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雑誌編集のコツ

  1 雑誌の種類とその特色

 

 わたくしが「週刊朝日」の扇谷であります。

 わたくしのほうの雑誌は、大衆雑誌ということになっております。

 雑誌の種類をわれわれは、(一)総合雑誌、(二)婦人雑誌、(三)大衆雑誌、それに(四)少年少女雑誌、(五)文学雑誌、(六)その他と分けております。また一括してこういう雑誌を一般に商業雑誌とも申しております。というのはこの種の雑誌は、その発行によって利潤をあげているからであります。雑誌発行の少なからざる部面に、利潤ということを考えているからであります。

 これに対して専門誌というのがあります。まず考えられますのが、デパートの雑誌とか、広告業者の雑誌、いわゆる業界誌であります。それから企業のPR誌、社内報、学校の校友会雑誌や、皆さんのやっておられる官側雑誌(官庁機関誌)もわれわれからいいますと、専門誌にはいります。

 この種の専門誌のいちばん大きな特色は何かといいますと、非営利雑誌ということであります。よくいえば、採算を度外視した雑誌――結構な身分ですな(笑)――悪くいえば、もうかっても、もうからなくてもよい雑誌、したがってサービスを知らない雑誌(笑)というわけであります。

 なぜかといいますと、この種の専門誌は一定の予算があって、売れても、売れなくても、ちっとも困らん。予算分だけは、国家か、地方行政官庁か、会社か、どこかの団体かが、受け持ってくれるだろう。つまり"人褌(ひとふん)の雑誌"(笑)こういうと皆さまがお怒りになるかもしれませんが、そういうわけであります。だから進歩がない(笑)ともいわれるのであります。すべて競争のあるところに人間の創意とくふうが生まれる。そこに進歩があるわけであります。これではたいへんにもったいない。紙も、お金ももったいない。それより、何より、そういう仕事に情熱をかたむける皆さんの努力がもったいない(大笑)と、わたくしは思うのであります。(笑)

 さて、最近の傾向としましては、いま申しました総合雑誌は、さらに二つに分けられる。すなわち"重総合雑誌"と"軽総合雑誌"であります。

 重総合雑誌というのは要するに、アカデミックな総合雑誌、……戦前の「改造」とか「中央公論」とかいうのはこれであります。"軽総合雑誌"というのは、アカデミックではなくて、もっと平易な、わかりやすい総合雑誌で、「文藝春秋」とか、わたくしたちの週刊誌などは、これにはいるわけでございます。いや、一部の週刊誌などは、読み捨てにされておりますので、読み捨て雑誌 ――"消耗誌"ということになるかも知れません。それは、それでまた私は意味のあることと思っています。

 では重と軽はどこに相異があるか? ページ数が厚いから重総合雑誌、ページ数が薄いから軽総合雑誌というのかと申しますと、そうではなくて、実は問題の選択とその取り扱い方のちがいであります。もう少しこの問題を具体的に説明いたしましょう。

 戦前の総合雑志の巻頭論文というのは、いろいろと批判されるのでありますが、われわれは、これはだいたい、床の間の置物だといっていたものであります。この論文は、少なくとも三名の読者をもっている。(笑) ひとりは、それを書いた筆者であり、ひとりは編集者であり、もうひとりはそれを校正する係りである。(笑)極端にいうと、この三名のための論文が、巻頭論文という観を呈しておりました。(笑)つまり広い意味での大衆を考えない論文を載せる雑誌、知識階級だけに読ませればよいというたてまえのものを、われわれは"重総合雑誌"と呼んでしたわけであります。

 フランスのことばに、学問があるということ、知識があるということ、それは、むずかしいことをむずかしくいうことではなくて、むずかしい内容をわかりやすく表現することだという言葉がありますが、"軽総合雑誌"というのも、つまりは、この考え方に添って雑誌が作られているということであります。

 そして戦後のジャーナリズムの大きな変革は、ジャーナリズムが、従来の重総合雑誌的なものまでがこの方向に向かいつつあること、それは根本的には民衆に対する愛情とうことを前提にしているのですが、――これが、やがてはジャーナリズムにおける民主化、ひいて文化の新しい方向への出発ともなるだろうとわたくしは考えるのです。

 まえおきはこれくらいにしまして、雑誌編集の技術的な問題にはいりたいと思います。

 

  2 コツは親切と誠実から

 

 雑誌編集のコツを、一言にして言いますと、わたくしは、第一に、親切と誠実だと思います。親切で、かつ誠実ということは、きわめて平凡なことばでありますが、これは雑誌をじようずに作る最大の根本だと考えます。では、どういうことを親切というのか?

 一つの例を申しますと、ここに、あるひとりの大臣がおりまして、旅先でもって「ある団体は赤だ」と放言したとする。ところが、この団体がかりに教師の団体なり、組合だとすると、父兄たるわたくしたちは大いにとまどってしまう。中には喜ぶ父兄もいるかもしれない。(笑)その団体の教職員が、かりに何十万人という人であれば、この人たちが、はたして全部赤い思想の持主か、どうかはたいへんに疑わしい。或る意味では無責任な放言ともいえます。したがって、いまの大臣のことばが、もし「ある団体の一部は赤だ」とか「中には赤い人もいる」とかいうのなら、これはまア適切、まちがいのない表現だと思う。

 わたくしが親切というのは、このような、概括的に、人の頭を棒でなぐるような言い方をしないで、よくことばを吟味して、正確に事態を表わすというようなこと、相手の心にヒシとはいるようなことばの言いまわし方をすること、たとえば、そういうことをさしているわけであります。

 戦時中に読まれた『葉隠(はがくれ)』という本、あの本は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」ということばでだけ知られているのですが、あの中には、いろいろいいことも書いてある。その中で、いまでもわたくしがおぼえていることばは、「人に忠告する場合には、忠告されるほうが、忠告を受けいれて聞くような気持になっている時に、忠告をしなければだめだ」という一節があります。ということは、人に物をいうのなら、まず相手の気持になって、ものを言うということであります。

 

  3 平均的な読者像の設定

 

 このことを、われわれの場合、雑誌編集者の立場になって考えてみると、相手の気持になって雑誌を作ってみるということであります。読者の立場にたって、雑誌を考えてみるということであります。

 もう少し具体的に申し上げましょう。

 たとえば、この「教育時報」に一つの法案の解説をするとする。そのとき、読者はその法律のうち、どこが知りたいかを考えてみる。といって、何千、何万人という、読者のひとりひとりにあなたは何が知りたい? どこがわかりませんか? と聞いてみるわけにもいきません。それは不可能なことであります。わたくし自身が、「週刊朝日」をやっていまして、これは毎週ほぼ百万部以上発行していますが、その百何十万人というひとりひとりの読者に、あなたは今週はどんな問題の解説を希望しますか、と聞いてみるわけにはいかない。

 そこで、そこからどうしても"平均的な読者像"――つまり読者の最大公約数というものを設定し、それを頭において、その人を目標において、それを腰ダメにして雑誌を作るほかない。こういう読者像の設定ということは大事なことじゃないか。そして、この平均的読者像はその雑誌雑誌によって異なるのは当然であります。

 別な例をあげて説明しましょう

 徳川夢声氏は、話術の大家だといわれています。がコツは、何百人、何千人集まろうともけっきょくは何人かのよい聴衆に視線をあてることだというのです。わたくしが、いまここで話をしています。この方向にひとり(左のほうへ向く)まん中にひとり (正面を向く)そしてまたこの方向にひとり(右のほうを向く)と三人の最も熱心に話をきいてくれるらしい人を見つけ、その顔をみつめ、その表情の反応を見ながら、話していけばよいというのです。そしてこの三人の方向にかわるがわる向かっていますと、演壇と会場との物理学的な距離からいって(笑)その会場の全体の人々に向かって話しているという印象を与えることができる。

 しかし、実は、わたくしはたった三人の聴衆に向かって話しているにすぎない。そしてこの平均的聴衆としては概して女性がいいという。それは、女性は男性より一般に忍耐心が強く(笑)非常に友情に厚いし、(笑) また礼儀も正しい、(笑) つまらない話でもじっと聞いてくれるからであります。(笑) そして、それもあまり若いかたより、四十から五十歳前後の人がよい。雑誌を作るのもせんじつめると、このコツです。

 たったひとりの読者の心をつかまえ、そして編集者の話しかけを納得させればいいと、こういう考え方でいったらいいと思います。

 さて平均的読者像というものは具体的には、どんな人たちか。それは各雑誌によってマチマチなのは、いうまでもないのでありますが、わたくしのほうの雑誌の読者をかりに知的水準で表すと、こういう三角形(図示・省略)になる。大学生というのはいちばん知識的に高い、と現在の日本ではみざるを得ない状況だと思います。もっとも、最近は、大学生諸君の質もさがりまして、いつか、どこかの新聞社で採用試験をやりまして"A・P"いうことばの説明を求めた。これはアメリカの有名な連合通信社のことでありますが、これに対する答案は「アジャパーの略」ということでありました。 (笑)……これは冗談でありまして、(笑) まアだいたいにおいて大学生は高いものとみていいわけでしょう。

 この大学生を(三角形の)頂角(上四分の一程度)とし、低い層(下五分の一程度)、だいたい、知識的に申すのでありますが、六歳から小学校三年ぐらいまでとみます。そして三角のまん中の厚い層、これを"平均的読者層"といっているのでありまして、この層の中のひとりを平均的読者像として設定するわけであります。そしてこの社会層が、実は日本のさまざまな意味において骨格をなしていると、わたくしは考える。

 わたくしたちの大衆雑誌からみれば、この上の大学生のほうは、ほっておいていもいい。なぜならこの層は自分で勉強をしていく。またこの下のほうは学校で教えてくれる。がしかし、いま述べた読者層――、学校を出た社会人が――これらの人々は、なにびとがこれを教育し、啓発していくか。そこに、わたくしは、わたくしたちの社会的任務を感ずるのです。さてしからば、この平均的読者像というものは、具体的にはどんなものか? と申しますと、私はひところ、「週刊朝日」のそれを「旧制女学校二年修了の読解力、プラス、人生経験十年」ということにしたものであります。どうして旧制女学校二年かというと、中学二年では高すぎる、いうなれば高小卒ということであり、簡明にいうなれば、戦前の義務教育卒の学力ということであります。なぜ女性かといいますと、一つにはさきほど、わたくしが、徳川夢声氏の話を申しましたように、女性は非常に反応が激しい、鋭敏であるからであります。さらに第三の理由は、戦後男女同権とはいうものの、これは名義上のことで、実質的には、女性はまだまだ男性のように社会的政治的に物を考える訓練ができていない。そこのところをなんとかしたいということであります。また、人生経験十年と申しましたのは、学校で身につけた読み書き能力のほかに、この社会に出てまいりますと、ことばの語源的意味はわからなくても、経験からことばの社会的内容がわかってくる。これを、われわれは人生経験に基づく読解力と考えているわけであります。一つの例を申します。

 「矛盾」ということばがあります。義務教育を受けた人で、このことばの故事を知り、字が正しく書けるものが何人あるか? おそらく、あやしいものだと思います。ここにおられる皆さんは、ご存知と思いますが、(笑)これは昔、楚の国に、タテホコを作る人がおった。この人がいばって、自分の作ったホコは、いかなるタテにも破れることがない。また同時に自分の作ったタテは、どんなホコでも防ぐことができると、たんかをきった。これに対してある人が、それでは、あなたが作ったタテにあなたが作ったホコをつきつけたらどうなるか? といったら、大いに返答に困ったということから出でいるわけであります。それでけっきょく、自家撞着(どうちゃく)とか、くいちがいとかいう意味になったわけであります。

 厳密な意味において、矛盾ということばを知っているということは、このように故事も知り文字も書けなくてはならない。また、この矛盾という字を見て、ムジュンと読みうることも知らなければなりません。

 また笑い話になりますが、ある代議士は演説の草稿に矛盾と書いてあったら、これをホコトンと読んだそうであります。(笑)この国会議員は、ムジュンということばは知っているのであります。ムジュンということばは、どういうことを意味するかも経験からいって知らないわけはない。(笑) が不幸にして矛盾という字の読み方を知らない、わたくしがいいたいのはこの場合矛盾と書いて、これをムジュンと読む、とか、この故事は、昔楚人が……などということはどうでもいいというのであります。社会生活をしていますと、ムジュンという響きを持った社会語は、どういう場合に使うか、また、どんな感じの社会的内容をもっているか、そういうことを知っておれば、足りるということです。これも一つの知識である。不完全かもしれないが、この人生に処していくには、このような、不完全な、だが、実用的な知識がいくつかあるわけであります。それを編集者はけいべつしてはいけない。むしろ、編集者はそれを手がかりにすることがたいせつだということがいいたいのです。

 もう一つは、"行間の意味"ということです。義務教育を終えて人生経験十年を経た二十五、六歳の青年がバーに行ったとします。そばに女給さんが来て「アンタにくいわよ」と言ってシナをつくったとします。その青年は、自分はこの女にまさかニクマレているとは感じません。(笑)その逆をいった一種の愛情? のあらわれだということは悟ることができる。そしてさらに「何いってやがんだい」と言い返したりもしましょう。(笑)

 こういった能力を含めて人生経験十年とわたくしは言うのであります。

 だから社会語として通用することばは、なにも本来の漢字を使わなくてもいい。矛盾と書かなくて、ムジュンでいいというのが、この人たちに対するわれわれのたてまえであります。

 

  4 読みやすくするには

 

 第二の問題として、Readability「読みやすさの研究」の問題にはいりたいと思います。この問題は、マスコミニケーションの分野においては、非常に大きな問題になっています。これは、どういうことか? 文章にひらがなをうんと書けばいいということも一つの解決策ではありましょうが、ここでごく大きな原則を三つだけあげてみましょう。

 一つの原則は、"句読点(くとうてん)"をうまく使うということであります。句読点をはっきりつける。そして、いうならば、句読点は多ければ多いほどよろしい、というたてまえであります。皆さんは広報担当者でありまして、元来活字に接触している人でありますから、活字に対して一種の抵抗――退屈な感じをもたないかもしれませんが、一般人は活字に対しては非常に抵抗を感ずるものなんです。

 ちょっと言い忘れました。皆さんがやっておられる雑誌では、どの辺を平均的読者像に置いたらいいかといいますなら、だいたい読者は教職員だと思うのですが、その中の、学校を出たばかりの人や校長先生ではなくて、またたったひとりの教育委員会の教育長でもなくて、教壇生活十年ぐらいの人を中心にして、その人たちの考え方、感じ方を手がかりにお作りになればいいのじゃないかと思うのであります。

 さて、句読点の問題にかえります。これは、実に大きな問題であります。きのうあたり、波多野(完治)さんが文章心理学で話されたと思いますが、われわれは、句読点はの文だといっております。着物でいうと柄であります。そして、漢字や、ひらがなは、この地の文を染めていく模様だ、そういう考え方である。つまり句読点という地の中に、文字という模様を染めていく、こういう考え方であります。

 第一に句読点をうんと多くしろ、ということは、読者の目を休ませろということであります。

「わたくしは、あなたと会えて、とても、うれしかった。」とこんなふうに句読点を多くうつと、文に余白が出て、目が非常に休まる、余白をつくるために句読点をつけよ、ということであります。一般の読者は、それによって、目にやすらぎをさえ感ずる。

 この句読点のつけ方、配列によって、文章にもさまざまのニュアンスがでてくる。個性的な生き生きとした文章ができるということについては、波多野完治氏の『文章心理学』に詳しく紹介されております。

 第二の問題は、「行を替える」ということです。われわれのことばでいう「行替え」であります。普通五行ぐらいがよい。五行ぐらいからせいぜい十行ぐらい、これは二十字づめの場合であります。これぐらいであります。いま、わたくしのいった平均的読者層なら、生理的にも心理的にも耐えうる限界じゃあるまいか、とわたくしは考えるのであります。

 この方式から、ただいま、わたくしの手もとにありますこの本、――これはいずれ皆さん方のどなたかが編集したものでしょうが、――それをみますと、このとおり八十九行、ガチッとつめてあります。これは、全然人間の目の権利を無視したもので、人権じゅうりんにも等しい雑誌の作り方であります。(笑)

 第三に、文章は、なるたけ「短文」――この短い文章をいくつも組み合わせていく、これが現代文の新しい行き方であります。しかもこれは、実験心理学の結果に基づいているのです。

 アメリカはこの戦争中に、何千万人かの兵隊を動員したわけでありますが、そのような大規模な国民動員をしてみて、さまざまな命令を上から下に伝達してみた。あるいは部隊と部隊間とも連絡させてみた。すると、それが相手方に対し、なかなか正確には伝わらないし徹底もしない。なにしろ、これだけの動員壮丁についてでありますから、知的水準は想像以上の低さなんでもありましょう。そこで、いろいろな学問の分野の人たちが、寄り集まって、研究してみますと、平均的アメリカ人の理解しやすい英文の構成は最高十八語前後ということがわかった。これならなんとか、理解もされそうだ、ということが出てきたわけであります。

 "アイ アム ア ボーイ"という短文は、I am a boy で五語(ママ)である。

 こういう計算で、一文が最高十八語ぐらいまで、短ければ短いほどよい、という結論が出た。

 そしてさきほど申し上げました A・P通信社などは、ニュース報道には、この十八語ということを励行しているようであります。新入社員に渡すAP Writing handbook には、短文のいくつものいい例を掲げている、というわけであります。

 ところが、日本では短い文をきらうという伝統がある。これは、日本文の伝統からも来ているのですが、場所によっては、かなり長い文章に句点・読点が一つしかはいっていないのが名文だとされたりしている。ことに裁判所の判決文とか、起訴状というのは、息の長い文章が名文とされ、チャタレー裁判のときの検事の起訴状は、たしか一六〇〇字か、なにかの文章に「。」はたった一つだったというように記憶しています。およそ民衆に宣告を下し、社会風教の上に一つの範例を示す文としては、これほど、時代錯誤はないと思うのであります。

 よく文章が流れるようだ、といわれますが、それは明快にして簡潔な短文を積み重ねていくというところにあると思います。ことわっておきますが、わたくしの申し上げていますのは、あくまで現代文、つまり実用文について申し上げているのでありまして、文学上の問題として申し上げているのではないということです。

 皆さんが作っておられる雑誌の読者であるところの先生方であっても、読者としてみた場合は、われわれのところの読者と同じだろうと思います。学校の先生であっても、家に帰ればいろいろのことを心配したり考えなければならない。第一、からだが疲れている。そこへ、ガチッと組まれた活字をもってこられたら、とても読む気はしないものであります。

 

 (1)…… シュガーコート編集法

 さて、問題を別な角度から、申し上げましょう。

 さきほど、演説をする場合には、三人のよい聞き手を見いだして、その表情をみつめてと申しましたが、あの方法はわれわれのことばで申しますと Whispering(ささやくように話す)ということがあります。マイクを用いれば、普通のように話をしておって、けっこう声だけは何千人という人に聞こえるのであります。だが感動をさせるということまでには行かない。人を感動させるには二千人とか三千人とかの人を相手にしようとしないで、たったひとりのだれかを頭に描いてしゃべるということがそのコツであります。

 同じように雑誌の場合でも、不特定の読者を考えないで、さきに申しあげたひとりの平均的読者像を、一応頭に浮かべ、その読者に対して、ささやくような言い方・書き方が、ジャーナリズムではないか、こういうふうに考えます。

 わたくしたちの経験でたいへん恐縮なんですが、いまの件について一つの例を申し上げましょう。わたくしのほうでは、しばしば政治問題を扱うのでありますが、その場合、自民党がこうだの、共産党がこうだ、そして社会党はこれこれの動きを示していると書くわけでありますが、そうすると、こういうふうな記事は四十代以上の男性には、興味をもって読んでもらえるのでありますが、女の人は、だいたい読まない。いやうけつけない。しかし、これは、今日の日本にとって、まことに重大な問題であります。

 政治に関心を持たない婦人たちでも、今日は、男女同権で、政治的には男と同じような発言の権利を持っている。だから婦人有権者層をどう啓発していくか、特にこの婦人有権者層をどう政治教育するか、少なくとも最小限度には、棄権しないようにさせるにはどうしたものだろう。このように考えまして、婦人読者にものを訴える記事の書き方をくふうした。そのあげく、総選挙の時に、四回たてつづけに手紙形式にして、選挙の内容や、政治の内容を分析してみたのであります。

 それは、こういう形式なのです。"U子"といういなかにいる若い娘を作った。 U子というのは、You- あなたがた女性よ! というしゃれなんですが。(笑)

 このU子が東京で新聞記者をしている兄さんに、政治上の問題について、これと、これと、これがわからない、これはどういうことでしょうか? という手紙の質問を送る、それに対して東京のU子の兄さんが、手紙で返事を書き送るというわけであります。

 なお、その際、主婦連へ行って、 U子に代って質問を作ってもらった。なぜならわたくしたちは、社の政治部の者とも毎日会っているので、まア政界の動きのだいたいのことは知っているつもりでありますが、一般人は、必ずしもそうじゃない。そこで、どういうことが知りたいか? さらに知っていることでも、それは、どういう形に一般人はつかまえているかというふうにして、まずまず質問をまとめてみた。そして、それをU子の手紙として書いた。それに対する兄さんの"U子よ!"という返事の中には、政治の問題にふれつつ、若い娘たちの関心を持ちそうな流行とか、風俗批判などを交えて返事を書いた。これが、非常にうけて、多くの女性の読者から、あれは、たいへんありがたかったという返事をもらいました。

 さてこのように政治記事の中に、服飾や流行の記事を入れる、こういう方法をわれわれはシュガーコート(糖衣) 編集法というております。こどもに薬をやると、こどもは、いやいやする。そういう場合、砂糖の衣をかぶせて飲ますと、あまりむずからずに飲んでくれる。それと同じように、口あたりのいいものとまぜて、ぐっと苦いやつを飲ませるのであります。これがシュガーコート編集法であります。

 この方法は、戦後、日本でも非常にはやっているジャーナリズムであります。この方法の輸入元は、日本版のリーダーズ・ダイジェストだったと思います。もしリーダーズ・ダイジェストが、日本に貢献したとするならば、このシュガーコート編集法というものを、日本のジャーナリズムに紹介したことだと思います。

 このことを、皆さんに強調しますのは、官庁出版物の場合、特にこういった要素が必要だからであります。

 あなたがたの本を受け取ったとき、読者のほうははじめから、これは役所の本だ、と思って読む。はじめから、またかといった反感をもっている。これに対して、ちょっとくふうを加えますと、読者に逆な心理的反応を与え、「あっ、これは、これは」といってかえってとびつくものであります。

 そういう意味では、これなど(「S県教育月報」――表紙に指導課長の談話を刷りこんでいる)実にまずい。第一ページから先生がたは文句をいわれているようで。(笑) いかに官庁出版物といっても、これはひどい。戦争中でも、こういう雑誌は作らなかった。これでは第一ページから反感をそそりたてるようなものであります。(笑)

 そういう意味では A県のは、表紙にはあたたかみがあります。しかし中がダメです。(笑)どうしてかと申しますと、座談会の司会者を上段の方に別組でノッケているのであります。所長あいさつ、柿崎委員あいさつというふうに、委員のエライ人をヒナダンにたてまつっている。どうしてこうする必要があるのでしょう? 座談会であれば、むしろ普通の組の中に入れたらいいと思う。まア、善意に解釈すれば、これはたまたまスペースが余ったからじゃないかと思いますが、しかし、これはスペースの始末より、その結果として与えるマイナスの効果がはなはだ大であります。(笑)これはあたりまえに流して「これから、何々先生お願いします」とすればいいのであります。もしスペースが余ったら、こどもの顔でもカットに入れたら、ずっとあたたかみが出てきましょう。ここに特別に所長とか委員だけを上段に組んだことによって全部だめにしたとみていいと思います。こういうのが官庁雑誌に対する読者心理というものであります。この微妙な心理を考えてつくらないと、なかなか読んでもらえるものじゃない。ことに戦争中のように、ほかのいっさいの出版物がなくて、官庁側、あるいは、翼賛会のものしかない場合には別でありますが、今のように、さまざまな出版物が自由にはんらんしているようなときは、特にその点を考えるべきだと思います。

 いま、わたくしは A県の雑誌をけなしているようですが、(笑)これは文部省の人が送ってきたのが、この四冊でありまして、その中から、たまたま目にとまったのを、ヤリ玉に上げている(笑)わけなんでして、 おそらく、全国都道府県のを見たら、全部が、何か一言ずつはあるのではないかと(笑)思います。

 まア、この四冊の県は犠牲者と思って、あきらめてもらいたい。(笑)これも研究素材として言っているのでありまして、決して特にS、A などの県をブジョクしようと思って(笑)言っているのではありません。

 

 (2)……なるべく人間くさく

 さてこの四冊を通読して、講習会の記事が非常に多いのに気がつきました。何日にどこであるとか、終わったとか書いてありますが、なぜ、その時講習を受けた人の手記を載せないのでしょうか。だれかがその講習会に出ているんでしょう。「講習会を聞いて」とか「講習会に参加して」とか、こういうことをも研究したらいいと思うのであります。

 これからもう少し具体的なことにはいっていきたいと思います。

 これは教育委員会から出ている雑誌だから、きっと先生方の異動が出ているのではないかと思って見ていきますと、どこにも載っておりません。これが教育委員の異動だと、だいぶ書いてあります。委員の異動もけっこうだが、なぜ教職員の異動を出さなかったかであります。もっと異動について、細かくあっていいじゃないかと思うのであります。また俳句のようなものもあっていいじゃないかと思います。

 それは、こういう根拠です。マッカーサーが日本の占領政治を行なっている間は、だいたい、投書一通について一万人の日本人が、それに賛成したとか、また反対しているというふうに、世論分析をしていたといわれています。ただし、これは信頼性がうすい。われわれの経験によると、日本では、ごく普通のひとりの日本人についてたとえば――佐藤金市という人について知っている人は、少なくとも三百人はいると推定するのであります。もしこの人が死んだ場合に、その死に対して少しでも関心をもっているものを、だいたい三百人とわたくしはみるわけであります。小学校の同級生がだいたい百人、上の級で五十人、下の級で五十人、これでだいたい二百人、それに自分の親戚や勤め先など合計三百人。この佐藤金市君という活字に少なくとも三百人の関心をもった読者がいると判断するわけであります。

 のみならず、何よりもその本人が自分の名まえが活字になると深い深い関心をもつ。

 たとえば、わたくしのほうでは、ちょいちょい懸賞当選というのがあります。「以下一千名の方へ記念品贈呈」というのがあります。その一千名の中に自分の名まえが出ていると、そこに線をひいて、じっと見る、それが人間の心理なのであります。自分の名まえだけがボーッとゴシックで浮いてくる。(笑)そうすることによって、ぐっと読者が親しみを持つてくるのであります。雑誌は「なるべく人間くさく」ということがコツなのであります。読ませるコツであります。さっきから申すように、俳句でもいい、異動でもいい、とにかく人名を一行でも多くのせる、そうすれば読者がもっと親しむのであります。親しめばしめたもので読まれる第一歩であります。

 

 (3)……これからの新しい表現

 最後に漢字制限以後の表現ということについて少し話しましょう。これは事務的な問題であります。

 いかにして平易で美しい日本語ならびに日本文を作っていくかという問題であります。

 一つの例を申しますと、戦前には"へんしゅう"という字は"編輯"と書きましたが、これが制限となった。輯の字がないのであります。その時、これを「修」にするか「集」にするか、戦後、大きな問題になりました。朝日・毎日・読売など各社が集まって、けっきょく「集」になったわけであります。これは「輯」の字が、ただ、あつめるという意味しかないのでありまして、それならこの「集」で済む。のみならず「修」より「集」のほうがより庶民的で、しかも、わかりやすいというので、こうなったのであります。このような現代の日本語は一つ、一つ関係者によって吟味して作られているのであります。

 また、いいかえのことばをさかんにやっております。たとえば、「涜職」という字がありましたが、その「涜」という字がないので、このごろでは「汚職」といいますが、わたくしたちにはピンとこないけれども今の若い人たちには、すぐわれわれの「とくしょく」に結びついて考えられつつあります。これがことばの形成の過程だとわれわれは思っております。

 また「宵」という字が今はないのであります。ところが、むかしの新聞の夕刊には"宵の強盗"ということばがよく出たものであります。その「宵」の字がないので、どうしようか? と困って、「夕の強盗」としようか、となった。すると、それでは強盗がやさしくて(笑)"宵の強盗"の感じがしない。それじゃ「夜の強盗」にしようか。するとまた強盗は夜にだいたいきまっていて、あたりまえじゃないか、と。では漢字がないから「ヨイの強盗」としようか、と、これでは、ヨイ=良い強盗、あるいはヨイ=酔ぱらった強盗でおかしいというのであります。それで、なんとか昔から使った「宵の強盗」という社会的内容をもったことばができないものか、と研究してみるのであります。

 そうすると「宵」ということばのひびきには、非常に家庭的なものがあるのであります。「宵やみせまれば」とか「宵の明星」とか、宵という語は家庭的なひびきをもっている。夕方、おかみさんが、カタカタと大根でもきざんでいる様子が連想されるのであります。そこへ「強盗?!」という、コントラストの妙味から出たことばであって、この感じを出す新しい表現には、われわれも非常に苦心しているのであります。

 また、「溺死」の「溺」がないので、このごろは「水死」であります。中国の本当のことばは「水死」が正しいんだそうであります。しかし、どうでしょうか。「水死」というのではどうも、オナカがブクッとふくれた感じがしてきません。なにか乾燥して死んだような感じがします。しかしこれも、はじめは困っていましたが、このごろではなれてまいりました。また「馬鹿」という字がまえにありました。いまはこれも制限漢字です。こういうような場合「君はばかだ」とか「君はバカだ」とか「君は、バカだ」といろいろ書いてみます。そうなると、句読点をつけなくても、「君はバカだ」というのがうまく感じがあらわれている。これをかなまじり文、といって、新しい表現法なのであります。この表記法は、戦前でも菊池寛氏は用いたといわれています。

 伊藤整氏の『女性に関する十二章』の文章で非常に新鮮なのは、このかなまじりを、いかにたくみに使ったか、ということであります。伊藤氏の『文学と人生』というエッセイの中に「トンデモハップン」というのがあります。「とんでもはっぷん」「トンデモハップン」「とんでもハップン」「トンデモ ハップン」この四つのうち、どれが正しいかというのであります。これは論理的に結論が出てくるのです。このことばは、本来はアメリカの一世の日本語なのであります。Never happen ということを、アメリカの一世の人は、むこうで「とんでもハップンでございます」というのであります。したがって「とんでもハップン」が正しいということになります。

 一つのことばの性質の表わしかたによって、いろいろニュアンスをもっているわけであります。こういうことが、これからの新しい表現方法となるでありましょう。

 だいたいにおいて、外来語は、片カナで書いたほうがいいのであります。

 そういうふうに、ことばを簡略化して、しかも不必要にことばが乱れないように、一つの系統をもって、現代の日本語を整理していくことも、現在のわれわれの任務ではないかと思うのであります。 (拍手)

 

(文部省広報担当者研修会)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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扇谷 正造

オウギヤ ショウゾウ
おうぎや しょうぞう 編集者 1913~1992 宮城県に生まれる。地方記者、海外特派員を経て1947(昭和22)年「週刊朝日」編集長に就任。数々の編集手法を駆使し、部数を爆発的に延ばし名編集長と謳われる。学芸部長、論説委員を歴任。週刊誌ジャーナリズムに新境地を広げたと1953(昭和28)年菊池寛賞受賞。

掲載作は、「現代のマスコミ」(春陽堂)に拠る。

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