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十和田湖

  一 五戸

 

 本州の北に尽きむとする処、八甲田崛起(くつき)し、其山脈南に延びて、南部と津軽とを分ち、更に南下して、東海道と北陸とを分ち、なほ更に西に曲りて、山陽道と山陰道とを分つ。長さ数百里、(あだか)も一大長蛇の如し。中国山脈は、其尾也。甲信の群山は、其腹也。八甲田山は其頭也。頭に目あり。(およ)そ三里四方、我国の『山湖』にては最も大なる者也。之を十和田湖と称す。

 鳥谷部春汀(しゆんてい)、一日、来りて我を(おとな)ふ。日光に遊びたりといふ。珍らしや、君の如き旅行嫌ひの人が、日光に遊ぶとは、さても、如何なる風の吹きまはしぞと云へば、日光を見て、結構を説きたくもあれど、別に理由あり。我れ此度(こたび)、久しぶりにて帰省し、母を迎へ来らむとす。そのついでに、君を我郷里の十和田湖に案内したしと思ふ。われ少時(わかきひ)、しばしば遊びて、以為(おも)へらく、天下の絶景と。されど、他の勝地を知らざれば、これ或は独合点(ひとりがてん)なるかも知れず。(よつ)て比較して見むとて、世に名高き日光に遊び、華厳瀑(けごんのたき)や中禅寺湖を見たるが、(わが)十和田湖は、之にまさるとも、劣らざることを確信しぬ。請ふ、来り看よといふ。これ余に取りては、所謂(いはゆる)下地は好きなり、御意(ぎよい)はよしといふもの也。喜び勇んで、之に応ず。

 長谷川天渓も同行する筈なりしが、其児の病気の為めに果さず。春汀(しゆんてい)平福百穂(ひらふくひやくすい)と余の三人、明治四十一年八月二十六日を以て、(てい)に上る。海岸線を取りて、翌日午後、尻内駅に下る。浦山太郎兵衛氏、三浦道太郎氏、關根数衛氏、学生五六人来り迎ふ。三浦氏と一行三人と車をつらねて、五戸に向ふ。これ春汀の郷里也。維新前は、南部藩の代官の居りたる処にて、文武共に振ひたりとぞ。五戸の男女学生凡そ百人、村境に来り迎ふ。松尾由郎氏の家にいたる。春汀の義兄也。快闊豪放にして善く談じ、優遇到らざる無し。医を業とす。青年会の会長たり。江渡又兵衛氏、鳥谷部健之助氏来る。みな春汀の親戚也。令嬢の酌にて、快よく飲む。由郎氏の弟、松原宙次郎氏は、酒豪也。大西喜三郎、内藤信男、福士秀雄の三氏、青年会を代表して来る。麦酒と青森名産の林檎とを贈らる。酔後、江渡又兵衛氏と碁を闘はす。八百年来、血統正しき五戸第一の旧家なりとぞ。その顔、武者絵の如し。

 

  二 天満館

 

 二十八日午前、青年会の求めに応じ、其会場に()てたる小学女子部の校舎に赴く。松尾由郎氏開会の辞をのべ、春汀と余と演説す。こゝは、懸崖(けんぐわい)の上也。もと代官所のありたる処なりと聞く。松尾氏兄弟、大西喜三郎氏、江渡富郎氏など余等一行を導いて、天満館に至る。五戸川の流域の上部を見下し、(はるか)に八甲田の連峯を望む。緑陰に(むしろ)()いて憩ふ。この地、第一の清水と称せらるゝ天満水を汲みて茶を煮る。風涼し。快甚し。

 松原宙次郎氏、脚下の人家を指して曰く、これを五戸の下町と称す。享保年間、鈴木新兵衛といふものあり。この村の水帳を預る。一悪漢金を(ぬす)まむとて、夜、其家を焼く。新兵衛出づるに路なし。水帳を地に埋め、腹を其上に當てゝ、焼死す。身死して、水帳は全きを得たり。代官感じて、之を追賞せりと。われ現に其地を見わたして、感ますます深し。士魂あるものと云ふべき哉。

 帰路、菊池萬之丞氏の別荘に小憩し、午後、五戸有志者の求に応じ、其会場に()てたる専念寺に赴く。五戸村役場助役金澤次郎氏開会の辞を()べ、春汀と余と演説す。来り会せしもの凡そ百人。

 松尾氏の家にやどること二夜、百穂は、諸氏の求めに応じて、扇に揮毫(きがう)し、われ之に題す。五戸にては、扇、一朝にして売り切れとなり、揮毫を乞はむとするも、扇を得るに由なかりし人も多しと聞く。廿九日の朝、松尾由郎氏、江渡又兵衛氏、青年会の幹事諸氏、青年少年の男女学生に、村境まで送られて、われらは(つひ)に五戸の地を去りぬ。

 

  三 宇樽部

 

 いよいよ目的地たる十和田湖に赴かむとて徒歩す。三浦道太郎氏、江渡省三氏、松原宙次郎氏、春汀の弟、良太氏に、余等一行を加へて、同行七人。三浦氏は東道の主人也。江渡氏は、われら山を下らむ後、三本木に導かむとて、わざわざ来れる也。

 戸来村にいたれば、小坂甚督、小坂甫三、見瀧源衡諸氏、一行を路に待ちうけ、小坂学校にて酒菓を饗す。一行求めに応じて揮毫す。休息すること凡そ三時間にして去る。牛の首峠を越ゆる頃、日暮れたり。提燈と藤の皮の松明(たいまつ)とに路を照して、午後十時、十和田湖畔の宇樽部に着し、三浦氏の家にやどる。道太郎氏の父、泉八氏は、明治十六七年の頃、はじめて五戸よりの道路を開き、船を造りて、小坂鉱山の貨物運搬を請負ひ、宇樽部を開墾せる人也。人家今二十四五軒、水田あり、陸田あり、農民は耕作の外、湖に漁し、山に猟す。泉八氏は、山上の一王者といふべき哉。げにや、塵外の別天地、盗賊の難なければ、夜、雨戸を鎖さず。病む者なければ医薬の必要もなし。われ明治十三年までは、土佐の城下に生長しけるが、夜、雨戸を鎖さゞりき。知らず、今猶然るや、否や。

 

  四 休屋

 

 三十日、休屋さしてゆく。道太郎氏の子、一雄氏、從弟小平四郎氏、新に加はる。共に少年の学生也。宇樽部より休屋まで、凡そ一里、老樹しげる。桂の大木も多し。蛇麻の花黄に、冠草の花紫也。車草、こゞみの生ひたるにても、日光に遠きことは知られたり。思ひがけずも、休屋の鈴木尚信、中村秀吉、川村藤五郎三氏、男女の生徒をつれて、われらを途に迎ふ。好意は細径の草にもあらはれて、苅痕なほ(あらた)也。

 休屋は、十和田諸部落の中心点也。十和田神社こゝに在り。奇景このあたりに集る。祠官にして、兼ねて宿屋を営める織田與次郎氏の家にいたる。酒肴の饗応を受け、織田氏に導かれて出づ。十和田湖畔、杉は、唯こゝのみにありて、並木を為して長くつゞく。十和田神社に詣づ。日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る。嶮しき巌山(いわやま)()づ。崖に臨みて、南祖坊と、八郎太郎との祠あり。九間(くけん)の鉄梯を下り、御占所にいたりて、中海に俯し、水を隔てゝ、御倉山を望む。学生四人、船に在り。みな五戸の人、われらを慕ひて、相前後して来り遊べる也。一行も之に乗りて船を発し、中海西岸の断崖を見上げ、水中に孤立せる蝋燭岩あたりにいたりて、船を返しぬ。十和田祠前より別路を取り、大黒天、天の岩戸、金の神、山の神、火の神、風の神などの巌窟を見て西海の浜に出て、近く恵比須島を見て帰途に就き、織田氏の家に小憩して、黄昏の頃、宇樽部に帰りぬ。

 

  五 巌上の酒宴

 

 十和田湖は、四面山に囲まる。銀山、鉛山西にあり。東にありて最も高きは十和田山。南にありて最も高きは前山。北にありて最も高きは花部山也。大日本地誌に拠るに、湖面は海抜四百五十米突、花部山は九百六七十米突なり。湖は北方最も広く、岸の出入もなくして、(ほと)んど半円形をなす。東西凡そ三里、南は三大湾を為す。東海、中海、西海、これ也。(おほき)さ、ほゞ相同じ。宇樽部は東海の南浜に在り。左に御倉半島の端に崛起せる御倉山を望み、右に十和田山を望み、前に花部山を望む。花部の右に二峰首を出す。西を乗鞍嶽と云ひ東を赤倉山と云ふ。四周の山、すべて、官有に属す。樹木の盛に繁れること、他に其比(そのたぐひ)稀也。みな落葉樹也。秋晩にいたれば、紅幕碧湖を囲む。同じ山湖にしても、この湖の大は、日光の中禅寺湖の三倍以上あり。路は湖をとりまきて通ず。凡そ十里。沿岸の長さは、十五里に達す。

 三十一日朝、昨日の一行、船に乗りて、宇樽部を発す。春汀ひとり留る。持病の痔起りて出血甚しきをも顧みず、勇を鼓してわれらの為に山にのぼりけるが、この日一日は、静養せむとすれば也。十和田の景は、その熟知せる所なれば也。旧知三浦泉八氏との話も多ければ也。

 御倉山の端をめぐりて中海に入り、ゆくゆく御倉半島の断崖を仰ぐ。こゝは中海の東岸也。断崖直に湖面に立ち、崖高く水深し。且つ清し。両手にてかゝゆるばかりの石を、岸より崩して水に落し、俯して之を見るに、(あだか)も魚の如く、ひらひらと沈みゆき、鯛大となり、鰯大となり、金魚大となり(つひ)に見る能はざるに至る。船夫曰く、十和田湖中、此中海が最も深し。(かつ)て百尋の縄を下しけるに、水底に届かざりきと。地理学者の説に拠るに、十和田湖全体は、陥落より生じたるが、此中海は、噴火口也と。日暮崎を始めとし、崖の突出せる者多し。崎といふよりも、むしろ巖といふべし。いづれもみな巨巌也。而かもみな姫小松を帯ぶ。一窟あり。御室と称す。窟中二條に別る。いづれも数間にして尽く。剣の如き小石の簇立(そうりつ)せる岬を剣岩と云ひ、姫小松の林を成せる岬を千本松と云ふ。赤根崎よりは、断崖赤色を主として、いろいろの色を帯び、十数町も長く南に延びて、半空にかゝる一大長虹の如し。余はこの中海の東岸にありては、最も御倉山を取る。千尺の断崖、西北より起り、南をめぐりて東に至り一山をとりかこむ。長さ二十四五町もあるべし、(かく)の如きは他に其類を見ず。何か名あるかと問へば、無しといふ。千丈幕と名付けては如何にと云へば、みな可と称す。百間幕なら、他にも多くあり。干丈幕は、御倉山の特色にして、かねて十和田湖の一特色也。この一大断崖の為めに、人は陸地よりこの山に上る(あた)はず。満山みな樹、十和田湖畔、猿は、たゞこの山にのみ住む。秋晩木実熟する頃は、群猿夜月に叫ぶ。賽者対岸の御占所に米を投じて祈祷するに、祭日には、白気この山に上ると云ひ伝ふ。唯眺めたるのみにても、十和田湖畔、唯一の霊山也。

 看て千本松に到りける時、日章旗をかげたる白帆来る。これ休屋一村の人士が余等を歓迎する也。中海の南岸は、他の奇なし。西岸は、昨日舟にて見物したり。東岸に比すれば水浅し。断崖の景致も、劣れり。直に最北端の巓に漕ぎつけて、一同之に上る。こゝに休屋一村の好意より成れる饗宴ひらかれたり。主人側は、織田與次郎、中村春吉、鈴木尚信、川村松五郎、栗山政治の諸氏也。主賓うち解けて、快く酔へり。こゝを中山崎と称す。この半島全体を小中山と称す。中海と西海とを隔つる小連峯也。宴罷んで、一同、休屋の舟にのりて、中海と別る。中海は、凡そ一方里。北は湖心に連り、東西南の三方は断崖と蒼樹とに取り囲まれたる、別天地中の別天地也。

 西海に入りて、東岸近く舟を進む。忽ち、どぶんと水に入るものあり。祠官の織田氏也。主、既に(よう)()す。賓いかでか之に(なら)はずして止むべき。余之についで水に入る。三浦道太郎氏も泳ぐ。その他、数人同じく泳ぐ。この西海の東岸は、水、中海の東岸の如くには深からず。崎には、六方角の相並べる処もあり。島多し。ぐみ島、蓬莱島、種が島、鎧島、兜島、恵比須島、などこれ也。大あり、小あり、高あり、低あれども、皆巌也。而していづれも姫小松を帯びざるは無し。松島には、この樹ありて、この巌なく、雄鹿半島には、この巌ありて、この樹なし。天下の風光、十和田湖ひとり其美を(ほしいまま)にす。舟をすてゝ、自籠神社にいたる。数十丈の孤巌の上に在り。三たび鉄梯を攀ぢて、漸くにして達す。(ほと)んど天に昇るの思あり。妙義の大字巌、旭日嶽にも、この奇なし。(いは)んや水あるをや。

 薄暮、織田氏の家に至る。江渡省三、鳥谷部良太、小平四郎、三浦一雄の四氏は、宇樽部さして歩して帰る。三浦道太郎氏、松原宙次郎氏、百穂及び余は、織田氏の好意のまゝに、その家にやどる。夜、宴また開かる。宴酣(たけなわ)にして、歌声楼外に起る。見れば、数十人円くなりて踊り且つ歌ふ。これ盆踊にして、村民一同が余等の旅興を添へむとする也。

 

  六 畳石

 

 明くれば、九月一日也。三浦氏一族の二少年、宇樽部より来る。織田氏を辞して、共に舟に乗り、追手といふ処に致り、和井内貞行氏の孵化場を見る。今は、孵化の時期にあらず。酒精漬の標本あり。卵より魚の形を成すまでの順序、精しく示さる。和井内氏は、カバチエポと称する北海道の鱒をとりよせて、茲に養殖すること年あり。この湖の水、このカバチエポに適すと見えて、生長の(すみやか)なること、本元よりも優れり。和井内鱒の名を付す。本土にこの鱒あるは、唯こゝのみなりとぞ。功により、緑綬褒章を賜はる。われこの山上に来りてより、日々、新鮮なる鱒に舌鼓うつ。多謝す、和井内氏の賜物也。

 舟を湖の中心に出す。浪、荒し。(ほと)んど御倉山と花部山の中央とおぼしき処に、二大巌わづかに其頭を露はして相並ぶ。その間、凡そ二十(けん)、下は、其底を見ず。之を御門石と称す。更に舟を進めて湖の東岸に到り、畳石を見る。東西十間、南北百間ばかりの大磐石(だいばんじやく)、水面より高きこと、わづかに五六寸にして(たひら)か也。なほ続きて、南にも、北にも、百間あまりは、水に没することも五六寸にして(たひ)らか也。この巌上、数百干人を載せて余りあり。(まこと)稀有(けう)の大磐石也。後にて聞けば、この附近に、碁盤石と称する者、水面の下にあり。碁盤形を為し、下の四隅に足さへありとぞ。造化の奇を弄する亦甚しい哉。

 薄暮、三浦氏の家にかへれば、江渡氏と春汀兄弟とはあらず。この朝、三本木方面さして、山を下り、蔦温泉にてわれを待ちあはさむとする也。

 

  七 花部山

 

 九月二日、われらは、下りて、蔦温泉に春汀等と相会せむと期したるものゝ、われ新に一動議を起しぬ。われらは、幾んど残る(くま)もなく、横に十和田湖を見つくしたれど、なほ此上にも、縦に十和田湖を見下さずんば、未だ全く十和田湖を見たりとは云ふべからずと云へば、百穂も賛成し、三浦氏も賛成す。さらば、御倉山にせむか、十和田山にせむか、花部山にせむか、といろいろ考へたる末、終に花部山に決す。

 松原宙次郎、小平四郎の二氏は、別れて、五戸に向つて去りぬ。三浦道太郎氏父子、百穂、及び余の四人、舟に乗りて湖の東北隅の青ぶなといふ処に上陸す。こゝに牧場あり。群羊、湖畔に眠る。番小屋に至り、湯をわかし、午食して発足す。舟夫二人、その一人導を為す。凡そ三十町、湖岸をはなれて山に上る。牧牛の往来する処、自然に路を成して歩きよかりしが、山骨の削立(さくりつ)せる処を()づれば、牛も至る能はず、従つて路なし。山全体に老樹しげる。その十中七八は、山毛欅(ぶな)也。上るに従つて、地竹密生す。細雨下る。木葉にたまれる水、風に従つて大滴となりて落つ。地竹や雑木をおしわくれば、なほ一層散ること繁く、恰も水中を行くが如し。漸くにして頂上とおぼしき処に達したれど、濃霧の為めに、少しも眺望なし。(ぶよ)にや、顔にたかり、手にたかる。全身うるほひて、冷気骨に徹す。うるほひの少なき枯竹を集めて火を点ずれば、うるほへる枯木枯竹も燃ゆ。四人火を囲み、(だん)を取る。蚋も去りて、近づかず。導者は火にもあたらず、あちこち歩きまはりしが、地竹を四本切りて、もち来る。杖にせよとなり。根本の直径七八寸もあり。思ふに、数百年の星霜を経たるものなるべし。一時間も火にあたりけるが、日暮れぬほどにと立ち去らむとすれば、導者はあらず、帰りは易かるべしと思ひの外、導者なくして、方角を失し、密竹の中に迷ふ。唯幸にも、青森、秋田二縣の(さかひ)とて、十間ぐらゐ毎に小さき木標あり。漸く一標を見出しては、次の一標の方角を考へ、その一標を得て、また次の一標を考へ、上りし時の記憶にもよりて、漸く牛路のある処に來る。導者、われらを待つこと久し。己れの熟知せるに慣れて、われらの迷はむとは(おもひ)もかけざりし也。寒山が『智者君抛我、愚者我抛君』と歎息せしも、これにや。

 此日、濃霧の為めに、眺望を得る能はざりしかど、十和田湖を見下す処を花部山と定めたる考だけは誤らざるべしと確信する也。

 

  八 奥入瀬の渓流

 

 三浦氏父子に優待せられて宇樽部に宿ること四夜、休屋一村の好意をうけて休屋に宿すること一夜、都合五夜にしてわれは、この趣味多き十和田湖を去りぬ。九月三日也。道太郎氏父子、百穂、及び余の四人、一人の男、荷物をもちて従へり。途に小笠原圓吉、太田吉司二氏の蔦温泉より来り迎ふるに逢ふ。昨日も迎へに宇樽部まで来りて、空しく帰りし也。

 湖水の川となりて流れ出づる処を根の口と称す。この流を奥入瀬川(おいらせがは)と称す。橋かゝる。長さ十三四間。水は緩く流る。水中の魚も見るべし。右岸を下る。路も緩也。十三町にして、根の口の瀧にいたる。奥入瀬川の断崖に一落する也。高さ三丈、幅十丈。三里四方の十和田湖の水が集まりて落つることなれば、水量は多し。幅のひろきことだけなら、他にも其類少なからず。殊にナイヤガラの写真見たる目には(あきた)らぬ心地す。されど、この渓流は、他には見難き風致を有す。湖口より蔦川を入るゝまで凡そ三里、島多し。みな木を帯ぶ。巌の水中に立てるものも多し。それもみな木を帯ぶ。これ奥入瀬渓流の特色也。渓流は普通勾配急に、水の増減甚しく、水中に巌あるも、木を帯ぶるに由なき也。ひとり奥入瀬の然らざるは、(ほと)んど勾配なき迄に流緩(ながれゆるやか)にして、十和田の全山木しげるが為めに、絶えて洪水なく、殊に老樹天を蔽ふに由る也。さればとて、時に急湍(きうたん)もありて、単調にはあらず。げにや、三里の間、山毛欅、桂、楢、栃などの大木しげりあひ女蘿かゝる。仰いで天を見ず。下には、こゞみ茂る。紫陽花や、蛇麻の花もさきたり。如何なる炎天とても、こゝを上下する者は、絶えて夏あるを知らざるべし。左右は、断崖也。瀑布を帯ぶ。白布瀑(たき)を最も美観とす。白絲瀑、姉妹瀑、雲井瀑、棚瀑などは、その名あるものなるが、未だ名のつかざるものも多し。高さいづれも十丈にあまる、木繁れるが為めに落口の見えざるものあり、下部の見えざるものありて、(ますます)奥ゆかしく感ぜられる。十和田湖に遊びて、この渓流を見ざるものは、未だ十和田湖を見たるものと云ふべからざる也。

 川畔に、大石自然に屋となりて、十数人を容るゝに足るものあり。太田氏曰く、これ鬼神お松の潜みし処なりと。

 奥入瀬川も、蔦川を入れてよりは、普通の川となる。こゝには危橋あり。猿橋と称す。斜に生へたる大木を利用し、その木の半頃(なかごろ)より丸太を彼岸にかけわたす。人は木を()ぢて丸太を渡る。一種奇妙なる橋也。されど、手のつかまる木もあり、銅線もありて、さばかり危険なることは無き也。

 蔦川の左岸を上ること半里、通天橋をわたりてゆくこと又半里にして、蔦温泉にいたる。午後八時也。春汀兄弟は、既にあらず。江渡省三氏ひとり留りて、われを待てり。法奥澤村の村長、小笠原耕一氏も、わざわざ来りて我を待ち、酒肴を饗せらる。この温泉は、氏と小笠原圓吉氏との経営する所に係る。この頃、家を建増し、路を普請して、三本木より人力車を通ずるやうにせり。泉質は、塩類泉也。

 

  九 松見の瀑

 

 太田吉司氏は、体格強壮無比、脚殊に健也。このあたりの山々、足跡の及ばぬ隈もなし。数日の糧をもちて、ひとりにて行くこともしばしば也。『山の神』と称せらる。日に何里あるけるかと問へば、五里ぐらゐなりといふ。如何に『山の神』とは云へ、げに、さもあるべし。路のなき嶮山を五里もゆくは、平地を十五里ゆくよりも困難也。太田氏曰く、このあたり瀧多し。見るに足るべきの瀧、二十に下らず。就中(なかんづく)、松見の瀑が、最も大也。請ふ、()いて見よ、われ案内せむと。こゝも十和田の区域也。見ざるべからずとて、之に応じぬ。

 蔦温泉に一夜とまりて、明くれば雨也。太田氏曰く。松見の瀑へゆくには路なし。渓流を徒歩すること四十回、水増せば、往くべからず。この雨にては危険也。明日にのばされよと。さらば、仕方なし。郷に入つては、郷に従へ、山に入りては、唯『山の神』の命令を奉ずべしとて、其言に従ふ。春汀の待ちわぶることは察せざるにあらざるも、この行、十和田の風光を探ぐるを主とせることは、春汀も承知の上なれば、われは、主とする所に従ひて、春汀に(そむ)かむとする也。

 午前十時に至りて、『山の紳』又来りて曰く、この模様ならば、往かるべし。雨を衝くの勇ありや、否やと。大に有りとて起つ。百穂が恵与の真綿を背中に入れ、綿入を貸りて着、頭には、『ばをり』を(かぶ)り、脚には、『はゞき』をつけ、簑を着る。太田氏先にたち、一人の男、後より余を護衛してゆく。

 路なき山を幾度か上下して、黄瀬川の渓流に出でたるまでに、一時間半かゝりぬ。こゝよりは、太田氏の云ひし如く、四十回、黄瀬川を徒渉する也。左岸に瀧多し。その中にて、鍋倉の瀑といふは、はじめ二丈ばかり奔流し、直ちに噴水の如く、斜に飛び上り、三丈ばかりにして巌壁に当りて、五六丈の懸崖を瀉下す。素人受けのする奇瀑也。

 小石の洲ありて、水、左右に流る。こゝを御所河原と称すといふ。名が面白しとて、休息して、酒し、飯す。一瓶の酒なほ余る。瀧壷まで持ちゆかむかといふ。いやいや、瀑を見るに、酒なかるべからずなどいふは、まだ風流の半可通なるものなりとて、荷物は、すべて、こゝに置きて、また上る。

 松見の瀑、一に黄瀬の瀑とも云ふ。一山全く骨を(あら)はし、上は裂けて鋏の如し。其合する処より、一川の水、総束せられて直下す。凡そ二十丈、下はまた五六丈の巌を蔽うて下る。此上方の二つに裂けたる巌の山は、姫小松を戴く。後を見れば、巨巌天を衝きて、それの頂にも、姫小松生ひたり。このあたりの山々には、松なし。たゞこゝのみにあるを以て、松見の瀑といふなりとぞ。岩質はと問へば、玄武岩なりといふ。巌に松、(しか)して三十丈の飛瀑と云ふのみにても、山水の遊に慣れたる者は、既に飛び立つ思ひすべき也。

 午後七時十五分、温泉の宿にかへる。午食に三十分、瀧壷に十分休息し、正味八時間半は、少しも休息することなく、歩き通しに歩きたるが、里程は、わづか往復四里ぐらゐなるべし。

 

  一〇 三本木

 

 九月五日、朝早く起き出でゝ、一二町へだゝれる湯沼に赴く。くりぬき舟あり、棹もありたれば、棹してゆく。水は澄みたり。底は粘土らしく、棹しても濁らず。鯉や金魚の泳ぐを見る。林の山、四面を囲み、幽禽相和して鳴く。沼のひろさ七町、霊泉に加ふるに、この神仙の苑あり。唯、地僻なるが為めに、世に知るもの稀也。

 三本木へとて、出で立つ。耕一氏の父幸七氏、叔父善吉氏門に送る。子の新吾氏、東北学院の学生なるが、余等と共にす。『山の神』も共にす。一人の男、一行の荷物を負へり。われ、春汀との約に(そむ)きて、空しく待たさしむること三日。今日は、相逢ひて、罪を謝せざるべからざる也。

 思ひがけずも、法奥澤村の有志者、われらを路に要し、一亭に()いて酒を(すす)む。村長の小笠原耕一氏を始めとし、鈴木敏夫、中山留五郎、相澤寧、小笠原松次郎、太田寛造、奥山東一、角田侹一、目時寛三、鈴木友記、東長五郎の諸氏、づらりと居並ぶ。御話をうけたまはらむとて、上級の生徒を休ませて、引きつれたり。之を諾されよといふ。話す種はなけれど、いやとも云へず。生徒数十人来り並ぶ。われ(おほい)にまごつきぬ。如何なることをか、しやべりけむ。相澤寧氏は医者にして俳句をよくす。暁村と号す。日本派の俳人也。余を迎ふるの句をおくらる。珍らしや、今迄は、到る処、たゞ乞はれしのみなるに、受けたるは、これが始めて也。

 こゝにて、春汀の書に接し、はじめて、天渓の児の病死を知る。迎ひの馬車にのりて三本木にいたる。『山の神』なほ在り。安野旅館に投ず。六日ぶりにて、春汀と相逢へる也。

 この夜、一心亭に催せる三本木有志者の歓迎会に赴く。堺三木人、川崎新兵衛、岩館精素、大島市太郎の四氏発起人となり、畜産学校の校長高尾角次郎氏、その教員の佐藤、木場、板持、佐藤、久嶽氏、開墾会社々長の杉山克己氏、その社員の一戸義昂氏、その他、土屋廣氏、波岡喜代松氏等、之に我等の一行、三浦氏、江渡氏、『山の神』も加はりて、凡そ二十余人相会す。岩館氏歓迎の詞をのべ、余之に答ふ。大に飲む。女中の外に、二三人の歌妓をも見うく。久嶽氏は、同郷の人にして、第一高等中学校時代の学友なるが、幾んど二十年ぶりにて相逢へる也。

 

  一一 太素塚

 

 三本木、今は可成りの都会なるが、四五十年前までは、家はなかりき。実に安政年間、南部藩士、新渡戸傳氏の開拓する所に係る。一偉人と云ふべし。其長子、十次郎氏も、政治家の器也。父を助けて、其業を大成せり。今の新渡戸博士は実に、その十次郎氏の子也。余等を歓迎せられたる堺三木人氏は、傳氏の季子也。容貌態度、西園寺侯に似て、長者の風あり。新渡戸博士が英文の日本武士魂を著はして、日本武士の為めに、気を吐きたるも、思へば家庭の素因の深き哉。

 九月六日、朝早く、畜産学校々長、高尾角次郎氏に案内せられて、(その)学校に赴き、残る隈なく見て、精しき説明をうけたり。帰つて更に畜産事務所に開ける青年会に赴き、春汀と余と演説す。堺氏、高尾氏、岩館氏、川島氏など、青年以外の人も多く集れり。

 畜産事務所の側に、太素塚あり。これ実に偉人新渡戸傳氏を葬れる処なり。左に小(がん)あり。十次郎氏の霊を祀る。墓の後は、芝生ひろく、眺望ひらけたり。こゝを瀬戸山と称す。南は名久井嶽を望み、北は恐山(おそれざん)一群の山を望む。東は海に連りて、尽くる処を知らず。西は八甲田山より十和田山につゞける一帯の連山、この日は、雲にかくれたり。近きは、三本木野、世に名だゝる牧揚とて、萬馬秋肥えて、千里の長風に(いなな)く。奥州の風致、雄にして大なる哉。

 春汀は、余が空しく三日待たせたるにもより、その他いろいろの事情にもよりて、八戸の有志者の歓迎会に赴くを得ず。余、百穂と共に赴く。待ち設けられし春汀は行かず、天渓は旅に上るを得ず、文人にては、われひとり行く。八戸人士の失望は、いかばかりなりけむ。春汀と別る。この日頃、迎へられ、案内せられ、又送られし三浦、江渡、太田の三氏とも別る。われ謹んで諸氏の好意を感謝す。

 乗合馬車にのりて、三本木を去りぬ。大島氏は途まで送らる、岩館氏は古間木駅まで送られ、一亭の楼上に小酌して別る。川崎新兵衛氏は、なほわれら二人を送つて、同じく汽車に乗る。

 

  一二 物見岩

 

 八戸は、もと南部支藩のありたる処、人口二万、盛岡以北、陸奥東部唯一の大都会也。陸には汽車つゞき、海には鮫港をひかへたり。新聞二つあり。『はちのへ』と云ひ、『奥南新報』といふ。町にて一寸人の目につくは、三日町、六日町、廿日町など、日数を名に負ひたる町の多きこと也。

 尻内駅に下れば、浦山太郎兵衛氏来り迎ふ。『はちのへ』新聞の主筆、女鹿左織氏、取締役の大島勝三氏、奥南新報杜長の關野重三郎氏、印刷会社長の浦山十五郎氏、書肆の伊藤富三郎氏なども来り迎ふ。八戸駅を過ぎて、港駅に下り、更に乗合馬車に乗る。三本木よりの余等三人の外に、浦山氏と大島氏と同じく乗る。大島氏は、前日、わざわざ三本木までわれらを迎へに来りて、空しく帰りたる由也。

 鮫港の人家つくる処にて、馬車を下り、物見岩さしてゆく。洋服の一紳士、遠目鏡を肩にかけて来る。北村益氏とて、八戸の町長、『はちのへ』新聞の杜長、その他三十余種の長をかねたる、八戸第一流の富豪なりとぞ。

 鮫港は、蕪島を前に控へて、風致あり。物見岩の眺望に至つては、実に雄大を極む。草ばかりの広く長き岡が海に突出したるも、既に其比(そのたぐひ)稀也。東は直に太平洋に接す。南に種市山、名久井嶽、西に十和田一帯の山、北に恐山一群の山、みな遥に我に(ちよう)するが如し。所謂一望二十万石の奥東の野。一眸(いちぼう)の中に収まる。日西に沈みて、暮雲紅に、十二夜の月、室にありて、はや、明か也。この物見岩の大観は、われ思ひもかけず、見て、其意想外なるに驚きぬ。

 鮫港第一の旅館石田旅館に小憩し、また馬車にのりて、小中野の萬葉亭にいたる。北村益、橋本八右衛門、女鹿左織、内田與兵衛、大久保徳治郎、石橋源三郎、安並正晴、、米田宇兵衛、南部興寧、福士協助、伊東嘉平、大久保忠一、夏堀源一郎、戸田利三郎、大蘆梧楼、關野重三郎、福田男児、永井正三郎、浦山十五郎、伊藤富三郎、大島勝三、前田利貞諸氏之に例の浦山老人も加はり、三本木の川崎氏も加はりて、盛宴開かれたり。女鹿氏開会の辞をのべ、余之に挨拶す。大小歌妓十七八人あらはれたり。数日来、山中に猿鶴を友とせし身に、これは、また急激の変化哉。安並氏はこの地の中学教員なるが、余と郷里を同じうす。三千里外、始めて相逢ふ。何となく、なつかし。余等を迎ふる長古一篇を贈らる。南部氏は、旧八戸侯の一族、俳句をよくす。余に一句を贈らる。大蘆氏は偶然汽車中にて逢ひて、盛岡より知りあひとなりたる人也。木材商となる。今は八戸唯一の煙突を有せるが、根は政治家にして、文筆の才もありと聞く。酒間、余に向ひて、

  大町に待ちし甲斐ある今宵かな

    桂の月に雲もかゝらで

 楼外の明月を見るの(いとま)もなく、酒盃の献酬に忙殺せらる。浦山老人自作の『夕ぐれに』の替歌を聞かせ申さむとて、歌妓に歌はしむ。松前追分も聞きたり。南部特有の踊りも、いろいろ見たり。中に面白く感じたるは、金山踊、数人の歌妓、円くなり、頬被りし、たすきを掛け、紅裾をあらはし、ざるをさげて、静に踊りながらめぐる。むかし鉱山の発見せられし時、始めて作りて、南部侯の御覧に入れたるものなりとぞ。

 宴を辞して馬車に乗りたるは、十二時頃なりけむ、八戸の町に入り、江渡旅館に案内せらる。第二次会終りて、大島氏去る。第三次会は、更に帳場に開かれたり。浦山老人もあり川崎氏もあり。女将、年まだ若くして、性、慧也。嬌眸、人を殺す。その緑滴らむばかりの廂髪、浦山老人の白髪白髯と、燈下に相映発す。(たわむれ)に即興の狂歌を作る。

  八戸に過ぎたるものが二つあり

    江渡の女将と浦山太郎兵衛

 浦山氏は、奥州稀有の活動家也。気力、指の端までも迸る。あまねく富源をさぐり、さまざまの事業を企て、失敗しても屈せず。巨産を傾けても顧みず。老いて、気益壮(きますますさかん)也。(ただ)に八戸の名物なるのみならざる也。

 

  一三 蛇脱穴

 

 都よりの路伴(みちづれ)なる百穂(ひやくすい)に別れ、三本木の川崎氏とも別れ、われひとり大久保徳治郎氏と共に馬車にのりて、その所有の大理石の山に赴く。其子、徳五郎氏、同じく行く。中学の一年生也。身体小にして可憐なる少年也。父は剛骨あり。子は、神経少し敏に過ぐ。対照面白し。車を通ぜざるに及びて、徒歩して其山にいたる。大理石を掘り出す様を見て、番小屋に入り、酒肴を饗せらる。昨日は紅楼、今日は山奥の掘立小屋、場所が変れば、酒の味も変りて、面白く感ぜらるゝ也。大久保氏は、長谷川英治、野呂彦太郎、福井助五郎の三氏と共に、こゝに大理石採取を企てゝ、日なほ浅し。福井助五郎氏在り。その説明する所によれば、こゝの大理石の如き大材を得るは、他に其比稀也。一箇年百萬切を採取するも、百箇年以上継続するを得べしとぞ。

 小屋を辞して、蛇脱穴にいたる。物の本にあらはれたるもの也。渓流、石灰石の大巌を貫きて流る。長さ十間、水の深さ腰を没す。洞中を水の流れ居るが、一風かはりて面白き也。更に閉伊穴にいたる。立ちてゆくを得べし。幅は、せまし。忽ち上り、忽ち下る。十間ばかりにして引返す。穴に入ると知らば、火を用意して来るべかりし也。

 馬車に迎へられて、八戸なる大久保氏の家にいたり、大に饗せらる。浦山老人も来る。爛酔して旅館にかへりしは、既に十二時を過ぎたりけむ。

 

  一四 十和田湖畔の十五夜

 

 われ八戸に二泊して、今日は立ち去らむとす。大島氏、大蘆氏、女鹿氏など来りて別を叙す。八戸駅にて、大久保徳治郎氏に別れ、尻内駅にて、浦山氏にも別れて、いよいよ一人の身となりぬ。

 余は、既に東面より十和田に上りたり。更に西面より上らむとする也。尻内駅より汽車にのりかへて、青森を過ぎ、弘前に至りて、岩木山を仰ぐ。聞く、この弘前の長勝寺に、北條時頼の造らせたる鐘あり。時頼の妾、時頼を辞し去りてこの地にて病んで死す。時頼こゝに来りて、その由を聞き、供養の為めに、鐘を造らせたる由、記して鐘に刻せりとかや。人生、涙あり。鏡裡の花、水中の月、来るものは拒まず、去るものは追はず、追はずとて、忘るゝにあらず、忘れずとて未練あるにあらず、時頼も亦涙の人なる哉。この夜、碇ケ関にやどる。

 明くれば、九月九日、旧暦の八月十五日也。再び十和田湖畔に至り、ひとり静に中秋の月を賞せむとて、心勇む。午前八時発足し、小坂銅山を経、鉛山を越えて、午後七時、銀山の旅店に投ず。この路、十二里と称す。されど、実際は十里ぐらゐのものなるべし。こゝに、唯一つの旅店あり。直に水に臨む。孵化を経営せる和井内氏の兼業とする所也。

 この夜、空くもりて、心に期せし月は見るに由なかりき。

 九月十日、銀山を発し、鉛山を経て、発荷にいたる。この路二里と称す。五戸よりする路も、三本木よりする路も、小坂よりする路も、毛馬内よりする路も、馬を通ず。湖を一周する路も、他は馬を通ずれども、たゞ鉛山より発荷迄、一里の路だけは、馬を通ぜず。路絶えて、浜の(いさご)を踏んでゆくことあり。危き処もありて、用心を要するの悪路也。

 発荷にも、唯一軒の旅店あり。これも水に臨む。就いて休息し、命じて、鱒を焼かしめ、一瓶の酒を傾けつくして、余は(つひ)に十和田湖に別れぬ。

 十和田湖に、一つの神話あり。八郎太郎といふもの、化して龍となりて住む。南祖坊霊夢のまゝに、こゝに来る。八郎の龍、怒りて戦ふ。南祖坊法力を以て之に対す。八郎終に力屈して、去つて八郎潟をつくる。南祖坊長く(ここ)に鎮す。十和田湖畔、南祖坊の祠あるは、即ちこれ也。奥羽は、古来、常に他に圧せられたり。奥羽人士は、常に八郎太郎なりき。されど、気運はうつる。今後、南祖坊たるを得るや、否やは、諸公の努力如何によりて決する也。

 発荷より一山を越えて、銚子瀑を見る。言ひわけに、水少しあれど、水力電気に利用せられたるが為め、旧観は、たゞ写真にのみ残りて、平凡なる瀧となり果てしは、大に惜むべき也。

 この夜、毛馬内にやどり、翌十一日、大館より汽車にのり秋田、山形、米沢、福島、二本松、白河、宇都宮を経て、われは、東京に帰りぬ。

 

  一五 十和田湖の特色

 

 この行、日を費すこと十八日、東より西へかけて、奥羽を一周したり。川は、阿武隈川は、之をわたりぬ。北上川は、其上流を見ぬ。最上川も見ぬ。山は南部富士の称ある岩手山、津軽富士の称ある岩木山、鳥海山、月山、いづれも奥羽第一流の名山也。就中(なかんづく)、鳥海山ひとり群を抜いて高し。奥羽の山の王也。

 されど、余の主とせるは、十和田湖の勝を探ぐるに在り。こゝに、十和田湖の勝景の大要をあげむに、『山湖』として、最も偉大なること、一也。奥入瀬の渓流の幽静、天下無比なること、二也。湖の四周の山ばかり樹のしげりたるは、他に比なきこと、三也。紅葉の美、四也。中海の断岸高く、水ふかきこと、他に比なし、五也。諸島みな岩にして、松を帯びたること、六也。奥入瀬の本流支流に、高きは松見の瀧、広きは根の口瀧を始めとし、見るべき瀑の多きこと、瀑布多しと称せらるゝ日光、塩原などの比にあらざること、七也。その他、自籠神社の危巌、御倉山の千丈幕、御門石、畳石、碁盤石、雅俗とりどりに趣味あり。げに、十和田湖は、風光の衆美を一つに集めたる、天下有数の勝地也。

 余は、十和田湖に遊びて、四通りの路を経過したり。小坂よりの路と毛馬内よりの路とを取らば、湖の一部を俯瞰するを得べし。されど、十和田湖より奥入瀬渓を取り去らば、十和田湖の勝は、その一半を失ふべし。且つ三本木より奥入瀬渓を経るの路は、最も平坦也。余は、天下、山川を愛するの士に告ぐ。必ず往いて十和田湖を見よ。往きか、帰りかには必ず奥入瀬渓を過ぎよ。同じ道を往復するを好まずは、小坂か、毛馬内か、いづれを択ぶとも、さしたる差別なし。大館より小坂銅山まで軽便電車のひらくること、近日のうちに在り。小坂より湖畔までは、凡そ四里の程也。後の遊者は、この利器によりて小坂より鉛山に来り、たゞ休屋附近を見て、奥入瀬の(しよう)を閑却するもの多かるべし。惜むべき也。

 この度の遊行のくはしきことは、別に稿を起し、百穂の画を添へて、一冊子となさむとす。こゝには、たゞ大要を略記するだけ也。

 終に臨みて、余は余を導きたる春汀に感謝し、併せて、余にいろいろの好意を寄せられたる三戸、上北二郡の諸人士に感謝する者也。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/03/30

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大町 桂月

オオマチ ケイゲツ
おおまち けいげつ 作家 1869~1925 土佐国(高知県)に生まれる。美文流行の端緒をなし紀行作家としても盛名を得た。

掲載作は1909(明治42)年4月、博文館刊の代表的紀行文集『行雲流水』より、桂月を代表して最も著名な一文を採った。この「十和田湖」は明治41年11月「太陽」に初出、その徹底した山水探勝の姿勢と雅俗混淆の趣致横溢に瞠目する。

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