かの子の栞 岡本かの子追悼
巴里の植物園の中に白熊が飼つてある。白熊には円い小桶で飲み水が与へられる。夏の事である。白熊は行水したくなつたと見え、この飲み水の小桶へ身体を浸さうとする。桶は小さいので両手を満足に入れるのも覚束ない。
それでも断念しないで白熊はいろいろと試す。小桶は歪んでしまつたが、白熊の入れる道理が無い。すると白熊は両手を小桶の水に浸したまゝ薄く眼を瞑つてしまつた。気持の上では、とつぷりと水に浸つたつもりであらう。
私はいぢらしい事に思ひ伴れのかの女に見せた。それからいつた「カチ坊つちやん(かの女の家庭内の呼名)よ。君がその気質や性格やスケールで世俗に入らうとするのはちやうどこれだよ。君は白熊で世俗は小桶だよ。中へ入るまでには桶が曲るか白熊のおしりがはみ出しかするよ」
かの女はふだん動物に擬へられるのをひどく嫌つたが、このときばかりは面白がつて声を立てゝ笑つた。白熊は動物の中でかの女の好きなものゝ中の一つであつたにもよるが、私のこの比喩はかの女にしみじみ身に覚えがあるからでもあらう。
白熊は横に寝ると片一方の後肢のさきを前肢で掴む所作がある。かの女が疲れを休めるため、ころりと横になり右肘で頬杖すると左の手は自づと左の足尖を掴んだ。もつとも女の事だから掴むのは足を後へ曲げての上の事である。「どうしてさういふ白熊の形をするの」と私が訊くと、「どうしてだか」と自分でも不思議がつてゐた。この事に就て書いたかの女の小品文もある。
蟇もかの女は嫌ひではなかつた。うちの庭に一疋ゐて夏の頃はかの女が作らせた池のまはりから築山へかけてよく姿を見かけた。「お福さん」かの女は縁向の座敷に据えた机で書いてゐる原稿か短冊の筆を止めてかう呼びかける。私たちは、また、かの女が誰人を呼んでゐるのかと思つて覗いたほどはたに気兼なしの、相手に対して、かの女がいはゆる「
こどもがある時期には自然や無生物に向つても自分同様生物視し感覚や感情を賦与する。成人の後までこの性能が残つたものが詩人なのだとかの女は生理学的心理学を研究してゐた時代に私に語つた。知つてか知らないでか、かの女自身その詩人なのだつた。かの女は、またかく生みつけられた詩人は幸でもあり不幸でもあると語つた。私は紅梅の花が咲いたのに向つてひとり満惶の涙を垂れてゐるかの女を見た。実に詩人は幸でもあり不幸でもある。
かの女はこどものとき蛙と
優秀なものを持つため嫉まれ、お人好しと気位の高いためはたからのその迫害は容易く奏効する。この経験はかの女が後年近くまでかの女は嘗め続けた。(ママ)私とて根から騎士の性質の男ではない。のみならず申訳ない次第だが、新婚数年の間は無理解と迫害に於て決してひけを取らないユダの役を勤めた。しかしあまりにも見兼ねた。せめて物質的騎士でもと思ひ立たせられた。
かの女はかういふ矢に対しては聖セバスチアンの像のやうに、たゞ刺されてそしていぢらしく自分の血を眺めて天を仰ぐ。かの女に取つて天として仰ぐものは何としても自分では認めざるを得ない自分の中なる優質の自分である。かの女はいざといふときこの自分の中に立籠る術を覚へた。一方かの女の「ある時代の青年作家」の中で妹が兄人に向つていふ「強くなりませうよ」の解案に達した。かの女のある作品中には「
かの女が蟇を愛するのも自分の前身の遺物のやうに感ずるからかも知れない。
小鳥のやうなものは関心を持たなかつた。総て小さなものはいかに精巧で貴重品でも、かの女の言葉でいへば「
かの女はどこの家へ越しても必ず築山と池を
かの女自身、聖の性と魔の性と奥の方で同根になつてゐるその意味でかの女にはドストイエフスキーに近いものがある。だが、かの女は小説の作品はトルストイの方を推賞してゐた。格の正しさや
かの女がいざといふとき自分の中なる優質の自分に立籠ることは後年近くまで続いたらしい。近頃かの女の著書を整理してゐると、「鶴は病みき」の原著の一冊の扉に自分が自分にデヂケートしたものを発見した。
「つゝしみておくる
かの子へ
かの子より」
「鶴は病みき」の原著は昭和十一年十月の発行であるからその頃までも充分かの女はこの愛惜を保持してゐたことが判る。この書はかの女に取つて小説家として最初の著書である。いろいろの想ひで自著をまづ自身に捧げたであらう。これはかの女に就て時間をかけ慎重に研究すべきことだが、たつた一つ即言できることがある。かの女を理解するものはかの女以外に無いほど微妙と複雑を単純の中に蔵してゐる。その理解をこの時代までかの女は誰にも諦めてゐたことである。
誰が誰をば云ひ得るものぞ
われよ
あまりにわれをも
責むるなかれ
これは大正十四年五月発刊の歌集「浴身」の頁に出てゐるかの女の箴言詩である。かの女ほど自責や自己批判の強い女も珍らしい。この詩に於ては劣質の自分が優質の自分に向つて
しかし後年に入つてはこの劣質の自分と優質の自分とがかの女に於て調熟し始めてゐる。世評にいふ白牡丹のやうな女性として撩乱を始めた。大きな生命が地下水のやうに噴湧して来てもはや自分の中に些末な自汝の区別なんか立てゝゐられなくなつたからであらう。中川一政画伯がある会合の席でかの女を見た印象を話して画家的の言葉を用ゐ「確かに女史は
とにかくかの女と現世的に共に在つたときは、一たいどのくらゐ青春の気で私も共に無限に生き延びて生活して行くのか図り知られなかつた。かの女は何を言葉に出して言ふわけでもないが、そこに励ましがあり、希望があり、憩ひがあつてそれがみな絶対的なものなので、私は手一杯働けた。かの女の眠りに遇つて一時それ等を総て失つた。だがこの頃、かの女の本体の存在に気付き、再び前のものを取戻し始めた。
かの女に一ばん無かつたのは糠味噌臭いしみつたれた世帯根性だ。私は気持だけにしろいかなる世界の富豪に負けない豪奢な生活を送つた。
かの女はマダム、マレイの作つた夜会服を着てカフェ、ド、ラ、パリで晩餐を摂り、グランドオペラを見に行くときも、うちで、かの女の口振りの「おみつちい(味噌汁)におひもの(干魚)」でご飯を食べ、帝劇へ映画を見に行くときも悦びと気品は少しも変らなかった。私はこの女のスケールは一たいどのくらゐなのだらふとあらためて見返した。
かの女はある貧しい青年に月々金を補助してやつてた。その青年は勤口が見付かつたが薄給なので、かの女からの補助の断絶を心配してゐた。かの女は知らん顔をして送金を継続した。青年は気に咎めてある日かの女の気持を探りに来た。かの女はそれを察して、わざと蓮つ葉に「あたしや江戸つ子よ、いつまでも威張らして頂戴ね」さういつて、また、さういへたのが愉快だつたと笑ひ崩れた。
かの女の胸中の地理観はまた一種独特のものだつた。本郷へ用事といふと少くとも三日は何とかかんとかいつて愚図ついてなかなか行かなかつた。巴里は隣のやうに思ひ和服で草履で神戸埠頭から船に乗込み、同じ服装、同じ表情でシャンゼリゼーを青山通りのやうに歩ゐた。むす子に世話されてそれから洋装を調べ始めた。本郷はどうして億劫なのか判らない。
かの女の第二歌集を「愛の悩み」といふ。かの女は一生あらゆる愛に就ては殉身の態度を示した。かの女は致命的な打撃を受けて人を憎みにかゝる。憎みが底に徹するとかの女には慈しみの愛が湧いて来るのである。「あーあ、これまでにされても相手を憎み切れないのかなあ」かの女の第二段の嘆きはいつもそれなのである。
かの女にむかし愛人があつた。かの女はその相手と座敷で対座して二時間も自分の瞳を見入らせ続けた。少くともこの時間の間は双方は少しも他の感情を交へず純粋の念思の持続が出来るといふのである。かの女の第一義を望む苦しき愛の修道は、他の種の愛に就てもこれに似たものが幾つもある。
かの女が諸行無常を愛し取つて自分のものにしてしまつたのはかの女の逞しい愛の生命の最後の勝利である。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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