「夜明まで」は「鐘聲夜半録」と題し例の春松堂より借金の責塞に明日可差遣心得にて 此二三日に通編刪潤いたし申侯 巻中「豊嶋」の感情を看るに常人の心にあらず 一種死を喜ぶ精神病者の如し かゝる人物を點出するは畢竟作者の感情の然らしむる所ならむと私に考へ居候ひしに 果然今日の書状を見れば作者の不勇気なる 貧窶の爲に攪亂されたる心麻の如く 生の困難にして死の愉快なるを知りなどゝ 浪りに百間堀裏の鬼たらむを冀ふ其の膽の小なる芥子の如く 其心の弱きこと苧殻の如し。さほどに賓窶が苦くは安ぞ其始彫閨錦帳の中に生れ来らざりし。破壁斷軒の下に生を享けてパンを咬み水を飲む身も天ならずや。其天を樂め!
苟も大詩人たるものはその「脳」金剛石の如く、火に焼けず、水に溺れず 刃も入る能はず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢をや。
汝が金剛石の脳未だ光を放つの時到らざるが故に 天汝に苦楚の沙
と艱難の砥とを與へて汝を磨き汝を琢くこと數年にして 光明千萬丈赫々として不滅を照らさしめむが爲也 汝の愚癡なる箇 寶を抱くことを曉らず 自悲み自棄てゝ 隣人の瓦を_(あ)ぐる見て羨む志、卞和にして楚王を兼ぬるものといふべし。
汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至寶なり。汝は天下の至寶を藏むるものなり。天下の至寶を藏むるもの 是豈天下の大富人ならずや。
於戲天下の大富人 汝 何ぞ不老不死の藥を求めて其壽を延べ其樂を窮めざる?!
貧民倶樂部はまだ手を着けず。少年ものは賣口あり。十分推敲しておくるべし。
近來は費用つゝきて小生も困難なれど 別紙爲替の通り金三圓だけ貸すべし
倦ず撓まず勉強して早く一人前になるやう心懸くべし
明治二十七年
五月九日 紅 葉
鏡花 君