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夜嵐阿衣花廼仇夢

 夜嵐於衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)初篇緒言

 

     さきかけ

 

我さきがけ新聞第三百廿号(本年五月廿八日)の紙上を以て其発端を説起し、号を(おふ)て連日掲来(かゝげきた)りし毒婦阿衣(おきぬ)の伝は、其実録に拠て余が戯れに筆を走らせしに、図らず看客(かんかく)の喝采を蒙り、新紙の発売多を加ふるの栄を得たれど、既に紙上に示せし如く、俳優市川権十郎が嵐璃鶴(りかく)たりし時、同人を懲役に陥れ、其身の厳刑に処せられたる大眼目は、只阿衣が末路の一事のみ。其生涯の奸悪を数ふれば数條(すでう)の珍説奇談多端に(わた)り、新聞の紙面に(つく)(あた)はざるのみならず、一場の説話も数号(すがう)に渉るを以て、看客或は其首尾照応を誤るの(かん)なきにあらねば、金松堂の主人が(こふ)に応じ、半途にして紙上の掲載を止め、岡本(=勘造)()をして之を双紙に綴らせ、(こゝ)に初編を発兌(はつだ)せり。題して夜嵐阿衣花廼仇夢といふ。其顛末を記するや、(かつ)て新紙に掲げしものと(ことさ)らに参差(しんし)表裏を示すを以て、(すこぶ)る看客の心を楽ましむるものあらん。

  明治十一年六月              芳川俊雄記

 

 初編上

  発端

 

夜嵐にうつろひ見せし山桜、八重もひとへに徳川の政事におさまる八百八町、まだ東京も江戸とよぶ頃、本町辺の薬種問屋(やくしゆとんや)で、人も知る紀の国や角太郎(かくたろう)といへるは、早く両親(ふたおや)に別れ、十八歳にして家名を相続せしが、性来歌俳諧茶の湯、その(ほか)遊藝をのみ好みしかば、兎に角家業をうるさく思ひ、僅か両三年にて(おとゝ)竹二郎へ名跡(みやうせき)を譲り、自分は(かね)てしつらへおきし、牛島の(ほと)りなる小梅(こむめ)の別荘へ移りすみて、まだ定まれる妻もなく、(あした)には花を楽しみ、夕べには月を賞して、風流にのみ世を送りし。今年は残暑のつよくして、(しの)ぎかねたるより思ひたち、箱根の湯治(とうぢ)から江の島へんを見物せんと、常に出入(でいり)の宗匠と幇間(たいこもち)の豆八を引連(ひきつれ)両掛一荷(りやうがけいつか)を男に担がせ、江戸を(いで)しは七月のはじめ、急がぬ旅とて路すがら(うち)たはむれて興じつゝ、其夕ぐれに神奈川宿(じゆく)へたどりつき、石井といへる旅籠屋(はたごや)へ泊り、互ひに滑稽の雑言(むだごと)に、夜もはや四ツをすぎしころ、隣座敷の女(づれ)の客の内一人の娘が急に(しやく)をおこしてとぢらるゝ様子にて、其母親と(おぼ)しきが、頻りにお八重お八重と(よば)いけれど、更に(をさま)る模様もなければ、皆々当惑の体なるを、角太郎は気の毒に思ひ、家業がらとてさいはひに良薬(よきくすり)(たくはへ)たれど、見知らぬ女の其中へ、さすがは(それ)といひかね、宿の女を近く招いで、薬のことをいふふくめ、隣座敷へいひ(いれ)しに、此方(こなた)はことに悦こびて、少しなりともいたゞきたいとのことなれど、強き薬なれば分量が(すぎ)てはならぬと、自身に(いつ)て手づからに、とぢつめられし病人の口ヘ薬をそゝぎこみしに、その(きゝ)めにや、強くさしこみたる癪も一時にひらきしかば、母は尚さら、附そふ女のたれかれも、神かとばかり角太郎をふし拝み、かはるがはるに礼をのべ、茶など煎じてもてなさんとせしが、女子(をなご)ばかりの座敷に長居をするもいかゞならんと思へば、夜もいたく(ふけ)たれば、明朝ゆるりとお目にかゝるべしと其場を立さり、互ひに臥床(ふしど)へいりたるが、かゝる混雑の中なりければ、双方とも名前などを尋ねることを失念せしとぞ。(さて)紀角(きかく)一群(ひとむれ)は、用ある旅にあらねば、日中暑気のはげしき間を休まん程に、涼しき内に少しも(ゆか)んと、その翌朝(あさ)、となり座敷の人々がまだ起出でぬまへに、支度をとゝのへ、急いで此家(このや)(たち)いでしを、少しも知らぬ女(づれ)、ゆふべお八重の介抱につかれたるのか、但しまた、今日はおそくも(うち)へ帰ると心にゆるみが(いで)たるにや、つひ寐わすれて、東なる連枝(れんじ)の窓から朝日のさすに眼を覚し見れば、お八重がおらぬより、母は驚ろき皆々を呼起し、其処よ此処よと探せども、更に知れねば、母親が座敷へかへつて娘の臥床(ふしど)をあらためると、枕の下から出た一封は、お八重の手跡()にて書置(かきおき)とあるに、胸轟き、先だつ涙のみこんで、急ぎ(ひら)いて(よみ)くだせば、(わたく)し事訳ありて、(とて)(うち)へは帰れぬゆゑ、世になきものと御あきらめ被下度(くだされたく)(はゝ)さまへは不孝の上もなけれど、(ひら)におゆるしをねぎまいらせ候云々(しかじか)と、手短かに(かき)のこしたる一通を、顔におしあて、母親がワツとばかりに泣伏て、仔細は何かしらま弓、(ひい)て返らぬ訳あらば、なぜ打あけて此母に、(かう)してたべといはねにも、矢のたつ(ためし)もあるものを、仮令(たとへ)どのよな事にもあれ、(たつ)た一人の娘じやもの、(とほ)してやらいでおくものぞ、是ほど思ふ此母の心もしらで、身をかくす其方(そなた)の心は安かろが、跡に残つた人々の心を少しは(くみ)わけて、無分別なる量見を必らず起してたもるなと、其処にお八重の()る様に、かきくどきしが、其内も心せかれて、(もし)ひよつと淵川へでも沈みはせぬかと、宿屋の主人(あるじ)へ頼んで人を雇ひ、諸方へ手わけをして、其近在を(くま)なく尋ねしが、更にゆくゑが分らねば、ひとまづ江戸へ帰つた上、また兎も角もせんものと、力おとして女連、是非もなくなく此家を立いで、江戸の住家(すみか)へ帰りける。

(それ)引替(ひきかへ)、角太郎の一群(ひとむれ)は、憂事(うきこと)知らぬ気散(きさん)じの旅は道くさ()は早く宿に(つい)て、箱根なる湯治も、病のあらぬ身は、汗を流すの外ならず、涼しき内はあちこちと、鄙珍らしき見物に、疲れて帰る宿屋の椽ばな、風()りよきに(すだれ)を巻あげ、碁など囲んで楽しみけるが、庭の彼方(あなた)の離れ座敷、(はし)近く折々立出で、此方(こなた)を眺め、(つき)の女中と何やらん囁き(あふ)て打戯れるけだかき婦人は、年の頃二十余りにて縹致(きりやう)(すぐ)れて麗はしく、起居(たちゐ)の様のしとやかに、折目正しき振舞は、さる大名のお部屋さま、少しの病気をいひたてに、遊散(ゆさん)ながらの湯治とは、其附人(そのつきびと)の少なきにてぞ知られける。紀角は朝夕顔見合せ、世に美くしき婦人ぞと、(かた)みに尻などつゝきあひ、又も天女の来迎(らいがう)と眼を慰むるばかりにて、互ひに心ありそ海、ふかき底意を(くみ)かねて、まだ(こと)ばさへかはさぬうち、はやお(いとま)の日限が(せま)りしと見へ、女中の群は当所を立出で、江戸の方へと帰りしのち、紀角は爰に四五日余り逗留せしが、同所にあきたるのみか、天女が影をかくせし故、せめて天女の岩屋なりとも拝まんものと、二人の(つれ)を促がして、江の島へとこそは赴きける。

此処は東海道程ケ谷宿の裏手にあたり、金澤鎌倉への近路(ちかみち)なる下大岡の山中にて、まだほの暗き路傍(みちばた)に、繁る並木の松がえの梢はなれる暁烏(あけがらす)があいあいの声(きく)も、今更此の身につまされて、思ひまはせば人でなし、道にそむける、ぎりある父へよからぬ名をばきせまじと、恩愛深き母親の歎きをあとにやうやうと、人の(はな)しに聞きおきし、闇路をたどるお八重の心も細き流れの岸にそふ、路のかたへの松の根に、腰うち掛てホツと一息つくづくと、我身ながらも怖ろしや、よう(こゝ)までは来た事ぞ、(かう)脇路へまはつては、最早逐手(もはやおつて)は来はすまい、思ひの外に草臥(くたび)れたれば、日の昇るまで休まんと心に少しゆるみが来しか、宵に(おこ)りしつかへの癪が、また胸さきへきやきやと(さし)こまれては大変と、細帯かたく引しめて、がまんはすれど疲れた躰、(こら)へきれねば其儘に倒れて苦しむ折もよく、雑色村(ざふしきむら)(かた)から爰へ通るは、是も女の独旅、年の頃は二十五六にてどこやら垢抜(あかぬけ)たる都の風俗、だるま返しに髪を結び▲

 

 初編中

 

▲白地の浴衣を高く端折(はしよつ)て、笠を片手にすたすたと通りがゝつて、お八重を見つけて立どまり、独りでうなづき、帯の間の紙入から何やら薬を取出して、お八重の後へ廻り、(いだ)き起して背をなでおろし、(すゞ)の中なる薬を少しお八重の口ヘふくませ、(かた)への流れに手拭をひたして、其水をしぼりこみなどせし手厚き介抱に、やうやう開きがつきしかば、お八重は地獄で佛の思ひ、厚く礼をば(のべ)けるに、女はさのみ恩ともせず、旅する人は(あひ)たがひ、女子(をなご)同志はわけての事、よい塩梅(あんばい)に薬がきいて私も嬉しう思ひます、お供の衆はお薬にても(かひ)にばしゆかれしかと問はれて、お八重は涙を払ひ、私や独りで鎌倉へゆく者で、供をもなんにもつれません、(それ)ゆゑ猶さら病気などには困ります、お蔭でさつぱり治まりましたといふに、女は不審顔、みれば(こゝ)らのお方でなし、独りで旅をなさるとは、何か仔細のあらましを、苦しからずばはなしてと、他事なきことばに、お八重も今さらその親切にほだされて、包みもならず鼻うちかみ、(じつ)わたくしは江戸本石町(ほんこくちやう)の呉服(だな)松坂屋の八重ともうす者なるが、先年親父(おやぢ)が亡なつて、と聞いて女は(うち)おどろき、さう(おつ)しやればどうやらおみうけもうした事もある、元わたくしが日本橋へんにおりし頃、お宅はかねて知ております、あの御大家(ごたいけ)娘子(むすめご)が、供をもつれず只独り、こゝらあたりへまいらるゝ仔細は大方(おほかた)分りましたが、爰は山中(やまなか)、朝風は身にひやひやとからだの大毒、お(めし)も夜露にぬれてあるゆゑ、里へ出て乾かしながら、ゆつくりとおはなしもうすこともあり、兎にかくわるくはいたしませぬゆゑ、あとへお返りなされませと、無理にすゝめて程ケ(ほどがや)(かた)へとこそは伴なひける。

(さて)も角太郎は残暑しのぎに、いまだ見ぬ箱根の湯治場から江の島鎌倉と(うき)を知らぬ湯散(ゆさん)旅、二人の(つれ)の興ずるを、笑ふてうかうか日数(ひかず)もたち、はや秋風の身にしむ程になりしかば、土産のしなじな買とゝのへ、馴し隅田の牛島わたり、小梅の寮へ帰りしは、八月なかばの頃なりし。角太郎はたゞ風流にのみ心をよせ、浮世の事をいとふより、奉公人(ひと)は多くつかはず、庭の掃除や植木の手入は自分もしたり、折々は出入の者があれこれと程よくするに任せおき、小女(こをんな)一人を手元に使ひ、食事の世話などさせおきしが、旅の留主(るす)中は不用心(ぶようじん)なりとて、本町の本宅に年久しく召使ふお芳といふ四十二三の心きゝたる女を留主居におきしと知るべし。

今朝は角太郎おそく臥所(ふしど)をおきいでゝ、椽ばなにたちいであたりを見廻し、少しの間みずにゐたれば、庭の景色がかはつたと、のびあがつて隣りの寮をのぞきこみ、不審な顔でお芳をよび、隣は是まで明家(あきや)であつたがどなたか越してこられしかと、尋ねにお芳は両手をつき、まだ申しあげねど、つひ此頃さるお大名のお妾にて、たしかお名前はおきぬ様とか、その殿様がなくなられたので御隠居をなさるため、此玉屋の寮をお買なされたとかきゝました。余程うつくしいお妾さまでござります、(それ)についても昨晩一寸申しあげましたが、先生や豆八さんの前をかねて、詳しくお(はな)しいたしませなんだが、こりやわたくしから折入てお願ひ申すも、(もと)はといへば長い咄しを一通りお聞きなされて下さいまし。

旦那のお留主へ預かつた娘といふは、その以前、此わたくしが下総(しもふさ)から初めて江戸へ出て来たおり、草鞋(わらぢ)をぬいだお(しゆう)さま、本石町の呉服(だな)松坂屋さまの娘子にて、十四の時に父御(てゝご)(なく)なり、母御は後家をたてんとて、夫々(それぞれ)覚悟をなされしが、まだうら若き後家だては、却つて世間の口もうるさし、手広き家業に女主(をんなあるじ)は届かぬがちと、親類方のすゝめにより、店をあづかる番頭の弥兵衛といふを入婿に跡へなほした其頃は、此わたくしは(いとま)になり、(それ)も誰ゆゑ、番頭の弥兵衛は四十に近き身で見かけによらぬ色好み、間がなすきがなわたくしを捕へていやなことばかりいふのをすげなく断はりしを、遺恨に兎や角ないことをいひこしらへて追出(いだ)せし、夫から旦那の処へ上り、今日が日までも御恩にあづかる嬉しさに、又引かへて(つら)の憎きは弥兵衛にて、仮にも親とよばれる身で、いはゞ主人の娘子へ無体な恋慕、あさな夕なに(つけ)まはるうるさき仕打を、母親へ咄さば必らずことのもと、父とよびなす其人へ恥かゝするは子の道ならず、殊に世間の外聞をいとふものから、身一ツに(うき)を忍んで日を送る深閨女(おぼこむすめ)の気苦労から、つゐに病を引おこし、ぶらぶらなやむその上に、癪まで知て折々に煩ふことの多かりければ、医者の勧めで五月雨のやゝ(はる)るころ、母ごと(ほか)に女中二人を引つれて、伊豆の熱海へ湯治の保養に二月(ふたつき)あまり、世の中の(うき)をわすれし甲斐あつて、顔の色つや身体の衰ろへ(もと)の通りに全快せしとて、先月初めに女(づれ)四人で江戸へ帰る時、神奈川宿の泊りにて、明日(あした)は我家へ立帰り、又も弥兵衛に種々(いろいろ)とかき口説(くどか)るゝこともやと、思ひまはせば廻すほど、(この)よにあられぬ悲しさを、誰に語らん人もなければ、こよひ(ひそ)かに此家(このや)をぬけ出し、かねて往来(ゆきき)に見ておいた鎌倉道(みち)を左りへ入り、松ケ岡なる尼寺へ其身をよせんと覚悟はしても、娘気の案じわづらふあとやさき、久しく忘れた持病の癪にとりつめられ、開きのつかぬを隣座敷のお客に救はれ、疲れて(つれ)の寝入りしころ、身を隠すとのみ書置して、(その)庭口から忍び出し、たしかに(それ)と見ておいた程ケ谷宿の横道から迷ひ(いつ)たる山中で、其夜も明て烏のなく頃、又もや癪にとりつめられ、悩む所へ通りかけしは、本店(ほんだな)の四郎吉どんの一件で此方(こなた)へは顔出しかねる私の姪のお吉が、在所から此地(こちら)へ帰る途中にて、種々介抱をした上で、名前をきけば伯母の私が大恩うけたお(しゆう)の娘なれば、その儘にしてもおかれず、さりとて(うち)へは帰らぬ覚悟、うかうか街道へ(つれ)て出ば尋ねる人に見つけられんと、神奈川宿の裏手を通り、野毛の知音(しるべ)へ立より、芝浜へ出る押送りへ便船して、此地(こつち)へつれては来たものゝ、お吉も今は他人の家の居さふらふ、人の世話まで届かぬゆゑ、旦那のお留主と少しも知らず、此わたくしを外へ呼(いだ)し、以前の(はな)しを委しく語り、その娘子をわたくしへ渡して、(のち)の計らひは万事よろしく頼むといへど、弥兵衛めがなき(とが)きせてわたくしに(ひま)を出したるその後は、一度も今に尋ねぬ事ゆゑ、本石町の様子も知れず、又なまなかに此事を知らさば、却つて娘子のなんぎになるも計られねば、旦那のお帰りなされた上で、よい御分別もある事と、かくまひおきし娘子にあふて力をそへて下されと、昔しの恩を忘れざる、その深切があらはれる長物語りを、角太郎感心しながら聞き終り、咄しの次第は分つたが、(もし)もその娘はお八重といふではあるまいか、と問ふにお芳はびつくりし、如何(どう)して旦那がそのお名を、と不審するのは尤もなれど、お八重といへば、神奈川で泊りあはせて癪にとぢられ、母御(はゝご)がお八重と(よび)いけるさわぎを見かねて、此私が進ぜた薬で、漸々(やうやう)と開きがついた娘子ならん、何にしても不思儀な事と、お八重を爰へ呼よせて、互ひに見かはす願とかほ、尽せぬ(えにし)、またこゝであふとは誰か白髭(しらひげ)の神ならぬ身を如何にせん、世をうし島とふりすてゝ、尼になるみの浴衣(ゆかた)のまゝで、癪にとぢられ取乱したるその様を、見られし方かと思へば今さら恥かしく、礼の(ことば)もあとやさき、只この上はよき様に、力になつてたまはれと、優しきことばに、角太郎、お前がたよりに思はるゝおよしは、私しが(ちひ)さい時から世話になり、知つての通り何事も家を任せておくほどなれば、及ばずながらおよしと共に力になつて、どの様にか、お前が難儀をなさらぬやうしませうほどに、不自由なりとも心おきなくおられよと、情の言葉に、お八重はなほさら、およしも嬉しく、一日(ひとひ)一日と送るうち、互ひに心ありま山、いなの笹はら(いな)ならぬ、二人はいつか下紐のとけてうれしき中となり、日に睦まじき有様を、およしは知れど今さらせんなく、却つてお八重の仕合せならんと心の内に喜こべど、人の娘を沙汰なしに、かうしておくはよからねど、なまなか先へ(はな)しをなさば、又もお八重の身の上と思へば、そのまゝ(すて)おいて、そのうち首尾をせんものと、千々(ちゞ)に心を苦しめつゝ、うかうか送る秋の空、梢の紅葉はや散て、手洗水(てあらひみづ)薄氷(うすごほり)はるや来ぬらん師走のなかば、忙がしきとて本町より迎ひをうけて、およしは一先(ひとまづ)本宅へこそ立かへる、年の(はじ)めの賑ひは、昨日(きのふ)にひきかへ何となく庭の景色もとゝのふて、さきがけみせる梅の花、東風(こち)のまにまに(にほ)ひける。

 

 初編下

 

四季の(ながめ)の色々と変る浮世をうし島と、表を飾る菩提心(ぼだいしん)、つまぐる数珠の袖の内、とめきの(かをり)煩悩(ぼんなう)の花の色ある小梅の里、紀角が(すめ)る別荘に、隣る玉屋の寮を(かひ)うけ、引移(ひきうつり)来し其人は、元浅草鳥越(とりごえ)の甚内橋の(ほとり)に任む原田(それ)の娘おきぬとて、幼少(をさなき)ころより手品を習ひ、(その)藝名(げいみやう)を鈴川小春と(よび)なして、江戸町々の寄席(よせせき)で美人と評判高かりければ、諸大名の(たち)へも召され、座敷手品の御所望(ごしよまう)に、愛敬(あいきやう)ふくむ手先の早業、御意(ぎよい)(かな)つて、十七の春の(なかば)に、大窪家の若殿が妾に(かゝ)ひ玉ひしより、其両親(そのふたおや)も浮み出でしが、其翌年コロリといへる病のため、枕を並べて両親とも、此世を(さり)し跡々は、(ほか)に親族もなきものか、残りし(いもと)のお峯まで、御殿の内へ引取て、栄耀(ええう)に送る春秋(はるあき)も、はや(ふた)替り三年(みとせ)目に、寵愛うけし殿様が(とみ)卒去(みまかり)たまひし後は、此世をうしと一間(ひとま)に籠り、嘘かまことか看経(かんきん)にたじなく月日を送るのみ。痩衰へて食事さへほそきと(きい)て、後室(こうしつ)より二週間(ふたまはりかん)(いとま)を賜はり、箱根の温泉(いでゆ)で保養をせよと有がたき仰せを受て、侍女(こしもと)其外(つき)の侍諸共(もろとも)、宮の下なる奈良屋といふ旅宿に暫し逗留する頃、対ひ座敷の相客を見初(みそめ)て頻りに慕はしけれど、いひよる(すべ)もながき(いとま)にあらぬみは、はや日限の迫りきて、やしきへかへる思ひでに、せめては(こが)るゝ其人の名所(などころ)だけも(とひ)たしと、宿の女へ(ひそ)かに頼み、探つて聞けば、本町の紀角といへる薬種問屋(やくしゆどひや)の若隠居といふを頼みに、心残して(たち)かへる。江戸の屋敷の究屈(きゆうくつ)を厭ふが上に、湯治場のざんじの保養が身に(しみ)て、折目正しき礼式をうるさく思ふのみならず、今は屋敷に用なき(からだ)身儘(みまゝ)になつて彼人(あのひと)にあふよしもがなと、物思ふ心(しつ)たる婢女(はしため)のおさよといふは四十の上を二ツ三ツこしぢの雪のとけやすく、腹いと黒きおきぬの合口(あひくち)、始終を聞て容易(たやす)く引うけ、小者(こもの)へ頼んで紀角が上を(くは)しく探り、今は小梅の別荘に住むよし知て、奥向の首尾をつくろひ、おきぬを病気と云做(いひなし)て、保養かたがた亡君(なききみ)後世(ごせ)(とぶら)ふ庵室にと、(こゝ)へは移り住みしにて、其時屋敷の重役(おもやく)から、(もし)此後(こののち)良縁あつて方付(かたづく)ならば、屋敷で世話もしてとらせん、又一生を(いさぎよ)く送るとあらば、扶助もせん、身の振方(ふりかた)(いづ)れとも心の儘に任せよと、月々に多く手当を賜はりければ、妹のお峯とお小夜の(ほか)に、下婢(はしため)二人、男といふは此頃新たに抱へたる下部(しもべ)の甚八のみにして、主従六人豊かにこそは暮しける。

打はやす拍子も同じ七種(なゝくさ)の声の(かた)から(あけ)そめて、霞たな(びく)庭の戸を、押て入来(いりく)る二人の客は、(かの)宗匠と豆八にて、年首(ねんしゆ)の礼はそこそこに、今日は節句に初卯(はつう)を持込み、殊に恵方も(うま)(かた)、是非とも出初(でぞめ)のお供をせんとそやし(たて)るに、角太郎さらば初卯に詣でんと、世を忍ぶ身の是非なくも、お八重を(うち)へ残しおき、二人を(つれ)てふらふらと出かけた跡へ、引ちがへ(とひ)来し人は、日頃から隣の寮や此家へお幇間(たいこ)半分出入する橋場辺りの藪医にて、其名を黒林玄達と呼者(よぶもの)なり。案内もせずに庭先から、ヤア御慶(ぎよけい)でござる、大将宅(うち)かな、美人の(そば)にばかり(はんべ)つて居ては健康を害します、是から初卯へ御出馬とは如何(いかゞ)と音なふ声に、お八重は奥から走りいで、年首の礼を一通り述て、只今斯々(かくかく)にて三人伴立(つれだち)、初卯へ参ると出たばかり、まだ其辺におりましよと聞て、玄達のそのそ座敷へ上り、辺り見廻し、(それ)では美人はお留主居(るすゐ)か、隣へ(いつ)ても初卯の留主、此方(こなた)主人(あるじ)も又お留主、是で漸く(よめ)た読た、貴嬢(あなた)は何も知られぬが、主人は隣のレコと湯治場からのお馴染で、末は夫婦と約束のしてあることも知ております、貴嬢(あなた)はどうしたお方やら、度々お尋ね申しても、お(はなし)ないのは余程不思議、何を頼みに此宅(このうち)におらるゝことやら、是も分らぬ、今に苛酷(みじめ)を見らるゝかと思へば(まこと)にお気の毒、早う分別なされよといふは(まこと)か、底気味わるく、お八重は何と言葉さへなくよりつらき胸の内、さし俯くを玄達は得たりと側へにじりより、其所(そこ)を愚老がよい様に主人へ(うま)く説得して、隣の縁を(きら)して進ぜる、お礼の印に、お八重さん、(たつ)た一度でよい程に、ウンとおいひ、と(いだ)きつく手先を払ふて飛退く所へ、下女が(あわて)て障子を引あけ、本町から四郎吉(しろきち)どんが御年首に見へました、と聞て驚く玄達は、七種(なゝくさ)なづな遠どの(とこ)をお早々、ドレドレ、此地(こつち)へござらぬ先に、ストントンと足(ふみ)ならし、残りおしげに帰りける。

(それ)とは知らぬ角太郎、二人の末社(まつしや)引伴(ひきつれ)て、柳島から亀井戸の梅には少し早けれど、此所まで来る(ついで)にと、梅屋敷をも見物せうに、(こゝ)(あひ)しは玄達から(はなし)のあつた隣の主婦(あるじ)、箱根で去年見知りたるおきぬの一群(ひとむれ)、春の(はじめ)といひながら、(いと)嬋妍(あでやか)着飾(きかざつ)て、休らふ床机(しようぎ)も隣あひ、始めて爰で言葉を交へ、(つき)の女中と豆八が(たはむる)る事の面白さに、遂打解(つひうちとけ)て、夫からは此二群(ふたむれ)が一ツとなり、料理店(れうりや)橋本にて一酌を催ふし、互に興を尽せしは、兼ておきぬが(ねがひ)にて、如何なる神の引合せにや、是まで度々玄達から(よる)なと遊びに来られよ、と云送りしが、物堅く女子(をなご)ばかりの其宅(うち)へ出入するのは如何(いかゞ)ぞと断はりおりし其人が、(かう)まで和らぎ玉ひしとは、春はありたきものなりと、おきぬは痛く酒を過して苦しき様子に、其場を切あげ、打伴(うちつれ)だつて帰り路、角太はおきぬを(たす)けつゝ、隣の寮へ送り込み、二人の(つれ)(かど)から返して()る座敷に、しよんぼりとお八重が物を案じるは、(いつも)の事と角太郎、側へ(すわつ)て顔打眺め、(かう)ポカポカと陽気になつたに、外へ出られぬお前の身の上、気分の(ふさ)ぐは尤もじや、其内お芳の働きで、どうとか(はなし)(きま)るであらう、少しの間辛抱すれば、表向(むい)ての夫婦(めをと)となれる、今日は計らずお隣のおきぬさんの女中(づれ)に出あひ、橋本で一杯やつたが、七種(なゝくさ)の初卯のせいか、近年にない人の出、といふ端々が玄達の云し(ことば)に思ひあたれば、(さて)はとお八重は驚けど、口はしたなく云出(いひいで)て、軽蔑(さげすま)れては恥しと、(かの)玄達が(みだ)らなる振舞せしも押包み、只本宅から番頭が年首に越せしことなどを(つげ)て、其場を取なせしが、角太は(それ)より折々に隣の寮へ往通ひ、親しく交はる其内に、恋に手鍛錬(てだれ)のおきぬの取なし、夫といはねど情あることの葉草の露けきに、春風うけて靡けてふ、おさよが軽き媒酌(とりもち)に、つの打解けてから、角太郎、以前に変つて日毎の様に、隣へばかり入込(いりこ)むにぞ、お八重は始めて玄達の(うそ)(まこと)と鳴海潟、汐干に見へぬ沖の石、人こそ知らぬ朝夕に便なき身のみ(かこ)ちつゝ、袂の乾く(ひま)とても(なく)より(ほか)に、此事を相談するはおよしのみ、夫も此頃(いへ)におらねば、只此上は身を慎み、怨を包んでいつまでも、身を任したる角太の(ぬし)へ仕へた上で、見捨られなば(それ)までと、諦めて見ても、娘気の又も()やかう行末を案じ出しては、物思ふ心の内ぞ憐れなり。

(さて)もおきぬは去年(こぞ)の秋見初(みそめ)た恋が漸々(やうやう)に叶ふて嬉しき此上は、世間晴ての夫婦とならば、又楽しみも格別ならん、屋敷の(かた)縁付(えんづき)の願も(すめ)ど、恋人にお八重といへる附者(つきもの)あれば、角太の(かた)が面倒なり、只此上はお八重さへ除かば、此方(こつち)の望は叶はん、何か手段はないものかと、胸に余つた相談に、おさよも(こう)じて那是(あれこれ)と思案に其夜の更行(ふけゆき)て、燈火(ともしび)暗き一間から、怜悧(りこう)な様でも女は女、二人で一晩考へても、出る物とては座睡(ゐねむり)ばかり、是でも愚老は男だけ、(すぐ)に浮んだ一工夫、智恵をお(かし)申さうかと、のつそり出たは他人にあらず、(かの)黒林玄達にて、兼て此家(このや)へ出入する内、おさよといつか馴染(なれそめ)て、人目を忍び語らふを、おきぬは知れど、二人とも腹いと黒き(さが)なれば、何かの用にたつことあらんと見て見ぬ(ふり)で、慈悲(なさけ)をかけておいたるも、是等のことを謀らんためと、おきぬは心に黙答(うなづき)て、手箱の内から黄金(こがね)を取出し、紙に(ひねつ)て玄達が前に差おき、仕上(しあげ)た上の褒美は格別、是は手附じや、お八重を除く手段といふを、早く早くとおきぬとおさよが急立(せきたつ)るを、じらしておいて小声になり、夫は斯々(かうかう)なされよと、聞て二人は顔見合せ、暫し(ことば)もなかりしが、おさよが又も声を(ひそ)まし、夫を其儘にしておかば、ことの露顕の本にもならん、夫ゆゑ跡は根性を見抜ておいた下部(しもべ)の甚八へ頼んで、斯々(かうかう)するならば跡腹(あとばら)やまぬ上策ならん、左様(さう)じやと三人囁きあふ、(たく)みの程ぞ怖しけれ。

今日とすぎ、昨日と遊ぶ、春の日の長きも暮て、今日ははや二十日といふて仕舞正月、骨牌(かるた)の遊びの名残とて、おきぬは文もて紀角の(もと)へ、今日は少しく用意もあれば、まだおめもじをせぬお八重さまをもおつれなされて、夕刻から是非ともお(いで)下されと、いひ(こし)たるゆゑ、承知の旨を答へおきしに、お八重は心もすゝまぬと断りいはゞ何とやら、吝気(りんき)の様に聞へもせんと、(わざ)と悦び支度(したく)を調へ、角太と共に隣なるおきぬの寮へ到りしに、今日は殊更座敷を飾り、おきぬは御殿にありし姿の(うちかけ)に、四方(あたり)まばゆく見ゆるほど(つく)(たつ)たる容体(やうだい)にて、(しとね)に座をしめ、お八重を近づけ、初対面の会釈して、今年十五の(つぼみ)の花、善か悪かは白絲のまだ馴染なき妹のお峯を呼出して引合せなどする内に、(かゞや)く数の燭台と共に持出す酒肴(さけさかな)、おさよが始終座敷を取持(とりもち)、勧むる杯の廻るにつれ、おきぬは角太を側へ引寄(ひきよせ)、是見よがしの振舞に、お八重は(ねた)く思へども、自分の(をつと)といふではなく、此方(こつち)も元は徒事(いたづらごと)口惜(くちをし)けれど胸を(さす)つて忍ぶ所へ、おさよが別の徳利を持出し、是は甘いで(のめ)ますと、無理な勧めに二三杯、お八重が(のむ)と忽ちに(まなこ)暗んで、手足が慄ひ、胸の辺りが苦しくて、何分座敷に(たへ)られぬ様子を、おさよが見て取て、以前の徳利を取方付(とりかたづけ)、お八重様には(あが)らぬせいか、余程お酔なされた御様子、お休みなさるがよからうと、おさよがいへば、角太郎、少しも(のめ)不意気(ぶいき)な女、お手数(てかず)ながら一寸宅まで送つて下され、役にたゝぬと構ひもせぬを、お八重は(くや)しと思へども、胸苦しきに(たへ)かねて、挨拶とてもそこそこに、女中の肩に扶けられ、我家の座敷へ入るや否や、其儘そこへ打臥して、正体なければ、下女は驚き、むりに臥所(ふしど)へ担ぎ込み、風を(ひか)せぬ手当して、(おのれ)臥床(ふしど)の用意をする時、隣の女中が言伝(ことづて)に、貴家(あなた)の旦那は私方へお泊りなさると聞て、其所爰(そここゝ)戸締(とじまり)して(おの)が臥床に(いり)にける。

其夜も(ふけ)丑満(うしみつ)頃、庭の籬根(かきね)を乗越て、忍び(いつ)たる一人の曲者(くせもの)、手拭まぶかに(おもて)を包み、(もすそ)を高く(ひつ)からげ、庭石伝ひに椽先(えんさき)の雨戸を一枚こぢ放し、お八重の臥床を伺ふて、(ひとり)ほくほく打点頭(うちうなづ)き、有あふ手拭引延(ひきのば)し、正体もなきお八重の口へ猿轡(さるぐつわ)、帯にて体をぐるぐるまき、やおら起して肩へ引かけ、急いで庭の切戸から、裏を廻つて田甫路(たんぼみち)、いきせき(かけ)て、牛島の堤へ登つて(あたり)を見廻し、(こゝ)は名ばかり長命寺の前の岸、又候(またぞろ)小堤(こどて)へ担ぎあげ、爰らでよいと思ひしか、肩にかけたるお八重を(おろ)し、足と首とへ両手をかけ、(ちう)(つる)して南無阿彌陀佛の声もろとも、隅田の(ながれ)へざんぶとこそは(なげ)こんだり。こゝの小舟に棹さす男は何者にて善なるや悪なるや二編をよみてしりたまふべし。

 

 二編上

 

花見小袖の色さへ(とく)うつろひて、今ぞひとも思ひ(あはせ)着る頃なん、夜半(よは)の嵐にあへるてふ、(きぬ)のやれにし跡をものせよといはれぬ。遮莫(さはれ)、まだすぢ(つま)もそぐはしかねし身の(おも)なき(わざ)ながら、たゞよし川うしの仕附苧(しつけを)(苧=そ)を便(たより)として、漸く初篇を(つゞ)くりしに、僥倖(しあはせ)にも後をとの促しありときゝ、そゞろに編をつぎあてがひくらき手元の夜なべ仕事に、またポツポツとつゞり(いだ)しつ。

  明治十一年七月下浣

              岡本勘造題

 

(さて)も角太郎は思はずもおきぬが相手に、夜の(ふく)るまで酒をのみ酔つぶれたるまゝ、其所へ打臥し、まだ(おき)もせぬ其翌朝(よくてう)(うち)に留守せし婢女(はしため)が、いと慌たゞしく取次もて、お八重さまには昨夜(ゆうべ)の内どこへかおいでなされしのみか、雨戸が一枚外れたまゝ、椽のあたりに泥の足跡つきたるは、常事(たゞごと)とも思はれねば、早うお帰り下され、といふを(きけ)ども、角太郎、昨夜の酒がまだ(さめ)ねば、是はお八重が事をこしらへ、早く帰つてくれとの事ならんと、兎や角なして、漸々(やうやう)(うち)へ戻れば、いひしに違はず、雨戸がはづれてゐるのみならず、庭の切戸も破れており、曲者(いり)し様子にて、お八重がおらぬは殊に(いぶ)かし、夜半(よなか)に何処へ行べきぞ、扨は此身がおきぬの(もと)通路(かよひぢ)しげきを恨みに思ひ、便りなき身はいとゞなほ胸にせまりて、(もし)ひよつと悪い覚悟をしはせぬか、何にもせよ不思議ぞと、お八重の臥床(ふしど)を調べしに、あたりに落たる(ふみ)切端(きれはし)、これはと取あげよく見れば、男の手跡で始めはなけれど、此程申しあげし通り、今宵こそ首尾してまたれよかし、(あひ)づはかねておはなし申せし通りなれば、必らずとも人に(さと)られぬ様お支度なされよ、まづは用事のみ、取いそぎあらあらかしこ、と筆はとめても、留らぬは此道ばかりといふものゝ、お八重に限つて其様な事のあるべき様子はなけれど、現在男の此手紙は、心せくまゝ取落せしに相違なし、アヽ七人の子はなすともと古人がいひしも今更に思へば憎き女ながらも、()伴出(つれだ)せし男は()ぞ、

          (以下・割愛)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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岡本 勘造

オカモト カンゾウ
おかもと かんぞう 戯作者 1853~1882・7・20 江戸深川に生まれる。「一さい夢中」と戯号の新聞投書家から東京魁新聞編集長となり主幹芳川俊雄を補佐して重きをなした。毒婦物などの「きわもの」をたくみに旺盛に書きこなしたが、肺結核で30年の若き生涯を閉じた。

1878(明治11)年の掲載作(五編下まである。)に就いては芳川の緒言に尽きている。これに代表される「きわもの」「新聞つづきもの」は明治初期文藝の侮りがたい一潮流であった。

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