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海を刻む

     一

 

 毎日が賑やかなお祭りのように過ぎたあの頃のことを、峻はいつまでも忘れないだろう。

 夕食が終わると、おじさんは小さな美奈を抱いて居間に移った。峻は、その背中に、蛙のように両足を広げて跳びついた。

 ──やめなさい、シュン。おじさんは疲れているのよ。

 ──いいんだ、いいんだ、とおじさんは言った。

 ──いいんだ、いいんだ、と峻はおどけた調子で口真似をしながら、濃茶色のソファーの所までぶら下がって行った。おじさんの腕に抱かれている美奈が、肩越しに峻を見てキャッキャッと笑う。おじさんの背中でおどけてみせることが、美奈を笑わすためなのか、母を喜ばせるためなのか、峻にはわからなかった。

 おじさんに甘えている峻を見るのが、母は嬉しそうだった。よしなさい、暑くるしいわよ、とか、なによ、甘ったれて、などと口では叱っても、母の目に宿る光はそのときこの上もなくなごやかになり、こじんまりした口元に、無意識の微笑を浮かべていた。峻がおどけてみせると、美奈は顔中をくしゃくしゃにして笑いころげる。峻がその表情を真似て顔を顰めてみせるので、母までが少女みたいな笑いの発作に襲われた。

 そんなとき、兄の信と四歳になる創は、呆然とした表情で峻を見ている。ワンテンポ遅れて、創は峻と同じようにおじさんの背中に跳びついてくる。

 ──ばかだな、おまえは、それじゃ、マントヒヒが風邪ひいた顔だよ。

 と信はきめつけるように言うが、峻がこんどはマントヒヒの物真似をしてみせると、こらえ切れなくなって、ぷっと吹き出してしまう。

 居間は、二部屋つづきの個室を打ち抜いて一室にした、十六畳くらいの洋風のフロアーになっている。突き当たりの壁面にはステレオが装置され、その脇の小さな白いテーブルに、イタリア製の色ガラスの傘の付いたスタンドが置かれている。居間にはそれ以外の光源はないので、白いテーブルの周辺には、淡く彩られた光の暈が出来ている。

 おじさんが、その光の輪の中に入った。横顔の輪郭が、くっきりと薄闇の中に浮かびあがる。母が、この瞬間のおじさんの顔を、台所で洗い物をしながら、誰にも気付かれぬよう、そっと振り返って見ていることを、峻は知っていた。それに気が付いたのは、もうだいぶ前のことになるが、峻はあえて素知らぬふりを続けている。そういった小さな秘密を共有することで、峻は母とのあいだに誰も入り込む余地のないふたりだけの絆を、確認していた。

 おじさんは、ターンテーブルの上にそっとレコードを落とした。静かに、音楽が始まる。おじさんはブルックナーが好きだった。オットー・クレンペラーの指揮するブルックナーやマーラーを、いつもひとりで聴いていた。母と一緒のときには、シャンソンか、カンツォーネだった。

 ──僕の音楽趣味は、極めて偏愛的なんだ。ブルックナーやマーラーだったら、巨匠と謂われたワルターも、帝王と呼ばれるカラヤンも駄目、ストイックで狂的なクレンペラーでないとピンとこない。モーツァルトのレクイエムは、およそ風貌の似つかわしくないカール・ベームの盤がいい。かれらの音楽には張り詰めた陶酔があるが、他の指揮で聴いたのでは、まるで違ったものになってしまう。少なくとも、僕の偏愛するブルックナーではない。

 いつか、母を相手におじさんがそう言っているのを、聞いたことがある。峻は、二人の大人たちがかわす、とりとめのない会話を聞くのが好きだった。峻はそうした会話の断片を、いまもはっきりと憶えている。しかし、そのことは、誰にも言わなかった。後になって、峻はその頃のふたりの会話の断片を、無意識に反芻している自分に気付いた。そのとき突然、その頃にはわからなかった意味が、明確にわかった。峻は、苦しい恋を経験していた。

 

 レコードを聴きながら、おじさんは光の輪の中で新聞を読んでいる。子供たちは光の周辺で駆けまわっていた。

 兄の信は、すでに子供たちと駆けまわる年齢ではなかった。少年サッカーに打ち込んでいた信は、体力においても運動能力においても、他の子供たちとは抜群の開きがあった。美奈は一歳になったばかりのよちよち歩きで、まだ言葉が話せない。創も甘えたい盛りだ。

 峻は、歳の離れた子供たちの、仲介役であることを、自覚していた。でもそれは意識の上での負担にはならなかった。美奈とすごすひと時が楽しかったのだ。同じ年頃の友人たちとキャッチボールの約束をする以上に、峻はなぜかそのことに魅惑された。美奈と一緒におじさんにじゃれついて戯れることができる最後の年頃になっているのを、峻は無意識のうちに知っていたのだ。

 それにしても、あの頃が、子供たちにとって無類な楽しさに満ちていたのは何故だろうか。小さな美奈と兄の信とでは、十歳もの開きがあった。大人たちにとってはほとんど問題にもならないその程度の歳月のひらきは、子供たちの世界では、決定的な差異といってよかった。にもかかわらず、彼らは互いに“共有する時”を楽しんだのだ。

 お母さんがいたからだ、と峻は思う。

 母が、あの頃ほどはしゃいでいたことはない。まるで弾みをつけたゴム鞠のように、母の日常は嬉々として輝いていた。それが子供たちに感染した。

 何よりも、食卓が賑やかだった。毎日がパーティーのような、はなやぎに満ちていた。父は帰りの遅い日が多く、おばさんもいない晩があった。しかしおじさんと母が、子供たちと一緒でない日はなかった。

 ──こういう賑やかな食事は、あたしも子供たちも大好きよ、と母が言った。

 ──子供は誰でも賑やかなお祭り気分が好きだからね、とおじさんは言う。大人だって、ほんとうはそうなんだ。親しい人たちと賑やかに食卓を囲むって、いいことなんだよ。

 それは同じ日の会話だったのだろうか。峻には、はっきりとした記憶はない。だが、同じように食卓を囲みながら、子供たちの喧騒からふと大人同士の静かな会話に移ったときの、母の言葉だった。

 ──お料理の秘訣って、食べさせたいと思っている人が、目の前にいてくれることね。それだけがどうしてもはずせない条件だってことを、最近になってつくづく思うわ。そうでなければ、女は料理に腕を振るう気にはなれないもの。感情が味覚の微妙さを決定するのね。

 あの頃、母の作る食事は微妙に美味しかった。特別な材料が使われたわけではなく、御馳走が続いたわけでもないのに、峻はあの頃ほどに贅沢な食事を、それ以来経験したことがない。

 やがて、おばさんが帰ってくる。創と美奈は、ママ、と叫んで駆け寄ってゆく。いつも悪いわね、たまには早く帰れるといいんだけど、と言いながら、おばさんは忙しそうに食卓に着く。創は母親の顔を見上げながら、もう一度食卓に戻る。一緒にいた美奈は、ママが相手になってくれそうもないと見切りをつけて、おじさんの膝に戻るためにトコトコと走ってくる。

 手早く洗い物をすませた母が、片隅に薄闇の領している居間に移る。光の場から、闇の領域への移行。峻は、その瞬間の、嬉々とした母のシルエットを見るのが好きだった。

 母はいつも、白いテーブルの傍らの、濃茶色のソファーに坐る。色ガラスのスタンドから放射する光の翳が、母の表情をいままでとはまったく違った角度から照らし出す。これがおじさんといるときのお母さんの顔だ、と峻は思う。

 母と向かい合いのソファーには、白いテーブルを挟んでおじさんが坐っている。ふたりの距離は、常に一定に保たれたままだ。にもかかわらず、椅子に坐る瞬間の母に、それを迎えるおじさんに、錯綜した苦痛と歓喜の表情が浮かび上がるのを、峻は見逃さなかった。

 おじさんは立ちあがって、レコード盤を替える。ふたりは長いこと、カンツォーネの曲を聴いている。それはおじさんとの会話のペースに合った盤だからよ、といつか母が説明してくれたことがある。しかし、ひとりでいるときの母が、同じレコード盤を繰り返し聴きながら涙を浮かべているのを見たことがあるので、あの曲には何かそれ以上の意味があるのだろう、と峻は思った。これも母と共有する小さな秘密のひとつだった。

 こうした時々の大人たちの会話を、特に気にとめていた訳ではない。ほとんどが、無意識の深層に染み込んだまま、忘れ去られていたことだった。ところが、何年かたって、ふとした切っ掛けから忘れられていたはずの記憶が浮上し、母たちの、ゆるやかな時の流れの中に秘められていた言葉の断片が、妙に鮮明な印象を残していることに気が付いてから、峻は、それらの会話こそが、自分の孤独な感性を培養してきた養土ではなかったのかと、思いさえした。

 

 なかなか眠りたがらない創や美奈を寝かしつけてから、おばさんも母たちの会話に加わることがある。すると話題は、決まって絵画の方に移った。

 三人とも、絵を描いていた。あの頃は誰もがまだ、趣味として絵を描いているというだけに過ぎなかった。母は年に一度の公募展用の大作と、グループ展向けの小品を描いた。大学で油彩画を専攻したおばさんは、中学校で美術を教えながら自分の作品に取り組んでいた。おじさんだけはすでに絵から遠離っていたが、話題がそちらに向くのを、いちばん喜んでいるふうに見えた。

 ──或る物故画家の、遺作展を見に行ったことがあるが、とおじさんは言った。ひどく残酷な気がしたよ。

 ──その人の、生涯の作品が並べられるというそのことが、すでに残酷なのね、と母は言った。

 ──でも、それを恐れていたら、作品の発表なんて出来ないわ。芸術家は、自分自身を一個の連続体として展示すべきなのよ。人生の、どの断面をも晒してみせなくては、何も創り出すことは出来ないのよ、とおばさんは反論した。

 ──そうではないな。僕が残酷だと感じたのは、もっと内発的な問題についてだ。ああいう形式の展観では、ほとんどの作品が製作年代順に並べられているだろう。たとえば、その人の場合、年少期の作品は極めて達者な、確実な技術で描かれている。その確実さが、或るときを境にして、しだいに崩解してゆくのだ。つまり簡単に言えば、うまい絵を描いていた人がだんだんと下手糞になってゆく過程を、露骨に見せつけられる訳だ。別な言い方をすれば、初期の入念な作が、しだいに手抜きされてゆくことが、明らかにわかる仕組みになっている。

 ──でも、それは独自な作風の追求ということではないのかしら。あなたには、彼の変貌の本質が、見えなかっただけのことよ。

 ──確かに、そうとも言える。初期の確実な作風は、当時のアカデミズムそのものだし、時代精神の優秀な模倣と言えるほどに、非個性的だ。しかし、たとえそうであっても、あれほどに高度の技術は、他に類がないだろう。ところが、そこから一歩進めて独自性の追求に入ってからは、実に惨憺たる崩解現象が始まる。あれほどの技術の持主が、個性とか独自性を探ろうとすると、驚くほどに貧困な結果しか生めないのだ。たぶん、アカデミズムの秀才だった頃の彼は、周囲の者からその才能を嘱望されていただろうし、彼自身もそのことを信じていたと思う。ところが、長すぎた修業期間が終って、さあこれから自分の絵を描こうとしたとき、残酷にもそのときになって、自分には独自の才能がないということに気が付く。ほとんどの芸術志望者が、同じような残酷な(ふるい)にかけられている。だが、真に独自性を持っているかどうかを、誰が判定できるのか。初歩的な段階で篩にかけられた連中ならまだいい。だけど彼のように、ほとんど技術的な頂点にまで達してから、そのことを思い知らされた者は、どうしたらいいのか。他の誰もが彼の才能を信じている。才能がないと知っているのは、自分だけだ。

 ──でも、その人はやはり勇気ある芸術家よ、と突然に母は言った。その人はアカデミズムを押し通すだけでも、その時代の一流画家になれたのでしょう。それなのに、あえて、自分の独自性のなさを晒してまで、創造性への追求を撰んだのでしょう。たとえそれが画風の崩解に繋がろうと、それが才能のなさの証明になろうと、その人は立派よ。その道程を示す展観は、はた目にはいくら貧しい印象を与えようとも、残酷などころか、その人の栄光よ。

 ──あなたは、まだ文学趣味が抜け切っていないね。

 おじさんはからかうような調子で言ったけれど、決して母の意見に反対してはいないことを、峻は知っていた。

 

 父が帰ってくる。玄関のドアが開けられる。

 階段を登ってくる足音だけで、母は誰が来るのかを聞き分けた。何処で何をしていようと、父がドアを開けたときには、母はもう玄関に立っている。その敏速な動きを見るのも、峻は好きだった。

 父にはおじさんほど甘えられない。小さな会社の共同経営者の一人である父は、連日疲れ切って帰ってくるので、子供たちを相手にする余裕はなかったのかも知れない。父の目は母にのみ向けられていた。他の者をあえて無視してまで、母だけにそそがれていた。それぞれが緊密な繋りを持って生活していたあの頃、父だけは頑ななまでに母との繋がり以外を求めようとはしなかった。

 たとえば、あの頃の習慣に『この指とまれ』というのがあった。共同生活をする以上、ふたつの家族として別々に行動するのは不自然だし、そうかといって全員が同一の行動を取ろうとすると、おたがいに身動きが取れなくなる。だから都合のつく者だけが、ひとつの家族として行動しよう、というほどの意味だ。

 ──これがひとつの家族なのだから、と母は言った。みんなで一緒に楽しめることだったら、あたしは何処にだってゆくわよ。

 ──単独であることを認めながら、有機的な繋がりの中で楽しみを見出してゆく。なるほど、新しい家族のあり方としてはごく自然かもしれない、とおじさんは言った。

 旅への衝動は、予測なく訪れるものらしい。休日の朝、まだ明けやらぬ遠い空を見遣りながら、母は言った。

 ──海を見たい。

 それが“家族の意志”だった。一日かけて海の見える街まで走った。やむにやまれぬ母の激情が、ときどき発作のように果てしない海へと向うのを、峻は知っている。

 誰の計画であろうとも、真っ先に乗り気になってしまうのは、いつも母だった。母の発散する陽気な雰囲気が、みるみるうちに子供たちに感染してしまう。そんな子供っぽい遊びなんか、とはじめは馬鹿にしていた年長の信でさえ、じゃあ僕も行ってみようかな、と浮き浮きした笑顔を見せる。

 そんなときでも、父は一緒に行動しようとはしなかった。子供たちはしばしばそれを不平に思ったが、峻はなぜ父が頑ななのかを、知っているような気がした。父はすべての行動をともにしなかったのではない。発案者が母のときには、同行を拒んだことはない。

 父の目は、母のみに向けられていたのだ、と峻は思う。そのことが、母の日常的な苦痛の原因だった。父はそのことに気付かなかった。

 ──あたしが彼に望んでいるのは、夫ではなくて父親なのに、あの人には、その部分がいちばん欠けているのかも知れない、と母は言ったことがある。

──あなたがそう望むの、とおじさんは皮肉な口調で言った。

 ──もちろん、あの子たちのために、よ。

 母が父の夕食の用意をしているあいだ、おじさんは新聞を読みつづける。その頃には美奈も創もとうに眠っていて、おばさんはアトリエに籠もり、キャンバスに向かっていた。兄の信は勉強のため子供部屋に戻っていたが、たぶん昼の激しい運動の疲れで、睡魔に襲われている頃だ。

 おじさんがひたすら母を待っていることを、峻は知っている。おじさんは、ほんとうは新聞など読みたくはないのだ。書斎で仕事をしなければならない。だが、もう母と一緒にワインを飲んでしまっている。アルコールが入ったあとには仕事をしない、というのが、おじさんの信念だ。ではもう、母が来るのを待つしかない。

 薄闇の中にそっと忍びこむようにして、母が濃茶色のソファーに戻る。おじさんとのあいだは、相変わらず白いテーブルを挟んで一定の距離が保たれている。峻はそれ以上を目撃することはなかった。

 母が目で合図を送る。峻は兄の眠っている部屋に戻ってゆく。壁越しに、南方的な情熱を秘めたカンツォーネの旋律と、母とおじさんの静かな会話が伝わってくる。峻はそれを子守唄にして眠りに就く。何故かそのことは、後々までも心地よい余韻を残している。

 

     二

 

 ──お母さんって、いい匂いがする、と峻は言った。

 化粧台に坐ってルージュを引いていた母が、赤く濡れた唇をすぼめた。大きく見開かれた目が悪戯っぽくクルクルと動いて、鏡の中に映っている峻の顔に微笑みかけた。

 ──そうお、シュンちゃんはこんな匂いが好きなの。

 母はそう言いながら香水壜を取りあげて、軽く胸元に噴霧する。

 そうじゃないんだけどな、と峻は思った。部屋の中を母が足ばやに摺り抜けるとき、あたたかい肌の匂いがふんわりと峻を包み込む。それはほとんど匂いとも言えないほどに微かな芳香であり、揺れ動く空気の、ほのかな感触だった。

 ──いい匂い。あなたの匂いに包まれているのは、好き。

 峻は、母がおじさんに向ってそう言ったことがあるのを憶えている。

 ──これは特殊な感情ね。ほんらいなら感覚として感じるはずの匂いを、感情の中に感じているのよ。あなたにはわかるかしら、いつまでもこの匂いに包まれていたいという、あたしの気持が。匂いの中に、あなたの肌のあたたかみを感じるの。あなたといることで、やすらぎが部屋の中に満ちてゆくのよ。

 母がそう言っていたのは、ずいぶん前からのことだったような気がする。それからは峻も、匂いについて敏感になった。いや、母の言う匂いという意味を、感じ取ることができるようになったということだろう。それは、ともにいる空気の感触であり、肉体の持つ磁場の融合であり、ひとつの安堵だった。それが、肌の匂いによってもたらされる感情だった。

 ──お夕食までには、帰ってくるわ。シュンちゃん、宿題をちゃんとすましておいてね。わからないところがあったら、お母さんが帰って来てから見てあげる。出来るところはやっておくのよ。わからないところばっかり考えて、ベソをかいていたりしちゃ、いやよ。鍵は、わかるわね。それがすんだら、外で思いっきり遊びなさい。

 おじさんに逢いにゆくんだ、と峻は思った。

 化粧台に向う母の後姿を見ただけで、峻にはそれがわかる。母の身のこなしが特定のリズムを持つ。それが愉し気に跳びはねている。

 ──ぼく、お母さんのお友だちのなかでは、おじさんが一番好きだな、と言ったことがある。母は一瞬とまどったような表情をしたが、すぐに平然としたようすで嬉しそうに言い添えた。

 ──あら、シュンちゃんも。おかあさんも大好きよ。

 何故そんなことを言ってみたのか、峻は憶えていない。何かのおりにふとそう思って、そのまま口にしたまでのことだ。おじさんが来たからといって、峻たちに何をしてくれるわけではない。ただ峻は、母と楽し気に喋っているおじさんの話を聞くのが好きだった。たいがいは、子供の世界とは無縁な、おとなの話題ばかりだった。にもかかわらず、峻にとって決してはじめて聞く話のようには思われなかった。峻が、いつの日か思い浮かべていただろう無形の想念を、おじさんの言葉が明解に裁断しているような気が、常にした。

 峻がおじさんに対して抱いている感情は、決して好意だけではなかった。おじさんからの電話のあと、母が涙を流しているのを見たことがある。黙って受話器を置くと、母は放心した表情のまま、静かに涙を拭っていた。

 すぐにベルが鳴った。母は受話器を押さえるようにしてうつむいている。

 間歇的にコールするベルの響きが、母の表情を苦痛でゆがませる。なんどか繰り返しているうちに、母は決意がつきかねるようにして受話器を取る。電話器に取りすがるようにして、母は無言のまま涙を流しつづける。

 そのときの電話でどのようなやり取りがあったのか、あるいは母の流したのはどのような状況の中での涙なのか、当時の峻にわかるはずはない。だが、峻や信がいぶかしがって近付くと、咄嗟に指先で弾くようにして涙を払い、いつものように微笑を浮かべてみせる母の姿は却って痛ましく、たとえ理由は何であれ、これほどに母をいじめているおじさんは、許し難い存在に思われた。

 しかし、おじさんからの次の電話で、歓喜にみたされているらしい母を見ると、峻には大人たちのたくらみが、わからなくなってしまう。

 もっとも、大人たちのあいだでどのようなやり取りが行われたときでも、母の子供たちに対する態度が変ったことはなかった。ひそかに、峻だけが知っている。お母さんは自分が悲しんでいるときには、却って周囲の者に優しくなるということを。

 お母さんは、苦痛や悲しみを認めたくはないのだ、と峻は思う。それによって感情が揺らぐことが、許せないのだ。でもそれは、女としての母の、最後の誇りなのかも知れなかった。もっとも身近かにいて、肌の匂いに包まれていた峻には、母のわずかな感情の動きをも、皮膚感覚として感じ取ることができた。その峻から見て、母ほどに激しい感情のゆらめきを、誰も知らずにいることの方が、不思議だった。母はその激情を、ほとんど陽性の微笑の下に、抑え込んでいた。

 

     三

 

 ベランダを通り抜けて、おじさんの部屋まで行くことができる。そこは生活の場と孤立した一角だった。隣接して母たちの共同アトリエがあり、美奈や創の子供部屋がある。

 アトリエの構造は、白いテーブルのある居間と酷似していた。いや、ベランダ越しの通路を挟んで、部屋の配置そのものが、正確な左右対称形になっている。だからアトリエの水場は炊事場の位置にあたり、その先には、使われたことのない玄関もある。鉄製のドアを開けるとおじさんの表札がかかっており、狭い踊場を挟んで、その向い合いにはもうひとつ同じ形のドアがあって、そこには父の表札が掛かっている。

 ベランダからは、広い芝生が見わたせた。建物と建物の空間にはデルタ状の空地があって、かなり広範なその場所には、全面に芝草が植えられている。そこは子供たちの遊び場であり、緑の公園であり、火災のときには避難場所にもなったが、峻たちは母に(なら)って、緑のデルタ、と呼んでいた。

 ──緑のデルタで遊んでおいで。

 ──緑のデルタで遊んでくるよ。

 信がひとりで、サッカーボールをころがしている。芝生の緑に映える、信の赤いユニフォームは、遠くから見ても鮮明だった。

 信の足先で、白黒のサッカーボールが、自在に飛翔する。しかしその同じ緑地には、ゴルフの素振りをする老人や、キャッチボールをしている親子連れ、ジョギングに励む中年夫婦などがいて、信はいかにもやりにくそうだ。信はまるで曲芸師のように、器用に蹴球をあやつりながら、人々のあいだをすり抜けてゆく。

 マンションの最上層にあるベランダから、緑のデルタを見下すと、球を蹴る信の姿は、いかにも頼りなげに小さく見える。母は、炊事の途中でベランダに立って、子供たちが遊ぶのを見ている。ときには下に降りて、小さな美奈や創を相手に、軽やかに芝生を駆けまわることもある。信と峻には、本格的な走法のコツを教えてくれた。学生時代は短距離の選手だったのよ、と母は自慢した。

 ──そんな走り方では駄目。もっと脚を胸にひきつけて。

 そんなときの、若やいだ母の姿が、峻の記憶にいつまでも残っている。

 

 夏には、同じ芝生の上でバーベキューを焼いた。母たちの絵描き仲間が、招待される。

 子供たちは賑やかな会食が好きだったので、客たちの誰にでも好意を抱いていた。中でもヒゲのおじさんの家族は会食の常連だったので、峻とは特別になじみが深い。母たちの仲間で、画家を職業としていたのは、ヒゲのおじさんだけだった。

 いつだったか、彼が小さな美奈を抱き上げたとき、目の前に忽然とあらわれた髭に興味をそそられた美奈が、いきなり小さな手を伸ばして、思い切り引っぱったことがある。

 ──ホオー、元気がいいね。

 と痛そうに顔を歪めながら、ヒゲのおじさんは感心したように言った。美奈は頓着しない。小さな手にしっかりと髭の束を握ったまま、峻たちを見て得意そうに笑っている。

 ──小さな子ってのは、髭の天敵だなあ。視線を感じるたびに、引っぱられそうな気がして、いつもはらはらしているんです。でも、たいていの子はせいぜい触わるだけで満足してくれるんですが、こんなに思い切りよく引っぱられたのは、はじめてですよ。

 ──あたくしも、引っぱってみたいと、常々思っておりましたのよ、と苦しそうに笑いながら母は言った。

 ──ごめんなさい。この子のお転婆ぶりは、あたし仕込みなの。

 美奈はあの頃から、いつも社交の場の中心にいたのだ、と峻は思い返した。何か思い切った行為で、期せずしてその場の中心に踊り出てしまうような資質を、生まれながらにして備えていたのだ。いまになってみれば、その後の美奈の、一見投げやりのようでいて、常に注目を浴びつづけた行動の形式が、あの頃からすでに始まっていたように思われてならない。

 しかし、ひとたびは美奈が話題の中心になったとはいえ、おじさんたちはいつまでも子供たちの話をしていたわけではなかった。

 ──いつまでたってもへタだから、僕は絵を描いていられるんですよ、とヒゲのおじさんが言った。

 ──プロの絵描きさんに、そんなこと言われたら、あたしたちなんてどうなるの、と微笑しながら母は口を尖らせてみせる。

 ──僕なんかより上手い人は、いくらでもいるんですよ。学生時代には、僕のまわりにもずいぶん上手い人がいたなあ。でも、上手い人ほど長くはつづかないみたい。途中でさっさとやめてしまうだけの、才覚があるんですね。結局、いまもって愚鈍に描きつづけているのは、僕と女房だけになってしまったのかな。それなのに、相変わらずへタクソなんですよ。どうしたものかしら。

 ──プロの画家としての仕事をやりながら、いつまでもへタクソのままでいられるということは、それだけでかなりの才能なんですよ、とおじさんは言った。

 ──ちょっとでも気を弛めたら、たちまち上手くなってしまう。それを必死で抑え込んでゆくだけの気力を持続させることは、大変な力業(ちからわざ)だと思う。

 ──そうね、彼の画面から感じる強さは、そのせいね、と母が言う。

 ──いや、いや、僕のはただへタなだけなんですがね、とヒゲのおじさんは照れ臭そうに打ち消した。

 ──知り合いに、やはりへタな絵描きがいましてね、その人のアトリエを見せてもらったことがあるんです。僕は会場で見かける彼の絵を、あまり評価していなかった。いい加減に描き飛ばしている人だと思っていたんです。でもアトリエに入った途端に、何かガツッとしたものに圧倒されてしまった。それが何なのか、はじめのうちはなかなかわからなかった。芸術家の仕事場には或る種の精神性があるものと思っていたけれど、そんなものは微塵もないんです。じゃあ、自分は何に圧倒されたんだろう、と妙に気になった。かなり質の高い迫力だ、ということはわかっていたんです。でも、具体的に個々の作品を見ても、わからない。イーゼルの上には描きかけの絵などが掛けてあったけれど、それは相も変わらずいい加減な画にしかならないだろうという代物です。いったい、何だろう。でも、その場所で彼と話しているうちに、突如としてわかったんです。それは量です。

 ──量ですか、とおじさんは聞き返した。

 ──量です。その人の画室いっぱいに置かれていた、作品の量です。壁面という壁面、床という床、あらゆる処に所狭しと並べられ、積み重ねられている、作品の量だったのです。

 ──でも、あなたはずっと、作品の質を問題にして来たんでしょう、と不思議そうな顔をして、おばさんが言った。

 ──だから、アトリエにいながらも、個々の絵の質にとらわれているあいだは、なかなかわからなかったんです。僕はその人の作品を、展示会場でしか見てこなかった。それとはまったく異質の迫力が、アトリエにはある。何か見落していたものがあるんじゃないか、と僕は思った。でも、いくら見ていても、作品の質に変わりはない。そのときふと気付いたのが、量の感覚なんです。

 あの人は膨大な自分の作品に埋もれながら、身の置き所もないほど押しつめられたわずかなスペースで、じわじわと圧迫してくる量の感覚に堪えながら、描きつづけていたんですね。それは僕の知らなかった部分です。それどころか誰も知らない部分でしょう。でもそれこそが、あの人の絵画の土壌なんだ。それ以外には何もない。僕は量に圧迫されているアトリエを見わたしながら、この人がこうやって描きつづけて来たのなら、それでいいんじゃないか、と思ったんです。彼にとって重要なのは、個々の作品の出来映えではなく、連続体としての生の在り方なんで、たぶん僕の圧倒されたのも、量によって示された彼の生き方の迫力でしょう。

 ──でも、その方とあなたの絵では、決定的な違いがあるように思うわ、と母が言った。

 ──同じことかも知れませんよ、とヒゲのおじさんは言う。

 ──僕はこれからも、いままでどおりのへタな絵を描きつづけるだけです。新しい画布に向かうたびに、恐慌のように不安と緊張が襲う。それに負けまいとして、執拗に絵具を塗り込んでゆく。一作一作が、新たなる繰り返しです。いつまでたっても、描くことに慣れませんね。

 ──僕の創造とは消す作業だ、とおじさんが言った。

 ──形を取りつつあるものを消しつづける作業の中に、僕は唯一の創造性を見出している。

 ──だからあなたは、何ひとつとして作品が残らないの、とおばさんが言った。

 ──作り出す端から破壊したくなる衝動は、あたしにもあるわ、と母が言った。むしろ残されたことが僥倖なのね。作品として残るのは、つまり破壊衝動が中途放棄された場合のみね。

 ──僕は、生涯にたった一作だけ完成すればいいと思っている。消しても消しても消し切れずに残る、唯ひとつのものが。

 ──創造にとっては、変貌の過程が大切なのよ。変貌の多様性こそが芸術生命の証しよ。

 ──その過程をすべて消し去ってしまうことが、僕の念願なんだ。模索している方法や、逡巡、努力の痕跡など認めたくない。残された作品は、もし残るならば、極度に透明でなければならない。その透明度は、膨大な消す作業によってのみ保証されるべきだと思う。

 ──前世紀的な純粋志向ね、と母は言った。でも、あたしはあまりにも合理的であることに辟易しているから、そんなあなたの、結果を見てみたい。

 別のとき、このようにも言った。

 ──そんなあなたと共に歩く歓びが、あたしには(とざ)されているのね。あたしはいつまでも見ていたいの、あなたがどのようにあゆむのかを。そして出来たら一緒に歩きたい。生活臭の欠落したあなたとあゆむことが、どんなことかって、あたしはわかっているつもりよ。でも、あたしにはそれが楽しい。あなたと一緒なら、乞食でもしましょう。生涯を放浪のうちに送ってもいいわ。

 そのときの母の、夢見がちな表情を、峻はいまでも鮮明に思い出すことができる。それはヒゲのおじさんたちと会食した日よりもずいぶん早く、まだ二つの家族が共同生活を始める以前のことだった。

 おじさんとは、別々に住んでいた。ちょうどヒゲのおじさんたちがそうであったように、母はおじさんたちの家族を招待して会食した。小さな美奈は、まだ生まれたばかりだった。生まれたての赤ちゃんとこれほど身近に接することは、峻にははじめての経験だった。

 峻は額を寄せ合って美奈を見た。横たわったままの美奈の大きな瞳が、縮小された峻の顔を映している。深く暗い、全身が吸い込まれてしまいそうな、球体の鏡だ。美奈の瞳は、一点の曇りもなく澄み返っている。峻はふと、そこに或る種の感情が横切るのを感じた。まさか、こんな赤ちゃんが、目で語りかけてくるなんて。そう思って峻がもういちど美奈の瞳を見返すと、そこに浮かんでいるのは微笑だった。美奈の笑みは、目元から始まって、さざ波のように顔全体に拡がろうとしていた。

 そのときから、峻は美奈を愛らしいと思うようになった。美奈から可愛らしい微笑を引き出せる者は僕しかいない、と峻はひそかに自信をもつようになった。

 ──でもあなたには、それは出来ない、とおじさんはしばらく黙り込んで考えたあと、ぽつんと言った。

 ──あなたには出来ないだろう。あなたは彼らから愛されていすぎる。あなたはそういった現実への目配りがよすぎる。

 ──嘘よ、あなただけが、あたしの目に映る現実のすべてよ。あたしの時間は、あなたを中心にして回っているのよ。

 ──それでもやはり、あなたには出来ない。

 おじさんはそう繰り返すと、何かに堪えているかのように、かたく口を噤んだ。最前まで輝いていた母の夢見がちな表情は、無慚に打ち砕かれていた。ふたりは暗い目を見かわしながら、無言のまま立ち尽していた。

 しばらくして、母はすがりつくような目をおじさんに向けた。

 ──あなたがそう思っているなら、そうでしょう。たったひとりで駈け落ちは出来ませんものね。でも、憶えておいて。あなたが受け入れてくれさえしたら、あたしはいつでも、どこへでも行きます。

 ──あの子たちは。

 ──連れて行きます。絶対に離せないわ。

 ──彼がそれを見すごすだろうか。

 母はふたたび黙り込んだ。それとも、峻にこの話題を聞かせまいとする、配慮だったのかも知れない。その後のふたりの声は、襖一枚へだてた場所にいる峻の耳までは聞こえて来なかった。ほとんど無言のやり取りが、ずいぶん長いこと続いていたように思う。そのあいだ、峻はこれまでに味わったことのない、名状しがたい哀しみに捉われていた。

 母は、無言のまま大きく目を見張って、おじさんを見つめていた。峻は眠ったふりをして目を瞑った。母たちの会話の意味が、正確に受けとめられたからではない。ただ、これらの情景が、目にすることも耳にすることも憚られるものであることを、直観的に覚ったのだ。そして胎児のように身をこごめながら、自分のいちばん大切なものが失われてゆくだろうという予感に、うち震えていた。

 ──ほら、ごらん、とおじさんは言った。

 薄目を開けてちらりと覗き見た母の顔は、薄く滲んだ涙で光っていた。

 母の顔は、伏せられてはいなかった。おじさんを仰ぎ見る恰好で、先刻と同じ姿勢を保ちながら、ただ涙だけを流しつづけていた。

 ──あなたはひとつの中心なんだ。あなたを軸にして出来あがっている輪を、あなたは毀せない。

 ──いいえ、あたしだけのことなら。

 ──あなたにはわかっている。中心であることは、逃れられないひとつの義務だと。どれほど切り捨てようとしても切り捨て得ない最小の輪を、あなた自身が生み出してしまったのだから。

 ──そして、あなたもよ。

 ──男には男のエゴイズムがある。意識的な切り捨てさえすれば、どうにかなる。しかしあなたは女にとってもっとやっかいな、動物的本能からくる、臍の緒で繋がれた存在を引き摺っているのだから。

 ──でも、と母は言った。

 涙で濡れている顔が、ふたたび夢見がちに輝いていた。

 ──もしそうでしかないとしたら、ふたつの輪を合わせられないものかしら。あたしはもっと家族が欲しいわ。それこそ、動物的な本能でそう思うわ。血縁なんかなくたっていいの。ただ親しい人たちが集まって、これがひとつの家族なんだって意識さえ出来れば。子供たちだって、ふたりより四人の方がいいわ。そうなったらあたし、絵なんかやめて、みんなのめんどうをみるわよ。忙しいのは大好きよ。子供たちを追い駆けまわして、お尻をたたきまわるわ。ねっ、どんな形でもいいの、あたしはあなたの家族になりたい。あなたの子供たちとあたしの子供たちを、大騒ぎしながら育てあげたら、それからはあたしも、自分だけのために生きられるわ。

 ──その時までは長いよ。あなたは時の重みに堪えられるかな。

 ──あなたと一緒なら、と思いをこめて母は言った。

 

 それから数ヶ月とたたないあいだに、二つの家族は相前後して引越しをし、マンションの最上階で隣り同士となった。さらに一ケ月後には、ベランダの境界板が取り払われて、廊下がわりの通用路になった。二組の家族による、ひとつの家庭の生活が始まった。それは峻の少年期を、すっぽりと覆った。

 

     四

 

 十年が過ぎた。

 峻は大学生になった。地方での下宿生活が始まった。

 そこはおじさんの郷里に近い、洒落た北欧風の町並みが続く、静かな地方都市だった。峻は小学生の頃、おじさんや母に連れられて、この町に来たことがある。登山電車から遠望した広大な盆地のほぼ中央に、乱反射するガラスの破片に似た、白っぽく光る河面が見えた。河に沿って展けている町並みは、いつも靄がかかったように白く霞んでいた。

 空気が透明で、光の強い場所だった。街路樹の、緑の濃さが目に染みた。峻は東京に帰って来るなり、真っ先に母にそのことを話した。

 ──皮膚感覚が違ったみたい。いくら汗をかいても、風にあたるとサラサラして肌がベトつかないんだよ。

 ──それは内陸の高地で、湿度が低いからだ、とおじさんは言った。もうそんな空気にもずいぶん触れていない。忘れてしまった皮膚感覚だな。

 すると、母の表情に悲しそうな翳がよぎった。峻は話題を変えた。

 ──校舎の一部は、旧制高校の頃のものがそのまま使われているらしい。僕は何となくそちらの方が好きだから、なるべくそういう教室を使う講座をとることにしたけど。

 ──まあ、シュンちゃんらしい、と母は呆れ顔をして言った。

 それは、かつて母の愛読した詩人たちが、旧制高校時代を過ごした学舎だった。峻の受験先が決まったとき、母は嬉しそうにそのことを話した。峻には母の話しぶりが、少し熱がこもり過ぎているように思われた。息子の受験する大学の町への思いを、まるで自分の憧れであるかのように話すので、母もとうとう世間並みの母親になってしまったのかな、と軽い失望感さえ味わったほどに。

 それはもっと単純な、おじさんの郷里に住みたいという母の無意識の願望の、代償だったかのもしれない。

 峻もまた、母の願望を、無意識に受け継いではいなかったか。母の愛読した詩人たちが、多感な青春を送った町。おじさんの郷里に近い町。そして少年の日に何回か訪れた、登山電車の始発駅。峰に雪を戴く山嶽を背景に、五層の天守閣が聳えている城下町。歴史が凍結したかに見えるこの町は、実はこの地方での中心都市としての近代的活力に溢れていたけれど、峻はそんな面を見ようともしなかった。

 峻は、武家屋敷の続く裏道を、好んで歩いた。町内に網の目のようにめぐらされた疏水の流れや、屋敷内の樹々に鳴く、小鳥の囀りを楽しんだ。この町の、擬似近代的な表情の底に澱む、土地の歴史を読み取ろうとした。

 もっとも、そのためにはかなり想像力にうったえなければならないという、困難が伴う。峻は平気だった。子供の頃から、ひとり芝居には慣れていたのだ。

 もともとが、歴史の空白部分を埋めるための学問を、専攻していた。知識や論理よりも、具体的な肉体労働のなかで、想像力と類推が必要な分野だった。徹底して即物的な資料を累積しながらも、決定的な処では想像力に頼らざるを得ない。そんな矛盾した科学性が、自分の体質に合っている、と峻は思った。

 子供の頃、その話をするたびに、おじさんにからかわれたものだ。

 ──それは大変だ。早く大きくならなくっちゃ、間に合わない。何しろ、近頃は地上の至る処を掘り返してしまっているから、シュンちゃんが学者になって発掘しようにも、地下はもう空っぽになってしまっているかも知れないよ。

 それほどのことはなかったとはいえ、峻が大学でその分野を専攻した頃には、発掘による新しい発見などは、もう望み薄だった。その意味ではすでに学問的使命を終えたと見做されて、停滞の中にある学科だった。

 それも自分には合っている、と峻は思った。あまり有益とも思えないことに熱中することに、ひそかな快感があった。

 信は、母枚でのサッカーコーチを日曜ごとに律儀に務めながら、大学を卒業していた。信の率るチームは何度か地方大会に挑戦したが、結局一度も出場できなかった。卒業後はあっさりと選手生活をあきらめて、技術畑に進んだ。

 それでも峻と比較すれば、信はまだ陽のあたる場所を選んできたと言えるかも知れない。峻は自分の選択を、兄と対比して考えたことはない。それなのにいつしか、兄とは対極にある方向に向かいつつあることを、認めざるを得なかった.

 峻は、夏ごとに帰省した。避暑地というにふさわしい高原の町から、蒸し暑い東京に帰ってゆく峻を、友人たちは様々にからかった。これもまた、峻の風変わりな趣味と見做されたのだ。

 母は相変わらずいい匂いをしていた。子供たちに手が掛からなくなったので、おじさんの翻訳の仕事を、本格的に手伝うようになった。むしろほとんどの下訳は母がしていた。動作は相変らず機敏で、むしろ以前より若返ったように見える。母と街を歩くと、よく恋人と間違えられた。峻の方が、いつの間にか男臭くなっていたのかも知れない。

 友人たちにからかわれながらも、峻が夏ごとに蒸し着い東京に帰省したのには、理由がある。家族たちのあいだに、急激な変化が訪れていたのだ。

 それは、あの“家族”の構成がどのようなものであったかを、改めて感じさせるものだった。

 父が再婚して、家を離れた。父の地道な努力が稔って、会社の経営は少しつつ拡張していた。それと反比例するように、父は疲労の色を濃くしていった。父に同情した若い娘が、上司の家庭の事情に対する異常な興味を示し、ついに父との結婚に踏み切った。かつて母が、結婚を躊躇しながらも認めざるを得なかった父の容貌は、それから二十年たった後も、まだおとろえてはいなかったものとみえる。

 信も家を出ていた。大手の電気会社の社員として、歩いて十数分のところに社宅が与えられていた。もうサッカーとは縁を切ったらしく、たまに会ったときも、会社の新製品の話ばかりしていた。

 父が再婚したのは、信と峻がいなくなった家に残る必要を、認められなくなったからだろうか。大人たちのあいだに、或る種の黙契があるのは確かだった。父は、心ならずもそれに同意していたようだ。この十年、峻はひそかにそんな父に同情してきたつもりだった。

 ほんとうは、父はこの家を出たくなかったのかも知れない、と峻は思った。母への変わらぬ執着を、知っていたのだ。新しい生活を始めるはずの父は、若い花嫁の傍らに立ちながらも、妙に淋しそうに、老け込んで見えた。

 父が去り、兄がいなくなった母の家に、峻は相変わらず夏を過ごしに帰った。奇妙なのは、父がいなくなってから、却って信の来訪が頻繁になったことだ。信はほとんど日曜ごとに訪れて、ひとしきり母を相手に、来春発売する予定の新製品のことや、自分の所属するプロジェクトチームのことを話してから、夕食をすませて帰ってゆく。そのあとで、おじさん相手に母が嘆かわしげに言う。

 ──あんなきまじめで独創性のない子に、新製品の開発なんて出来るのかしら。

 ──彼は理詰めにしか考えられないたちだから、とおじさんは可笑しそうに言った。理詰めの仕事には向いているんだよ。もともと企業では、独創性なんか要求していないのだ。あなたの母親業も、そろそろおしまいということだね。

 だが、まだ創と美奈が残っていた。

 美奈は、母にそっくりの娘になった。中学生になった美奈の、目に見えて娘らしくなってゆく顔付きの中にも、やんちゃ姫だった幼女時代の、利かん気な面影が残っている。しかしそれは、意志の強さと情熱を秘めた、内面的なものへと変貌してきているようだった。それにしても、美奈が逢うごとに、血の繋がりのない母に酷似してゆくのは不思議だった。気質や言葉つきだけでなく、身体つきまでが母に似てきたように、峻には思われてならない。

 おばさんは、アトリエに籠もることが多くなった。

 ──何かをつかみかけたみたい。そのことが実感的に捉えられるようになったの。ずいぶん遅い春の訪れだけど、子育てしながらでは、仕方がないわね。

 ──確かにママの絵はよくなっている、とこましゃくれた口調で創が言った。でも、あの生活リアリズムには、僕は堪えられないな。僕はどちらかというと、おばさんみたいなシュールな幻想が好きなんだけど。

 ──それは違うわよ、創ちゃん、と母は言った。あたしのシュールな幻想は(そう言ってくれるのは嬉しいけど)すべてあたしの生活感覚の中から派生しているの。それにひきかえてあなたのママの絵は、具象でありながら現実を越えたものを描こうとする、強い構築性を持っているの。生活に密着した具体物を描いているように見えるけど、それは絶対にこの世にはないはずのものなの。そうではありませんこと。

 ──そうね、そう言われればそうね。批評家がそこまで言ってくれればいいんだけど。あなたは子育ての親友である以上に、わたしの絵に対する最大の理解者だわ。

 おばさんが、女流画家として多少は名が知られ始めたのにひきかえ、おじさんは相変わらず無名のままだった。昼の間はアトリエで遊び半分のように粘土を捏ね、夜になると書斎にこもって執筆した。以前はおじさんの主な収入源だった翻訳の仕事は、ほとんど母が引き受けていた。

 おじさんの完成した作品を、峻は見たことがない。アトリエには母やおばさんの油彩画が並んでいたが、おじさんの製作が進んだふうには見えなかった。ときたま、石膏取りした彫像が置かれていたが、次に訪れたときには、やはり練りかけの粘土しかなかった。

 ──おじさんも怠け者だな、おばさんみたいにはゆかないのかな。

 ──失礼なこと、言うものじゃありませんよ、シュン。人にはそれぞれのゆき方があるんです、と母は色をなして言った。

 ──そんなことくらいわかっているよ。ただ、おじさんは僕と同じ種類の人間なのかな、と思ったの。僕は発掘隊に加わって、毎日かなりの量になる土を掘るんだ。それこそ汗にまみれて、一所懸命に働くんだよ。そうして掘り終ると、現場の状態をマイクロフィルムに記録して、ふたたび土塊(つちくれ)を埋めてゆく。あとには何も残らない。僕たちの肉体労働など、まるでなかったみたい。きれいさっぱり元のままなんだ。僕たちは掘っては埋める。ただひたすらに、それだけを続けている。マイクロフィルムに残された記録が何だろう。そんなもの、膨大な資料の中の、ほんのわずかな部分さえ占めるかどうかわからない。ほとんど無価値の場合だってある。現場が土塊によって埋められてしまったあとは、フィルムに残された影像など、ひとつの幻想のようなものじゃないか。僕たちの肉体で知っている労働は、決してそんなものじゃない。確かな手応えは、あの流れ出る汗の方にある。僕はこの仕事が好きなんだな。埋められてしまった物の中に、僕はひとつの形象を見出している。おじさんの仕事ぶりを見ていると、僕には何となくわかるような気がする。おじさんがみずから潰してしまった粘土の中には、目に見えない無数の形象が内在していて、さらに新しい確かな造形を望んでいるのではないか、ということが。

 峻は、話しているうちに自分でも思い掛けない方向に、論点が移行してゆくのがわかった。母はいつしか目を輝かせて、峻の話に聴き入っていた。それは色をなして峻の非礼をなじった最前の昂りと、同質の感情の動きだった。峻は、はっとして話題を戻した。

 ──それに、僕も相当な怠け者だってことを自分でも知っているし、たまにはおばさんみたいな、精力的な仕事ぶりに魅かれることだってあるんだよ。

 

     五

 

 聴き慣れた旋律だった。十四番嬰ハ短調作品二十七の二、ベートーべンのピアノ・ソナタだ、と峻は思った。

 峻が母の家に辿り着いたときには、あたりはもう薄闇に覆われていた。何年ぶりかの帰省だった。大学の研究室に残った峻は、海外遠征隊に加わって発掘調査を続けていたので、定期的に続いていた夏休みの帰省も、この数年は途絶えていた。

 パレスチナでの発掘のとき、峻は酷い下痢をしてしまい、内臓をしぼりつくされたような憔悴を味わった。帰国したときには、長期の休養を必要とされた。峻は隊員たちと別れると、連絡を取る気力も出ないまま、夢遊病者のような足取りで母の家に向かった。

 懐しい鉄製のドアを開ける。ピアノソナタの美しい旋律が、峻の耳を覆う。母はいつものようにレコードを聴いているのだ。母の習慣で、室内に照明はないはずだ。手探りで、行き慣れた廊下を辿る。フロアーには、やはり闇が領している。

 峻は朦朧とした意識の中で思った。お母さんはずいぶんボリュームを上げて聴くんだな、まるで生演奏みたいじゃないか。それではおじさんは留守なんだな。おじさんと一緒のときは、静かに会話が出来るようにボリュームを絞るはずだから。それにしても、何処にいるのだろう。早く寝たい。ぐっすりと眠りたい。

 峻は薄闇を透して、暗い室内を見わたした。窓辺のカーテンは開かれたままだ。闇に目が慣れてくるにつれて、青白い光が窓際のフロアーに降りそそいでいるのがわかる。月光だった。

 それはパレスチナの夜に見た冴え冴えとした月の光とは別の、柔らかい、ぼんやりとした白光に過ぎなかった。柔らかな優しさは、聴こえてくるピアノの旋律にもあった。如何にも母好みの演奏だな、誰のレコードだろう。峻がそう思って懐かしんだとき、突然に楽音が止んだ。

 ──シュンちゃん。

 母の声ではなかった。満面に微笑を湛えて、すっかり成熟した美奈が立っていた。あのお転婆娘の面影は、もう何処にも認められない。

 ──いつ帰ったの。まだパレスチナにいるのかと思っていたわ。それにしてもひどい顔。どうしたの、そんなにやつれちゃって。まるで幽霊みたいよ。

 ──それより美奈ちゃん、いまの嬰ハ短調は。

 ──ごめん。夢中で弾いていて、暗くなるのに気がつかなかった。シュンちゃんの帰ったのも、気がつかなかった。

 峻は、美奈がバイエルの練習曲を弾いていたことしか憶えていない。でもそれは、美奈がまだあどけない少女の頃のことだった。峻が知らないあいだも、美奈はピアノの練習を続けていたのだろうか。

 ──ちょうど間に合ってよかったわ。ピアノのリサイタルがあるの。絶対に、来なくちゃだめよ。つまんなかったわ。家族の中で、シュンちゃんだけがパレスチナなんかに行っちゃって。でも、これで全員がそろうわ。

 ──凄いな、リサイタルなんて。いつの間にそんなに上手になったの。でも困った。僕は着たきり雀で、そんな晴れがましい場所に着てゆく洋服がない。

 ──ううん、気楽なところなの。まだ学生の身で、立派な会場を使えるわけないもの。

 美奈は屈託なく笑った。生まれたばかりの頃、額を寄せて瞳を覗き込んだ峻に向かって浮かべられた、あの、不思議な微笑だった。淡い月光のもとで、美奈の表情は判然としない。ただ、切れ長の大きな瞳だけが、わずかな光を吸収してキラキラと輝いていた。一点の曇りもなく澄み返っている球体の鏡。峻は朦朧とした意識の片隅で、不意に時の経過が錯綜してしまったような気がした。生まれたばかりの美奈と、こうして瞳の奥を見つめ合った。そしていま、二十年の歳月をへだてて、あのときと同じようにして見つめ合っている。その、ふたつの時に挟まれていた無数の時が、不意に飛んでしまった。そして多くの時をへだてて対峙している、この瞬間がある。これが永遠か。

 ──しっかりして。

 気が付くと、峻は柔らかい美奈の腕に、しっかりと抱きかかえられていた。それは峻にとって、瞬間的な眩暈とは思われないほどに長い時であるような気がした。

 

 強い照明が、艶やかな美奈の肌をくっきりと闇とへだてた。柔らかく張りのある、若い女の肌の輝きだった。人工の闇が領する演奏会場の、スポットライトを浴びている舞台の上で、胸と背を大胆に開けたステージ衣裳を着けた美奈が、喝采する聴衆に向けて、ゆっくりと会釈を返した。

 峻は、はじめて見る美奈の優雅なしぐさに、軽い眩惑さえ感じていた。体調は、すっかり元に復したわけではない。ときとして、妙に現実感を失ってしまった病んだ肉体を持て余し、ほとんど意識だけの存在になってしまったかのような、錯覚に捉われることもある。母の家に帰ってから、そのような状態のまま数日が過ぎた。夜となく昼となく、眠りと覚醒の交錯した、実在性の稀薄な日々が繰り返された。枕元に、常に誰かの白い影を意識していた。目醒めると、ほてった額に冷たい掌の柔らかな感触が匂っている。気持がいい、と峻は声に出して呟いた。あれは母だったのか、美奈だったのか。奇妙な懐しさだけが胸に残った。

 峻はほとんど視覚だけの存在となって、舞台に立つ美奈を見ている。その他の感覚は失せてしまっている。凝集された視線だけが、闇にそばだつ美奈の姿を捉えていた。

 小さなホールは、ほぼ満席に近い。美奈の友人たちが奔走して、この会場を用意し、聴衆を動員してくれたのだ。そのせいか、あちこちで若者たちのグループが談笑する、なごやかな雰囲気があった。

 円形劇場を模した会場の構造も、親密感あふれる雰囲気をかもし出すのに一役買っていたのかも知れない。奏者と聴衆は、会場の席からほぼ等距離になるように工夫されているらしく、客席はホールの中央に特設された楕円状の低い舞台を取り囲む形で、円形に並んでいる。

 ざわめきが止んだ。最初、聴き取りにくいほどに低い響きで、ピアノが鳴った。それはしだいに高潮し、支えきれないほどの緊張感をかもし出すかと思えば、ふたたび奥深い底部での響音に戻ってゆく。それはかなり洗練された、端正な演奏だった。選曲も演奏もオーソドックスだな、はじめてのリサイタルとしてはこれでいいのかも知れない、と峻は思った。

 休憩に入った。峻は久しぶりに家族と再会した。

 ──やっぱりみんなが揃うのは何よりも嬉しいわ、と母が言った。こうした機会をつくってくれた美奈ちゃんに、感謝しなくっちゃね。

 ──ほんとうね、とおばさんが言った。成長した娘を見るのもいいものね。ずいぶん無関心な母親だったと思うけど。

 ──そうかな。ママの絵の人気は、母親としてのうしろめたさと女の業への抒情的表現にある、と書いていた批評家がいたけど、とからかうような口調で創は言った。

 ──誰もが選んだのよ、と母はめずらしく強い口調で言った。あなたのママは、絵描きとして自立することを選んだの。美奈ちゃんもあたしも、一緒にいる方がいいと思っただけ。そのことはあたしと美奈だけの問題よ。誰にも、うしろめたさなんてないはずでしょ。

 ──でも、やはり創の言う通りかも知れないわ、とおばさんが言った。わたしは母親として、一番大切なものを放棄してしまったのよ。

 ──よせ、と低い声でおじさんが言った。子供が完全に独立するまでは、そのことには触れるなと言ってあるだろう。

 ──美奈ちゃんもこれで一人前か、とのんびりとした口調でヒゲのおじさんが言った。早いものですね。僕たちがいつまでも足踏みしているあいだに、子供たちはみるみる成長してゆく。

 ──そう、早いものだ、とおじさんが言った。選び取ったものがどのように変容してゆくのか、私たちにはわからなかった。そのことがほんとうにわかるまでには、さらに長い時が必要だろう。それぞれが選び取ったものについて、やがて子供たちも理解してくれるでしょう。でも、その時期はいまでなくてもいい。

 ──そうですよ。何事も自然のままがいいんですよ、とヒゲのおじさんが口添えした。僕も長いこと楽しくおつきあいさせてもらった。僕はあなた方が、もっとも自然で健全な家族だったということを信じている。あなた方は、支え合って自立しているところがあるんです。

 ──いつまでたっても自立できないでいるのは、僕だけだということですね、とおじさんは自嘲したように言った。だからいつまでもあの家に残っている。

 ──嘘おっしゃい、とおばさんは激しい口調で言った。あなたは吝嗇で、自分の能力を示したがらないのよ。それにあなたが、あそこから出るはずはないわ。

 ──そうですよ、出てはいけませんよ、とヒゲのおじさんは隠やかに繰り返した。あなた方家族が、核となる唯一のものを失ってはいけない。あなた方をひとつの家族として結びつけているのは、ほんの小さな、わずかな接点にすぎない。でもそれこそが、この世でいちばん強い、人の絆なんです。

 演奏が再開された。美奈は、たたきつけるような激しさで最初のキィを打った。場内のざわめきは、たちまち消し飛んだ。前半とは違った雰囲気の中で、美奈の演奏は何のためらいもなく始められた。

 それが誰の曲なのか、峻にはわからない。あるときは隠やかに、あるときは激しく、そして基底部では常に哀切な響きが、繰り返し奏でられた。そしてその繰り返しが高潮してゆく中で、不明瞭だった或るテーマが、しだいにくっきりと浮かびあがってくる。

 繰り返しあらわれては消えるその旋律の中に、峻はまぎれもない海への思いをくみ取っていた。それは寄せては返す波を、あるときはさざ波のような、あるときは怒涛のような、激しさと静寂が交錯する、若い女の感情の彷徨を、哀しいほどに表現していた。

 場内に一瞬ざわめきが起こった。それが何を意味しているのか、峻にはわからなかった。峻はかつて美奈と共有した、懐しい海への思いにひたっていたのだ。それは美奈が、母の気質から無意識のうちに受け継いだものにちがいない。母の海への思いと、海の向こうへの憧れを、美奈はこの場に確かなものとして再現していた。母に連れられて何回となく訪れた海辺の情景を、峻はいまも忘れてはいない。砂浜に残した小さな足跡や、沸騰する熔岩のような海の落日、磯釣りをしたり生海胆を食べた岩多い岸。美奈の弾くピアノの旋律が、峻にそれらの情景をありありと思い出させた。

 ざわめきは拡散していた。峻にもようやくその意味がわかった。美奈の演奏に対する批難と感嘆が、聴衆を戸惑わせたのだ。批難は、美奈の大胆な編曲、むしろ極端な改変に対して向けられていた。聴衆のほとんどは、ピアノ曲の限界へ向けての大胆な挑戦ぶりに、衝撃を受けていたのだ。そして、無理な曲を強引に弾きこなしている演奏の技倆への感嘆。それは一瞬のざわめきを、潮の引くような静寂へと変えていった。

 不気味なほどの静寂が訪れた。激しい音階がやんで、基底部の哀切な主調音が、かすかに途絶えがちに聴こえてくる。場内はしわぶきひとつなく静まり返り、誰もが鍵盤の上を走る美奈の白い指の動きを凝視している。それは音による沈黙の表現だった。絶え入るような低い調べは、暴発寸前の、弾けるようなエネルギーを内に秘めていて、場内にはキーンと張りつめた緊張感がみなぎっている。その場にいる誰もが息苦しくなるほどに、その状態は続いた。

 突然に、音が弾けた。解放された音響が、一気に堰を切って押し寄せてきた。それまで呪縛されたかのように静まり返っていた場内に、急激に活気が戻った。聴衆に、無意識の歓喜の表情が浮かんだ。美奈は口元に幽かな笑みを浮かべながら、両肩を波打たせ、激情をたたきつけるようにして演奏している。

 第二主題が始まった。ラ・メール、La mer, La mère, 母なる海。第一主題の海への思いは、母への思いへと、ごく自然に変質してゆく。

 そこには、母と過ごした日々の記憶が、あますところなく表現されていた。基底部に響く哀切な調べは、あれらの日々を懐しむ美奈の、若い娘らしい感傷だろうか。いや、そうではなく、美奈もまた峻と同じように、母の哀しみのありかを知っていたのかも知れない。そして体内に海を宿す女としての、美奈自身の未来をも予感する、哀しみなのかも知れなかった。そこに胸を洗うような透明感があふれているのは、まぎれもない美奈の若さだ。たとえ原曲が何であれ、美奈の演奏はそれをおのれの中に自在に取り込み、それ以上のものに変質してしまっている。これはまぎれもない美奈の曲、美奈自身の表現だった。

 演奏が止んだ。聴衆は曲が終わったことに容易に気付かないかのように、静まり返っている。ためらいがちの喝采がまばらに起り、すると思い出したような聴衆の熱狂が、場内を沸かせた。

 ステージを見守る母の目が、薄闇の中でキラキラと光った。口元に微笑を漂わせながら、懸命に涙をこらえているのが、はた目にもわかる。母は美奈の弾くピアノ曲を、最も深いところで理解しているのだな、それはほとんど所有というに近いものなのだ、と峻は思った。

 

 峻に衝撃を与えた美奈のピアノリサイタルは、しかし仲間内でさえ、たいして評判にはならなかった。演奏会が始まる前にはかなり好意的に紹介していた音楽評にも黙殺されたままだ。

 美奈は平然としていた。まるで何もなかったような日々が繰り返された。峻は体力が恢復してゆくに連れて、あれは衰弱した肉体が過剰な反応を示したための異常体験であって、一種の幻覚症状に近いものではなかったか、と思うようになった。

 ただ一通だけ、音信があった。それは活動舞台を海外に持っている若手の音楽家からのもので、人伝てに聞いた美奈の演奏ぶりについて、是非拝聴したいという意味の、簡単な挨拶状だった。

 病床から起きた峻は、美奈への慰労にフランス料理を奢ることにした。学生時代の友人に連れられて行ったことのある、銀座の裏通りにあるマルセイユという名の小さな店舗だ。店の名の響きのよさを、美奈は喜んだ。美奈は外国の地名をめぐる話題に関心を示し、峻のパレスチナでの失敗談を聞いては、少女らしい笑い声を立てた。

 ──ここの店主は、長いあいだ外国住まいをした人か、半生を船乗りとして送った人らしいね、と峻は言った。

 こじんまりした店内には、狭い階段で繋がれたふたつの階を合わせても、わずか数卓のテーブルしかない。薄暗い室内の装飾は、趣味性の強い様式で統一され、壁面いっぱいの陳列棚には、世界各地の小さな人形たちが並べられている。美奈は興味深そうに異国の人形たちを見ている。

 料理が搬ばれて来るまでには間があった。美奈はつと席を立つと、棚に並ぶ人形たちを見るために近付いてゆく。峻は無意識に、美奈の後姿を目で追っていた。

 美奈の動きが、ふと止まった。その背中が、にわかに表情を持ち、峻に向けて何かを語りかけてくるように思われた。

 ──シュンちゃんにだけ、言うわね、と背を見せたまま、静かな声で美奈は言った。

 ──わたし、近いうちに日本を離れるの。もう決めてしまったことよ。

 ──じゃあ、あの演奏会は……。

 ──そうよ、わたしの出発を前に、友だちが用意してくれたの。いまさら取り消せない。行くしかないわ。もう、どうにもならない。

 ──結構なことじゃないか。僕はあのとき思ったよ、美奈ちゃんは本場で勉強すべきだって。あの演奏は、すごく独特なものだった。このままじゃ、もったいないよ。どうしたの、いまになって取り消したいなんて……。

 ──だって……。

 美奈は、激しくふり返った。勢いで髪が散って、螺旋状に顔面にまつわりついた。美奈は強いまなざしで、じっと峻を見ていた。あの深く暗い、全身が吸い込まれてしまいそうな、球体の鏡だ。

 その瞬間、峻はあらゆることを理解した。峻が美奈に対して抱いた情熱と同じものに、美奈もまた取り憑かれているということを。そしてそのとき、峻は唐突に理解したのだった。母とおじさんとの、秘められた情熱を。その情熱が、いかなるものであったかを。

 

     六

 

 峻は、オーバードクターになったあとも、山間の大学の町に残っていた。はじめから無益な学問に取り組んでいると思っていたので、そのことは何の苦にもならなかった。峻はわが身ひとつさえ何とか口すぎ出来ればよいと思っていた。美奈がヨーロッパに去ってからは、なおのこと研究室に引きこもりがちになった。

 母から引越しの通知が来た。信が去り、峻が去り、父が去り、創が去り、おばさんが去り、そして美奈までが去ったあの家は、母にはもう不要のものだった。もともとが子育てのために選んだ共同生活であり、共同住宅であったことは、いまとなれば明白だった。子供たちが誰もいなくなったいま、母があの家を出ることに何の不都合もない。母にはやっと“その時”がめぐってきたのだ、母はこれからは自分だけのために生きられるのだ、と峻は思った。

 夏の休暇をつかって、母の新しい家を訪ねた。母の好きだった海辺の丘に、小さな古い洋館を買ったのだという。母の手紙に書かれていた番地を頼りに歩いてゆくと、潮風に乗って、懐しい海の匂いが漂ってきた。峻は鼻腔いっぱいに潮風を吸い込みながら、坂の多い海辺の街路をゆっくりと歩いた。

 坂道を降り切った崖近く、急に細くなった街路のどん詰まりに、母の家があった。それは、小さな三角屋根の、古い木造の白い洋館だった。低い植え込みに挟まれた玄関の扉は開かれたままで、室内に人影はない。峻は狭い庭づたいに裏方へ廻った。

  ──シュン、ここよ。

 頭上から、降るように声が湧いた。

 ジーンズ姿の母が、屋根に架けた梯子の上で手を振っている。陽焼けした肌が、逆光の中で赤銅色に輝いていた。峻は海からの光を浴びた母の黒いシルエットと、それを映し出す塗りたての白いペンキの照り返しを、目を細めながら仰ぎ見た。夏の日の、強い光のもとで、黒と白の対比は鮮明すぎて、峻の目には眩しかった。淡いシルエットの、しなやかな輪郭をたどりながら、お母さんは昔のままだ、と峻は思った。そして母の新しい住まいに対するはじめての印象が、そのような翳りのない明るさを持つものであったことを、峻は喜んだ。

 ──近付いちゃ駄目。ペンキがかかるわよ。もうすぐ塗り終わるから、待ってなさい、と弾みをつけた声で母は言った。

 峻はしばらく母の仕事ぶりを眺めていたが、やがて誰もいない家の中に入った。明るい外光に慣れていた峻の目にも、室内は明るく解放的に映った。

 それは白を基調とした配色で統一されている部屋の装飾に、起因しているのかも知れない。あるいは天井まで続く高窓からの採光で、海からの光が室内を明るませていたからなのかも知れない。

 玄関の向こうは、居間にも食堂にもアトリエにもなる、多目的なフロアーになっている。部屋の片隅や窓辺には、大小の椅子が置いてあって、気の向くままに坐ったり、寛いだり、仕事をしたり出来るようになっている。一見乱雑に置かれているかに見える家具の配置は、母とおじさんの生活の機能に合った位置を占めているらしく、不思議な落着きと安らぎがあった。そしてそれらの家具の位置から、峻は母たちの日常的なしぐさを、容易に想像できた。母は海の見える高窓の下に置かれた肘掛椅子に坐って、隠やかな光の下で読書のひとときを過ごすだろう。あるいは炊事を用意している合間を縫って、おじさんと軽いお喋りをするために、白いテーブルの脇の小さな椅子に腰掛けるかも知れない。そして母をモデルに彫刻をしているおじさんの仕事を見るために、小さな丸椅子を引き寄せて、傍らに坐りもするだろう。そんなときの母は、キャンバスに向かって幻想的な画面を描いているか、息づかいをひそめて、じっとおじさんの背中を見つめているのだろう。

 絵や彫刻の並ぶ室内を素通りして、前庭に張り出したバルコニーに出た。屋内とほとんど変わらない床の高さを持つバルコニーは、海に向かって何処までも続く、居間の延長のように思われた。そこからは赤煉瓦を敷きつめたテラスが海に向かって伸びていて、その場所に立つと、絶えず聴こえてくる潮騒の音が、ひときわ高く耳朶を覆った。そこにも白いテーブルがあり、瀟洒な籐椅子が置かれていた。

 峻は、テラスの先端に立って海を見た。遠い沖の果て、空との境界は白い靄にまぎれていたが、海面を照らす逆光が容赦なく峻の目を射た。海の色は、屈託ないほどに明るく澄みわたっている。  

 峻は、ふと丘の下に視線を移した。潮の音に掻き消されて気付かなかったけれど、見下ろすと海岸線に沿って自動車道が走っている。間遠に聴こえるエンジン音は、潮騒にまぎれてさほど気にならない。母たちの過敏な神経にも、海鳴りの音は安らぎなのかも知れない、と峻は思った。

 峻は、母の家がこれほどに明るんで見えるのを、自分でも訝っていた。これまで住んでいた家が、決して暗かったというわけではない。にもかかわらず、いまとなってはこれほどの透明感がなかったように思われるのは、何故だろう。

 峻には、もうその理由がわかっている。あの楽しかった少年の日々が、これほどに隈なく澄みわたっていなかったのは、母たちの情熱が、家族全員を目に見えぬ暈で覆っていたからなのだ。誰もが、楽しくあろうと努めてきた。しかしそうあろうとする意識を支えてきたのは、母の秘められた情熱だったのであり、それはやはり暗い情熱と言ってよかったのかも知れない。

 美奈が去ってから、峻はそのことに思いを巡らせることが多くなった。美奈が出発するまでの限られた期間を、峻は狂おしい思いで過ごしたのだ。兄妹のようにして育ったことの禁忌と、それを犯すことへの暗い熱情のせめぎ合うなかで、ふたりは幾度か逢瀬を重ねた。たとえようもなく深い内奥での繋りと、それ故に禁じられた肉の接触との深淵のあいだで、ふたりは憔悴していった。あるときは、そんな思いの堂々巡りに疲れ果てた末に、美奈は咽ぶように言った。

 ──抱いて。わたしはシュンちゃんが好き。それだけよ。抱かれさえすれば、踏み越えられるわ。

 しびれるような快感と罪障感に襲われたけれど、峻は美奈を抱くことはしなかった。肉体の所有など、どうでもいいことのように思われたのだ。問題なのは、求め合うことのどうしようもない渇望だった。簡単にはこの禁忌を越えられない。

 耐えられなくなって美奈は去った、と峻は思った。そう思いたかった。あの暗い情熱は美奈には相応しくない。去ってゆく美奈が、飛行場で晴れやかに微笑してくれたことが、峻の救いだった。

 峻は大学の街に引きこもって、丹念な資料分析に専念した.無味乾燥な作業に疲れて、ときおり美奈との短期間の狂おしい情熱に思いが至ると、同じような情景を、自分の無意識の領域から発堀していることに、峻は気付いた。その作業は突然に始まって、深夜の床の中にまで及ぶことがある。そして自分の過去の記憶に錘鉛を垂らしてゆくに連れて、これまでに思っていたのとは様相を違えた過去の情景が再構成されてゆくことに気付いて、峻は愕然とした。

 毎日が賑やかなお祭りのように過ぎた日々の記憶は、その底流には母とおじさんの禁忌に繋がる秘められた情熱があって、日々の楽しみは、むしろふたりの苦渋にみちた仮構の陽気さによって作られていたのだ、ということが峻にはわかった。峻が思い出す母たちの会話の断片にも、ふたりの屈折した思いが満ちている。そして峻にとって、そのような暗い情熱がこれほど長い期間にわたって持続したということは、驚嘆すべき執念にさえ思われた。峻自身は、ごく短期間の情熱のせめぎ合いの中で、すっかり憔悴してしまったことを忘れてはいない。さらに、ふたりの情熱がそれぞれの配偶者を捲き込み、それぞれの子供たちを捲き込んだ末に、いままさに破綻なく成就しようとしている。それから見ても、母たちの抑えられた情熱が、如何に底深く強靱なものであったかを、峻には想像することができた。

 この新しい家には、何の翳りもない。いまはじめて自分のために生き始めた母の感情そのままに、海辺の丘に建つ三角屋根の白い家には、翳りのない明るさが満ちている。峻はそう思って、もういちど白く塗られた室内を顧みた。たとえ錯覚でなりとも、あの暗い情熱によって憔悴してゆく以前の、屈託ない美奈を、こんな明るさの中に置いてみたかったのだ。

 

 母の住む三角屋根の白い家は、その小さな外観にもかかわらず、奇妙な空間性を感じさせる構造を持っている。ひとつは海へと伸びる意志であり、居間の延長を思わせるバルコニーと、さらにその先に伸びる赤煉瓦のテラスが、海へ向けて無限の拡がりを感じさせる。もうひとつの空間性を持つ特色は、上へと伸びる意志だ。

 部屋の片隅に、整然と積み重ねられた大小の木箱がある。下層の箱ほど大きく、上層にゆくにしたがって小さくなっているので、まるで古代の階段ピラミッドのように見える。下の段は用途に応じて、長椅子にもなれば、昼寝のときには簡易ベッドにもなる。上の段は飾り棚にも、陳列台にも、テーブルがわりにさえも使われている。かなり風変わりな室内意匠だ、と峻は思っていた。二階に登るための階段は、室内にはない。外壁に沿って伸びている鉄製の白い螺旋階段だけが、唯一の上階への通路なのだ、とはじめのうち峻は思っていた。

 積み重ねられた木箱の、真の用途がわかったのは、天井の片隅から突如としておじさんの顔があらわれ、次の瞬間、引っ込められた顔の代りに、突き出された二本の足が、壁際の数段の梯子を降って、階段ピラミッドの最上層に立ったときだ。おじさんの上半身は、まだ天井裏に隠れていて、足だけがゆっくりと箱段を降りてくる。それは一階のフロアーを出来るだけ広く取るための、巧妙な工夫だった。壁に隠されたまやかしの階段というよりは、上へと伸びる意志を表現した、縦の遠近法だったのだ。

 二階は、母たちの寝室になっている。窓辺に置かれたベッドから、思う存分海が見える。一階の解放的な室内の雰囲気とはうって変わり、この部屋にあるのは、内に包み込まれるような静かな安らぎだった。壁面が白く塗られているせいもあって、まるで巨大な繭の中にいるような心地にさせた。ここには一階のような、横に伸びようとする空間性はない。それだけに、上へと伸びる意志だけが却って顕著だった。壁際にほとんど垂直に固定された梯子は、さらに上階へと伸びている。その上に部屋があるとも思われなかった。あるのは梁が剥き出しにされた、三角形の暗い空間だけだろう。にもかかわらず、峻の関心は梯子で繋がれた上層へと向かう。その三角形の底辺に坐れば、頭上を覆う濃い闇が円錐状にどこまでも昇りつめてゆくのが、見えるだろうか。

 ちっぽけな容積の中に、無限の空間性を内包したこの家の構造を、おじさんはたいそう気に入っているらしい。ふと峻は思うことがある。これはひょっとしたら、母とおじさんの生活のありようそのままではないか、と。

 

 峻は、学生の頃の習慣を取り戻したかのように、夏ごとに海辺の白い家を訪れた。

 兄の信も、結婚して家庭を持ってからは、以前のような頻繁に訪問する習慣を失っていた。美奈が去ってから、母の家に出入りするのは峻だけになった。ごく稀に、美術関係の出版社に勤める創とかち合うこともあった。そんなとき、ふたりは妙にはにかんだ笑いを浮かべ合った。

 母は、静かな生活を送っていた。子供たちと陽気に騒ぎ合ったり、叱り飛ばしたりして、絶えず動きまわっていた頃とは、生活の様式そのものが変ってしまっている。このような、内に充実した静けさこそが、本来の母のものだったのか、と峻は意外な気がした。

 母から機敏性が失われたわけではない。相変わらず体を動かすことが好きで、若い頃に始めた動きの激しいダンスやテニスを、いまも続けている。近頃になって、新たに山歩きを始めた。その季節になると、おじさんとふたり、山奥の原生林の中を、何日もかけて歩きつづけるのだという。山から山へと辿ってゆけば、結構自然は続いているのね、と母は嬉しそうに言う。緑の森林が続くかぎり、全国の山道を踏破してみるつもりらしい。

 母の衝動的な行動も、昔と変わらない。朝になって、母の姿が見えないことがある。暫くすると、海辺の道を、水着姿の母が、全身から海水を滴らせながら帰ってくる。薄明の海を、沖に向かって何処までも泳いでゆくのだという。朝焼けのまばゆい赤光を浴びて、海を泳ぐ母の姿は、いつまでも峻の脳裏に残った。この影像が鮮明なかぎり、母は歳取らない、と峻は思った。年老いて機敏性を失ってゆく母を想像することが、嫌だったのだ。

 そのような隠やかな生活が、数年間続いた。

 峻は週の三日を、非常勤講師として母校の大学で教えることになった。美奈が去って以来続けていた、綿密な資料分析が一定の成果を納め、多少は学会でも認められることになったのだ。峻は美奈を失った結果が招いた皮肉な成りゆきに、苦笑せざるを得ない。

 母はそのことを、素直に喜んだ。

 ──好きなことをして認められたなら、それでいいじゃないの。あなたのこと、宙ぶらりんだなんて、あたしは思わないわよ。自分の納得ゆくことだけしていれば、いつか訪れる死も、それなりに輝くものよ。

 その母が、突然に死んだ。

 発病して一週間足らずの、あっけない死に方だったという。風邪以外に病気らしい病気をしたことのない母の唐突な死を、峻はなかなか信ずることが出来なかった。

 ──逢って御覧。とても病死とは思われないだろう。

 辛うじて告別式に間に合った峻に、母の死顔を見せながら、おじさんは言った。目を閉じて静かに瞑想しているような、隠やかな母の顔を、峻はいまだに信じられない気持のまま見守った。

 ──あっけないものだ。急性白血病と診断されてから、一週間と持たなかった。

 それだけ言うと、おじさんは口を噤んだ。峻も、黙ったまま母の死顔を見守っている。

 永遠に動きを止めてしまった母は、こうして熟視すると、やはり年齢相応の貌をしている。これがあれほど豊かな表情を持ち、躍動感に溢れていた母だとは、峻には信じられない。この肉体はもう動かないが、そうでなかったとしても、遅からず顔面の小皺はさらに深くなり、頭髪は白く変わってしまうはずの、初老を目前にひかえたあやうげな存在だった。母はそうなることを拒否してきた。母が息をし、動きまわっているかぎり、それはどのようにも可能だった。峻は逢いに来るたびに、いつになっても昔のままの母の姿に安堵したものだ。しかし母のその意志は、もう通じない。死のもたらす平等とは、年齢相応の残骸を晒すことにあるのか、と峻はいつまでも若々しかった母を思って妙に寂しかった。

 内輪だけの葬儀が終ったあと、おじさんは別室に峻を呼んだ。

 ──君はあの家に住んでみる気はないかね、とおじさんは言った。未練のようだが、あれは人手に渡したくはないんでね。

 ──おじさんは、これからどうするつもりですか。

 ──あのひとがいなくなった家に住む気はない。僕は骨壷を抱いてひとり山にでも籠もるさ。遺産といってもあの家しかないが、あんな奇妙なものは、君ぐらいしか受け取ってはくれまい。

 それから数ケ月の後、学会の縁で峻は海辺の大学に招聘された。

 

     七

 

 峻は久しぶりで、母の住んでいた白い家を訪ねた。坂の多い街路を過ぎて、急に細くなった敷石道を降りてゆくと、突然に海の匂いが吹き寄せて来た。潮風が、峻の全身を軽く包み込むようにして吹き過ぎてゆく。峻は、坂道を降るときの、軽やかなリズムが好きだった。海から吹き上げる潮風を受けて、頭髪が散る。その感触も嫌いではない。峻はそれらの感触が、少年の日の幸福感を支配していたことを思い出し、いまになって自分は、あの頃の感情に遡行しているのだろうか、と訝った。

 潮騒の音が、間遠に聴こえてくる。それは坂を降るにつれて、しだいに高まってゆくように思われた。潮の流れるリズムが、峻に忘れていたはずの音の流れを思い出させる。ただいちどだけ聴いたことのある旋律だった。そうだ、美奈が弾いたピアノ曲だ。ほんとうはそのことを忘れていたのではない。幾たびも幾たびも、深夜の床の中にまで持ち込んで、峻はその旋律を再現していたのだ。それは絶えず峻の内奥で鳴りつづけていた。そのことを、ようやくいま思い出した。

 玄関の扉を開ける。気のせいか、蝶番の軋む音が普段より高く鳴って、峻を驚かせる。白く塗られた室内は、前に訪ねてきたときほど明るくはない。何故だろう。夕暮れが迫っているせいもあるだろうが、それだけではない。何故かこの部屋は、光を失ってしまった。調度の位置が動いたわけではない。椅子の置かれている場所にも変化はない。それがただ欠如感によるものだということを、峻はわかっている。

 おじさんは何もかも残していった、と峻は思った。母の住んでいた白い家は、細かな調度品をも含めて、そっくりそのまま残されている。でもおじさん、この家でいちばん大切だったものは、もう残されてはいないんですね。僕はそれに触れたくて、幾度となくこの家を訪れたんです。それは光なんです。おじさんにはそのことがわかっていたんですね。僕にどうしろというんです。僕はここでもまた、失われたものの採掘を続けなくてはならないんですか。

 再生装置の上に乗せられたままの、古びたレコード盤が目にとまる。おじさんが最後にこの家を出るときに聴いた曲だろう、と峻は思った。電源を入れて、回転する音盤にピックアップを乗せる。聴き覚えのある曲だ。そうだ、おじさんが母とふたりで繰り返し聴いていた、カンツォーネだ。

 

  Che vuole questa musica, stasera.

  che mi riporta un poco del passato?

 

  今宵この楽の音は、いったい何を望むのか。

  過ぎし日のかけらを、わがもとに搬びくるこの旋律は。

 

 レコードをかけたまま、峻は階段ピラミッド状の箱段を登って二階に出る。母の部屋だ。窓辺に並ぶ寝台も、壁面の装飾も、前と変わらない。峻の目は、さらに上層へと向かう梯子に向けられている。母はその屋根裏の空間を、おじさんの瞑想室と呼んでいた。おじさんはそこで、いったい何をしていたのか。この家の構造の持つ、上へと伸びる意志の窮極を見てみたい。

 壁に固定されている梯子を登る。すると峻は、そうするときのおじさんと、そっくりなしぐさをしていることに気付く。そうだ、峻は母と出逢った頃のおじさんと、同じ年頃になっている。あの頃、美奈はまだ生まれたばかりだった。あれからもう二十年が経った。美奈はいま、異国の空の下でどうしているのか。あの短期間の狂おしい情熱の余韻が、まだ峻の内奥に尾を引いていて、それが今頃になって海辺の大学で教える遠因になったことを、美奈は知っているだろうか。

 カンツォーネの歌声が、ここまで聴こえてくる。

 

  C'è una casa bianca che

  che mai più io scorderó

  miè rimsme dentro il cuore

  con la mia gioven tù

 

  白い家がある

  とこしえに忘れ得ず

  若き日に

  わがこころねに宿せし家が

 

 外国暮らしに疲れた美奈が、もし帰ってくるとしたら、母の住んでいたこの白い家しかないはずだ。だが、たぶん、そんなことはないだろう。美奈が、いまは峻のものとなったこの白い家に、戻ることはないだろう。

 峻は梯子段を登りつめて、上層の闇の部分に入ってゆく。

 そこにはさらに、もうひとつの部屋があった。峻の予想に反して、剥き出しの梁もなければ、無限に続く闇の天蓋もない。峻が見たのは、人ひとりがやっと立居できる程度の、三角形の空間だけだ。薄明に近い淡い光が、かすかに何もない室内を照らし出す。その微光の中に、峻は見た。無限に昇りつめた果ての、おじさんの孤独を。

 峻は、微光の射し込んでくる場所を確かめるために、躙るようにして前に進む。薄闇に目が慣れてくるにつれて、室内のようすも明瞭になってゆく。がらんどうの空間に、たったひとつだけ机がある。その向こうの暗い壁面に、額縁に似た小さな正方形の穴があって、光はそこから洩れている。机に坐ると、その小さな明かり窓はちょうど目の高さになって、厭でも外の景色が目に映る。

 その風景こそが、おじさんが見つづけたものなのだろう。 

 峻は、明かり窓に額を寄せて外を見た。方形の小窓は、井筒状になって屋根に突き出ているために、極端に視界を狭めた。峻はその中に、何処までも鱗状に波打ち輝いている海面を見た。それ以外は何も見えない。

 峻は、悄然として屋根裏を出た。昇りつめた末のおじさんの孤独に対面することに、それ以上は堪えられない気持だったのだ。母がいたのに、母がいたのに、と峻は思った。あるいは、あの透明な孤独はおじさんだけのものではなく、母もまた共有していたものなのか。だとしたら、それはどういうことだったのか。

 一階のフロアーに降り立ったとき、峻がかけたままにしておいたレコードは、まだ終ってはいなかった。熱っぽい情感をたたえて、終曲が鳴っている。おじさんは何故この盤を、去ってゆく直前まで聴いていたのだろうか。卒然と、峻は覚った。ひょっとして、この曲の中に、おじさんは母の絶唱を聴き取っていたのではないだろうか。

 

  Una volta, che è una volta

  vorrei, vorrei non sbagliare;

  ma stavolta non importa......

  ..............................................

  un tuo dubbio se resti con me?

  Io ti darò di più, di più, molto di più.

 

 遠い記憶の片隅から、突如として哀切な母の言葉が蘇ってくる。あなたと最初に出逢えていたら、何もかもあなたと一緒に始まったなら、と母は言ったのだ。

 

  こたびこそたがへまじ。

  こたびこそあなたのために。

  いのちかけてもかまわない。

  ……あなたが一緒にとどまってくれさえすれば。

  あとには何も残らなくていい……。

 

 おじさんが母から最後に聞いたのは、そんな意味の言葉だったのかもしれない、と峻は思った。それは深い悔恨のようにも、新たなる誓いのようにも聞こえた。この曲を聴きながら涙ぐむ母の姿を、峻は遠い映像の奥に捜りあてる。あのときと同じ感情が、最後まで母のものだったのだろうか。

 峻は暮れてゆく海を見るためにバルコニーに出た。眺望のきく場所から海を眺めることによって、屋根裏部屋の小窓から覗いた限られた海面の、孤独な印象を拭い去りたかったのだ。

 海に向かって伸びているテラスの先端に、遙かな海面をじっと眺めている人影がある。美奈、と峻は声に出して叫んだ。美奈ちゃん、いつ戻ったの。

 乱反射する海からの逆光線に、均整のとれたシルエットを浮かび上がらせて、全裸の美奈が立っている。そうではない、美奈が戻るはずはない、と峻は朦朧とした意識の中で考えた。あれはお母さんだ、夕陽に照り映える海を、いつものように沖に向かって泳いできたのだ。峻はその影の方へ向かって、足早に近付いてゆく。

 一瞬の幻覚であることはわかっていた。テラスの先端に立っているのは、海を眺める女の彫像だった。それは峻の幻覚そのままに、美奈のようだったり、母のようだったりした。

 峻は、遠い日におじさんの言った言葉を思い出していた。

 ──消しても消しても消し切れず残る唯ひとつのもの、僕にとって創造と云えるものはそれだけだ。

 海は暮れていた。それまでは光り輝いていた海面が、見る見るうちに黝んでゆく。

 峻は薄れてゆく光の中で、陶然として母の彫像を見ていた。それは決定された唯ひとつの姿態でありながら、母のあらゆる動作を暗示し、唯ひとつの表情でありながら、母のあらゆる表情を表現していた。峻はそこに母の凝縮された生涯を、一瞬にして見たような気がした。

 これがおじさんの鋳造化した、唯ひとつの作品に違いない、と峻は思った。これ以外のものを、おじさんは自分の作品と認めなかった。これだけが、おじさんの激しい破壊衝動に晒されながらも幾たびとなく蘇生し、その中でなおのこと純化されてゆく、たったひとつのテーマを奏でつづけ、そしてついには、決定的な形象として定着されたものだったのだ。

 母はこのようにして、海を見つめていたのだろうか。そのさりげない姿態に、憧れと悲哀とが、混然として透化されている。峻は、母の死顔に変容のあやうさを見たことを思い出した。そうではない、この彫像こそが、母そのものだ。いや、母を越えて、女体の持つ内なる海さえも暗示している。おじさんは、とうとう海そのものをここに刻んだのだ、と峻は思った。屋根裏の小窓から見つづけていただろう透明な海が、いまあの空間の孤独から解き放たれてここに在る。おじさんの創造のための仕事は終わった。母への情熱だけが、形象として残った。それでいい。

 落日の残照を受けて、赤銅の彫像が凛として輝いている。

 母の裸身は、何処までも続く海原を見ている。

 その海の果てに、峻は美奈のかなでる透明な旋律を、聴いたような気がした。

 

──了──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/04/15

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大久保 智弘

オオクボ トモヒロ
おおくぼ ともひろ 小説家  1947年 長野県に生まれる。「水の砦」により第5回時代小説大賞。

掲載作は、1982(昭和57)年11月「文芸集団 塵」に初出。

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