孫である高志の顔を、曾祖父母に見せるために帰島したのが、わたしが島を訪れた最後だった。その十年のうちに曾祖父は亡くなり、アジと呼んでいる九十二歳の曾祖母・千代が残って、今わたしの膝のうえで眠っている新たな曾孫・千枝を、一目見ようと待ちうけている。
源叔父は、半開きだった運転席の窓を全開にしながら、
「あんたたちが来るっていうんで、アジは何日も前からそわそわしてねぇ。夜も眠れんらしくて、あんたたちのために何かを思いつくと夜中にも電話をかけてきて……。今朝も朝早くから、いくら着くのは午後だって言っても、早く空港へ迎えに行け、迎えに行けって。それはそれは楽しみにしとるのよ」
と、しみじみとした口調で言った。
「ぼくも、楽しみにしてたよ」
それまで窓の外を熱心に見ていた高志が、いきなりはしゃいだ声をあげた。
「この前来た時、ぼく、庭の木の下に宝物を埋めといたんだ」
高志が前回夫と姑と共に帰島したのは、正月に開かれたアジの米寿を祝う会に出席するためだった。年末の飛行機の切符は三枚しか取れず、わたしは一人家に残って年を越した。
「高志ちゃんは、前に来たときのこと覚えとるの?」
「うん、覚えてる。アジが面白い靴下はいてたこととか……。親指と他の指のところが分かれてるんだ」
「それは、足袋でしょう」
わたしが赤面して言うと、
「チョーやだ。ぼくだって足袋ぐらい知ってるよ。白いヤツでしょ」
高志は少し憤慨したようすでわたしを見た。
「色のついた足袋もありまーす」
わたしがなお疑っていると、
「そういう靴下、あるよねえ、高志ちゃん」
源叔父は喉の奥で気持ち良さそうに笑って、
「高志ちゃんがこんなに大きくなったのを見たら、アジ、喜ぶよぉ。千枝ちゃんの顔もはじめて見られるし……。ほら、もう少しで着くよ」
と、石垣の間の小道に車を進めた。
観光用に整備された道路とはうってかわって、でこぼことした赤土の道だ。ガジュマルの頑固そうにくねった幹や柔らかそうな大きいバナナの葉、四方八方に硬い葉を噴き上げたソテツなどが、何種類ものツタをからめ、鬱蒼と茂って、ジャングルのように野性味豊かな空気を放っている。
島の空気を吸うと、わたしは個人としての「わたし」を失って、古くから続く家系図の一点になってしまう。
ふっと、そんなふうに思ったとき、車は夫の生家に着いた。
2
座敷に入ると、アジは何度も頷くようにして水のような涙をサラサラとあふれさせた。島の強い日差しにさらされた歳月の深さがしわの深さになって、ほとんど暴力的といっていいほど顔中に刻まれている。
「よう来たねえ」
アジは手拭いですばやく涙を拭って、高志と、わたしの腕に抱かれている千枝を、ほんの少し後ろに身を引くようにして眺め、高志の、ついで千枝の、小さな若い腕にそっとさわった。
黒の混じっていた髪が白一色に変わって、瞳に少し濁りが出ていたが、話し声といい全体の感じといい、十年前とほとんど変わっていない。千枝を怖がらせたらしい深いしわも威厳とやわらかみがあって、十年前と同じくわたしに「なつかしい人」という言葉を思い起こさせた。
首筋にしがみついてくる千枝の顔をアジによく見えるようにしながら、
「しばらくでした」
わたしが挨拶すると、アジは、
「よかったねぇ、二人めが生まれて。男と女と、もう二人産まなきゃあダメよ。子どもは四人いなきゃあダメ。もう二人産みなさいねぇ」
と、はやくもわたしを家系図の点にして熱心に言った。二人の息子を亡くし、娘がひとり残るだけのアジにとって、子どもの数はぜひ言っておかなければならない重要な問題らしかった。
「はあ」
二人目でさえ高齢出産だったわたしが曖昧な声をだしていると、
「ほら、お母さん、これでも足袋?」
高志がわたしの袖を引いて、空いた方の手でアジの足元を指差した。
見ると、ほんとうに指先がふたつに分かれた靴下をはいている。
「ね」と高志。
「ほんとだ」とわたし。
高志は、やっと気持ちがおさまったとでもいうようなうれし気な顔をしてわたしを見た。
「高志ちゃんの勝ちだね」
うしろに立っていた源叔父が急に笑って、
「この前来たとき、高志ちゃんはアジの靴下を覚えとって、それを枝里子さんは足袋だろうって言っとったのよ」
と、車中でのやりとりからはじめて、周囲にわたしと高志の会話の意味を説明した。座敷には、先に到着していた夫と姑の他に、空港まで出迎えてくれた守小父と、源叔父の連れ合いであるアジの娘・文子叔母がいて、座卓を囲んでアジと子どもたちとの対面を見守っていたからだ。
「内地には、こういう靴下はないのネ」
アジが不思議そうな顔をして、だれにともなく呟くと、
「アティムターガハチュヨー」(あっても誰がはくかね)
姑の克子が早口の島言葉で何かを言い、皆がどっと笑い声をあげた。
「何て言ったの?」
高志がすぐそばのわたしに訊いてきたが、だいぶ聞き慣れたとはいえ、
小学校低学年まで島で育った夫の哲郎でさえ、意味を解することはできても話すことはできないのだった。
「変な言葉。ゼーンゼンわかんない。おばあちゃん、今、何て言ったの?」
無邪気に訊く高志に、わたしは、新婚旅行ではじめて島を訪れた際、祝いの席にいた婦人のひとりに、
「
そう島言葉で言われ、あとで意味を知って嫌な気がしたことを思い出した。
いったん飛び込んでしまえば人情味あふれる温かいところの多い人たちだったが、
——そうか、今度は仲間がいるんだ。
と、高志みたいな子どもを恃みにしている自分に気づいておかしかった。
「さ、田舎料理だけど、あがって」
文子叔母が丸顔に笑みをたたえて座布団をすすめてくれたのを機に、わたしは子どもたちを連れて、遅ればせながら神棚の前に坐った。
座敷の奥には、わたしの知るかぎりどの家にも大きな神棚と床の間があって、長押の上から額に入った死者の写真がこちらを見下ろしている。その家に入ったらまず死者である祖先に挨拶するのが島の慣習で、だれもが自然にそうしているのを、「長男の嫁」であるわたしは神妙に真似するというわけだった。神棚には、到着してすぐ夫と姑が供えたのだろう、短い灰を載せた線香がまっすぐに白煙を立ちのぼらせている。
畳に正座した高志の横に千枝を下ろして、線香に火をつけていると、
「ママ、何てんのぉ」
言葉が出はじめた時期の千枝が、島での記念すべき第一声を放った。幼児特有の甘やかな抑揚の声に、
「あらぁ、しゃべったぁ」
子どものいない叔母は、明るい驚きの声をあげ、珍しい好ましい動物でも見るように千枝を見た。
日頃、妹がひとを喜ばせると、それを自分の手柄のように思うらしい高志が、さらに千枝にしゃべらせようと、
「千枝ちゃん、これはなあに」
あたりに特有の香を放っている線香を指差した。
「おしぇんこー」
千枝が舌足らずに言って、日頃家でしているようにぷくぷくした両手を合わせると、
「お利口だことぉ」
叔母はやわらかな笑顔で、千枝に「抱っこ」と手を差しのべた。
千枝は一瞬棒立ちになってじっと叔母の顔を見ていたが、やがて糸でするすると手繰られでもしたようにすっと叔母の手に抱き取られた。
「まあ、この子は、親戚だってわかってるよ。イチムハチューニダカランドヤ」(いつもは誰にも抱かれないのに)
久しぶりの生まれ故郷で、島言葉を存分に使いたいのか、姑が跳ねるような言葉で何かを付け加えると、
「ハロジワワカインドヤー」(親戚だってわかるんだろうか)
「チュラムニチュティカヤ」(顔が似てるからかね)
わたしにはわからない会話が瞬時に飛び交い、皆の目が叔母の腕のなかの千枝に集中した。
「ほんとうに普段は人見知りするんですよ」
いつもは無口な夫が、わたしと高志に話の流れがわかるようにか、穏やかな声で言った。
確かに、見知らぬ人にすぐに抱かれることなどなかった千枝が、叔母にはすんなり抱かれたことがわたしにも不思議だった。
高志とふたり、夫や叔母に似た面差しのある写真に見下ろされているせいか、神棚の前で合掌しながら、わたしは、ふと、
「血かしら」
などと思い、自分がいつのまにか日頃うっとうしく思っている家系図的認識をしていることに苦笑した。
座卓には、大ぶりに切った根菜と骨付きの豚肉を長時間煮込んだ甘辛い煮物、ヒブシミと呼ばれる肉厚のイカの刺身、細く裂いた鳥のささ身が入ったソテツの甘味噌など、なじみの島料理がいっぱいに並んでいた。
すすめられるままに座布団に坐って、居並ぶ人たちの顔を見回すと、アジの姿がいつのまにか消えている。べっこう色に光るパパイアの漬けものを小皿に取り分けている叔母に、アジの所在を尋ねながら、
「ぜんぜん変わらないのでびっくりしました」
わたしが吸い物の椀を手にして言うと、
「ほんとに、ちっとも年をとらないじゃない。ウチなんかよりずっと元気そうで、とても九十二とは思えないわ」
姑が後を引き取るように付け加えた。
「ほんとに変わりませんね」
夫も、アジの元気なことを言った。
長く島の郵便局長を務め、今は退職して悠々自適の生活をしている源叔父が、
「いやあ、同じことを何度も何度も言うようになってねぇ。今までの、切れ者で通っていたアジではなくなっているよ。あんたたちにも同じことを何度も言うと思うけど、年寄りのことだから辛抱して聞いてやってなあ」
と、独特な感じのする内地言葉で、
「でも、島の同じ年頃の人たちに比べたら、足も丈夫だし、まだまだ頭もしっかりしていてね。自分のことは何でも自分でできるし、愚痴はこぼさないし、立派な年寄りだよ。もう年なんだからこちらに来て一緒に暮らしてくれって言っても、まだまだあんたたちの世話にはならんち言うて……。たまに遊びに来てくれても、夜には自分の家に帰るって言って、この叔父さんの家にはまだ一遍も泊ってくれんのよ。だけど、いくら気丈でも、ずっと一人だとやっぱり淋しくてねぇ。たまらんようになるらしいの。だから三、四日に一度は、夜この叔母さんがここに泊るようにしとるのよ。そういう淋しい暮らしだからねぇ、あんたたちが来るっていうのが、アジにはうれしくて、うれしくて。ほんとに何日も前からそわそわして一生懸命で、こっちの方がなんだか切なくなるほどだったよ」
と、最後は叔母の方を見た。
「ほんとに、毎日、毎日、何遍も何遍も電話をかけてきてねぇ。大騒ぎだった。やれ、あそこを掃除しろ、夜具の用意はできてるかって、呼びつけてはこき使ってねぇ。おかげで、ここの家はきれいになったけど、叔母ちゃんの家は掃除もできんですごくきたないの。あとで遊びに来てびっくりせんでねぇ」
叔母が笑った。
すると、それまで一言も口をきかなかった守小父が、
「千代アジは、伊集院の家はどうなるのかって、いつもそればかり心配しとるのよ」
と、ぼそりと言った。
ふっと部屋に沈黙が生じた。
「伊集院の家は、これからは東京で立派に繁栄していくのよ」
源叔父がとりなすように言ったが、一度生まれた気まずい空気は消えなかった。
島では、まだまだ家は代々長男が継ぐべきものなのだった。アジの長男である夫の父が死に、他に男子がいない以上、長男の子である夫が家を継ぎアジを看るのが島の常識だった。それをせず内地でのうのうと自分たちだけの生活をしているわたしたち一家は、島人から見れば非常識な、人非人の一家ということになるのだろう。
「健志が死じすぐどあたるや、
守小父が、神棚の方を見て夫に言った。
神棚の上の壁には、年寄りの写真に混じって、夫の父とその弟・健志のまだ若い写真が掛けてある。二人ともわたしが夫と知り合うずっと以前に亡くなっていたから、詳しいことは知る由もないが、健志叔父は酔ったうえでの喧嘩で人に刺され、夫の父はやはり酔って深夜の海に落ちて死んだと聞く。いずれは島に帰って家を継ぐ者でも、親が元気で畑仕事のできるうちは、内地の暮らしに対する憧れも手伝って内地で働くことが多いのだという。二人ともの、
「内地は人を殺す土地だ」
と洩らしたというが、息子二人の死を耐えたそのみごとさを、他の親戚筋の人から聞いたことがある。
守小父の問いに、
「健志叔父が逝って、半年になるかならないかでした。もう二十年になります」
夫がそう答えると、
「哲郎が大学に受かったから、どこかに下宿させて、自分たちは島に戻るつもりだって言っていた矢先だったのにねぇ」
叔母がため息をついて、
「ついこの間のような気がするのに、あれからもう二十年ねぇ……」
と、感慨深げな声を出した。
その二十年は、哲郎にすれば、周囲から母親と祖父母はおまえが看るのだぞと言われ続けた二十年であり、姑にすれば、半人前の息子を抱えて夫に先立たれ、生活に汲々としなければならなかった二十年だった。
夫を亡くした姑は島には帰らず、パートで近くの工場に働きに出、哲郎はアルバイトをしながら六年かかって東京の大学を出た。
わたしが哲郎と知り合ったのは、その学生時代のことだ。
結婚と同時に、まだ四十代だった若い姑と同居するというわたしに、友人たちは、
「うっそぉ、信じられない」
と不気味なものでも見るような眼差しで言ったが、そう言われたわたしが、いずれは島にいる祖父母の面倒もみなければならないと夫に告げられたときは、さすがに、
「うっそぉ」
と、思ったものだ。
両親の仲の良い核家族で、何の軋轢も経験することなく育ったわたしは、まだ若くて、他人と暮らすということがどういうことであるのか、ましてや母と一人息子の濃密な暮らしのなかに突然若い女が入っていくということがどういうことであるのか、実際には何も知らなかった。お義母さんを一人にするのはかわいそう。単純にそう思って、むしろ自分からすすんで姑との同居を選んだ。祖父母に関しては、
「どちらか片方になったら、ウチが島に戻って面倒みるよ」
その姑の言葉を疑いもしなかった。
結婚後十余年が経って、わたしもようやく、世の中には本音と建前というものがあるということ、家族の一人一人が同じ家のなかで、ああ思いこう思い、もつれ合ったりしこりを残したりしながら、それでもどうにか暮らし続けていくということがどういうことであるのか、そんな事々がわかりかけてきた。けれどもというのか、だからというのか、時に全部を放り投げてどこか遠くへ行ってしまいたいと思うことのあるわたしは、もう簡単に、一人にしておくのはかわいそう、と行動できる蛮勇のようなものを失くしていた。
「あっ、
叔母に抱かれていた千枝の、幼い声がした。
振り向くと、アジがどこからか色糸で鮮やかな模様を作った手毬を二つ下げて部屋に入ってくるのが見えた。てっぺんに吊り下げる紐がついているところを見ると、装飾用の毬なのだろうか。全体にやまぶき色の糸が巻かれていて、その上に紺や赤、金色などの糸が丹念に巻かれ、美しい幾何学模様に仕上げてある。時間と手間そのものを巻き込んだような手毬に、半ば圧倒される気持ちで見とれていると、アジは、
「このバアちゃんが作ったのよぉ」
そうゆっくりした口調で言って、毬を千枝に手渡した。と、千枝は、叔母の腕から身をよじるようにして畳に降り、すぐさま、
「ぼん」
と、二つとも乱暴に放り投げた。
アッ、とわたしは内心うろたえて、アジの手前どう言い繕ったらいいのかと一瞬のうちにあれこれ思いめぐらしたが、千枝が転がる毬を危うい歩調で追いかけはじめたのを見て、ほっと荷を下ろしたような気持ちになった。
千枝にとっては、きれいなボール、オモチャなのだ。美術品のように眺めることはなくても、それですぐさま遊びはじめれば、アジにとってそれはそれでうれしいことだろう、そう思ったからだ。
千枝がからだを二つ折りにするような姿勢で毬を拾い、
「ぼん」
と口に出して投げ、ころころと可愛い声をたてて笑う。
「ぼん」
ころころ。
「ぼん」
ころころ。
その繰り返しだ。
そのさまを、アジが、ほう、とか、まあ、とか、意味のない言葉を連発して眺めている。
その姿を見ているうちに、わたしは、「子どもの功徳」という言葉を思い浮かべていた。
足元に転がってきた毬のひとつを手に取って、何気なく振ってみると、中に石ころの入った容器でも埋めてあるのか、かすかな音がルルルとする。
「お母さん、貸して」
高志に手渡すと、高志はそれを何度も振りながら庭の見える廊下に出て、
「不思議な音だね……。島の音だね」
ルルル、ルルルと音をたてた。障子を開け放した廊下から音が流れて、気まずくなった座敷の空気をそっくりそのまま追い払っていくようだった。
「今から、お義父さんとお祖父ちゃんのお墓参りに行きましょうか」
わたしが、優等生の嫁ぶりを発揮して提案すると、
「……それじゃ、また来るワ。宴会は明日の晩だろ」
守小父が席を立って玄関へ続く廊下に出た。床板をぎしぎし言わせながら高志の横に立ち、守小父は毬を振り続けている高志の頭に手を置いて、
「家の裏にはバナナが生っとるし、そこには、ほら、みかんが生っとるぞぉ。あとで取って、うんと食べていけ、うん」
前方に広がる庭の隅の方を指差した。
何という種類のみかんなのか、小さな淡い色の実が幾百の花のように生った木が、大小様々な石を組み合わせた石垣の内側に見えた。硝子戸も開け放ってある廊下の柱につかまって、高志が身を乗り出すようにしながら守小父の指差す先を見て、
「宝の木だあ」
と、声をあげた。
3
宝の木は、その木の根元に宝物を埋めたから「宝の木」なのだった。なのに、アジは、高志がみかんを小判かなにかのように思い、宝がザクザクなった木だと言ったと思うらしく、
「帰るとき、あの宝のみかん、みーんな持っていきなさいねぇ。島のみかんはほんとにおいしいよぉ」
と、歌うように言った。そして、懐から少し黄ばんだ週刊誌大の大きさの紙きれを取り出し、
「枝里子さん、これ持って帰ってねぇ」
と、差し出した。見ると古い賞状で、島の小学校名の後に、毛筆で「一年一組、伊集院哲郎」と夫の名前が書いてある。
「ひゃあ、ばあちゃん、そんなのまだ持ってたのぉ。何年前のよぉ」
姑が驚きの声をあげた。
隅の方が少し黄ばんではいたが、皺ひとつなくきちんとしている。何かに挟んで保存していたのだろう。が、保存状態の良さより、九十二歳の老婆がそれを忘れず取り出してきたことのほうに、わたしは驚いた。
賞状を前に、夫や姑、わたしや叔母たちがざわめいていると、
「なあに?」
好奇心の塊のような年頃の高志が座敷に戻ってきて、
「お父さんのじゃん。へぇ、お父さんも賞状なんか貰ったんだ」
と、父親を苦笑させ、皆を大笑させた。
「高志ちゃん、墓参りに行くんなら、その前にアジが畑を案内しようね。みーんな、高志ちゃんのものになるんだから、よおく覚えていってねぇ」
アジが言った。はじめて島を訪れたとき、わたしも伊集院家の長男の嫁として、アジに連れられ、サトウキビ畑を見てまわったものだ。雨の後で、泥だらけのあぜ道を靴の踵を抜き抜き歩き、広大な荒野の中に出た。見回すと、三百六十度一面、大きなススキの穂がサワサワと風のかたちにたなびいている。この荒野のどこに畑があるのだろう。わたしが捜しあぐねてキョロキョロしていると、そのススキと見えたものがサトウキビだったのだった。
「あんなに大きなススキがあるかね。穂だって、形が全然違うだろうに」
後で親戚中の人に笑われたが、あの頃のわたしはまだコドモで、人というものはみな自分を慈しんでくれるものだと思って、ただニコニコしていた。
「えっ、ぼくの? みんな? なんで?」
高志が不思議そうな顔をして訊いた。たしかに、本来だれのものでもない土地が突然高志のものになってしまうというのは不思議だ。
「僕が案内するから、アジは家にいていいよ」
恐らくは畑など見るつもりのない夫が申し出ると、
「
と、アジは実にうれしそうな顔をした。
学生時代、夫も、帰島するたびアジに畑を見せられ、興味のない顔を見せては叱りつけられたという。祖先から受け継いできた土地を次の世代に少しも減らさず渡すこと、アジにとってはそれがとても大事なことなのだった。まだ譲ってもいない土地について、アジは絶対に売ってはならないと説教し、守小父に代表される親戚たちは絶対に不在地主になってはいけないと厳命する。つまりは、島に住めと言うのだ。
けれども、小さいながら東京で出版社をおこし、それがようやく軌道に乗りはじめた夫には、島に帰る意志は微塵もと言っていいほどなかった。島で生まれたとはいっても内地の暮らしが長く、その生活に馴染んでいる夫に、島で生まれ育った人たちと同じ「島人」意識は育ちようがないのだった。島は、夫にとって父祖の地であり、その意味では特別な地だったが、離れて暮らす年月が長くなるにつれ、記憶の中の懐かしい土地にすぎなくなっていた。内地には思い出を共有する友人・知人がおり、責任を持たなくてはならない会社があり、ローンで買った郊外の家があり、島言葉を解せず畑仕事もできそうにない妻子がいる。生活の基盤はすべて内地にあるのだった。「島人」の姑も、生活基盤として考えるときの「島」の位置は夫と大同小異らしく、今さら島に帰って苦労するのは嫌だと折にふれては仄めかしていた。
島の土地も家も実際にアジの面倒を見ている文子叔母と源叔父夫婦に譲ってくれ。
夫がそう言うと、アジは、「何を言う」という表情で怒り、悲しむ。伊集院の姓も子どもも持たない叔母は、アジにとって、実の娘ではあっても他人と等しいらしいのだ。
文子に相続させればすべては他人にとられる。
アジはそう言い、それではご先祖様に顔向けできない、と頑なに思い込んでいるふうだった。
近くの実家へ寄ってから墓参りは改めてするという姑と別れ、夫と子どもたちと連れ立って歩きながら、わたしは「因習」という言葉を思い浮かべ、それがこの空と海の美しい小さな島を投網のようにすっぽり覆っている気がした。
網の目の間からは、サトウキビの葉がふさふさと飛び出している。丈の高いサトウキビ畑は、中に分け入ってしまえば何をしようと外からは窺い知れない。愛の褥になることも多いという。そんなことを思うと、ヒバリの卵を隠し持つ麦畑みたいに、「愛」を隠し持つサトウキビ畑がいっせいに熱をもって匂いたつようで、わたしは島に開放的な濃い自由も感じた。
石垣に囲まれた墓の外で靴を脱ぎ、子どもたちも裸足にさせて、わたしは水の入った薬罐をさげた夫の後から囲いの中に足を踏み入れた。
内地の墓地とは様相が違って、石英の粒のような白い砂が五、六坪ほどの敷地いっぱいに敷きつめられ、白く輝いている。中央に丈の低い墓石がひとつ、その背後に半地下のコンクリート製納骨堂があって、ただそれだけである。白とグレーの世界だ。なんとなくアッケラカンとしていると思うのは、土や草木など湿り気のあるものと同居する内地の墓地を見慣れているせいだろうか。
アジが庭から折りとって持たせてくれたクロトンを花立てに差すと、赤や黄の斑がまだらに入った濃い緑の葉が白い背景によく似合った。
慣れた手つきで白砂を寄せ、線香をたてるための小山を作っている父親を、さっそく千枝が真似て、砂をかきまぜ遊びはじめる。高志が兄らしく、機嫌を損ねないよう千枝の面倒を見始めたのを見て、
「わたしもこの中に入るのかしら」
何気なく夫の横顔に呟いた。と、急にそのことが現実味を帯びて、わたしは自分の骨が、乾いた墓地で、ひとりぽつんと澄んだ空と海を見つめ、言葉もわからず途方に暮れているさまが見えてくる気がした。
「死んだら終わりって思っているはずなのに、こんな遠くに葬られるかと思うと、なんだか理不尽なような変な気がするわ」
「……」
「あなたはどんな感じがする? 落ち着くべきところに落ち着いた、って気がすると思う?」
夫が黙っているので、わたしは用意してきた線香の束を取り出し、よく火が回るように捌きながらライターで火をつけた。透明な炎が周囲の空気をゆらゆらと揺らすのを眺めながら、
「自分の骨って、いったいどこへ行ったら落ち着いた気がするのかしら。もし明日わたしが死んだら、やっぱりここに葬られちゃうのかなあ……」
独り言のように呟いた。
手にした線香の束を振ると、炎が消えて白い煙が青い空に向かって一斉にたちのぼっていく。
「親父の骨があるから、お袋の骨は当然ここに持ってくるだろうと思うけど……。骨ねぇ……」
夫は、少し考える眼になって、
「骨ねぇ……」
と、遠くを見たまま同じ言葉を繰り返した。
「お義父さんの骨はあなたが納めたの?」
線香の束を二つに分けながら納骨堂に目を向けると、
「そこの扉を引いてね、先に死んだ叔父さんの骨壷を脇へ寄せて、僕が置いた。扉がひどく重くて、膝をついたままの姿勢ではとても動かせなかった……。それに比べると、骨の方はとても軽くてね、なんだか現実じゃないような気もしたな。アジが、まるで生きている人間に対するみたいに、親父と健志叔父の骨に話しかけて……」
そこで言葉を切って、夫は、わたしから線香の束の半分を受け取り、
「高志も千枝も、こっちに来て線香をあげなさい。おまえたちのお祖父さんや曾お祖父さんが眠ってるんだよ」
と、空いている方の手で子どもたちを手招いた。
並んで墓石の前にひざまずき手を合わせると、足元に落ちた影が白砂の小山を覆って、そこだけ線香の煙をくっきりとさせていた。目を閉じ掌にきゅっと力を込めたが、念じる言葉、話しかける言葉は、少しも思い浮かんでこなかった。
膝の間に千枝を挟むようにして祈っている夫には、夫なりの感慨があるのだろう。横顔にある気配が感じられる。
火葬された父親を両手に抱いた日、骨のぬくみが伝わってきて、初めて夫は涙を流したという。
わたしにとっては馴染みの薄い墓であっても、夫にとっては、身近だった人たちの墓なのだ。
「ねえ、お祖父ちゃんって、ぼく見たことある?」
高志が小声で訊いてきたので、わたしは、ううん、と首を振り、
「でも、アチャになら会ったことがあるわよ。高志の曾お祖父ちゃん。高志をだっこして、ほんとうに嬉しそうにしてた……」
「ぼく、全然覚えてないや」
「千枝より小さな赤ちゃんだったもの」
初めてわたしが島を訪れたとき、内地言葉が話せないのか、生来の無口のせいなのか、話しかけても目で笑うだけで、滞在中ひと言も口をきかなかったアチャの顔が、くっきりと浮かんできた。
男は日に三言、と寡黙なのが良しとされる土地柄である。わたしに口はきかなかったが、アチャは、サトウキビを食べてみたいと何気なく言ったわたしに、畑から上等な一本を選んできて、鎌できれいに皮を剥き、黙って差し出してくれた……。アチャの飼っていた牛に草を食べさせて珍しがっていると、餌を与える時間ではないのに、どこからか草を刈ってきて、そっとわたしの足もとに積んでくれた……。
縁側に並んで、庭を見ながら腰を下ろしていたときのことが思い出された。わたしがぽつりぽつりと話すだけで、アチャは何も話さないのに、その沈黙には温かさと慈しみがあって、わたしは豊かな安らぎを感じたものだ。
わたしが夫と島を去るとき、
「
アチャは孫である夫にそう言って、小さな目を濡らした。わたしたちが飛行機に乗り込んだ後も、飛行場の柵につかまったまま、ずっとわたしたちの坐る飛行機の窓を見ていた。
「
続けてそう言ったアチャに、男の子である高志を抱かせることができたのは、せめてものことだった、そう思った途端、
「あの赤ん坊が、こんなに大きくなって、今はもうお兄ちゃんになって、妹の世話もするんですよ……」
そう心の中で話しかけていた。
「この子が、二番目に生まれた千枝。何にもならない女の子だけれど、家族の宝です」
孫とその嫁、ふたりの曾孫を見つめるアチャの視線を、そのときふっと感じたような気がした。
「ぼく、星の砂を捜したいなぁ」
そう高志にせがまれて、墓参りの後、観光名所のひとつになっている近くの珊瑚礁の浜に降りてゆきながら、わたしは、
——墓を祖先との交歓の場みたいに思うなんて、お義母さんのことを嗤えないな。
と、先祖の霊を云々する宗教に凝って、借金までして金を注ぎ込んでいる姑のことを思った。
砂浜に立つと、
「うわぁ」
と、喚声を上げて、高志が一散に波打ち際に走って行く。星の砂を捜すどころか、砂浜には目もくれない。
ほんとうに、飛びついて行きたくなるほどの海だった。
遠目にも水が透んで、珊瑚礁特有の白、茶、グリーンなどの色彩に染まった浅瀬が、沖合まで続いている。
見渡すと、珊瑚礁の尽きたあたりには白い波頭が立って、その先は水平線まで鮮やかな青だ。
「海って、汚されないと、こんなにきれいなものなのね」
傍らの夫に囁くと、夫は黙ったまま頷いて、抱いていた千枝を砂浜に降ろした。
全体に淡いベージュ色の砂浜には、様々な貝がらが点在していて、ところどころに珊瑚の白い死骸が吹きだまっていた。
千枝はよちよちと二、三歩進んで、ついとしゃがみ込み、何かを拾った。見ると、赤と金色のしま模様の花火の燃えがらを大事そうに握りしめている。
「子どもには、自然より人工のものの方がきれいなのかしらね」
思わず笑うと、
「そう言えば、ぼくも、島の小学校時代、写生大会でわざわざ遠出したのに、当時は珍しかった乗用車を描いた覚えがあるなぁ」
「わたしは、町にはじめて出来た鉄筋三階建ての建物。漁業協同組合だった」
そう言って言葉を切った途端、その建物の立つ港の前に、豊かに広がっていた故郷の海が思い出された。茨城の北端の海だった。
「ねぇ、ここも太平洋でしょう?」
何気なく訊くと、
「いや、東シナ海」
「えっ?」
わたしは驚いて、
「東シナ海?」
「ああ、反対側なら太平洋だけど……。どうして?」
「だって……」
「同じ日本なのに、か?」
そう言うと、夫はおかしそうに笑った。
……なかなか、どうして、日本も広いものだ。
わたしは、目の前の「東シナ海」を眺めながら、
「タカシー、その海ねー、東シナ海だってー」
息子の後ろ姿に呼びかけた。
「知ってるよー」
ズボンの裾を膝まで捲り上げて水につかっていた高志が、無造作に声を投げ返してきた。
わたしは少し憮然として、夫がまた笑うのを横目で見ながら、千枝のそばにしゃがみ込み、砂をすくって何かの死骸なのだという星の砂を捜しはじめた。
手のひらに砂を広げ、表面を撫でながら根気良く捜してゆくが、なかなか見つからない。場所によっては、砂全部が星の砂というところもあるらしいが、ここは残念ながらそんな宝の場所ではない。
こんなにしみじみと砂を眺めたことはなかったなぁ、そんなふうに思いながらさらに砂粒を見てゆくと、砂は皆、貝やウニや蟹や珊瑚や、何かはわからないが、かつては生きていたものたちの破片なのだった……。
死屍累々、か。
周囲を見渡すと、砂浜全体がぼおっと鈍い光を放つかに見えた。
「タカシー、星の砂を捜すんじゃなかったのー」
水際で遊び興じている息子に大声で叫ぶと、
「ほら」
夫が、肉の厚い手のひらを差し出してきた。中央に一粒、針の先より細いとげを持つコンペイトウみたいな砂が、今にも吹き飛ばされそうに張り付いている。
「へえ、ほんとうに星のかたちじゃない」
感心して言うわたしに、いつのまに駆け戻ってきたのか、
「当たり前じゃん。だから、星の砂っていうんだよ」
高志が生意気に言った。父親の手のひらから、唾液をつけた指先で星の砂をすくいとって、高志は、星のかたちをした砂をしみじみと眺め、
「お母さん、ぼく、あの木の下に、この星の砂もいっぱい埋めといたんだ。……でも、空き缶に入れといたから、もう錆びちゃってぐしゃぐしゃになってるかなぁ……。ぼく、小さいとき、馬鹿だったね」
と、少ししょんぼりした顔になった。
4
「もおっ、大きくなっても馬鹿じゃない」
先ほどから落ち着きなく居間を跳ね回り、蛍光灯の紐の先につけてある毛糸のボンボンを、サッカーボールさながらにヘディングしている高志に、わたしは、
「アジが落ち着かないでしょう」
と、気兼ねしながら言った。
高志がそうしてボンボンを揺らすので、千枝が面白がって、
「ぶーらんこ、ぶーらんこ」
と、騒ぐ。最初のうちはたたみの上で見ているのが、そのうちボンボンにさわりたくなり、菓子やら漬け物やらお茶やらがのっているこたつの上に、かまわず上り始める。こたつは必要ないほどの気候なのに、島人にとってはやはり冬なのだろう、どの家庭にもこたつが出ていた。
「おう、おう」
アジは目を丸くして、急に目の前に千枝のお尻やら足やらが現われるのを、
「元気ねぇ」
と、眺めているが、物も千枝もいつ落ちてくるのかわからないのでは、おちおち居眠りもしていられないに違いない。
「迷惑よ」
兄の方を、わたしが叱ると、
「だって、つまんないんだもん」
高志は不服そうに唇をとがらせて、火のないこたつにもぐり込んで、腹這いになった。
中廊下を隔てた座敷からは、相変らずにぎやかな声が聞こえてくる。蛇皮線の音に合わせて歌う声。跳ねるような島言葉。どっと沸き起こる笑い声。
「親戚って、いっぱいいるんだね」
高志の素朴な感想通り、二つの広い座敷の襖を取り払ってしつらえた「歓迎の宴」には、二つの町しかないとはいえ、島中の伊集院の親類が集まっていた。
最初のうちこそ、アジとわたしと子どもたちも膳の前に坐っていたが、ひと通りの挨拶が済み、料理を食べ終えると、頃合を見て台所続きの居間に避難してきた。たかが歓迎の宴なのに、飲めや歌えやが、夕方のまだ明るい時刻から深夜にまで及ぶのだった。
島の男たちはたいがい酒に強い。湯で割った黒糖酒をぐいぐいと飲み、蛇皮線を弾きながら歌い、踊る。女たちには、やたらと甘い「女酒」というのがあって、これをチビチビ飲んでは、琉球舞踊のような南国独特の踊りを披露する。蛇皮線と踊り。それは島人の一般教養なのかも知れなかった。
それらを眺め、内地言葉で話しかけてくる人たちとの対応が一巡すると、これまで他所者のわたしは、喧噪のなかに置き去りにされたものだ。皆がどっと笑っても、なぜ笑っているのかわからない。最初のうちこそ説明してくれる人もあるが、宴が佳境に入れば捨て置かれてしまう。孤立感や疎外感を味わうというのではない。ただ退屈なのだった。様々に変化する皆の表情を眺めていると、それとは対照的に自分の表情が少しも動かないのがだんだん気になってくる。子どもという、退出する口実のなかった頃は、酒宴の終わるのがひたすら待たれたものだ。
高志と千枝のおかげで今はこうして逃げていられる。
いたずらするのを見張るのも一仕事だけれど、と嫌がる千枝をこたつ板から降ろしていると、
「お母さん、このテレビ、なんか変」
リモコンを操作して、チャンネルを次々と変えていた高志が、急に高い声を上げた。
「やってるはずの番組がやってないし、変なところで変な番組やってるよ」
「ああ」
わたしは思い出して、
「島じゃ、民放は一つか二つしか映らないのよ。ちょっと前まではNHKしか映らなかったんですって。ねえ、アジ」
立ったままアジの頭の上から声をかけた。が、その声が聞こえなかったのだろう。アジは澄まして千枝が乱したこたつ板の上を片付けている。面と向かって話すときには小さな声でも通じるのに、背後から声をかけたりすると、かなりの大声でも反応しないことが多々あった。唇を読むのかも知れないが、アジの耳は必要なときだけスイッチが入る省エネ型になっているのかも知れない。
「ねえ、アジ」
高志が大声で呼びかけると、アジは夢から醒めたようにピクリとこちらに顔を向けて、
「高志ちゃん、いくつになったね」
と、いきなり、今日だけでも三度めか四度めかになる質問をした。
「十一歳」
高志が、一瞬、またかというような表情をよぎらせて答えると、
「ふうん、何年生になるね」
「小学校五年生」
「まあ、もう、そんなになるね。そうね、五年生ね。千枝ちゃんはどのくらいになる?」
その後の展開もまったく同じだった。
「一歳十か月。もう少しで二歳」
「ふーん、二歳……」
アジははじめてのように感心し、今度はわたしの方に向き直って、
「枝里子さん、帰る時、あの宝のみかん、みーんな持って行きなさいねぇ」
と、またもや今朝から五度か六度めかの科白を言った。
あのみかんを全部持って帰るのはとても無理だ。そう思いながら、
「はい、おいしそうですものねぇ」
わたしも同じ科白を同じ顔で言った。
アジも年をとった。そう思うのが、胸のなかに砂を詰め込むような、無残な重苦しさを呼び込んでくる。
「枝里子さん、ちょっと」
文子叔母の声に顔をあげると、叔母は居間に入って来ながら、
「守小父さんが、何かあんたに話があるんだって。もういい加減酔っぱらってるから、適当に相手しとけばいいけど、千枝ちゃんはウチが見とるから、ちょっと行ってやって」
と、千枝をあやしながら抱きとった。
座敷に出ていくと、大部分の客はすでに帰っていて、濃い間柄なのだろう、いまだに正しい続柄は覚えきれないが、見慣れた親しい顔ぶれだけが残ってこちらを見ていた。
「ここに来んしゃい」
だいぶ酔っているらしい守小父が、自分の隣の座布団を片手でたたいて、持っている盃から焼酎を溢れさせた。
坐ったわたしに盃を持たせ、小父は自分と同じ「男酒」をついだ。飲めというふうに顎をしゃくる。わたしが一息に飲み干すと、小父はちょっと面食らった顔になり、一瞬遅れた感じの間合いで、また酌をした。そのままわたしの顔を見守るふうなので、盃をテーブルに置き、その目をさり気なく見返すと、
「枝里子さん、島に帰って来んね」
守小父がいきなり核心に触れた。
「エエッー」
わたしが肩のあたりに両手をあげて、後ろにのけぞって見せると、小父は、冗談ではないのだ、というふうに、
「帰って来て、この家に住まんね」
と、同じことをはっきりと繰り返した。
もしかしたら、わたしのいない間に帰島する話が決まって、後はわたしの了解を取るだけになっているのかも知れない。一瞬そんな考えがよぎったが、座の空気でそうではないのがわかった。
わたしに向かって言いながら、小父は実は夫と姑に聞かせているのだった。
座はだれも喋るものがなく、静まりかえっている。源叔父が、
「こんな所で急にそんなことを言われても、返事に困るよね、枝里子さん」
助け船を出した。が、守小父は、
「でも、はっきりさせねば」
と、夫と姑の方に向き直り、
「帰って来んなら、帰って来んでもいい。でもな、哲郎。それならそれで、ここに年寄りがひとりで暮らしてる、それを絶対忘れるなよ。いつでも思っていろよ。それならいい、それならいいけど、それを忘れたら、俺は……」
許さない、というふうに聞こえた。
夫と姑が、その言葉に棘を感じているのが見て取れた。
何を理不尽な、とわたしは怒りがこみあげてきた。親の助けを一切借りず、働きはじめたその日から、夫は母親の生活をみている。そのうえすべてを捨てて島へ帰り、祖母まで看ろというのか……。
けれども、それはわたしが島の常識外にいるからなのだろう。
これまでも、
「一家で帰ってくるのが無理なら、克子、おまえだけでもアジの世話をしに帰って来い。行ったり来たりでもいい。交通費がないなら俺が出す。妹にそんな薄情なことをさせておいては、俺が世間に顔向けできない」
姑の長兄が度々そんな電話をかけてきていた。内地と島を往復して夫の親を看ている者は身近な親戚にもいた。それが、孝を大切にする島人の常識なのらしかった。とすると、守小父は、わたしに言い夫に言いしているけれども、実は、ほんとうの的は姑にあって、姑に一言言いたいのかも知れなかった。
押し寄せる「島の意志」に対して、姑は、
「孫がまだ小さいのでね。嫁にはまだわたしの手が必要なのよ」
そう対外的には言う。が、わたしには、
「教祖さまが、島に帰ってはいけないと言ってるの。アジはサタンだから、その世話をするわけにはいかないのよ。情に負けて島に帰れば、哲郎は四十歳前に、高志は二十歳前に死ぬ。だからウチが帰るわけにはいかないの」
そう言うのだった。
「伊集院の家はね、先祖の因縁がたたっていて、男が長生きできないようになってるの。先祖の霊がウチたちを頼ってきているのよ。霊を解放して供養しなければ、伊集院の家系は絶えてしまう。だからウチが一生懸命信心して、どの先祖が頼ってくるのか鑑定してもらって、哲郎や高志の命を救ってもらってるの。献金するのだって、ウチの大事な、血と汗と涙の結晶を差し出すことで、二人を救ってもらってるのよ。学べばわかるの」
だからわたしにも信仰しろと憑かれたような顔で迫る姑が、わたしにはとことん馬鹿に見えたり、不気味になったり、哀れに思えたりする。
アジに関しての「宗教」は口実ではないのか、そう思うこともあった。
が、同じ女性として考えるとき、二十年も前に死んだ夫の親を「嫁」だというだけで看ろと迫られるのは、いかにも乱暴な話だとも思えた。わたしにしろ、姑とはできることなら一緒に暮らしたくはないのだ。
部屋に教祖だという初老の男の写真を祀って朝晩祈り、妙な品物を法外な値段で買い込んでは借金を作る姑。その支払いに追われながら、息子に生活の根底を保障されている姑は、
「試練も大きいけど、恵みも大きいのよ」
と、自分のものではない言葉で言う。
借金を申し込みに行った知人の所から、
「絶対に黙っていてくれとお母さんには言われているの。だからあたしが言ったことは絶対に黙っていてね」
と連絡が入っていることも知らず、姑はシラを切り通そうとし、最後には、
「大学まで出てるのに、信教の自由も知らないの」
と居直る。
姑にすれば、夫は自分がオシメを替えた「子ども」なのだった。その子どもが大人になったからといって、親の自分が指図される覚えはない、姑はそう思っているのだろう。が、姑の「宗教」は、わたしたちにはどう考えても経済行為としか思えず、身内が特殊な死に方をしたという「弱味」につけこんで、引き出せるだけ金を引き出そうとする卑劣な団体にしか見えなかった。借金も本当のところはどのくらいあるのかわからない。一種の布施行をすることで姑の不安な心がいくぶんかは救われていたとしても、それは当面だけのことに違いない。いざとなればわたしたちの生活まで脅かしかねない宗教に、わたしたち夫婦は寛大ではいられず、今もそのことで水面下で姑と争っている。
千枝が原因不明の高熱を出したときのことだ。せきも出ないし、はなも出ない、下痢もしていない。けれどもさすがにつらいらしく、昼夜かまわずぐずっては泣く。それが三日も続いていた。上の子の経験から突発性発疹だろうと見当はつけているものの、疹が出ないことには医者にもわからない。三日目の晩、不安な気持ちで弱った千枝を抱きながらウトウトしていると、足元に人の気配を感じた。夏の夜で、わたしは薄がけを一枚腰のあたりにかけているだけだった。目を開けると、敷布団の上に直接大きな人影が立っている。寝乱れた寝間着姿で、髪がもじゃもじゃとそそけだっている。わたしは危うく悲鳴をあげそうになった。
「これは普通じゃないよ」
緊迫した姑の声が降ってきた。
「取り返しのつかないことになる。だからあんなに、ウチが信心しろと言ったのに……。今からでも救ってもらおう。さ、千枝を貸しなさい」
数珠をかけた手が、熱でぐったりした千枝に伸びてきた。「教祖さま」を祀った姑の祭壇に千枝を連れていくつもりらしい。わたしはぞっとして、
「あっちへ行って。気持ちの悪いこと言わないで」
と、激しく姑の手を振り払っていた。
気味が悪かった。わたしの剣幕に驚いて、姑が自室に戻った後も、薄気味の悪さがじわじわとまとわりついてくる。先祖のたたりなど信じてはいないのに、振り払っても振り払っても不吉な考えが湧いてくる。姑が読経する声が隣室から洩れてくる。わたしは一睡もできないまま朝を迎え、千枝の内腿に小さな疹を見つけて、気が抜けるほどに安堵した。
それから姑はわたしのことを「サタン」と呼ぶ。
「あんたの顔には悪い心が顕われている。あんたの顔を見るたびにウチはぞっとするよ」
そう言って塩でも撒きそうな顔をするのだった。すると、その言葉が引き出してくるように、ほんとうにわたしの心に悪い心が滲み出してくる。それならほんとうにサタンになってやろうか。抜き身のような感情がギラリと顔を出して、自分で自分に戦慄することもあった。
一見穏やかに暮らしているように見える家庭にも、切り込めばこれぐらいの亀裂はある。埋められない溝を持つわたしと姑が島に帰ることが、ほんとうにアジのしあわせになるのだろうか。島の風土のなかで気丈に生き果てること、そのことのほうがアジの一生にはふさわしい。わたしにはそう思えてならなかった。と、
「ママー」
幼い声がして、千枝を抱いた文子叔母が座敷に入ってきた。
「ママのところに行くって、きかなくてね」
文子叔母が皆に困ったような顔をして見せながら、
「ほら、ほら、アタチの大事なママ」
と、千枝をからかいながらわたしに手渡した。千枝がわたしの襟元から手を入れて、乳房をまさぐってくる。キャッ、くすぐったい。いけません。わたしが娘とじゃれていると、その間にすばやく座の空気を察知したのだろうか、叔母は下座につきながらついと夫の哲郎のほうに顔を向け、
「アジが
島言葉で言って一瞬のうちに座の空気を静めた。
源叔父が、
「伊集院の家は東京で立派に繁栄していくのよ。それでいいのよ」
そう呟いている。
「哲郎、俺はあんたの親父とは兄弟同様に育ってきた。あれが生きていればどうしたか、俺にはよくわかる。……けれども、わかった」
守小父がそう言いざま立ち上がって、酔ったからだを引きずるようにして座敷を出て行った。
——島に帰れ。帰って、アジと暮らせ。そう、言うには言ったものの、それが無理であることを、この人も充分承知しているのだ。
出ていく背中を見ていると、そのことがよくわかった。
5
無理を承知で守小父が言い出したのは、なぜだったのだろう。
わたしは眠れぬ目を薄闇に見開いて、暗い影になった透彫りの欄間やどっしりと太い柱を見ていた。
襖一枚隔てただけのアジの寝室から、ハアッ、ハアッという荒い息遣いが聞こえる。
十年前はたたみに布団を敷いて寝ていたアジだったが、今回来てみると、介護の必要のためなのか、アジの部屋には病院によくあるようながっしりとしたパイプベッドが置いてあった。腰の高さほどもあるベッドにどうやってアジは上がるのだろう。昼間、何気なく覗いたときは、踏台でもあるのだろう、と気にも止めなかったのだが、あの息遣いからすると、アジは床から直接這い上っているのかも知れなかった。
よほど様子を見にいこうかと迷ったが、聞こえてくる息遣いには何か日常的な響きも感じられて、わたしはしばらく経過を見ることにして耳を澄ましているのだった。
座敷に敷き並べた布団には、飲みつけない焼酎にしたたか酔った夫と遊び疲れた子どもたちが、それぞれ歯ぎしりをしたり物凄い寝相で動きまわったりと正体なく眠っている。奥の部屋では姑がやはりぐっすりと寝ているはずだった。
アジの息は徐々に静まっていくようだった。
が、ハアッ、ハアッという息の合間に、ああっ、と入る小さなため息がいかにも切なげで、わたしは知らず知らずのうちに眉根にしわを寄せていた。アジの息がいまにも止まりそうで、不安に胸がしめつけられるのだ。が、その不安は、アジの方がより強く抱いているものなのかも知れなかった。
隣室でだれかが寝ている。ただそれだけのことが、アジには大きな安堵をもたらすのかも知れない。そう思うと、島の風土のなかでひとり気丈に生き果てるのがよいと思った自分の気持ちが、いかにも薄情なものに思われてくる。
ふと、アジを東京へ呼べばという考えが浮かんだ。が、実現したときのことを考えるより先に、アジが島を離れて生きられるとも思えなかった。
——どうすることもできないのだ。
そう思い、その思いをしばし噛みしめてみる。が、すんなりと胸の底には落ちていかない。どうすることもできなくとも、どうかしたい。どうにかならないのか。そんな、足踏みでもしたいような焦りに似た苛立ちが、未練がましくこみあげてくるのだ。
ふと、守小父も、この種の苦しさを抱いていたのではないか、そんな思いが湧いた。
アジの灰色の目を思い浮かべながら、天井に目を凝らしていると、日頃ふっとどこかへ行ってしまいたいと思うとき、わたしがきっと思い出す『マルテの手記』の一節が浮かんできた。一字一句正確に覚えているわけではないが、「自分ではもはやどうにもならなくなった事がらを、その事実を悲しんだり、ましてや判断したりしないで、ありのままじっと身に受けとめておく、というのは大変いいことにちがいない」。そんな一節だ。
そうして鬱々としながら、わたしはいつのまにか眠ってしまったらしい。
目が醒めると、柱時計の針は七時を指していた。なのに、まだ夜が明けていない。一瞬時計が狂っているのではないかという思いがよぎったが、島の日の出は東京より一時間遅いのだった。
暗い中を起き出して着替え、台所続きの居間に行ってみると、電灯はついているものの、いつもならこたつの定位置に坐っているはずのアジの姿がなかった。トイレに立ちながら、アジの部屋を覗いてみたが、そこにもいない。ベッドがきれいに整えられていて、白いシーツの上に入口に立ったわたしの影が長く伸びていた。
こんなに朝早くからどこに行ったのだろう。
ほどなく起きてきた姑と家の中を捜しまわり、
「まさか、庭かしら」
と、明けはじめた庭に出てみると、門の前に見覚えのある車が止まって、源叔父が降りてくるのが見えた。叔父が助手席のドアを開ける。黒っぽい着物を着たアジが、小さな背をこごめるようにしてちょこんとシートに正座していた。
わたしたちが走り寄ると、
「いやあ、どこに行ったかと、あんたたち心配したでしょう」
叔父は言って、アジを抱えおろしながら、
「雨戸をどんどんたたく者があるから、開けてみたら、真っ暗な庭にアジが立っとってね。だれと来たのって訊くと、ひとりで歩いてきたって……。あんたたちがもうすぐ帰ってしまうと思うと、夜眠れないんだって言うのよ」
と淡々とした口調で言った。わたしたちを見上げるアジの姿が、濡れそぼったカラスのように見えた。
一時間は歩いたにちがいないアジを居間に落ち着かせ、座敷に来て源叔父が言うには、一晩中アジはわたしたちに持たせる土産のことを心配していたのだという。
「あれも持たせたい、これも持たせたい、早く準備をしろって言ってね。ちゃんと用意してあるから大丈夫だって言っても、言ったそばから忘れるらしくて、気を揉むの。金も渡したいのに、ない、郵便局から下ろしてきてくれって言ってねえ。あんたたちに渡す金は、祝儀袋に入れて、上書も書いて、ちゃんと渡してあるのに、どこかにしまって、しまったこと自体忘れてしまったらしいのよ」
叔父は、起きたばかりの夫とわたしに向かって、
「あんたたちのことでアジはもう一生懸命よ。帰ると思えば悲しくてたまらないみたいだけど、それだけ来てくれてうれしいんだね。叔父さんたちがいくら喜ばせようったってこうはいかない。こんなに生き返ったみたいに生き生きしたアジを見るのは久しぶりで、わたしたちも驚いとるの」
と静かな声で言った。
アジは昨夜、わたしに、出発前は慌ただしくて忘れるといけないからと、祝儀袋に入れた餞別をくれたばかりなのだった。二度めの餞別に、はっ、とわたしは胸をつかれたけれども、後で文子叔母に返せばいい、とはじめてのように受け取っていたのだった。
そのことを叔父に言いかけたとき、アジがしずしずとこちらに歩いてくるのが見えた。
アジはわたしたちの前に来ると、あらたまった態度になって、恭しく夫に祝儀袋を差し出した。かなりの厚みがあった。
「アジ、そんなことしなくていいのに」
夫がためらっていると、
「年寄りはね、お金はちっとあれば、それでいいの。帰って来るのに、あんたたんとお金使ったでしょう。わたしはあんたが可哀相でねえ」
と、もうじき四十歳にもなろうという夫のからだを撫でさすって、無理やりその手に祝儀袋をねじこんだ。
一人十万円近くかかる飛行機代、親戚中への土産、何がしかある祝い事や悲しみ事へ包むお金、それらを合わせると、少なくても一回の帰島に七、八十万円はかかる。それをアジは心配しているのだった。
確かに若い頃のわたしたちには、島は距離的にも遠かったが、経済的にも遠かった。いきおい義理事優先の帰り方になり、一番島との関係が薄いわたしなどは、島への航空券が義理事の多い盆暮れどきには容易に取れないこともあって、十年もの間無沙汰をすることになったのだった。
「小さい会社とは言っても、ぼくも一応社長だよ。島に帰るぐらいの金はあるよ」
夫が笑うと、アジは、
「父親に早くに死なれたのに、よく頑張ってそこまでに……」
と、まるで大会社の社長にでもなったみたいに言うのだった。涙が、アジの灰色の目から、すう、とすべり落ちた。
干からびたようなアジのからだから、どうしてこれほど涙が出るのだろう。
そう不思議になるほど、一日中アジは涙を流し続けた。
「何、ばあちゃん、泣いてんのよ」
姑があきれ顔で訊くと、
「あんたたちが帰ってしまうと思うと、悲しくて勝手に涙が出るのよ」
アジは、実際の別れにはまだ一日あるというのに、涙を先取りして言うのだった。九十二歳という年齢を思うとき、アジは、この別れが今生の別れになるかも知れないことを、強く意識するのかも知れなかった。
そんなアジに、高志も子どもなりに感じるところがあるらしく、
「ぼく、いっぱいアジのそばにいるよ」
と、外には遊びに出ず、アジのそばでゴロゴロしたり、千枝と戯れたりしている。
わたしは、アジとほんとうに別れるときが怖くさえなってきた。
そんなわたしたちの気持ちを察してか、源叔父は、
「あんたたちが帰って、急にひとりになったら、アジも淋しくて耐えられんだろうから、叔母さんが一週間は泊るって言ってる。だから心配しなくて大丈夫よ。帰る日はちょうど親類の結婚式があって、気が紛れるだろうし」
と、気遣い、結婚式には出なくていいけれども、祝儀だけは包んだほうがいいだろう、額はいくら、などと細々としたことまで心配するのだった。
「高志ちゃん、宝物は、どうするの? 掘りたいんじゃないの?」
源叔父は、高志が島に着いた日、車の中で話したことも覚えていてくれた。
「でも、なんか……」
高志が、口ごもって、
「アジは、宝物のことみかんだと思ってるみたいで……。ほんとはみかんじゃなくてぼくの埋めたものだってわかったら、なんか、アジに悪いかなって……」
迷う顔をした。
「こっそり掘ればいいよ。高志ちゃんはいい子だな」
叔父が高志の頭に手を置くと、
「そうだ、こっそり掘れば、わからないよね」
高志はパッと顔を輝かせた。
6
アジが文子叔母の介護で風呂に入るのを待って、高志は宝を掘り出しにかかった。
縁側から見ると、それほどの高さとも思わなかった宝の木が、庭に下りて根元から見ると、意外な高さで聳えている。もともとが強風から家を守るために植えられたのだろう、根がどっしりと地をつかんで、幹との境目のあたりがくねりながら露出している。根と根の間の地面は、所々に小石や貝がらを嵌め込んで踏み固められたようになっている。昼間なのに、あたりはひっそりとして小暗かった。
「おかしいなぁ。確かにここだと思ったのに」
根元とはいっても、四年も前の記憶である。宝の木の数メートル先にあるソテツなどは、わたしが十年前に帰島したとき、親戚の一人から三十センチほどの苗木を二本貰って、そのうちの一本を植えたものだった。「お手植えのソテツ」などとふざけた覚えのあるその苗木が、今ではわたしの背丈ほどにも伸びている。持ち帰って庭に植えたもう一本の方はやっと腰の高さほどだったから、島と東京との樹木の育ち方がいかに違うかがわかる。高志の言う「根元」も、今では木の真下かも知れない。そんなことを思いながら、新たな場所にシャベルを入れ始めた高志の手元を見ていると、掘り返された土の匂いがふんぷんと立ちのぼってきた。
「ここにもないや。おかしいなぁ」
自信をなくしたのか、高志の声が先ほどよりだいぶ小さくなっている。
「埋めたのなら、絶対あるはずだよ、高志ちゃん」
叔父に励まされて、高志が範囲を広げ、あちこち掘り返してみると、最初に掘った所からだいぶ離れた所に、土にまみれた黄色いポリプロピレン製の蓋が見えた。
「ヤリィ。これ、この缶」
高志は大喜びで、宝箱ならぬ宝缶を取り出しにかかった。が、降れば土砂降りの雨になる多雨の島の気候のせいか、缶はボロボロに錆びていて、一部は欠け落ち、とても持ち上げられる状態ではない。そっと蓋を開けてみると、半ば予想した通り中には泥水が流れ込んで、洪水の後の家の中という状態になっていた。
「土石流みたいだなあ」
高志がぶつぶつと呟きながら、その泥をすくった。と、白い骨が見えた。
「キャッ」
わたしが叫ぶと、高志は弾かれたようにその骨を放り出し、
「びっくりしたあ。お母さん、おどかさないでよ」
と、骨を拾い直した。
「珊瑚だよ、枝里子さん」
叔父の声によく見てみると、確かに砂浜によく吹きだまっている珊瑚なのだった。
「鉄砲みたいなかたちだから、ぼく埋めたのかなあ」
と、高志もよく覚えていないらしい。
泥の中からは、何の変哲もないビー玉や角の丸くなった青い染付けの陶器のかけら、錆びて腐食しかけた王冠、楕円形のタイルなどが出てきた。
四年前の小学一年生の頃、確かに高志はそんなものに夢中になっていたのだった。幼児の頃はやたらと小石が好きで、道で小石を拾っては大事そうに握り締めていたものだ。ふと、そんなことを思い出して、
「高志のタイム・カプセルね」
と、笑うと、
「これがぼくの宝だったんだね。ヘコイね」
高志が照れ笑いをした。
「でも、久しぶりに、叔父さんドキドキしたよ。叔父さんも小さい頃宝物を埋めたことがあったのを思い出してねぇ。小学校のガジュマルの木の下だった。今ごろは腐って根に巻かれてるかなあ」
源叔父は目尻にしわを寄せた。
ふと、いつのまにか二児の母になって、生活にがんじがらめになっている自分が、いくつもの宝をどこかに埋め忘れてきたような、妙な寂寥感にとらわれた。
手を洗って座敷に戻ると、文子叔母が、廊下の隅にある鏡台の前にアジを坐らせて、長さだけはあるアジの髪を梳っていた。
座敷では、夫と姑が帰りの荷物を作るのに余念がない。
廊下に立って行き、何気なく文子叔母がアジの髪を扱うのを見ていると、
「枝里子さん、あの宝のみかん、みーんな持っていきなさいねぇ」
アジが着物の衿をはだけたまま、鏡の中から声をかけてきた。
「そんなに持っていけないって、何遍言ったらわかるのよ、ばあちゃん」
姑がかすかに苛立ちのこもった声をあげた。
今朝から姑は、アジがみかんのことを口にするたびに、種ばっかりで実もないのに、と容赦なく言っていたのだった。アジの用意してくれた土産には、十年ものの焼酎や生の落花生、黒砂糖、じゃがいもや米、缶詰の類まであって、それぞれが山のような量になっていた。加えて、後から後から親戚たちが似たような品をやはり山のように持ってくる。
「どうやってこんなに持っていけって言うのよ。もう、これは置いていくわよ」
姑が重量のある米やじゃがいもの袋を選んで、隅に寄せると、
「あんたたちが持っていくんじゃないがね、飛行機が持っていくんだがね」
アジは全部持っていけと言って譲らなかった。わたしにはまだ遠慮があることを見越して、ねぇ、枝里子さん、というふうにわたしを見るので、
「せっかくだからいただいて行きましょうよ。小包にして送れば持たなくていいし」
仕方なくわたしが姑に言うと、アジはわたしにだけ聞こえるような小声で、
「そうよ。せっかくの志だからね、持っていかにゃあダメ。どんなものでも志だからねぇ。それを、あれは持っていく、これは置いていくなんて言うのは人としてダメよ、枝里子さん」
と、人生訓を垂れるように言った。
年老いてわたしたちにはいたわってやらねばならない弱い存在に見えるアジだったが、それはこちらがそう見るだけで、実はアジは「長老」の矜持をびしりと持っているのだった。
どんな愁嘆場になるかと恐れていた別れの日、アジはその矜持を崩さず、毅然として一家の主らしくきびきびと振る舞った。
小包を送る手筈を整え、わたしたち一家を空港へ送る車も手配した。電話ひとつで島の若い衆を、有無を言わせず使ってしまうのだった。
結婚式用に家紋の入った羽織を着、髪をなでつけてもらうと、アジはわたしたちの前に正座して、
「みんな結婚式に出てしまうから、見送りには行けないけど、気をつけてお帰りなさいねぇ。遠い所を来てくれて、ほんとうにありがとう」
と、頭を下げた。
「もし、来年帰って来られなかったら、このバアちゃんが東京へ行こうかねぇ。まだまだ大丈夫、一人で行けるよねぇ」
そう言ってわたしたちを見ると、アジは千枝に手を差しのべて、
「このバアちゃんに一度抱っこされて行きなさい、ねぇ」
と、千枝の片手を引き寄せた。五泊六日の滞在中、アジが何度、抱っこ、と言っても、千枝は一度も抱かれなかったのだ。
祈るような気持ちで見ていると、なぜだろうか、千枝は小さな手を上げてアジの細い首に両腕を巻きつけた。
柔らかな動作だったが、アジのからだが一瞬ピクリと震えたように見えた。
枯れ木そっくりの手が、千枝の小さな背中を抱き取り、体温を確かめるみたいにぴったりと押しつけられている。
幼児特有の柔らかい感触と暖かさが、わたしのなかにも流れ込んでくる気がした。ふと傍らを見ると、アジを見ている夫の両目がかすかに潤んでいくのが見えて、わたしは目を逸した。
「
最後は島言葉になってそう言うと、アジは千枝を離し、高志の背中を抱くようにしてから、迎えの車に乗るために席を立った。
「アジ」
と、高志が、背後から大きな声で呼びかけた。
「見て、宝のみかん。ぼく、いっぱい貰っていくよ」
いつの間にもぎ取っていたのだろう、ポケットからみかんを取り出すと、高志は両手にそのオレンジ色の実を一つずつ持って、無邪気そうに振って見せた。
アジが顔中のしわを寄せて、泣き笑いの表情をした。と、一瞬遅れて、アジの目から涙があふれた。そうしてしばらくわたしたちを眺めてから、アジは首を少し傾げて笑い、高志に二度うなずいて見せると、もう一度わたしたちにむかって頭を下げ、玄関へと出て行った。
さすがに老人の足取りだったが、人の手は借りず、一度も振り返らなかった。
——まるでアジの骨を拾っているようだ。
砂浜に散らばる白い珊瑚の骨格を拾いながら、わたしはそのときのアジの後ろ姿を思い出して、ふっとそう思った。これがアジの見納めかも知れない。見送りながらしきりにそんな気がしたからかも知れない。
空港へ送ってくれる車が来るまでにしばらく時間があった。それまで実家で過ごすという姑と別れて、わたしと夫、子どもたちは、星砂だらけという砂浜にやって来たのだった。
「幸せになる砂なんだって。お母さん、いっぱい持って帰って、みんなのお土産にしようよ」
高志に言われて、わたしもその気になったのだが、多いとは言っても、星砂だけというわけではない。仕分けは後、と高志と手分けして、ザザッとすくい、幾つかの瓶に詰めると、わたしは意外なほどに真っ白な珊瑚の骨格の美しさに目をひかれて、今度は珊瑚のかけらを拾いだしたのだった。
表面に無数の細かな穴が開いた珊瑚は、ほんとうに骨に似ていた。枝分かれしたもの、楕円の輪になったもの、とかたちは様々だったが、基本的には両端が少し膨れたまっすぐなかたちが組み合わさって、いろいろにかたちづくられている。珊瑚には、漂白されたように真っ白な分、本物の骨にはない清潔感があった。これをガラスの器にでも盛って、机の上に置いて眺めたら楽しいだろう。そう思って拾っているうちに、アジの骨を拾っているような気になった。
浜に来る道すがら、夫が、ちょっと言っておくけど、とアチャの遺産についての叔父との話を聞かせたことも、影響していたかも知れない。
話は入り組んでいたが、要するに、必要があって土地の大部分を文子叔母名義にすることになった、それでいいね、というものだった。
わたしに異論などあるはずはないのに、いいねとわざわざ訊いてくるのは、夫が自分の心の奥に、ほんとうにそれでいいのだなと自問する部分があったからなのだろう。
財産にこだわっているというのではない。長年一緒に生活して徐々にわかってきたことだが、夫は、「
姑もそれは同じだろう。いや、決して島言葉を忘れない姑にはそれ以上のものがあるに違いない。そう思うと、このことを姑は知っているのだろうかという疑問が湧いた。文子叔母に相続させることをあれほど嫌っていたアジの、畑に関するこれまでの言動を思い出すと、アジの了解した話ではないのではないか、そんな疑問も湧いた。
が、島は所詮、わたしには遠いものだった。
夫が納得したのなら、とわたしは結局何も訊かなかった。
千枝を抱いたまま高志の遊ぶ波打ち際に立って、夫が沖合の波頭や左手に見える岩場を見ている。風に吹かれる姿が、心なしか淋しげに見える。
子どもの頃、やはりこの位置に立って、夫はこの海を眺めたことがあるのだろうかと思った。
わたしも子どもの頃、よく海を眺めたものだ。わたしの場合は珊瑚礁の海ではなく、故郷である茨城の北端の魚市場から見る太平洋だったが……。
開発が進んでそのあたりの風景は様変わりした。けれども、実家に帰るたびに、わたしはたいてい一度は港を見に出かける。
公園が出来、洒落た橋がかかり、港の一角は変わってしまったが、湾を見下ろすように立つ白い岩肌の崖やカーブを描いた海岸線の奥に見える青い山並み、二ツ島と呼ばれる小ぶりの島、うねる海面のたてる音と匂い、そんなものは変わっていなかった。取り残されたように建つ昔の建物を、新しい町並みのなかに見つけることもあった。
故郷の港に立つとき、わたしはそこに昔の小さな港を重ね合わせて見ていた。子どもだったわたしが蟹や小魚を捕って遊んだ岩場。初潮を迎え友だちとヒソヒソ情報を交換しあった干し網の陰。成長してものを思った堤防……。風景の奥に、わたしは自分のなかを流れた時間を見ていたのだ。
「島」にこだわる島人の感情を、わたしはこれまで特殊なもののように思ってきたが、その根のところは案外同じなのかも知れない。
わたしは夫のそばに歩いて行って、
「スッキリしてかえって良かったじゃない。島の土地をあなたが持っていたってどうすることもできないもの。ネ」
と、励ますにしては空しい言葉を吐いた。
「ああ」
夫は下を向くと、
「これで、島との縁も切れたな」
と、しばらく沈黙を守ってから、
「お袋のためにあの家だけは残してもらうことにしたんだ。高志たちも大きくなったら島に来ることもあるだろうし……」
そう言って、足許の砂を靴の先で撫でた。
「さあて、行くとするか」
夫は、千枝を揺すりあげると、
「タカシー、行くぞー」
と、何かを振り切ろうとするような声をあげた。
7
帰京して二、三日すると、島からの荷物がぞくぞくと届いた。
わたしたちが作った荷物だけではない。千枝の背丈ほどもある胡蝶蘭の鉢植えや一抱えもある立派な瓶に入った黒糖酒の古酒、桐の箱に入った紬の反物など、島の高価な特産品が新たに加わっていた。
アジがあれこれ迷って選んだ品なのだろう。
眠れない目を闇に見開いて、その手配についてアジはいろいろ思い巡らしたに違いない。夜が明けきらないうちから起き出して、真っ暗な道を娘夫婦の家に歩いていった、その一途な思いが、包みを開けるたびに溢れ出てくるようで、わたしは荷物を一つ開けるごとに大きく息を吸い込まなければならなかった。帰島以来胸にわだかまっているアジへの思いが、どうかすると切なく噴き出してくるのだった。
夫の帰宅を待って、礼を言うためにアジに電話をかけると、文子叔母の柔らかな声が出た。
アジはもう寝床に就いたという。
「あんたたちが帰ってから、アジはものもよう食べんでねぇ。たーだ、こたつに坐ってるの。そうしてふんわり笑っているからねぇ、ものも食べずに何考えとるのって聞いたら、こたつの周りに高志ちゃんやら千枝ちゃんやらが遊んどるのが見える、それを見てるのが楽しいちゅうてねぇ。ごはんを食べると高志ちゃんや千枝ちゃんが消えてしまうから、それが惜しゅうて食べられんちゅうの。そんなことしとったら死んでしまうよ。また会いたくないのって言ったらね。そうねぇ、そんなら食べようかねぇって呑気に食べてねぇ。幻が見えるなんて、まったく得な性分だ、ありがたいなんて言って笑っとるのよ」
叔母はそこで一息つくと、背後に人がいるのか、受話器を離して島言葉で何やら囁いてから、
「荷物、ついたネ。壊れんと? そりゃ良かった。みんなも元気しとるネ。哲郎はそこに居る? それじゃあ叔父さんがちょっと話したいって言うから代わってくれんね?」
そう言ってまた島言葉で何やら囁いた。少しの空白があって、叔父に受話器を渡すらしい気配がした。わたしも、
「叔父さんが話があるんですって」
夫に受話器を渡した。
「……いえ、こちらこそ」
「……ええ、出かけてるんです」
「……いや、いくら言っても聞きません」
受け答えをする夫の声だけが居間に響いた。会話から姑のことらしいと察せられた。
アジが出たら声を聞かせようと思い、電話のそばに呼んでおいた高志と千枝を、わたしは子ども部屋に連れていった。
子どもたちを寝かしつけてから居間に戻ってみると、夫は食卓でひとり日本酒を飲んでいた。
「お袋のことをアジが心配してるらしくてね。宗教狂いで家屋敷まで取られる人間がいるから、家と土地の権利証は家に置いておくな、そうぼくに言えって叔父さんに言ったらしいよ。アジは、そういうことは昔から抜け目のない人だから……」
夫はそう言って盃を口に運ぶと、
「お袋に対してだろうけど、自分の孤独は自分で支えねば、って言ったそうだ」
それから少しの間、夫は黙っていた。
この日も姑は宗教の「道場」に出かけていた。アジに古い信念があるとしたら、わたしには新しい割り切り方がある。そのどちらをも持てず両者の間を揺れ動いている姑は、ある意味で一番苦しいのかも知れなかった。一人息子である夫とも姑は宗教のことで決裂している。たとえ自分の子どもでも、その配偶者と作る家庭の中で暮らす孤独感は一人の淋しさより深いというから、姑の淋しさは一層なのかも知れない。その淋しさを癒すために、金さえ出せば受け入れてくれる宗教に入っているのだとしたら、わかっていて淋しさを埋めてやらないわたしが悪いのだろうか。
夫がわたしを非難しているのではないことはわかっていたが、わたしは非難されているように感じる自分がいることを意識した。
「嫁」というのは、見えない声にいつも強迫されている。そう言えば言えないこともなかったが、見えない声は、自分で自分を支えられない姑を情けなく思う自分の非情な心から聞こえてくるのだった。
「明日、ぼくの印鑑証明を二通取っておいてくれないか。土地のことで必要らしいんだ」
そう夫に頼まれて、ふと浮かんだことがあった。
「もしかしたら、アジは先祖の土地を守ろうとしたのかしら」
「えっ?」
「お義母さんはあんなだし、あなたの会社は小さいし」
「ははは、そうかも知れない」
そうだとしたら見事な人だ。わたしは澱んだ心がなんとなく晴れていくような気がした。
「お袋には言うなよ」
「何のこと?」
「土地のことさ。叔父さんたちのことを何て言いだすかわからないからな。手続きが全部済んでから折を見て話すよ」
「ええ」
夫が空になったらしい徳利に酒を注ぎ入れるのを見て、わたしも盃を出してきた。
「他には、何て?」
「会社で出している本を、何か送ってくれって」
「ふうん」
その夜の晩酌から一週間ほど経ったころだろうか。源叔父から夫宛てに手紙が届いた。
前 略
旅の慌ただしさから解放されて、今は本来のお仕事に没頭されていることと思います。
皆さんもその後お変わりありませんか。
せっかく帰省されたのに、何のお構いもできず、申し訳なく思っております。
しかし、親子揃って帰省され、うれしい思いでいっぱいでした。特にびっくりし、うれしく思ったのは、高志君の聡明な成長ぶりと初めて会った千枝ちゃんのとても可愛くお利口さんだったことです。二人のこれからの成長ぶりがとても楽しみです。
今度の皆さんの帰省で、一番喜んだのはアジでした。もともと芯の強い人ですから、人前ではあまりその情を強く表わさない人ですが、今度ばかりは例外で、私たちが見ていても、その喜びようは大変なものでした。
そのうえ帰りに哲郎君から小遣いまで貰い、アジの喜びは絶頂だったと思います。
「孫から貰った有難いお金だから、すぐ預金するように」
とのことで、文子がすぐ郵便局に預けました。今度の帰省で、アジも、これから伊集院家は東京で大いに繁栄してゆくことを実感されたと思います。
それから、哲郎君が会社の代表になったことを、一同何よりも喜んでおります。競争の烈しい東京で会社を運営してゆくことには、大変な努力が必要であることをアジに話しますと、
「哲郎はヌンギムンドゥアンヤ」
と、すごく喜んでいました。
また、先日は私がせがんだ図書をさっそく送っていただき、大変感謝しております。届いた日にさっそくアジに見せたところ、びっくりするやら嬉しいやらで泣きそうにしていました。
本の末尾に「発行者 伊集院哲郎」とあるのを見て、何か誇らしい気持ちでいっぱいです。ほんとうに有難う。
アジのことは心配しないで、会社の発展と子どもさんの育成に全力投球して下さい。
アジは、同じ年代の方たちと比べたら体調も思考もずっとしっかりしています。
しかし、いくら年はとっても皆さんのことをいつも気遣っていますから、つとめて電話で語って下さい。また時折は帰省して皆さんのお元気なようすを見せて喜ばせて下さい。
今夜は文子がアジのところへ行き、私一人なので、久しぶりにペンを執りました。
哲郎君よ、初心を忘れず、これからも大いに頑張って下さい。
皆さんもお元気で、またお会いしましょう。 草々
源叔父らしい手紙だった。夫に手渡されて読み終えると、
「ヌンギムンドゥアンヤって、どういう意味?」
島言葉の意味を訊いた。
「たいしたものだなあ、というほどの意味だけど、ニュアンスはちょっと伝えにくいな」
夫が少し考えるふうに、視線をちょっと上に向けた。
「まるで立身出世した会社社長みたいね。ほんとうにそう思ってるのかしら」
「さあね」
「ふふ、頑張らなきゃね」
「ハハハ」
夫は珍しく声に出して笑うと、同封されていた委任状二通に署名をして実印を押した。白紙の委任状だった。
「白紙ね」
「ああ」
わたしは少しためらってから、
「日付と内容の記載されたものにサインしたいって言ってはいけないの?」
と、訊いた。
「万一、叔父さんたちに騙されたなどと思うことのないように……」
すると、夫は、
「島にそんな考え方はないんだ。一か月も二か月も家を留守にするときでさえ、鍵はかけない島だからね」
「それで問題が生じたことはないの?」
「ああ。信義則に反したことをすれば、島にいられなくなる。それは何より恐ろしいことなんだ」
夫は、取っておいた印鑑証明書二通と署名したばかりの委任状二通を封筒に入れると、しっかりと封をして、わたしに差し出した。
「明日、投函してくれないか」
「ええ」
「これですべてが終わるわけじゃないけどな……」
「ええ」
けれどもわたしには、やはり「島」が、夫のなかで少し遠ざかったように思えた。アジのことは重荷だったにせよ、夫はどこかでその重荷に支えられている部分があったのだ。
ぼんやりしている夫に、
「お酒、一本つけようか」
わたしはサービスして、肴に夫の好きなニラとハムの入った卵焼きを焼いた。島の卵に比べて、殻が薄紙のようにヤワに感じられた。
委任状は三日後に届いたようだった。
源叔父から電話があり、まだ帰宅していなかった夫に、
東京の寒さや帰京後のことを話して、アジのようすを尋ねるわたしに、叔父は、細々とアジの近況を教えてくれてから、
「そう、そう。あんたたちが来ていた間、アジは緊張していたのかね、あんたたちが帰ってからとても頭がはっきりしてね。ボケが治ってしまったみたいなの。記憶が非常にはっきりしてね」
と、急に声の調子を変えて言った。深いところで驚いたような、不思議な響きをもった声だった。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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