十和田湖
一 五戸
本州の北に尽きむとする処、八甲田
鳥谷部
長谷川天渓も同行する筈なりしが、其児の病気の為めに果さず。
二 天満館
二十八日午前、青年会の求めに応じ、其会場に
松原宙次郎氏、脚下の人家を指して曰く、これを五戸の下町と称す。享保年間、鈴木新兵衛といふものあり。この村の水帳を預る。一悪漢金を
帰路、菊池萬之丞氏の別荘に小憩し、午後、五戸有志者の求に応じ、其会場に
松尾氏の家にやどること二夜、百穂は、諸氏の求めに応じて、扇に
三 宇樽部
いよいよ目的地たる十和田湖に赴かむとて徒歩す。三浦道太郎氏、江渡省三氏、松原宙次郎氏、春汀の弟、良太氏に、余等一行を加へて、同行七人。三浦氏は東道の主人也。江渡氏は、われら山を下らむ後、三本木に導かむとて、わざわざ来れる也。
戸来村にいたれば、小坂甚督、小坂甫三、見瀧源衡諸氏、一行を路に待ちうけ、小坂学校にて酒菓を饗す。一行求めに応じて揮毫す。休息すること凡そ三時間にして去る。牛の首峠を越ゆる頃、日暮れたり。提燈と藤の皮の
四 休屋
三十日、休屋さしてゆく。道太郎氏の子、一雄氏、從弟小平四郎氏、新に加はる。共に少年の学生也。宇樽部より休屋まで、凡そ一里、老樹しげる。桂の大木も多し。蛇麻の花黄に、冠草の花紫也。車草、こゞみの生ひたるにても、日光に遠きことは知られたり。思ひがけずも、休屋の鈴木尚信、中村秀吉、川村藤五郎三氏、男女の生徒をつれて、われらを途に迎ふ。好意は細径の草にもあらはれて、苅痕なほ
休屋は、十和田諸部落の中心点也。十和田神社こゝに在り。奇景このあたりに集る。祠官にして、兼ねて宿屋を営める織田與次郎氏の家にいたる。酒肴の饗応を受け、織田氏に導かれて出づ。十和田湖畔、杉は、唯こゝのみにありて、並木を為して長くつゞく。十和田神社に詣づ。
五 巌上の酒宴
十和田湖は、四面山に囲まる。銀山、鉛山西にあり。東にありて最も高きは十和田山。南にありて最も高きは前山。北にありて最も高きは花部山也。大日本地誌に拠るに、湖面は海抜四百五十米突、花部山は九百六七十米突なり。湖は北方最も広く、岸の出入もなくして、
三十一日朝、昨日の一行、船に乗りて、宇樽部を発す。春汀ひとり留る。持病の痔起りて出血甚しきをも顧みず、勇を鼓してわれらの為に山にのぼりけるが、この日一日は、静養せむとすれば也。十和田の景は、その熟知せる所なれば也。旧知三浦泉八氏との話も多ければ也。
御倉山の端をめぐりて中海に入り、ゆくゆく御倉半島の断崖を仰ぐ。こゝは中海の東岸也。断崖直に湖面に立ち、崖高く水深し。且つ清し。両手にてかゝゆるばかりの石を、岸より崩して水に落し、俯して之を見るに、
看て千本松に到りける時、日章旗をかげたる白帆来る。これ休屋一村の人士が余等を歓迎する也。中海の南岸は、他の奇なし。西岸は、昨日舟にて見物したり。東岸に比すれば水浅し。断崖の景致も、劣れり。直に最北端の巓に漕ぎつけて、一同之に上る。こゝに休屋一村の好意より成れる饗宴ひらかれたり。主人側は、織田與次郎、中村春吉、鈴木尚信、川村松五郎、栗山政治の諸氏也。主賓うち解けて、快く酔へり。こゝを中山崎と称す。この半島全体を小中山と称す。中海と西海とを隔つる小連峯也。宴罷んで、一同、休屋の舟にのりて、中海と別る。中海は、凡そ一方里。北は湖心に連り、東西南の三方は断崖と蒼樹とに取り囲まれたる、別天地中の別天地也。
西海に入りて、東岸近く舟を進む。忽ち、どぶんと水に入るものあり。祠官の織田氏也。主、既に
薄暮、織田氏の家に至る。江渡省三、鳥谷部良太、小平四郎、三浦一雄の四氏は、宇樽部さして歩して帰る。三浦道太郎氏、松原宙次郎氏、百穂及び余は、織田氏の好意のまゝに、その家にやどる。夜、宴また開かる。
六 畳石
明くれば、九月一日也。三浦氏一族の二少年、宇樽部より来る。織田氏を辞して、共に舟に乗り、追手といふ処に致り、和井内貞行氏の孵化場を見る。今は、孵化の時期にあらず。酒精漬の標本あり。卵より魚の形を成すまでの順序、精しく示さる。和井内氏は、カバチエポと称する北海道の鱒をとりよせて、茲に養殖すること年あり。この湖の水、このカバチエポに適すと見えて、生長の
舟を湖の中心に出す。浪、荒し。
薄暮、三浦氏の家にかへれば、江渡氏と春汀兄弟とはあらず。この朝、三本木方面さして、山を下り、蔦温泉にてわれを待ちあはさむとする也。
七 花部山
九月二日、われらは、下りて、蔦温泉に春汀等と相会せむと期したるものゝ、われ新に一動議を起しぬ。われらは、幾んど残る
松原宙次郎、小平四郎の二氏は、別れて、五戸に向つて去りぬ。三浦道太郎氏父子、百穂、及び余の四人、舟に乗りて湖の東北隅の青ぶなといふ処に上陸す。こゝに牧場あり。群羊、湖畔に眠る。番小屋に至り、湯をわかし、午食して発足す。舟夫二人、その一人導を為す。凡そ三十町、湖岸をはなれて山に上る。牧牛の往来する処、自然に路を成して歩きよかりしが、山骨の
此日、濃霧の為めに、眺望を得る能はざりしかど、十和田湖を見下す処を花部山と定めたる考だけは誤らざるべしと確信する也。
八 奥入瀬の渓流
三浦氏父子に優待せられて宇樽部に宿ること四夜、休屋一村の好意をうけて休屋に宿すること一夜、都合五夜にしてわれは、この趣味多き十和田湖を去りぬ。九月三日也。道太郎氏父子、百穂、及び余の四人、一人の男、荷物をもちて従へり。途に小笠原圓吉、太田吉司二氏の蔦温泉より来り迎ふるに逢ふ。昨日も迎へに宇樽部まで来りて、空しく帰りし也。
湖水の川となりて流れ出づる処を根の口と称す。この流を
川畔に、大石自然に屋となりて、十数人を容るゝに足るものあり。太田氏曰く、これ鬼神お松の潜みし処なりと。
奥入瀬川も、蔦川を入れてよりは、普通の川となる。こゝには危橋あり。猿橋と称す。斜に生へたる大木を利用し、その木の
蔦川の左岸を上ること半里、通天橋をわたりてゆくこと又半里にして、蔦温泉にいたる。午後八時也。春汀兄弟は、既にあらず。江渡省三氏ひとり留りて、われを待てり。法奥澤村の村長、小笠原耕一氏も、わざわざ来りて我を待ち、酒肴を饗せらる。この温泉は、氏と小笠原圓吉氏との経営する所に係る。この頃、家を建増し、路を普請して、三本木より人力車を通ずるやうにせり。泉質は、塩類泉也。
九 松見の瀑
太田吉司氏は、体格強壮無比、脚殊に健也。このあたりの山々、足跡の及ばぬ隈もなし。数日の糧をもちて、ひとりにて行くこともしばしば也。『山の神』と称せらる。日に何里あるけるかと問へば、五里ぐらゐなりといふ。如何に『山の神』とは云へ、げに、さもあるべし。路のなき嶮山を五里もゆくは、平地を十五里ゆくよりも困難也。太田氏曰く、このあたり瀧多し。見るに足るべきの瀧、二十に下らず。
蔦温泉に一夜とまりて、明くれば雨也。太田氏曰く。松見の瀑へゆくには路なし。渓流を徒歩すること四十回、水増せば、往くべからず。この雨にては危険也。明日にのばされよと。さらば、仕方なし。郷に入つては、郷に従へ、山に入りては、唯『山の神』の命令を奉ずべしとて、其言に従ふ。春汀の待ちわぶることは察せざるにあらざるも、この行、十和田の風光を探ぐるを主とせることは、春汀も承知の上なれば、われは、主とする所に従ひて、春汀に
午前十時に至りて、『山の紳』又来りて曰く、この模様ならば、往かるべし。雨を衝くの勇ありや、否やと。大に有りとて起つ。百穂が恵与の真綿を背中に入れ、綿入を貸りて着、頭には、『ばをり』を
路なき山を幾度か上下して、黄瀬川の渓流に出でたるまでに、一時間半かゝりぬ。こゝよりは、太田氏の云ひし如く、四十回、黄瀬川を徒渉する也。左岸に瀧多し。その中にて、鍋倉の瀑といふは、はじめ二丈ばかり奔流し、直ちに噴水の如く、斜に飛び上り、三丈ばかりにして巌壁に当りて、五六丈の懸崖を瀉下す。素人受けのする奇瀑也。
小石の洲ありて、水、左右に流る。こゝを御所河原と称すといふ。名が面白しとて、休息して、酒し、飯す。一瓶の酒なほ余る。瀧壷まで持ちゆかむかといふ。いやいや、瀑を見るに、酒なかるべからずなどいふは、まだ風流の半可通なるものなりとて、荷物は、すべて、こゝに置きて、また上る。
松見の瀑、一に黄瀬の瀑とも云ふ。一山全く骨を
午後七時十五分、温泉の宿にかへる。午食に三十分、瀧壷に十分休息し、正味八時間半は、少しも休息することなく、歩き通しに歩きたるが、里程は、わづか往復四里ぐらゐなるべし。
一〇 三本木
九月五日、朝早く起き出でゝ、一二町へだゝれる湯沼に赴く。くりぬき舟あり、棹もありたれば、棹してゆく。水は澄みたり。底は粘土らしく、棹しても濁らず。鯉や金魚の泳ぐを見る。林の山、四面を囲み、幽禽相和して鳴く。沼のひろさ七町、霊泉に加ふるに、この神仙の苑あり。唯、地僻なるが為めに、世に知るもの稀也。
三本木へとて、出で立つ。耕一氏の父幸七氏、叔父善吉氏門に送る。子の新吾氏、東北学院の学生なるが、余等と共にす。『山の神』も共にす。一人の男、一行の荷物を負へり。われ、春汀との約に
思ひがけずも、法奥澤村の有志者、われらを路に要し、一亭に
こゝにて、春汀の書に接し、はじめて、天渓の児の病死を知る。迎ひの馬車にのりて三本木にいたる。『山の神』なほ在り。安野旅館に投ず。六日ぶりにて、春汀と相逢へる也。
この夜、一心亭に催せる三本木有志者の歓迎会に赴く。堺三木人、川崎新兵衛、岩館精素、大島市太郎の四氏発起人となり、畜産学校の校長高尾角次郎氏、その教員の佐藤、木場、板持、佐藤、久嶽氏、開墾会社々長の杉山克己氏、その社員の一戸義昂氏、その他、土屋廣氏、波岡喜代松氏等、之に我等の一行、三浦氏、江渡氏、『山の神』も加はりて、凡そ二十余人相会す。岩館氏歓迎の詞をのべ、余之に答ふ。大に飲む。女中の外に、二三人の歌妓をも見うく。久嶽氏は、同郷の人にして、第一高等中学校時代の学友なるが、幾んど二十年ぶりにて相逢へる也。
一一 太素塚
三本木、今は可成りの都会なるが、四五十年前までは、家はなかりき。実に安政年間、南部藩士、新渡戸傳氏の開拓する所に係る。一偉人と云ふべし。其長子、十次郎氏も、政治家の器也。父を助けて、其業を大成せり。今の新渡戸博士は実に、その十次郎氏の子也。余等を歓迎せられたる堺三木人氏は、傳氏の季子也。容貌態度、西園寺侯に似て、長者の風あり。新渡戸博士が英文の日本武士魂を著はして、日本武士の為めに、気を吐きたるも、思へば家庭の素因の深き哉。
九月六日、朝早く、畜産学校々長、高尾角次郎氏に案内せられて、
畜産事務所の側に、太素塚あり。これ実に偉人新渡戸傳氏を葬れる処なり。左に小
春汀は、余が空しく三日待たせたるにもより、その他いろいろの事情にもよりて、八戸の有志者の歓迎会に赴くを得ず。余、百穂と共に赴く。待ち設けられし春汀は行かず、天渓は旅に上るを得ず、文人にては、われひとり行く。八戸人士の失望は、いかばかりなりけむ。春汀と別る。この日頃、迎へられ、案内せられ、又送られし三浦、江渡、太田の三氏とも別る。われ謹んで諸氏の好意を感謝す。
乗合馬車にのりて、三本木を去りぬ。大島氏は途まで送らる、岩館氏は古間木駅まで送られ、一亭の楼上に小酌して別る。川崎新兵衛氏は、なほわれら二人を送つて、同じく汽車に乗る。
一二 物見岩
八戸は、もと南部支藩のありたる処、人口二万、盛岡以北、陸奥東部唯一の大都会也。陸には汽車つゞき、海には鮫港をひかへたり。新聞二つあり。『はちのへ』と云ひ、『奥南新報』といふ。町にて一寸人の目につくは、三日町、六日町、廿日町など、日数を名に負ひたる町の多きこと也。
尻内駅に下れば、浦山太郎兵衛氏来り迎ふ。『はちのへ』新聞の主筆、女鹿左織氏、取締役の大島勝三氏、奥南新報杜長の關野重三郎氏、印刷会社長の浦山十五郎氏、書肆の伊藤富三郎氏なども来り迎ふ。八戸駅を過ぎて、港駅に下り、更に乗合馬車に乗る。三本木よりの余等三人の外に、浦山氏と大島氏と同じく乗る。大島氏は、前日、わざわざ三本木までわれらを迎へに来りて、空しく帰りたる由也。
鮫港の人家つくる処にて、馬車を下り、物見岩さしてゆく。洋服の一紳士、遠目鏡を肩にかけて来る。北村益氏とて、八戸の町長、『はちのへ』新聞の杜長、その他三十余種の長をかねたる、八戸第一流の富豪なりとぞ。
鮫港は、蕪島を前に控へて、風致あり。物見岩の眺望に至つては、実に雄大を極む。草ばかりの広く長き岡が海に突出したるも、既に
鮫港第一の旅館石田旅館に小憩し、また馬車にのりて、小中野の萬葉亭にいたる。北村益、橋本八右衛門、女鹿左織、内田與兵衛、大久保徳治郎、石橋源三郎、安並正晴、、米田宇兵衛、南部興寧、福士協助、伊東嘉平、大久保忠一、夏堀源一郎、戸田利三郎、大蘆梧楼、關野重三郎、福田男児、永井正三郎、浦山十五郎、伊藤富三郎、大島勝三、前田利貞諸氏之に例の浦山老人も加はり、三本木の川崎氏も加はりて、盛宴開かれたり。女鹿氏開会の辞をのべ、余之に挨拶す。大小歌妓十七八人あらはれたり。数日来、山中に猿鶴を友とせし身に、これは、また急激の変化哉。安並氏はこの地の中学教員なるが、余と郷里を同じうす。三千里外、始めて相逢ふ。何となく、なつかし。余等を迎ふる長古一篇を贈らる。南部氏は、旧八戸侯の一族、俳句をよくす。余に一句を贈らる。大蘆氏は偶然汽車中にて逢ひて、盛岡より知りあひとなりたる人也。木材商となる。今は八戸唯一の煙突を有せるが、根は政治家にして、文筆の才もありと聞く。酒間、余に向ひて、
大町に待ちし甲斐ある今宵かな
桂の月に雲もかゝらで
楼外の明月を見るの
宴を辞して馬車に乗りたるは、十二時頃なりけむ、八戸の町に入り、江渡旅館に案内せらる。第二次会終りて、大島氏去る。第三次会は、更に帳場に開かれたり。浦山老人もあり川崎氏もあり。女将、年まだ若くして、性、慧也。嬌眸、人を殺す。その緑滴らむばかりの廂髪、浦山老人の白髪白髯と、燈下に相映発す。
八戸に過ぎたるものが二つあり
江渡の女将と浦山太郎兵衛
浦山氏は、奥州稀有の活動家也。気力、指の端までも迸る。あまねく富源をさぐり、さまざまの事業を企て、失敗しても屈せず。巨産を傾けても顧みず。老いて、
一三 蛇脱穴
都よりの
小屋を辞して、蛇脱穴にいたる。物の本にあらはれたるもの也。渓流、石灰石の大巌を貫きて流る。長さ十間、水の深さ腰を没す。洞中を水の流れ居るが、一風かはりて面白き也。更に閉伊穴にいたる。立ちてゆくを得べし。幅は、せまし。忽ち上り、忽ち下る。十間ばかりにして引返す。穴に入ると知らば、火を用意して来るべかりし也。
馬車に迎へられて、八戸なる大久保氏の家にいたり、大に饗せらる。浦山老人も来る。爛酔して旅館にかへりしは、既に十二時を過ぎたりけむ。
一四 十和田湖畔の十五夜
われ八戸に二泊して、今日は立ち去らむとす。大島氏、大蘆氏、女鹿氏など来りて別を叙す。八戸駅にて、大久保徳治郎氏に別れ、尻内駅にて、浦山氏にも別れて、いよいよ一人の身となりぬ。
余は、既に東面より十和田に上りたり。更に西面より上らむとする也。尻内駅より汽車にのりかへて、青森を過ぎ、弘前に至りて、岩木山を仰ぐ。聞く、この弘前の長勝寺に、北條時頼の造らせたる鐘あり。時頼の妾、時頼を辞し去りてこの地にて病んで死す。時頼こゝに来りて、その由を聞き、供養の為めに、鐘を造らせたる由、記して鐘に刻せりとかや。人生、涙あり。鏡裡の花、水中の月、来るものは拒まず、去るものは追はず、追はずとて、忘るゝにあらず、忘れずとて未練あるにあらず、時頼も亦涙の人なる哉。この夜、碇ケ関にやどる。
明くれば、九月九日、旧暦の八月十五日也。再び十和田湖畔に至り、ひとり静に中秋の月を賞せむとて、心勇む。午前八時発足し、小坂銅山を経、鉛山を越えて、午後七時、銀山の旅店に投ず。この路、十二里と称す。されど、実際は十里ぐらゐのものなるべし。こゝに、唯一つの旅店あり。直に水に臨む。孵化を経営せる和井内氏の兼業とする所也。
この夜、空くもりて、心に期せし月は見るに由なかりき。
九月十日、銀山を発し、鉛山を経て、発荷にいたる。この路二里と称す。五戸よりする路も、三本木よりする路も、小坂よりする路も、毛馬内よりする路も、馬を通ず。湖を一周する路も、他は馬を通ずれども、たゞ鉛山より発荷迄、一里の路だけは、馬を通ぜず。路絶えて、浜の
発荷にも、唯一軒の旅店あり。これも水に臨む。就いて休息し、命じて、鱒を焼かしめ、一瓶の酒を傾けつくして、余は
十和田湖に、一つの神話あり。八郎太郎といふもの、化して龍となりて住む。南祖坊霊夢のまゝに、こゝに来る。八郎の龍、怒りて戦ふ。南祖坊法力を以て之に対す。八郎終に力屈して、去つて八郎潟をつくる。南祖坊長く
発荷より一山を越えて、銚子瀑を見る。言ひわけに、水少しあれど、水力電気に利用せられたるが為め、旧観は、たゞ写真にのみ残りて、平凡なる瀧となり果てしは、大に惜むべき也。
この夜、毛馬内にやどり、翌十一日、大館より汽車にのり秋田、山形、米沢、福島、二本松、白河、宇都宮を経て、われは、東京に帰りぬ。
一五 十和田湖の特色
この行、日を費すこと十八日、東より西へかけて、奥羽を一周したり。川は、阿武隈川は、之をわたりぬ。北上川は、其上流を見ぬ。最上川も見ぬ。山は南部富士の称ある岩手山、津軽富士の称ある岩木山、鳥海山、月山、いづれも奥羽第一流の名山也。
されど、余の主とせるは、十和田湖の勝を探ぐるに在り。こゝに、十和田湖の勝景の大要をあげむに、『山湖』として、最も偉大なること、一也。奥入瀬の渓流の幽静、天下無比なること、二也。湖の四周の山ばかり樹のしげりたるは、他に比なきこと、三也。紅葉の美、四也。中海の断岸高く、水ふかきこと、他に比なし、五也。諸島みな岩にして、松を帯びたること、六也。奥入瀬の本流支流に、高きは松見の瀧、広きは根の口瀧を始めとし、見るべき瀑の多きこと、瀑布多しと称せらるゝ日光、塩原などの比にあらざること、七也。その他、自籠神社の危巌、御倉山の千丈幕、御門石、畳石、碁盤石、雅俗とりどりに趣味あり。げに、十和田湖は、風光の衆美を一つに集めたる、天下有数の勝地也。
余は、十和田湖に遊びて、四通りの路を経過したり。小坂よりの路と毛馬内よりの路とを取らば、湖の一部を俯瞰するを得べし。されど、十和田湖より奥入瀬渓を取り去らば、十和田湖の勝は、その一半を失ふべし。且つ三本木より奥入瀬渓を経るの路は、最も平坦也。余は、天下、山川を愛するの士に告ぐ。必ず往いて十和田湖を見よ。往きか、帰りかには必ず奥入瀬渓を過ぎよ。同じ道を往復するを好まずは、小坂か、毛馬内か、いづれを択ぶとも、さしたる差別なし。大館より小坂銅山まで軽便電車のひらくること、近日のうちに在り。小坂より湖畔までは、凡そ四里の程也。後の遊者は、この利器によりて小坂より鉛山に来り、たゞ休屋附近を見て、奥入瀬の
この度の遊行のくはしきことは、別に稿を起し、百穂の画を添へて、一冊子となさむとす。こゝには、たゞ大要を略記するだけ也。
終に臨みて、余は余を導きたる春汀に感謝し、併せて、余にいろいろの好意を寄せられたる三戸、上北二郡の諸人士に感謝する者也。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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