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美術上の急務

 概して日本今日の美術は誠に幼稚である、此頃漸く文藝といふ言葉が社会問題の一に加へられるやうになつたが之に関する一般の知識は(すこぶる)不完全である、西洋画は長足の進歩して喜ぶべき現象を呈して居るが、欧米諸国の美術程度に比べると(はなはだ)初歩の位地にあると云はねばならぬ、勿論西洋画を論評する人は多いが実際西洋美術歴史に通じてその鑑識に富んだ者は幾人もない、一般批評家には、ラファエル、チシアン、ミレー等と云ふのは総て抽象的名詞に過ぎない空想空理に過ぎないのである、若し西洋画を品評しようとならば少くとも日本画に於て土佐狩野の区別を知る如く、外国に於ての諸流派の沿革区別等は知つて貰ひたいのである、何故に近代に於てベラスケスが重要の地位を占めたか、ドラクロワのローマンチシズムの意味は如何(いかゞ)のものであるか、バルビゾン派は何の地位を以て起つたか、印象派は色彩歴史の上に如何なる立場を有するかを一通りは知つて貰ひたいのである、即ち(いやしく)も西洋画を論じようとするには先づ相当の準備が必要である、今後我国人もますます欧洲に渡航する者が多くなれば從つてその知識も広く美術観念も深くなるだらうが、それは社会の一部分に止まつてゐる、故に一般人民に対しては日本にありながら外国美術の趣味を知るの設備をするのが尤も必要かと思ふ、即ち公立美術博物館等に莫大の費を投じて欧洲美術の幾分を備へ、殊に良い模写品や極めて精良の写真等を多く蒐集し又は古彫刻のカストなども備へて、公衆に示すは一日も怠つてはならぬ。

 又日本画に就ても、日本は東洋美術の宝庫であつて、今日支那印度で見られぬ名品で日本に貯蔵せられてゐるものが澤山ある、故に東洋美術の研究は日本を差置いて他に望むことの出来ぬ長所を持て居るにも拘らず、その研究も矢張幼稚の程度にあつて、社会の対美術知識は甚だ不完全のものである、今その主なる原因を挙げると

 一、従来東洋の風習として名品は深く個人の筐底に秘蔵されてゐて、広く人の目に触れる事がない、それが維新の際から段々と他人に示されるやうになり、又博物館も出来て諸種の美術会も古美術を社会に紹介するやうになつたが(しか)しこれだけでは(すこぶ)る不充分である。

 二、専門の鑑賞法が幼稚である、足利以後相阿弥(さうあみ)以来、日本の鑑定は美醜の問題よりは信偽問題を主としてゐる、即ち審美的判断は殆ど欠乏してゐる、将来、学者は此点に注意さるゝことが必要である、信偽問題即ち昔の鑑定法も在来のものは(はなはだ)不完全である、西洋ではまだ我国に於て用ゐられない種々の研究がある、例へば或る作家の特長を見出すのに、その筆癖の主なるもの、鼻の形指尖の形等を特に比較研究して判断するやうなこと、又其材料たる絵の具の原質等から調査するやうなことなどがある、我国でも宋の絹と明の絹、足利の紙と徳川の紙との区別は如何といふ位のことは普通鑑識家の知てゐる処ではあるが、更に進んで、顕微鏡学上からその正確な差異を説明した表などはまだ出来てゐない、其他種々計画せねばならぬ事が澤山ある、此等の準備が整頓せねば日本画の鑑賞法は大成したものとは云はれぬ。

 三、徳川時代には社会制度の影響が美術上にも来て、社会階級の区別が強かつた、例へば、土佐、住吉の画風は公卿の系統に、狩野派は武家系統に、浮世絵は平民系統に、文人画は文人学者の系統に属すると云ふ有様で、社会一般に通じて美術嗜好を発表すると云ふ状態ではなかつた、この弊は今日全体に於て取消されたやうであるが、尚余習が残て日本画全体に通じた鑑賞の(かんがへ)に乏しい様である。

 四、美術家の学識が欠乏したことである、社会の思潮を呑吐(どんと)して文化の先導者となるべき美術家は高潔なる思想純正なる人格がなければならぬ、今日の美術家が古人に比して大いに遜色があり(いたづ)らに技藝問題に走つて着想の平凡に陥るのは、主としてこの学識の劣等といふ点にあるやうである、この知識の欠乏から自個の流派に就ても研究の方向を過つてゐるものが多い。

 で、今此等に対する救済の法は如何(いかん)といふと、第一に必要なのが、社会一般に美術思想を普及するに足るべき好著述の(ますます)発行されむことである、殊に通俗的に美術の意味が普及さるべき良著が必要である。

 第二に美術家のみならず社会中流以上の人が、美術を研究する為めに奈良京都は勿論、其他の地方の名所を親しく見る機会を増さねばならぬ。

 第三に、殊に最も必要なのは公立美術館の設備である、日本は(たゞ)に日本だけのものを保存して世界に紹介するのみで足らぬ、即ち日本は、印度、支那等の文化を消化した国柄である、東洋全体の美術に(わた)つて之を世界に推薦する必要がある。ルーブル博物館を見ても美術館の社会的応用は広大なものであることが分る、日本には既に公立博物館建設案が貴族院も通過してゐるのだが、財政の都合上、今日迄もまだその実行を見るを得ないのは残念である、愚考には来る四十五年に開かるべき大博覧会の美術館を永久的の建物として国立美術館の基礎とするのが最も便法であるやうに思ふのである、之を機として大美術館が設立せられ、世の美術家を奮起せしめ、同時に世間も美術の趣味を会得し得たらば、将来我国の美術は(おほい)に看るべき成績を挙げるだらう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/08/08

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岡倉 天心

オカクラ テンシン
おかくら てんしん 思想家 1862・12・26~1913・9・2 神奈川県横浜本町に生まれる。フェノロサとともに明治の美術に刷新の風を起し、橋本雅邦、狩野芳崖また横山大観、下村観山、菱田春草らを指導育成、政府を動かし美術教育に基盤を置いた大きな啓蒙思想家であった。英文で書かれた文化論『茶の本』も優れている。

掲載作は、1908(明冶41)年「東京美術學校校友會月報」第6巻第6号に初出の提唱で、上野に現東京国立博物館をもたらした。

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