回想のアンネ・フランク・ハウス
1.アンネ・フランク・ハウスを訪れて
アムステルダムは、大小の運河が網の目のように巡る水の都である。
17世紀以降東洋貿易の拠点となり、世界金融市場の中心として繁栄してきた。しばしば東京駅がアムステルダム駅を模した建物だと言われるが、実際にアムステルダム駅を訪れてみるとその規模と壮麗さは驚くばかりで、我らの東京駅がよほどちっぽけなものに思えてくる。アムステルダムという、このオランダの首都の栄華の一端が知れる事実である。
この街の中心部のプリンセン運河沿いに、巨大な鐘楼が印象的な西教会が建っている。
10年程前の冬、私はアムステルダムを訪れ、その西教会の近くのホテルに宿泊した。
半日、自由な時間を得たので私はホテル周辺の観光を試みた。ガイドブックを見ると、西教会のそばに、アンネ・フランクの家があると記載されている。
それまでの私には、アンネ・フランクに関して、うわべだけの理解しかなかった。すなわち、彼女は著名な『アンネの日記』の作者で、ユダヤ人であったためにナチスに迫害された少女である、程度のものだ。『アンネの日記』に対しても、小学校時代に、これは一種の少女文学で、女子生徒が読むべきだが、男子が読むような本ではない、という偏見を持っていたため(そして、この偏見は当時の男子生徒共通のものであった)、それ以来読んだことも無かった。
だから、その時の私は、アンネはおそらくドイツで迫害されたはずなのに、なぜその彼女の家がアムステルダムにあるのだろう、などという常識のない疑問をもって、その家を訪れたのであった。
運河沿いの通りは、4階建てに統一された切妻屋根や陸屋根の家々が、京都の町屋のように隣どうし密着して美しい町並みを形成している。これは、多くの人が運河沿いに面した家を持てるように、幅が細く奥行きが深い家が建てられてきたからである。奥行きが深いため、奥の部屋にも充分に陽が入るように中庭が作られ、それを隔てて、通りに面した“前の家”と、奥の“後ろの家”という2棟構成の家が標準となった。成立の事情は異なるが、坪庭を挟んで奥に蔵や別棟を建てる京都の町屋と同じような様式である。
アンネ・フランク・ハウスは、その中の一つ、プリンセン運河263番地に位置する建物である。ただし、その中には隣の建物から入る。隣の家は、チケット売場や売店となっていて、そこからアンネ・フランクの“前の家”の1階に入ると、中は小さな博物館だった。ビデオモニターで、アンネ・フランク・ハウスの概要が説明されていた。
展示品を見て驚いた。このアンネ・フランク・ハウスこそ、『アンネの日記』の舞台であり、アンネ・フランク一家と知人の家族が、この建物の“後ろの家”の3、4階を隠れ家として丸2年以上も隠れ住んだ場所であったのである。しかし、このことは、既に『アンネの日記』を読んでいた方であれば、分かり切った話ではある。
以前、この建物には、アンネの父オットーの経営する食品関係の小さな会社があった。
もともとフランク一家はドイツのフランクフルトに住んでいた。しかし、1933年に反ユダヤ主義者のヒットラーが政権を握ると、ユダヤ人の公職追放やユダヤ人商店の不買運動などが巻き起こったため、オットーは、もはやドイツでは子供たちの将来が危ういと憂え、アムステルダムへの移住を決意した。彼は、単身当地に入って仕事や住まいの
それから5、6年間、フランク一家は平穏な時を得、オットーが始めた食品関係の代理店業の業績も上がっていった。しかし、1940年にオランダがドイツの侵攻を受けて降伏すると、アムステルダムのユダヤ人たちの上にも暗雲が立ち込めてきた。同年11月にはユダヤ人が公職から追放され、翌41年からは、ユダヤ人に対して、日常生活上の様々な規制が実施された。たとえば、電車への乗車禁止、買い物時間の制限、夜間の外出禁止、映画館等の娯楽施設の利用禁止、黄色い星印(ダビデの星)の着装義務等々である。
そして同年、最初のユダヤ人狩りが行われ、アムステルダムのワーテルロー広場で400人のユダヤ人が捕らえられ、強制収容所へ移送された。
もはやオランダも安住の地にならないと判断したオットーは、オランダ脱出を図って当局に移民許可の申請書を提出した。しかし、当局からはそれは認められず、単に申請の受領書が届いただけであった。しかもその受領書には、オットーのファースト・ネームはイスラエルに、妻やアンネ、アンネの姉マルゴットら3人の女性たちのそれはすべてサラに変えられてあった。もはやユダヤ人は、公的には個性が抹消されて、男の名はすべてイスラエル、女の名はすべてサラとされていたのである。
その間も多くのユダヤ人が強制収容所やドイツへ移送されていたため、オットーはやむなく、家族の潜伏場所を探し始めた。そしてオットーが選んだのが、自分の会社のあった建物の“後ろの家”の3、4階であった。すでに自分の会社は、ナチスから奪われないよう、名義上ドイツ人のクライマンに社長の座を譲っており、その建物の“後ろの家”の上層階は、数名いた従業員に対しては、所有者の異なる空き家であると説明済みであった。彼や支援者は、そこに家具や日用品、食料を密かに運び続けた。
オットーは潜伏の準備こそしていたものの、具体的な避難の計画を持っていた訳ではなかった。ところが、1942年7月5日に、アンネの姉のマルゴットに召集令状が届いたため、一家4人は翌日に“後ろの家”に入った。その1週間後に、オットーの知人であるファン・ダーン(アンネがつけた日記上の匿名。本名ファン・ペルス)一家3人が入り、3ヶ月後に、やはり避難を希望していた人々の中でオットーが面接して選んだ歯科医のデュッセル(同。本名プフェファー)が入った。それから2年弱、この8人は、“後ろの家”の3、4階の、つごう4室で不自由な避難生活を過ごしたのである。
なぜ、オットーが都会の真ん中に潜伏しようと考えたのかは分からない。この当時、同様に潜伏した多くの人々は、避難先として農家や森の中を選んだようだが、それにくらべれば、都会の中の方が遙かに快適だと考えたから、とは想像できる。アンネやマルゴットは、隠れ家の中で図書館の本を読み、偽名による通信教育も受講していたから、オットーが娘たちの教育を考えて都会を選んだとも言えよう。『アンネの日記』を読むと、彼らは、1年程度で自由になれるようにも考えていたようだ。実際の潜伏はかなり慌てたものであったから、当初は、もう少し異なった計画も考えていたのかもしれない。いずれにせよ、現実には、彼らは、他人に気づかれ、密告される不安を常に抱きながら、“後ろの家”で暮らし続けたのであった。
現存するアンネ・フランク・ハウスは、フランク一家が避難した当時の状態を良く保存していた。
“後ろの家”の入り口が隠された3階渡り廊下の突き当たりの本棚。これは、本棚ごと秘密の扉が片開きに開くように細工されていた。3階の隠れ家に入ると、そこには、フランク家の居間とアンネの部屋がある。アンネが「急で足の骨を折りそう」と表現した“オランダ名物”の急階段を登ると、4階は、ファン・ダーク夫妻の居間と夫妻の一人息子ペーターの部屋。ペーターの部屋から屋根裏へ登ると、そこには、“後ろの家”で唯一、誰にも見つかる心配なく空を眺めることができるアーチ式窓があった。そこからは、アンネに常に「勇気を与えてくれた鐘」が鳴り響く西教会の尖塔が見える。4階からは、この家がミュージアムになってから新たに造られた通路を通って、“前の家”の4階の展示室へ戻る。そこには、赤いチェックのクロス地の表紙のアンネの最初の日記帳が展示されている。この日記帳は、“後ろの家”へ避難する前の1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日に両親から贈られたものである。アンネは、この愛らしい日記帳をもらったのが嬉しくて、これを“キティー”と名づけて、自分の心をうち明けられる唯一の親友宛の手紙という想定で、その日から日記をつけ始めた。
その日の日記には、次のようにある。
「1942年6月12日
あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。」
(『アンネの日記』の引用文はすべて、深町眞理子訳の文春文庫・増補新訂版による。)
そのおかげで、我々は、ユダヤ人の迫害に関する記録文学の傑作であり、また、アンネ・フランクという少女の心の成長が綴られた日記文学の傑作を今日でも読むことができるのである。
2.作家としてのアンネ・フランク
『アンネの日記』を読むと、作者のアンネ・フランクが、13歳の誕生日を迎えた日から、日記が中断する15歳の夏までの2年余りの年月の間に大きな心の成長を遂げたことがよく分かる。それも、そのほとんどが、この狭く窮屈な隠れ家の中でのことであった。
日記を書き始めた頃のアンネは、同姓の女の子たちに対してはかなりあけすけに好悪の情を抱く一方で、異性の男の子たちからちやほやされることを自慢気に記す、おしゃべりでいくぶん我が儘な子供であった。そのことを注意する両親にも不満の感情を露わにしている。同居することになった3歳年上のペーターに対しても、「ちょっぴりぐずで、はにかみ屋で、ぶきっちょな子」で、おもしろい遊び相手にはなれそうにないと嫌っていた。
ところが、隠れ家の生活の中で、やがて彼女は内省的になり、また、そのピーターを密かに愛するようになった。性への関心やあこがれも抱くようになった。そうなると、日記も、同居人どうしのいざこざや母や姉への不満、外の世界の悲惨さを細かく記していたそれまでの記述から、自己の内面を見つめる内容に変わり、彼女が実際には狭い隠れ家に暮らしていることも忘れるような、叙情的な文章となってゆく。
先の見えない状況の中で、彼女は人生の意味や目的についても思いを巡らす。そして、自分は作家になって皆に喜びを与える存在になりたいと願うようになった。
「わたしは世間の大多数の人々のように、ただ無目的に、惰性で生きたくはありません。周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、実際にはわたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること! その意味で、神様がこの才能を与えてくださったことに感謝しています。このように自分を開花させ、文章を書き、自分のなかにあるすべてを、それによって表現できるだけの才能を!
書いていさえすれば、なにもかも忘れることができます。悲しみは消え、新たな勇気が湧いてきます。とはいえ、そしてこれが大きな問題なんですが、はたしてこのわたしに、なにかりっぱなものが書けるでしょうか。いつの日か、ジャーナリストか作家になれるでしょうか。
そうなりたい。ぜひそうなりたい。なぜなら、書くことによって、新たにすべてを把握しなおすことができるからです。わたしの想念、わたしの理想、わたしの夢、ことごとくを。」(1944年4月5日の日記)
アンネがこの夢を日記に綴った1週間ほど前に、亡命中のオランダのボルケスタイン大臣が、ロンドンからのオランダ語放送の中で次のように演説した。
「歴史は決して公式の文書や記録類という形でのみ綴られるものではない。我々国民がこの年月を如何にして堪え忍び最終的に勝利を得たか、後世の人がすべてを知りたいと思ったら、その時はまさに簡単な言葉で書かれた読み物−日記、ドイツで働く労働者からの手紙、聖職者の説教の記録−などが必要とされるのだ。この簡素な、日常を記した読み物を膨大に集めることができれば、それはこの自由への闘争を深く、輝くばかりに描いた絵画になるだろう」(引用は、『アンネ・フランク・ハウス ものがたりのあるミュージアム』より)。
このラジオを聞いた隠れ家の皆は、アンネが常に書いている日記に注目しだした。アンネもまた、自分の日記が、戦時の記録として歴史に残ること意識し、戦争が終わったら、この日記を材料にして、『後ろの家』と題する本を書きたいと考え、また、そのために、日記を書き直し始め、同居人の本名も匿名に修正された。
『アンネの日記』は、1944年8月1日の記述で終わっている。
3日後の8月4日に軍服を着たナチスとオランダ人の補佐兵がやってきて、オットーの会社の同僚で、避難者を秘密裏に援助していたクグラーに迫り、3階の“後ろの家”に通じる秘密扉を開けさせ、隠れ家の8人全員を連行していったのである。外部の何者かが、彼らの存在を当局に密告したのであった。
アンネ・フランクの日記は、オットーが、ナチスに連行される際に自分のブリーフケースに大切に収めたが、ナチスは、そのブリーフケースを取り上げ、中身を床に振り落としてから、自分にとって価値有る他の物を詰め込んだ。こうして日記は“後ろの家”に残り、のちに、オットーの会社の女性社員であったミープに拾われ、大切に保管されることになった。
連行された隠れ家の8人は、ウェステンボルクにある一次収容所に収容されてから、アウシュビッツ強制収容所に送られ、そこから他の収容所に送られる過程で、飢餓や疲労、ガス室送りなどで次々に亡くなっている。アンネ・フランクは姉のマルゴットと共に、アウシュビッツにソ連軍が迫った際、ナチスによる“避難輸送”の名目でベルゼン=ベルゼン強制収容所に送られ、そこでチフスに罹かって相次いで亡くなった。それは、イギリス軍がベルゼン=ベルゼン収容所を解放するわずか1ヶ月前、1945年3月の事であった。
ただ一人生き残ったのは、アウシュビッツが解放されたときにソ連軍に収容されたアンネの父オットーであった。
アムステルダムに戻ったオットーは、ミープから彼女が保管していたアンネの日記類を受け取り、食い入るように読みふけった。そして、その公表こそがアンネの遺志であると考えて出版を決意し、出版社との交渉を重ねた。こうして、アンネの日記は、1946年6月、『後ろの家』というタイトルで出版された。わずかに初版1500部だったが、この本はたちまち評判を呼んで各国で翻訳本が出版され、のちに、オランダ語で書かれた本でもっとも多くの言語に翻訳された本となった。
アンネ・フランクはホロコーストの犠牲者の一人として命を失ったが、彼女は生前の希望通り、作家に、それも世界的に著名な作家になったといえるであろう。
アンネのこの「日記文学」の意義について的確に指摘したのは、夫の逝去後に熱心に平和運動を展開したエレノア・ローズヴェルト、元アメリカ大統領夫人である。
彼女は、アンネの日記のアメリカ版の序文で、それを次のように綴っている。
「アンネの日記のうちで、最も人の心を打つ特筆すべきものは、彼女自身の描写である。アンネは、その情熱、機知、英知および豊かな情操によって、感受性が非常に強く、利口な思春期の子供なら書くだろうと思われる両親との関係、自意識の発達、成人の問題を書き、かつ考えた。
これは異常な状況の下に暮らした少女の思想であり、意見である。したがって、彼女の日記は、私たち自身や、私たちの子供について、私たちに多くの事を教えてくれる。またそれゆえに、アンネの経験が私たちすべてにとって、決してひとごとでないこと、アンネの死と全世界のことに、私たちが大きな関係をもっていることを、私はしみじみ感ずるのである。
アンネの日記は、彼女のりっぱな精神と、これまで平和のために努力し、また現在努力している人々の精神をたたえるにふさわしい記念碑である。本書は私たちに豊かな、そして有益な経験を与えてくれる」(皆藤幸蔵訳、文春文庫『アンネの日記』、1972年版より。なお、現在の文春文庫版では、このエレノアの序文は収録されていない。)
3.ホロコースト(ユダヤ人に対する大虐殺)と反ユダヤ主義の「論理」
『アンネの日記』にも、生々しい描写でユダヤ人がナチスから迫害され、強制収容所へ送られて行く様子が描かれているが、ナチスはいったい、どのくらいのユダヤ人を虐殺したのであろうか。ニュルンベルグ国際軍事裁判所では、その数をおよそ600万人とし、うち400万人は殲滅施設で殺されたと判断している(藤田九一『戦争犯罪とは何か』岩波新書)。
しかし、反ユダヤ主義的な本では、その数を否定して、場合によっては一桁少ない数を指摘するのである。
私の手元には、10年ほど前に「反ユダヤ」と内外のマスコミで問題になった一方で、自身は「親ユダヤ」と主張された宇野正美氏の『ユダヤと闘って世界が見えた』という著書があるが、この本では、氏は600万人虐殺説を否定して、次のように述べる
すなわち、「第二次世界大戦中にヨーロッパ全体で六百万人のユダヤ人が殺されたといいますけど、私(宇野氏)はアウシュヴィツ収容所に二回も行って火葬場も調べましたけど、ここで数年間で四百万人殺されたのなら、あの火葬場では一日五千人から六千人殺さないとダメだけど、物理的にそれは不可能なの。本当はせいぜい四十万人という説もありますよ」。
同書の別な箇所では、「アウシュヴィツに連行されたユダヤ人らの数を少なくとも百三十万人と推定することができる。うち二十二万三千人が生き延びたか、他の収容所へ移送されたため、犠牲者は最低百十万人、多くても百五十万人と結論づけられる」というポーランドの新聞記事を紹介する。
しかし、宇野氏の議論は論理が成り立たない。すなわち、彼は、ヨーロッパでの600万人虐殺説に対して、アウシュビッツ収容所だけの知見でそれを否定しているからである。
実際のナチスは、アウシュビッツ以外に、トレブリンカ、ヘウムノ、ソビボル、マイダネク、ベウゼッツの5カ所の絶滅収容所をつくり、全部で6カ所でユダヤ人の物理的抹殺を行ったのである(アウシュビッツでさえ、本来の収容所に加えて、ビルケナウ、モノビッツという2カ所の収容所があり、つごう3カ所の収容所で構成されていた)。アウシュビッツが有名になったのは、ほかのほとんどすべてがナチスによって完全に破壊、証拠隠滅されたのに対して、そこだけが撤収時に破壊されなかったことによる。第一、ニュルンベルグ裁判所が犠牲者数を600万人と判断したのは、ヒトラーからのこの計画を指示されていた当事者アドルフ・アイヒマンの証言によるのである。
宇野氏はまた同書で、アウシュヴィツでは毒ガスでユダヤ人が殺されたのではなく、飢えや病気で死んだとして、次のように述べる。
「(アウシュヴィツでユダヤ人が死んだ原因は)飢えと病気、特にチフスです。写真で紹介されている死体も餓死しているか、腸チフスで死んだ人の写真です。だから痩せているわけね。ガスで殺された人の写真をドイツが出したためしはないんです。実際にはないから出せない。」
しかし、本当は、ナチスは徹底的に証拠を隠したから写真がほとんど無いのである。
ユダヤ系フランス人ジャーナリストのクロード・ランズマンは、1985年にナチスによるユダヤ人大虐殺を扱った映画『ショア(ヘブライ語でのホロコーストの意)』を制作したが、その映画では、過去の記録映像を使わず、収容所から生還したユダヤ人や、収容所の元ナチス親衛隊員、ユダヤ人がガス室に送られる前に髪を切った元理髪師など探しだし、説得し、彼らの言葉や、さらにはその長い沈黙を記録した。彼らの「記憶が回帰する瞬間の微妙な表情を撮影したフィルム」は150時間に上り、それを9時間半に編集して映画は完成したという。
当時、この映画のNHKでの放映を実現するために努力した柏倉康夫氏は、パリにランズマンを訪ね、また来日したランズマンと対談した。
氏がランズマンに、なぜこの映画では過去の記録映像を使わなかったのか尋ねると、氏は次のように答えたという。
「皆が知っている強制収容所と違って、ヨーロッパ中から連れてこられたユダヤ人がガス室で殺された絶滅収容所の様子を移した写真は、ナチスが撮った、たった一枚の写真以外には存在しないこと、そしてそれ以上に、この映画の狙いが、私たちの記憶の底に意識的に眠り込まされている体験的事実を意識の上に浮かび上がらせて、それを証言として積み重ねることにあった。」
「ユダヤ人絶滅政策は、その肉体を抹殺するだけでなく、そうした事実の痕跡すらも抹消してしまうという、その徹底性にこそ本質があった。殺戮の証拠がないことは、事実がなかったことを意味しない。証拠をすべて隠滅すること、それが絶滅計画の核心だった。」
柏倉氏は、この返答を聞いて、ランズマンの映画の制作手法は、映像イコール過去の記録という単純な考え方への強力な反証であると述べる(柏倉康夫『情報化社会研究』)。
写真がないから虐殺がないなどという論法は成り立たないのである。
宇野氏はさらにまた、前掲書で、「有名な『アンネの日記』。あれだって本当にあの少女が書いたのかどうかも疑わしい。調べてみると矛盾点がいっぱいでてきてるんですよ」と『アンネの日記』を偽造物と指摘している。
実は、『アンネの日記』を偽物とする主張は、1950年代から、ナチスを擁護する団体などによってしばしば為されてきた。しかし、1958年に始まったローラー・スティーロの裁判でアンネの筆跡鑑定が行われて日記が本物だと認定されている。しかし、この裁判が調停の形で集結したこともあって、アンネの日記に対する非難者はその後も、お互いの主張をうまく引用しながら攻撃を続けた。
1980年にオットーが亡くなり、遺言によってアンネの日記とほかの遺稿がすべてオランダ政府に寄贈されたたため、アンネの日記の完全版を出版する企画がなされ、それを機に、アンネの筆跡・紙・インク・糊等がすべて厳密な筆跡鑑定と科学的調査を受けた。
そのすべての結果において、日記は本物であることが証明されたのである。
したがって、宇野氏が上記の著作を著したときには、既にアンネの日記は本物であると証明されていたのであって、氏の発言はそれを知らないで為されたものであれば極めて迂闊であり、知っていても故意にそれを隠していたのであれば相当な悪意があると非難されてもしかたがない。
4.「ユダヤ陰謀史観」説
なぜ、このような反ユダヤ主義的な論調が一定の勢力を持っているのであろうか。
それは、ユダヤ陰謀史観という穿った歴史観が存在することによるのであろう。
ユダヤ陰謀史観とは、第1次世界大戦や世界恐慌などは皆ユダヤ人が仕組んだ陰謀であるとするユダヤ人悪玉史観である。
これは20世紀特有の話ではなく、中世ヨーロッパにおけるペストの流行時にも、ユダヤ人が川や井戸に毒を投げ入れてキリスト教徒を皆殺しにしようとしているというデマが信じられて、多数のユダヤ人が虐殺された例もあり、その根は深い。
根源的には、新約聖書において、ユダヤ教の祭司長や長老たちに訴えられたイエスに対して、ローマの総督ピラトが、イエスには罪がないとして無罪を言い渡そうとしたとき、裁判を傍聴しに集まったユダヤ人の群衆がイエスの死刑を求め、その結果、イエスが十字架に掛かられたとされ、「神殺しの民族」としてキリスト教徒から忌み嫌われたことにユダヤ人の受難の端緒があるとされる。
イエスの裁判において、ピラトとユダヤ人群衆との間に、聖書に書かれたような問答が実際にあったかどうか、私はよく分からない。
ただ、ローマの総督ピラトが、イエスには罪がないと本当に考えていたとすれば、イエスが刑を言い渡されてから十字架に架けられるまでの間に、彼の部下のローマ兵からあれほどひどい侮辱を受けた理由も、また、イエスの死後、その復活を信じて福音を伝えた初期キリスト教徒がローマ人によってあれほど過酷な迫害を受けた理由も理解できない。イエスはローマ兵から着物をはぎ取られ、唾を吐きかけられ、茨の冠が被せられた頭を葦の棒で何度も叩かれた。また、イエスの直弟子の一人ペトロは、ローマで逆さ張り付けの刑を受けて殉難した。ペトロの刑死場跡を記念して建てられた寺院が、バチカンのサン・ピエトロ寺院であるのは有名は話である。
いずれにせよ、この聖書のこのような記述により、キリスト教徒は、ユダヤ人を憎み迫害するようになった。そして、紀元589年に開かれた第3回トレド会議で、キリスト教によるユダヤ人差別が明文化されるようになった。ユダヤ人はキリスト教徒との結婚を禁じられ、公職にもつけなくなり、以降、ユダヤ人が糊口を凌ぐためには、金貸し業などキリスト教徒が蔑んだ仕事に就くほかなくなっていったのである。
ここに、「ユダヤ人の金貸し」というイメージが生まれることになった。特に、シェークスピアが『ベニスの商人』の中に悪徳金貸し業者シャイロックを登場させると、シャイロックの強烈な印象とともにユダヤ人に対する偏見が広がっていった。ところが、実は、シェークスピアの生きた時代、イギリスには、追放によってユダヤ人は存在しておらず、彼もまた、偏見によってシャイロックを描写しただけのことであったのである。
このように、歴史上、キリスト教がユダヤ人の迫害に大きな影響を与えていったのは紛れもない事実である。近年、ローマ法王ローマ・パウロ・2世は、ユダヤ人への歴史上の迫害にキリスト教が大きく関与していたことを公式に謝罪し、第2次世界大戦におけるナチスのユダヤ人迫害に対しても教会の抵抗が不十分だったと認めた。
しかし、私には、ユダヤ人迫害の原因は、本質的には宗教の問題ではなく、異質な人々を忌み嫌い排除する人間の性向こそにあるように思える。それは、異質な人間として欧米社会から排斥された歴史を持つ我々日本人の歴史を振り返れば明らかだ。
歴史上最も有名なユダヤ陰謀史観説は、「シオン長老の議定書」にまつわるものである。
このシオンの議定書は、ロシア皇帝ニコライ2世が広めたもので、百年に一度開かれるユダヤの長老会議が世界シオニスト会議に変わり、1897年に開かれたその第1回会議でユダヤが世界征服の陰謀を決定した、という内容の文書である。この議定書は、実は、1864年にフランスで出版された「マキャベリとモンテスキューの地獄対談」というナポレオン3世の世界征服欲をあてこすった内容の文書をそっくりユダヤに置き換えた偽書であって、1930年代には、ベルンの法廷が偽物との判定を下している。このニコライ2世は、強烈な反ユダヤ主義者で、かつ日露戦争後に世界中に巻き起こった日本人排斥論、すなわち黄禍論の熱心な主唱者でもあった。この皇帝が、ユダヤ人陰謀史観を大々的に唱道し、黄過論を首唱したのであった。
黄禍論の被害者であり、キリスト教における悪しき呪縛から自由であった日本人は、本来ならば、この皇帝のプロパガンダの本質を見抜き、シオン議定書のペテン性を論破しなければならない立場にあったと思うが、実際はその逆で、シベリア出兵でロシアに遠征した日本軍は、土産としてシオン議定書のコピーを持ち帰って日本で流布し、中でも、陸軍将校だった四天王延孝などは、先頭に立って反ユダヤ主義を唱えた。
欧米社会に黄禍論の嵐が吹き荒れ、アメリカでも日本人移民を制限する法律も成立し、いわば「世界中で日本人お断りの立て札」(徳富蘇峰)が立ち並んだとき、日本国内では、ユダヤ禍が唱えられたのである。
もちろん、吉野作造や満川亀太郎等、ユダヤ禍論を批判した論者もあった。冷静に考えれば、黄禍論も反ユダヤ主義も根っこは同じで、その本質が、異質な者に対する排除という人間の性である。しかし、それを見通せず、ロシアの反ユダヤ主義者のお先棒を担いだ日本の軍人が多かった訳だが、終戦時、彼らはこの本質を痛いほど思い知らされた。すなわち、東京裁判で戦勝国から、今度は日本が、国を挙げて世界征服の共同謀議を図ったと起訴されたからである。その起訴の証拠とされた「田中上奏文」は世界征服の青写真を描いたものとされたが、これもまるきりの偽書であった。そこにはシオン議定書事件と同じ構図が見られるのである。
さて、ふたたび『アンネの日記』に立ち返ろう。ユダヤ人であるアンネ・フランク一家の生き様を振り返り、アンネの日記の偽りの無い記述を示すことが、ユダヤ陰謀史観やユダヤ人に対する偏見の無根拠性を指摘する具体的な例証となるからである。
まず、第1次世界大戦はユダヤ人が起こしたものだ、とする陰謀史観説に対しては、アンネの父オットーの生き様を紹介したい。
彼は、フランク銀行という銀行家の子孫で生まれは裕福だったが、第1次大戦によって事業は大きな損害を受け、再起を掛けてアムステルダムに銀行の支店を設立、しかし数年の後に支店はつぶれてしまい、かえって多くの負債を抱えてしまった。そして彼は銀行を見限り、ようやく、ジャムの保存料であるペクチンの代理店業を開業することによって生計を立て直している。仮にも、第1次大戦がユダヤ人の陰謀によって起こされたのなら、戦争によってユダヤ人は大儲けするはずだが、事実はフランクのような被害を蒙った者が多かった。一部の者は戦争で儲けたこともあっただろうが、それはユダヤ人に限ったことではない。
アンネは日記で、迫害されたユダヤ人たちが言い伝えてきた次の言葉を「むかしながらの真理」として紹介している。
「ひとりのキリスト教徒のすることは、その人間ひとりの責任だが、ひとりのユダヤ人のすることは、ユダヤ人全体にはねかえってくる。」(1944年5月22日)
根強い選民思想というユダヤ人に対する偏見に対しては、アンネが恋心を抱き始めた隠れ家の同居人ペーターとのやりとりを記した彼女の日記の次の箇所を紹介したい。
「もしもぼくがキリスト教徒だったら、こんなひどい目にあわずにすんだろう、なんなら戦後はキリスト教徒になるのもいいかな、などと言うのを聞いて、じゃあ洗礼を受けたいのかとたずねると、そういうわけでもないという返事。どう考えても、キリスト教徒らしい気分にはなれそうもないけど、戦争が終わったら、ユダヤ人だってことは、だれにも知らせないようにするつもりだ、そう言うのです。これにはちょっと胸が痛みました。ペーターにはほんのわずかですが、こういう不正直なところがあるみたいで、それがまことに残念に思います。
そのあとペーターは、こうも言いました。『ユダヤ人はつねに選ばれたる民だったし、これからもずっとそうだろう』って。
ですからわたし、こう言い返しました。『わたしね、いつもこう思っているわ−一度でもいいから、“いい意味で”選ばれるといいんだけど、って』。」(1944年2月16日)
一方で、アンネの日記を読むと、フランク一家が他宗教・キリスト教についても大変に寛容で、それを学ぼうとしているし、キリスト教最大の祝日であるクリスマスも楽しみにしていたことが分かる。
「わたしにもなにか新しいものを始めさせたいと考えたパパは、クレイマンさんに頼んで、子供向きの聖書を買ってきてもらいました。というわけで、この年になって、ようやくわたしも新約聖書について、多少のことを知ることができるようになったわけです。」(1943年11月3日)
「わたしのほうからも、ミープとベップにクリスマスの贈り物があります。これまですくなくとも一ヶ月ほど、毎朝のオートミールに入れるお砂糖を節約して、ためておいたんです。これからクレイマンさんに手伝ってもらって、そのお砂糖でクリスマスの砂糖菓子をつくろうというわけ。」(1943年12月22日)
アンネは日記の中で、ユダヤ人の悲劇の歴史を振り返り、いつの日か一人の人間として生きてゆくことにあこがれた。そして、その時が来るまでは、ユダヤ人であることを自覚して、迫害に負けず強く生きることを誓った。
「このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかはきっとわたしたちがただのユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。
いったいだれがこのような苦しみをわたしたちに負わせたのでしょう。だれがユダヤ人をほかの民族と区別させるようにしたのでしょう。だれがきょうまでわたしたちを、これほどの苦難にあわせてきたのでしょう。わたしたちをいまのようなわたしたちにつくられたのが神様なのは確かですが、いつかふたたびわたしたちを高めてくれるのも、やはり神様にちがいありません。わたしたちがこういったもろもろの非難に耐え抜き、やがて戦争が終わったときにも、もしまだユダヤ人が生き残っていたならば、そのときこそユダヤ人は、破滅を運命づけられた民族としてではなく、世のお手本として称揚されるでしょう。ことによると、世界じゅうの民族が、わたしたちの信仰から良きものを学び取ることさえあるかもしれません。そしてそのためにこそ、いまわたしたちは苦しまなくてはならない、そうも考えられます。」(1944年4月11日)。
この日記を書いたアンネ・フランクは、生き残ることができず、ホロコーストの犠牲となって死んだ。彼女の母も、姉も。“後ろの家”の同居人であったファン・ペルス(ファン・ダーン)一家3人も、デュッセッル(プフェファー)も亡くなった。ヒトラーのユダヤ人絶滅計画で世界の約600万人ものユダヤ人が犠牲になった。
大虐殺の惨禍の中、生き残ったユダヤ人の数は、当時のユダヤ人総人口のうちの60%ほどしかない。
それでは、戦後、かろうじて生き残ったユダヤ人は、アンネの願いのとおり、人類の手本として称賛されたであろうか。あるいは、世界中の民族が、ユダヤ人の信仰や生き様から優れたものを学び取ったであろうか。
私には、そうは思えない。戦前と変わらず、ユダヤ人に対する偏見や差別が続いているように思える。
ユダヤ人の迫害の歴史を通して人類が学ぶべきものは、他宗教、他民族、他文化、他習慣をもつ人々に対する寛容の精神である。この精神が薄れるとき、だれもが迫害や差別の対象とされうる。その意味で、エレノア・ローズヴェルトの述べた「アンネの経験が私たちすべてにとって、決してひとごとでないこと、アンネの死と全世界のことに、私たちが大きな関係をもっていることを、私はしみじみ感ずる」という言葉は正しい。
5.アンネのバラ
一方で、自分の身の危険を恐れずに寛容の精神を発揮した人々も多い。フランク一家ら“隠れ家”の人々を支援したオランダ人のキリスト教徒もそのような人々である。その中の一人のファン・フーフェンは、自宅にも二人のユダヤ人をかくまっていたためにそれが見つかり、ナチスに逮捕されている。
さて、この物語りのエピローグとして、私は一つのエピソードを紹介したい。
1971年、日本のキリスト教団体・聖イエス会の合唱団が、海外演奏旅行でイスラエルを尋ねたとき、一人のユダヤ人と知り合った。アンネの父オットー・フランクである。
翌年のクリスマス。オットーから「アンネの理想と理念に深い理解を寄せてくれるあなたにアンネのバラを託します」という手紙が添えられて、バラの苗木が10本贈られた。そのバラは、ベルギーの演芸家デル・フォルグ氏が育成した新種のバラで、『アンネの形見のバラ』と命名してオットーに贈ったものであった。
しかし、輸送の問題から10本の苗木のほとんどは根づかず、京都の嵯峨野教会の庭に植えられたわずか一本の苗木だけが翌年花を咲かせた。
それから数年後、さらにオットーから更に10本の苗木が贈られた。教会やその依頼を受けた園芸家は、このアンネのバラを広める事が、アンネの平和への願いを伝えることだと考えてこのバラを大切に育成し、世界中で唯一、日本だけにこのバラが広まり、今では1万本以上のアンネのバラが各地で咲いているという。
オットーから託されたアンネのバラが、日本を起点として、これから世界中に広がってゆくことを私は心から願うのである。
<参考文献>
・アンネ・フランク・財団編『アンネ・フランク・ハウス ものがたりのあるミュージアム』Sdu出版 1992年(本書はアムステルダムのアンネ・フランク・ハウスで入手したもの)
・アンネ・フランク著/深町眞理子訳『アンネの日記』(増補新訂版)文春文庫 2003年
・滝川義人『ユダヤを知る事典』東京堂出版 平成6年
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/05/13
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