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楊貴妃

    三幕

       天 真(後の楊貴妃)

       玄 宗 皇 帝

       楊 国 忠(従兄)

       韓 国 夫 人(一の姉)

       かく国 夫 人(二の姉)

       秦 国 夫 人(三の姉)

       高 力 士

       李 白

       陳 元 礼

        

       注 かく国夫人の「かく」は虎カンムリの表記不能漢字であるので、平仮名表記とした。

 

 

第一幕 道教の観

 

    広い庭の中にある道教の観の一室。

    部屋は蓮池(花はない)に面している。軒には楊柳。質素で、すべては寺内らしく静かだが、侘びしい場景である。

    午前。

    天真(後の楊貴妃)に仕える女中が一人、部屋の中を片付けている。若い女道士が、手に花を持って登場。

 

女道士 これを、どうぞ。(花を差出す)

女 中 まあ、綺麗に咲きましたこと。

女道士 お仕えなさる天真様の前に出しましたら、この花も、羞じましょうけれど……。

女 中 いいえ、そんなこと……きっと、およろこびなさいますわ。

女道士 お気に召しましたら、(部屋を見廻して)お部屋に飾って下さいますように。

 

女 中 有難う存じます。

女道士 では……。(退場)

 

    女中は、手にした花を、花瓶に差して眺める。美しいという思い。

    天真の三人の姉、連立って登場。

    庭先から、室内を覗いて、声をかける。

 

一の姉 妹は居りません?

女 中 はい、これはまあ、皆様お揃いでおいで下さいましたのに、あいにくと、まだ朝のおつとめがおすみなさいませんで……。でも、間もなくお帰りのことで御座いましょう。

二の姉 (姉妹たちに)では、待たせて貰いましょうかね。

一の姉 別だん、用事もないのだけれど……。

女 中 どうぞ、お通りくださいまし。

 

    三人の姉は、部屋の中に通る。

    女中は、それぞれ椅子をすすめ、茶を入れに、奥へ去る。

 

三の姉 (室内を見廻して)いつ来ても、しんとしてるね。

二の姉 静かなのはいいとして、あの天真が、よく、こんな寂しいところに引籠っていられると思うわ。

一の姉 私、われわれ姉妹中で、あの妹がきっと一番、運がよかろうと思っていたのに…。

二の姉 まったく……(頷いて)……一度ぐらい結婚に失敗したからって……年にしても、やっとまだ二十四になったばかり、……道教のお寺に天真、……どう考えても似合いませんのにね……。

 

    女中が、茶を持ってくるので、暫し話は中断される。茶を置いて、女中は退場。

 

一の姉 それというのも、一つは、お父さまが早くにおなくなりに成ったからよ。

三の姉 そうね。何も彼も持って生れた運命と思えば……。

二の姉 でもねえ、私は、なんとしても心残りでならないの。自分さえその気になれば、どんな結構な暮しでも出来る人なのに。

三の姉 ほんとうに、淋しいところね。

 

    言葉絶えて、三人、じいっと蓮池を見詰める。天真、静かに登場。道教の女道士の質素な服。二十四歳の女ざかりだが、ずっと年若く初々しい感じ。

 

天 真 (姉たちを認めて、挨拶)お姉さま方、よくおいで下さいました。

一の姉 太真院の牡丹を見に行った帰りなの、別にかわりはない?

天 真 ええ、おかげ様で……。

二の姉 あなたもお誘いしたかったのだけど……今年の牡丹もこれでお終いよ。

天 真 そうでしょうね。あすこの花は、よそと比べて、いつも大抵半月くらい遅れて咲くのだそうですから。

三の姉 大層な人出でしたわ。

二の姉 みんなめかしこんで、……たまには、あなたも、ああいうところへ行ってみると。一年一年、風俗が華美(はで)になって行くのがわかりますわ。なんと言っても、お金がなくては駄目。

天 真 (伏目になる)

一の姉 今もあなたの話をしていたんですのよ……こんなところに、よく、いつまでも辛抱していられるってね。

天 真 (無邪気な微笑で応えて)別にそう淋しいとも思いませんわ。

二の姉 たまには、表へも出てみたらどう? このごろ急に女の人が馬に乗るのが流行(はや)りだしたのよ。なかなか意気なものだわ。……ああ、あたしも早く、自分の馬を、(うまや)に繋いで置けるような身分になりたいわ。きっと遠い国から渡来したのでしょうね。雪のように白いのや、西域の女の髪毛のように、栗色にピカピカ光るのや、見惚れるほど綺麗な馬……。

三の姉 ああ、そう言えば、トルコやイランの女たちも、牡丹を見に来ていましたが、みんな芸者のような身装(みなり)でしたわ。

一の姉 私は、馬なんて、可怖(こわ)くっていやねえ。

二の姉 あら、可愛いじゃありませんか。

一の姉 (それには答えず、天真の方へ)あなたは、ちいさい時から器用で、どんな楽器をもたせても、すぐ上手になったけれど、ここでは、お稽古もしてはいられないでしょうね。

天 真 ええ、すっかりもう忘れてしまいました。

三の姉 惜しいこと。

二の姉 あなたが、お線香臭くなってるなんて、ほんとに勿体ない話よ。

天 真 でも、こうして静かに暮すのも好きなんです。

二の姉 嘘々(うそうそ)……そんなこと、あなたの性分に合うわけがない……。

天 真 それに私、近々に何かが訪れて来そうな気がして、……何かを待っているのも、倖せの一つだと思います。

一の姉 たよりない話ね。(笑って)……でも思ったより元気なので安心したわ。さあ、それでは、そろそろ、お暇しましょうか。

天 真 あら、折角お揃いでおいでくださいましたのに。

一の姉 でもね、ちょっとあなたの顔を見に寄っただけですから……。

 

    姉たち、目と目で誘い合わせて立ちかける。

 

天 真 そうですか。お引留めしましても……(立上って)まだ暫く間がありますけど、ここに、(蓮池を見やって)紅白の花が咲き始めましたら、是非、おいで下さいましね。何もおもてなしは出来ませんけれど、その時には、蓮の花の匂いのするお茶を差上げますわ。

一の姉 そうそう、昔からあなたは、特別、花や果物が好きだった。

三の姉 その時は、また揃って伺うけれど、たまには家へも来て下さいよ。

二の姉 私のとこにもね、何もそう、ひとりぼっちで暮すことないじゃないの。

一の姉 うちでも、子供たちがみんな大きくなったから、近いうちに一度見に来ておくれね。

 

    捨台詞の挨拶よろしく、姉たちは帰って行く。天真、あとを見送って。佇むことしばし。女中、登場。

 

女 中 もう、お帰りでございましたか。

天 真 ……。(無言、頷いてみせる)

女 中 別段、御用ではないと仰有(おっしゃ)ってでしたけど……。

天 真 あたしが、ここでこうしていることが、お姉さまがたには、何か腑に落ちないらしいのね。可哀想がって下さるのは有難いけれど……負惜しみでもなんでもなく、あたし、ちっとも淋しいなんて思ったことないのに。

 

    女中、茶碗を片付けている。

 

天 真 ……あれッきり、あの方、お見えにならないわね。

女 中 は……?(よく聞きとれない)

天 真 お見えにならなかったかい? あの方。

女 中 あ、高力士さんでいらっしゃいますか。

天 真 (頷く)

女 中 いいえ。

天 真 そう。それならいいの。

女 中 (なお片付けながら)おきれいな殿方でいらっしゃいますわね。ほんとうに目のさめるような……今までにあんな方、お目にかかったことございませんわ。

天 真 (心持ち、頬を染めて)でも……何の御用があって、こんなお寺にいらっしゃるのかしら。

女 中 (気負い込んで)あら、それはもう、あなた様にお目にかかりたいばっかりに……。

天 真 お黙り……そんなあて推量を、軽々しく口走るなんて。用があったら呼びますから、あっちへ行って頂戴。

女 中 は、申訳ございません。

 

    女中、退場。

    静寂。——籠の小鳥がなく。

    従兄、急いで登場。後の名を楊国忠。

    不遇な地位にある役人の感じが、その服装に現れている、何やら、ひどく昂奮している様子。

 

従 兄 ああ、天真……。

天 真 (迎えて)あら……さんでしたの? その辺で、お姉様方にお会いになりませんでした?

従 兄 会った。あの人たちも、すぐ戻って来る筈だが、大変なことが起ったんだ。どこからどう話したらいいか……まったく夢にも考えなかったことで……。

天 真 (その様子を微笑で見ながら)まあ、おかけなさいまして……。

従 兄 それどころの騒ぎじゃあない。(椅子にはかけるが落着かず)天真、びっくりするなよ。

天 真 (落着いて、笑いをふくみ)なんでございましょう、そんなに……。

従 兄 それが、御所の奥深く勤める高力士さんに頼まれて来たのだが……。

天 真 (思わず椅子から離れて)高力士さんに?

従 兄 うん。高力士さんだ。

 

    姉たち三人、戻ってくる。矢張り、それぞれ昂奮した様子。部屋に入って来るなり、二人を見まもる。

 

天 真 高力士さんが、兄さんに何か……?

従 兄 うん、まア、落着いて聞いてくれ。

二の姉 (従兄に)何をぐずぐず言っているの、早く聞かせておやりなさいなね。

従 兄 うるさいな! これから話すところだ。何よりも先ず、落着かねばならぬ。お前、茶が一杯貰いたいが。

二の姉 誰より一番、御自分が慌てていらっしゃるんじゃアないの。〈笑いながら奥に入る〉

天 真 (従兄の顔を注視して、呟くように)高力士さんが……。

一の姉 ほんとうに、落着いて。ようく、うかがわなきゃあいけませんよ。

 

    二の姉、茶をもって登場。

 

従 兄 や、有難う。(その茶をひと息に飲干して)いいかい。落着いてお聞きよ。お前、御所に上ることになったのだ。つまり、陛下の……陛下のだよ、陛下のお側にお仕えすることになったのだ。

天 真 (俄かに失望)高力士さんが、そう仰有るのですか?

従 兄 これで、楊氏一族の運がひらける。お前一人の幸運じゃアない。今まで、誰一人返り見る者もなかった我々が……。

一の姉 そうだとも! おそれ多い申分ですが、民間で申せば、私たちまでが陛下の義理の姉の地位になるわけよ……。

天 真 私、いやです!(自嘲的ながら、誇りを持って)私、高力士さんからお嫁にほしいと仰有って下さったのかと思いましたのに……それならば、ほんとにうれしいのですけど。

一の姉 まあ、お前、気でも狂ったのじゃアないのかい。そんな、お前、うわごとみたいなこと言って……。

二の姉 いいかい。あなたが、御所へ上って、じきじきに陛下にお仕えすることになったのですよ。

天 真 兄さん、お断りくださいまし。……前の結婚で、私、王族の家の冷たいことが、身に沁み沁みとわかりました。表が華やかなほど、裏は冷たいのです。私、ただの一度だって妻として、愛された覚えなどありません。

従 兄 前の場合とは違う。大唐国の今上皇帝の思召に依ること、もとより違背はならぬ儀でもあるし、高力士さんも、お前ならば、必ずお気に召すと太鼓ばんを捺していて下さるのだ。大奥に隠れた勢力を持っておられるあの方が、お前の味方についていてくださるのだ。

一の姉 お前さんのように、世にも稀れに美しく生れついた人なら、どんな大きな望みだろうと、叶えられない筈はないと、私、かねがねそう思っていたんですけど、今度は、一天万乗の大君のお力まで添うのだから!

二の姉 それに、あなたは、美しいが上にも美しく見せる(すべ)を、生れながらに授かっておいでだ、女にとっては、これが何より一番の元手だからね。

天 真 ええ、でも、私には、考える余地のないことですの、(従兄に)兄さん、どうぞきっぱりとお断り下さいまし。高力士さんのとこへなら、喜んで、行きますけど……。

従 兄 (呆れる)何を申すのだ!

二の姉 さっきお前さんが、何か訪れるのを待っていると言ってたのは、じゃあ、高力士さんからの縁談だったんだね。

天 真 今のお話で、私の心は真暗になってしまいました。何か新しいことが起って来そうで……夜、ねむる時も、朝、目が醒めた時も、嬉しくって嬉しくって、ひとりでに笑い声を立てて了うのです。これこそほんとうの生甲斐、というものだろうと思っていました。それが虹のようにあっけなく消えうせて了ったのですもの。

従 兄 呆れた人だ。それではまるで月もすっぽんも一緒くたじゃないか。高力士さんの、どこがそんなに気に入ったのか?

天 真 (羞じらいながらも、真剣に頷いて)どうもこうもありません、ただもう、好きで好きで、大好きなのです。

 

    姉たちも、顔を見合わせている。

 

従 兄 知らないのだなあ、お前は?

天 真 (不審げに目をあげる)

従 兄 とんでもない話だ……よくお聞きよ。高力士さんが、いかに美男子だと言ったところで、あれは、謂わば、むだ花だ。紙で造った造花と言ってもいい。生きた花の匂いなど思いもよらない。こしらえものなのだ。

天 真 (なお意を解せず、従兄を見守る)

一の姉 あんまり聞かせたいことではないけど、もっとはっきりそこを……。

二の姉 あ!……それでは、あの方……?

従 兄 なんだ、お前さんまでが初耳かい……まったくそれなんだよ。あれは男でない。男の形はしているが、見かけばかりで……つまり、まともに女たちに向う資格がないひとなのだ。

 

    二と三の姉たち、まあ……という面持。

    天真は無表情に聞いている。

 

三の姉 (おずおずと)生れつきの片輸なの?

従 兄 いや、御所の奥深く仕えるためには、自分から進んで医者の手にかかり、男でなくなる(おきて)があるのだ。

二の姉 では、いくら女たちが花に寄る蝶のように恋い慕っても、無駄というわけ?

一の姉 あれだけ美しい男に生れついていながら、勿体ない話さね。

従 兄 生れつきもあろうが、つまりは去勢された鶏が、丸々と肥って、色つやがよくなる、あれと同じ理合(りあい)で……。

三の姉 まあ、ひどい。

 

    ——(短い間)

 

天 真 (突然、呟くように)ほんとうかしら……。

従 兄 誰が嘘を言ってよいものか。宮中というところは、陛下おひとりが男で、その他の人たちは、みんな、男の形をした影だけのものだよ。

天 真 (低く叫ぶ)まあ……。

 

    先触れの役人がいそがしく入って来る。

 

役 人 楊天真どのは?

従 兄 (天真を示して)これにおります。

役 人 (一礼して)御勅使として、間もなく高力士どのがおくだりになります。万端、失礼のことのなきよう、ご用意下さい。

従 兄 かしこまりました。

 

    女中も加わって、一同は、慌しく勅使を迎える用意。

    天真だけが、冷然と離れて立っている。

    輝くような美貌の高力士が颯爽と、従者を従えて登場。立派な官服。

 

高力士 勅命によって、楊天真どのをお迎いにまかり出ました。儀杖を整え、お輿(のりもの)(かか)せてまいりました故、早速お越しくださいますよう。なお、(と、形を改めて、跪いて天真を拝し)……陛下のお言葉によりまして、今日よりあなた様を、楊貴妃とおとなえ申しあげ、お(きさき)なみに御待遇あらせられます。

天 真 ……。(化石したように無言)

従 兄 (側から)承りました、と申上げなさい。

天 真 (無表情)承りました。

高力士 (ひざまずいて后に対する礼をし)陛下には、驪山(りざん)の華清宮にてお待ちで御座います。お供仕りますから、直ちにお支度願わしゅうぞんじます。

天 真 (その様子を、じっと見ているが、物に憑かれたような目の色になって、ふいに高笑いをする)……影が、影が口上を言うの。ほほほほ、お姉さま、あの影が……。(と、高力士を指す)

従 兄 (おどろいて)お黙りなさい。お勅使に対して無礼ではないか……。(高力士に向い)お言葉、承りました。すぐ様、支度を整えさせます。

 

    従兄、一の姉に耳うち、一の姉、天真の手をとって、隣室へ去る。

 

二の姉 高力士様、お初にお目にかかります。

従 兄 あ、これは、天真の……。

高力士 いや、楊貴妃とお呼びなさいまし。

従 兄 は、楊貴妃の中の姉、こちらはすぐの姉。以後、お見知り置かれますよう……。

二の姉 このたびは、妹の身の上につき、一方ならぬお骨折を頂きましたそうで……。

高力士 いやいや、手前は格別なにも、……すべてお上の思召に依りますことで……。

二の姉 (うっとり見惚れたまま)お姿ばかりか、お心持まで御親切でお優しいこと……。

三の姉 ほんとうにねえ。

高力士 (従兄に)手前は、供廻りの者に、輿の支度を申しつけて参りますから、暫くごめんを……。

 

    高力士、急ぎ退場。

 

二の姉 天真は、御所へあがっても、私たちのことを忘れて了うようなことはないでしょうね。

従 兄 いや、あれにかぎってそんな不人情なことはしまい。そんなことは、させもしないよ。

二の姉 まア、嬉しい……、これで私も、自分の馬が持てるようになるかも知れない。あの雪のように白く耀(かがや)く馬でも……。

三の姉 でも、なんですか、天真が可哀想なような気もして来たわ。

 

    盛装した天真、一の姉に手を取られ、侍女を従えて登場。

    高力士は従者に輿を舁がせ、儀礼正しく登場。

 

高力士 おのりものの用意、ととのいまして御座ります。

 

    それに、冷たい微笑を投げて、天真、別人の如き威厳を以て進み出る。

    目を奪うばかりのあでやかさを見上げるや、高力士、食入るが如き眼差を放さず。一同、思わず、最敬礼する中を、天真、悠々と輿に近寄る。

 

 

第二幕 宮中の牡丹園

 

    第一幕から十年後。

    宮中の牡丹園。……夥しいまでの紅紫の牡丹の花が咲き誇る庭の中に、牡丹を観る亭。

    上手には、玉の石段が、宮殿からこの庭に降りている。

    遠景は、大きな城壁と、更に大きな黄瓦の宮殿。

    夜。——盛宴が催されているらしく太平楽を奏する楽の音が、遠くから流れている。

 

    翰林学士李白が、ただ一人、亭で詩想を凝らしている。やがてあたりを逍遥して庭の奥へ行く。

    貴妃の三人の姉——今は、韓国夫人、かく国夫人、秦国夫人と称され、月に化粧料、銭十万を賜わり、栄華を極めている人々——が、石段を、話しながら降りて来る。

 

韓 国 ……気持のいい風だこと。

秦 国 牡丹という花は、夜は夜で、また、一段の美しさではありませんか。

韓 国 ほんとうに……、まあ、この色!

 

    三人、亭に来て腰を下ろす。

 

かく国 ……だけど、いつまでも、綺麗ねえ。不思議なくらい。

韓 国 いまが真盛りですもの、不思議でもなんでもないわ。

かく国 あら……?(笑って)牡丹の話? あたしはまた、妹のことを申して

おりましたのよ。

韓 国 (笑って)ああ、貴妃のこと?

かく国 不思議ですよ。もう三十四にもなるのに……。

韓 国 十年前も今も、少しも変りがないんだからね。まだまだ、さかりの花ですよ。

かく国 (深く息をして)望んだものが、何一つ叶えられないことのない身分ですから……()けないのも当り前でしょう。……お聞きになって?貴妃の召料を織ったり、飾り玉をみがくだけで、年がら年じゅう五千人の職人が働いているって話よ。運のいい人、あんな恵まれたひとってありゃしない。

秦 国 でも、運だけとも思われませんわ、移り気な主上(おかみ)の御心をとらえて、十年あまりもお変りがないというのは、あの人の天性に何か特別なものがあるとも申せましょう?

韓 国 かしこくも生れついているし……常人(ただびと)にない魅力が備わってますもの。

秦 国 あの、七夕の晩に、長生殿に出て、天の川を眺めていた時、お上は香をお焚かせになって……貴妃とは死んでもはなれまい、天に上ったら比翼の鳥となろうし、地に留まるのだったら連理の枝になろうと、お誓い遊ばされたと申しますわね。ただの御寵愛では御座いません。

かく国 ほかの後宮の人たちを、あれ以来、陛下は少しもおかまいにならない御様子ね……もっともそれほどだから、私どもにも、こうした御優遇を賜わるのだけど。

韓 国 私どもばかりではない……従兄の楊国忠は上柱国大臣になる、亡くなったお父様にまで、済陰(せいいん)の太守を御贈位になり、立派な廟までお建て下さったし……。

秦 国 夢としか思われませんわ。

かく国 皆、妹のお蔭なのね……不思議、まったく不思議な力だと思うわ。

 

    李白、庭の奥から登場。

 

李 白 (夫人たちを見つけて)これは、奥さま方。

かく国 学士、御散歩でいらっしゃいますか?

秦 国 わかりました、詩をお作りなので御座いましょう?

李 白 その通り、牡丹を()めと、お上の仰せです……おわかりですか?牡丹とは仰せらるるものの、まことは、貴妃を詠めとの御内意でしょう。

韓 国 あなた様のような大詩人に詩を作って頂くなどとは……妹は天下の倖

せ者で御座います。

李 白 いや、詩などは、作り慣れれば、息を吐くように、気楽に、いくらでも出来るものです。かく国夫人、杜甫(とほ)があなたを詠んだ詩がありましたな——かく国夫人主恩を承け、平明馬に()りて宮門に入る、(かえ)って脂粉の顔色をけがすを嫌い、淡く蛾眉(がび)を払って至尊に朝すか……いや、お馬はいよいよ御上達の御様子ですな。

かく国 姉妹で競走ですの。誰が一番さきに御所の御門に入るか、供の者どもに数百本の松明で道を照らさせて、馬をいそがせて行くのがとても面白うございますわ。その騒ぎに、町の者まで、見に出てまいりましてね。

李 白 それは見もので御座いましょうな、私もその内に一度、拝見させて頂きましょうか、はははは。

韓 国 (立って)さ、学士の御邪魔をしないように……あちらへ参りましょう。

 

    三夫人は、李白に挨拶をして、石段を上り、退場。

    廷臣、筆、硯、紙を持って登場、一礼して墨を摩りはじめる。

 

李 白 (それを見て)まだ足りないものがあるな。

廷 臣 いえ、筆も、金花牋も。

李 白 (笑いながら、その肩を打って)いやア、酒だ、筆墨はあっても、酒がなくてはな。酔えば酔うほど、目に見えぬ夢やまぼろしを描き出す、詩も面白う出来る。

廷 臣 これは、とんだ手ぬかりでございました。(去る)

 

    李白は、牡丹の花壇を逍遥。

    玄宗皇帝、楊貴妃を従えて、石段の上の廻廊に現れる。……李白は、その姿を認めて、そっと姿を消す。玄宗も楊貴妃も気付かない。

    月光が美しい。

 

玄 宗 美しい月だ、牡丹の花の色が、一層あでやかに見える。……ああ、しかし、少し疲れたようだ。

貴 妃 私を御覧になるのに、疲れた、と仰せられますか。

玄 宗 いや、お前はいつだって、私のいのちを若やいだものにしてくれる。新しい血を目醒めさせてくれる。お前が側におってくれさえすれば、一切のうれいが忘れられる。……海の竜宮も星の宮居(みやい)も、私には羨ましゅうはない。この世が、即ちそれなのだ、太平の富を()け、当年の楽しみを極める、人の(あるじ)として望むところ、他に何があろう……ただ、いつまでも長寿を保ちたい。

貴 妃 私もやがて年を取ります、それが、近頃、しきりと気になってまいりました。

玄 宗 とんでもないことを……。お前はいつも、朝咲いたばかりの桃の花のようだ。

貴 妃 でも、いつかは、しおれる時がまいりますわ。その時、お上のお心が変ることは、御座いませぬか?

玄 宗 七タの夜に、星を祭ってお前に誓った言葉を忘れたか? あれほど私に、自分の年を忘れて切ないような思いをさせたのは、ただ一人、お前だけだ。

貴 妃 私は人に負けたくないので御座います……大唐の今上皇帝の御心を、いつまでも私のものにして置きたいので御座います。……ほかの女を御覧になってはいけませぬ、ただ私だけを、お目をはなさず見つめていて下さいますように。

玄 宗 間違いなく、そうしているようじゃ。そうせいと言われないでも、おのれから、そう成るのだ。

貴 妃 とは存じておりますけれど……今年の嶺南の苓枝(れいし)は、まだまいりませぬか?

玄 宗 使を出して催促させてやろう……だが、あれは、もっと暑くなってからだ。味の変らぬように、早馬で数千里を駆け継がせて来るものと聞いている、何もかも、そなたのために……。

貴 妃 夏の朝、氷でひやして置いたのを口にふくみ歯にあてた時の爽やかな心持は何とも申されません。

玄 宗 苓枝のほかに、蜜柑、葡萄か。それに花が好き、小鳥が好き、……いつまでも子供のように可愛らしいひとだ。

貴 妃 花や小鳥には、人間と違って欺かれる気遣いがございませぬ。人間は嫌いです。裏切ることが御座いますから。

玄 宗 私のことを申すのか?

貴 妃 いえ、お上は格別で御座います。私の明けくれはお上お一方をお頼りしてのことで御座いますもの。……他の者は、裏切らぬとは申されませぬ。

玄 宗 私の胸の中に在る限り、誰がそのような……(肩を抱く)

貴 妃 (胸にすがって)お上だけが、貴妃の力なのです。お上、ましましての貴妃で御座います。

玄 宗 (腕に力がこもって)いのちを匂わせることか? いつまでも……(独白のように)この、老い枯れたいのちを……。

 

    ——間

    抱擁が解ける。

    亭に来て、玄宗は、硯、筆などを見つける。

 

玄 宗 おう、李白が来ておるな、お前の為に詩を作らせているのだ。

貴 妃 詩人も、言葉だけのもので御座います。

 

    声と共に、李白が現れる。手に大盃を持ち、陶然とした様子。

 

李 白 李白には酒の神の加護が御座います。李白が酒間に連ねた言葉は、使った手前などよりも、ずっと長生き致すかも知れませぬ……人は死ぬもので御座いますけれど……。

貴 妃 死ぬなどとは、不吉なことを……。

玄 宗 いや、李白は変り者なのだ、これはこれでよい。

貴 妃 いえ、翰林の学士だとて、臣下で御座います、無礼は許せませぬ。(李白に)(そなた)は、手足がままにならぬほどに酔った時、無理に高力士に手伝わせて、靴を脱がせて貰った、と申すではないか、無礼なことです。

李 白 いつもながらの酔いどれで御座います……左様なこともあったかも知れませぬが……覚えが御座いませぬ。

玄 宗 時に、牡丹の詩はお出来かな?

李 白 まだ酔いが足りぬと見えまして、一首だけで御座います。(口ずさむ)一枝の濃艶露香(ろこう)を凝らす、雲雨巫山(ふざん)()げて断腸、借問す漢宮、誰か似るを得たる、可憐の飛燕、新粧によるを。

 

    伎楽の演奏、遠くに起る。

    楊国忠が、少し前から降りて来ている。

    離れた場所に控えて、この詩を聞いている、

 

玄 宗 可憐の飛燕、新粧による、……おお、これは漢の飛燕のことだな? 貴妃、学士はそなたに似たものをさがせば、漢代に美人とうたわれた飛燕よりほかにないと申しておるのじゃ。

国 忠 (すすみ出て)伝えるところでは、飛燕は風にも耐えぬ、なよやかな姿をしたひとで、そよ風にもあてぬよう、水晶で蓋を作ってその中に居らせたと言うくらいの美人だったそうで御座います。

玄 宗 お前は近頃、少し肥ったから、風ぐらいに吹かれても、飛燕のように飛ばされる心配はまああるまい、はははははは。

貴 妃 (不興気に)似た者がある、などと申されとうはございませぬ、貴妃は、貴妃だけの筈で御座います……戻ってお酒を頂きましょう、西涼の葡萄酒でも……。

国 忠 お供いたしましょう。

 

    貴妃は、その場を立つ。

    玄宗を振向きもせず、貴妃は石段を上って去る。楊国忠、後に従う。玄宗は、後から行こうとしたが、思いとまって、残っている。

 

李 白 これは御機嫌を損じました。

玄 宗 学士、気にかけないでくれ、あれが貴妃の持前でな。

李 白 承知致しております、いや、何をなされてもお美しく見える。驕慢も怒りも、貴妃には化粧となって、ひとしお()え輝くように見えます、……不思議なお方で御座います。

玄 宗 おお、学士がそう見てくれるか。

李 白 生きるいのちの魅力を、ぎりぎりまで御身に示されたお方、……豊満な牡丹の花も遠く及びませぬ。

玄 宗 (深い満足の色)追従を言わぬ学土がそう言ってくれる、……私は、ただ、あれに溺れている人間だ、他の者に見える筈の欠点も、目に入らぬわけじゃ。

李 白 男ならば誰しも迷いましょう。

 

    牡丹の花蔭に、高力士出て、この会話を聞く。

 

玄 宗 私が迷うのも無理はないと申すか。

李 白 木石ならぬ者は、皆、恍惚とお見上げ申すばかり……花は(しお)れるものですが、貴妃は疲れぬ、これは魔力で御座いましょう、触れるものから、いのちの精を吸上げて次第次第に美しく成って行かれるようにお見えです。

玄 宗 では、私は倖せだと思ってよかろうかな。

李 白 お言葉までもございませぬ、……が、お倖せとは、また御不幸だと申すことかも知れませぬ、私ども詩人は、散るものを知って花を美しいと眺め、やがて消えるものと思いつつ、夕雲の色に見とれます。

玄 宗 (あれ)の前に立つと、私はそれを忘れて了うのだ、楽しみがいつまでも続くような気がする、目前の瞬間が、永遠のもののように思われて来るのだ……魔力か? 魔力にもせよ、いつまでも醒めずにいたい、……うん、私も酒に戻ろう。

 

    静かに、玄宗は石段を昇り去る。ゆっくり見送ってから、高力士が、李白の前に立つ。

 

高力士 学士、貴妃からのお言葉です、お気の毒ながら、改めてお召出しのない限り、参内なされませぬように。

李 白 承りました。

高力士 (冷やかに)まことに遺憾のかぎりに存じます。

李 白 いやいや(と笑って)……こちらからは、やはり貴妃の美しさを申上げて、お暇申すことに致しましょう。自然に、無邪気に美しいものには、誰も抵抗出来ませぬ。私は役人でも政治家でもない、ただ美しいと見たものに恍惚とするだけの文人です。(筆を走らせて詩を書きながら)……この間、酔ってあなたに靴を脱がせて頂いたそうですな。無礼なことをすると、たった今、貴妃に叱られました。

高力士 それはまたお気の毒な。

李 白 いや、もっともなことです。貴妃の今日をあらしめたのは、高力士さん、あなただ。楊貴妃はあなたが造り出された大傑作、つまり楊家の大恩人に当るあなたに、酔った上とは申せ無礼をはたらいて放逐を仰せつかるぐらいあたりまえです。

高力士 (女性的に慇懃に)それは別のお話で御座いましょう。手前には一向に関係(かかわり)ございません。……それに、学士には、宮中などよりも町の酒家の方がお気に召していらっしゃるではありませぬか。

李 白 (笑って)そのとおり、そのとおり。あすこには嘘がない、酔えばどの人間の生地もむき出しに現れる。きれいな言葉だけが交されるのではない。(最後の一句を書き終って)出来ました、お取次ぎ願います……手前は、これで退ります。

 

    李白、詩を手渡して退場。

    高力士、残ってその詩を読む。

 

高力士 名花傾国(ふたつ)ながら相歓ぶ、長く君王の笑を帯びて看るを得、春風無限の(うらみ)を解釈して、沈香亭北欄干に()る。

 

    賑やかに高まる楽の音。

    絵燈籠を持った侍女たちが、石段を昇って行く、……

    入れ替りに、楊国忠が、駆け降りて来る。

 

国 忠 高力士。(呼ぶ)

 

    すすみ出て、高力士は恭々しく拝礼する。どこまでも女性的で冷

    やかな態度。

 

国 忠 平原の太守、顔真卿から急使が来て、平盧(へいろ)の節度使、安禄山が俄かに謀叛(むほん)の旗を挙げ、都を目指して押寄せて来ると申すぞ。

高力士 何かのお間違いでは御座いますまいか。安禄山の(えびす)は、つい一ヵ月前に、御機鎌を伺いに遥々と参内しております。

国 忠 私も真実とは信じたくない。安禄山は貴妃に母の礼を取り、我々とは兄弟の約束を結んだもの。その義理に背いて朝廷に刃向うとは……?

高力士 胡が義理を守るかどうかは別で御座いましょうが、この泰平の天下に……戦乱などを見るとは忌わしいことに御座います。

国 忠 ともあれ、わしは外殿(おもて)の間へ出て、使者に会うてみよう。が、この話は、暫くお上のお耳には入れぬことだ。

高力士 左様で御座いますとも。折角、御饗宴のさなかを、お騒がせ申すほどのこととは存ぜられませぬ。

 

    楊国忠は、それに頷いて立去る。

    ——間。

    大きな月が、空に上っている。

    楊貴妃の高笑いが聞え、やがて、かなり酔った様子で姿を見せ、足どりも危く階を降りて来る。

 

貴 妃 (途中で)まあ、見事な月!

高力士 (進み出て、扶ける)貴妃様、お危のう御座います。

貴 妃 (酔眼で見すえ)おお高力士か……月夜の牡丹を見よう、さあ、来やれ。

高力士 どなたか、女官をお呼び申して参ります。

貴 妃 よいよい、そなたでよい。……(躓き、貴妃は、高力士の肩にもたれかかる)なるほど、少し酔うたようじゃ。

高力士 いや、かなりに……。(支えて)これはお珍しいことで御座います……たれか、女官を……。

貴 妃 そなたでよいのだ。(じっと顔を見守って)いつも、おきれいなこと、高力士は。

高力士 (顔をそむけて離れようとする)

貴 妃 お待ち、……もっとよく顔をお見せ。

高力士 これは如何なこと、御冗談もほどほどにあそばしませ。

貴 妃 冗談……?

高力士 手前は、臣下で御座います。

貴 妃 (微笑して)……ところで、そのひとの細工で、楊貴妃が生れた、それを、いつか、そなたに話そうと思っていました……それとも、お礼を言うつもりだったのかしら……人形のような私を、そなたがここまで押上げてくれた、そのお礼を。

高力士 勿体ない! 何を仰せられます。どうぞ、もうお放し下されませ。

貴 妃 酒の力が、物を言わすのかも知れない。高力士、顔をお見せ、腕をつかませておくれ、この、男らしいひとが、男の影とは……?

高力士 どうぞ、もう御勘弁を……。

貴 妃 そなたには、女のなさけがわからないの? こうして抱き合っていて、胸の動悸は(たか)まらないの? 躰中の血が、沸きたち騒がないのかねえ。

高力士 お放し下さいまし、ひょっとして、お上のお目にとまりでも致しましたら……。

貴 妃 そう……命にかかわる大罪よ、命が惜しい? ほほ……面白いこと、お上が貴妃をお殺しになれると思う?——(笑う)さあ、高力士、そなたあたしを美しいと思わないかい? 手を触れて見たいとは思わなかった? もっと近くへ寄って、私の息や肌の匂いを吸って見たくはないの?……じっと私の顔を御覧。この目を……それから、唇を。

高力士 思いもよらぬことを仰せられます。

貴 妃 では、私の方が、そなたよりも男なのかしら?

高力士 御酔興とは申せ、あまりの……。

貴 妃 女のような口のききよう、聞きとうない。ああ、よしよし、今宵は、私がそなたを男にして上げる。天下にひとりのこの私が、そなたを男にして上げよう……さあ、こうして抱くの、……高力士、そなたは、どうしてそう意気地がない……さあ、男らしく私を見守ってごらん。どうして、じっと私の目が見つめられないの……お寺にいた頃の私は、お前が好きだった。好きで好きでたまらなかった。今は、どうか知ら?……目がチラチラして、どうもはっきりしないけれど。男のようでもなく、いつも臆病に目()らしやる。今宵だけは、貴妃が許してあげるから、大胆に、思うとおりに振舞ってごらん、さあ、どうなりと……。(身を投げかける)

高力士 (思わず)貴妃さま。

 

    無言……高力士は、段々我を忘れてくる。受身だったものが、忽然と男らしくなり、強い腕を廻して、貴妃を抱き寄せる。

    貴妃は、それを見極めて置いてから、……静かに突放す。

 

貴 妃 無礼ではないか、高力士。

 

高力士は、躍りかかろうとして、我にかえり、へたへたと地に崩れる。

凄艶な笑顔を向けて、楊貴妃、むごく、それを見つめている。高力士は、迸り出ようとする熱情と無力の自覚に苦しむ。

 

貴 妃 (勝ち誇って静かに声を立てて笑う)……気におしでないよ、(皮肉に)(うつつ)ではない、たかが影のしたことじゃ。

高力士 (再び立とうとする気配を見せながら急にがっぱと地に伏し恨むように)むごいことを遊ばされます。

貴 妃 貴妃に、何一つでもしてならぬことがあろうか? そなたが、私を——このように作り上げて置きながら、……そうではなかったか?

高力士 む、むごいことを……。

貴 妃 どこに、大唐の楊貴妃を咎める者がある。

 

    貴妃は、冷然と高力士を見捨て、石段を昇りかける。

    楊国忠、あわただしく登場。戦況報告の急使二人(武装)後に続く。

 

国 忠 (叫ぶ)おお、貴妃さま。

貴 妃 (振返り)兄上、如何なされました。

国 忠 胡の安禄山が乱をくわだて、都に攻めのぼると聞きました。

急使一 その勢、およそ十五万余騎、破竹の勢いを以て、河北一帯を胡馬の(ひづめ)にかけ、既に先手の者どもは、潼関(どうかん)に迫っておりまする。

急使二 直ちに軍議をめぐらし、敵軍を迎え撃つお手筈こそ願わしゅう御座います。

国 忠 容易ならぬ形勢、夜中ながら、これを直々に上聞に達せねばなりませぬ。殊に、賊は、我々楊家の一族を君側から除くことを、挙兵の口実に致しおるとか……。

貴 妃 (自若として)騒がしい。何ほどのことがあろうぞ、逆心あるものは、直ちに討ちこらすまでのこと。……のう、高力士、そなたもそう思うであろう、どうじゃ。そうであろうな。

 

    月光を浴びて立つ。

    高力士は、再び半女性の冷やかさに復り、じっと貴妃を見つめていたが、深く一礼する。

 

 

 第三幕 馬 嵬 駅

 

    第二幕から一年近い頃。馬嵬駅(ばかいえき)。……田舎の寒村の城隍廟の庭。荒れ果てたもので、泥の壁にかこまれ、上手に廟に通じる入口。前庭には、梨の木が一本あり、花が咲いている。夜明け前で、まだ辺り一帯は暗く沈んでいるが、戦火から逃れようと、付近の農民たちが避難して集っているので、切追した騒然たる感じである。

    数ヵ所に、僅かな家財と共に黒くかたまっている農民たち。若い者、女の姿はすくない。その中の、農民一、二、三、四。

 

農民一 若い者たちを逃がしてやってよかった。見つけ次第、男は人夫に徴発して牛馬のように(むち)で追廻しおるわい。

農民二 いや、年寄りだからって、うかとしてはいられない。こう敗け戦になって来ると、兵隊は血迷って了うものだ。

女 一 どんな様子だろう? 一体戦は、どのへんでやっているんだね?

農民三 いいや、戦じゃない。兵隊が暴れ出したんだとよ。

農民一 どっちにしても、わしらの災難に変りはないのさ。長安の都が落ちてから、まだ一年にもならないのに、もうお前、こんな田舎まで戦場になろうって騒ぎだ。

農民二 天子様もどこかこの辺に逃げて来ていらっしゃると言うではないか。

農民三 それにしても、様子を見に行った奴等、もう帰って来そうなもんだがなア……。

 

    遠く、兵隊たちの喚声。

 

女 一 (怯えて)助けておくれよ、どうしたらいいんだろうね? 早く遠くへ逃げた方がいいんじゃないのかい。

女 二 敵も味方も兵隊に会っては、何をされるか判ったもんじゃない……。女ばかりか小さい予供たちまで……。

女 一 小父さん、なんとか思案を決めておくれよ。

農民三 全く。彼奴等、勝てばえばりくさって我儘勝手なまねをしやがるし、敗ければ敗けたで、今度はやけっぱちの乱暴狼籍(ろうぜき)だ。ああ、どうしたものか……。

 

    またも兵隊たちの喚く声。不安に駆られる一同。そこへ農民の五、駆け込んで来る。

 

農民五 おい、皆の衆、今の内に逃げろってよ。村長さんが、みんな山の中へ逃込めって、間もなく兵隊がなだれ込んで来るそうだ。

 

    騒然、皆、総立ちになる。

 

農民五 今のところ、少しはまだ防いでる兵隊もあるけれどな……何せ、あぶないこった。楊国忠って大臣さんが、昨夜、駅の入口で部下の兵隊に殺されたんだ。

農民四 楊国忠だって?……そりゃ、お前、楊貴妃さまのお兄さまで上柱国大臣とかだったお人だぞ。

農民五 成上り者の分際で、ほしいままの振舞をしたって噂もあっただから。

農民二 その恨みが爆発したってわけか。

農民五 何んでも、楊氏の一族を、みんなやっつけるんだって、えらい気勢だそうだよ。

農民一 それにしても、味方同士でひどい話だ。

農民五 (道の彼方を見て)おい、早くしろ。誰か多勢でこっちへやって来るぞ。土手を廻って、山の方へ逃げよう、早く早く。

 

    狼狽して農民たちは口々に罵り喚きつつ逃げて行く。遠く戦場の破壊の音。

    ——間——夜が白々と明けて来る。楊貴妃、侍女たちに助けられて登場。慣れぬ徒歩で、足を痛めている。

 

貴 妃 (耐えかねて)おお、足が痛む。

侍女一 もうついそこが、廟でございます。

侍女二 なるべく奥へ、人目に立ちませぬよう。

貴 妃 姉上達はどうなされたか。

侍女三 お行方が知れませぬ、いつか散り散りになってしまいました。

侍女一 かく国夫人とは、あの竹の林のところまでは御一緒でございましたけれど。

貴 妃 味方の兵に、俄かに寝返りをうった者があったとか……。

侍女一 はい、でも、その者共は城門から一歩も入れぬよう食い止めて、お上から直々にお言葉を賜わるそうでございますから、やがて、鎮まることでございましょう。

貴 妃 兄上は? 楊国忠どのは?

 

    侍女たち、顔をそむけて答えない。

 

貴 妃 ああ、何と言う廻り合せか……。鏡を出しておくれ、やがてお上が、おいでになる。あたし、やつれた顔をしているだろうね?

侍女三 奥の廟へお入りになってからになさいまし、ここはまだ人目がございます。

 

    侍女たちが、かこむようにして楊貴妃を、内廟に導き入れる。喚声、暫し。

    高力士つかつかと入って来る。周囲を見廻し、内廟をうかがって戻り、道路の彼方に玄宗の姿を認めた様子で、威儀を正して迎える。廷臣に守られて、玄宗登場。喚声も収まり、異様な静けさ、朝の光。

 

玄 宗 (高力士を見て)おお高力士か、兵士どもは、最早、わしの言葉をきき入れぬ……反って、貴妃を渡せ、楊氏の一族を皆殺しにしろと、喚きおるのだ。ああ……。

 

    と長歎する。

 

高力士 (無言、冷やかに見返す)

 

    廷臣、廟の中から床几を携えて出て、玄宗を掛けさせる。廷臣去る。

 

玄 宗 思いもよらぬことだ、その様なことは、到底、わしには許せぬ。貴妃を、あの狼どもの手に……それくらいなら荒海へでも投込んだ方が、まだしもまし、思うだに、堪え難い……。(悲歎に沈む)

 

    竜武将軍、陳元礼(甲冑姿)登場、玄宗の前にすすんで跪く。

 

元 礼 (うながすように)陛下!

玄 宗 (苦悩の色)楊国忠一人でよいではないか、貴妃は、女子じゃ。

元 礼 楊国忠どのの血を見てから、彼等は一層狂いたって了いました。何と言いきかせましても承服いたしません。何卒、恩愛の絆を割き、忍んで、御決断のほど願わしゅう御座ります。

玄 宗 (強いて語調を強め)それだけは、断じて許されん。

元 礼 お許しのない限りは、彼等も囲みを解きますまい。かくなる上は、貴妃様を引渡しますよりほか、策のほどこしようはございませぬ。

玄 宗 (救いを求めるように)高力士、何とか、そちによい思案はないか。

高力士 (冷然)何ともお答え申上げかねます、

玄 宗 お前までが……よもや、あれを……狼の群に引渡せと言うのではなかろうな?

高力士 いえ、手前からは、何とも申上げかねる儀、唯々、陛下の思召お一つにございます。

玄 宗 (絶望)ああ、あの、風にも堪えぬ、たおやかな者を。

 

    貴妃、化粧を済まして盛装して姿を見せる。従う侍女一人。

 

貴 妃 (静かに)あちらで承っておりました。兄、楊国忠が、近衛の兵士どもにむごたらしく殺害されましたとは、まことのことでございますか?

 

    一同、言葉なく沈黙。

 

貴 妃 (それらの人々を見渡して)主上に恨みなし、楊国忠を君のお側より斥けると言うのは、安禄山、謀叛の口実と承りおりましたが、お味方の中にも、早くも、胡の口真似をいたす者が出で、そのようなむごたらしい最期を遂げさせましたとは……(顔を蔽うこと暫し)それで、姉たちは、如何相成りました。

元 礼 (一膝すすめて)混乱の中ゆえ、詳細の儀は分明仕りませぬ、ただかく国夫人は健気にも御自害あそばされたと承りおります……。恐らく、お上のためと思召されてのことでございましょう。

貴 妃 (花が開いたように笑う)お上のため? 仰言るからは、私も安閑としてはおられない訳ですね?

玄 宗 いや、元礼も決してそういう意味を以て申した訳ではあるまい。

貴 妃 (遮って)いえいえ私には、露ほどの未練も残りません、貴妃の為に大唐の天下が傾き、国土が危くもなりましたとは……大げさな物の言いようではございますが、貴妃の名には誉れとも成りましょう。万代の後までも、私の美しさは、人々の語り草となって残りましょう。疑う者はございますまい。

玄 宗 (苦しげに)貴妃!

貴 妃 血にかわいた鬼畜どもでも、物をも言わず私に刃が加えられますものかどうか? 美しくおつくりをしてお城の門を出て参りましょう。……どなたもおいで下さるには及びませぬ……私だけで出て参りましょう。大唐の今上皇帝の(きさき)。楊貴妃として、むほん人共の前に姿を見せてやりましょう。

玄 宗 ああ。(堪えかねて、顔を蔽う)

元 礼 (威儀を正して)御覚悟のほど、お見上げ申しまする。

貴 妃 (蔑みの微笑)おほめにあずかって恐縮に存じます。

 

    と、行きかかる時、塀の外近く、兵土たちの叫び「楊貴妃を渡せ」「妲己(だっき)を殺せ」騒然と揉み合う物音。

 

元 礼 (きっと見て)只今の貴妃様の御覚悟を伝えて、あの者共を取鎮めて参りましょう。 

    と、急ぎ立去る。

 

貴 妃 陛下、死すとも御恩は忘れませぬ。女子として、天下に列ぶものなく倖せに送らせて頂きました。今ここで、牡丹の花のように、さかりの時に散るとすれば、願ってもないことでございます。……貴妃は、誇りを失いたくはございませぬ、では、身支度をととのえて参りましょう。

 

    と、一礼して、静かに廟の内に去る。

    涙を拭き乍ら従う侍女。玄宗は思わず後を追おうとするが、高力士、剣の後をとらえて動かさない。高力士はさっきから次第に落着きを失って来ている。貴妃を人手に渡さず、我が手に殺したい欲望からだ。

    塀外の叫び声、又一時昴まるが、陳元礼が事情を告げた為であろう、次第に静かになって来る。

    ——間。

 

高力士 (表面は冷やかに)陛下、かようなことをお許しになりますか。

玄 宗 (無言で、おののく)

高力士 (いよいよ冷静に)むごいことを遊ばされます。

玄 宗 なに、むごいこと?

高力士 はい、あの虎狼の如き暴徒のなかへ、貴妃さまを、お突きやりになりますとは。

玄 宗 怖ろしいことだ、直ちにやめさせなければならぬ。

高力士 世にも稀なるお美しい御方が、五体を八つ裂きに引裂かれ、血を流して、ふた目と見られぬ憐れなお姿とお変りなさる。

玄 宗 ……ああ、申すな。

高力士 よしんばお引渡しなさるにしましても、いずれは、お命なきもの、おんなきがらにし奉って後のことにあそばしましたら……。

玄 宗 なに?

高力士 (飽くまで冷静に)それならば、御苦痛もなく、さして怖ろしい思いも遊ばされずに済むことで御座いまする。……それこそ、お上の御慈悲、この世に於る最後のおいつくしみと存ぜられます。やつがれ、畢生のお願い、何とぞさよう遊ばされますよう。

玄 宗 誰に、そのようなことが出来る?

高力士 畏れながら陛下おんみずからお手を下し置かれませ。それこそ、真実、御寵愛あそばされました御方へのおん心づくし、最後のお情、おんはなむけにもなろうかと存ぜられます。

玄 宗 出来ぬ。わしに、そのようなことは、断じて出来ぬ……このわしも共に死ぬる場合ならばいざ知らず、おのれは生き永らえようとしていながら……わしの、このわしの手であれを、こ、殺すなどとは……。

高力士 では、あの珠のようなお后様を、おん生身のまま、虎狼の牙や爪に引裂かせようとなさるのでございますか?

 

    ——間

 

玄 宗 (懊悩の末、突如として)高力士!

高力士 は。(あとは無言、この言葉を待っていた思い)

玄 宗 (声もかすれて)わしはもう年をとりすぎて了った。力もない。お前、わしに代ってやってくれ。一刻も早く、あれに、楽な往生を遂げさせてやるよう、頼む。

高力士 (内心とは別に)思いもよらぬ、おん仰せ……。

玄 宗 いや、今となっては、お前の他に、このことを任すべき者は一人もない。

高力士 怖ろしいことで御座います。

玄 宗 だが、お前が……お前から、申出た意見ではないか。

高力士 (次第に、宦官の残忍性を現して)それに致しましても。(沈思すると見せて)が、勅命とあれば服するのほかございませぬ。心を鬼と致しましてもきっと仕りましょうが。

玄 宗 うん、そうしてくれ。そうしてくれ。

高力士 では、(はばか)りながら、御璽(ぎょじ)を拝借仕り、勅命の証拠(しるし)として、貴妃様にお目にかけねばなりますまい。

玄 宗 然らば、これを……(帯せし印綬を取出し渡して)これは、高力士、わしの命令だと、あれに申聞かせる気か?

高力士 もし、それがお心に添いませぬならば、嘘も方便とやら、手前一存に出ずるところ、お耳に入れて置きまするが……。

玄 宗 (瞑目のまま深く頷く)

高力士 いでや(残忍な微笑と共に悦びをつつんで立上る)最後の御奉公……。

玄 宗 (目と目を見合せるが、不敵の面魂に圧されて、次第に頭を垂る)

高力士 (その姿を、優越感に溢れて見つめながら)嘗ては手前が見つけ出して、お側へおのぼせ申しましたるを、今またわが手に……。思えば貴妃様御一代の幕を開き、幕を閉ざすことと成りましたのも、天意か……不具同然の手前如きにまで、傾世傾国の御微笑……李白の(うた)った「濃艶の露」を垂れさせ給うほどの、心優しき御方にわたらせられしものを、是非もなき次第、仰せに従いますでございましょう。

 

    一礼の後、わざとらしく首うなだれて廟の内に入る。玄宗、梨樹の幹に面を伏す。嗚咽、幽かに、梨の花、頻りに散る。

    内廟から、楊貴妃の叫び声。

 

貴 妃 高力士、そなたが!

高力士 貴妃さま、お許し下さませ。

貴 妃 ならぬ、……いいえ、それは……それは、ならぬ。

 

    一瞬、声が消える。

    玄宗は、戦慄、夢遊病者の如くあたりをさまよい、逃出でて土塀の蔭に倒れ伏す。

    楊貴妃、駆け出る。頸に、身に纏いし羅布が巻きついている。

    後を追って、高力士……塀外へ出ようとする貴妃の行手に立塞がる。

 

貴 妃 退かぬか、そこ退け!

高力士 成りませぬ、一歩、外へ出たが最後、忽ち狼の餌食でございます。舌なめずりをし、爪を磨いて待ちうけておりまするぞ。

貴 妃 覚悟の上じゃ、今さら何を怖れよう。大唐の楊貴妃の最後を、六軍はもとより、味方の腰抜けどもにも、いま、目のあたりに見せてくれるのじゃ………退かぬか、私には、お前の……私をわが手にかけようとする醜い心の底が、見え透いている。そんなけがれに触れようよりは、兵隊どもに八ツ裂きにされる方が遥かに快いのじゃ。さがれ、さがれ。

 

    貴妃は、出ようとして争う、が、男の力には抗すべくもない。

 

高力士 貴妃さま、申上げます、私の、まことの心を申上げます……私は、貴妃さまをあの畜生どもの手に渡したくはありませぬ。いえ、畜生どもに限らず、誰の手にも渡したくはございませぬ。お上にも渡したくありませぬ。貴妃さまは誰のものでもなく……。

貴 妃 手をお放し。無礼であろう!

高力士 (手を放さず、残忍に)御所のお庭で、以前に私をお好きだったと、はっきりあなた様のお口から伺いました。しかし……私には、その御言葉に従う力はございませんでした……でも、今は別で御座りますぞ。あなた様をお生かし申す力はなかった私めにも、この手で貴妃を殺す……。

貴 妃 なに、殺す! 気でも狂ったか、お前のような、たかが男の影が、ええ、もう何も聞きとうない。この楊貴妃の躰が、お前の自由になると思うか。(折柄、塀外の人声、また騒がしくなる)あの通り待ちかねている、きっと狼どもは、お前のように、卑怯ではあるまい、さ、行くのだ、どうあっても、私は行く。

高力士 成りませぬ、おはずかしめは如何ようにも受けましょう……が、あなた様がみすみす人手に無残に引裂かれるのを、黙って見ておられましょうか。手前が仕りましょうぞ。手前が……。

貴 妃 (冷笑)それほど、私を渡すのが、惜しいのか、愚か者! 楊貴妃は誰のものでもない。お前の手に掛れば、この私が喜ぶとでも思うか? 身のほど知らぬその自惚を、皆の前で笑って、笑いとばしてから死んでやる、さ、おどき!

高力士 これほどまでに、申上げましても。

貴 妃 ()かぬ、肯かぬ、楊貴妃は楊貴妃じゃ。

 

    争い、揉み合う。

    はずみで、高力士の手に羅布の先が握られる。駆け出ようとして、頸にからみ付いた布に、おのずと(しめ)られて苦しむ楊貴妃。高力士は、半殺しの鼠を弄ぶ猫のように悦び狂いながら気を失った躰を固く抱いて、廟内に入る。……すでに、貴妃のもがく力は弱まり、されるどおりに成っている。

    舞台空虚となり、梨の花のみ散る。

    入って来た陳元礼が、梨樹の蔭の玄宗に心付き、抱き起した時、内廟から、錦で包んだ貴妃の死体を扉にのせて、声なく泣きながら、侍女たち登場。これに従う高力士のみは悲しみの片鱗だになく、冷たい表情の底に、復讐を遂げた悦びを秘めている。

    陳元礼に支えられて、力なく(たたず)んでいる玄宗に、

 

高力士 お上、切ないことで御座いましたが、錦でつつんだ御生前のお姿のまま兵士どもに引渡すことに致しましょう。おひと目、お別れを……。

玄 宗 (その気力もなく、堪えられぬものの如く、立ちつくす)

 

    高力士の指図で、扉は廷臣たちの手に移され、陳元礼将軍(侍女達は塀際に佇み声なく泣く)が付添って、塀外へ、静かに出て行く。

    ——間。

    湧き起る兵土達の歓声。暫し続いて、それが鎮まる。

 

玄 宗 これで、天下の安泰を得たというのか? これで、世の人心も鎮まると申すのか……?

 

    冷然と見据えていた高力士、つと立寄って、印綬のはいった錦の袋を差出す。玄宗、機械的にその方へ手を伸ばす。散りかかる梨の花。侍女たちの鳴咽する声。

     

——幕——

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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大佛 次郎

オサラギ ジロウ
おさらぎ じろう 小説家 1897・10・9~1973・4・30 神奈川県横浜市生まれ。昭和39年文化勲章。一時外務省に勤めるが、「鞍馬天狗」シリーズで認められ、作家に転身。代表作に「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」がある。

掲載作は「俳優を予定してあって書きおろした」と自身述べるように、楊貴妃に水谷八重子、高力士に滝沢修を想定して筆をとった初めての戯曲。初演は歌舞伎座、昭和26年6月。「大佛次郎時代小説自選集 第15巻」(読売新聞社 昭和46年)より採録。

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