安永六年(1777)の正月、蕪村は『夜半楽』と題した春興の小冊を出した。その中に「春風馬堤曲」十八首と「澱河歌」三首とが収められてある。それは一見俳句と漢詩とを交へて続けたやうなものであるが、実は必ずしもさうではない。言はば一種の自由詩である。しかも格調の高雅、風趣の優婉、連句や漢詩とはおのづから別趣を出すものがあつて、人をして愛誦せしめるに足る。その体は日本韻文史上にも独特の地位を占むべきもので、ひとり形式の特異といふ点のみでなく、一の文藝作品として確かに高度の完成した美を示して居ると言つて宜い。而してこの特殊な韻文の形式を、蕪村はどこから学んで来たのであらうか。それとも全く彼が独創的に案出したものであつたらうか。蕪村にはなほ同様な韻文体の作「北寿老仙をいたむ」の一篇が残されてある。下総結城の人、早見晋我の死を悼んだ曲である。晋我が歿したのは延享二年(1745)のことであるから、曲もすなはち当時の作にかゝるものであらう。それは、
北寿老仙をいたむ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲たる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
花もまゐらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたふとき
(晋我五十回忌追善『いそのはな』)
といふので、これには漢語の句は全く含まないけれども、その韻律は極めて自由であり、詞章もまた頗る高雅の気に富んで居る。「春風馬堤曲」の源流が夙くこゝに存することは、何人もこれを認めるにちがひない。少くとも蕪村の心にはかうした韻文への創作欲が、若い頃から動いて居たのである。ではこの「北寿老仙をいたむ」の風体を、彼はやはり別に学ぶ所があつて得たのであらうか。問題は更に溯らねばならない。
俳諧に於ける韻文の一体といへば、誰しも想ひ到るのは支考一派の間に行はれた所謂仮名詩である。それは支考が自ら新製の一格として世に誇示した所であるが、要するに漢詩の絶句・律の体に倣ひ、十字を以て五言とし、十四字を以て七言とするやうな規矩を設け、更に五十音図の横列によつて仮名の押韻までも試みようとしたものである。その実作は『本朝文鑑』『和漢文操』等にも、特に類を分ち目を立てて多く収めてあるから、こゝに詳しく説くにも及ばないが、例へば、
逍遙遊 五言 蓮二房
よしあしの葉の中に 寝れば我さむればとり
鳥さしはさもあれや かく痩て風味なし
山中尋酒 七言 得巴兮
門の杉葉に酒をたづぬれば 畚ふり捨て麦刈にとや
樽はつれなく店に寝ころびて 臼引音の庭にさびしさ
和漢賞花 五言律
花はよし花ながら 見る人おなじからず
ぼたんには蝶ねむり さくらには鳥あそぶ
たのしさを鼓にさき さびしさを鐘にちる
唐にいさ芳野あらば 詩をつくり歌よまむ
和漢賞月 七言律
我日のもとの明月の夜は もろこし人も皆こちらむく
詩には波間の玉をくだきて 哥に木末の花やちるらん
雪か山陰の友をおもへば 露も更科の姥ぞなくなる
さはれ杜子美が閨にあらずも 芋とし見れば物も思はず
の如く八句から成つて居る。に・り・し・ば・や・さ等と、伊列又は阿列の音を句尾に置いて、所謂仮名の韻を押すやうな技巧は、流石に支考らしい工案ではあるが、ともあれ普通の俳諧とは全く異つた形式を用ゐて、しかもその中に俳味の掬すべきものがなしとしない。もしこのやうな一体の韻文が、真摯な文藝精神の下に展開を遂げたならば、それは俳諧から派生した一の特殊な文藝として、俳文よりももつと注意すべき近世文藝の一分野を占めることが出来たであらう。そして自由な韻律と格調とをもつた新韻文の形式は、明治の新体詩をまたずして十分成長し得た筈である。しかし支考の例のことごとしいあげつらひは、徒らに体制の上に無用の指を立てるやうな事のみに急で、真に文藝的な完成への努力を怠つた。例へば仮名に真名の韻を用ゐる一格と称して、
田家ノ恋 蓮二房
さをとめの名のいかにつゆ(露)けき(濃)
花もかつみのよしやよ(俗)の中
浅香にあらぬ沼のかげ(影)さへ(副)
鏡の山のそこにはづ(慚)かし(通)
の如く、一句の終に特に漢字を宛てて、こゝに押韻する方法を案じたりした。のみならずこの漢字についても、俗中は日本紀により、影副は万葉に出で、慚通は真字伊勢物語に基くなどと一々勿体をつけて居る。果ては、
祝草餅 桐左角
若菜は君が為とよみしかど(廉)
蓬はけふの餅につかれしを(塩)
名も鴬のいろにめでけむ(剣)
げに花よりと見れば見あかね(兼)
の如きかどを廉にしをを塩に宛てるなど、殆ど遊戯文字と選ぶ所のないやうな作までも試みて居る。こゝに至つては折角の万葉の体も、律法の新製も、その愚や及ぶべからずである。
美濃派の俳人の間には、その後もなほ仮名詩の作は行はれて居た。同派の俳書を繙くならば、享保以後ずつと後年に至るまで、屡々その作が試みられて居ることを知るであらう。中には見るべきものもないのではない。也有の『鶉衣』に収むる「鍾馗画讃」や「咄々房挽歌」等も、また仮名詩の流を汲むものであつた。だからやはり仮名の韻を押し、又毎句末に漢字を宛てたりして居るのであるが、「咄々房挽歌」の如きは、
木曽路に仮の旅とて別しが
武蔵野に、長きうらみとは成ぬる(留)
呼べばこたふ松の風
消てもろし水の漚
わすれめや 茶に語し月雪の夜
おもはずよ 菊に悲しむ露霜の秋
庵は鼠の巣にあれて 蝙蝠群て遊
垣は犬の道あけて 蟋蟀啼て愁
昔の文なほ残 老の涙まづ流
よしかけ橋の雪にかゝらば
招くに魂もかへらんや不(イナヤ)
と、句脚に尤の韻を用ゐる為にかなり無理な点が見られるにもかゝはらず、そのリズムは頗る自由でしかも一種の高雅な風韻が感ぜられる。又天明・寛政の頃小夜庵五明の門人是胆斎野松は和詩の作を好み、その編した『和詩双帋』には盧元坊以下の人々の作を集めてあるが、誦するに堪へる佳作も少しとしない。今五明と野松の作一篇づゝを抜いて見よう。
秋香亭の夕顔を題して 小夜庵
垣根に長く作り垂しは 我が手に墨し窓切らんとや
月を眺むる便りならねば いけては壁に花を見る哉
題雨中の桜 野松
降りくらす桜の雨 雨匂ふ鐘のおと
蝶と散るもおしむまじ 鳥と笑むも仇なるを
露深く昼をうらみ 霞に立つ俤も
物言はん色と見れば 花にもあらで我が心
これらは依然として仮名の韻をふみ、支考の製した旧格を守つて居るが、とにかく発句や連句とは異つた形に於いて一種の詩情を味ははしめる。蕪村の「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が、俳諧から出た韻文の一格と見られるとすれば、結局それは支考一派のかうした仮名詩に因縁を求めねばならないものだらうか。それにしても支麦の平俗を甚しく厭つた蕪村の事である。かりに「春風馬堤曲」を仮名詩の展開の中に位置づけるとしても、彼が直接『本朝文鑑』や『和漢文操』に範を得たとは思はれない。さうかと言つて、也有や五明に学んだ点も見られないのである。
俳諧に仮名詩の一流が長く伝はつたにしても、蕪村の「春風馬堤曲」は恐らくそれとは没交渉に生れたものであらう。彼の孤高な離俗の精神は、支麦の徒が奉じた俳諧理念と相容れる事は出来なかつた。たとひ仮名詩の中に二、三の詩情豊かなものがあつたにせよ、「春風馬堤曲」はやはり蕪村がひとり住む浪漫的な抒情の世界であつた。しかしかの自由な詩の一格は、必ずしも彼の創案になるものではない。実は夙く享保・元文の交から、江戸俳人の間に仮名詩とは全く別趣な一種の韻文が行はれて居たのである。それらの作品の中で、管見に入つた最も古いものは、享保二十一年(1736)三月刊行の『茶話稿』(紫華坊竹郎撰)に載する左の一篇である。
立君の詞 楼川
よるはありたや 雨夜はいやよ
ふればふらるゝ 此ふり袖も
草の野上の 野の花すゝき
まねきよせたら まくらにかそよ
かさにかくれて ふたりで寝よに
ござれござれよ 月の出ぬまに
七七調の連続は仮名詩の所謂十四字七言の体に類するが、これは六句から成つて居て、絶句にも律にも当らない。又特に一定の韻をふんだあとも認められない。詠む所は市井卑俚の景物を捉へて、しかも賤陋猥雑に堕することなく、一脈幽婉可憐の情趣を掬せしめるものがある。軽妙の才はあるいは也有の『鶉衣拾遺』に収められた仮名詩「辻君」に一籌を輸するかもしれないが、これは小唄めいた律調を交へて、よく俳諧の境地に即して居る。この一作が支考の新製と全く関する所なくして生れたか否か、それは今日から容易に推定を下すことは出来ない。しかし少くとも楼川の俳系から考へると、彼が故らに所謂田舎蕉門の顰に倣はうとする筈もない。晩得の『古事記布倶路』にも右の楼川の作を採録して、「仮名詩のやうなれども少し風流あり」と評して、美濃派の作とは似て非なることを認めて居る。今試みにこのやうな作が生れた一の契機について説くならば、当時江戸俳人の間には、従来俳文の体に賦・説・辞・解等の煩雑な形式的分類が行はれながらも、その実体に変化がなく千変一律なのに倦いて、何等か新しい一体を得ようとする機運が動いて居たのではあるまいか。江戸俳壇に於けるさうした要求に基く動きは、前掲の『茶話稿』に収められた二、三の文章にも認められる。又かの吉原に関する一の俳文集ともいふべき『洞房語園集』(元文三年〈1738〉刊)の如きも、従来の分類と同様な序・賛・引・頌・説・記等の名目に従つては居るが、実は必ずしもそれらの名目に捉はれない自由な態度が見られるのである。この間から河東節の作者が出たりして居るのも、あるいはさうした曲詞にまで俳諧文章の進出を意味するつもりであつたかも知れない。ともあれ楼川の「立君の詞」は、支考の仮名詩に系を引くものとするよりは、新しい俳文の一体を得ようとする江戸俳人の要求に基いたと見るべきであらう。
芭蕉俳諧に於けるさびや細みは、それが軽みの理念の十分な理解を伴はない場合、あまりに形式的な枯淡閑寂を強ひる傾を生じた。事実「今の芭蕉風といへる句を察するに、古池やのばせをが句の一図(一途)と聞ゆる也」(不角『江戸菅笠』序)と評されねばならなかつた。このやうな実状の間にあつて、沾洲・淡々・不角等の俗情を脱し、しかも蕉風の形骸的枯淡を厭つて、より豊かな抒情の詩を求める人々は、こゝに何等かの新しい発想の形式を欲したであらう。江戸の俳人が一般に複雑な人事趣味を喜んだのも、蕉風以来の単調を破るべき反動である。だがその人事趣味は叙事的であるよりも常に抒情的であつた。新しい俳文の一体として抒情詩の発想を得る事は、彼等の望むところであつたらう。夙く元禄・宝永の頃に溯つて、素堂の「蓑虫説」や嵐雪の「黒茶碗銘」の如きには、すでに一種の自由な散文詩とも見るべき形式を具へて居た。支考の仮名詩がむしろ理論的に案出されたのに比して、素堂や嵐雪の散文詩は抒情のおのづからなる発露であつた。だから享保期に於ける江戸俳人の新しい詩の発想形式は、こゝにその源流を求めてもよかつたのである。今率直な立言を試みるならば、楼川の「立君の詞」は即ち素堂・嵐雪の散文詩に発するもので、蕪村の「春風馬堤曲」はまた楼川の詩心を承けるものだと言へないであらうか。少くともある文藝精神の継承展開としてそれは肯定されるであらう。それにしても楼川と蕪村との作の間に、直接的な交渉を認める為には、今少し明確な論拠を与へねばならない。それには年代の近接と格調の相似とで、両者を必然に繋ぐべきなほ幾つかの作品の存在を知ることが必要である。しかし今はまだそこに十分の資料を提供することが出来ない。これまでに知り得たのは、わづかに次の二つの作にすぎない。その一は寛保元年(1741)十二月刊行の『園圃録』(雪香斎尾谷撰)に載するものである。この書は当時の江戸俳人の発句・連句を集録した乾坤二冊、紙数百余丁の大冊であるが、その中に若干の文章をも収めてある。それらの俳文に伍して、次の如き一篇の韻文を見るのである。
胡蝶歌 尾谷
賎が小庭の菜種の花は
乳房とぞ思ふ
梅の薫りを 紅梅はおぼへたるべし
風のさそひて散行花を
追ふて行身も共に花なるや
羽もかろげなり
江南の橘の虫の化すとも伝へし
本朝にては何か化すらん
妓女が夏衣も涼しげなれば
夢の周たる歟
桔梗朝顔の花にたはれて
老やわすれぬ
尾花小萩の花にあそびて
秋もおぼへぬ
うとく見るらん 松虫は鳴に
うらぶれてなけ 蝶よ胡蝶よ
その格調の軽妙自由なのは、楼川の「立君の詞」に比して更に目を刮せしめるものがあり、詞章の優雅高逸なのに至つてはもとより遥かに挺んでて居る。今様にあらず、仮名詩にあらず、河東の曲にあらず、別に一体を出して朗々誦するに足るのである。今一つは延享二年(1745)三月、江戸の麦筵谷茂陵の撰んだ『雛之章』に載せられてある。この書は諸家の雛の句を集めて、終に撰者の独吟歌仙等を添へた小冊子であるが、その中に次の一作が見える。
袖浦の歌 依長干行韻 文喬
けふばかり汐干に見へて
袖の浦わのうらみ忘れめ
霞をくゝる山の手の駕籠
淡かとまよふ海ごしの安房
烟管くはへて磯より招き
扇子かざして沖より望む
君家住何処
妾住在横塘
長干行は楽府の題であるが、これは唐詩選などに収められた崔顥の作をさして居り、最後の漢句二句は即ち崔顥の、長干行百章の起句と承句とをそのまゝ用ゐたのである。忘・房・望・塘と押韻したのなどは、支考の所謂和詩を学んだやうでもあるが、その趣は全く異ると言つて宜い。品川あたりの汐干の景を叙し、最後に漢詩の句をそのまゝ借り来つて、桑間濮上の情趣を点じた手法は誠に面白い。蕪村の「澱河歌」と通ずる所が極めて多いことは、何人も直ちに認めるであらう。
「胡蝶歌」の作者尾谷は盤谷の門であり、盤谷は談林系の人である。もとより俳系上蕪村との交渉は全く無い。しかし『園圃録』に見るその交游の範囲は、当時の江戸俳人の知名の士に亙り、蕪村が江戸にあつた元文・寛保の頃、親しく識ることを得た人々も少くなかつたと思はれる。それらの人々の間には、尾谷の外にもかうした作の試みがなほあつたかも知れない。ともあれ蕪村は当時尾谷のこの作について、恐らく知る所があつたであらう。「袖浦の歌」の作者文喬については、遺憾ながら今全く知る所がない。『雛之章』には序文をものして居り、その序によれば同書の撰にも与つて力があつたらしい。而して『雛之章』に句を列ねた人々は、四時観の系に属するものが多いやうで、これまた俳系上蕪村と直接の関係は認められない。しかし四時観の徒は江戸の俳壇に一種の高踏的な態度を持し、所謂通を誇つてむしろ趣味に婬する傾があつたとはいへ、譬喩俳諧の末流や支麦の平俗とはおのづから選を異にして居た。『雛之章』にしてもその装幀は細長形の唐本仕立で、見るからに高雅な趣味を漂はせて居る。このやうな好みをもつ人々に対して、蕪村はもとより白眼視しては居なかつたであらう。而して文喬の「袖浦の歌」と蕪村の「北寿老仙をいたむ」とは、殆ど時を同じうして成つて居るのである。楼川から尾谷、文喬、蕪村と、彼等の手に成る一種の韻文を通覧する時、その間に一の系脈の存することを肯定し得ないであらうか。少くともそこにある共通の精神が存することは、これを認めるに何人も吝かでないであらう。彼等の諸作の単なる先蹤として、支考の仮名詩や和詩をあげることは差支ない。それは年代的に見て確かに先に現はれたものであり、また江戸の俳人たちはその存在を十分知つて居たのだから。現に紀逸の『雑話抄』(宝暦四年〈1754〉刊)には、「ちかきころ仮名の詩といふことを人々言出侍るを」とあつて、当時江戸に仮名詩が行はれたことを述べて居るのである。さうして彼自ら「たはぶれに作」と言つてあげた数編の作は、四句一章の形式が全く支考の仮名詩と同一である。しかも彼はそれだけで満足せず、和讃の体で三首の作を示し、更に次のやうな一作をものして居る。
放鳥辞
鶸々 籠中の鶸 汝久しく籠にこめられて 雲を乞るうらみやむ時なし
我又久しく病に労て 遠く遊ざる愁 日々にあり
鶸々 籠中の鶸 今汝をもて我にあて 我をして汝を思ふにしのびず
みづから起て籠を開て 汝をはなさん
鶸々 籠中の鶸、五柳先生の古郷をしたへるおもひ 慈鎮和尚の籠上にそゝげるなみだ 律のいましめにかなひて みづから起て籠を開て 汝を放さん
鶸々 籠中の鶸 今幸にして籠の中をのがれ 野外に遊ぶとも
飢を貪てますら雄の網に入る事なかれ 遠く翔て箸鷹の爪にかゝる事なかれ
鶸々 籠中の鶸 長く千歳の松にあそびて 共に千歳のことぶきを囀るべし
鶸々 籠中の鶸
これは正しく遠く素堂の「蓑虫説」に踵を接し、それより更に自在を得た体と言ふべきであらう。紀逸はそれを特に韻文の体とことわつては居ないが、仮名詩や和讃の作につゞけて掲げたのは、やはり普通の俳文とはちがつた作として試みたものだからであると思ふ。即ちこゝにはまた支考の仮名詩の外に、このやうな抒情の発想を求めずに居れない精神があつたのである。それは楼川の「立君の詞」からつゞいた同じ抒情の詩の流であつたらう。
天明の俳諧が元禄の俳諧に比して特殊とされる性格は、言ふまでもなくそれが近世の新しい浪漫精神に立つ所に求められねばならぬ。その精神はまた芭蕉俳諧に於ける抒情性の新たな発想への要求として動いた。さうした際にあの楼川や尾谷によつて試みられた自由な詩の形が、蕪村の心に大きな魅力となり、また自らさうした詩形の上に彼の新しい抒情を託さうとする誘惑を感じなかつたであらうか。享保以後明和・安永に至るまで、この種の自由詩は少い数ではあるにせよ、これを作り試みる者はなほ絶えなかつたのである。蕪村がそれに倣つて「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」の作をなしたと考へる事は、もはや誤のない推測であらう。それは彼の浪漫精神の現れとして注意されるのみならず、天明俳諧の性格をまた最もよく示す事実でもあつた。蕪村ばかりが作つたのではない。暁台にもまた几董の死を悼んだ次の如き一曲の作がある。
蒿里歌
夜半の鐘の おと絶て めにみるよりも 霜の声 きく耳にこそ しみはすれ
友ちどり 呼子鳥 都鳥 はかなし はかなしや みやこ鳥
きのふ墨水に杖を曳て
柳条に月をかなしび
けふは杖を黄泉に曳て
弘誓の棹哥に遊ぶかし
夜半の鐘の おと絶て むなしき松を まつのかぜ
聖護院の杜の空巣には
妻鳥こそまどふらめ
難波江の芦の浮巣には
友鳥こそわぶらめ
わぶらめやいたいたし 伊丹のいめぢいたいたし
さらでだもしぐれの雨は降ものを
心に雲の行かひて晴ぬは誠なるかも
友ちどり 呼子どり あゝ都鳥はかなしや 都鳥はかなしや
これまた全く自由な形態と発想とをもつた一篇の抒情詩である。又(松村)月渓が池田に滞在中、同地の名物である池田炭・池田酒・猪名川鮎・呉服祭に因んで作つたといふ「池田催馬楽」の如きも、
魚
猪名の笹原を 秋風の驚かして 猪名川の鮎は あはれ 落ち尽したり 酒袋の渋や流れけむ あはれ 渋や流れけむ
炭
雄櫟はつれなしや 兜巾頭のかたくなや 雌櫟はふすぼりて あはれ 何をもゆる思ひや
酒
新搾りの にほひよしや 待つらむ君は 君は 花に紅葉に もみぢばを 逃げつゝ行かむ 東路に 菰かぶりて行かむ
祭
呉服の御祭の 小酒たふべて 舞ひ狂ふや すぢりもぢりて かざしの袖を あや綾服絹 紅の呉服絹
といふので、催馬楽の調に摸したとはいふものの、実はやはり天明俳人の求めた抒情の新しい詩形であつた。
明治の新体詩はその発生に於いて全く西洋詩の移植であつたのみならず、その展開もまた西洋詩に影響されることが最も多かつた。初めて新体詩といふ名称の下に公にされたかの『新体詩抄』の序には、
コノ書ニ載スル所ハ詩ニアラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノポヱトリート云フ語、即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ。古ヨリイハユル詩ニアラザルナリ。
と、明かに泰西の詩に当るべき新体の創始たる事を語つて居る。もとよりその表現が日本語による以上、国語特有の性質特に韻律的性質を無視することは出来なかつた。だからそのリズムは日本古来の歌謡に普遍な七五、又は五七調がそのまゝ用ゐられたのである。しかもまた、
コノ書中ノ詩歌皆句と節トヲ分チテ書キタルハ、西洋ノ詩集ノ例ニ倣ヘルナリ。
とあるので、当時いかに出来るかぎりの西洋詩模倣に努めたかは知られるであらう。このやうにして生れた新体詩である。それが明治から大正を経て今日に至るまで、わが国の詩歌の中で最も西洋的な発想法をとつて来たことは当然とも言へる。けれども当初西洋詩のそのまゝの移植であつたにせよ、そして西洋風の培養を多く受けたにせよ、すでに日本の土に根を下したものである。それが日本的な成長を見るべきは、これまた更に当然なことと言はねばならぬ。明治以来のすぐれた詩人たちの詩が、意識的にも無意識的にも日本の詩としての完成へ向つて進んで来たことは、極めて明かな事実である。さうして日本の詩が真に日本の詩であるべき自覚は、今に於いて最も、高度に要求されて居る。所謂新体詩は、西洋詩の模倣として発生したにちがひないが、今日から回顧すればそれは単に自由清新な詩形を求める動きにすぎなかつた。日本の詩と詩精神はすでに新体詩以前、遥かに古い世から存して居たのである。しかも明治の詩人たちが求めた自由清新な詩形すら、実は決して新体詩以前に存しないのではなかつた。「春風馬堤曲」の源流を探る間に、その事実は文献的に明かにされた。「日本の詩は日本の詩である」といふ厳かな自覚の下に、天明俳人の賦した一篇の詩は、いかなる意味で省みられねばならないであらうか。今日の詩人の魂を揺り動かすものが、そこには必ず見出されるにちがひないのである。