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押絵と旅する男

 この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったなら、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに違いない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰いちがった別の世界をチラリとのぞかせてくれるように、また、狂人が、われわれのまったく感じえぬものごとを見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野のそとにある別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったかもしれない。

 いつともしれぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。それは、わざわざ魚津へ蜃気楼を見に出掛けた帰り途であった。私がこの話をすると、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友だちに突っ込まれることがある。そういわれてみると、私はいつの幾日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことができぬ。それではやっぱり夢であったのか。だが私はかつて、あのように濃厚な色彩を持った夢を見たことがない。夢の中の景色は、白黒の映画と同じに、まったく色彩をともなわぬものであるのに、あの折の汽車の中の景色だけは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂(えんじ)の勝った色彩で、まるで蛇の眼のように、生々しく私の記憶に焼きついている。着色映画の夢というものがあるのであろうか。

 私はその時、生れてはじめて蜃気楼というものを見た。蛤の息の中に美しい竜宮城の浮かんでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本ものの蜃気楼を見て、膏汗のにじむような、恐怖に近い驚きにうたれた。

 魚津の浜の松並木に、豆粒のような人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界いっぱいの大空と海面とをながめていた。私はあんな静かな、唖のようにだまっている海を見たことがない。日本海は荒海と思いこんでいた私には、それもひどく意外であった。その海は、灰色で、まったく小波ひとつなく、無限の彼方にまでうちつづく沼かと思われた。そして、太平洋の海のように、水平線はなくて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬ靄におおいつくされた感じであった。空だとばかり思っていた上部靄の中を、案外にもそこが海面であって、フワフワと幽霊のような大きな白帆がすべって行ったりした。

 蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空にうつし出したようなものであった。

 はるかな能登半島の森林が、喰いちがった大気の変形レンズを通して、すぐ眼の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、暖昧に、しかもばかばかしく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさってくるのであった。それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリわかっているのに反し、蜃気楼は不思議にも、それと見る者との距離が非常に瞬昧なのだ。遠くの海上にただよう大入道のようでもあり、ともすれば、眼前一尺にせまる異形の靄かと見え、はては、見る者の角膜の表面にポッツリと浮かんだ、一点の曇りのようにさえ感じられた。この距離の曖昧さが、蜃気楼に想像以上の無気味な気違いめいた感じを与えるのだ。

 暖味な形の、まっ黒な巨大な三角形が、塔のように積み重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車のように走ったり、それがいくつかにくずれ、立ち並ぶアラビヤ杉の梢と見えたり、じっと動かぬようでいながら、いつとはなく、まったく違った形に化けて行った。

 蜃気楼の魔力が、人間を気ちがいにするものであったなら、おそらく私は、少なくとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることができなかったであろう。二時間の余も立ちつくして、大空の妖異をながめていた私は、その夕がた魚津をたって、汽車の中に一夜を過ごすまで、まったく日常と異った気持でいたことは確かである。もしかしたら、それは通り魔のように、人間の心をかすめおかすところの、一時的狂気のたぐいでもあったのであろうか。

 魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、夕がたの六時頃であった。不思議な偶然であろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車(注、当時は三等まであった)は、教会堂のようにガランとしていて、私のほかにたった一人の先客が、向こうの隅のクッションにうずくまっているばかりであった。

 汽車は淋しい海岸の、けわしい崖や砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、はてしもなく走っている。沼のような海上の靄の奥深く、黒血の色の夕焼が、ボンヤリと漂っていた。異様に大きく見える白帆が、その中を、夢のようにすべっていた。少しも風のない、むしむしする日であったから、ところどころひらかれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、幽霊のように尻切れとんぼであった。たくさんの短かいトンネルと雪除けの柱の列が、広漠たる灰色の空と海とを、縞目に区切って通り過ぎた。

 親不知の断崖を通過するころ、車内の電灯と空の明かるさとが同じに感じられたほど、夕闇がせまってきた。ちょうどその時分、向こうの隅のたった一人の同乗者が、突然立ち上がって、クッションの上に大きな黒繻子の風呂敷をひろげ、窓に立てかけてあった、二尺に三尺ほどの扁平な荷物を、その中へ包みはじめた。それが私になんとやら奇妙な感じを与えたのである。

 その扁平なものは多分絵の(がく)に違いないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。いちど風呂敷に包んであったものをわざわざ取り出して、そんなふうにそとに向けて立てかけたものとしか考えられなかった。それに、彼が再び包む時にチラと見たところによると、額の表面にえがかれた極彩色の絵が、妙になまなましく、なんとなく世の常ならず見えたことであった。私はあらためて、この変てこな荷物の持ち主を観察した。そして、持ち主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。

 彼は非常に古風な、われわれの父親の若い時分の色あせた写真でしか見ることのできないような、襟の狭い、肩のすぼけた、黒の背広服を着ていたが、しかしそれが、背が高くて足の長い彼に、妙にシックリ似合って、はなはだ意気にさえ見えたのである。顔は細面で、両眼が少しギラギラしすぎていたほかは、一体によく整っていて、スマートな感じであった。そして、きれいに分けた頭髪が、豊かに黒々と光っているので、一見四十前後であったが、よく注意してみると、顔じゅうにおびただしい皺があって、ひと飛びに六十ぐらいにも見えぬことはなかった。その黒々とした頭髪と、色白の顔面を縦横にきざんだ皺との対照が、はじめてそれに気づいた時、私をハッとさせたほども、非常に無気味な感じを与えた。

 彼は丁寧に荷物を包み終ると、ひょいと私の方に顔を向けたが、ちょうど私の方でも熱心に相手の動作をながめていた時であったから、二人の視線がガッチリとぶっつかってしまった。すると、彼は何か恥かしそうに唇の隅を曲げて、かすかに笑ってみせるのであった。私も思わず首を動かして挨拶を返した。

 それから、小駅を二、三通過するあいだ、私たちはお互の隅にすわったまま、遠くから、時々視線をまじえては、気まずくそっぽを向くことを繰り返していた。そとはすっかり暗やみになっていた。窓ガラスに顔を押しつけてのぞいて見ても、時たま沖の漁船の舷灯が遠くポッツリと浮かんでいるほかには、まったくなんの光もなかった。はてしのない暗やみの中に、私たちの細長い車室だけが、たったひとつの世界のように、いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いて行った。ほの暗い車室の中に、私たち二人だけを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方もなく消えうせてしまった感じであった。私たちの二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。そういうことも今になって考えてみると、はなはだ奇怪に感じられるのである。

 私は、四十才にも六十才にも見える、西洋の魔術師のような風采のその男が、だんだんこわくなってきた。こわさというものは、ほかにまぎれる事柄のない場合には、無限に大きく、からだじゅういっぱいにひろがって行くものである。私はついには、産毛(うぶげ)の先までもこわさにみちて、たまらなくなって、突然立ち上がると、向こうの隅のその男の方ヘツカツカと歩いて行った。その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった。

 私は彼と向き合ったクッションヘ、そっと腰をおろし、近寄ればいっそう異様に見える彼の皺だらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもあるような一種不可思議な顛倒した気持で、眼を細め息を殺して、じっと覗きこんだものである。

 男は、私が自分の席を立った時から、ずっと眼で私を迎えるようにしていたが、そうして私が彼の顔をのぞきこむと、待ち受けていたように、顎でかたわらの例の扁平な荷物を指し示し、なんの前おきもなく、さもそれが当然の挨拶ででもあるように、

「これでございますか」

 といった。その口調が、あまりあたりまえであったので、私はかえってギョッとしたほどであった。

「これがごらんになりたいのでございましょう」

 私がだまっているので、彼はもう一度同じことを繰り返した。

「見せてくださいますか」

 私は相手の調子に引き込まれて、つい変なことをいってしまった。私は決してその荷物を見たいために席を立ったわけではなかったのだけれど。

「喜んでお見せいたしますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございます。あなたはきっとこれを見にお出でなさるだろうとね」

 男は——むしろ老人といった方がふさわしいのだが——そう言いながら、長い指で、器用に大風呂敷をほどいて、その(がく)みたいなものを、今度は表を向けて、窓のところへ立てかけたのである。

 私は一と眼チラッとその表面を見ると、思わず眼をとじた。なぜであったか、その理由は今でもわからないのだが、なんとなくそうしなければならぬ感じがして、数秒のあいだ眼をふさいでいた。再び眼をひらいた時、私の前に、かつて見たことのないような、奇妙なものがあった。といって、私はその「奇妙」な点をハッキリと説明する言葉を持たぬのだが。

 (がく)には、歌舞伎芝居の御殿の背景みたいに、いくつもの部屋を打ち抜いて、極度の遠近法で、青畳と格天井がはるか向こうの方までつづいているような光景が、藍を主とした泥絵具で毒々しく塗りつけてあった。左手の前方には、墨黒々と不細工な書院風の窓が描かれ、おなじ色の文机が、その前に角度を無視した描き方で据えてあった。それらの背景は、あの絵馬札の絵の独特な画風に似ていたといえば、いちばんよくわかるであろうか。

 その背景の中に、一尺ぐらいの背丈の二人の人物が浮き出していた。浮き出していたというのは、その人物だけが、押絵細工でできていたからである。黒ビロードの古風な洋服を着た白髪の老人が、窮屈そうにすわっていると(不思議なことには、その容貌が髪の白いのをのぞくと、額の持ち主の老人にそのままなばかりか、着ている洋服の仕立方までそっくりであった)、緋鹿の子の振袖に黒繻子の帯のうつりのよい、十七、八の水のたれるような結い綿の美少女が、なんともいえぬ矯羞を含んで、その老人の洋服の膝にしなだれかかっている、いわば芝居の濡れ場に類する画面であった。

 洋服の老人と色娘の対照が、はなはだ異様であったことはいうまでもないが、だが、私が「奇妙」に感じたというのはそのことではない。

 背景の粗雑に引きかえて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりであった。顔の部分は、白絹に凹凸を作って、こまかい皺までひとつひとつ現わしてあったし、娘の髪は、ほんとうの毛髪を一本々々値えつけて、人間の髪を結うように結ってあり、老人の頭は、これも多分本ものの白髪を、丹念に植えたものに違いなかった。洋服には正しい縫い目があり、適当な場所に粟粒ほどのボタンまでつけてあるし、娘の乳のふくらみといい、腿のあたりのなまめいた曲線といい、こぼれた緋縮緬、チラと見える肌の色。指には貝殻のような爪が生えていた。虫目がねでのぞいてみたら、毛穴や産毛まで、ちゃんとこしらえてあるのではないかと思われたほどである。

 私は押絵といえば、羽子板の役者の似顔細工しか見たことがなかったが、そして、羽子板の細工にはずいぶん精巧なものもあるのだけれど、この押絵は、そんなものとはまるで比較にならぬほど、巧緻をきわめていたのである。おそらくその道の名人の手になったものであろうが。だが、それが私のいわゆる「奇妙」な点ではなかった。

 (がく)全体がよほど古いものらしく、背景の泥絵具はところどころはげ落ちていたし、娘の緋鹿の子も老人のビロードも、見る影もなく色あせていたけれど、はげ落ち色あせたなりに、名状し難き毒々しさを保ち、ギラギラと、見る者の眼底に焼きつくような生気を持っていたことも、不思議といえば不思議であった。だが、私の「奇妙」という意味はそれでもない。

 それは、強いていうならば、押絵の人物が二つとも生きていたことである。

 文楽の人形芝居で、一日の演技のうちに、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹をかけられでもしたように、ほんとうに生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げ出す隙を与えず、とっさのあいだに、そのまま板にはりつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。

 私の表情に驚きの色を見てとったからか、老人はいともたのもしげな口調で、ほとんど叫ぶように、

「ああ、あなたはわかってくださるかもしれません」

 と言いながら、肩から下げていた、黒革のケースを、丁寧に鍵でひらいて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出して、それを私の方へ差し出すのであった。

「これを、この遠目がねで一度ごらんくださいませ。いえ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。さよう、ちょうどその辺がようございます」

 まことに異様な頼みではあったけれど、私は限りなき好奇心のとりこになって、老人のいうがままに席を立って、(がく)から五、六歩遠ざかった。老人は私の見やすいように、両手で額を持って、電灯にかざしてくれた。今から思うと、実に変てこな気違いめいた光景であったに違いないのである。

 遠目がねというのは、おそらく三、四十年も以前の舶来品であろうか、私たちが子供の時分よく目がね屋の看板で見かけたような、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手ずれのために、黒い覆い皮がはげて、ところどころ真鍮の生地が現われているという、持ち主の洋服と同様に、いかにも古風な、ものなつかしい代物であった。

 私は珍らしさに、しばらくその双眼鏡をひねくり廻していたが、やがて、それを覗くために、両手で眼の前に持って行った時である。突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫び声をたてたので、私は危うく目がねを取り落とすところであった。

「いけません。いけません。それはさかさですよ。さかさでのぞいてはいけません、いけません」

 老人は、まっさおになって、眼をまんまるに見ひらいて、しきりに手を振っていた。双眼鏡を逆にのぞくことが、なぜそれほど大へんなのか。私は老人の異様な挙動を理解することができなかった。

「なるほど、さかさでしたっけ」

 私は双眼鏡をのぞくことに気をとられていたので、この老人の不思議な表情を、さして気にもとめず、目がねを正しい方向に持ちなおすと、急いでそれを眼にあてて、押絵の人物をのぞいたのである。

 焦点が合って行くに従って、二つの円形の視野が、徐々にひとつに重なり、ボンヤリとした虹のようなものが、だんだんハッキリしてくると、びっくりするほど大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもあるように、私の眼界一杯にひろがった。

 あんなふうなものの現われ方を、私は後にも先にも見たことがないので、読む人にわからせるのが難儀なのだが、それに近い感じを思い出してみると、たとえば舟の上から海にもぐった海女(あま)の、或る瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきであろうか、海女の裸身が、底の方にある時は、青い水の層の複雑な動揺のために、そのからだがまるで海草のように、不自然にクネクネと曲がり、輪郭もぼやけて、白っぽいお化けみたいに見えているが、それが、スーッと浮き上がってくるにしたがって、水の層の青さがだんだん薄くなり、形がハッキリしてきて、ポッカリと水上に姿を現わすその瞬間、ハッと眼が覚めたように、水中の白いお化けが、たちまち人間の正体を暴露するのである。ちょうどそれと同じ感じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で私の前に姿を現わし、実物大の一人の生きた娘としてうごきはじめたのである。

 十九世紀の古風なプリズム双眼鏡の玉の向こう側には、まったく私たちの思いも及ばぬ別世界があって、そこに結い綿の色娘と、古風な洋服のしらが男とが、奇怪な生活をいとなんでいる。のぞいては悪いものを、私は今、魔法使いにのぞかされているのだといったような、形容のできない変てこな気持で、しかし、私は憑かれたようにその不可思議な世界に見入ってしまった。

 娘は動いていたわけではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動をさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと若い女の生気が蒸発しているように思われた。

 私はひとわたり女の全身を、双眼鏡の先で舐め廻してから、その娘がしなだれかかっている仕合わせなしらが男の方へ目がねを転じた。

 老人も、双眼鏡の世界で生きていたことは同じであったが、見たところ四十も違う若い女の肩に手を廻して、さも幸福そうな形でありながら、妙なことには、レンズいっぱいの大きさに写った彼の皺の多い顔が、その何百本の皺の底で、いぶかしく苦悶の相を現わしていたのである。それは、老人の顔がレンズのために眼前一尺の近さに、異様に大きくせまっていたからでもあったろうが、見つめていればいるほど、ゾッとこわくなるような、悲痛と恐怖とのまじり合った一種異様の表情であった。

 それを見ると、私はうなされたような気分になって、双眼鏡をのぞいていることが、耐え難く感じられたので、思わず眼を離して、キョロキョロとあたりを見廻した。すると、それはやっぱり淋しい夜の汽車の中で、押絵の額も、それをささげた老人の姿も元のままで、窓のそとはまっ暗だし、単調な車輪の響きも、変りなく聞こえていた。悪夢からさめた気持であった。

「あなた様は、不思議そうな顔をしておいでなさいますね」

 老人は、(がく)を元の窓のところへ立てかけて、席につくと、私にもその向こう側へ坐るように、手まねをしながら、私の顔を見つめてそんなことをいった。

「私の頭が、どうかしているようです。いやに蒸しますね」

 私はてれ隠しみたいな挨拶をした。すると老人は、猫背になって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を、合図でもするようにヘラヘラと動かしながら、低い低いささやき声になって、

「あれらは、生きておりましたろう」

 といった。そして、さも一大事を打ち明けるという調子で、いっそう猫背になって、ギラギラした眼をまん丸に見ひらいて、私の顔を穴のあくほど見つめながら、こんなことをささやくのであった。

「あなたは、あれらの、ほんとうの身の上話を聞きたいとはおぼしめしませんかね」

 私は汽車の動揺と、車輪の響きのために、老人の低い、つぶやくような声を、聞き違えたのではないかと思った。

「身の上話とおっしゃいましたか」

「身の上話でございますよ」老人はやっぱり低い声で答えた。「ことに、一方の、しらがの老人の身の上話をで、ございますよ」

「若い時分からのですか」

 私も、その晩は、なぜか妙に調子はずれなものの言い方をした。

「はい、あれが二十五才の時のお話でございますよ」

「ぜひ伺いたいものですね」

 私は、普通の生きた人間の身の上話をでも催促するように、ごくなんでもないことのように、老人をうながしたのである。すると、老人は顔の皺を、さもうれしそうにゆがめて、「ああ、あなたは、やつぱり聞いてくださいますね」と言いながら、さて、次のような世にも不思議な物語をはじめたのであった。

「それはもう、生涯の大事件ですから、よく記憶しておりますが、明治二十八年四月の、兄があんなに(といつて押絵の老人をゆびさし)なりましたのが、二十七日の夕方のことでございました。当時、私も兄も、まだ部屋住みで、住居は日本橋通三丁目でして、おやじは呉服商を営んでおりましたがね。なんでも浅草の十二階ができて間もなくのことでございましたよ。だもんですから、兄なんぞは、毎日のようにあの凌雲閣へ登って喜んでいたものです。と申しますのが、兄は妙に異国物(いこくもの)が好きな新しがり屋でござんしたからね。この遠目がねにしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持ちものだったというやつを、横浜のシナ人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけてきましてね。当時にしちゃあ、ずいぶん高いお金を払ったと申しておりましたっけ」

 老人は「兄が」というたびに、まるでそこにその人がすわってでもいるように、押絵の老人の方に眼をやったり、ゆびさしたりした。老人は彼の記憶にあるほんとうの兄と、その押絵の白髪の老人とを混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいるような、すぐそばに第三者を意識したような話し方をした。だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。私たちはその瞬間、自然の法則を超越して、われわれの世界とどこかでくいちがっているところの、別の世界に住でいたらしいのである。

「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは、一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ。表面はイタリーの技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えてごらんなさい。その頃の浅草公園といえば、名物がまず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水のコマ廻しに、のぞきからくりなどで、せいぜい変ったところが、お富士さまの作りものに、メーズといって、八陣隠れ杉の見世物ぐらいでございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあとんでもない高い煉瓦造りの塔ができちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。

 今も申す通り明治二十八年の春、兄がこの遠目がねを手にいれて間もないころでした。兄の身に妙なことが起こって参りました。おやじなんぞ、兄の気でも違うのじゃないかって、ひどく心配しておりましたが、私もね、お察しでしょうが、ばかに兄思いでしてね、兄の変てこれんなそぶりが、心配でたまらなかったものです。どんなふうかと申しますと、兄はご飯もろくろくたべないで、家内の者とも口をきかず、家にいる時はひと間にとじこもって考えごとばかりしている。からだは痩せてしまい、顔は肺病やみのように土気色で、眼ばかりギョロギョロさせている。もっとも、ふだんから顔色のいい方じゃあござんせんでしたがね、それが一倍青ざめて、沈んでいるのですから、ほんとうに気の毒なようでした。その癖ね、そんなでいて、毎日欠かさず、まるで勤めにでも出るように、おひるっから日暮れ時分まで、フラフラとどっかへ出かけるんです。どこへ行くのかって聞いてみても、ちっとも言いません。母親が心配して、兄のふさいでいるわけを、手をかえ品をかえて尋ねても、少しも打ち明けません。そんなことが一と月ほどもつづいたのですよ。

 あんまり心配だものだから、私はある日、兄はいったいどこへ出かけるのかと、ソッとあとをつけました。そうするように母親が私に頼むもんですからね。その日も、ちょうどきょうのようにどんよりした、いやな日でござんしたが、おひるすぎから、兄はそのころ自分の工夫で仕立てさせた、当時としてはとびきりハィカラな、黒ビロードの洋服を着ましてね、この遠目がねを肩から下げ、ヒョロヒョロと日本橋通りの馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。私は兄に気どられぬように、そのあとをつけて行ったわけですよ。よござんすか。しますとね、兄は上野行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ヒョイとそれに乗り込んでしまったのです。当今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるというわけにはいきません。何しろ車台が少のうござんすからね。私は仕方がないので、母親にもらったお小遣をふんぱつして、人力車に乗りました。人力車だって、少し威勢いい挽き子なれば、馬車鉄道を見失なわないようにあとをつけるなんぞ、わけなかったものでございますよ。

 兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、またテクテクと跡をつける。そうして、行きついたところが、なんと浅草の観音様じゃございませんか。兄は仁王門からお堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋のあいだを、人波をかき分けるようにして、さっき申し上げた十二階の前まできますと、石の門をはいって、お金を払って『凌雲閣』という額のあがった入口から、塔の中へ姿を消してしまいました。まさか兄がこんなところへ、毎日々々通っていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれはてて、子供心にね、私はその時まだはたちにもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入られたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。

 私は十二階へは、父親につれられて、一度登ったきりで、その後行ったことがありませんので、なんだか気味がわるいように思いましたが、兄が登って行くものですから、仕方がないので、私も一階ぐらいおくれて、あの薄暗い石の段々を登って行きました。窓も大きくござんせんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵のように冷え冷えといたしましてね。それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった戦争の油絵が、一方の壁にずらっとかけ並べてあります。まるで狼みたいにおっそろしい顔をして、吠えながら突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられて、ふき出す血のりを両手で押えて、顔や唇を紫色にしてもがいているシナ兵や、ちょんぎられた弁髪の頭が風船玉のように空高く飛び上がっているところや、なんとも言えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線でテラテラと光っているのでございますよ。そのあいだを、陰気な石の段々が、カタツムリの殻みたいに、上へ上へと際限もなくつづいておるのでございます。

 頂上は八角形の欄干だけで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、にわかにパッと明かるくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低いところにあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいにゴチャゴチャしていて、品川のお台場が、盆石のように見えております。眼まいがしそうなのを我慢して、下をのぞきますと、観音様のお堂だって、ずっと低いところにありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃのようで、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

 頂上には、十人あまりの見物がひとかたまりになって、おっかなそうな顔をして、ボソボソ小声でささやきながら、品川の海の方をながめておりましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠目がねを眼にあてて、しきりと観音様の境内を眺め廻しておりました。それをうしろから見ますと、白っぽくどんよりとした雲ばかりの中に、兄のビロードの洋服姿が、クッキリと浮き上がって、下の方のゴチャゴチャしたものが何も見えぬものですから、兄だということはわかっていましても、なんだか西洋の油絵の中の人物みたいな気持がして、神々しいようで、言葉をかけるのもはばかられたほどでございましたっけ。

 でも、母のいいつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄のうしろに近づいて『兄さん何を見ていらっしゃいます』と声をかけたのでございます。兄はビクッとして振り向きましたが、気まずい顔をして何も言いません。私は『兄さんのこの頃のご様子には、お父さんもお母さんも大へん心配していらっしゃいます。毎日毎日どこへお出掛けなさるのかと不思議に思っておりましたら、兄さんはこんなところへきていらしったのでございますね。どうかそのわけをいってくださいまし。日頃仲よしの私にだけでも打ち明けてくださいまし』と近くに人のいないのを幸いに、その塔の上で、兄をかきくどいたものですよ。

 なかなか打ち明けませんでしたが、私が繰り返し繰り返し頼むものですから、兄も根負けをしたとみえまして、とうとう一ヵ月来の胸の秘密を私に話してくれました。ところが、その兄の煩悶(はんもん)の原因と申すものが、これがまた、まことに変てこれんな事柄だったのでございます。兄が申しますには、一と月ばかり前に、十二階へ登りまして、この遠目がねで観音様の境内をながめておりました時、人ごみのあいだに、チラッと、ひとりの娘の顔を見たのだそうでございます。その娘が、それはもうなんともいえない、この世のものとは思えない美しい人で、日頃女にはいっこう冷淡であった兄も、その遠目がねの中の娘だけには、ゾッと寒気がしたほども、すっかり心を乱されてしまったと申します。

 そのとき兄は、ひと眼見ただけで、びっくりして、遠目がねをはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ見当を夢中になって探したそうですが、目がねの先が、どうしてもその娘の顔にぶっつかりません。遠目がねでは近くに見えても、実際は遠方のことですし、たくさんの人ごみの中ですから、一度見えたからといって、二度目に探し出せるときまったものではございませんからね。

 それからと申すもの、兄はこの目がねの中の美しい娘が忘れられず、ごくごく内気な人でしたから、古風な恋わずらいをわずらいはじめたのでございます。今のお人はお笑いなさるかもしれませんが、そのころの人間は、まことにおっとりしたものでして、行きずりにひと眼見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった時代でございますからね。いうまでもなく、兄はそんなご飯もろくろくたべられないような、衰えたからだを引きずって、またその娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと、悲しい空頼みから、毎日々々、勤めのように、十二階に登っては、目がねをのぞいていたわけでございます。恋というものは不思議なものでございますね。

 兄は私に打ち明けてしまうと、また熱病やみのように目がねをのぞきはじめましたっけが、私は兄の気持にすっかり同情いたしましてね、千にひとつも望みのないむだな探しものですけれど、およしなさいと止めだてする気も起こらず、あまりのことに涙ぐんで、兄のうしろ姿をじっと眺めていたものですよ。するとその時……ああ、私は、あの妖しくも美しかった光景を、いまだに忘れることができません。三十五、六年も昔のことですけれど、こうして眼をふさぎますと、その夢のような色どりが、まざまざと浮かんでくるほどでございます。

 さっきも申しました通り、兄のうしろに立っていますと、見えるものは空ばかりで、モヤモヤした、むら雲のなかに、兄のほっそりとした洋服姿が絵のように浮き上がって、むら雲の方で動いているのを、兄のからだが宙に漂うかと見誤まるばかりでございましたが、そこへ、突然花火でも打ち上げたように、白っぼい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。お話ししたのではわかりますまいが、ほんとうに絵のようで、また何かの前兆のようで、私はなんとも言えない妖しい気持になったものでした。なんであろうと、急いで下をのぞいてみますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相をして、ゴム風船を一度に空へ飛ばしたものとわかりましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍らしゅうござんしたから、正体がわかっても、私はまだ妙な気持がしておりましたものですよ。

 妙なもので、それがきっかけになったというわけでもありますまいが、ちょうどその時、兄が非常に興奮した様子で、青白い顔をポッと赤らめ、息をはずませて、私の方へやって参り、いきなり私の手をとって『さあ行こう。早く行かぬと間に合わぬ』と申して、グングン私を引っぱるのでございます。引っぱられて、塔の段々をかけ降りながら、わけを訊ねますと、いつかの娘さんが見つかったらしいので、青畳を敷いた広い座敷にすわっていたから、これから行っても大丈夫元のところにいると申すのでございます。

 兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと申すのですが、さて、二人でそこへ行って、探してみましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には、家らしい家もなく、まるで狐につままれたあんばいなのですよ。兄の気の迷いだと思いましたが、しおれ返っている様子が、あんまり気の毒なものですから、気休めに、その辺の掛茶屋などを尋ね廻ってみましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。

 探しているあいだに、兄と別かれ別かれになってしまいましたが、掛茶屋を一巡して、しばらくたって元の松の木の下へ戻って参りますとね、そこにはいろいろな露店が並んで、一軒の覗きからくり屋が、ピシャンピシャンと鞭の音を立てて、商売をしておりましたが、見ますと、その覗きの目がねを、兄が中腰になって、一所懸命のぞいていたじゃございませんか。兄さん何をしていらっしゃる、といって肩をたたきますと、ビックリして振り向きましたが、その時の兄の顔を、私はいまだに忘れることができませんよ。なんと申せばよろしいか、夢を見ているようなとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠いところを見ている眼つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞こえたのでございます。そして、『お前、私たちが探していた娘さんはこの中にいるよ』と申すのです。

 そういわれたものですから、私も急いでおあしを払って、覗きの目がねをのぞいてみますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。ちょうど吉祥寺の書院で、お七が吉三にしなだれかかっている絵が出ておりました。忘れもしません、からくり屋の夫婦者はしわがれ声を合わせて、鞭で拍子を取りながら『膝でつっつらついて、眼で知らせ』と申す文句を歌っているところでした。ああ、あの『膝でつっつらついて、眼で知らせ』という変な節廻しが、耳についているようでございます。

 のぞき絵の人物は押絵になっておりましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。お七の顔の生き生きとしてきれいであったこと。私の眼にさえほんとうに生きているように見えたのですから、兄があんなことを申したのもまったく無理はありません。兄が申しますには『たとえこの娘さんがこしらえものの押絵だとわかっていても、私はどうもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三のように、押絵の中の男になって、この娘さんと話がしてみたい』と、ぼんやりとそこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。考えてみますと、その覗きからくりの絵は、光線をとるために上の方があけてあるので、それがななめに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。

 その時分には、もう日が暮れかけて、人足(ひとあし)もまばらになり、覗きの前にも、二、三人のおかっぱの子供が、未練らしく立ち去りかねてウロウロしているばかりでした。昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮れには、今にも一と雨きそうに雲が下がってきて、一そう抑えつけられるような、気でも狂うのじゃないかと思うような、いやな天候になっておりました。そして、耳の底にドロドロと太鼓の鳴っているような音が聞こえてくるのですよ。その中で、兄はじっと遠くの方を見据えて、いつまでも立ちつくしておりました。そのあいだが、たっぷり一時間はあったように思われます。

 

 もうすっかり暮れきって、遠くの玉乗りの花ガスがチロチロと美しく輝き出した時分に兄は、ハッと眼がさめたように、突然私の腕をつかんで『ああ、いいこと思いついた、お前、お頼みだから、この遠目がねをさかさにして、大きなガラス玉の方を眼にあてて、そこから私を見ておくれでないか』と、変なことを言い出しました。なぜですって尋ねても、『まあいいから、そうしておくれな』と申して聞かないのでございます。私はいったい目がね類をあまり好みません。遠目がねにしろ、顕微鏡にしろ、遠いところのものが眼の前にとびついてきたり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化けじみた作用が薄気味わるいのですよ。で、兄の秘蔵の遠目がねも、あまりのぞいたことがなく、のぞいたことが少ないだけに、余計それが魔性の器械に思われたものです。しかも、日が暮れて人顔もさだかに見えぬ、うすら淋しい観音堂の裏で、遠目がねをさかさまにして兄をのぞくなんて、気ちがいじみてもいますれば、薄気味わるくもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく、言われた通りにしてのぞいたのですよ。さかさにのぞくのですから、二、三間むこうに立っている兄の姿が、二尺くらいに小さくなって、小さいだけに、ハッキリと薄闇の中に浮き出して見えるのです。ほかの景色は何もうつらないで、小さくなった兄の洋服姿だけが、目がねのまん中にチンと立っているのです。それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう、みるみる小さくなって、一尺くらいの人形みたいなかわいらしい姿になってしまいました。そして、その姿が、スーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。

 私はこわくなって(こんなことを申すと、年甲斐もないとおぼしめしましょうが、その時は、ほんとうにゾッと、こわさが身にしみたものですよ)、いきなり目がねを離して、『兄さん』と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。どうしたわけか、探しても探しても兄の姿が見えません。時間から申しても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを尋ねてもわかりません。なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきりこの世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私はいっそう遠目がねという魔性の器械を恐れるようになりました。ことに、このどこの国の船長ともわからぬ、異人の持ちものであった遠目がねが、特別にいやでして、ほかの目がねは知らず、この目がねだけは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ、さかさにのぞけば凶事が起こると、固く信じているのでございます。あなたがさっき、これをさかさにお持ちなすった時、私があわててお止め申したわけがおわかりでございましょう。

 ところが、長いあいだ探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。私はハタとあることに気がついたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれたあまり、魔性の遠目がねの力を借りて、自分のからだを押絵の娘と同じくらいの大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せてもらいましたが、なんとあなた、(あん)(じよう)兄は押絵になって、カンテラの光の中で、吉三のかわりに、うれしそうな顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。

 でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望を達した兄の仕合わせが、涙の出るほどうれしかったものですよ。私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に売ってくれと、覗き屋に固い約束をして(妙なことに、小姓吉三のかわりに洋服姿の兄がすわっているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)、家へ飛んで帰って、いちぶしじゅうを母に告げましたところ、父も母も、何をいうのだ、お前は気でも違ったのじゃないかと申して、なんといっても取り上げてくれません。おかしいじゃありませんか。ハハ、ハハハハハ」

 老人は、そこで、さも滑稽だといわぬばかりに笑い出した。そして、変なことには、私もまた老人に同感して、いっしょになってゲラゲラと笑ったのである。

「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思いこんでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、その後、兄の姿がふっつりと、この世から見えなくなってしまったではありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いなあて推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私はなんといわれても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根から鎌倉の方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗っておりますと、その時のことを思い出してなりません。やっぱり、きょうのように、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、そとの景色を見せてやったのですからね。兄はどんなに仕合わせでございましたろう。娘の方でも、兄のこれほどの真心を、どうしていやに思いましょう。二人はほんとうの新婚者のように、恥かしそうに顔を赤らめ、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、つきぬ睦言を語り合ったものでございますよ。

 その後、父は東京の商売をたたみ、富山近くの故郷に引っ込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んでおりますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京を見せてやりたいと思いましてね、こうして兄といっしょに旅をしているわけでございますよ。

 ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとはいえ、もともと人のこしらえたものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理やり姿を変えたまでで、根が寿命のある人間のことですから、私たちと同じように年をとって参ります。ごらんくださいまし、二十五歳の美少年であった兄が、もうあのようにしらがになって、顔にはみにくい皺が寄ってしまいました。兄の身にとっては、どんなに悲しいことでございましょう。相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚なく老い込んで行くのですもの。恐ろしいことです。兄は悲しげな顔をしております。数年以前から、いつもあんな苦しそうな顔をしております。

 それを思うと、私は兄が気の毒でしようがないのでございますよ」

 老人は黯然として押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気がついたように、

「ああ、とんだ長話をいたしました。しかし、あなたはわかってくださいましたでしょうね。ほかの人たちのように、私を気ちがいだとはおっしゃいませんでしょうね。ああ、それで私も話し甲斐があったと申すものですよ。どれ兄さんたちもくたびれたでしょう。それに、あなたを前において、あんな話をしましたので、さぞかし恥かしがっておいででしょう。では、今、やすませてあげますよ」

 と言いながら、押絵の(がく)を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。その刹那、私の気のせいだったのか、押絵の人形たちの顔が、少しくずれて、ちょっと恥かしそうに、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送ったように見えたのである。

 老人はそれきりだまり込んでしまった。私もだまっていた。汽車はあいも変らず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて闇の中を走っていた。

 十分ばかりそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓のそとにチラチラと、二つ三つの灯火が見え、汽車は、どことも知れぬ山間の小駅に停車した。駅員がたった一人、ポッツリとプラットフォームに立っているのが見えた。

「ではお先へ、私はひと晩ここの親戚へ泊まりますので」

 老人は額の包みをかかえてヒョイと立ち上がり、そんな挨拶を残して、車のそとへ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人のうしろ姿は(それがなんと押絵の老人そのままの姿であったことか)簡略な柵のところで、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶けこむように消えていったのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/09/02

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江戸川 乱歩

エドガワ ランポ
えどがわ らんぽ 小説家 1894~1965 三重県に生まれる。 海外の推理小説の研究や紹介につとめ、また谷崎潤一郎の推理作「途上」等に刺激されて、我が国にいわゆる「探偵小説」という推理の新ジャンルを確立。『江戸川乱歩推理文庫』は全65巻に及ぶ。筆名がエドガー・アラン・ポーに依るように、乱歩の作にはどこか耽美の憂愁がつきまとい、大正から昭和初年の時代の雰囲気をも微妙に写し取っている。

掲載作は、「新青年」1929(昭和4)年6月号初出、探偵物でも推理作でもない文学作品として、乱歩の一名作たるに恥じない代表作である。

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