(承前) 近世の文藝は古代の単純調和的文藝とは違つて兎角中正な円満なものは稀で、大抵皆一方に偏跛に発展して居る。啻に文藝のみならず学問でも宗教でも徳義習慣でも総て社会組織が皆夫々偏跛の方向に分化して発達して居る。夫れが近世文明別しては十九世紀文明の一大特色である。是はどうも人文発展上寔に不得已事で社会が進化すれば進化する程其活動の形式が益々複雑になり多様になり偏跛になり専門的になる。勿論さういふ分化の作用と同時に又総合作用が働いて差別が多くなれば多くなる程、夫れを益々広く大きく総合する働きがある。併し此総合と云ふ事は決して幼稚の社会事物の様な単純無差別の統一ではなく複雑差別に伴ふ関係の統一である。夫れ故若し単に偏跛であるといふ点を以てロマンチックを批難するならば同じ論法を以て近世の文明全体を批難しなければならない、さう云ふ眼光で睨むだならば今の文明の諸現象に一つとして健全のものは無い。皆病的である衰亡的といはなければならない。尤もまさしくさう云ふ点から観察を下して近世文明を挙げて排斥するものもある。今日の複雑な社会を打破して簡朴無為の太古の状態に復帰せしめようとする者も有る程なれば、さう云ふ見地に立つてロマンチックをも批難することは差支ない其人の勝手である。然し若し所謂人文発展と云ふことに吾人が希求すべき最大の価値があるといふことを許し、さうして又人文発展の為には分化と云ふことが不得已順序であるといふことを認める人はロマンチックの偏頗を咎める訳には行かない。
是までは社会現象を主としてスタチッシュ(静的)に観察して分化——従つて偏頗といふことは社会進化に免かる可らざる要件であると云ふ議論からロマンチックを回護して見たが、今度は少し観察を変へてヂュナミッシュ(動的)に社会発展の順序を考へ其方から研究したならば此問題が一層明了になると思ふ。ロマンチックを非難する人は斯う云ふかも知れない、どうも社会の事物は兎角極端から極端に走つて行く弊がある、或方向に発達して其極端に進むといふと夫れを全く打壊して又新規に発達を始める、拵へては壊はし壊はしては作り、始終同じ運動を反覆するが、夫れは甚だ好くない事である。夫故もし或事物が極端に走つて弊害が起つたならば夫れを破壊せずに徐々と修正して逆戻し為て、中正の道へ据ゑ直せば宜い。へーゲルは事物発展の順序を、正、反、合、と三に分けたが其反は抜きにして、正から一足飛びに合に進む工夫をするのが社会万事を所置する至当の方便である。然るにロマンチックは擬古主義や自然主義を全然破却して其反対の極端に進むので、是は発展の正当の順序を誤まつて居る故宜くないといふ様に批難する。此批難は急進家に対する漸進論者の慣用の論法で其中には確に幾分の真理を含むで居るに違ひないが、社会の事物は様々で、漸進で改良される事もあれば急進で破壊しなければならぬものもある。杓子定規に同じ方法で遣り通す訳には行かない。それで他の場合はいざ知らず、此処で問題になつて居る文藝の発達といふことに付いては、少なくとも其発達の大局に関しては、漸進とか改良とか云ふ文字は全く悪意気の事である。何故かと云へば文藝製作の第一義は空想と情熱の自然の活動であつて、規則や形式に拘泥するは第二義に落る。意志で左右する事も出来ず、理屈で修正する事も出来ない、所謂天才の無意識作用が文藝発展の積極的方針を決定するのであつて、規則や練習で補つて行く所はずつと枝葉の点である、それ故漸進とか改良とか云ふ手段は趣味の養成や又は技術の練磨などゝ云ふ文藝発達の第二要件に付ては甚だ適切である。けれども其大体傾向の移り変りの上まで夫れを応用するのは見当違ひの話である。所詮或文藝が一旦其発達の極端まで進むで停滞する様になつたならば、夫れを漸々修正するといふ事は出来ない全然破壊するより外仕方がない。勿論ロマンチックでも決して新規に規則なり方法を設けてそれに依つて積極的に新文藝を作り出すと云ふ考はない。畢竟ロマンチックが旧文藝に反抗して破壊を主張するといふのは、是れまでの極端に走つた弊害を除いて即ち旧形式の束縛や偏頗な趣味の障碍などを打壊して仕舞つて天才のために地ならしをするのである。天才が出て来た時分に掣肘束縛を受けず充分自己の技倆を発揮して積極的建設の出来る様な用意をするのである。ロマンチックが起つて文藝の革新を呼ばはつたり破壊を主張するといふ真意は全く其処にあるので、決して夫れを以て文藝発達の当然の順序を誤つてゐる事と批難する事は出来ない。
是まで話した事を約めて言へばロマンチックは偏頗の傾向であり極端の発展であるけれども、夫れは文藝の発達上已むを得ざる事で文藝が最早単調の時期を過ぎて漸々複雑多様になる時には、別してロマンチックに反対の傾向が即ち擬古派自然派などが其極端に流れて全く活気を失つた場合には其反動として是非ともロマンチックが起つて来なければならない。夫れを病的或は衰亡的文藝など云ふのは全く歴史を知らない手前勝手の妄論である。さういふ風にロマンチックも一種の文藝傾向として全く健全であり正当の発達であるとすれば、夫れを生み出す社会も決して始めから病的とか滅亡的と断定する事は出来ない。実際ロマンチックは衰微社会から起つた例もあれば又繁昌の国家が生み出した事もある故、単にロマンチックが出来たといふ事実を捉へて真に其社会を攻撃すべき理由はない。さうして見れば必竟ロマンチックに対する病的と云ふ批難は作家には当て嵌まるけれども、文藝其物と其れを生み出す社会には当て嵌まらない。矢張ロマンチックも文藝史上、人文史上相応の価値を有する健全な正当の傾向潮流であつて其発展の為め個人が犠牲となつて病的不健全の作家の沢山出来るのは、寔に其人々に取つては気の毒の次第なれども夫れは社会発達の常則であれば何とも仕様はない。
夫れでロマンチックの価値の話を終つたのであるが、此議論即ちロマンチックの為の解嘲と云ふものは全く人文発達論の一点張で押通して、倫理上や宗教上の観察は勿論、狭い意味の美学上の観察も殊更夫れを避けたのである。即ちロマンチックは其材料なり思想なり又様式を見ても又其革命主義といひ、破壊主義といひ天才主義、個人主義といひ、乃至文藝独立主義、美的生活論又は傾向主義といひ何れも皆偏頗極端であるけれども、文藝発達上已むを得ざる事で非難は出来ないと論断した。さうして其個人主義が道徳に不利であるとか、また美的生活論が教育に害があるとか、乃至は美学上、超然主義と傾向主義の得失如何などゝいふ事には一言も論及しなかつたが、夫れは只時間の不足なる為ばかりでなく他に大に理由がある。元来ロマンチック抔の様な文藝史上、従つて人文史上極めて重要の事件に附て其功過を論ずる時には、先第一社会学的——人文史的——歴史哲学的観察点から立論して、即ち人文発達の大勢上から観察して其大局に附ての断案を下さなければならない。其上で特殊の方面——美学上倫理上宗教上抔から観察して細目の議論をするもよい。始めから区々たる独断美学の法則などを標準として夫れでロマンチックの功過を量らうとすれば到底議論が正鵠に当る気遣ひはない。例へば仏国革命の功過を論ずる時に当つて革命の為め百万の生霊が塗炭に苦しんだと云ふ様な廉を楯にとつたり、又近くはニイチェ主義を批難する時に其信者の一人なるある大学生がプロフェッソルの夫人に無礼を加へたとか云ふ様な二三の事実を論拠として(二三年前独逸某新聞の論評)夫れで直に全体を論断するのと同一で到底さう云ふ豆小見識では史的現象の批判は覚束ない。
さう云ふ風に文藝発達上場合によりては是非ともロマンチックが起つて来なければならないものとして、さて日本の文藝の現況は何うであるか、大にロマンチックを鼓吹しなければならぬ必要があるかと云ふに、是迄説明した理由丈から考へてはどうしても夫程の必要があらうとは思はれない。現在日本で写実主義とか偏理主義とか或は擬古主義とかいふ様な者が非常に盛であるとは謂はれぬ。決して夫れが極端に走つて弊害が起つて居るなどゝ云ふ程に発達しては居らない。さうして又一方にはロマンチックと云ふものが現に日本に存在して居る。前年文学界とか云ふ雑誌があつて此主義を鼓吹した事があり、又露伴の小説も余程ロマンチックの所があつたと覚えて居る。今では鏡花の小説が一種のロマンチックの好標本であるが、其点から鏡花を批難する評家は多いけれども却て夫れを賞美する読者もある。それから又和歌の方では明星派の人達が矢張りロマンチックを頻りに鼓吹して居る。その連中の歌の題目内容に付ては随分世間に批難の声が喧しいが形式上革新の点は公平の批評家は大抵一致して認めて居る。さういふ事情である故ロマンチックの反対の趣味なり弊害が今日の文藝界に決して甚だ著しいとは謂はれない。実際已にロマンチックに傾いて居る者も多いので、何時でも天才が出さへすれば夫れを歓迎する用意は充分出来て居る。夫れ故何も今更喧しくロマンチックを鼓吹するといふ必要は全く無いと思はれる。併しさう云ふ現況である云ふ事が、少し是迄と違つた観察点——日本に特殊な理由から考へると、大にロマンチックを鼓吹しなければならぬ原因になるものである。
其理由は文藝には限らず学問にも当嵌る。又或度までは目下の道徳宗教や社会問題に就ても当嵌まると思ふが、一体近頃の日本国民の精神的生活と云ふものには色々弊害があるが殊に著しいのは、兎角其精神生活なり精神潮流といふものが浅薄である、皮相であると云ふ欠点がある。それは随分人のいひ古した事で、或人は日本国民の性質が元来軽躁である浮薄であるから仕方がないと云ふ者もあるが、夫れは多少国民の性格にさういふ短所があるとしても重なる原因は歴史的の事情であらうと思ふ。又何うか左う有れかしと願ふのである。其訳は日本では維新以来僅か三十年余りの間に一方には日本固有の従来の精神的発達を相応に維持しつゝ、それと同時に外国から色々の主義なり傾向を沢山輸入して居る。さうして其舶来の主義なり精神なり又傾向潮流と云ふ様な者は、大抵過去何百年の間欧羅巴人が有らゆる国民的経験——危機、革命、戦争抔様々の経験を重ねて漸く理解し会得した結果である。それを日本では僅か二三十年の中に、然し国粋保存の片手間ですつかり輸入したのであつて、日本国民の吸収力消化力の著大なる事は如何にも感服の外は無い。然しさう僅かの間に沢山の事物を注入したのであるから其結果として何の事物も丸呑みである。皮相の摸倣に過ぎない、充分に咀嚼し消化し会得し体験して真に我物と成つた者は幾許もない。主義でも傾向でも西洋から波及して日本に這入つて来ると、もう極微弱になつて、ほんの眼先鼻先を掠め通る丈で真に国民の意識に透徹して根本的に其精神生活を攪動したといふ様な例は少ない。尤も外国の影響は夫れでも差支へない。其代りに日本固有の精神生活が盛に波を揚げて居りさへすれば少しも気遣ふ事はないが、然しそれが甚だ覚束ない。在来の宗教や道徳など兎角萎靡して振はないで、さうして外国の事物といへば大方浅薄皮相の摸倣のみがあるといふは決して喜ぶべき現象でない。併し是れは日本に限らず一般に摸倣文明の欠点である故、是迄の所は何とも咎められない。けれ共近頃はもう国民の精神生活が余程落着て来て外国の輸入も以前の様に頻繁でなくなつて来たから、是から漸々顕はれて来る主義とか傾向とかいふものは舶來であらうが日本出来であらうが、何れにしても従来の様な皮相な浅薄な一時限りの者ではいかない。もつと真摯に沈着に国民の意識に徹底する様でなければならぬ。然るに是迄の歴史的関係が第一原因になり夫れに幾分か所謂国民の性格も手伝つて、矢張今でも相変らず軽躁で突飛で妄動して持久がない。夫れだから或外国人は日本の精神界には流行はあるが傾向もなく潮流もないと冷評した。是は国家の前途の為め甚だ憂ふべき事である。さう云ふ弊害をもし幾分か人為で矯正する事が出来るとしたならば其方法は私の考では、何でも違つた主義なり反対した傾向を盛に鼓吹して双方を衝突させる競争させるのが一番宜いと思ふ。例へば極弱い意久地の無い人に向つて、貴様はもつと強くなれと幾ら側から勧めた所で勇気の出る気遣はない。けれども其男に此方からずつと突掛つてわざと喧嘩吹つ掛けたならば随分弱虫でも怒つて抵抗し様とする。さういふ経験が重なるうちには自然意地も募り勇気も出て来るに相違ない。国民の軽佻浮薄な習慣を矯めるのも矢張り夫れと同じ方法で反対の潮流にどしどし競争させるより外に道は無いと思ふ。夫れ故ロマンチックが特別に優勝の文藝であるから其れを主張するといふ訳ではないが、従来の文藝壇には此処にロマンチックが居れば、其隣には自然派が居る又其向には擬古派も居るといふ様に割合に睦ましく(主義上)して其くせ何れの傾向も捗々しく気焔が昂らないと云ふ有様であるから、いつそ色々の傾向を互にけし掛けて競争させたならば却て文藝全体の発達の為めに宜からうと思ふのである。尤も是れは所謂平地に風波を起すので、国民の弊習矯正の権道である故用ひ過せば危険があるかも知れない。要するに国民の身体的生活即ち、経済上とか軍事上とか又政治上の生活と謂ふ様な方面を動揺する様になつては甚だ危険である故、其憂のない限り、精神生活の方は——少なくとも文藝界や学術界では盛に競争をして色々の主義や傾向が互に反対し衝突したならば、自然精神生活が豊富になりまた精神潮流が漸々強くなり深くなり大きくなつて、皮相浅薄の弊が無くなつて行くだらうと思ふ。よしさういふ結果は収められないでも少なくとも其競争や反対が世間の注意を惹き一般の視聴を聳かす間は、畢竟夫れ丈国民の意識を空々寂々の境界より呼起し若しくは他の陋劣の事物より奪ひ取つて精神的問題に集注するのである故夫れのみにても已に幾分の利益あるに違ひない。希臘の哲人ヘラクリットの云つた言葉に「競争は万物の父である」と云ふ事が有るが、是は余程味のある言葉で別して今日日本の精神界には頂門の一鍼であらうと思ふ、尤も夫れに添へて尚ほ一つ警告して置かねばならぬ事は、競争をする時は決して個人といふ考を交へてはならない。主義に党し傾向に党しても決して人に党すべからず、主義や傾向に党すれば其主義傾向が益々明了になり強固になつて、根底を深くするけれども人に党すれば人間が益々偏狭になり卑劣になる計だ。然し日本では不幸にして此人に党するといふ事が現今の文藝界なり学術界の通弊に成つて居る故、先づ其弊を打破して専ら主義のため傾向のために盛に競争する様にならなければならぬ。さういふ考から私は此頃新ロマンチックといふ事を唱へ出した人達に同情を表するので、其反対の写実派や旧派の人々も此反対に激して一層其主張を固め其特色を発揮する事を、同じ熱心を以て希望する。
Der Krieg ist der Vater aller Dinge.——Heraklit
(明治三十五年四月「太陽」)