自叙伝(抄)
「それぢや歩いて行かうぢやないか」と僕は云ひ出した。「君等の中の一人が真先きに歩くんだ。其の足あとを伝つて僕が真ん中になつて行く。其のあとへ又、君等の一人が
俥夫等は此の提案を喜んだ。
「わしらだつて、うちのお神さんや奥様とお約束して、なあに大丈夫でさあつて引受けて来たんですからね。今更とても駄目でしたつておめおめ帰れもしませんよ。」
そして彼等は急いで其の
が、道は遠いのだ。北越線の一番近い停車場の
ちやうど新発田と新津との中間の、
しかし、其の一軒家で大きな
そして夕方近い頃に、一番の汽車に間に合ふ筈であつた新津に、漸く着く事が出来た。
東京に着くと直ぐ、(編注・一九○二 明治三十五年一月)僕は
若松屋と云ふ其の下宿には、幸ひに、奥の方に四畳半の
かうして僕は、東京に着く早々、何もかも忘れて夜昼たゞ夢中になつて勉強してゐた。
が、何よりも僕は、僕にとつての此の最初の自由な生活を楽しんだ。直ぐ向ひには監督であり保證人である大尉がゐるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしい事を云ふのでもなし、又僕の生活に就いて何一つ訊いて見ると云ふのでもなかつた。僕は全く自由に、たゞ僕の考へだけで思ふまゝに行動すればよかつたのだ。
東京学院にはひつたのも、又仏蘭西語学校にはひつたのも、僕は自分一人できめた。そして大尉や父にはたゞ報告をしただけだつた。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが始めてであり、そして其後もずつと此の習慣に従つて行つた。と云ふよりも
僕は幼年学校(編注・名古屋の陸軍幼年学校)で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも
三
けれどもやがて、此の自由を憧れて楽しむ気持が、たゞ自分一人のぼんやりした本能的にだけではなく、更にそれが理論づけられて社会的に拡張される機会が来た。ごく偶然に其の機会が来た。
僕は其頃の僕の記憶の一断片に就いて、嘗て「乞食の名誉」の中の一篇「
――僕が十八の年の五月頃だつた。(或はもう二三ケ月か、もつとあとの事かも知れない。)まだ田舎から出たてのしかも学校の入学試験準備に夢中になつて、世間の事なぞはまるで知りもせず、又考へても見ない時代だつた。僕は牛込の矢来に下宿してゐた。或る寒い日の夕方、其の下宿にゐた五六人のW(早稲田)大学の学生が、どやどやと出て行く。そとにも大勢待つてゐるらしいがやがやする音がする。障子をあけて見ると、例の房のついた四角な帽子をかぶつた二十人ばかりの学生が、てんでに大きなのぼり見たいな旗だの
――「もう遅いぞ。駈足でもしなくつちや間に合ふまい。」
――「あゝ、しかし其の方が却つていゝや。寒くはあるしそれに此の人数でお一二、お一二で走つて行けば、随分人目にもつくだらう。」
――「さうだ。駈足だ! 駈足だ!」
――皆んなは大きな声で掛声をかけて元気よく飛んで行つた。其時の「Y(谷中)村鉱毒問題大演説会」と筆太に書いたのぼりの間に、やはり何か書きつけた高張りの赤い
――Y村問題は直ぐに下火になつた。今考へて見ると、ちやうど其頃が此の問題に就いて世間が大騒ぎした最後の時であつたのだ。従つてY村に就いての僕の注意も一時立消えになつた。しかし此の問題のお蔭で、僕はY新聞のD(幸徳秋水)やS(堺利彦)、M(東京毎日)新聞のK(木下尚江)、W大学のA(安部磯雄)などの名も知り、同時に又新聞紙上のいろんな社会問題に興味を持つやうになり、殊にDやSなどの文章に大ぶ心を引かれるやうになつた。そして其の翌年の春頃には、学校で「貧富の
――僕ばかりぢやない。更に其の翌年、DとSとが其の非戦論のためにY新聞を出て一週刊新聞(平民新聞)を
これは谷中村の鉱毒問題に就いて書いたものの中の一断片だ。従つて、勿論其の中には
僕はたゞ一番安いと云ふ事だけで萬朝報をとつた。田舎者でしかも最近数年間は新聞を見るのを厳禁されて、世の中はたゞ軍隊の生活ばかりのやうに考へこまされてゐた僕は、其のほかにどんな名のどんな新聞があるのかも碌には知らなかつた。其の数年間の世間の出来事に就いても、僕が今覚えてゐるのは、皇太子(今の天皇)の結婚と
此の盲の手をほんの偶然に手引してくれたのが萬朝報なのだ。僕は此の萬朝報によつて始めて軍隊以外の活きたいろんな社会の生活を見せつけられた。殊に其の不正不義の方面を目の前に見せつけられた。
しかし其の不正不義は、僕の目には、たゞ世間の単なる事実として映り、単なる理論としてはひつた位の事で、それが僕の心の奥底を沸きたゝせると云ふ程の事はなかつた。それより僕は其の新聞全体の調子の自由と奔放とに寧ろ驚かされた。そして殊に秋水と署名された論文のそれに驚かされた。
彼れの前には、彼れを妨げる、又彼れの恐れる、何物もないのだ。彼れはたゞ彼れの思ふまゝに本当に其の名の通りの秋水のやうな白刃の筆を、其の腕の
僕は秋水の中に、僕の新しい、そしてこんどは本当の「仲間」を見出したのだ。が、たつた一つ癪にさはつたのは、僕が水のしたゝるやうな刀を好きなところから
それと、もつと近くにゐて僕の目をあけてくれたのは、同じ下宿の直ぐそばの室にゐた佐々木と云ふ男だつた。彼れはもう二三年前に早稲田を出て、それ以来毎年高等文官の試験を受けては落第してゐる三十位の老学生だつた。いつも薄ぎたない着物を着て、頭を坊主にして、秋田あたりのズウズウ弁で愛嬌のある大きな声をだして女中を怒鳴つてゐた。其の顔も厳めしさうな八字髭は生やしてゐたが、両頬に笑くぼのある、丸々とした愛嬌面だつた。友達のない僕は直ぐ此の老書生と話し合ふやうになつた。彼れは議論好きだつた。そして僕のやうな子供をつかまへても議論ばかりしてゐた。僕も負けない気で、秋水の受売りか何んかで、盛んに泡を飛ばした。
それから、此の佐々木の友人で、仏蘭西語学校で同じ高等科にゐた小野寺と云ふのと知つた。これもやはり、二三年前に早稲田を出て、其頃は研究科でたつた一人で
或晩、学校からの帰りに、同じ生徒の高橋と云ふ
「たとへば国家と云ふものが、又其の
小野寺は得意になつて、やはり佐々木と同じやうに少々ズウズウ弁ながら、多少演説口調で云つた。
「それや面白さうですな。」
士官学校の馬術の教官で、縫絲を一本手綱にしただけで自由に馬を走らせると云ふ馬術の名手の高橋大尉は、本当にうらやましさうに云つた。
社会学と云ふのは、又それがどんなものかと云ふ事は、これが僕には初耳だつた。そして僕も、高橋大尉と一緒にこんな学問をしてゐる小野寺をうらやましがつた。そして小野寺や佐々木に頼んで、社会学の本だの、其の基礎科学になる心理学の本だのを借りて、まるで分りもしないものを一生懸命になつて読んだ。多分早稲田から出た遠藤隆吉の社会学であつたか、それとも博文館から出た
小野寺は又僕に仏文のルボン著「群衆心理」と云ふのは面白い本だから読めと言つて勧めた。それも撲は、字引を引き引き、しかもたうとう碌に分らないながらも読んで了つた。
学習院は欠員なしでだめ、暁星中学校もだめとあつて、其の四月に、僕はあとたつた一つ残つてゐる成城中学校へ試験を受けに行つた。が、願書を出す時には外国語をフランス語として出して受けつけたのが、いよいよ試験の日になつて「こんどの五年にはほかにフランス語の生徒がないから」と云ふので無駄に帰されて了つた。
そして僕は九月まで待つて、どこか英語の中学校の試験を受けなければならないはめになつた。それで僕は急に英語の勉強を始めた。そしてユニオン読本の四が読めさへすればどこへでもはひれると聞いて、ほかの学科の方は止して、其のユニオンの四を近所の何んとか云ふ英語の先生のところへ教はりに行つた。もう幾年かまるで英語の本をのぞいても見なかつたので、始めからユニオンの四にぶつかるのは実に無茶な事だつた。しかし僕は先生のところで其の講義を聞いて来ては、更にうちへ帰つて字引と
すると七月か八月の幾日かに、突然僕は「母危篤直ぐ帰れ」と云ふ父の電報を受取つた。
六 母の憶出
一
父の家は
玄関にはひると、僕は知つてゐる人達や知らない人達の多勢が皆な泣きながら、あつちへ行つたりこつちへ行つたりしてうろうろしてゐるのを見た。僕は母はもう死んだのだと思つた。しかもたつた今死んだばかりのところだと思つた。そして其のうろうろしてゐる人達の一人をつかまへて「お母さんはどこにゐます」と訊いた。が、其の女の人はちよつと大きく目を見はつて見て、何んにも答へないで、わあと声を出して泣いて、逃げるやうにして行つて了つた。僕は又もう一人の女の人をつかまへた。が、やはり又、前と同じ目に遭つた。
仕方がないので、どこか奥の方の室だらうと思ひながら、先づ先きの人達の逃げこんだ玄関の直ぐ次ぎの室にはひつた。其の室と其の奥の座敷との間の襖は取りはづされて、其の二つの室一ぱいに多勢の人達が坐つてゐた。僕がはひつて行くと、皆んなは泣きはらした目をやはり先きの人達と同じやうに大きく見はつて僕の顔を見つめてゐたが、僕が又「お母さんはどこにゐます」と訊くと、其の中の女の人達は又わあつと声をあげて泣きだした。そして誰れ一人僕の問ひに答へてくれる人はなかつた。僕は変な気持になりながら、仕方なしに、又襖をあけて玄関の奥の
そこへ、それが誰れだつたかはもう忘れて了つたが、とにかく母と親しくしてゐたそして僕も好きだつた或る軍人の細君がはひつて来た。
「あなたはまあどうしたんです。お先にいらつしたんですか。」
彼女もやはり目を泣きはらしながら、しかししつかりした口調で叱るやうに云つた。僕は其の「お先に」と云ふ言葉が何んの事だか分らなかつた。しかし、とにかく、
「いや、僕は今東京から来たんです。」
とだけ答へた。
「それぢやあなたは新潟へはいらつしやらなかつたんですか。」
「え、行きません。母は新潟にゐるんですか。」
「あゝ、それぢやあなたは何んにも知らないんですね。まあ……」
と云ひながら彼女はほろほろと涙を流した。
「母はもう死んだんですか。」
「えゝ、きのふ新潟病院でおなくなりになりました。そして、けふ、もう直ぐ皆さんでこちらへお帰りの筈です。」
僕はさう聞くと、成程、うちのものは誰れもゐないと気がついた。そして同時に又、始めて自分で電報と云ふものを受取つた僕が、其の差出人のところはちつとも見ずにたゞ中の「母危篤直ぐ帰れ」と云ふのだけを見て、驚いて向ひの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけた事を思ひついた。
「お着きです。」
と云ふ声がして、皆んなが玄関へ出て行くのが聞えた。
「さあ、お着きださうです。」
彼女はぼんやりと考へてゐる僕を促すやうに云つて、玄関へ出て行つた。僕も其のあとに
棺の前後に父や弟妹等や其他四五人の人達が随いて、今車から降りたばかりのところだつた。
あとで聞くと、さつき僕が車から降りた時にも、やはり「お着き」だと思つて多勢出て来たのだが、僕がたつた一人でしかもうろうろしながら「お母さんはどこにゐます」なぞと
母は
其の少し前に、九人目の子供を流産してからだを悪くしたので、暫くどこかの温泉へ行つてゐたのだが、帰つて直ぐ手術すると云つて新潟へ出かけたのださうだ。しかも、「なあに、二週間もすれば、ぴんぴんしたからだになつて帰つて来ますよ」と云つて、大元気で出かけたのださうだ。
「そんな風でしたし、それにお母さまは榮は今試験前で勉強で忙しいんだから心配さしちやいけないと
母の死骸が着いた晩、
「すると、三四日もしないうちに、危篤と云ふ電報なんでせう。で、私、お子さん方を皆さんお連れ申して参つたんですけれど、それやもう大変なお苦しみでね。注射でやつと幾時間幾時間と命をお止め申してゐたんです。時々、『榮はまだかまだか』と仰やいましてね、そしてあの気丈な方がもう苦しくて堪らないから早く死なしてくれ死なしてくれと仰しやるんです。それでも、私がもう直ぐお兄さまがいらつしやいますからと云ふと、うんうんとお
お嚊は一晩ぢう、殆んど此の話ばかり繰返して云つて聞かしては、自分も泣き又僕をも泣かした。
「それに、お母さまは、お嚊丈夫になつて直ぐ帰つて来るからねと大きな声で仰しやつてお出かけなすつたんだけれど、実はご自分でも覚悟をしていらつしたんですよ。私、お子さん方をお連れして行く時に、お召物を出しに箪笥をあけて見ますと、お母さまのお召物に何んだか妙な札がついてゐるんです。よく見ますと、それが皆んな春とか菊とか松枝とかとお嬢さん方のお名前が書いてあるんでせう。私、腹が立ちましてね。何もそんな覚悟までして、わざわざ新潟くんだりへ手術なぞしにいらつしやらなくてもよささうなものだと思ひましてね。私、其の事はお母さまに存分お怨みを申しあげましたわ。」
お嚊は又こんな話もした。そして、母の死は実は医者の過失なので、手術後腹が痛み出して又切開して見たら中から絲が出て来て、大変な
そんなお通夜が二晩か三晩続いて、大阪にゐたお祖母さん(母の母)と僕の直ぐ妹の春とが到着すると直ぐ、葬式が出た。
ちやうど新発田の町の殆んど端から端までの一番賑かな大通りを通つて、僕が
「あんなご立派なお葬式はまだ見た事がありません。」
と云つて、三の町のお嚊なぞは今でもまだ、其の人並すぐれた小さなからだを揺すりながら、おかめを皺くちやにして自慢にしてゐる。
葬式が済んでから、母の棺を六人ばかりの人足にかつがして、僕と弟の
僕は其の人足共の云ふまゝに、一束の藁に火をつけて、其の火を棺の一番下に敷いてある藁の層に移した。藁は直ぐに燃えあがつた。其の火は更に、其の上の松の枝や葉に燃え移つた。そして僕は其の焔々として燃えあがる炎の中に、ふだんのやうにやはり肉づきのいゝ、たゞ夏のさ中に幾日も其儘に置いたせゐかもう大ぶ紫色がかりながらも、眠つたやうにして棺の中に横はつてゐる母の顔を見た。僕は其の棺箱が焼けて、母の顔か手か足かが現はれて出たら、堪らないと思つた。それでも僕はぢつとして其の炎を見つめてゐた。
人足共の一人は急いで僕等兄弟をわきへ連れて行つて、直ぐ帰るやうにと勧めた。もう日も大ぶ暮れてゐたのだ。そして、僕は其の場所へ行つたら直ぐ帰るやうにと
二
母の死体がうちへ着いた時に、僕は其の棺のそばに暫く忘れたやうになつてゐた礼ちやんが立つてゐるのを見た。礼ちやんも二三日前から新潟の母の所へ行つてゐたのだ。たしか其の晩だつたと思ふが、夜遅くなつてから、お通夜をすると云ふのを無理やりに皆んなに帰れ帰れと勧められてうちへ帰つた。そして高級副官の父のもとにやはり旅団副官をしてゐた何んとか云ふ中尉の細君が、それはまだ若い、さうして聯隊ぢうで一番綺麗な細君で、僕は前から随分親しくしてゐたのだつたが、
僕は直ぐ
「あら、齋藤さんぢやありませんか。」
二人は向うから軍服を着て勢よく歩いて来る男にぶつかりさうになつて、礼ちやんは其の男の顔を見あげながら叫ぶやうにして云つた。それは礼ちやんのうちと同僚の齋藤中尉だつたのだ。此の中尉は、僕が幼年学校にはひる前、彼れがまだ見習士官だつた頃から、僕もよく知つてゐた。が、中尉の方ではちよつと僕等が分らないらしかつた。
「君は何んだ。」
中尉は礼ちやんの方へ食つてかゝるやうに怒鳴つた。
「いや、僕ですよ。」
僕は礼ちやんをかばふやうにして一足前へ出て云つた。中尉はぢつと僕の顔を見つめてゐたが、
「やあ、君でしたか。これはどうも失礼。僕は又……いや、これからお宅へ行くところなんです。どうも失礼。」
と、多少言葉を和らげながらも、まだぶりぶりしたやうな様子で行つて了つた。
「まあ、ほんとにいやな齋藤さん。お酒の臭ひなぞぷんぷんさして。」
礼ちやんはもう大ぶ行つて了つた後ろをふり返りながら呟いた。
「でもきつと、僕らがあんまりふざけて来たもんだから、此辺の何かと間違へたかも知れないね。」
僕は少々気がさして云つた。僕等か歩いてゐる西ケ輪の通りと云ふのは其の裏の
「さうね。けれど、これぢやあんまり失礼だわ。」
礼ちやんはまだ多少憤慨しながらも、しかし自分を省みない訳ではなかつた。
二人は暫く黙つて、しかし相変らず殆んど接触せんばかりに引つついて歩いて行つた。
「ねえ、榮さん、私お嫁に行つて随分つらいのよ。」
礼ちやんはしんみりした調子で口を切つた。
「どうして?」
「おしうとさんがそれやひどいのよ。お母さんの方はまださうでもないんですが、お父さんがそれや難しい方でね。本当に箸のあげ下ろしにもお小言なんだけれど、そんな事はまだ何んでもないわ。私がちよつとうちを留守にすると、其の間に私のお針箱から何やかまで引掻き廻して何か探すんですもの。私もうそれが何よりもつらいわ。」
「へえ、そんな事をするんかね。」
僕は驚いて彼女の顔を見た。彼女は黙つてうつむいてゐた。が、僕にはそれ以上何んと云つて話していゝのか分らなかつた。僕も仕方なし黙つて了つた。
道は川のそばだの、あまり家のこんでゐないところだので随分寂しかつた。それでも二人は又暫く黙つて、引つつき合つて歩いて行つた。
礼ちやんは又口を切つて、東京での僕の学校の様子を訊いた。僕は去年の暮れに、此の礼ちやんのためだけでも偉い人間になつて見せると
僕はもう帰ると云ひだした。礼ちやんは、ぜひ、ちよつと寄つて行けと引きとめた。
「僕はいやだ。さつきの齋藤さんのやうに、又隅田さんに変に思はれるかも知れないからね。」
僕はそんな事を云ふつもりでもなく、ふいと
「あら、いやな榮さん、それぢやいゝわ。」
礼ちやんは手をあげて打つまねをしながら、ちよつと僕をにらんだか思ふと、其儘ばたばたと駈けだしてうちへはひつて了つた。
僕はぼんやりしたやうになつてうちへ帰つた。
翌日、礼ちやんは又うちへ来た。そして其後も、毎日、日に一度はきつとやつて来た。
母の死骸がうちにあつた間は、二人とも顔を見合はしても先夜の事などはまるで忘れたやうにしてゐた。そして又実際いろんなほかの人達と一緒に母の死に就いての歎きに胸を一ぱいにしてゐたが、葬式が済んだ翌日からは、二人とも顔さへ合せれば、もう母の死の事などは忘れたやうになつて、そしてまだほんの子供のやうな気になつて、先夜二人で門を出た時と同じやうに一緒に笑ひ興じたり騒いだりばかりしてゐた。
例の綺麗な細君も殆んど毎日のやうに見舞ひに来た。そして二人のそんな風なのを黙つてにこにこしながら見てゐて、時々、本当にお二人は仲善ささうね、なぞとからかつてゐた。
お祖母さんは苦々しさうにして、いつも顔をしかめてゐた。
此の綺麗な細君は、其後、日露戦争の留守中に何か不都合な事があつたとかで離縁になつたと云ふやうに聞いたが、そしてそれから間もなく一度銀座でたしかに其の人らしい顔をちよつと見たのだが、どこにどうしてゐる事か。
しかし、学校の入学試験を直ぐ目の前に控へてゐた僕は、いつまでもさうしてゐる事が出来なかつた。母の葬式が済んでから一週間目位で、僕は又上京した。そして又、母の事も礼ちやんの事も綺麗な細君の事も何もかも忘れたやうになつて、勉強しだした。
三
十月の始めになつて僕は東京中学校(今はもうないやうだ)と順天中学校との五年の試験を受けた。
今はどうか知らないが、其頃の東京の私立のへぼ中学校では、殆んど毎学年毎学期に各級の入学試験をやつた。そして其の毎学期の始めに二三回生徒募集をして、其のたびに試験を受けさしては受験料を儲けるのを例としてゐた。東京中学校のも順天中学校のも其の最後の第三回目の生徒募集の時だつた。
僕は其のどつちかにどうしてもはひらなければならないと思つた。が、其の試験は二つとも殆んど同時に行はれるのだつた。僕はもう自分の学力には自信があつた。しかし、万一の時にはと思つて、少し早くから始まる東京中学校のは自分で受けて、順天中学校のは換玉を使ふ事にきめた。それには、ちやうどいゝ下宿の息子の友達で僕もそれを通じて知つてゐた早稲田中学卒業の何んとか云ふ男があつた。
ところが僕自身が受けた東京中学校の方は、僕の大嫌ひな
しかし僕は、かうして話を年代通りに進めて行く前に、さつきの礼ちやんの事が少し気にかゝるのだ。と云ふのは、あんな甘いしかも蜜も何んにもない初恋の話の続きを今後まだあちこちに挟んで行くのは少し気が引けるので、少々年代を飛ばして、今こゝで話しついでに其後のいきさつをも一思ひに皆んな話して了はうと思ふのだ。そしてこんどは、礼ちやんの夫の隅田が死んだ時の二人の関係の場面になつたのだから、前の話のいゝ対照にもなると思ふので、猶更それを先づ書きたいのだ。
礼ちやんとは其後三度会ふ機会を持つた。
最初の一度は、殆んど一度とも云へない位なので、其後四年ばかりして、僕が外国語学校を出て社会主義運動に全く身を投じようとした頃の事だつた。堺君や田川大吉郎君や故山路愛山君なぞが一緒になつて、即ち当時の社会民主主義者や国家社会主義者なぞが一緒になつて、電車の値上反対運動をやつた。そして日比谷で市民大会と云ふのを開いて、そこで集まつた群集の力で電車会社や市会なぞへ押しかけた。其の前日だ。僕は堺君の家からあしたの市民大会のビラを抱へて、
が、あとで聞くと、それは本当に礼ちやんだつたので、僕が其の市民大会の直ぐあとで
其の次の二度目は、それから又二三年してからの事と思ふが、彼女と其の夫とを東京
「はあ、奴、知らないお客だと思つて逃げ出したんだ。」
隅田は笑ひながらさう云つて、其のマッサアジ師に彼女を呼びにやつた。
彼女は「まあ」と云つて、びつくりしたやうな顔をしてはひつて来た。
其時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になつて、憲兵何んとか云ふ学校にはひつてゐたが、其後どこかへ転任して、今病気で東京に帰つてゐるんだと云ふやうな話をしてゐた。そして僕が社会主義者になつてもう二三度入獄してゐる事に就いても、困つたものだがしかし君の性格上仕方があるまいと云ふやうな事を云つて、礼ちやんはそれに「えゝ、あんまり出来すぎるからだわ」と弁解して附け加へてゐた。
が、其時には僕は三十分ばかりで帰つて、其後又彼女夫婦がどうなつたかは暫くちつとも知らなかつた。
すると、それから又四五年して、僕が例の神近(市子)や伊藤(野枝)との複雑な恋愛関係にはひり始めた頃の事、最後の三度目に、又突然と礼ちやんが現はれて来た。
或日僕は、僕がフランス語の講習会をやつてゐた牛込の藝術倶楽部へ行つた。そして僕が借りてゐた
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしてゐたのをよして、今はこちらに来てゐるんです。そして寝たつきりでゐるんですが、あなたが前に肺が大変悪かつたのに今はお丈夫だと云ふ事を聞きましてね。ぜひあなたにお会ひして、あなたの肺のお話を聞きたいつて云ふんですの。お医者もいろんな事を云つてちつとも分りませんし、隅田ももう長い間の病気ですつかり弱りこんでゐるんです。」
礼ちやんがいろいろと詳しく話してゐるうちに、もうフランス語の時間が来て、生徒も二三人やつて来た。
「え、それぢや明日お宅へ参ります。」
と云つて、僕は礼ちやんを入口まで送り出した。
翌日行つて見ると、隅田の病気は話で聞いたよりよほど悪いやうに見えた。今まで僕が見た、肺で死んだ幾人かの人の、もう
其後も折々見舞はうとは思つたのだが、僕は伊藤の行つてゐる九十九里の
早速行つて見ると、隅田の死骸のそばでは多勢の男女が集まつて、大きな珠数のやうな綱のやうなものを皆んなでぐるぐる廻しては、ナムアミダー、ナムアミダー、と夢中になつて怒鳴つてゐた。下のほかの室にも僕の知らない多勢の人がゐた。礼ちやんは直ぐ僕を二階へ案内して行つた。
僕は今でもまださうだが、死んだ人の家へ行つてどうお
「やつぱりあなたの仰しやつた通りでしたわ。」
礼ちやんはすつかりやつれて泣顔をしながらも、それでもいつもの生々とした声で話しだした。
「私、こんな事を云つちやいけないんでせうけれど、隅田のなくなる事はもうとうから覚悟してゐましたし、今ぢや隅田のなくなつた悲しみよりも私の是からの身体の方が余ッ程心配なんですの。」
僕は来る早々意外な事を聞くものだと思つた。
「経済上の心配ぢやないんです。それはどうとかしてやつて行けます。けれど、隅田がなくなつて方々から親戚のものが集まつて来てから、私今までまるでいぢめられ通しでゐるんです。そしてこれからも多分一生いぢめられ通しで行くんだと思ふんです。」
僕は益々意外なことを聞くものだと思つた。そしてやはり黙つたまゝ聞いてゐた。
「隅田の国の方の人が来ると直ぐ、私をつかまへて、おやお前はまだ髪を切らずにゐるのかい、と云ふんでせう。私、今時まだこんな事を云ふ人があるのかと思つて、何んとも返事が出来なかつた位ですわ。するとこんどは、壁にかけてあるヴァイオリンを見つけて、あゝこれは何んとかさんに直ぐあげてお了ひ、後家さんにはもう鳴物なぞ一切要らないんだから、と云ふんですもの。私、髪なんか切る事は何んとも思ひませんわ。又、ヴァイオリンなぞもちつとも欲しくありませんわ。けども今そんなにして、皆んなの云ふやうに本当の尼さんのやうになつたところで、それがいつまで辛抱出来るかと思ふと、自分でも恐ろしくなりますの。私今まで軍人の奥さんで、殊に日露戦争の間に、旦那が戦死して直ぐ髪を切つた方を沢山知つてゐますわ。そしてそれが四五年かしてどうなつたかもよく知つてゐますわ。其儘立派な未亡人で通した方はまるでないんですもの。そして本当の尼さんのやうな生活にはひつた人ほど、それがひどいんですもの。」
僕はたゞの平凡な軍人の細君と思つてゐた彼女が、これほどはつきりと、謂はゆる未亡人生活を見透してゐるのに驚いた。
「それであんたにはどうしても其の辛抱が出来ないと云ふんですか。」
僕は彼女がそれに就いてどこまで決心してゐるのかを問ひたゞさうと思つた。
「いゝえ、どこまでも辛抱して見るつもりです。今私は隅田の御里に帰つて、世間との一切の交渉を
「けれども其の辛抱が出来なくなる恐れがあるんでせう。其時にはどうするつもりなんです。」
「え、それが心配なんですの。けれど、やつぱり、どこまででも辛抱しますわ。」
「で、あなたの方のお父さんやお母さんはどう云つてゐるんです。」
「私には可哀想だ可哀想だと云つゐますが、やはり一旦隅田家へやつた以上は、隅田の云ふ通りにしなければならんと云つてゐます。」
「あなたがさうまで決心してゐるんなら、それでもいゝでせう。しかし、出来るだけやはり辛抱はしない方がいゝです。辛抱はしても、もうとても出来ないと思ふ以上の事は決して辛抱しちやいけません。それが堕落の一番悪い原因なんです。」
「でも、それでも辛抱しなきやならん時にはどうしませう。」
「いや、辛抱しなきやならん理屈はちよつともないんです。そんな場合には、もう一切をなげうつて、飛び出すんです。直ぐ東京へ逃げていらつしやい。僕がゐる以上は、どんな事があつても、あなたを勝たして見せます。」
「えゝ、有りがたう御座います。私本当にあなたをたつた一人の兄さんと思つてゐますわ。けれど私、どうしても辛抱します。どこまでも辛抱します。たゞね、本当に榮さん、私あなたをたつた一人の兄さんと思つてゐますから、どうぞそれだけ忘れないで下さいね。」
僕は彼女と殆んど手を握らんばかりにして、又近いうちに会ふ約束で分れた。
其の翌日、隅田の葬式があつたのだが、僕は着て行く着物も
それから幾日目だつたか、或日、礼ちやんが麹町の僕の下宿に訪ねて来た。
いよいよあすとかあさつてとか、隅田の郷里に帰るので、牛込の或る親戚へ用のあつたのを幸ひに、内緒で立ち寄つたとの事だつた。話はやはり、いつかの彼女の家での話を、も少し詳しくして繰返したに過ぎなかつた。が、さうして彼女と話してゐる間に、僕は幾度彼女の手を握らうとする衝動に駆られたか知れなかつた。
しかし、彼女もいつまでさうしてゐられる訳でもなく、又僕ももう藝術倶楽部へ行く時間が迫つてゐたので、下宿を出て一緒に倶楽部の直ぐ近くまで行つた。そして無事に、お互に「ご機嫌よう」と云つて分れて了つた。
四
順天中学校と云ふのは、尤もほかにもそんなのが幾つもあつたのだらうが、ちよつと妙な学校だつた。
僕のはひつた五年は三組で二百人か二百五十人かゐた。四年は二組で百五十人、三年は百人、二年一年は四五十人と云ふやうに、級がさがるに従つて生徒の数が減つてゐた。わざわざこんな学校に一年や二年からはひるものはないんだ。そして大がいは直ぐと四年か五年かへはひるんだ。
僕等の組には、哲学院(東洋大学の前身)を出たものだの、早稲田を出たものだの、其他いろんな専門学校を出たものがゐた。そんなのは何かの必要からたゞ中学校卒業の免状だけを貰ひに来たのだ。又、顔を見ただけでも秀才らしいまだ年少の、或はぼんやりとした年かさの、独学の人も可なりゐた。それから又、僕なぞと同じやうに、どこかの学校で退学させられた不良連も随分ゐた。そして、僕と同じやうに、換玉ではひつたのも此の不良連の中に多かつた。
僕と一緒に此の順天中学校へはひつた友人に
此の登坂とは、其の年の一月、即ち僕が東京へ出て来ると直ぐ、市ケ谷の幼年学校の面会室で出遭つた。そして彼れから、
皆んなは其の名誉恢復のためと云ふので、互に戒めて勉強を誓つた。そして其の年の九月十月には皆んなどこかの中学校の五年にはひつた。
其の中でも登坂と僕とは、最初に出遭つた関係からか、又お互に文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合つたりしてゐたせゐか、一番近しくなつて、殊に一緒に順天中学へはひると直ぐ、本郷の
二人とも、学校の方もよく勉強したが、小説も随分よく読んだ。坂上にちよつとした貸本屋があつて、そこから借りて来るのだが、暫くの間に其の貸本屋の本を殆んど皆な読んで了つた。
後には島田も此の下宿に仲間入りした。島田は撃劔がお自慢で、真黒な顔をした
浪六物や
「成程、僕は今倉何んとかのやうに、一面にはごく謹厳着実に済ましてゐる。しかし、それだけ他のもう一面には、黒田のやうな豪放が
僕は自分で自分にさう叫んで、「今に見ろ」と腹の中で一人で力んでゐた。
其頃、僕よりも一期上でやはり名古屋出身の田中と云ふのが、中央幼年学校から逐ひ出されて、これも僕等の下宿にころがりこんだ。其他にも、登坂の仲間の何んとか云ふのと、島田の仲間の何んとか云ふのと、これも一時僕等の下宿に来たが、此の二人は僕等の謹厳着実な生活に堪へきれないで、直ぐほかへ出て行つて了つた。
又、僕等よりもやはり一期上で、そして僕等よりも一年程前に仙台を出た箱田と云ふのが、其の年に高等学校へはひつて、ちよいちよい僕等の下宿に遊びに来た。僕等よりも一期二期あとの、其後に退校させられた二三のものも、学校や其他のいろんな事に就いて、僕等のところに相談に来た。
かうして、幼年学校の落武者共が、殆んど皆な僕等の下宿を中心にして集まつた。そして其の次の年には、皆んな無事に中学校を終へて、僕と島田とは外国語学校に、登坂と田中とは水産講習所に、谷は商船学校に、皆な可なりの好成績ではひつた。
谷は今郵船の船長をしてゐる筈だ。田中はどこかの県の技師になつてゐると聞いた。島田は、もう大ぶ古い頃に、どこかの田舎の聯隊の將校集会所でドイツ語を教へてゐると云ふ話だつた。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の藝者を二人ばかりかこつてゐたと云ふ程の勢だつたさうだが、十年ばかり前に失敗してアメリカへ行つた。そして今でもまだ失意の境遇にゐるらしい。箱田は朝鮮で検事かをやつてゐる。
僕は又、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりの或る貸本屋のお得意にもなつてゐた。そこには、小説本のほかに、いろんな種類のむつかしい本があつた。僕は矢来町の下宿にゐた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでゐた。矢野
「新社会」は少し早く読みすぎたせゐか、其の読後の感興と云ふ程のものは今なんにも残つてゐない。しかし「進化論講話」は実に愉快だつた。読んでゐる間に、自分のせいがだんだん高くなつて、四方の眼界がぐんぐん広くなつて行くやうな気がした。今までまるで知らなかつた世界が、一ぺエジ毎に目の前に開けてゆくのだ。僕は此の愉快を一人で楽しむ事は出来なかつた。そして友人には皆な、強ひるやうにして、其の一読をすゝめた。自然科学に対する僕の興味は、此の本で始めて目覚めさせられた。そして同時に、又、すべてのものは変化すると云ふ此の進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残つてゐたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはひり易くさせた。
「何んでも変らないものはないものだ。旧いものは倒れて新しいものが起きるのだ。今威張つてゐるものがなんだ。直ぐにそれは墓場の中へ葬られて了ふものぢやないか。」
しかし、僕にはまだ、何かの物足りなさがあつた。母が死んで、と云ふやうな事をも殆んど忘れたやうにはしてゐたが、自意識の中では余程さびしかつたに違ひない。又、礼ちやんの事はやはり同じやうに忘れたやうにはしてゐたが、幾年も続けて来た同性の謂はゆる恋を全く棄てた僕は、其の方面でも余程さびしかつたに違ひない。友人と云へば、さつき云つた幼年校の落武者連だけだつたが、それもたゞ同じ境遇から互に励み合つたと云ふ程の事で、本当に打解け合つた親しい間柄ではなかつた。
多分そんな
そんな寂しさがきつと主になつて、そして其のほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求なぞが手伝つて、順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行き始めた。そして下宿から一番近い、又其のお説教の一番気にいつた、
海老名弾正の国家主義には気がついたのかつかなかつたのか、それともまだ僕の心の中に多分に残つてゐた謂はゆる軍人精神とそれとが合つたのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすつかり魅せられて了つた。まだ半白だつた髪の毛を後ろへかきあげて、長い鬚をしごいては、其の手を高くさしあげて、「神は……」と一段声をはりあげる其のいゝ声に魅せられて了つた。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼつて泣くと、やはり一緒になつて泣いた。
先生はよく「洗礼を受ける」事を勧めた。「いや、まだキリスト教の事がよく分らんでもいゝ。洗礼を受けさへすれば、直ぐによく分るやうになる」と勧めた。僕は可なり長い間それを躊躇してゐたが、遂に洗礼を受けた。其の注がれる水のよく浸みこむやうにと思つて、わざわざ頭を一厘がりにして行つて、コップの水を受けた。
此のキリスト教は、僕を「謹嚴着実」な一面に進めるのに、大ぶ力があつたやうだ。しかしそれも長くは続かなかつた。
五
僕は外国語学校の入学試験に及第すると直ぐ、父のゐた福島へ行つた。父は其の少し前に、部下の副官の何かの不しだらの
其後父の兄から聞いた話ではあるが、其頃父は師団長と喧嘩してゐたのださうだ。旅団長の
更に其後、これは父が誰かに話してゐるのを聞いたのだが、比志島は日露戦争で又復活して、戦地から一万円二万円と云ふやうな金を幾度も其の債権者のもとに送つて、帰る頃には借金を全部済ました上に、猶可なりの財産までもつくつてゐたさうだ。
父は聯隊区司令部の直ぐそばの、僕等がまだ住んだ事もない程の、小さな汚ない家にゐた。そして女中も置かずに、僕の直ぐの妹に学校をよさして、多勢の弟妹等の世話や其他の一切をやらしてゐた。
が、僕の驚いたのは、それよりも父の甚だしい変りかただつた。年はまだ四十三四だつたのだらうが、急にふけて、もうたしかに五十を幾つもこえた老人のやうになつてゐた。そして以前には、うちの事は一切を母に任して金の事なぞはつい
尤も、以前からごく質素で、自分で自分の小使銭を持つていた事もなく、又恐らくは金の使ひ道も知らなかつた程なので、其の由来のけちんぼが少しもそとに現はれなかつたのかも知れない。が、母が死んで、自分でうちの細かい会計までやつて見るとなると、之れが急に目立つて来たのかも知れない。
とにかく父は、月給や勲章の年金だけではとてもやつて行けない、と云つてゐた。そして、どうして母が今よりもずつとはでな生活をしてゐて、それで毎月幾らかづつ残して行つたのかと不思議がつてゐた。父はそんな心配や、母のない多勢の子供等のための心配なぞで、急に年がふけたのだ。急に金の有りがた味を感じだしたのだ。
それで、父の兄の話を本当だとすると、父はもう軍人生活に見切りをつけて、実業界へでも
僕は父が急にふけて見すぼらしくなつたのは傷ましかつたが、しかし其の心の変化には少しも同情が出來なかつた。寧ろ父を
従つて、暫く目の僕の帰省も大して愉快ではなかつた。そして一ケ月ばかりして又東京に帰つた。
外国語学校ははひつて見て直ぐがつかりした。幼年学校で二年半やつて、更に其後もつい数ケ月前まで仏蘭西語学校の夜学で勉強しつゞけて、もう分らんなりにも何かの本を読んでゐたフランス語も、又アベセの最初から始めるのだ。
たゞ、一ケ月ばかりしてから、仏人教師のジャクレエの心配で、卒業の時には本科卒業として出すと云ふ約束で全科目選修の選科生として二年へ進級したが、其の二年も素より大した事ではなかつた。そして此の二年へ行つてから気がついたのだが、先生のまるきり無茶なのに驚かされた。フランスに十年とか十五年とかゐたと云ふ先生が、二年生の出来のいゝものよりももつと出来ないんだ。そして本一ぱいに鉛筆で何か書きつけて来て、それを拾ひよみしながら講義して、それ以外の事には何一つ生徒の質問に答へる事が出来ないんだ。そして出来る二人ばかりの先生は、怠けもので随分よく休みもし、又出て来てもほんのお義理にいゝ加減に教へてゐた。そして其の多勢の先生の教へるものの間に、殆んど何んの聯絡もないんだ。
たゞ一人、ジャクレエ先生だけが、実に熱心に、一人で何もかも毎日二時間づつ教へた。僕は此の先生の時間だけ出ればそれで十分だと思つた。そしてそれ以外の先生の時間は出来るだけ休む事にきめた。
ちやうどその頃だ。日露の間に戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に
そして幸徳と堺とは、別に週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義と非戦論とを
それまで僕は、それらの人々とは、たゞ新聞の上の議論と、時に本郷の中央会堂で開かれた演説会での雄弁とに接しただけで、直接にはまだ会つた事がなかつた。しかし此の旗上げには、どうしても一兵卒として参加したいと思つた。幸徳の「社会主義神髄」はもう十分に僕の頭を熱しさせてゐたのだ。
雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を
玄関をはひつた直ぐ左の六畳か八畳の室には、まだ三四人の、しかも内輪の人らしい人しかゐなかつた。そして其の中の年とつた一人と若い一人とが
僕は其の青年の口をついて出る雄弁には驚いたが、しかし又、其の議論のあまりなオオソドクスさにも驚いた。僕も彼れとは同じクリスチャンだつた。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼れは殆んどそれをバイブルの文句通りに信じてゐた。僕は神は自分の中にあるものと信じてゐたのに反して、彼れは万物の上にあつてそれを支配するものと信じてゐた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだらうとさへ思つた。そして無神論者らしい年とつた男の冷笑の方に寧ろ同感した。
此の年とつた男と云ふのは
やがて二十名ばかりの人が集まつた。そして、多分堺だつたらうと思ふが、「けふは雪も降るし、大ぶ新顔が多いやうだから、講演はよして、一つしんみりと皆んなの身上話やどうして社会主義にはひつたかと云ふやうな事をお互に話しよう」と云ひだした。皆んなが順々に立つて何か話した。或る男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時、大倉が缶詰の中へ石を入れたと云ふ事が評判になつてゐるが、あれは実は私のところの缶詰なんです。尤もそれは私のところでやつたんではなくつて、大倉の方で或る策略からやつたらしいんではあるが」と云つた。
「それぢや、やはり大倉の缶詰ぢやないか。どうもそれや、君のところでやつたと云ふよりは大倉がやつたと云ふ方が面白いから、やはり大倉の方にして置かうぢやないか。」
かう云つたのもやはり堺だつたらうと思ふが、皆んなも「さうだ、さうだ、大倉の方がいゝ」と賛成して大笑ひになつた。其の資本家の子と云ふのは、今の
もう殆んど最後近い頃に僕の番が来て、僕も、「軍人の家に育ち、軍人の学校に教へられて、軍人生活の虚偽と愚劣とを最も深く感じてゐるところから、此の××××××のために一生を捧げたい」と云ふやうな事を云つた。
そして最後に又堺が立つて、「こゝには資本家の子があり、軍人の子があり、何んとかがあり、何んとかがあり、実に吾々の思想は今や天下の有らゆる方面にまで拡がつてゐる。吾々の運動は天下の大運動にならうとしてゐる。吾々の理想する社会の来るのも決して遠い事ではない」と云ふ激励の演説があつた。
僕はさう云はれて見ると、本当にそんなやうな気がして、非常にいゝ気持になつて下宿へ帰つた。其日、幸徳がそこにゐたかどうかはよく覚えてゐない。
それ以来僕は毎週の研究会には必ず欠かさずに出た。そして、それ以外の日にもよく遊びに行つたが、殊に下宿を登坂や田中のゐた月島に移してからは、殆んど毎日学校の往復に寄つて、雑誌の帯封を書く手伝ひなぞをして一日遊んでゐた。
六
平民社は幸徳と堺と西川光二郎と石川三四郎との四人で、石川を除くほかは皆な大の宗教嫌ひだつた。尤もそとから社を後援してゐた安部磯雄や木下尚江は石川と共に熱心なクリスチャンだつた。そしてそこに集まつて来た青年の大半も、やはりクリスチャンだつた。当時の思想界ではクリスト教が一番進歩思想だつたのだ。少なくとも忠君愛国の支配的思想に背く最も多くの分子を含んでゐたのだ。
幸徳や堺等は可なり辛辣に宗教家を攻撃もし又冷笑もした。そして研究会ではよく宗教の問題が持ちあがつた。しかし幸徳や堺等は、宗教は個人の私事だと云ふドイツ社会民主党の何かの決議を守つて、同志の宗教には敢て干渉しなかつた。
石川は本郷会堂での僕の先輩だつた。が、其頃にはもう教会と云ふものにあいそをつかして、殆んど教会に行く事もなかつたらしい。僕も平民社へ出入りするやうになつてからは、皆んなの感化で、先づ宗教家と云ふものに、次には宗教
僕は、
然るに、戦争に対する宗教家の態度、殊に僕が信じてゐた海老名弾正の態度は、
戦争が始まると直ぐ、父は後備混成第何旅団かの大隊長となつて、旅順へ行つた。
僕は父の軍隊を上野停車場で迎へた。そして一晩駅前の父の宿に泊つた。
僕は父が馬上で其の一軍を指揮する、こんなに壮烈な姿は始めて見た。ちよつと涙ぐましいやうな気持にもなつた。しかし、何んだか僕には、父の其の姿が馬鹿らしくもあつた。「何んのために、戦争に勇んで行くのか」と思ふと、父のために悲しむと云ふよりも寧ろ馬鹿々々しかつたのだ。
宿にはひつてからも、父や其の部下の老將校等は皆な会ふ人ごとに「これが最後のお勤めだ」と云つて、たゞもう喜び勇んでゐた。僕は又それが益々馬鹿々々しかつた。
父は僕にたゞ「よく勉強しろ」と云つただけで、別に話したい様子もなく、たゞそばに置いて顔を見てゐればいゝと云ふやうな風だつた。
七 獄中生活
一 市ケ谷の巻
東京監獄の未決監に「
被告人共は裁判所へ呼び出されるたびに、一馬車(此頃は自動車になつたが)に乗る十二三人づつ一組になつて、薄暗い広い廊下のあちこちに一列にならべさせられる。そして其処で、手錠をはめられたり腰縄をかけられたりして、護送看守部長の点呼を受ける。「前科割り」の老看守は一組の被告人に普通二人づつつく此の護送看守の一人なのだ。いつ頃から此の護送の役目についたのか、又いつ頃から此の「前科割り」のあだ名を貰つたのか、それは知らない。しかし、少なくとももう三十年位は、監獄の飯を食つてゐるに違ひない。年は六十にとゞいたか、まだか、位のところだらう。
被告人共が廊下に呼び集められた時、此の老看守は自分の受持の組は勿論、十組あまりのほかの組の列までも見廻つて、其の受持看守から「索引」をかりて、それと皆んなの顔とを見くらべて歩く。「索引」と云ふのは被告人の原籍、身分、罪名、人相などを書きつけた云はゞまあカアドだ。
「お前は何処かで見た事があるな。」
しばらく其のせいの高い大きなからだをせかせかと小股で運ばせながら、無事に幾組かを見廻つて来た老看守は、ふと僕の隣りの男の前に立ちどまつた。そして其の色の黒い、醜い、しかし無邪気なにこにこ顔の、如何にも人の好ささうな細い眼で、じろじろと其の男の顔をみつめながら云つた。
「さうだ、お前は大阪にゐた事があるな」
老看守はびつくりした顔付きをして黙つてゐる其の男に言葉をついだ。
「いや、旦那、冗談云つちや困りますよ。わたしや、こんど始めてこんなところへ来たんですから。」
其の男は老看守の人の好ささうなのにつけこんだらしい馴れ馴れしい調子で、手錠をはめられた手を窮屈さうにもみ手をしながら答へた。
「うそを云へ。」
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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