瀧(抄)
目次
瀧(其の参)
一つの瀧のおとすら越へることは絶対に出来ない
何もかも
喪ひつくした私一つのからだであつても
あの
夢のあいだにもさつさうと岩をこしてゆく夜の瀧の光とはなれない
瀧のおとを瀧の石となつて聴くことは出来ない
あのたきのうちには
雲と風との間にのこつてゐる最後の稟性が
いつも厳しく鳴つてゐて
秋のよあけなどそれが短い山の人の夢に
玉のようにころがつてきて暗い一生を責めるらしい
たきは
私の夢のあいだにも雪のように
夜のそらからまつさかさまに身を分ち
とても
わたしと一つになれぬ厳とした天地の声を控へてゐるのだ
父の寝室 −病床篇−
ルカコヨ レイコヨ
ワシノカラダニハモウ ウラゝカナ春ノ公園ガナイ
ブランコガナイ
ワシハ白イ恩愛ノ鶴ノ羽ヲスボメル
ワシハ決シテ自ラヲ美シイキリンダト思ツタコトハナカツタ
ワシハムシロ雨ニヌレナガラ歩イテキタ病メルカバイロノ牛デアルコトヲ欲シテヰル
ワシハ動カレナイノデ
サカサマナオ前タチノウツクシイ涎ヲウケ
喘ギナガラ沁々卜反芻スル
オ前タチハヤガテ白イソラノ乳ヲモトメ
一人々々ニナル厚イジユウタンノ上ニ泣クノデアラウ
私ハソノ時アタラシイ鶴トナツテオマエタチノカラダヲ
青空カラ包モウト思フヨ
光ル体温計ニカゾヘル春ノ公園ノブランコ
私ハ今コノ人生ノ目盛ノ高サヲ知ル
水銀ガ全ク下降スルトキ人ハ何デアツタカヲ始メテ知リツクス事ガ出来ルノダ
モウ遅イ
戸外デハ温イハルノ雨ガ降ツテヰルノダサウダ
欠ケタオマエタチ二人ノオ茶碗ニ
アノ光ルアメイロヲウケトツテオクレ
ワシハ暗イ田舎ノ天ニタゝエテキタワシノ愛スベキ思想ヲ
欠ケタ二人ノオ茶碗ニ等分シテヂツト眺メテミタイノダ
美シイオブローモフノ雨ニ
ヤガテ
桜
おたつしやでゐて下さい
そんな風にしか云へないことばが
さくらの花のちるみちの
親しい人たちと私との間にあつた
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や涙がわいてきた
私は
いまその日の深閑と照るさくらの花のちる岐路に立つてゐる
おたつしやでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる
橋
おまへたちの家はない
おまへたちは広い雨のなかに迫る夕ぐれに追はれてゐる
おまへたちは一人のめくらの母につれられて
どこの雲のもとへ迷ふてゆくのだ
おまへたちは今一つの田舎の橋をわたつてゐる
おまへたちはその水の光のはての限りなく暗いことを知らない
よろめく闇の母のかたちと足音を玉のように信じて
おまへたちはその暗い雨の橋をわたつてゆく
鉛筆の走書き(妹へ 四)
かへらぬこのさみだれの光る日
いたむ胸おさへ
こどもたちにつらい顔みせず
遅くなつてゆく針のしごとの間からこの雨凛と眺めてゐると思ふ
はるかな白い波のことなど思ふか
一つかみのふるさとの海の砂握りたいと
鉛筆の走書きが
鋭く私の胸を裂いていつた
椎の稚葉(妹へ 五)
おまへはうごかれぬ屋根うらの病のからだで
晴れつくしたふるさとの山の
椎の稚葉のむらがりを思ひ
あの紀淡の海をとばふとおもふのだらふ
どうすることもならない潮のこちらに
かたわのはらからのまなこつぶる
うごかれぬおまへの痩せたとがのないからだ
このふるさとの銀の椎の稚葉でつゝんでやりたく思ふ
三稜燈火
あまりに鋭く
私のかへりをむかへる三稜の燈火に重なる
私のこどもの雲母の眼の閃き
わたしのふところ私の掌には何もない
するどいまなこ交すだけの食卓のあいさつ
あしたの吹雪はすでにこゝに凍つてゐる
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/03/15