最初へ

最初の私費留学生

 第1章 岩倉使節団の一員としての新島襄

 

 1 新島の帰国後のビジョンの形成と帰国に関する悩み

 明治四年(1871)三月十五日、新島襄は、ボストンで初めて森有礼と対面した。

 新島は当時二十九歳。前年にアーモスト大学を卒業し、アンドーヴァー神学校で神学を学んでいた。

 アーモスト大学時代の新島は、ひたすら学問を修めることに執心し、帰国後に自分が行うべき活動については、具体的には、弟雙六を相談相手として、キリスト教伝道及び学んだ書物の翻訳により国民を啓蒙することなどを考えていた。

 

(さて)小子(=新島自身)義は(中略)唯偏(ひとへ)ニ聖人の明道を修め我国人をして人間(かく)()からさるの道を知らしめんと存し」

「小子義(いづ)レ帰朝の上は色々修行仕候(つかまつりさふらふ)書物を日本語に訳し(たく)候故、同人義(雙六)を小子の相談相手といたし度存候」

(いずれも1869年5月10日付新島民治宛新島書簡、以下和文の新島書簡は『新島襄全集3』に、英文の新島書簡は『新島襄全集6』に拠る。)

 

 それは、彼は既に、キリスト教の伸張及び科学技術教育の発達の二点を日本の国家興隆の為の策として心中に抱いていたからである。

 

「当時(現在)は実ニ国家一振(=新)の時ニして是非とも男児の研窮し聖道を修め、且窮理精密機械等の学を盛にし、我日本をして欧羅巴各国に斉しく振はしめんの時にそんし候」(同年6月16日付新島民治宛新島書簡)

 

 その新島が、アンドーヴァー神学校に進学すると、キリスト教伝道と自然科学を中心とする学問教育を二つ並行して行うべき帰国後の自分の事業として明確に意識するようになった。後年彼が創設した同志社の教育の特色となる、キリスト教主義教育による「智徳並行の薫陶」を当時既に志していたのである。

 

「小生も頗る此道(=キリスト教)に志し、当今は『アンドワ』邑の神学館に此道を攻め居候故、何れ帰国之上は此道を主張し、有志之子弟ヘ相伝へ、(ますます)国を愛し民を愛するの志を励まさん事を望む、且兼て学びし地理、天文、窮理、精密等の学をも伝へ、富国強兵之策を起すのみならず、人々己を修め、独を慎むの道を教へんと存候」(1871年2月25日付飯田逸之助宛新島書簡)

 

 しかし、また彼の心の中では、帰国すべき時期が近づくにつれ、維新前に自分が行った脱国の罪が免ぜられて本当に帰国が出来るのか、更に、未だ国禁となっているキリスト教の福音を日本で伝えることができるのか、この2点が逼迫した問題となっていた。

 前者に対しては、彼が脱国した元治元年(1864)から2年後の慶応2年、既に幕府は学術・商業の為の海外渡航を許可しており、実際に新島は、アメリカで何人かの留学生に会っていることから、彼は、それほど問題なく帰国ができそうであるとの見通しをもっていた。

 

「貴殿知る所之如く乃兄(新島)は政府之許免を受ず夜半に楯〔函〕館より出航せし故、其罪国刑を免れさるを不得、然し国家一変せしより法例も定而変革し、乃兄帰朝之義も可相叶とそんし候」(同年2月11日付新島雙六宛新島書簡)

 

 ところが、後者に対しては、明治政府が江戸幕府の方針を堅持しており、肥後国浦上村(現長崎市内)での大規模なキリスタン弾圧(浦上崩れ)は列強との外交問題にまで発展していた時期でもあり、新島としても、キリスト教の布教は必ず政府より厳刑を加えられるものとの厳しい認識をもっていた。

 

「(キリスト教は)国を愛する真男子学バざるを得ざるの道とそんし候、然し是は国禁なる故、若し小生此道を講せは必らす政府より厳刑を加へんと存候、(中略)何卒先生政府之有司と内々御談判被成、小生帰国之義相叶候様御周旋被下候ハヽ小生ニ於而判万謝之至ニ候、且此福音を講し候ハヽ矢張旧例之厳刑を加ヘ候哉、右之段も内々御鑿索可被下候」(同年2月11日付飯田逸之助宛新島書簡)

 

 新島は、脱国時に箱館行きを世話してくれた安中藩大目付の飯田逸之助宛に、自分の帰国が叶うよう政府有司に周旋の労をとってくれるよう、また、帰国後自分が福音を伝えた場合に政府より罰せられるのか政府の意向を調べてくれるよう、切々と手紙を書いたのである。

 

 そのように思い悩んでいた時、新島は森と出会った。

 

 2 新島と森有礼との出会い

 従来の新島伝では、新島と森有礼の関係は、1871(明治4)年3月15日に、森が突然、ボストンに新島を呼び出したところから始まり、その出会いの経緯までは触れられていない。

 たとえば、和田洋一著『新島襄』では、「新島襄と森有礼の2人が、初めて顔を合わせたのは、その年の3月15日、場所はボストンであった」(P129)とある。

 このような記述の仕方は、新島の手紙を元にした為であるように思われる。新島が初めて森のことを記した手紙は、同年3月21日付のフリント婦人あてのもので、その中で新島は、唐突に「先週の水曜日(3月15日)に、ミカドからワシントンに派遣されている日本の公使、森(有礼)にボストンで会いました」と話を切り出し、その出会いの経緯に関しては、全く触れてなかったのである。

 たしかに新島からすれば、森有礼は突然現れた人物であったろう。しかし、筆者の考えでは、森自身は、既にその4年前の1867(慶応3)年から、新島のことを知っていたはずなのである。

 

 新島より4歳年下の森有礼は、薩摩藩出身で、新島が脱国した翌年の1865(慶応元)年、18歳で藩の英国留学派遣団の一員としてイギリスへ渡り、他の留学生仲間と共に、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジで修学した。後に英国留学の経験を買われて政府の要職に着いたが、固持した廃刀論によって世の批判を浴びて辞職。今、新たに最初の少弁務使に任ぜられてアメリカに赴任したばかりであった。

 森の任務は、アメリカ政府との折衝と留学生監督だったが、とりわけ後者が重要だった。前述したように、慶応2年の幕府による海外渡航の解禁以来、実に多くの日本人留学生が海外に渡り、当時(1870~71)その数は既に、アメリカへ149人、イギリスへ126人、ドイツへ66人、フランスへ42人となっていた(石附実『近代日本の海外留学史』)。海外留学生の面倒をみることは、彼らを通じて西洋文明を輸入して日本の近代化を推し進める為にも政府として重要な仕事だったのである。森はアメリカ着任直後にも、静岡藩出身の南校(旧大学南校、後の東京大学)派遣留学生目賀田種太郎と会い、彼の要望を聞いて米国内務省教育長官ジョン・イートンに紹介して、彼がハーバード大学に入学できるべく骨を折っている。目賀田は後年、専修学校(後の専修大学)を創っている。

 

 森は英国留学時代(1865~67)、下院議員ローレンス・オリフェントに大変世話になり、オリフェントの影響を受けて、アメリカの宗教家トーマス・レイク・ハリスの信奉者になった。

 オリフェントは、かつて駐日イギリス公使館一等書記官としてわが国に滞在し、水戸浪士による東禅寺イギリス公使館襲撃事件で負傷してもなお親日感情を強く持ち続けていた人物である。また、彼は当時文筆家としても著名で名声の頂点にあったが、自身は非常に内省的な人物で、その成功に一種の空しさを感じ、また、西欧列強の侵略主義にも疑問を持ち続けていたためにハリスに傾倒していた。

 このハリスは、独自の信仰を持った宗教家で、その信仰の真髄は真のキリスト教精神であったが、それにスウェーデンのスウェーデンボルグの教説とユートピア社会主義などを交えたものが彼の教義だといわれる。ハリスは、単に個人の救済のみならず、社会問題の解決も強く志向して、ニューヨーク州アメニアにコロニーを建設し、勤労奉仕しながら真のキリスト教回復と理想社会の実現を目指す活動を行っていた。

 1867(慶応3)年7月、オリフェントが人間の真の生きる道を見いだす為、地位も名誉も一切捨ててハリスのコロニーへ旅立つと、森もオリフェントを追うようにして、直ちに留学生仲間5人(畠山義成、鮫島尚信、吉田清成、市来進十郎、長沢鼎)と共に渡米し、ハリスのコロニーに移り住んで、農耕や葡萄栽培などの厳しい労働奉仕に就いて自己再生への道を歩み始めた。

 同年10月下旬、ハリスの新しいコロニーが、ニューヨーク州エリー湖畔のブロクトンに建設された。そこは、2千エーカーに及ぶ広大な土地に葡萄農場、牧場、製粉所、醸造所をはじめ店舗や学校、体育館までがある、まさに「エリー湖のエルサレム」と称するのにふさわしい施設であった(以上、森、オリフェント、ハリス関連の記述は、主に犬塚孝明『人物叢書 森有礼』に拠った)。

 移転の段取りの都合で、日本人組6名のうち2名(鮫島、吉田)が先に移動し、森ら4名(森、畠山、長沢、市来)は、12月29日にブロクトンの新コロニーへ移った。そこには、日本人2人の他に、同じ薩摩藩からアメリカのモンソン・アカデミーへ派遣された留学生たちが新しく加わっていた。すなわち、湯地定基、江夏蘇助(喜蔵)らである。

 実は新島は、このモンソン・アカデミーの薩摩藩留学生たちと親交があった。特に湯地定基は、森がコロニーに移る直前の11月25日に、モンソンの仲間1名と共にアーモストに新島を訪ねて、2、3日ほど新島と一緒に居て宗教問題について話し合い、新島によって、「キリストのために、祖国の人々に何かよいことをしたい」と望むようになった人物にほぼ間違いがないのである(1867年12月1日付フリント婦人宛新島英文書簡)。彼らがコロニーの住人になってまもなく、森もまたコロニーの住人となった。

 従って、記録は残されていないが、森は当然、湯地らモンソン・アカデミーから来た仲間たちから新島の話を聞いていたはずなのである。

 当時森は、ハリスの教義に夢中であったためであろう、新島に会いに出かけるまでの行動は起こさなかったろうが、広い意味では同じキリスト者同士として、また、自分よりも勉学の進んだ先輩として、機会があれば新島に会ってみたいと考えたはずなのである。事実、森の初めての新島との会合は、森が少弁務使としてアメリカに着任した直後、懐かしいコロニーに恩師ハリスを訪ねてワシントンへ戻る途中に、わざわざボストンまで新島を訪ねて行われたものであった。

 

 さて、新島は森と、カトリックとプロテスタントの両者の相違の問題、及び自分の帰国の方法などを話し合った。

 まず、前者に関して、当時の新島は、プロテスタントをカトリックとは明確に区別しており、カトリックは、ローマ法王に随従して神を忘却し国を衰えさせるが、プロテスタントは、唯一神様だけを信奉し、民を愛する志を養い、国を栄えさせる、と考えていた。彼は、このことを森に語ったようである。新島の認識には、当時終わったばかりの普仏戦争(1870~71)におけるプロイセンの勝利があったようであるが、次の引用文は、彼のこの頃の認識を明確に述べた書簡の一部である。

 

 「兼て『ポルチュギース』人の日本に参り伝へし道は、当今強大なる英国、『プロイセン』、合衆国にて信奉せる教道とは、大いに相違甚大なる誤あり、『ポルチュギース』人の中には、『キリシタン』宗門に入る者は羅馬の法王に随、且法王を随拝せねばならぬ云々、然し亜国(アメリカ)に行れる教は、実に独一真神の真理にして、我等の奉拝する所の者は、唯不可見の『ゴッド』、我輩及び万地万物を造れる天帝なり、扨此真神を奉拝し、且真神を愛せば、必らす国を憂へ、民を愛する志を起さん、且富国強兵、かつ人心を一致せん事、此妙道に如く者なからんと存候、如何となれば、羅馬法王の『キリシテヤン』宗門を奉ずる者、益其勢を失へり、例令ば羅馬、『イタリア』、『スペイン』、『オーストリヤ』、『ポルチュギース』、仏郎西等の国は、一時強大なりしも、今は遙に英国、亜国、『プロイセン』等の下に居れり、強兵にほこれる仏人も、今度『プロイス』人との戦争には大いに敗北し、有名なる国都『パリス』も十日前に『プロイス』人の手に入り、十八万の仏兵「プロイス」に降参せり、さて小生申せし通、『ゴッド』を信奉する国は、甚栄へ、之を忘却する人民は必らす亡ぶと申候」(1871年2月25日付飯田逸之助宛新島書簡)

 

 森は、これに呼応するように、現在、日本政府の上層部が、カトリックとプロテスタントの間に大きな相違があることをわかり始めていることを新島に話した。そこで、新島は、森の言葉に力を得て「2、3年以内に政府がプロテスタントの宣教師たちに対して国を開くであろう」(同年3月21日付フリント婦人宛新島英文書簡)との見通しを得たのである。

 一方、新島の帰国の問題に関しては、森は新島に向かって、もし新島が日本政府宛に手紙を書き、自分が何者でアメリカで何を勉強しているか、また帰国の意志があるのか等を簡単に記すならば、その手紙を日本政府に転送して旅券を取得してあげようと申し出た。森は更に、アメリカにおける新島の後見人であったアルフィーアス・ハーディーに対して、新島への全出資金を支払うため、それまで新島のために使った全支出分のリストを提出して欲しいとの要請も行った。

 ハーディーに対する森の要請に対しては、新島は、「私はむしろ自由な日本市民としてとどまり、全力をあげて主の御用のために貢献したい」(同年3月21日付フリント婦人宛新島英文書簡)と考えて、ハーディーに対して即座に、その要請を受けないよう手紙を書き送った。このことは周知の事実である。

 そして、その延長線上の発想から、新島による政府宛の手紙に関しても、彼は、森の要請に反して、これを提出しなかったとされる評伝記述が多い。たとえば、『新島襄の生涯と手紙』の注解でも「この請願書は提出せずに終わった」とある。

 しかし、1871年9月5日の父民治宛の新島の書簡に「去春亜国の少弁務使森有礼殿の御周旋ニ而 朝廷へ亜国留学の趣委細申上候処、今度大学よりの免状と外務卿より外国への通行状とを投下し賜へり(傍線引用者)」とある。また、筆者が、国立公文書館所蔵の公文録を調査した結果、米国留学生新島七五三太帰朝ノ儀差止伺に、「米国留学生新島七五三太帰朝ノ儀申立ノ処同人ヨリ別紙ノ通申立候趣文部省へ伺出候二付」(壬申=明治5年=正月18日黒田開拓次官)と記載されていることが判明した。ただし、この公文禄は、原本が火災で消失し、現存するものは、その手書きの写しであり、肝心の新島が書いたであろう「別紙」は添付されていなかった。『新島先生書簡集(続)』にある、新島の「請願帰朝之書稿」は、おそらく、新島が政府に提出した書簡の草稿のように思われる。ともあれ、事実は、新島は、森の求めに応じて、政府に書簡を提出したのである。

 ところが、新島は、その書簡に自分のキリスト教信仰を明記しなかったため、書簡を書き直そうか否かと、思い悩むことになる。結局、自分がキリスト教信仰を持ち、神学校で神学を学んでいるということが日本政府に知れると、キリスト教など学ばずに「何か(別のことを)学べ、といった命令を(政府から)受けるだろう」(同年6月13日付ハーディー婦人宛新島英文書簡)という憂慮によって、彼は、書き直しを断念したのであった。

 さて、このようにして、新島の最大の悩みである、日本におけるキリスト教、特にプロテスタントの布教と、新島の帰国の問題が、森と出会ったことによって、一挙に解決したのである。

 

 ところで、一方の当事者である森は、新島と会った時から、新島の才能を高く評価することになった。新島と出会って2ヶ月後の5月16日には、森はいきなり新島をアーモストに呼び出して2日を費やし、日本に設立するアメリカ式の学校の責任者になってもらうよう説得を続けたのである。その後も、森はしばしば新島に手紙を送って色々の相談事を行い、時には招いた。森は、新島と会う時は、いつも彼の旅費をすべて負担してくれた。

 

「亜国弁務使森従五位より度々御書状を下され、色々の事件等御相談被成下、且折々は御招き被下、路用入費は不残官より御払被下候」(同年9月5日付新島民治宛新島書簡)

 

 新島は森の信頼するブレインとなったのである。

 

 3 新島と田中不二麿との出会い

 新島が初めて森と出会ってから7ヶ月後の1871(明治4)年10月、マサチューセッツ州セイレムで、アメリカン・ボード(米国海外伝道委員会)の第62年会が開かれ、新島は、ここで日本に旅立つJ・D・デーヴィスと邂逅した。

 一方、ちょうどその頃、日本では、岩倉遣外使節団が公然と組織されていた。一行の総勢は50名弱。明治政府の最有力者を網羅したもので、使節団員とは別に、40数名の私費・官費留学生他が同行するという百名近くの大使節団であった。

 使節団の目的は、大別すると次の3点である。

 

 第1 条約締結国を歴訪して元首に国書を捧呈し、聘問の礼を修めること

 第2 各国の制度・文物を親しく見聞してその長所を採り、我が国の改革に活かすこと

 第3 税権、法権の回復によって絶対平等の条約を結びたい希望を各国に伝え、翌年に迫った条約の改正期限を数年後に延期することに承諾を求めること、すなわち、条約改正の予備交渉をすること

 

 ここで、新島と直接関係する第2の各国の調査研究の目的についてより詳しく述べれば、「全権理事官ハ之ヲ各課ニ分チ、各其主任ノ業務ヲ担当スベシ」として、それぞれ分担を定めて、(1)制度法律、(2)理財会計、(3)教育、(4)軍政の4項目について、理論、規則、方法等を調査研究することと定められた(田中彰『岩倉使節団 明治維新のなかの欧米』)。

 

 10月12日に文部大丞に就任した尾張出身の田中不二麿は、同月22日、現職のまま理事官に任じられて岩倉使節団の一員として教育関係の視察を担当することになった。彼の具体的任務を確認すれば、「各国教育ノ諸規則、及チ国民教育ノ方法官民ノ学校取建方、費用集合ノ法、諸学科ノ順序、規則及等級ヲ与フル免状ノ式等ヲ研究シ、官民学校、貿易学校、諸芸術学校、病院、育幼院ノ体裁及現ニ行ハルゝ景状トヲ親見シ、之ヲ我国ニ採用シテ施設スヘキ方法ヲ目的トスヘシ」というものであった(大久保利謙『岩倉使節団の研究』)。

 翌年2月初旬頃、新島は森から、岩倉使節団に協力し、アメリカの教育制度について報告するよう具体的な要請を受け、そのための勉強を開始した。その頃、すでに使節団はアメリカ西海岸に上陸し、諸都市を訪問後、東海岸に向け大陸横断に出発しており、新島も使節団の動向は新聞報道などで注目していたはずであった。

 2月29日、いよいよ岩倉使節団はワシントンに到着した。

 2日後の3月2日、新島は森から「できるだけ早くワシントンへ来て、使節団に協力してほしい」旨の電報を受け取って、家族同様につきあっていたミス・ヒドゥンにさえも挨拶できぬほど大慌てでアンドーバーを出立し、途中、ボストンに立ち寄ってハーディー家に宿泊し、マサチューセッツ州議会教育局のホワイト長官に会ってアドバイスを受け、7日の朝ワシントン入りした(1872年3月12日付ヒドゥン宛新島英文書簡)。

 ワシントンはみぞれ混じりのひどい気候で、長旅の上にリューマチ持ちの新島にとっては大変つらいものであった(新島同書簡)。新島は、その日非常に疲れていたので休息を取り、翌8日の朝、使節団の宿舎であるアーリントンハウスを訪れ、12人の日本人留学生と共に田中理事官の面接を受けた(同年3月8日付ハーディー夫妻宛新島英文書簡)。

 この面接場面は、ドラマチックなもので、新島自身が書簡に活写しており、自由人たらんとする新島の姿勢を示すエピソードとして大変有名になったものである。すなわち、他の留学生たちが、田中理事官にうやうやしく日本風のお辞儀をしたのに反して、新島はお辞儀をせずに、部屋の隅に直立して、田中の方が新島のそばに近づいて握手を求めたのを待った。書簡では、この時の新島の振舞いは、森が田中に対して、新島は日本政府の奴隷ではなく、理事官と対等な契約を結ぶアドバイザーであり、理事官の友人として対するべきである、と彼を紹介したことを受けたものとして述べられている(ハーディー夫妻宛新島同書簡)。田中は、部屋の隅の新島を認めると、椅子から立ち上がって彼の方へ進み、握手を求め、自分から「60度」のお辞儀をした。これに対して、新島もお返しに「60度」頭を下げた。新島は、田中からの扱いがこれほどまで丁寧であったことに対して、心の中で笑わずにはおられない、と感激している(新島同書簡)。

 しかし、田中はなぜ、森の紹介だけで、新島に対して、他の留学生たちと完全に異なる態度で接したのだろうか。田中は、いやしくも政府の理事官であり、一方の新島は、私費の留学生なのである。

 その疑問の答えは、筆者としては、田中がすでに、新島の人物について熟知していたからとしか考えられない。実は、明治32年(1899)刊行の木村匡著『森先生伝』に、「田中子爵が教育理事官として米国に遊ばれたことが有りましたが、田中理事官は、其時調査の手伝いとして相当の人物を求めて居りまして誰かあるまいかと言て森さんに頼んで居りました。此時(森)先生の知って居る相当の学識ある者は随分米国にも参って居りましたが、其中で新島襄先生を紹介したです」とある。すなわち、新島の起用は、田中と新島の面接以前に、田中の「相当の人物」選定の要請に対する森の回答として、既に話が出来上がっていたと、筆者は考える。新島を尊敬し、新島こそ当時の在米日本人の最高の知性の一人と考えていた森が、田中に対して、新島の経歴、学識、そして人格を十分に説明し、新島しかその任に足る人物はいないことを説明していたと思うのである。

 

 4 使節団における新島の地位

 さて、新島は、田中と新島の出会いの場面を述べた手紙の中で、田中理事官は、彼に対して「自分がこの国の諸学校を視察してまわるときには通訳をつとめること、そしてこの国の学校制度についてすっかり報告するよう」命じ、新島は、私は政府から援助を受けている者ではないので、それが命令ならば断る。しかし、「何らかの報酬を定めた上でこれをなすように要望されるのであれば、喜んで求めに応じましょう」と答えた、と記述している(1872年3月8日付ハーディー夫妻宛新島書簡)。この事実を受けて、従来の新島伝では、新島は田中理事官から教育視察のための通訳を委嘱された、と位置づけている。それも、使節団の通訳ではなく、田中の個人的通訳になった、というニュアンスの強い書き方も多い。たとえば、和田洋一著『新島裏』巻末年表では、「遣米使節団の一員文部理事宮田中不二麿と会見し、教育事情視察にかんして通訳の仕事を委嘱される」とある。

 しかしながら、当初より田中は、新島に、通訳と同時に米国の学校制度に関する包括的な報告を行うよう指示しているのだから、実は、彼に単なる通訳以上の仕事を求めていたのは明らかである。また、ワシントンにおける新島の最初の主要な仕事も、田中の通訳ではなく、「日本の普通教育」についてエッセイ(論文)をまとめることであり、新島は、それは「最も重要な仕事」である、なぜなら、彼の書くエッセイは使節団に提出され、恐らくは日本を真理と生命の光に向かって開くことに役立つことになるだろうからだ、と認識していたからである(同年3月10日付ハーディー夫妻宛新島書簡)。そもそも、新島が行った『理事功程』(米欧各国の教育制度調査報告書)の草稿執筆は、とうてい通訳の仕事の範囲に収まるものではない。

 それでは、通訳や翻訳、現地調査報告書のまとめや日本への(教育)行政提言などの仕事を行った新島は、使節団の中で、本当はどう位置付ければ良いのだろうか。

 

 筆者は、新島はこの時期、岩倉使節団の正式な、しかも有力なメンバーとなり、使節団員としての業務を精一杯遂行していた、と結論づけざるを得ないのである。

 そのことを、これから順に説明したい。

 

(1)岩倉使節団の構成

 まず、岩倉使節団の構成について説明する。

 使節団の3つの目的についてはすでに触れたが、その目的の面から視察団の構成を大きく分ければ2つに分けられる。すなわち、聘問儀礼(第1目的)と外交交渉(第3目的)を主に行う外交使節の本隊と、各担当に分かれて各国の調査研究(第2目的)を行う各省から派遣された専門調査官による別働隊である。

 本隊の全権大副使を確認すれば、全権大使が岩倉具視、全権副使が木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の4人であった。

 別働隊は、次の6つに分かれて、

 (1)理財会計調査を、大蔵省派遣の田中光顕理事官一行が

 (2)制度・儀式調査を、宮内省派遣の東久世道禧理事官一行が

 (3)法律調査を.司法省派遣の佐々木高行理事官一行が

 (4)教育調査を文部省派遣の田中不二麿理事官一行が

 (5)軍政調査を兵部省派遣の山田顕義理事官一行が

 (6)興業技術調査を工部省派遣の肥田為良理事官一行が

担当していた。

 

 それでは、それら外交使節団の本隊と別働隊は、どういう官職(地位)によって構成されていたかと言えば、本隊は、特命全権大使、同副使、一等・二等・三等・四等の各書記官及び随行。別働隊は、理事官および随行である。

 ここで注意しなければならないことは、「随行」である。この「随行」とは、随行という行為を表す普通名詞ではなく、ここでは、日本政府が辞令によって任命した、一つの地位・官職を指しているのである。

 

 一般に、岩倉使節団員として見なされている人々とは、これらの官職を得て使節団に参加した人々のことである。現在の主流の学説では、使節団の人員は、46名である(田中彰・高田誠二編著『「米欧回覧実記」の学際的研究』)。ただし、この46人説(田中彰氏)のほかに、47人説(宮永孝氏)、48人説、51人説など、諸説がある。それは、赤穂義士の数の詮議のように、誰彼(高崎豊麿、安川繁成)は除外すべきだ、いや含めるべきだ、という議論があるためだ。

 ところが、当時の記録を見ると、これらの官職以外にも「随行心得」、「随従」、「随従心得」、などという職務の人々が同行しており、実際は、46人より多い人々が参加していた。また、既述のとおり、その使節団に加えて40数名の私費・官費の留学生その他が使節団に同行していた。それよりも、そもそも、これまで議論されてきた使節団の人員とは、あくまで出発時の使節団の人員のことなのである。1年10力月という長期に渡った使節団の回覧期間中には、現実には、使節団員の入れ替わりも多かったのである。

 

(2)使節団における新島の地位

 それでは、筆者の議論のテーマである新島襄の使節団における地位はいったいどのようなものであったのだろうか。実は、それに関する記録は、すでに公になっている。

 すなわち、新島が田中と面接して使節団と関わりをもった3月8日から9日後の3月17日(陰暦2月9日)付の「大使公信」第3号に、

 

「 元安中藩新島七五三太(襄)

  右三等書記官ノ心得ヲ以文部省理事官随行

  但御用中三等書記官同様旅行手当被下候事    

  書記官御申渡シ旨承知イタシ候、右ハ理事官随行御申付同様ノ儀ニテ候間、

  以後右様ノ儀ハ一応ハ申越有之度候     」 (大久保前掲書)

 

 という文章が記載されている。

 これを読めば、新島は、本隊の官職である「三等書記官心得」と、別働隊の官職である「(理事官)随行」という、2つの官職の辞令を同時に受け、手当上は三等理事官の扱いになっている。これは、筆者が調べた範囲では、新島だけしか例が無い。それは、後述するが、筆者の理解では、単なる理事官随行よりも、三等書記官の方が地位が高いから、新島を評価した故の人事発令であると考える。しかし、後段部分の文章が、若干理解に苦しむ。本文はどのように解釈すればよいのか。

 まず、「大使公信」とは、全権大・副使が太政官正院(大臣、参議、外務卿。すなわち日本政府)に対して発信した公的文書である。この「大使公信」に対して、政府が全権大使に対して発信した公的文書を「本朝公信」と呼び、両者ともなって政府と使節団との公的往復文書集となる。この「大使公信」は原文ではなく写しを収録したものであるが、他に残された原公信(第3号の原文は無い)をみると、書記官の筆による本文と、大副使5名の自署名がある。この第3号も、これに準じた形式で発信されたものと思われる。

 使節団の人事の任免は、全権大副使の合議によって決めたようである。書記官の任免に関して副使の木戸と伊藤が上申した文書の宛先が、残りの大副使である岩倉、大久保、山口の3名になっている同年6月の記録が残っている(大久保前掲書)。とすれば、新島の2つの官職の辞令も、まずは、人事権を持つ大副使の誰か(木戸か)が、実質的に決定したのではないか。しかし、他の大副使の確認を受ける段になって、そのうちの誰かから、「(本隊の)書記官と(別働隊の)理事官随行という2つの官職を一人の人物に与えることは前例が無い、怪しからん」との小言が発せられたのではないか。しかし、副使各人は同格であり、強いて撤回を強制するまでには至らなかった。そこで、大使公信という日本政府への通知文の中では、今回は新島に2つの官職を与えることを大副使間で了解したが、今後は十分相談いたしたい、と申し述べたのではないか。

 このことをふまえると、右の文章は、次のように解釈できる。

 

 「元安中藩藩士新島七五三太(襄)、右の者を『三等書記官心得』を以て『文部省理事官随行』を命ずる。

 ただし、お勤め中は、三等書記官と同扱いの旅行手当が支給される事。  

 

 『三等書記官』を命じたことは承知しましたが、右の辞令では『理事官随行』をお申しつけたのと同様の意味にもなりますので、今後は、このような場合は、一応は(事前に)言って寄こして頂きたいのです(としました)。 」と。

 そして、この大使公信を受けて、4月19日(陰暦3月12日)太政官(日本政府)が、新島を「三等書記官心得」及び「理事官随行」に命じている(公文録)。

 

 つまり、新島は、使節団の本隊に属する「三等書記官心得」の官職に就くのと同時に、田中文部理事官に対する「随行」という官職にも就いたのである。

 

(3)新島と他の随行との関係

 筆者は、この、三等書記官心得であり、待遇は三等書記官そのものである新島の地位が、彼の使節団仲間との関係に徹妙な緊張を与えていたように思えてならない。「三等」は、汽船の客室の等級イメージなどにより、格付けのあまり高くないものと思われるが、事実はその逆である。

 当時(明治5=1872年1月21日付)の官制表によれば、一等書記官の者の身分は五等か六等という位、二等書記官・三等書記官の者の身分は七等のそれ。一方、四等書記官の者のそれは八等である。当時の太政官制では、一~三等までが勅命により任命された勅任官で、四~七等までが奏上によって任用された奏上官、八等以下が一般的な形式で採用された判任官であった。そして、この勅任官と奏上官、位でいえば、一等から七等までが高級官僚である高等官であり、八等以下の中級・下級官吏とは明確に区別されていた。

 すなわち、三等書記官までは、実質的に高級官僚と見なして良いのであり、新島は、政府の役人出身でもないのに、いきなり高級官僚に準ずる(七等、手当上三等書記官に等しい)扱いをされたわけなのである(新島に与えられた手当は、三等書記官と等しく月額180ドル、一方、四等書記官のそれは、150ドルであった)。

 使節団出発時点、田中理事官には、長与秉継、中島永元、近藤昌綱、今村和郎、内村良蔵の5名が「随行」として従っていた。このうち、長与は中教授で六等、中島は七等出仕、すなわち、この2人は高等官であったが、近藤・今村は中助教で九等、内村も九等、すなわち、残る3人は、判任官であった。

 一方、この5人は、それぞれ異なったミッションを持っていた。

 まず、長与秉継。彼は、主としてヨーロッパの医学教育調査に志願して参加した人物で、新島が使節団に参加する前の2月、ニューヨークからヨーロッパに向けて出航していた(大久保前掲書)。彼は後にベルリンで新島と会うことになるが、それまでは新島と面識がなく、全くの没交渉であった。

 新島と仕事を一緒に行った随行のメンバーは、のこりの4人だが、このうちの近藤昌綱はドイツ語の修得者、今村和郎はフランス語の修得者で、それぞれ、独・仏の学制調査を担当しており(長秉継与『松香私志』)、この2人は、新島が田中に面接した翌日の3月9日、プロシア・フランスヘそれぞれ旅立っていた(宮永孝『アメリカの岩倉使節団』)。そして、彼らは、担当するドイツやフランスでのみ、新島と業務上の関わりをもつ。

 英語を修得しており、従って米(英)に関する調査を担当していた人物は、中島永元と内村良蔵の2人である。

 ところが、彼ら4人に関して、新島は、ほとんど同僚としての親しい付き合いをしていなかったようだ。新島がジョージタウンでしたためたハーディー夫妻宛の手紙でも、イートン教育局長官への訪問に田中と共に同行した者を彼は「2人の随行員」とだけ記して、氏名を紹介していない(1872年3月15日付新島書簡)。しかし、この2人は、右の整理によれば、中島と内村のはずなのである。また、新島がヨーロッパに渡った後、セント・ピーターズバーグで書いたハーディー夫妻宛の手紙でも、安息日の朝なのに観光に繰り出した者を「一行のうちの二人、すなわちフランスの不信仰と、ドイツ合理主義の影響をうけた連中」(同年8月10日付新島書簡)と、いささか非難めいた表現でのみ紹介しているが、この2人こそ、フランス担当の今村とドイツ担当の近藤に違いないのである。

 この、新島と他の随行との疎遠さは、一つは、新島から見て彼らの日常態度が馴染めないものであったり、また、新島とすれば自由人しての自分を、役人連中から区別したかったからであろうが、その一方で、彼ら当初からの随行とすれば、突然現れた一私人である新島が、自分たちと同等以上の官職に就き、また、自分の上司である田中理事官と友人としてつき合っていることに対して、ひどく面白からぬ感情を抱いたからだと筆者は考えるのである。そして、それが、新島と彼らとの疎遠感、ある意味での緊張関係を生みだしたのであろう、と推測するのである。

 

(4)新島と田中の2人のヨーロッパ回覧の事由

 さて、筆者は以前より、岩倉使節団の田中理事官が、なぜ使節団から離れ、欧州各国をほとんど新島と2人で回ったのか疑問に思っていたが、現在は、それに対して一つの明快な解答をもっている。

 それは、端的に言えば、森や伊藤の甘い見通しによって本隊が欲を出して、条約改正の予備交渉の目的を逸脱し、条約改正の本交渉にまで踏み込んでしまったために交渉が難航、使節団本隊がワシントンで大幅に足止めを食ったことに起因するものであった。

 すなわち、本隊が動きがとれないため、個別調査を担当する理事官一行が、本隊と行動を共にしていると、肝腎の調査が出来なくなる。そこで、前述の「大使公信」第3号(3月17日)の別項で、全権副使3名連名で正院(日本政府)に宛てて、「各省理事官之儀モ、当国滞留曠日(むなしく日を過ごす)相成候ニ付テハ、調物都合モ有之候ニ付、鄙職等一同同行難致候間、各自所任之科目自立ニ取調候様申渡当国各部ハ勿論、欧州ニモ先行致候事ニ御座侯」と通達した。本隊としては、「各別働隊は、調査の都合に合わせて、個別に、アメリカの各地はもちろん、欧州へも勝手に行ってもよろしい」という判断を行ったのである。

 そこで、田中理事官も、本隊との同行を見限り、単独で欧州へ渡ることを考えた。ところが、そうなると、彼にはひとつの問題が出て来た。 

 すなわち、田中理事官の当初からの随行5名は、それぞれミッションも担当する国も分かれていた。これは、田中にしてみれば、彼ら随行は誰も自分と回覧旅行を共にしないことを意味する。

 であれば、田中としては、自分がたった一人で不慣れな外国旅行をしなければならない。それはかなわない。そこで、新島に同行者の白羽の矢を立てることになったのである。

 当初、新島は米国での役割のみ与えられていた、ところが、前掲の別働隊の単独回覧の判断が公になった頃より、田中は、彼の欧州行きを熱心に口説き始めた(3月15日付ハーディー夫妻宛新島書簡)。

 田中は、外国生活に慣れ、人格・知性ともに大変優れた新島に、なんとしても自分と一緒にヨーロッパを巡ってくれるよう熱心に説き、新島もさんざん迷ったあげく、ついに「(新島が)ヨーロッパへ同行するならば、費用の全部を払い、また仕事に対しては相当の謝礼をしよう(中略)。(新島を田中の)部下ではなく、友人として待遇しよう、いつどんな時にでもアメリカに帰る許可を与えよう」(という非常に恵まれた(新島同書簡)条件を提示した田中との同行を承諾した。

 従来、新島が欧米に渡った理由として、彼自身の資質の優秀さだけが強調されていた。しかし、実は、その背景には、岩倉使節団本隊の外交交渉の失敗があった。もし、使節団本隊が当初予定の通り条約改正の予備交渉だけを行っていたら、ワシントンで足止めを食うこともなく、別働隊も本隊と行動を共にしたであろう。その場合、田中は新島の同行をあれほど懇願はしなかったろうし、新島も欧州行きを決意したかどうか分からない。ここでも新島に対して「神は驚くことをなしとげるために 不思議な仕方で働き給う」(J.D.ディヴィス著/北垣宗治訳『新島襄の生涯』)たのである。

 

 使節団本隊と分かれた新島と田中は、5月11日、欧州航路のアルジェリア号に乗船し、アメリカを離れた。

 筆者の議論では、新島は、使節団の正式な一員である、それも、外交使節本隊に所属する「三等書記官心得」と別働隊に所属する「随行」という2つの官職を同時に得た稀な使節団員である、ということであるが、それでは、新島が使節団本隊と分かれた今、彼の地位は、どう変わったのであろうか。

 本隊から離れて、別動隊と行動を共にする者は、当然、本隊に関わる職務を免ぜられるのである。

 たとえば、本隊と分かれて欧州へ移った二等書記官長野桂次郎はその職務を免ぜられ、改めて工部理事官随行の辞令を受けている。実は、新島の場合も、7月19日、正式に「新島七五三太 右三等書記官心得被免改テ当分御雇被仰付文部理事官付属通弁御用可相勤候事。但御手当ノ儀ハ御用中一日墨銀六弗宛并日々御賄被下候事 特命全権大副使」という辞令が出た(『新島襄全集8・年譜編』)。三等書記官心得を罷免し、改めて文部理事官付属通弁とする、ただし、手当は1日6ドルである、というものである。1日6ドルの手当は、1ケ月換算で180ドルだから、実は、新島は「文部理事官付属通弁」となっても、三等書記官と同待遇のままであった。新島が、「随行」でなく「通弁」になったのは、友人として処し、いつでもアメリカに帰ってよろしいと述べた田中側の配慮にあると筆者は考える。ただし、この辞令の文章そのものは、新島のもう一つの官職である「随行」自体を免じてはいない。すなわち、筆者のこれまでの議論が正しければ、この辞令で新島が「文部理事官付属通弁」となっても、実は制度論的には、彼は依然として「随行」という官職のままのはずなのである。実は、その証拠となる記録が残っている。この年の11月12日付で、複数の理事官と随行に対して、「各理事官並びに随行之面々」宛特命全権大使名で、年内に各国の調査を終えて帰国するよう指示する通達が出されているのだが、新島には、「田中文部大丞、長与文部中教授、近藤少助教、新島七五三太」連名1通にて通達が出されている。すなわち、この時まで、新島は「随行」として扱われているのである。

なお『新島襄全集8』の1873年1月の項にも「ベルリンにて病気を理由に文部理事官随行を辞す」と記載されている。

 以上、新島の使節団における地位、すなわち、彼が正式な一員であり、しかも、前例のない「三等書記官心得」と「随行」の2つの官職を同時に得て、高級官僚なみの使節団員となったことを中心に、彼と使節団との関わりを述べた。

 現在、同志社の発行する出版物の略年譜欄のこの時期の項には、たとえば、「(新島は)1872(明治5年)岩倉使節団と会い、欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官田中不二麿に同行し欧米教育制度を視察」とあるが(『ONE PURPOSE 1998 Doshisha University 新入生歓迎号』)、筆者としては、この部分は、「アメリカで岩倉使節団の一員に加わり米国の教育制度を調査、続いて使節団本隊と分かれて田中文部理事官と共に欧州教育制度を調査、のち病気を理由に使節団員を辞任」というように書き直していただくべきと考える。

 

 5 新島の帰国の迷い

 冒頭に述べたように、新島が使節団に加わった頃、彼は、キリスト教伝道と自然科学を中心とする学問教育を帰国後の自分の事業として意識していた。その新島が、田中と一緒にヨーロッパに行くことを決めた時も、彼の考えでは、短期間だけ田中のお供をして、田中にキリスト教をより深く学んでもらい、ヨーロッパの学校視察を終えたら、アンドーバー神学校に戻って、中途で止めてしまった勉学を終えるつもりであった(1872年3月22日付ハーディー夫妻宛新島英文書簡)。

 

 しかし、それまで6年半以上もひたすら勉学に励んでいた彼が、使節団の一員としてヨーロッパヘ向かうことが決まると、彼は、自分の境遇が大きく変わり始めたことを認識し、ことによると、1年以内に、日本へ帰れるのではないか、とも考え始めた。新島は、翌年の桜の花が咲く前には、帰朝できるかもしれない旨の手紙を民治に書き送っている(同年4月4日付、同4月7日付新島書簡)。

 新島は、田中とともに、イギリス、フランス、スイス、ドイツ、ロシア、オランダ、デンマークなどを回覧して、9月に再度ベルリン入りし、田中理事官へ提出するヨーロッパ各国の学校規則や報告書の翻訳、更に各種調査報告書の作成に取り掛かるが、彼はここで、田中とともに日本へ帰るべきが大いに悩む。

 晩秋のベルリンには厳しい寒さが訪れ、新島は、持病のリュウーマチに苦しみ始めていた。長期の調査旅行に無理を重ねたことが災いしてか、リューマチが痛み出した新島は、寒いニューイングランドの冬に耐える自信を失い、冬も気候が穏和な日本へ帰ることを、ほとんど決めかけた(同年10月2日付ハーディー夫妻宛新島英文書簡)。もはや、新島は、田中にとって無くてはならない存在になっており、田中からは、自分を助けて、日本に新しい学校制度を打ち立てるよう強く要請されていたのである(同年10月20日付ハーディー夫妻宛新島英文書簡)。この頃、彼は民治に対して、「あと2ケ月ほどベルリンに滞在して、冬にイタリア、フランスを経由して来年の3月、わずか5、6ヶ月の間に日本へ帰れるだろう」という趣旨の手紙を書く(同年9月29日新島書簡)。しかし一方で、もし自分が田中と共に帰国すれば、「私はたぶんわなにおちいり、それから脱け出すのに相当な困難を見いだすことになる」(同年10月20日付ハーディー夫妻宛同書簡)だろうと思い直し、新島の煩悶は続く。

 新島が率直に帰国を決めず、アメリカに戻ろうかと悩んだ理由は、彼がヨーロッパに赴くにあたって、再びアメリカに戻ることをハーディと了解し合ったからだし、それよりも、ヨーロッパで、彼は多くの不信仰の人々を見て、人間の魂にとって福音の真理がいかに必要であるか痛感し、自分は、その真理を学び終えてから日本に戻り、それを伝えることこそが天職である、と確信したからであった(1872年10月2日付ハーディー夫妻宛同書簡)。

 このように彼が思い悩む中で、既述のように、11月12日(陰暦10月12日)、使節団本隊から、本隊と離れて回覧を行っている各理事宮と随行に対して、当年中に欧州を発って帰朝するよう指示する通達が出された。

 ついに、新島は、田中と共に帰国せず、アメリカに戻って神学を学び終えることを最終結論にする。それは、田中の構想どおりの仕事を自分が日本で行えるかどうかの保障が無いこと。また、帰国した場合の自分の神学の修学の遅れを心配したことによるものだった。新島としては、一刻も早く復学して、聖職の叙任をうけ、途方に暮れている同胞に福音を伝えることこそ自分の最も仕合わせで最良の選択である、と考えたのである(1872年12月16日付ハーディー宛新島英文書簡)。

 ところが、新島の一刻も早い復学さえ、しばらく不可能になってしまった。

 すなわち、新島は、田中が帰国する前に、彼に提出しようと報告書の執筆に熱中するのだが、その無理がたたり、1873年(明治6年)の正月を迎えると、外出が不可能になるほどリューマチが悪化してしまったからである。

 田中理事官は1月3日、帰国するために、いったんパリに向かってベルリンを離れた。これは当時、使節団本隊がパリに滞在していたから、そこへ合流する為だと思われる。新島は田中と別れた後、既述のように病気を理由に文部理事官随行を辞す。

 新島は、医者の勧めでしばらくフランクフルト郊外の温泉保養地ヴイースバーデンに行くことを決心する。しかし、田中へ提出する報告書はまだ出来ていなかったため、彼は、それを書き上げるまでベルリンに留る。

 報告書を書き上げ、自分の体が少し動くようになった2月中旬、彼はようやく、病気を回復するためにヴイースバーデンに移った。

 

 なお、新島が執筆したこの報告書は、田中文部理事官の復命報告書である『理事功程』の主要な部分の草稿となり、後に『文部省理事功程』として刊行。実際に広く利用されて、我が国の「学制」以後の米欧型教育制度の確立・改革のための基礎資料となった。

 米欧の教育制度を国別に詳しく紹介した『理事功程』は全15巻、取り上げられた国は9カ国。それらは田中・新島ら教育制度調査を担当する岩倉使節団別働隊が訪問した国とほとんど重なるが、そのうち、新島が草稿を執筆したと断定もしくは執筆の可能性が高い国は、アメリカ、イギリス、スイス、ロシア、デンマーク、ドイツの6カ国に及んでいる(詳しくは拙稿「『理事功程』と新島襄」/「新島研究」第94号)。

 

 第2章 ヴィーズバーデンにおける新島の温泉治療

 

 1 国際温泉保養地ヴィーズバーデン

 ヴィーズバーデン(Wiesbaden)は、 ドイツ経済・交通の中心地であるフランクフルトの西約30キロメートル、タウヌス丘陵の麓に位置し、ライン川を南に臨む風光明媚、気候穏和な街で、国際的に温泉保養と会議の街として有名である。カジノや劇場があり、ホテル、別荘、下宿屋、カフェーも多く、一年中訪問者が絶えない。第2次大戦の戦災が少なかった為、市の中心部に歴史的建造物が今も多く残っている。

 戦後に新生ヘッセン州の州都となったが、連邦統計局をはじめとする連邦政府関係の機関も多い。この地はドイツ映画産業の中心であり、また、多数の出版社が集中していることより、ドイツの出版業界の中心地となっている。ドイツ一の銘酒を生む「ラインガウ(ワインの故郷)」を控えたドイツ・シャンパン・ゼクトの名産地でもある。

 市の南部には、ライン河畔に工業地帯が広がり、金属、化学、医薬品、セメント、工作機械、印刷機械などの工場が知られている。国際馬術競技大会の開催地。人口約26万人。

 

 1873年2月中旬、新島は、滞在していたベルリンからこの地に移った。彼は、5ヶ月あまりもここに滞在して2度にわたってリューマチ治療のコースを受け、2回目のコースがようやく終了した7月下旬、同地を離れた。

 彼が岩倉使節団の一員としてヨーロッパに滞在した期間は、リパブール入りした前年5月から当年1月ベルリンで病気を理由に使節団を辞めるまでの約8ヶ月であるから、ヴィーズバーデンでのこの5ヶ月という期間は、彼の最初のヨーロッパ滞在期の中でも無視することのできない長い期間である。しかしながら、現在までの新島研究でも、この期間の彼に関してはあまり進展していない感が強い。日本では、ドイツのバーデンバーデンは聞き知る人が多いが、同じような温泉保養地であるヴィーズバーデンについては、ほとんど知られていないことも研究の未進展に影響しているように思う。

 そこで、温泉保養地としてのヴィーズバーデン自体の考証を含め、同地での新島のリューマチ治療の実態を浮き彫りにすることを本章の目的としたい。

 

(1)欧米に聞こえる温泉保養地

 新島がヴィーズバーデンに治療に赴くことを決心したのは、実際に同地へ赴く約1ヶ月前の1873年1月中旬のことである。それは、ヴィーズバーデンの温泉がリューマチに効くとの評価を得ていたため、ベルリンで知り合ったキープ博士や掛かり付けの医者が彼に同地行きを勧めたからであった。

 しかし、当初、新島はその勧めを受け入れなかった。なぜなら、ヴィーズバーデンでの湯治には高額な費用が要るから、自分のような貧しい者の行く所ではない、と考えたからである。しかし、調べてみた結果、思ったほど費用が掛からないことが分かり、彼はハーディ夫妻へ赴いてもよいかどうか、手紙で相談した上で、体が少し動くようになった2月中旬、実際に同地へ移った。

 なぜ、新島が当初、ヴィーズバーデン行きは高価につくと考えたかといえば、当時すでに、ヴィーズバーデンは高級温泉保養地、高級リゾート地として、ヨーロッパはおろか、アメリカまで聞こえていたためである。新島も、ヴィーズバーデンに滞在して3週間後、アメリカのハーディー夫人に送った手紙の中で「この場所についてはよくご存知のことと思いますので、この地を描写するつもりはありません」(1873年3月5日付ハーディー婦人宛新島書簡)と記している。

 

(2)古代ローマ人のつくった温泉浴場

 当地には、温泉の起源を語る伝説がある。大昔、不器用な巨人が歩いている途中、つまづいて転び、大地に谷が出来た。腹を立てた巨人が槍で大地を突き刺すと大地が怒り、巨人に熱い湯を吹きかけた。巨人はますます腹を立て、大地を26カ所突き刺すと、大地もさらに熱い湯を吹き出し、こうしてヴィーズバーデンの温泉は生まれた、というものである(アルヴ・リトル・クルーティエ著/武者圭子訳『水と温泉の文化史』)。実際、ヴィーズバーデンには、若干成分や温度の異なる(38~67℃)26カ所の源泉がある。

 ローマ人がここに要塞を築く以前の紀元前55年、『博物誌』の大プリニウスは、この地を同地に住むマティア人の鉱泉地、アクアエ・マティアカエとして、ローマ人旅行者に紹介した。そのため、同地は、ローマ人にスパの町として知られるようになった(クルーティエ前掲書)。

 「日本人ほど風呂好き、温泉好きな民族はいない」と言われることが多いが、世界史的観点に立てば、到底古代ローマ人には及ばない。銭湯が庶民の社交場として大変にぎわった江戸後期の文化年間(1804~18)、江戸には約600件の銭湯があったといわれるが(『日本大百科辞典』)、その1千5百年も前の4世紀中頃のローマには既に11の巨大浴場と856の銭湯があった。その内の巨大浴場とは、アグリッパ浴場、ネロ浴場、ティトゥス浴場、トラヤヌス浴場、カラカラ浴場、ディオクレティアヌス浴場などであるが、たとえば、今も遺跡として残るカラカラ浴場(正式名アントニヌス浴場)は、起源210年代に完成、約11万平方メートルの敷地には、散歩のための遊歩道や運動場、図書館などが整備された庭園と、総面積2万5千平方メートルに及ぶ巨大な浴場施設があり、その浴場施設には、各種の浴室に加えて、マッサージ室、屋内競技場などが備えられて、一度に千人以上のローマ市民がきわめて安い入浴料で利用できた。すなわち、古代ローマの巨大浴場は、湯治の総合文化・娯楽センターでなのであった(青柳正規『皇帝たちの都市ローマ』)。

 このローマにおける巨大浴場施設の誕生は、浴室床壁暖房・給湯システムであるヒュポカウストゥムの発明と水道の建設という古代ローマの2つの技術を背景としたものであった。

 浴室の床暖房装置は、紀元前3世紀のギリシャで既に用いられていたが、紀元前1世紀初頭、ローマのセルギウス・オラータという技術者がそれを改良、より本格的に大規模に設置できるようにした。これがヒュポカウストゥム(浴室床下暖房装置)である。すなわち、それは、タイル製の床の下に煉瓦の柱を並べて空間をつくり、更に、壁の内側にも空洞を造って、焚き口で焚いた熱い煙を中に巡らせて部屋全体を暖める装置であり、焚き口の炉の上に大きな青銅製もしくは鉛製の容器を置き、給湯設備も備えていた。この容器からは何本かの鉛管が出ていて、浴槽の湯加減に合わせた給湯が出来るよう工夫されていた。このヒュポカウストゥムによって、浴室の温度は自由にコントロールできるようになった(青柳「古代ローマの浴場」/池内紀編著『西洋温泉事情』)。

 しかし、たとえ、この装置があったとしても、水源を井戸水だけに頼っていては水量が限られて浴場の巨大化は図れない。そこで、水道の建設によって浴場に十分な量の水を供給する計画が実行された。

 ローマの水道は、基本的にポンプによる人工揚水を行わなかったので、何キロも離れた水源から出来る限り水平に近い傾斜を保って上水を都市まで運んだ。山にはトンネルを貫き、渓谷にはアーチ型の水道橋を掛けて水位の低下を防いだ。世界史の教科書で有名な南フランス・ガルドン川をまたぐローマ水道橋の遺跡は、長さ270メートル、高さ約50メートルという壮大なものである。そして、都市まで引いた水道は、浴場、噴水や水飲み場、裕福な個人住宅などを中心に給水されたのである。

 これらヒュポカウストゥムと水道によって、ローマの浴場は、規模と機能が大きく変わっていった。すなわち、冷浴室(フリギダリウム)微温室(テピダリウム)熱温室(カルダリウム)発汗室(ラコーニクム)など温度の異なる大浴室が設けられて、冷たい風呂から熱い風呂へ、そして再び冷たい風呂へ入るという循環入浴が普及した。そのために長時間の入浴、つまり浴場での長時間の余暇の活用が可能となり、浴場が古代ローマの社交場となっていったのである(青柳前掲論文)。

 古代ローマ人は、ローマに数多くの浴場を建設する一方で、征服したヨーロッパの各地に、ローマ式の浴場を広げていった。ローマ人は、それぞれの地で、薬効があると言われる泉を探し出して入浴し、やがて、そこに豪華な浴場を建設して、自分たちの疲労回復と娯楽の施設にしていった(クルーティエ前掲書)。イタリアのモンテカティーニ・テルメ、イギリスのバース、スイスのバーデン、フランスのヴィッテルなどはその代表例である。そして、ドイツでは、バーデンバーデンと共にこの地ヴィーズバーデンも、ローマ時代にローマ式浴場が建設されたのである。

 

(3)「ルーレットの町」と「快楽の崇拝者」たちの町

 温泉地としてのヴィーズバーデンは、中世でも、Wisibana(牧草地の泉)として有名であり、さらに、近代へと続く中で評価を高めてきたが、とりわけ18、19世紀には、ヨーロッパの様々な国から多くの人士が訪れたことで国際温泉保養地としての地位を確立した。

 1814年には、ゲーテが投宿しているし、グリム兄弟の兄ヤコブ、ブラームス、ドストエフスキー、その他ドイツの王族やロシア皇帝の一家もしばしばヴィーズバーデンを訪れた。

 そのうち、ヤコブ・グリム(Jacob Grimm)は、ヴィーズバーデンを「まったく現代的でありながら、ほかにはない穏やかさと、生きていることの楽しさに包まれた町。早春に芽吹く緑や咲き乱れる木々の花を、町の外に求める必要はない。ライラックの甘い香りは町の隅々まで、いちばん遠くの小道にも届く」(クルーティエ前掲書)と賛美している。

 しかし、グリムの評価は一面的なものだ。ヴィーズバーデンには、1771年に賭博免許を取ったという、世界で最も古いものの一つのカジノがあり、そこで大金をすって、ヴィーズバーデンで嫌な思い出をつくって立ち去った人々も多かったからである。アメリカ人作家・マーク・トウェーンは、ヴィーズバーデンと同様にカジノを持つ国際的な温泉保養地バーデンバーデンを「ペテン師とイカサマ師と食わせ者の町」(杉本俊他多「黒い森の真珠バーデン・バーデン」/池内前掲書)とこき下ろしたが、そのような評価が、そっくりヴィーズバーデンに当てはまるのである。グリムは、フランクフルトのそばのハーナウ出身だから、いわば、ヴィーズバーデンは故郷の名所であり、また、彼は真面目人間だったから、カジノに立ち入って大損するなどの嫌な思い出も無かったのだろう。

 ヴィーズバーデンのカジノで大損した最も有名な人物は、ロシア人の文豪ドストエフスキーだ。彼は、1865年以来、ヴィーズバーデンのカジノに通い、『罪と罰』もこの地のホテルで執筆を始めた(新潮文庫版『罪と罰』解説~工藤清一郎)。もともと、彼がルーレット狂になったのは、その2年前、複雑な事情で失恋相手のアポリナーリヤと一緒に旅行し、その辛さに、各地でルーレットの勝負をし続けて以来のようである。その時、彼は、バーデンバーデンで大損して所持金全部をすってしまい、時計や彼女の指輪を質に入れたり、たまたま会ったツルゲーネフに借金を無心したりでなんとか帰国の旅費の都合を付けている(新潮文庫版『賭博者』解説~原卓也)。65年のヴィーズバーデンでも、彼は所持金をすっかりすってしまい、ホテルの食事も止められて、友人に助けを求めている。ドストエフスキーが、最後にヴィーズバーデンを訪れたのは1871年のことらしいが、彼は、またしても所持金全部をすって、宿泊料も未払いのままホテルを逃げ出し、それきり二度と同地に足を踏み入れなかったようだ(クルーティエ前掲書)。

 1866年、彼は、ヴィーズバーデンを舞台に『賭博者』という小説まで執筆している。同書では、ヴィーズバーデンは「ルーレテンブルグ(ルーレットの町)」と名づけられて、ドイツ人はもとより、ロシア人、フランス人、イギリス人、ポーランド人など、ヨーロッパ中から貴族、普通の人、ペテン師など様々な人々が温泉保養と賭博のために集まっては、カジノで所持金をすっかりはたいてしょげ返る有様が描かれている。

 1872年、すなわち、新島が同地に入る前年、ドイツではギャンブルが禁止となり、湯治客は、おおっぴらにはルーレット遊びが出来なくなった。そのためであろう、新島が描くヴィーズバーデンには、ギャンブルに興じる人々は登場しない。しかし、やはり、大方の湯治客は「快楽の崇拝者」であった。既述のハーディー夫人宛の前掲3月5日付けの書簡の中で、新島は、ヴィーズバーデンを「とても美しい所ですが、大多数の人は快楽の崇拝者です。劇場、ダンス・パーティ、仮面舞踏会には人々が大勢集まりますが、教会はからっぽです」と綴っており、また、別な手紙では、ヴィーズバーデンを「fashionable city(流行を追う町)」(1873年8月6日付ハーディ婦人宛英文書簡)と表現しているのである。

 

 2 新島のリューマチ治療

 

(1)ヴィーズバーデンにおけるリューマチ治療の実態

 1873年2月11日の夜、新島は夜行列車でベルリンを発って、翌日にヴィーズバーデンに到着したようである(新島のヴィーズバーデン到着日の特定には検討を要する問題がある。詳しくは拙稿「温泉保養地ヴィーズバーデンにおける新島襄」「新島研究」第91号参照)

 ヴィーズバーデンに入った新島は、さっそく" a Bathing Hotel "に入って入浴のコースを開始。3週間で19回、すなわちほぼ毎日そのコース通りに湯治を行った。しかし、湯治は彼の神経を相当刺激して、湯治開始から3週間経っても彼が悩んでいた神経性の頭痛は少しも良くならず、加えて、寒い気候のために湯治の効果は、彼が抱いていた期待ほどには上がらず、そこで暑い季節まで待つことを余儀なくされている(1873年7月25日付ミス・ヒドゥン宛新島書簡)。

 そこで問題となるのが、新島が宿泊した" a Bathing Hotel "とはどのような宿泊施設か、彼の湯治とはどんな入浴方法なのか。なぜ、入浴は彼の神経を刺激したのか、また、なぜ「寒い気候のために」湯治の効果が上がらなかったのか、の各点である。

 筆者は1996年1月25、26日の2日間、新島の足跡を訪ね、合わせてこれらの疑問を解くべくヴィーズバーデンを訪れた。その結果得た、これらの疑問に対する現時点での筆者なりの回答を次に述べたい。

 

(2)新島のリューマチ治療場所

 (1)" a Bathing Hotel "とはどこか

 ヴィーズバーデン入りした新島が宿泊した場所を、彼のヒドゥン宛書簡では" a Bathing Hotel "と書き送っているが、別な書簡では、"(a)bath house "と記している(同年4月6日付ハーディー夫人宛書簡等)。そこで、筆者としては、それはホテルではなく「宿泊設備のある温泉施設」のことであると考える。

 現代のホテルのように、ホテルの全客室にバスをしつらえたのは、1906年、パリのリッツホテルが最初だから(クルーティエ前掲書)、新島がヴィーズバーデンに投宿した当時は、一流ホテルの一部の部屋にのみバスがあっただけであり、シャワーか、それも無い部屋が普通であった。そして、温泉保養地においては、大規模なホテルは独自の源泉を所有して、現在の日本の温泉旅館のように、ホテル内に温泉の大浴場を設けていた。もちろん、源泉を持たないホテルの方が多く、その宿泊客は、日帰り客も利用できる温泉施設に通ったのである。ちなみに筆者はたまたま、ヴィーズバーデンで第2の高級ホテル、シュベルツェ・ボックに宿泊する機会を得たが、現在でもそのホテルでは、バスが無くシャワー設備だけの部屋が一般的であり、部屋とは別に、プールのような温泉浴場があったのである。

 それでは、新島が実際に宿泊して入浴のコースを受けた温泉施設とは具体的にどんなところか。

 新島は、その温泉場で、彼よりもはるかに悪条件の病気の治療に取り組んでいる沢山の若者に出会っている。また、彼の湯治は、医者の指導の下に行われており、特定の入浴コースを選択して入浴を行っていた。それは、医療機関との関係や、種類の異なる浴室の存在を想定させる。さらに彼は、3月23日頃にこの宿泊施設を出てルーテル派のグスタフ・ハウザー牧師宅に下宿したが、後述するように、その後もここに通って湯治を行っている。

 そのような条件を満足する温泉施設なので、筆者としては、そこは通常の保養のためのホテルではなく病気治療を専門とする温泉療養施設であり、さらにそこは宿泊施設も持つが通いの患者も受け入れてくれる病院のような施設であった、と判断する。

 さて、ではそのような病気治療を専門とする温泉施設は特定できるだろうか。また現存するだろうか。

 新島は、自分が通った温泉施設の正確な名前や住所を書き残していないので、基本的にはそこを特定することは難しい。

 しかし、幸いヴィーズバーデンは戦災による被害が少なく、ヨーロッパ人の歴史を大切にする志向から、新島が訪れた当時の歴史的な町並みも良く保存されている。もちろん、新島が訪ねてから120年以上も経た現在では、建物も経営も新しくなっている場合が多いだろうが、伝統のある機関は、過去の歴史を何かしら現代に活かした存在であるはずだから、現在のヴィーズバーデンを調べることによってある程度の推定を行うことは可能であろう。

 そこで、旧市街地、すなわち新島が宿泊したころの市街地周辺で温泉設備を持つホテルを調べたところ、現在はナッサウアー・ホフ、シュベルツェ・ボック、バーレンの3つのホテルしかなく、それらのホテルの温泉は、規模や設備から判断すると、新島の通った施設でないことは確実であった。

 実は、宿泊設備を持つ温泉施設がもう一つある。カイザー・フリードリッヒ浴場・第1リューマチ病院である。

 

 (2)カイザー・フリードリッヒ浴場・第1リューマチ病院

 カイザー・フリードリッヒ浴場・第1リューマチ病院は、ヴィーズバーデンの中心、旧市街のランガセ(Langgasse=長い街路)通りに面したところにある(Langasse 38-40)。現在の建物は4階建てで、1階には、リューマチ治療に利用する温泉浴場カイザー・フリードリッヒ浴場が設置されており、そこは、患者以外の一般の保養客も利用できる。2階以上は、診断のための最新機器も備えたリューマチ病院となっていて、4階には入院施設もある。ベッド数97。

 承知の方も多いが、ドイツでは、医学に温泉を積極的に利用しており、湯治に健康保険も使える。この病院も最新の医学と温泉を組み合わせた本格的なリューマチ治療専門病院であった。

 そこで1996年1月25日、筆者はその病院を訪れ、1階のカイザー・フリードリッヒ浴場を調べた。

 その結果分かった浴場の構造だが、浴場中央屋内に、目算で幅6~8メートル×奥行き10~12メートルの巨大で四角い冷水プールが設けられていて、プールの奥には、幅4~5メートル×中心部の奥行き2メートル程度の弧状の暖かい温泉風呂、プールに向かって右にはシャワー・ルームとドライ・ルーム(休憩室)、左には20人程度は一度に入れる4段の椅子兼階段が据えられたスチーム・サウナ・ルーム(室温43℃)が設置されている。

 浴場入口ホールにいたトレーニング・ジャージを着たドイツ人の青年インストラクターに尋ねると、リューマチ患者は、医者の定めた手順に従って各種の浴槽に入ることになっており、現在の浴場そのものは、1913年に建てられたが、このような循環浴は、古代ローマ時代より行われたものだ、という。

 また、文献によると、この浴場は古来よりヴィーズバーデンの26ある源泉の一つとして知られ、現在の病院が建つ前は、宿泊が可能な浴場であり、1814年にゲーテが宿泊したのもここ。前の施設が老朽化したため、1913年にKurmittelhaus(療養中央館)を立て直した、とあった(同病院のドイツ語パンフレット)。

 すなわち、現在のカイザー・フリードリッヒ浴場・第1リューマチ病院は、かつては病院ではなく宿泊設備を持つ温泉施設であり、そこでは、ローマ時代より循環浴というリューマチ治療のための湯治方法が取られていた。現在、リューマチ専門の病院となったのは、その以前から多くのリューマチ患者が治療のために通っていたためであろうし、そのような施設は、ヴィーズバーデンではおそらくここだけ、またはここが最も主要であったであろうとも考えられる。

 以上のことを考えると、新島がリューマチ治療のために滞在し、その後は通って特定の入浴のコースを受けた温泉施設とは、現在のカイザー・フリードリッヒ浴場・第1リューマチ病院の前身であり、新島の受けた入浴コースとは、ローマ時代からこの地に伝わる循環浴であった、との可能性が極めて高いことが分かる。

 

(3)新島のリューマチ治療の実際

 新島は、リューマチ治療のために循環浴を行った可能性が高いが、はたして、それを裏付けることはできるのだろうか。また、彼の行った入浴のコースはなぜ、彼の神経を刺激したのか、また、「寒い気候のために」効果が上がらなかったのか。

 これらの点を解決するため、筆者は、同浴場を訪問した1月25日、実際に、その循環浴を試してみた。新島がヴィーズバーデンでリューマチ治療を始めたのも同じ冬であったから、季節の条件は同じであり、実際に入浴すれば、新島の湯治に関して、何か分かるかも知れないと考えたからである。いわばそれは、実験考古学ならぬ実験新島研究であった。

 筆者が、先ほどの青年インストラクターにリューマチの入浴コースを詳しく尋ねると、彼は、基本的には、次のような循環浴を1サイクルとするが、実際には、ドクターが、個別患者の症状に合わせて、1日に何回繰り返してそれを何日間行うか指示する、と教えてくれた。

 

〈カイザー・フリードリッヒ浴場におけるリューマチ治療のための循環浴の手順〉

 (1)シャワーを浴びて身体を洗う

 (2)スチーム・サウナで充分発汗させる

 (3)冷水プールに入り、奥の暖かい温泉風呂まで冷水中を歩く(泳ぐ)

 (4)暖かい温泉風呂に入り身体を暖める

 (5)ドライルーム(休憩室)で休憩する

 (1)への繰り返し

 

 なお、これを1日に十数回も行わなければならない患者も多いし、鉱水の飲料も行われるが、これは、1日に1リットルが限度であるとの話であった。

 

 筆者が料金を支払って浴場に入ると、そこは床暖房で全体が暖められていて、マイナス十度前後の外気温に関わらず、大変快適な空間であった。既述したように、床暖房はローマ時代からあったから、新島滞在時代も、ほとんど今日と同じような快適な浴場であったろう。

 浴場全体は、灰色のイタリア・マジョリカ焼きのタイルに覆われていて、豪華なモザイク模様の装飾タイルを用いた柱やアーチなど、古代ローマの公衆浴場の雰囲気を良く表現している。

 実は、このバドは、男女混浴であったが、筆者が浴場に入った時刻は夜7時頃であったため思いの外すいていて、入院患者らしい方はほとんどおられず、保養のためと思われる主に中年以上の夫婦が、裸のまま、のんびり会話などを楽しんでいる。

 冷水プールの左右の柱にライオンの口型の飲料用鉱水の蛇口があり、何人かがコップでそれを飲んでいた。

 

 筆者は、トレーナーの指示通り、順番に各プロセスを経験した。まず、シャワーを浴びて身体を洗い、次にスチーム・サウナに入った。ここまでは調子が良かったが、次に冷水プールに足を入れたとたん、その水の余りの冷たさに体が震えた。プールは全くの水だったから、いくら屋内とはいえ、外気温マイナス十数度の厳寒では、水温も十度前後まで下がっていたであろう。加えて、向こう側の温かい風呂まで行くためには、十メートル以上もこの冷たい水の中を歩かなければならない。筆者が意を決して冷水の中を震えながら歩くと、心臓は鼓動を増し、神経は高まってきた。見回せば、冷水プールに入っている者は筆者一人。他のドイツ人の男女は、奥の狭い温泉風呂に片寄せ合ってつかり、筆者の孤軍奮闘ぶりをのんびり眺めている。

 それでも、筆者は、がくがく震えながらプールの端から端まで歩ききって、ドイツ人たちで芋を荒うように混雑している小さな温泉浴槽の隅に入れてもらった。ホッと息をつき、休憩したのもつかの間、またスチーム・サウナから冷水浴へとチャレンジしたが、それもせいぜい3巡程度までで、冷水の冷たさに身体がついてゆけず、あえなく脱落してしまった。これを1日に10回以上も繰り返すのは、健康な人間でも極めて難しいことを実感した。

 また、新島は、鉱水を飲むことも医者に勧められている。新島は勧めに従って飲んだであろうから、筆者も、試しに同浴場の鉱水を飲んでみたが、その味は、鉱物がとけ込んで口が歪むようなまずい味であり、なんだか生臭くもあった。これを毎日飲まなければならないとなると気が滅入ってしまう。

 

 既述したように、新島は、湯治によって神経が相当刺激されて、湯治開始から3週間経っても、彼が悩んでいた神経性の頭痛も少しも良くならず、加えて、寒い気候のために、湯治の効果は、彼が抱いていた期待ほどには上がらず、そこで、湯治を5週間続けた後、湯治にふさわしい季節=暑い季節=まで待つことを余儀なくされている。筆者の実験により、その理由がほぼ明らかになった。すなわち、おそらく、新島は循環浴の一環として、厳寒のドイツで、冷水プールに入る、という大変な苦行を毎日強いられていたのである。

 

 3 ヴィーズバーデンにおける新島襄

 

(1)ドイツ語習得への努力と断念、手紙も書けぬ日々

 2月11日、ベルリンを立ってヴィーズバーデンへ向かう時、新島は、自分のような若者が肉体も精神も大いに使うことが出来ず、療養のために温泉場へ行くことはとんでもないことだ、と大いに気分がめいった。しかし、彼を待っていた温泉施設での湯治生活は、彼の想像以上に辛く厳しいものであった。なぜなら、その湯治方法はおそらく、冷水浴と温水浴を交互に繰り返すというローマ時代から当地に伝わる循環浴であり、特に冷水に入るには最悪の季節であったからである。そのため、彼の神経は高ぶり、頭痛もいっこうに直らなかった。しかし、彼はそこで、自分よりもはるかに悪条件の病気に悩んでいる若者に沢山出会って大いに勇気づけられ、神のやさしいお導きに感謝さえしている(3月5日付ハーディー婦人宛新島書簡)。

 新島は、湯治に集中していても教会に通うことは忘れなかった。新島はルーテル派の教会に通った。ヴィーズバーデンにいる大多数の人々は「快楽の崇拝者」であったため、その教会の中はからっぽではあったが、それでも、彼は何人かのクリスチャンの知り合いが出来た。その筆頭は、その教会の牧師グスタフ・ハウザーであった。

 同年4月6日付けのハーディー夫人宛の書簡で新島は次のように綴っている。

 自分は2週間前に温泉場を去ってこのハウザー牧師の家に移った、リューマチは完全に直ったが、なおどんよりとしためまいを伴う恒常的な頭痛に悩まされる、ドイツに来て7ヶ月以上にもなるのに、そのうち5ヶ月を田中理事官のために費やしたのでドイツ語の勉強ができなかった、そこで、アメリカの神学校が休みのうちの8月1日までヴィーズバーデンに留まり、ドイツ語の勉強をすることを考えているのである、と。

 また、同年6月25日付けのヒドゥン宛ての書簡では、彼は湯治の第2コースを、「10日前から(6月15日頃)」から始めて、「たぶん更に2週間(7月9日頃)」迄続けることを伝えている。

 これらの記述から推定できることは、新島は3月下旬(3月23日頃)に湯治の第1回目のコースを終え、続けて第2回目のコースを受けてはどうか、と医者に勧められたが、新島としては、依然として頭痛に悩まされているが、リューマチはとりあえず治まったし、更に冷水に入るのはあまりに辛い、いったん湯治は終了にしよう、なお、アメリカの学校に間に合う8月頭までは、この地に留まって、ドイツ語をしっかり勉強し、なお、更に頭痛が続くようであれば、気候が良くなってから2回目の湯治のコースも受けておこう、と考えて、ハウザー牧師の家に下宿することにした、というような新島の心理である。筆者は、新島がハウザー牧師の家に移ったことは、彼の湯治が一区切りついたことを意味すると考える。

 新島は、ヴィーズバーデン入りした当初から、湯治と並行してドイツ語を勉強しようと考えていた。彼がドイツ語習得にこだわった理由は、彼の理解では、当時、日本においてドイツ学が熱心に勉強され、流行しているので、ドイツ語を習得していることは、帰国の上は「殊の外の強み」にもなる、と考えたからであり、日本において公人として宗教の面で働くには、現代思想、科学、言語の面で普通の日本人よりもいくらか先んじていることがどうしても必要だと判断したからである(同年3月18日付新島民治宛、及び、同年4月6日付ハーディー夫人宛新島書簡)。

 実際、滞在当初、彼は無理を押してドイツ語習得に努め、そのため、滞在1ヶ月が過ぎた3月中旬には、「最早独乙文も読始め」ることが出来るようになった。ちょうど、その頃、貴族ホン・ツェーメンという老夫人が、新島の名を聞き及び、「2日置毎に午飯(昼食)之御馳走ニ招」き、厚く世話をして、旧約聖書の『詩篇』や『ルター伝』をテキストに、ドイツ語の手ほどきをしてくれた(同年3月18日付新島民治宛同書簡)。

 3月下旬から4月上旬に掛けて、リューマチの痛みも治まった新島は、いよいよドイツ語をしっかり学ぼう、と前向きな気持ちになり、その勉強に集中し始めた。ところが、そこで彼は大変失望することになる。ひっきり無しに続く神経性の頭痛のためドイツ語の勉強はほとんどはかどらず、ついには、医者から、あらゆる" mental task "(頭の中で行う知的作業)に従事することを完全に止められてしまったからである(同年6月25日付ヒドゥン宛新島書簡)。

 ドイツ語習得という、ヴィーズバーデン滞在の前向きな意味を失った彼は、失意をこらえて療養に専念することになった。彼は医者の指示を守って、時間通り適度に食事をし、約8時間は睡眠を取り、日中はかなりの距離を歩く、という規則正しいが単調な日々を過ごした。

 手紙好きの新島がヴィーズバーデン滞在期の5ヶ月強の間に書いた書簡は極めて少ない。時系列に列挙すれば、(1)3月5日付けハーディー夫人宛、(2)3月10日付けシーリー教授宛、(3)3月18日付け民治宛、(4)4月6日付けハーディー夫人宛、(5)6月25日付けヒドゥン宛、のわずか5通である。特に、そのうちの4通((1)~(4))までが、3月から4月上旬までに頻繁に書かれたものであるのに対して、最後の手紙(5)は、6月25付けのものであり、(4)の手紙から2ヶ月半も後のものだ。そして、この(5)で初めて、新島は、ほとんど頭痛に悩まされることが無くなったことを記述している。

 この事実は、神経性の頭痛に苛まれていた新島が、4月上旬から6月15日の第2の湯治コースの開始を経て同月下旬にようやく頭痛が消える頃まで手紙を書くことさえも止めていたことを示すものである。のちの日記で新島は、「ヴィーズバーデン滞在中、私は長期の病気に落胆させられた」と綴っているが、療養中とはいえ、念願のドイツ語の勉強はおろか、心配してくれる親しい人々に対する手紙さえも書けない湯治場生活は、新島にとって長く辛い無為の日々と感じたに違いない。

 

(2)『ドイツ・レクイエム』、木戸との再会、寒さへの怖れと健康不安

 話は少し遡るが、第1回目の湯治が終わってから、新島は、頭痛に悩みながらも、ヴィーズバーデンならではの行事を楽しむ機会があった。

 4月9日、彼はコンサートに行き、"Ein deutsches Requiem nach Worten der Heiligen Schrift."を聞いている(『新島全集8』)。この曲は、ブラームスの作曲した『ドイツ・レクイエム』のことだが、これは1859年から68年にかけて作曲されたもので、1869年、ライプツィヒで完全初演が行われて大成功し、ブラームスの代表作となった曲である。新島は、同時代のドイツ一流の作曲家ブラームスの最新作で、当時のドイツで最も評判の高かった曲の1つを聞いたことになる。それはまた、流行を追う町ヴィーズバーデンの華やかさを示す例証でもある。ちなみに、このコンサート会場は、おそらく、クアハウス(Kurhaus=療養センター)であろうが、新島が滞在していた頃の新古典主義による建築様式のクアハウスは、1907年に現在のものに立て替えられて現存していない。

 さて、新島は純粋に音楽を楽しむために『ドイツレクイエム』を聴いたのか、と問われれば、筆者としては、否と答えたい。このレクイエムの最大の特徴は、題名の通り、歌詞が、ラテン語ではなくドイツ語であり、それも、聖書の中から選ばれていることである。新島はおそらく、このことより、このレクイエムを聴く気になったのであろう。一つは、キリスト者としての興味から、一つはドイツ語の勉強のために。

 新島が、このレクイエムにどのような感想を抱いたのかは分からないが、「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」(第1曲、マタイによる福音書5・4)、「あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう」(第5曲、ヨハネによる福音書16・22)など、荘厳な中にも表情豊かに歌い上げられた聖句は、きっと闘病生活に悩む新島を慰めたことであろう。

 新島はヴィーズバーデンで、ハウザー牧師やホン・ツェーメン夫人以外にも、幾人かのドイツ人キリスト者と親交を持った。青年ハインリヒ・シュナイダーや彼の友人たち、ディール親娘、若い娘のノエミ・フォルスター等である。和田洋一氏は、同志社の新島遺品庫の中から、ヴィーズバーデンの住民6名(男性3名、女性3名)が新島宛に書いた12通の手紙を発見している(和田洋一「新島襄とドイツ」/『日本の近代化とキリスト教』)。

 新島は、シュナイダーとは特に親しくなったようで、ヴィーズバーデン滞在中、彼と共に、ディール氏の家に下宿させてもらったこともあった。新島は、2度目の欧州訪問の最中、シュナイダーとの再会を果たし、彼の家に宿泊させてもらっている(1884/8/29~31)。その時、シュナイダーは、ディール氏の娘さんと結婚してマインツに住んでいた。

 新島がヴィーズバーデンを離れた後に得た同地の友人からの手紙には、彼が、学んだドイツ語を忘れぬよう願う内容のものが複数あった。このことより、ヴィーズバーデン滞在期の新島が、ドイツ語を学ぶ相当な意欲をもっていたこと、そして、ある程度までそれをマスターしていたことが分かる。しかし、繰り返すが、新島は、途中から、医者によって知的作業を全面的に禁止させられたため、以降は、ドイツ語も忘却するに任せるほかなかった(和田洋一前掲論文)。

 新島が知的作業を止められ、単調で辛い無為の日々を過ごしていたさなかの5月26日、岩倉使節団の副使の1人だった木戸孝允が、長州出身の後輩品川弥次郎らを引き連れてヴィーズバーデンを訪れた。木戸は、使節同僚の大久保利通と共に留守政府から帰国の要請を受けたが、大久保との同行を好まず、各地に寄り道して帰国する途中であった。新島は、木戸の宿泊先を訪ねて彼と再会を果たしている。

 木戸がヴィーズバーデンに立ち寄った理由は、わざわざ新島と会うためというよりも、おそらく、彼が持病の痔疾の療養のために温泉に立ち寄りたかったからであろう。事前に新島がかの地にいることも知って、湯治ついでに新島と会えればよいと考えたかもしれない。木戸は痔疾に悩まされていて、アメリカ滞在中も、しばしば温泉に出かけていたからである(宮永孝『アメリカにおける岩倉使節団』)。いずれにしても、木戸から新島の滞在先を訪ねたのではなく、新島の方から木戸の宿舎を訪れている。

 木戸はちょうど新島より10歳年上、アメリカで使節団の一員として加わった新島と会って、「新島は此の地に至り初めて彼と談話し、彼の厚志篤実、当時軽薄浅学之徒みだりに開化を唱ふるものと大に異なり、余、彼と交わること自ずから旧知の如し、其の益を得ること少なからず、後来(将来)頼むべきの人物也」(『新島襄全集8』)と大いに注目していた。その日、木戸と新島、品川は、広大なクアパーク(Kurpark=療養のための公園)などを散歩で巡り、親交を深めた。翌朝、木戸らは宿をでてブーブリヒに至り蒸気船に乗ったが、新島は、彼らを見送りにわざわざそこまで出かけている。

 承知の通り、新島帰国後、木戸は新島の学校設立に惜しみなく援助を行っているが、その背景には、このような二人の人間的な交流もあったのである。

 その他、新島はこの地で、近くのフランクフルトで紙幣の製造を学んでいる日本人の若い役人とも親交があった。新島は、その役人と何度か会ったのだろう、彼に聖書を学ぶよう説いた。しかし、その時は、この若い役人は新島の期待する返事をしなかったようだ(『新島襄全集6』)。

 前述したように、新島は、6月15日頃、湯治の第2のコースを開始した。その第2のコースを10日つづけた頃には、彼もほとんど頭痛に悩まされることが無くなったので、6月25日頃、新島は2ヶ月半ぶりに、知的作業を再開した。それは、ハーディーに対する神学校変更の打診であり、ヒドゥン宛書簡の執筆である。後者は本論でも何度か触れている。

 ハーディー宛ての書簡は『新島襄全集』にも残されていないが、筆者が次に訳出(部分)したヒドゥン宛て書簡の内容を読めば、彼はハーディーに、アメリカに帰った後に学ぶ神学校を変更したい、と打診したことが明らかである。

 「私は決意しました。この秋、私の神学の勉強を再開します。しかし、アンドーバー神学校へ戻るかどうかは、かなり疑問に思っています。なぜなら、その地の冬の気候は私にとってあまりに厳しいからです。私は、(冬を越して)来年も通学するためには、どうしても、他の神学校を探さなければならないだろうと思います。もちろん、アンドーバー神学校に戻らないことは自分の気持ちを否定することになるのですが。しかし、長く入念な考慮の末、私は、ニューヘブンの神学校へ行くことにほとんど決めてかけています。この件につきましてハーディー氏に手紙を送りました。もちろん、最終決定は、ハーディー氏の助言に依ります。

 私は、いつドイツから愛するアメリカへ出発するか、まったく決めかねています。しかし、いずれにしても、神学校の秋の学期が始まるまでにはアメリカへ行くつもりです。私は、病気がちのために勉強がしっかり出来るかどうかわかりません。しかし、親愛なる神様がすべての未来を指し示して下さると信じています。」(同年6月25日付ヒドゥン宛新島書簡)

 新島は、マサチューセッツ州にあるアーモスト大学の学生時代、ひどいリューマチに一度ならず苦しんだ。特に、卒業する1870年の3月には、その地の寒さのためにまたもひどいリューマチにかかって、それは、その年の9月まで6ヶ月も続いた(井上勝也『新島襄 人と思想』)。彼は、使節団員辞任後は、アメリカに戻って神学を学び終えることを決めていたが、休学していたアンドーバー神学校もマサチューセッツ州アンドーバーにあり、その地の厳しい寒さを考えると、同校へ復学する自信がないため、すこしでも気候が穏やかなコネティカット州ニューヘヴンで神学を学ぶことを考えたのである。

 アンドーバー神学校は、1808年、ハーディーの出身校であるフィリップス・アカデミーが、ハーヴァードの神学校のユニテリアン化に対抗して、会衆派の牧師の養成を目的として設立した神学校であり、ハーディーは1855年以来、母校のフィリップス・アカデミー、アーモスト大学、そしてこのアンドーバー神学校の3つの教育機関の理事に就任していた。新島が、この3つの学校に進学出来たのも、ハーディーの世話焼きのおかげであることはあきらかであった。従って、このとき、新島がアンドーバー神学校へ戻らず、全く別の神学校に学ぶことをほとんど決めたことは、本質的には、彼がこの頃既に、ハーディーの庇護から離れて、自立した存在になっていたことを意味する。そしてまた、それは、慣れ親しんだ母校に帰らず、未知の学校へ移ることを決意しなければならなかった程、新島が、アンドーバーの冬の厳しさを怖れ、自己の健康に不安を感じていたことをも示すものであった。

 しかし、新島はなお、アンドーバー神学校へ戻る考えも捨てきれなかった。ただし、その場合は、到底越冬は無理なので、秋の期間だけ勉強し、冬の前には日本へ帰国しよう、などと彼は考えている(同年8月27日付ハーディー宛新島書簡)。

 

 4 ヴィーズバーデンを離れてアメリカへ

 それこれ悩む中の7月下旬(23日頃)、第2回目の湯治コースが終了して、新島はようやく、この「流行を追う町」を離れることができた。しかし、おそらく、病後の体力の回復をはかるために無理を避けたのであろう、彼はアメリカへ急ぐことをせず、教育調査や見物も兼ねて、ゆっくり各地に立ち寄りながら、1ヶ月以上かけてアメリカに戻った。

 最初に立ち寄ったのが、ヴィーズバーデンから30キロメートルほど北東にある田舎町フリードリッヒスドルフである。そこには、ベルリンで知り合った懐かしの人々("my old Berlin acquaintances ")が滞在していた(同年8月6日付ハーディー夫人宛新島書簡)。その地の住民は、大部分がフランスのカルヴァン派のプロテスタントであるユグノーで、カトリックの国フランスで迫害されてその地に移り住んでいた人々であり、今なおフランス語の聖書を読み、フランス語の賛美歌を歌っていた。新島は、彼らが他の大部分のドイツ人のように聖日を休日として考えるのではなく、迫害を受けた先祖たちと同様にそれを聖日と理解して、きちんと安息日を守っていることを嬉しく思った。そして、彼はおそらく、そんな住民が住むこの町が気に入ったのであろう、3人の少女たちがいる家庭に下宿しつつ、この地に一週間滞在して、フランス語やメソジストの礼拝に行ったり、男女別の学校を参観したりして過ごしている(ハーディー夫人宛同書簡)。

 この町に滞在していた「ベルリンで知り合った人々」とは、フランクフルトで紙幣の製造法を学んでいた日本の役人たちである可能性もあるが、詳しくは分からない。

 その後、彼は、オージンゲンに約1週間滞在して師範学校や付属小学校を参観し、フランスに入って、パリでは9日間滞在して名所見物をした。その間、新島は、例のアンドーバー神学校かニューヘヴンの神学校か、いずれを選ぶべきか悩んでいたようだ。

 8月26日、彼はロンドンに到着すると、さっそく、彼宛の手紙の寄託先として知人に伝えていたベアリング商会を訪ねた。するとそこには、ハーディーからの手紙が届いていた。

 その手紙自体は、筆者の調べた限りでは残されていないが、ハーディーは真心を込めて、新島が将来進みたい方向性も考慮した上で、アンドーバー神学校に戻って神学の勉強を続けるよう助言したようだ。

 新島は、その手紙に力を得て、再びアンドーバーで、来年まで学問を行う勇気が涌いた。

「私はすっかり、神の御手にわが身をゆだねて、わが国民に対する将来の仕事の為に最高の準備を行うことに決めました!」と、彼は力強い返事をハーディーにしたためている(同年8月27日付ハーディー宛新島書簡)。新島は、ヴィーズバーデンの鉱泉は、自分の体質をいくらか改善してくれたはずだ、もし自分が健康に細心の注意を払えば、たぶん、私の旧敵リューマチの次の攻撃から身を守ることができるだろう、と前向きに考え直したのである(ハーディー宛同書簡)。

 そして、9月2日、新島はリパプールから出帆。同月14日、彼はほぼ1年4ヶ月ぶりに懐かしいアメリカに帰った。

 

 5 新島の健康の回復と喜び

 ヴィーズバーデンは、古代ローマ時代から知られた有名な温泉保養地である。しかし、リューマチ治療のために訪れた新島にとっては、その町に滞在した期間は、単調で長く辛い闘病の日々であった。

 新島は、リューマチ治療専門の温泉施設で循環浴を行ったに違いない。厳寒の中での冷水浴は神経を刺激する苦行であり、彼の神経性の頭痛はなかなか直らず、リューマチの痛みが消えた後も彼を苦しめた。そのため、当初計画していたドイツ語の習得はおろか、知人への手紙の執筆さえ不可能になり、彼は、失意の日々を過ごした。

 しかし、それは決して無為の日々ではなかった。なぜなら、新島の病気は癒され、彼の健康は確実に回復したからである。

 その年の11月22日、アンドーバー神学校に復学していた新島は、ひどい風邪を引いて、それは日に日に悪くなり、そのうちに、かすかなリューマチの発作も起きてきて、新島は、またリューマチに苦しむことになるかも知れないと考えた(同年11月24日付シーリー教授宛新島書簡)。しかし、結局、風邪は26日の時点まで直らなかったが、リューマチはそれ以上悪化しなかったようであり、彼はその冬を寒いアンドーバーで乗り切れたのである。

 さて、筆者もまた、アーサー・シャバーン・ハーディーと同じように、あの有名なエピソードを紹介して本章をしめくくりたい。

 翌1874年秋、新島がいよいよ日本へ帰ろうとした矢先に、彼は、ヴィーズバーデンで親交のあった、例のフランクフルトで紙幣の製造を学んでいた日本人の若い役人が、キリスト教を受け入れたという手紙を受け取った。それを知った新島は、次のように日記にしるした。「ヴィーズバーデンにいた時、病気が長引いてがっかりしたものだった。今や私はあそこでの滞在が全く無駄ではなかったことが分かり始めた。主がおそかれ早かれ、にがい水を甘い水に変えて下さるということを知るのは、何という大きな慰めであろう。私は主に病気を感謝する。」(『新島襄全集6』)

 

 結 語

 

 新島は外国の大学を正式に卒業して学士(B.S.)の資格を取得した最初の日本人である。当時の他の留学生がほとんど官費=幕末の藩や明治新政府の費用=で外国に「語学留学」をしに行ったのに対して、彼は米国人A.ハーディーという個人の支援を受けたものの、完全な私費留学生であった。その私費留学生が欧米の大学の正規卒業生の日本人第一号になったことは、日本の近代の留学史の中でもっと強調してよいことである。従来の明治初年の留学生のイメージが、国家から派遣され、帰国後に政府の役人となって”上からの”近代化に尽くした人々というようなものだからである。

 帰国後、新島は明治政府の度重なる勧誘を固辞して私立大学の設立に邁進した。それは、自由自治精神溢れた市民ひとりびとりの養成こそが日本人の精神の近代化にどうしても必要であり、そのためには、教育は国家に拠らず「人民の手に拠る」ことが不可欠であると考えたからである。彼は、いわば、”下からの近代化”こそが最も重要であると確信していた人物であった。そして、新島のこのような教育哲学は、自ら私費留学生としてアメリカの大学に学び、その視点で欧米各国の最新の教育制度をくまなく調査した結論でもあった。

 一方、私費留学生時代の新島は、政府からの留学資金に対する”縛り”が無いために精神的に自由だったが、実際にはそれ故にこそ、自分の将来についてなんども思い悩んだ人物であった。その悩みは本文でも何度か触れてきた通りである。特に、異境の地のヴィーズバーデンで独りリューマチの温泉治療を続けた時期は、一時、主治医からあらゆる知的活動も止められて非常な失望も味わっている。その地が華やいだ国際保養地であることも、彼の孤独感を一層増したことであろう。

 このような異国における私費留学生特有の悩みや孤独感は、ある程度、現代の一般的な留学生にも共通する悩みといえる。新島は、このような悩める留学生としても日本人の第一号であったとも言えるであろう。

 その生身の人間である新島が、留学生時代に自分の将来についてあれこれ悩んだ末に私立大学設立という宿望を固め、帰国後に自分の生涯を掛けてその夢の実現の為に努力し、多くの人々の賛同や助力を得て、やがてそれを具現化していったのである。このことは、現代、様々な国で学ぶ日本の、あるいはほかの国の、多くの私費留学生たちにとって大きな励ましとなるであろうと筆者は考えるのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/02/09

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

大越 哲仁

オオコシ テツジ
おおこし てつじ 歴史家 福島県郡山市生まれ。蘇峰・蘆花論文賞受賞(熊本県民文化祭1992)。第10回新島研究論文賞受賞(2003)。

掲載作は、1999(平成11)年、同志社大学人文科学研究所・社史資料室『新島研究』90号および2000(平成12)年、同91号初出の連作に、結語を書下ろし添えている。