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闇のパトス

* 希望の裏に不安はひそむ

夜は昼のように長い。それにもかかわらず、人は夜の思想を見きわめようとはしない。夜はあまりに暗いゆえ、人はもはやちょっと先のことですら見えないとでもいうのであろうか。それとも、夜は眠らねばならぬという健康の法則に人はあまりに忠実に従っているのであろうか。夜の思想を愛する人はあるにはある。しかし、彼はあまりに視力が弱すぎて、この夜の中にうごめくあまりに精緻なパトスの諸相を見ようとするよりは、漠然とした夜の「具体性」と「現実性」とを、「実存」とか名づけて賞美しているにすぎないようである。しかし、夜の闇の中に己の存在を失わざるをえない危機に何度となく臨みつつ、光かがやく昼の日中にすら、ひそかに眠る夜の気配を感ぜずにいられぬ人にとって、夜のパトスの暗さとそしてまた明るさとを見つめるよりほかに見るべきものがあるというのであろうか。

 不安というものがある。それは最もしばしば人を襲うけれど、それゆえにこそ、最もたやすく人の眼をそれるものである。不安が人におしよせるとき、人はできるだけ早くそれからまぬがれようとして、もがき苦しみ、やがてはそれから脱するけれど、そのたびごとに見落とされるのは不安の本質なのである。人は不安であることを語るけれども、不安が何であるかを知ろうとはしない。いったい、不安とは何であるか。それは人間にとってそれなしですましうるものなのか、それとも、人間にいや応なくまつわりつく無気味な何かであるのか。不安は常に未来から襲う。人間がそこに自己を賭し、そこに己の存在の支えをえているそのものから不安は起こってくるのである。人間の未来に対する向かい方が希望あるいは期待であるとは、必ずしも理想主義だけが教えるところではあるまい。とすると、この「未来に対して??」という点で、ひとしい一見正反対の二つのパトスは同じ(はら)から生まれた似ても似つかぬ兄弟ではないかという疑いは、全く盲目なものであろうか。そして、不安の本質は逆に希望の本質から導きだされはしないであろうか。

 人は生きる。未来に希望をもって。この一見きわめて明瞭な人生の事実に何かが隠れていないであろうか。人は未来に希望をもたずに生きられないとはどういうことなのだろうか。人は未来にあるものであろうとするが、それは現在それでないからなのだ。人は現在の自己に堪えないので、未来に価値ある自己の像を作って、それによって絶えず己の耳下でささやく、「おまえなんか」という、不気味な声をまぬがれようとするのである。人間の現在への不満が大きければ大きいほど、それだけ、人は未来に希望を投げるのだ。逆に希望が大きければ大きいほど、そこにこそかえって、人間の現在へ不満が隠れているのである。希望とはそうでない己に堪えられず、そうであろう己を構想し、それを実現しようとすることによって、そうでない己を忘れようとすることなのである。

 まことに人生は深く、人間は賢い。生きるために、生きゆくことに堪えるために、人間の心の中で己自身にも知られずに、ひそやかにいとなまれることどもはこよなく微妙で不思議である。人はまずそうであろう己をそうでない己に置きかえることによって、自己の最もそばにうずくまる無のささやきから己の耳を塞ぐのである。そしてなおその上、いまだそうでなくそうであるかどうかわからない未来をあたかもそうであるかのごとくに思うことによって、なおいっそう己の存在の空虚さを埋めようとするのである。そしてその結果、そうでない自己は無限に深い闇につつまれて、逆にあたかもそうであるかのごとき自己が栄光をあびてさっそうと登場するのである。げにも微妙な心の作用。しかもそれはけっして特殊な病人に特殊な場合に表われるのではなく、最も健康な一般人の心の中で昼の日中に、しかしただひそやかにのみ行なわれていることなのだ。

 構想力とは何なのか。それは過去と未来とを現在に現前させる人間の表象能力だそうである。さすれば、構想力に栄あれよ。それに乗って、人はこのあまりに「でない」ことの多すぎる現在の己からのがれて「である」の国にいとも軽々とうつりゆくことができるのだ。構想力が人間になかったら、人間は全く現実的になるであろうが、しかし同時にまた全く現実的ではなくなるであろう。人はもはや一切の希望も理想も目的も意志もなく、この現在を無為に生き行くのみであろう。それはもはや人間ではなく、人間以前の何かであろう。構想力とは非常に広い根底的な謎に満ちた人間の能力なのである。そしてそれによってのみ、人は過去と未来に窓を開いてこの現在から逃げだすことができるのだ。そして、この逃出の上にのみ人間の生は立つのだ。そこにこそたとえば金をもうけるなどという最も現実的な生の根がのび、そこにこそたとえば理想の社会を作るなどという最も旺盛な生の花が咲くのだ。現実からの逃出などとは第二のことだ。逃出そのものが現実の人間の基礎なのだ。

 意志とは何なのか。意志とは目的の能力であるとカントは言う。それはいったい何を意味するのか。意志は二重の意味で目的の能力であろう。意志はまず目的を設定する能力であると同時に目的を完遂する人間の能力でもあろう。目的が固定されるとき、意志はもっぱら目的完遂の能力に、すなわち合目的性の能力になる。しかし意志の本来の作用は未来に向かって目的を投げ、目的ゆえに生きることではないか。合目的性の意志は虚弱な意志、中途な意志、半端な意志にすぎない。ああ人間は投げる。限りなく重い石を未来に向かって投げかけて、その重みを身いっぱいに担って生きているのではないか。何ゆえに自己とはこれほど重いのか。己を朝夕馬車馬のように追いたてるこの恐ろしい鞭はいったい何なのか。時あって人間は己にこう問うけれど、彼が重いと思うものこそほかならぬ彼の生を支えているものにすぎないのである。目的を投げること、そのことによってのみ人間はかくほど努力し、そして進歩することができ、そのことによってのみ文明も科学も革命も、そしてまた、へーゲル流にいえば、なべて世の偉大なことがなされえたのであった。

 だがしかし、だがしかし、あまりにしばしば忘れられやすい、しかもけっして忘れてはならぬ一つのことがここにある。目的を投げ目的を追うことによって、人はいったい己に何をなしているのか。そしてまた人はいったい、どこへさすらい行こうとしているのか。何も思わず与えられた目的をなしとげることが絶えず耳下でささやく「何のため」の問いから、生きるためにわざと自らの耳に栓をする「故意の聾者」のしわざであるならば、むやみに目的を投げ目的ゆえに生きることも、ただ襲いくる不安をのがれるために、いたずらに動く「故意の盲者」のしわざではないのか。目的を生に置きかえることによって、けっきょく人間はたった一つのしかも最もたいせつな一つのことを忘れるのである。けっきょく、目的とは人間が未来に投げる自己の「であろう」影であり、それによって、自己の「でない」姿を忘れようとするのではないか。人間が人間的であることの、すなわち意志的であることの極に、人間はひそかに動く「忘却への欲求」を忘却し、あまりに強く生きるのではないか。強く生きるとは、実は「でない」自己への不満に出発し、「であるだろう」と「でないだろう」の中間にさまようことではないか。おお、自己から目をそむけるために、有と無の中間にさまよういともよるべない生物よ。それを人は健康な人間と呼び、たくましい自己と名づけようとしているのか。

 人間の中には猛獣に似た情念が住んでいる。どうかすると、それは何よりもまず己自身を食いひさぎ、果ては己の生命すらもうばってしまうのだ。もともと人間の存在の姿そのものが、かかる猛獣を生みだすに適しているからだ。しかし、同時に人間は何よりもまず、巧妙な猛獣使いであった。最も巧妙な猛獣使いを人は何と呼ぶのか。理想主義者というのがその猛獣使いの名前ではなかったか。理想主義は最もうまく考えだされた猛獣を眠らす方法である。人間の中にある現在の己へのしようことない堪えがたさと未来の己へのとりとめもない不安さという危険な情念を眠らすために、美しき理想の花かおる未来を信じて、そのかぐわしい香によって、うつつの己の醜悪さを忘れようとするのが理想主義の道ではなかったか。巧妙な、誠に巧妙きわまるおきかえによって、己への不満と未来への不安は存在の奥深く眠る。けれど、けっして死にはしないのだ。死なぬ猛獣に恐怖を覚えるのか、理想主義者はさらによく利く麻酔薬を発明した。それを人は世界史の進歩発展と名づけているようである。ここで目的は客観的に固定され、理想は必ず到達されうるものとなる。ここで世界史はかつての野蛮な時代から理性的な時代へと段階的に進歩し、やがては完全に理性の支配する世界が来ることになる。ここで一日も早くかかる世界を迎えるべく努力すべしというもっとも顔な倫理が支配する。しかし歴史の必然的発展という名で人は何よりも己の目的に絶対の安定を与え、己の存在を充分に充実しようとしているのではないか。主観的なものへの恐怖から客観的なものへの基礎づけによりまぬがれようとすることが最も主観的なことではないか。理想主義者は人の心に巣食う猛獣を眠らせようとして高貴な麻酔薬を発明したけれど、それによってかえって、人間の魂の最もたいせつな部分である誠実なる自己意識すら眠らしたのではなかったか。意志、目的、構想力という理想主義者が愛した言葉の真義と、そして理性、悟性というモットーすら世界観的にはいつも先の考えを根底としていたということは、そもそも何を語っているのであろうか。

* 忍びよる憂愁と焦燥

 不安は眠る。一見希望に満ち未来が現在によびかけ、現在が未来に応じるこの時間の調和のとれた世界の奥にすら不気味な猛獣が眠っている。未来はいつも不定な何かである。それなのに、現在の己に堪えがたい人間はその不定なものへの期待によってのみ己に堪える。どれほど人間がその不定さをいつわろうとしたところで、穴のあいたバケツからは、どこからか水がもれるものだ。しかも、はげしい自己をもつことは己の投げたすぐれた己の影でしか己に堪えぬことであり、それだけかえって、不安に臨む何かを宿している。人間が人間的になればなるほど、人間は不安への可能性を背負わされている。不安は希望のあるところ必然的に人間に属しているけれど、常には不安はいまだ可能性として己の中で眠っている。

 不安はそれほど深く人間に根づきながら、それほど容易には起こってこない。希望に生きる人間は自己の根をゆすぶる無の震撼を感じても、なお希望に執着する。それは誠にけっこうなことではないか。光あるうちは人は光の中をあゆまねばならないようだ。そして、黄昏(たそがれ)がおとずれて、()がそのもてる豊かな光を失ったときですら、光あるかのごとくに生きることは賢者の道かもしれない。しかし、夜は容赦なく人間を襲う。もはや、どうしようもない夜が必ず来る。そして、光の全くないこの夜と明るい昼の間には、いまだ昼の残照の中に襲い来る闇の気配を知らず黄昏がある。これを人は何というのか。これを人は憂愁といい、焦燥というのではないか。ここでは「でないのではないか」との危惧は感ぜられず、まだ「であろう」未来への信頼は残っている。「そうであろうが、しかし??」というのがここでの懐疑の形である。未来への橋は一つであり、それは完全である。それは「必ずそうなるであろう」。しかし、その橋の彼方(かなた)と現在の自己の間には何という距離と時間があることか。

 人は知っているのか。理想主義者の憂愁とかいうものを。理想主義者は自己をこえてあまりに遠く目的を投げる。そして彼はそれを追う。燃えるような彼方へのあこがれと、()まずたゆまぬ努力によって、彼は一歩一歩それに近づく。それは楽しき時間であり、自己と目的の間にはたしかに生きがいのある距離が存在している。だがしかし、彼が時あって、しばし、いたずらにはやる馬をとめ、来し方往く道を思いめぐらす時に、彼はいかなる感慨におそわれるのか。彼は進んだ。たしかに。彼は目標に何歩かは近づいた。しかし、この無限に遠い道に比べて、彼の進んだ距離はどれだけだったのか。道は地平の彼方に消え、しかもそれはいずこに終わるとも知られない。しかもそのような無限の道でなかったならば、行くに価しないと思ったのはほかならぬ彼自身ではなかったか。無限な未来に比べて、彼の努力が、彼の苦悩が、彼の克服が何であったか。彼はここで未来の「であろう」己と自己の間の距離を意識する。ここにまた生の有限性への憂愁が人を襲う。未来はたしかに「そうであろう」。しかし、そうであろう未来と現在の自己の間には、最も便利な客観精神ですら、こしがたい溝があるではないか。理想主義のもつ憂愁は夕ばえの憂愁である。日は暮れ行こうとしている。しかもあくまで光を信ずる彼はてりはえる夕ばえの中をひたすら前へ前へと進もうとしている。しかし強固な意志の権化のような彼の英雄的な姿の中に、おそいよる無の影が、何かが欠けているという不安が、ひそかにいともひそかに語りかけているのではないか。

 人は知っているのか。進歩主義者の焦燥とかいうものを。世界はたえず野蛮から文明へと進んでゆく。それゆえに、人は世界史の潮流に乗ってできるだけ早く進まねばならぬ。近代は速度の時代であった。ライプニッツが距離の微少変化を時間の微少変化で微分し速度というものを見出(みいだ)し、そしてさらに、速度の微少変化を時間の微少変化で微分し、加速度というものを、見いだしたときから、近代人の最も関心事は何であったか。それは距離の時間による商である速度というものではなかったか。目的が固定され、世界が必ずそこへと向かうことが確信される時に、問題となるのは速度のみである。どうせ世界は進歩するならば、人間のなすべきことは進歩的であること、すなわち速度的であることのみである。かくて、古代の中庸の徳や、中世の進行の徳に代わって、新たに進歩的であるという近代的なあまりに近代的な徳が現われる。あらゆる徳を歴史的発展の見地から証明し、あらゆる美を現代的必然の立場から価値づけねばならぬほど、近代人は進歩的なのである。しかし、近代人が進歩的であり、速度の愛好者であることを最も雄弁に語っているのは何よりも近代科学のようである。近代科学は人間に何を与えたのか。新聞、写真、映画、ラジオ、蓄音機、電話、電報、種々の機械類、自動車、電車、汽車、飛行機、そして最後に原子爆弾なのである。それらはいったい何を表わすのか。できるだけ速い眼、できるだけ速い耳、できるだけ速い口、できるだけ速い手、できるだけ速い足、そして最後にできるだけ速い死なのである。賢明なるかな。勇敢なるかな。現代人は己をできるだけ速い死へともたらすほど進歩的なのである。まことに神の国を実現するための速度は死の国を実現するための速度となり、人はどことも知らずにただ速度によってのみ己を忘れつつ、まっしぐらに奈落(ならく)の底に落ちゆくようである。しかし、このような速度への悲劇的な愛はいまだ現代人の底に根づよく生きている。そして、人が目的を追い、できるだけ速くそれに到達しようとするとき、あまりに速くない自己へのいらだたしさが人間の心をかむ。その時彼の顔には焦燥が表われる。彼はいまだ「必ずそうなるであろう」ことを信じているけれど、「速くそうならない」ことが、彼には堪え切れない。一切があまりに遅すぎる。いわば彼はおそいよる「そうでない」ことへの危惧を、目的への信と速度への愛という色ガラスを通じて、「速くはそうでない」という充分安全な充分健康な形で見ようとしたのではないか。闇が襲ってくる。けれど、人間は闇を見るよりは光を見ることを、たといそれが見当違いであったとしても、はるかに好むものらしい.。

* 存在の引き裂かれる痛み

 夕べの国はいかなる国か。それは昼が夜へとすぎゆくところ。それは光と影とが入りまじり、美しきしばしを歌いかなでるところ。それはおそいくる夜に不安な人がすぎてゆく光に向かって「おお(なんじ)永久なれ」と、血の出る願いを叫ぶところ。それは徐々に満ちてくる闇の海をのがれようとして、沈み行く島の上で、人が無限に遠い幻の小船に向かって望みなき救いの助けを呼ぶところ。いずれにせよ、やがて夜は来る。無限に深くそこで昼の真理すらあらわにする夜が人間を襲う。そして夜はまず不安の形で現われる。

 不安とは何か。不安とはそれであろうとしながら、それでないのではないかとの危惧である。それゆえ、不安はそれであろうとする人間の意志に比例すると同時に、それでないのではないかという危惧にも比例する。しかもそれでないかもしれぬ危惧はまたそれであろう可能性に反比例する。通常人は必ずそうであろうと思う幻想に生きるゆえ、危惧は(ゼロ)となり、不安の影のない希望に満ちた生を生きるけれど、未来の不定という性格は常に不安に宿を与えるのである。人間の生がもしそうであろうとすることであるならば、人間が生きようとすればするだけ、それだけ人間は不安に臨んでいるのである。

 不安は無の意識であるけれど、それはいつも未来から起こってくる。自己がそれであろうとするのに、それでないであろう。未来に向かった意志は意志の尖端に無を見いだす。しかし無はそこにのみあるのではなく、何よりもまず、そうであろうとすることの中にそうでないことがかくれているのではないか。無をおおい、無を忘れるために求められた有のさきに人は始めて無を見いだすけれど、実は無はまず最も手近にあったのである。不安に襲われねばならぬと同時に、不安を忘れねばならぬほど有限な人間存在が無をかえって遠い彼方に見いだすのである。かくて未来の無が現在の無を呼び、現在の無が未来の無に答える。ここで相向かって置かれた二つの鏡のように、二つの無が限りなくお互いをうつし出し、かくて無はあたかも己という実体のはなすべからざる属性のように見られるのである。ここで人間は自己の中に巣食う無におびえつつも眺め入らざるをえないのである。

 人間は自己の無に堪えられない。そして人は自己の存在の奥に巣食うあまりに多くの無を差し当たって一つか二つの無におきかえて、それを未来に満たし求めることによって、自己の無を忘れようとする。わずかなもの、ほんのわずかなものを人は求めえて、それによってあたかも彼の全存在が完全な存在に満たされたかのように喜ぶと同時に、わずかなもの、ほんのわずかなものをえないことによって、自己の存在が全くの無の中におしおとされたかのように嘆く。自己がそこに多くの無の原因を追いやっている一つのことが求められないであろうという不安が人を襲うとき、無はそのものがないであろうと人間に感じられるより、むしろあらゆる光がこの世界から消え去ったような感じで人をおそう。人間における昼のパトスが多くの無を一つか二つの無におきかえて、それを未来に求め、その本の無を、そしてあわせてあらゆる無を忘れようとする傾向の上に成り立てば成り立つほど、そのことに感じられる無は彼の全存在にしみ通り、あたかも、もはや生くべき何もないようなパトスに駆るのである。そしてその上一つの無は別の無をよび起こし、彼の世界はもはや生きるに堪えないものとなるのである。

 不安は自己をゆすぶる。不安において未来は有と無の二つに割れ、その間を自己と世界のおりなす運命の針は烈しく動く。自己の存在は有にかけられており、運命の針につれて動くのは自己の存在ではなく、むしろ自己の感情である。針が無にかたむく。自己は無の堪えがたさにおそわれる。針が有にかたむく。やっと無からまぬがれたという安堵が人を満たす。かくして、不安はそのことがなされるまで、人を二つの極の間にゆすぶりつくす。しかし、ここで自己がゆすぶられるのは彼が求めているそのものにおいてであり、彼が求めているそのものからではない。不安が未来の不定なものから起こることによって、無は現在との間に一つの幕をへだてて人をおそい、人を二つの極の間にゆすぶりつくすのである。

 しかし、不安が人間にとって苦しいのは無の意識や自己のゆさぶりであるよりは、むしろ存在のさけゆく痛みゆえであろう。自己がそうであろうとして、そうでない。しかも、この「ない」は現在ないばかりではなく、ずっとないであろう。ここにそうであろうとする自己とそうでない自己とを結びつける何もない。ふつう人はそうであろうとして、そうでない己を感じるとき、そうであろうことを期しつつ、希望をもって生きる。ここでそうであろう自己によって「でない」自己と「であろうとする」自己が統一される。しかし、不安においては二つの自己の間にかけるべき橋はなく、存在は二つに引き裂かれようとする痛みに悩む。未来は生きゆく目標となるはずなのに、未来に向かっている意志はいたずらに無の中にただようのみであり、従ってそれに応じてそこへと向かった過去も、そこへと向かっている現在も(むな)しさのひびきをたてる.のみである。ここで無と有の間に立てられた不思議な時間の調和がみだれて、存在は二つに裂けゆく痛みにもがくのである。そして、人がそうであろうとすればするほど、分裂はひどく、それに伴う痛みは大きいのである。

* 不安を眠らせるための三つの態度

 不安は明らかに希望の弟であった。しかし人は兄を愛すれば愛するほど、弟を憎み、何とかして不安を地下に眠らして、希望だけを、もはや不安という不気味な弟をもたない希望だけを、パトスの王にしようとした。これは一見成功した。しかしこの政策によって不安はもはや忘れられたのではなく、むしろ不安をいかに眠らせるかに存在の忠臣たちの最大の策謀があったのではないか。不安はいかにして眠らせうるであろうか。その問いは不安は何であるかの正しい認識からのみ答えられるであろう。不安とはそうであろうとしながらそうでないのではないかとの危惧であった。それゆえ、不安をまぬがれるには、

(1)そうでないようなそうであろうとしない。

(2)全くそうであろうとしない。

(3)そうであろうとして、そうでないことを意識しない。

かである。おおまかにいえば、(1)リアリズム、(2)ニヒリズム、(3)イデアリズムといわれるかもしれない。

(1) そうでないようなそうであろうとしない。

 これは最も平凡であるが、最も健康な倫理である。人は己を愛さねばならない。己を愛しうるために、何よりも己をこえた大きな目標を己にたててはならぬ。己が小さいものであると思ったら小さい己にふさわしいささやかな目標をもうけ、そこに最高の価値を見いだすことが最も賢明なことではないか。己をこえてあまりに大きな石を運ぼうとする馬鹿者よ。彼らは石の重さにつぶされようとしているのではないか。自己を知らない愚かもの。さっさと地獄へ行くがよい。彼らは何よりも危険な(やつ)だ。それは人に重い石を運ぶことを教えて、人の幸福をぶちこわそうとするからだ。小さい己をもつものよ。われらは互いに愛し合おうではないか。このように最も平凡で最も健康な倫理は語る。そしてこの倫理はしばしば社会人としての道徳という仮面をかぶる。人はよい市民とならねばならぬ。それは彼がよい市民となるであろうからだ。人は最も自己のなりやすいものに目的を見いだし、その目的に最大の価値を与えて、己の存在を重くする。そこで人はたしかに不安をまぬがれる。しかし同時にあらゆる偉大さをも、またまぬがれる。

(2) 全くそうであろうとしない。

 不安はそうであろうとして、そうでないであろうという危惧である。それゆえ、そうであろうとしなかったら、不安はけっして起こらない。そうであろうとしないことは人間にはあまりに難事である。今彼はそうであろうとしないほど無心ではないが、そうであろうとしないようにならねばならぬ。人は意志の不安から無意志を欲する。これはきわめて敏感な心にきわめて自然に発する心理過程である。彼は一つずつ己のもてる有を捨て、もはやいかなる有によってもわずらわされぬ無の心となる。ここに人は絶対の無心となり、あらゆる有にわずらわされぬゆえ、絶対の自由をえる。しかし人が無を欲するとはどういうことであろうか。たとえば、人はあることをなそうとして、それがほとんど不可能となるとき、あたかも彼がそれが不可能なのを欲したかのように思うことによって、不安の恐ろしさを逃げようとする。もはや生きられないという死への不安をあたかも彼が死を欲すると思うことによりのがれようとする。無の心もそのような倒錯意識にもとづいているのではないか。人はほんとうに無を欲しうるのか。無にもとづく宗教のあまりに有的な権力意志はいったい何を意味しているのであろうか。絶対の無を欲しているつもりで、人は形のない何かを、たとえば最大の自信と安心感とを、そしてそれに伴う最大の権力意志を欲しているのではないか。

(3) そうであろうとして、そうでないことを意識しない。

 そうであろうとしてそうでないであろうという危惧を感じないために、人は無の意識を殺す必要がある。このために、人は何らかの仮定をそこに置くことによって、無の意識をまぬがれる。たとえば、人は神の国の到来を信じ、神の国を実現するために努力することによって、そうでないであろう自己への不安をそらそうとし、神はいつも最善を欲し、自己にとって悪なることも全体としては善であるという予定調和の思想によって、自己の意志の破滅をまぬがれようとし、あるいはまた、世界史は絶対精神の実現過程であるという思想によって、敗戦の悲しみを忘れようとする。またあるいは逆に一切は必然に起こるという思想によって、自己がそうであろうとしてもそうでないことを自己以外の力によるものと思うことによって、己への責任と不安をまぬがれようとする。人は何ゆえそれほど多くのきらびやかな理想を必要とするのか。それは人間の底がそういうきらびやかな理想によって盲目にされねば生きられないほど暗いものであることを示すのではないか。まことにそうでないことを感じさせないために、人の考えることはあまりに多様である。一つの美しい泡沫(ほうまつ)が消える。するとまた別のもっと美しい泡沫が生の上べに浮かび、しばし人の眼を見はらせる。それはいったい何を意味するのか。生がそういう泡沫によってしか堪えられないほど無に臨んでいることではないか。

 不安は現代的な情念である。しかし、それはけっして現代生まれの情念なのではなく、人間存在と共に古い歴史をもつ情念である。人間は、そしてだれよりもまずメタフィジイカーという存在の忠良なる重臣たちは存在の国から、存在の国の平和のために、不安を追放しようとした。最初、人々には存在に忠良であるということは存在そのものを見つめるよりは、存在を、この不気味な存在を生きゆくためにおおうことにほかならないように思われたからだ。しかし、存在の忠良なる重臣たちのあらゆる策謀が失敗した後に、この存在を、それがどんなに暗くどんなに不気味であったとしても、その正体を見つめるよりほかに、もはや存在に忠良である道はなく、そしてそれによってのみこの不気味な情念のひそやかな支配からまぬがれうるということを人はやっと悟り始めたようである。不安は人間の条件である。しかし、人はこの条件をまぬがれようとするあまり、条件そのものを忘却した。このような背反への反省、忘却への自覚、そしてあらゆる好意的にして、しかも陰険な策謀と弥縫(びほう)への侮蔑、そして新たに存在そのものを見つめようとする決意、このような境位に現代人の最も新しい誠実さが動いていはしないか。実存主義者は見せかけほど存在の革命家ではない。ちょうど、近代医学がむやみな治療を行なうよりは病状を正確に認識することにより進歩したように、もはや一切の存在の策謀への不信の声が巷にみなぎる現在、存在の姿そのものを見つめるよりほかに、正当な哲学の道があるというのであろうか。

* 閉ざされた部屋・絶望

 不安は暗いパトスである。しかし、それはいまだ闇のパトスではない。それはいつも希望の裏にまつわるパトスであり、いかに暗いようでも、そこに一抹の光がある。闇のパトスとは何であるか。それを人は絶望と呼んでいないか。絶望とはそうであろうとしながら、そうでありえないことである。ここでもはや「であろう」可能性は全くなく、無は現実的である。不安は「であろうとする」自己と「でない」自己とを結びつける「であろう」自己が失われることによって、存在が二つに裂けゆく痛みであったが、絶望において「である」自己は全く失われ、存在は二つに裂かれた深い傷に悩むのである。そこには不安のもつ二つの未来の間の存在のゆれはなく、未来は全く死に切り、存在は己の中で荒れ狂っている。そこには無をまぬがれようとするあわただしさはなく、無はもはやどうすることもできない重さで彼の上へのしかかっている。

 軽いあまりに軽い絶望がある。人は電車に乗り遅れたことでさえ絶望しうる。しかし、それはそのことに関する絶望で、真の絶望は彼がもっぱら自己を賭し、それによってのみ自己に堪えられるそのものから起こってくる。自己の力をそれへと集中し、自己の運命をそのものの中にのみ見いだすはげしさを人は何というのか。それを人は情熱と呼びはしなかったか。情熱とは生の力をそこへと集中するパトスである。それゆえ、絶望は情熱のあるところ、情熱の果てに起こってくる。まことに人間の情熱は危険なものをもつ。それはたしかにそうであろうものより、むしろほとんどそうでないであろうものから生まれる。そのような危険な(かけ)でしか、このおそいよる無の前にある自己の存在を真に充実した存在として感じないのが、恐らくはそれがこの逆説的な人間の運命なのであろう。情熱において人間は存在の極に立つ。しかも、それはいつも無へと落ちゆく淵に臨むゆえである。自己が己のすべてを賭すそのものよ。それはあまりに逃げやすく、うつろいやすい。自己がそれを得ようとすればするほど、それは逃げ、人はいつのまにか無の深淵に落ち込むのである。

 それゆえ、絶望とは自己が全存在を賭してそうであろうとしながら、そうでありえない意識である。自己はそれであろうとしているのにそれでありえない。未来へ向かった意志は意志の先に無を見いだすことによって、己自身の中にかえってくる。「それ」はもはや未来に座をもたず、それであろうとする己自身の中にのみある。意志は実在的なそれではなく、己自身の中にある無を志向している。ここで未来は死ぬ。何故(なぜ)なら、未来はそれであろうことによってのみ己を鼓舞するはずなのに、もはやそれでありえない。そして過去も死ぬ。何故なら過去はそれであろうとしてきたのに、今やそれでありえず、一切の過去が空しさのひびきをたてる。そして、現在は二つの時の死によって、己自身も凍え切っている。絶望はそれ自身の中に曲がった死んだ時間をもつ。そこであらゆるものが凍りつき、自己はただこの冷えきった時間の牢獄を逃げだそうとして空しくももがく。

 絶望は時の死である。希望において、未来は実在的なそれでもって、誘惑的な身ぶりで人間をいざなう。このそれを求めることによって、時が生き生きと緊張する。ここにものがそれを中心にして意味をもつ。己が求める最高のそれに応じて世界は価値の陰影をもつ。しかし、もはや己がそれをのみ追うそれが自己の及びがたい遠くの闇へ去ったとき、己の時は行方を失い、そこに死ぬ。そこではもはや一切のものは意味を失い、価値の秩序はみじめにも崩れ落ちる。ここで、もはや己のよるべきものは何もなく、空白な空間の中に無の声のみがなりひびいている。凍った白い動かない時がそこにある。それにもかかわらず、外の世界ははげしく動く。その動きゆく世界に背を向けて、自己はただ己の内部で凍りつき、もはや生きる意味をもたない時をただ生きてゆく。

 人間とは越えゆくものである。そうであろうとすることにより、人は今の己をこえて別の己であろうとする。現実的な己の像を目がけて人は己自身をこえてゆく。それゆえ、超越はまず第一にかかる人間の姿に根づいている。人間は超越する。しかし、絶望がおそい、もはやそうであろう可能性が己自身から失われるとき、こえゆく目標は失われ、人のもつ世界は止まり、時は凍える。ここに人はこえゆこうとしてもこえゆくことのできない閉じられた部屋に監禁されている己を見いだす。この部屋を人はどうして脱しうるか。人はそれをこの世ではない別の超越的世界を仮定することによりまぬがれようとしているのではないか。超越的世界とは超越してゆく人間がこえゆく先を現実に求めえないほど絶望した時に死せる時を再び生かすくふうから生まれる世界ではなかったか。人間の超越の機能が失われた時、その時何よりも超越者が人間に語りかけるのではないか。

 しかるに今や神は死に、そうであろうとする人間をそうでない無の牢獄から救いだすそうである彼岸は消えた。今や人間が最もそうであろうとするそこに最大の無が容赦なく人を襲う。無の堅い壁にとじられた氷の部屋に人はしばしば己を見いだす。そして無はまずそれがないという形で人を襲う。それがない。それであろうとしてそれでありえない。それであろうとすることによってのみ己に堪えうるのにそれでない。ここに人はそれがないことに堪えない。たとえば、人は恋人をうることによってのみ己に堪えうるのに今や恋人を失ったことに堪えない。あるいは人は大臣であることによってのみ己に堪えうるのに、今や大臣でないことに堪えない。ここで絶望は号泣の形をとる。ない、ない。自己がもっともそれであろうとするそれがどこにもない。いったいそれがないなどということがありうるのか。それは深夜の悪夢か、それとも真昼の幻影か。それが夢でもなく幻でもないとすれば、天の神よ、地の神よ、あまりに無情ではないか。天も裂け地も裂けよ。己の悲しみに比ぶれば、全世界の破滅が何であるか。ここで彼はひたすら号泣する。しかしいかに彼が泣き叫んだとて、彼の声はいたずらに不毛の谷間にこだまして彼の叫びに答える一つの神もこの世にはないのである。二つに引き裂かれた心の痛み、最も心の内部でたえず鳴りとよむ無のひびき、存在しないことをすら欲する存在することの堪えがたさ。

 このような絶望はむしろ原始的な絶望である。まだ人間が文化とかいう悲劇をにげる遊びを知らず、この地上の何かをひたすら求め、それによってはげしい絶望に臨みつつ没落するよりほかに生きる道を知らなかった時代にこのような純粋な絶望は起こる。それがないという意識はけっして自己がそれでないという意識の未発達なものではなくて、むしろ自己の運命がそれほどそれにかけられており、それがないという叫びは自己がないという叫びにひとしい重さをもっているところに起こる。恐らく、絶望されているのはそれがないことでなく、それがない自己であると人が考え始めたとき、その時もはやそれを自己から引きはなすことによりこの絶望をまぬがれようとする理性の詭計(きけい)が動き始めているのではないか。現代人がわずらいつつも、たいせつにする自己意識という能力はひょっとしたら大きな自己があるところではなく、大きな自己の悲劇をまぬがれるために小さく自己を切りきざんだところに生まれるかもしれないのだ。自己意識は自己を幾重にも折り曲げる。そしてそれによって一切のはげしいもの、まともなものを幾重にも薄め尽くすのである。とまれ、現代人がいまだ文化とか教養とかいう曖昧な観念によって己をすりつくされないならば、絶望は必ずまずこのような原始的なごまかしのない形で人を襲う。

* 絶望からの逃走の試み

 絶望は内化する。絶望において外のそれに向かいつつ、それによって自己を忘れていた意識は無の壁にふれることにより自己へとかえってくる。ここでもはや絶望すべきはそれがないことでなくがない自己である。それを求めることにより無を忘れようとするはずの意志がかえって最大の空白を自己の内に作る。最も内部の最も肝心な何かが己に欠けている。彼はない己を逃げ出そうとする。もはや己を超えゆき、別の己を作ることのできない彼はただ己から逃げゆこうとのみ意志する。東洋でも絶望者は己から逃げゆくためにあてどのない旅をする。あてどのない旅によって彼は己の中に巣食う無の意識を忘れつつ、死せる時間を蹌踉と歩きゆくことにより動く時間のように自らに思わせようとしたのではないか。別の己をもとめるよりは今の己から逃げだすための生が彼らの旅ではなかったか。どこまで行っても、無は己を追うと知りながら、さすらい行かざるをえない彼らの中に、何よりも自己であることに堪えられぬ深い絶望が宿っていはしないか。

 絶望において、人は己自身を逃げだそうとする。しかし、たとい彼が世界の果てに逃げいったとしても、彼の最も近くでささやく無の声を逃げられないと知ったとき、人は再び己に堪えるくふうをめぐらす。それを通じて自己が絶望されている。それゆえに、それを自己から引き離すことによって、彼は絶望をまぬがれようとする。そのために彼は手当たり次第のなるべく自己を痛めぬことに自己をそらそうとする。たとえば次に来る電車の番号が奇数か偶数かを予想することにより今や無一物になった己を一瞬なりとも忘れようとし、彼とは全く縁のない政治運動に奔走することにより失った恋の痛みをそらそうとする。人間の意識はいつも一つの目的に貫かれている。たとえ人が一時に多くの目的を追う時ですら、それらはその上にある最高の目的によりひそかに統一されている。このそれでもって人間の力を統一する最高のそれが失われたとき、そのとき人が絶望をまぬがれるためには意識を小さく、できるだけ小さくきざみ、目前の何気ないことの中に一時の賭を見いだせばよい。できるだけたまゆらのできるだけささやかなものへの小さい賭。それによって恐らくはこの統一的なそれを通じての絶望がしばしなりとも忘れられるであろう。

 それを求め、それを失う情熱の果てに人はしばしば己の中に無の深淵を作る。もはや方向をもたない意志はいたずらに自己の中に向かって、日々に深淵を深くする。しかし同時に、深淵に住みうるほど強くない人間は意識のうわべに土を入れる。もしちょっとでも人間が動いたら、くずれ落ちそうな深淵の上の大地で人はしばしを遊ぶ。もし土地がくずれたら、再び人はどこからか土をかき集め、一見堅固そうな遊び場を作る。かくて、人は次から次へと手当たり次第のものを意識につめこみ深淵を覆い、あたかも彼がもはや深淵を超克しえたかのように生きる。しかし、深淵は少なくとも自己から目をそむけたいという意志において人間にかたりかける、その声をも消し去るために、人は再びそのような深淵がもはや己に属しないものと思おうとする。自己をできるだけ浅い方へと移動させ、末梢的な自己を真の自己と思うことにより、蝕まれた自己の中心を人は切り捨てようとする。こうして浅い大地が深淵に対して勝利を叫ぶ。自己がそこの上にきずき上げられ、少しの動揺でそこへと落ちゆく深淵に対して僭越にも大地は勝利をうぬぼれる。しかもそのような僭越なうぬぼれでしか、大地は、たとえしばしですら、深淵に根をはることはできそうにもない。

 それによって己の中に無の深淵を生み出したそれを忘れようとする人間の努力はたしかに成功する。しかし、ここで比較的たやすく忘れられるのは、それによって無が作られたそれであり、それによって作られた無ではない。ここで絶望はそれと関係なく自己がないという形になる。それを通じて起こされた自己の中に鳴る無のひびきは、それが意識から去ったとしても、直接に自己にまつわり、自己が何かを行なおうとするそこに最も鳴りとよむ。自己が自己という言葉を発した瞬間に「ない」という声がどこからともなくひびいてくる。

 このような無の声はいろいろな形で起こってくる。絶望とはそれであろうとしてそれでありえない意識であった。それゆえ、それを離れた絶望はまず「自己がありえない」「自己が無能力である」という形をとる。「おれなんか何にもできはしない」と彼はたえず思っている。彼が何か彼の存在を確証できることを(まさ)にし始めようとするとき、その時おれは駄目だとの声がどこからともなく聞こえてくる。彼があることをなそうとし、その結果、「おれは駄目」なのではなく、最初から、「おれは駄目」なのであり、彼の行為はあたかも「おれは駄目」なのを実証するためのようである。駄目という声は彼がある事柄に今やかかろうとするときに、突然足下から人を襲い、彼の行為を釘づけにしてしまう。彼はちょうど油の切れた機械のように彼の行為の途中で立ち止まり、己自身をこの世で一番愚劣なものと恥じ思うのである。「やはりおれは駄目だ。何もできやしない」と嘆くけれど、彼の嘆きのどこかにすてばちの自足のようなものが漂っている。このような人間が一番好むものは何もできない人間たちであり、最も嫌うものは何かをなしうる人間たちである。それゆえ、彼は人間の有限性を、どんな偉大な人間でもどこかで必ず尻尾を出す有限性を至る所に好んで見つけようとする。こうして彼は彼の不能を人間一般の不能におきかえることによりわずかの気休めを感じる。

 無能力の意識は同時に無価値の意識でもある。彼はそれに価値を見いだすゆえにそれであろうとする。そして、それでありうると思うことにより自己に価値を見いだしている。ところが今や彼はそれでありえない。それゆえ、彼は己が価値から離されているのを感じる。単に一つの価値から見放されているのみではなく、あらゆる価値から見放されているように彼には思われる。彼はもはや自分が生きるべき価値さえもたないように思う。彼は己が草が生え鼠が生きるのと同じようにしか生きていないのを感じる。いやむしろ草や鼠はおのおのの生命を主張しつづけているが、彼はもはや己の存在への確信がもてない。生きる価値を信じられぬ自己が彼にはむしろ草や鼠よりいっそうやくざな存在のように思われる。自己、自己、自己、世の中でもっともくだらぬいやな奴。さっさと犬にでもくれてしまったほうがましなのだ。彼はこうして己を嘲り、己を痛め、そのあげくいっそう己を価値なきものと思いつつ辛うじて生きている。こういう彼に最も耳寄りな言葉は価値の変革という言葉である。在来の価値は歴史的に崩壊し、従来と全く反対の新しい価値秩序が生まれ出ようとしている。とすれば、彼が全く従来のすべての価値から見放されていることが、それだけ新しい価値を担う自己への証拠となりはしないか。かくて、ここで彼は己への絶望を価値への絶望に転化することにより、己への信頼を回復する。こうして思想的なあるいは社会的な革命家が己への絶望を心の奥へとかくしていとも頼もしげな表情で現われる。

 無価値なの意識はまた無意味の意識との類縁をもつ。自己はそうであろうとすることによって目的に生きる。そしてあらゆるものをその目的のための手段と見なす。ものはそれへと向かっていることにおいて意味をもつ。しかし、今やそうであろうとする目的は消え、それゆえものはそれへの向きを失い、それから得ていたものの意味がゆらぐ。このノートは書く意味をもち、あのパンは食べる意味をもつ。しかしもはや生きようとしない人間にとり、ノートもパンも意味をもたない。かくてものは生に必要な遠近法から見られた生々しい意味を失い、でろでろした不気味な存在にかえる。ものと自己との親しみは消え、ものと自己とがばらばらなよそよそしい関係にかえる。しかし、目的が失われることによって意味を失うのは何よりもまず自己である。自己はそうであろうことによって自己の意味を見いだしていたはずなのに、そうでありえない今、自己の存在している意味は無に帰する。ここで自己も、ものもお互いにその確固たる存在性を失って、無意味で不気味な空間に投げだされ、何故とも知らずただそこにあるものと見られる。

* 誠実に生きるとき絶望は必然である

 要するに、絶望は自己が無能力無価値無意味の意識であり、自己が救いようのないくさりゆく病におかされている意識である。そこでは一切のものが凍え、一切のものが堪えがたい。しかし何より堪えがたいのはこの自己であり、自己的なものである。人は自己的なものから脱けだそうとしてもがくけれども、あらゆるものがない国はあっても、自己のない国はない。自己が自己より脱けだそうとする速さと同じ速さで自己が自己を追い、あらゆる行為に自己にとって最もいやな自己という印をおしてゆく。こうして、自己的なものは堪えがたい悪臭を発しつつ、彼のまわりをとりかこみ、彼をしてもはや生きることさえできぬ自棄の谷へと投げる。いったいここで彼の存在の証拠とは何か。それは彼がたえずくさりゆく臭いを発していることではないか。いったいここで彼の存在の誇りとは何か。それは彼が己に、もはや堪え切れぬ嫌悪を感じつつ生きていることではないか。自己は自己から背き去る最後の一点において、己に執着している。そしてあらゆる自己は不確かであっても、自己に絶望している自己のしぶとさへの確信が彼の生の唯一の存在理由になっている。

 しかし、このような凍った時間に生きる人間は自己への絶望のあまり自己ならぬ神をはげしく求める。この忌わしい自己と全く離れた絶対的実在者。しかもこの忌わしい自己を救ってくれる光に満ちた実在者。そのような神の名を引きさかれた時の中で人はしきりに呼ぶ。しかし、自己と全く離れて実在するほど自己的でなく、自己を救いうるほど自己的でもある神が容易に見つからないとき、神を求める飢え切った心は石の中にすら神を見るのである。石を神にするために彼の夢見る実在者の理念をそのまま石に認めうるかのようにひそかに己の心を仮想し、その仮想された神により己の実在を確認するのである。自己と自己とが、互いにうつし合い、かみ合い、のろい合い、無限に死の相を呈するこの絶望の白己意識から脱けだすために、人は神をごみだめの中からですら探しだす必要があるのである。

 近代とは人間が神から自己をとり返した時代であったといわれる。デカルトの「我思う故に我在り」の自覚には神学的な一切の人間観から離れて自由にものを考える我への喜びがあった。デカルトの懐疑はけっして暗い自虐ではなく、この自己を意識する自己の絶対的確実性へと到達する手段にほかならなかった。目我よ。自由よ。自己意識よ。近世はこれらの言葉を祭壇にまつり上げ、わいしょわいしょとミコシをかついだ。カントはこの自己意識の立場から一切の絶対者、神、不死、自由を裁いたさめた人であり、ヘーゲルはこの自己意識の運動の中に絶対精神を見た酔える人でもあった。しかし、いったい自己意識とは何か、自己が自己を冷たく眺めた時そこに何を見いだしたか。それであろうとする人間の自由意志はいったい何にぶつからなければならなかったのか。人間のたゆまぬ努力により黄金にみのり今や刈り入れのみをまつはずの自己の畠を、たちまちにしておそった嵐は何であったか。今や人は苦い顔してすっぱい味のする自我の実を食べる。そして人は不毛の畠をにげて、自我のない国を求めて、どこかへ行こうとしている。

 希望から不安へ、不安から絶望への情念の推移は必然的なものである。昼があるならば、必ず夜がやってくる。そして昼があまりに誇張された人間的な光に満ちすぎているならば、あらゆる真理を冷たい光であらわにする夜は昼の愛好者にはあまりに無情なものかもしれない。でもしかし夜は必ず来る。在来のあまりにまばゆい光にだまされた人間の白昼の夢を裏切って夜はわれらの足下にすでに来ているではないか。しかし、人はこのうつり来る夜を最小に(とど)めようとしている。せめて不安であってもよい。しかし絶望だけはおことわりである。人はもはや自己の求めるそれをあいまいにしている。彼は自分がほんとうに何を求めているかを自らにかくし、何かを求める。それでありうるならば、彼はそれであろうとしたにちがいないのだ。それでありえなかったなら、実はそれであろうとしなかったのだ。このようにして彼はいつも自分の求めるそれをあいまいにし、情熱の統一をさけようとしている。現代人は分裂的であるという。しかしひょっとしたらこの現代人の分裂的性格に人間の最後の闇よりの逃げ道がありはしないか。

 その上、現代人は自己から目をそむける手段においていちじるしく創意的である。人は人間とは何であるかを考えるひまがあるくらいなら、いかにして人間から眼をそらすかを考える。魂の救いなどという小便臭い疑問は人間の屑である時代おくれの哲学者にまかせておいて、ひまがあったら、事業に遊びに一時の熱をあげたほうがましなのである。忙しく動く社会。忙しく走り回る人間。この忙しさはいったい何のためであるのか。前からたえず迫ってくる死までの時間を引きのばそうとする人間の懸命の努力ゆえなのか。それとも自己の姿をまともに見るひまをさける人間の無意識の努力ゆえなのか。とにかく現代は騒音に満ちている。ちょうど恥ずかしい思い出に苦しめられる人間が大声を出して、その思い出を消そうとするように、これほどまでに騒かしい音によって忘れねばならぬものはったい何なのか。けっきょく現代ではあらゆる文明が騒音に還元される。新聞ラジオはもちろん騒音の第一の伝達者であり、芸術家とかいわれる人すらも海のあなたからくる騒音の感受に忙しすぎるようである。

 こういうもはや絶望することさえできぬ絶望的な現代人の中にあって、反時代的であるほど誠実に時代的に生きる人間にとって絶望はむしろ必然の運命である。人はこの絶望からいったいどこへ行こうとしているのか。人は近代人の血と汗でえた冷静な自己意識を捨て、神を求める熱い心からそのまま神の実在を信じ、神の実在を証明するほど、熱狂的に自己からそむこうとすべきであるか。それともまた、もはやあらゆるものからの自由からの自由に飽き、自由を求めて、自らを無情で強力な政治組織の細胞とするほど、行動的に絶望からのがれるべきなのか。それともまた、もはや深みに住みうるほど浅い人生観を越え、故意に己をあざむいてこの人生のうわべだけを信じて、軽みの中に羽毛のように漂うべきものであるか。それともまた、もはやさび切った理性の槍を手にもって、この絶望という情念を一さしにしうると自惚(うぬぼ)れるほどの見当ちがいの勇気をもつべきものであるか。それともまた。それともまた。道は自由である。いずれにせよ、せめて最も新しい徳である自己に対する誠実さだけはもちたいものと思うのもまたはかない望みであろうか。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/08/31

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梅原 猛

ウメハラ タケシ
うめはら たけし 哲学者・作家 1925年 宮城県に生まれる。文化勲章。第13代日本ペンクラブ会長・初代ペン電子文藝館長。

「闇のパトス」は、1951年10月25日刊行の同人誌「道程」第1号に掲載。のち単行本『笑いの構造』に収録。

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