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陶藝家の述懐

  一期の境ここなり

 室町時代の初期、能楽を大成した世阿弥の著書のひとつに『風姿花伝』と呼ばれるものがあります。これは、能楽の藝を習得するための練習方法などを説いた一子相伝の秘伝書で、わが国最初の演劇論としても高く評価されているものです。

 この書物は、全体が「年来稽古条々」「物学(ものまね)条々」「問答条々」など七編から成っています。

 「年来稽古条々」は、年齢別練習法ともいえるもので、七歳のころから能楽師として訓練を始め、十二・三歳、十七・八歳、二十四・五歳、三十四・五歳、四十四・五歳を経て五十有余で藝が完成するまでの年齢に応じた稽古の基本が説かれています。

 私は、高校三年生のとき、古文の授業で風姿花伝の「年来稽古条々」を習いました。そして学級担任でもあった古文の先生が、私たちの卒業アルバムに、十七・八歳頃の練習法の一部、「心中に願力を起こし、一期(いちご)の境ここなりと、生涯かけて能を捨てぬ外は稽古あるべからず」と揮毫してくれました。

 文章はこの後に「ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」と続きます。

 「心に願を立て、力を奮い起こして一生の浮沈の分かれ目は今なのだと覚悟して、生涯をこの時期にかけて、能にかじりついている以外は稽古のやりようがないのだ。ここで努力を放棄してしまっては、そのまま能の上達は止まってしまうだろう」と言うほどの意味だと思います。

 その後、私はやきものづくりを始めました。途中、何度もスランプを経験しました。他の仕事を羨ましく思ったこともありました。やきものづくりがいやでたまらず、いっそ止めてしまおうかと思ったことも幾度もありました。その都度、私の脳裏に右の「一期の境ここなりと・・・」が去来し、やきもの作りにしがみつく思いで三十年余りがすぎました。

 世阿弥の説く「まことの花」が咲くはずの五十歳台に達した今でも、私にとって「花」は程遠くにあり、「生涯かけて、捨てぬ外は稽古あるべからず」と自分に言い聞かせながら、寸暇を惜しんでやきもの作りに励んでいます。

(京都市立銅駝美術工芸高校 読書感想文集 巻頭言 1990年7月)

 文明の生態史観

 国立民族学博物館の館長梅棹忠夫さんの「文明の生態史観」は、世界を一挙に丸呑みしてしまうようなたいへん雄大な論文です。

 梅棹さんは、もともと動物学が専門で、若い頃から動物の生態を研究するため、モンゴルをはじめ世界各地の探検を何度もしておられます。

 一九五五年、京都大学が戦後初めて海外に派遣したカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の一員として参加し,各地に住む人々の生活のようすを調査したことがきっかけとなって、比較文明学の分野に足を踏み入れることになりました。

 この論文では、まずユーラシア大陸を大きな横長の楕円にみたてます。この楕円の東と西の両端に近いところで垂直線を引き、その外側を第一地域と名づけます。東側が日本で西側は西ヨーロッパの国々です。

 両端の第一地域を除いた残りを第二地域とします。第二地域の東北から西南に向けて真ん中を斜めに巨大な乾燥地帯があり、それに接して森林ステップまたはサバンナがあります。

 古代文明は、この乾燥地帯の中か、その周縁に沿うサバンナを本拠に成立すると言うのです。中国、インド、ロシア、地中海、イスラムの文明などがそれです。そしてそれぞれの地域と文明世界の盛衰を比較するのです。

 私は、十数年前にはじめてこれを読んだときの驚きを忘れることができません。

 無限に広がる地面を二本の足でトコトコと歩きまわっている梅棹さんの眼は、ちょうどズームレンズのように、あるときは接写レンズであり、またある時は望遠レンズや広角レンズに、そしてちょうど宇宙船から地球全体を眺めているようなことだってあるのです。

 人は、ともすれば目前のことばかりに気をとられ、一歩先のことにも思いが及ばないことがあります。日々おこる身のまわりのいろいろなできごとにていねいに対応し、誠実にとりくみながらも、いつも全体を視野に入れ、自分の位置を確かめ、今、なにをすべきか、どの方向に進むべきかを示唆してくれる思いがするのです。

 思い込みを捨てて見たままを純粋な眼で観察することで新しい発見ができることも教えてくれます。

 だれにでも読める平易な文章で書かれた比較的短いもので、是非一読を勧めたい一書です。

(京都市立銅駝美術工芸高校 読書感想文集 巻頭言 1991年7月)

 情報産業論

 今、世間で情報化社会、情報産業、情報公開等々「情報」がさかんに使われています。この言葉が一般に使われるきっかけをつくったのは、梅棹忠夫さんです。

 梅棹忠夫さんは、自らつくり、育てた国立民族学博物館の館長を一九九三年三月に定年で退官されました。

 この文集の第三号に、私は梅棹忠夫さんの「文明の生態史観」を紹介する小文を書きました。

 梅棹さんには、もう一つ極めて重要な論文があります。一九六三年に発表された「情報産業論」です。

 一九六〇年代は、「所得倍増」をスローガンに日本は総力を挙げて工業の発展に邁進している最中で、消費、レジャーブームが飛躍的に進展しつつある時代でした。

 梅棹さんは、この頃世界で初めて「工業社会の次に情報社会が到来する」ことを発表したのです。

 この論文では、まず「情報業」の定義から入ります。新聞、放送、出版等々のマスコミをはじめ、競馬、競輪の予想屋、産業スパイ、さらには教育や宗教、映画、芝居、見世物の類、あるいはその先駆的存在として占星術者、陰陽師や中国の春秋時代に活躍した諸子百家たちまでが含まれると言います。そして、「情報」が商品として扱える産業として成立するものであることを説明した後、その必然性を、人類の産業史を三つの段階に分けて説いています。

 第一段階は農業の時代、第二段階は工業の時代、そして第三に情報産業の時代が到来すると言うのです。

 この三つの段階を動物学の胚発生になぞらえて説明しているくだりは、とても鮮やかで、思わず引きずり込まれます。

 『農業の時代に生産されるものは、食料で、消化器官にかかわるものである。発生学的概念を適用すれば、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能の充実の時代であり、これを内胚葉産業時代と呼び、第二の工業時代に生産されるものは、生活物資とエネルギーで、人間の手足の労働の代行であり、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の充実で、この時代を中胚葉産業時代と呼ぶことにします。そして最後にくるのが、外胚葉産業時代で、それは脳神経系であり、感覚器官の機能の拡充を目的とした産業の時代である。』と説明しています。

 また、『工業の時代に成立した経済学は当然変化せざるを得ないことになるだろうし、私たちの生活水準の目安となっているエンゲル係数というものの意味も変わってしまうだろう。』と、そして『「情報の価格」は、提供者と受け取り手の社会的、経済的な格付けによって決まるお布施の原理が適用される。』と言う説明は、意表をつかれる思いがしつつも、まんまと納得させられます。

 この論文が発表された当時、世間では、必ずしも正当にこれを評価したとは言えませんが、梅棹さんの予見は見事に的中し、三〇年余りを経過した今読んでみると、確固とした文明史観に基づいた正確な先見性に舌を巻く思いがするのです。

(京都市立銅駝美術工芸高校 読書感想文集 巻頭言 1993年7月)

「日本、その日 その日」

 今年の夏、エドワード・S・モースの『日本、その日 その日』を読みました。百年前の美しい日本にタイムスリップした思いのする愉快な本でした。

 モースといえば、明治10年に始めて日本を訪れ、横浜から新橋へ向かう列車の窓から大森貝塚を見つけ、後日ここを発掘し出土した土器に「縄文土器」と命名したことでよく知られています。私は最近までモースについて、これだけのことしか知りませんでした。

 国立民族学博物館の共同研究『エドワード・S・モースとそのコレクションに関する研究』の報告書を手に入れ、始めてモースのさまざまな業績を知りました。

 日本におけモースの業績の主なものは、大森貝塚をはじめいくつかの貝塚や古墳を発掘し、江ノ島に東洋初の臨界実験所を設け、東京大学動物学教室の初代教授として多くの人材を育て、日本の民具や工藝品を収集し、住宅建築を研究するなど、わが国の考古学、生物学、民俗学等の基礎をつくりました。一方、ダーウィンの進化論を最初に紹介したり、日本美術を世界に広めたフェノロサを日本へ連れてきたのもモースでした。また、彼の日本陶磁の収集は一万点以上にものぼり、後にボストン美術館の東洋陶磁コレクションの母体ともなりました。

 モースは、三度来日したのですが、その期間を合わせても三年足らずです。たったこれほどの短い期間によくこれだけの仕事ができたものだと驚かされます。

 モースは、彼の多くの業績が示すとおり、好奇心のかたまりのような人です。日本に滞在した間に、北海道から九州まで各地を旅行し、人々の生活の様子や住まいのたたずまい、風景などを丹念に観察し、日記をつけ、沢山のスケッチをしています。

 彼はもともと動物学者です。二枚貝によく似た腕足類と呼ばれる動物の研究が目的で来日したのです。『日本 その日 その日』は、彼を乗せた汽船が横浜の港に着いたときからはじまります。汽船から小舟に乗り移り、上陸するまでの僅かな間に、伝馬船の櫓の形をスケッチし、船頭たちの掛け声をメモし、みなと近くのホテルで一夜を過ごした翌朝には、ホテル近くを散策し、はじめて見る下駄や草履、工事現場の様子、商店や店員たち、人力車や車夫のいでたちや走り方等々、目にするものすべてのものを観察し、これらの特徴を的確につかんでいます。

 東京では、相撲や歌舞伎を見たり、落語や浪曲を聴き、茶の湯に接します。中でもおもしろいのは、火事を知らせる半鐘を聞くと、時刻をかまわず飛び出して、消火活動のようすを初めから終わりまで詳しく記し、スケッチまでしているのです。

 旅行中は、各地の民家の屋根の形や建て方の違いを観察し、農作業の方法や農機具までも調べています。

 このようにさまざまな事物を見ているうちに、彼は日本人が日常使っている品々の素朴な美しさ、住まいの内外に見られる洗練されたセンスや、自然をたくみに取り入れた日本人の生活の知恵や人々のこまやかな人情などに魅せられていきます。

 この本を読んでいると、この百年の歴史の中で、近代化を急ぐあまり日本人が本来持っていたはずの、そしてどこかに置き忘れてきた最も大切なものは「これなんだよ」と一つ一つ教えてくれているようにも思えました。

(銅駝美術工芸高等学校 図書館ニュース 1988年11月)

 ヒヨドリジョウゴ

 わが家の勝手口のわきに柿の老木がある。手入れをしないので実は隔年ごとにしか実が成らないが、葉は毎年春に芽を萌いて秋には散る。これがトユに引っ掛かって水捌けを悪くする。少し強い雨が降ると所かまわずジャブジャブと溢れる。家のためには良くないことは判っているのだが、めんどうだから放ってある。

 ある年、トユから一本の草が生えてきた。蔓状に伸びた茎に切り込みのある葉が何枚か生えてきた。初秋に白い小さな花が咲き、やがて南天ほどの丸い赤い実がなった。透き通るような朱色を美しいと思った。末娘がこれを見て「かわいい」といって喜んだ。妻は苦笑していた。

 トユは、どれほど落ち葉がたまっていても、真夏に四〜五日も雨が降らなければカラカラに乾いて植物にとっては過酷な場所に違いない。にもかかわらず春から秋まで生き延びて健気にも実をつけたのだ。翌年の春、おなじ茎から葉が出たのを見届けて庭に降ろしてやった。数日後、植えた場所にそれらしい草がない。家人に聞くとだれも「知らない」と言う。そのまま消えてしまったらしい。惜しいことをしたと思った。

 ある日、学校へ来る途中、名鉄駐車場のフェンスの下におなじ草を見つけた。アスファルトとセメントで固められた道路の隅っこに吹き溜まった僅かな土を頼りに20センチほどに伸びていた。根を傷めないようにそっと起こして持って帰り庭に植えた。これも数日後になくなった。少し心が痛んだ。それにしても、よほど条件の良くない場所が好きな草なのだろうか。

 後日、理科室の窓の下でこの草を見つけたが、「もう抜くまい」と思った。

 昨年の秋、父を亡くした後、父の部屋の前の庭に鬱蒼と繁っていた雑木を後に何を植えるつもりもなく、ほとんど全部抜いて捨てた。風通しが良くなり、部屋が明るくなった。

 庭は、この春以来雑草の生えるにまかせてある。ここに,何故かくだんの草が生えてきた。しかも一本や二本ではない。数十本、いやそれ以上あるかもしれない。一緒に生えてきた背の高い草に巻きつきながらぐんぐん伸びて、わがものがおに繁っている。そして今、例の小さな白い花が黄色いシベを突き出すように咲いている。やがて透き通った朱色の実がたくさんつくことだろう。小鳥が集まるかもしれない。今はこれを楽しみにしている。

 ちなみに、この草の名は、「ヒヨドリジョウゴ」といい、広辞苑には次の説明がある。

 ヒヨドリジョウゴ〔鵯上戸〕 ナス科の多年草。山野に自生し、有毒。他の植物に巻きつく。葉は長楕円形で三〜五裂し、葉、茎ともに柔毛が密生。夏から秋にかけ、花軸を出し、白色五裂の花を開き、花後ナンテンのような赤い液果を結ぶ。漢名、白英。

(銅駝美術工芸高等学校 図書館ニュース 1992年11月)

 ときには下を向いてあるこう

 本校では、毎年秋に三年生が、倉敷の大原美術館とその近くにあるいくつかの美術館を見学に行くことになっている。大原美術館は、JR倉敷駅から十五分ほどのところにある。この道は、歩道が少し広めに取ってあって、辺りの店先などを眺めながらゆっくり歩くのに都合がよい。この歩道の所々に藤の花をあしらったマンホールがある。これには彩色までしてある。初めてこれに気がついたとき「なかなか洒落た趣向だな」と思った。

 何年前になるのか、大阪の鶴見緑地公園で「花と緑の博覧会」というのがあった。

 博覧会のメインゲートを入った所で、この催しのためにわざわざ作った花模様のマンホールを見た。「こんなところまで配慮しているのか」といささか驚いたが、そのときそう思っただけで、どんな花模様だったのか、今ではすっかり忘れてしまった。

 ある年、親しい友人たちと鳥取へ旅行した。城跡の側の県立博物館の前の道で、この地方の郷土藝能「傘踊り」の傘を図柄にしたマンホールを見つけ、カメラに収めた。その後、他都市へ出かけるときは、なるべく足元にも注意を払うようになった。

 山形県上山市には、へのへのもへじの案山子のマンホールがあった。

 山形市では紅花が、佐賀市のは有明海のムツゴロウ、洲本市は水仙。徳島県鳴門市では、市のマークなのかも知れないが、真ん中に小さな渦巻きがあって思わず笑ってしまった。倉吉では、椿の花だけでなく「躍動の町 耀く人・緑」とキャッチフレーズ入りのがあった。

 京都の近くでは、亀岡市が亀、長岡京市は当然のことながらタケノコを、向日市はなぜか桜の花びらだ。八幡市は、ハトが八の字状に向き合っている。これでは「ヤハタ」ではなく「ヤハト」になってしまう。

 このほかにも、さまざまなものがあるが、多いのは花柄だ。タンポポ、ツツジ、アヤメ、ユリ、バラ、ボタン等々ちょうちょ、蛍、バッタなんてものもある。

 ところで京都市は、ずいぶん注意してあちこち探し回ってみたが、残念ながらありきたりのものばかりで、旅行者をホッとさせるようなものはどこにも見当たらない。

 ときには足元に注意を払って、下を向いて歩こう。

(銅駝美術工芸高等学校 図書館ニュース 1995年11月)

 食器について

 食事のたびに食卓の上にはいろいろな食器が並びます。ご飯茶碗、吸物椀、大皿、小皿、コップや盃等々。食卓の上に登場してくる食器の種類や数は、その日の献立によってさまざまに変化し増減します。日本の家庭で日常使われる食器の種類や数などの賑やかさは、世界に類を見ない程豊富です。

 これら種々雑多な食器群の中で、一般にどの家庭でも、ご飯茶碗と箸、それに湯呑茶碗については、お父さんのもの、お母さんのもの、或いは家族一人一人にちゃんと専用のものが決められているのが普通です。汁物椀やお菜皿までも決められている家庭だってあるかもしれません。そしてこの個人専用の区別は、たとえ夫婦や親子の間でも取り替えたり取り違えたりすることは殆どないと言ってよいでしょう。

 町のせとものやさんの店内は、一見雑然としているようでも、大ぶりで染付けの茶碗は男性用、小ぶりで赤絵のものは女性用、あるいは湯呑茶碗も箸も性別や年齢層をかなりはっきりと考えて、区別して並べられてあるのが普通です。そして私たちは、それに何の不自然さも感じないで、必要に応じてその中から最も適当なものを選んで求めてくるのです。お祝いの贈り物などに、茶碗や箸など夫婦セットが盛んに利用されています。

 このように日常生活の中で、毎日使われている食器の一部が、家庭の中で、年齢や性別で区別され、しかも個人専用のものがあるなどといったルールは、日本独特の風習です。

 たとえばヨーロッパの家庭で、お皿やスプーン、フォークなどに男女の区別があったり、個人専用のものが使われているということはないでしょう。

 どういうわけで日本にだけこのような不思議な習慣があるのでしょう。

 昔から日本には、一つの食卓を囲んで食事をする習慣はありませんでした。絵巻物などに描かれた食事の様子を見ると、一人ずつの前に折敷、懸盤、台盤などと呼ばれる一種の銘々膳が置かれ、この上に料理を盛った皿や小鉢類が並べてあります。ヨーロッパの絵画に見られる食事風景とは、ずいぶん違います。大勢の人たちが、一つの食卓を囲んでいます。食卓の上には、料理を盛り上げた大皿や鉢があって各自が思い思いに分けあって食べています。

 日本の食事は、料理とそれを盛る小鉢や皿そしてこれら食器類をのせる膳をあらかじめ台所でととのえて、一人一人の前に並べる形式だったのです。

 この銘々膳の習慣は、やがて江戸時代になって庶民の間で、箱膳と呼ばれるものに変化しました。蓋をひっくり返して箱の上におくとお膳になり、箱の中から茶碗や汁椀、小皿、箸などをとり出して食事をします。食後は各自が食器に湯茶をそそいでフキンで拭って再び箱の中にしまっておきます。箱の中の食器を洗うのは、月に二度か三度だったようです。こうなると食器はもちろん、箱膳も個人専用のものになってきます。食器は毎日洗わなくても自分以外の者が使うことはありませんから、それほど不潔感は持っていなかったようです。逆に言えば、自分のものでない食器を使うことや、自分の食器を他の者に使われることに対しては、かなり強く不快感や嫌悪感を持つようになるのは必然です。

 今では、銘々膳は、正月とか仏事など特別な日に使う家庭がわずかに残っている他は、料理屋での宴会などに出てくる程度で、一般の日常生活では、殆どの家庭が、大きなテーブルを囲んでの食事という形になっています。

 テーブルを囲んでの食事形式は、平安時代の宮廷で僅かにその例がありますが、これは一般には普及しませんでした。江戸時代になって中国から長崎に卓袱料理と呼ばれる形式が伝えられました。卓袱というのは食卓という意味です。大きな食卓を囲んで、盛られた料理を各自が自由にとり分けて食べる形式のものです。食事は銘々膳と決まっていた当時の人々には常識はずれの斬新なものに思えたようで、たちまちのうちに各地に伝えられ、流行しました。高知県の「さわち料理」もこの流れをくむものの一つです。

 十八世紀の終わり頃、橘南谿という医者が、前後合わせて五年間、日本中を旅行して、「東・西遊記」という紀行文を書きました。この中に長崎で見聞した卓袱料理についての記述があります。

 『近きころ上方にも唐めきたる事を好み弄ぶ人、卓袱食という料りをして、一つの器に飲食をもりて、主客数人みずからの箸をつけて、遠慮なく食する事なり、誠に隔意なく打和し、奔走給仕の煩わしき事もなく簡約にて酒も献酬のむつかしき事なく各盞にひかえて、心任せにのみ食うこと、風流の宴会にて面白き事なり。寺院にも黄檗宗などの寺には不茶とて精進ながら卓子料理することなり。是日本にてはめずらしきことに思いて,至って心易き朋友中ならでは行いがたき事なるに、唐土にては世間常のことなりとぞ。それゆえに長崎に来たれる唐人、日本の常々貧家といえども膳椀みな別々にひかえて、おのれが箸にては香の物一つもとらざるを見て大いに感心し、「扨も日本は礼儀正しき国なり。家内のしたしき中にてさえ、日夜飲食の事にかくのごとく礼をみださず、貧家といえども膳椀を別々に備えたるは唐土などにては思いもよらざる事」といえるとぞ。誠に是を聞いては、日本の風儀正しきをよろこぶべき事なり。礼儀正しき中にて、たまたま上方のごとく、卓子料理も打和してよけれども、此事常に成りてはいとみだりがわしき事なるべし。唐人の感心するも尤もの事なり。』(東洋文庫249)

 明治になってヨーロッパから牛肉を食べる風習が伝わり、さまざまな料理が工夫されました。牛鍋やスキヤキなど鍋料理もその一つです。鍋料理の楽しさは、煮え加減をたしかめながら、めいめいが直箸(じかばし)で鍋の中をつつきまわすことによって、一同の仲間意識がふくらむところにあると言えましょう。鍋料理の発生以来、これが大好きになった日本人は、豊富な四季折々の魚介類や野菜類をさまざまに利用して、多種多様に発展させ、今では各家庭に一つや二つは得意な鍋料理を持っているといえる程に日常の食生活の中に深く定着するまでになりました。橘南谿さんが見たら「みだりがわしき事」と眉をよせるかもしれません。

 が、私の家の幼い子供たちも、特別に教え込んだわけではありませんが、それぞれに個人専用の茶碗と箸だけは持っていて、それを当然のことのように思っているようです。

 この習慣だけは、まだ当分の間なくなってしまう気配はないようです。

(「華道」1984年8月号 華道家元池坊)

 タイムカプセル

 平安時代から鎌倉、室町時代にかけて、瀬戸、常滑、渥美半島で作られたと推定されるやきものの中に、経筒、経筒外容器、経塚壷などと呼ばれる遺品があります。日本各地から出土したもので、無釉のもの、釉薬の施されているもの、美しい牡丹唐草などが線彫りで施されていたり、印を押した文様のもの、単純な線文様のもの、或いは、年号や人名、製作の目的などが記されているものなどがあります。いずれも信仰のために心をこめて作られたもので、端正で大変美しく、昔から数寄者たちに茶室や客間などの花入れなどとして珍重されてきたようです。また年号や人名などが記されていることなどもあって、陶磁史の研究の上では特に大切な意味があり、重要文化財などに指定されているものも珍しくはありません。

 これら経筒や外容器などの製作が盛んになりはじめたのは、十一世紀の中ごろ、平安時代の宮廷貴族・藤原氏の全盛期がすぎ、漸くその政権にかげりがみえはじめた頃です。

 ちょうどその頃、宮廷を中心に末法思想が流行していました。末法思想というのは、釈迦の入滅後、時間がすぎるにつれて仏教の教えが徐々に衰えてゆき、ついには亡んでしまうという一種の運命的な歴史観に基づく予言的な思想です。正・像・末の三時説という考え方があり、これは釈迦の滅後千年間(五百年とする説もある)を正法の時代と呼びこの間、仏教の教えは正しく完全に伝わっていて、教えに従って修行をすれば誰でも証を得ることが可能な時代であるとします。

 次の千年を像法の時代と言い、仏の教えは完全な形で残っているが、修行をしても証を得ることができない時代、そしてその次に来るのが末法の時代で、教えだけはあるが、修行する人もなく、証を得る人もいない、そして遂には仏教が全く滅んでしまうというものです。この末法は万年、つまり永遠につづくというものです。末法の時代がいつからはじまるか、釈迦の入滅がいつであったかについては、いくつかの説がありますが、わが国の平安時代の仏教では、末法到来を、永承七年(西暦一〇五二年)としていました。

 ちょうどその頃、日本の歴史は一つの転換期を迎えていました。

 平安遷都以来、およそ二五〇年、古代律令制度は崩れ、貴族たちは、習慣や前例ばかりを重視して政治に対する積極的な意欲と責任感を失いかけていました。都の内外では,比叡山の山法師、興福寺の奈良法師たちが、わがまま勝手なふるまいをし、政治に圧力をかけ、勢力争いに明け暮れし、寺院を焼くなど乱暴を働き、地方でも治安は乱れ、東北地方には反乱が起こり(前九年・後三年の役)長い戦乱の時代に突入します。「袴垂」と名のる盗賊が横行し、民衆を不安におびえさせたのもちょうどこの頃です。

 関東地方や九州地方には、次の時代の政権をつかむ地方武士の台頭がはじまり、貴族政治が亡びていくきざしが見えてくる時代です。

 このような社会状況の中で、宮廷の貴族たちは、政治の堕落、破綻は、末法到来によるものと考えていたようで、これは彼らにとってかなり深刻な問題だったのです。当時の記録や日記類は、いっせいに末法到来について記しています。

 仏教は、わが国に伝わって以来、国家の体制を固めるための貴族・官僚のモラルとして使われたり、鎮護国家や疫病平癒・戦勝祈願など、現世利益の信仰の対象となったり、哲学・学問として発展するなどさまざまに変遷してきましたが、この当時の貴族たちにとって、仏教の現世利益と来世往生をたのむ極めて私的なものというように理解されていました。

 目前に迫った末法到来によって、仏教の救済から見放されることは必然です。恐怖と絶望しかない人々を救うには、これまでの南都北嶺の仏教とは別に、新しいスタイルの信仰が是非必要になりました。このために新しく唱えられるようになったものに、阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生したいとする浄土信仰(法住寺・法界寺・平等院など)、霊験所を巡礼する観音信仰(西国三十三ヶ所・四国八十八ヶ所巡礼など)、弥勒の出現に期待をかける弥勒信仰などがあります。

 弥勒菩薩は、釈迦の予言によって釈迦の入滅後五十六億七千万年の後、如来となって人間界に出現し、その間に救われなかった多くの衆生に法を説いて救うため、今、兜卒天という浄土で修行の最中であると信じられているのです。弥勒信仰は、末法の時代に生まれてきてしまったため、釈迦の救済からはもれてしまい、一時は地獄に堕ちてしまうかもしれないけれど、たとえ五十六億七千万年の後でも、必ず如来となって出現する弥勒さんを待って救われたいと願う、じつに気の長い信仰です。弥勒如来に救ってもらうためには、ただ待つだけではなく、それなりの功徳を積んでおかなければなりません。それには、法華経を写経して、これをタイムカプセルの中に入れ、地中に埋めておくのです。こうしておけば、やがて弥勒如来が出現したときに、これを見つけてくれて、もしそのとき自分が地獄の責苦に堕ちていたとしても、きっと写経の功徳に免じて救ってもらえるに違いないというのです。一字一字精魂かたむけて写経し、美しく飾った筒に収め、さらに壷に入れてしっかりと蓋をして地中に埋め、盛り土をして塚を築いたのです。これを埋経といい、この塚を経塚と言います。塚の中の写経は、必ず弥勒如来に見つけてもらわなければならないものなのです。

 埋経は、中国で九世紀中頃、仏教が弾圧され衰微したときに、仏教の復活を信じていた熱心な僧侶たちによって行われたことがあります。わが国では、末法到来の十一・二世紀頃、比叡山の僧によってはじめられ、この指導によって流行したのです。

 藤原道長が、吉野の金峯山に経塚を営み、たくさんの写経を納めたのは有名です。その後、この風習は各地に伝わり、東北地方から九州地方まで、たくさんの経塚が営まれました。

 経筒、外容器、経塚壷などは、このタイムカプセルなのです。五十六億七千万年の後、弥勒如来に見つけてもらうために埋めたものなのです。僅か千年余りで、掘り出されてしまっては困るのです。たとえ研究のためだと言っても、末法到来を悲壮な思いで迎え、命がけで写経をし、塚を築いた当の本人にしてみれば、今、その容器や経巻が、博物館で一般に公開されているなどということを、もし知ったら、どんなにガッカリするだろうなと思いませんか。

(「華道」1984年9月号 華道家元池坊)

 やきものを運ぶ

 十数年以前、まだマイカーを持つことができなかった頃、展覧会に出品するためのやや大きめの作品や、小さくても数のたくさんあるときなど、これを抱えて電車に乗り継いで運ぶのは一仕事でした。また、運ぶ途中でうっかり壊してしまうことのないようにていねいに梱包しておくこともやっかいな仕事の一つです。

 前回の経塚壷の原稿を書くために、古陶磁の写真集を眺めていて、フト、岩手県出土・常滑産の大壷というのがあるのに目がとまりました。改めて手許にある古代・中世の陶磁集を繰って、一つずつ産地と出土地を確かめてみたところ、神奈川県・千葉県・茨城県・岩手県で出土しているものの内、かなりの数のものが、瀬戸・美濃・常滑・渥美産のものであることを知りました。

 やきもののように重くて、壊れやすくてもち運びのしにくいものが、交通の充分発達していなかった当時、数百キロも離れた所へ運ばれていた事実には、いささか驚きを感じました。海や河川で舟の利用できるところでは、大きな荷物でも舟に積んでしまえば目的の港に着くまでは特に問題はないでしょう。瀬戸内海や琵琶湖が、昔から物資輸送の通路として利用され、沿岸各地が港町として栄枯盛衰を繰り返した歴史はよく知られているとおりです。ところが水運の利用できないところでは、牛馬を利用するか、人がかついて運ぶしか方法はないわけで、わが国のように平地の少ない陸地の運搬には、ずいぶん難渋したことだろうと思います。

 「延喜式」(平安時代の初期に編集され、当時の律令政治を施行する際の細則を定めたもの)には、政府が全国民に租税や調貢品として課した食料品・衣類・日用品雑貨その他さまざまな物品の詳しい内容や数量が記されています。やきものも重要な調貢品の一つでした。延喜式に記載されている正税または、調貢品としてのやきものの種類とその数量は厖大なものです。その内訳は、大小の甕類・壷や瓶類をはじめ盤・鉢・坏・碗・灯明皿・硯・竈や甑の類等々数十種類に及びます。

 陶器(すえのうつわ=無釉の須恵器)を調として都に納めることになっていたのは、大和・河内・摂津・和泉・近江・美濃・播磨・備前・讃岐・筑前(筑前は大宰府に納める)の十カ国で、尾張と長門は瓷器(しのうつわ=施釉陶器)を正税として納めることになっていました。

 また、延喜式には「蘇」という食品を貢納させる記述があります。「蘇」は牛乳を煮つめて作るコンデンスミルクのようなもので、奈良時代から平安時代初期の宮廷の貴族たちが好んで食べたものです。(わが国の古代人が乳製品を食べていたのは意外なようですが、食物史ではよく知られていることです。)蘇は大小(大は三升入り・小は一升入り)の壷に入れることになっていて、これがほぼ全国各地から都へ毎年百壷ばかり集められていたのです。空っぽの壷ではなく、中に物の入った壷の運搬は、一層大変だったろうと思います。このように古代律令制の時代からやきものは、消費物資の一つとして、或いは何らかの容器として、各地方から都へ、或いは産地から消費地へと頻繁に運び続けられていたのです。

 壷を運んでいるようすを、絵巻物の中にいくつか見ることができます。

 「伴大納言絵詞」十二世紀中頃に描かれたものと推定される上・中・下三巻の絵巻物で、内裏の応天門炎上を画いたものです。天皇・公卿や女房たち・武士・舎人・町の人々などがそれぞれの場面でダイナミックに描かれているすばらしい絵巻です。町の雑踏の中に大壷をかついだままで騒ぎを眺めて立っている男が一人描かれています。余程重いのか壷の底に杖を立てて支えにしています。

 「粉河寺縁起」西国霊場の第三番目の札所として知られている和歌山県の粉河寺の開山の経緯を画いた鎌倉時代の作品です。河内の長者が娘をつれて粉河の草庵を訪ねるべく今まさに出発しようとしている場面です。食べ物を入れた唐櫃の上に高杯をおき、前後に酒の瓶を振り分けてかつぐ従者の一人が描かれています。

 「鳥獣戯画」鳥羽僧正の筆と伝えられる有名なもので、特にストーリーはないでしょうが、多くの動物たちが生き生きと描かれている楽しい絵巻です。酒宴の準備のためか、蛙と兎が大きな甕をかついでいます。甕を吊るための台枠のようなものが使われています。この頃には大きな壷や甕を運ぶためにこのような道具が普通に見られたのだろうと思われます。

 偶然でしょうが、三つの場面ともそれぞれ異なった方法で壷や甕を運んでいるようすが描かれています。この他にも、馬の背にくくりつけたり、籠や櫃に入れたものをかついだり、碗や杯など小さなものは、俵やかますに包むなどして運んだのだろうと思います。

 落とせば簡単にこわれてしまうやきものの運搬は、実はとてもやっかいなことに違いありません。ところが、人々は昔からいろいろな工夫を重ねて東へ西へと、私達の想像をはるかに越えて大量の陶磁器を運びつづけてきたのです。

(「華道」1984年10月号 華道家元池坊)

 天目考

 「天目」と呼ばれる茶碗がある。黒ないしは黒褐色の釉薬のかかったもので、釉薬のようすから油滴、耀変、禾目(のぎめ)などいくつかの種類がある。もともと中国福建省建陽県にあった窯で作られたもので、はじめは『建盞』と呼ばれていた。鎌倉時代に、はじめは禅刹から、やがて公家の世界に、そして武士階級へと抹茶を喫する習慣が広がった。この茶の湯の流行にあわせて、中国の各窯業地からたくさんの茶碗が輸入された。

 『天目』という名称は日本でつけられたものである。この茶碗が「天目」呼ばれるようになった謂れには、いくつかの説があるが、中国浙江省の天目山周辺の寺院で盛んに使われていたということで、名づけられたというのが最も有力な説である。

 ところが、手もとの資料によると、渡来僧、留学僧たちの修行をした寺院の所在地は、径山、天台山、五台山、郁王山、天童山などはあるが、天目山というのは意外に少ない。なぜ「天台」でも「郁王」でもなく「天目」なのだろう。

 足利八代将軍義政の財産目録「君台観左右帳記」には耀変、油滴、建盞、天目が併記されていて、「天目」は「上には御用なきものにて候」という記述があり、評価に値しないものとして扱われていたようである。

 一方、鎌倉時代に中国の釉薬の技法が伝えられた瀬戸地方では早くから中国陶磁器を模倣したものが盛んに作られていた。そしてこの当時、建盞の模倣品もたくさん作られた。が、これらを「建盞」と呼ぶわけにはいかない。

 建盞写しの釉原料に欠かせないのが、この地方で鬼板と呼んでいる褐鉄鉱である。

 ところで、わが国の製鉄の技術は、紀元前三世紀頃稲作と一緒に伝わり、各地に広がった。褐鉄鉱は、後に磁鉄鉱(砂鉄)にその役割を譲ることになるが、初めは製鉄の重要な原料であった。

 さて、日本書紀に『天目一箇神為作金者 あめの まひとつの かみを かなたくみ とす』とあり、古語拾遺集にも『天目一箇神作雑刀己及鉄鐸 あめの まひとつの かみをして くさぐさの たち おの また くろがねの さなぎを つくらしむ』という記述があって、わが国の古代神話の中に登場する八百万の神々の中に『天目一箇神』と呼ばれた、鉄を司る神様が居られたことになっていた。炉の中を見つづけていたために片方の目を傷め、隻眼となってしまわれた神様である。今なら労務災害の対象になる。

 瀬戸製の建盞は、天目一箇神の司る鬼板を使って作った茶碗だから、『天目一箇神茶碗』すなわち『天目茶碗』と呼ぶことにしようと、こんなことを思いついた茶人がいたのではなかろうか。

(「新匠」1995年10月 新匠工芸会第50回記念誌)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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江口 滉

エグチ アキラ
えぐち あきら エッセイスト、陶藝家 1937年 兵庫県に生まれる。

掲載作は、各文末に示す雑誌・機関誌等に初出のうちから自選。

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