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「遊蕩文學」の撲滅

   

 精神的文明の頽廃と糜爛(びらん)とに促されて、徳川幕府の中葉以後現れ初めた文学上の一傾向であるが、我国の文壇には、予の自ら呼んで以て「遊蕩文学」となすところのものが、久しい間非常な勢力を(ふる)つてゐた。現に明治期の事実に照して見ても、硯友社(けんいうしや)一派の文学のごときは、その本質に於いて、多く「遊蕩文学」の域を去るものではなかつた。然るに日露戦役以後、自然主義の勃興につれて、藝術に対する新しい自覚が吾々の意識に上り初めてから以来、(やうや)く文壇の一角にのみ残喘(ざんぜん)を保つてゐた、斯くのごとき文学的傾向が、最近に至つて再び文壇一般の人気に投じ、且つ、かかる作品を創作する作家が、最も世俗的意味のボピュラリチーを博せんとするの傾向あるを示してゐる。

 果して然らば、予の所謂(いはゆる)「遊蕩文学」とは(そもそ)も如何なるものか。――この疑問に対して適宜の解釈と説明とを与へることは、国家の藝術的発達に対して常に真面目な考慮と研究とを怠らない人士に向つて、所謂「遊蕩文学」の本質に関する徹底した知見と評価とを与へることであり、兼ねて斯くのごとき文学的傾向が最近に至つて漸次その勢力を増進しつつありといふ事実が果して(よろこ)ぶべきか否かといふ問題に就いての誠実なる考究を強要することでもある。この意味に於いて、予は以下すこしく詳細なる説叙を費して見たいと思ふ。

 

   

 予の呼んで以て「遊蕩文学」となすところのものは、主として遊里に於ける“Saufen und Huren”(ドイツに於ける某文学史家の語、適切なる訳語なきが故に、(しばら)く原語のまま襲用す。)を中心とした人間生活——言葉を換へて云ふと、人間の遊蕩生活に纏絡(てんらく)する事実と感情とに重きを置いて、人性の本能的方面に於ける放縦淫逸(はうしよういんいつ)なる暗黒面を主題とし、好んで荒色耽酒(くわうしよくたんしゆ)の惑溺境を描出せんとするものである。従つて「遊蕩文学」の徒が慣用する藝術的境地は、常に酒楼と娼婦とに囲繞(ゐねう)せられた淫華狂噪の世界であつて、吾人の実生活を経緯する大部分の境涯、即ち、静謐(せいひつ)なる感情と冷徹なる理知とに依つて司配せられた生活に至つては、彼等の殆ど一顧をだに払ふを快しとしないところである。

 (けだ)し、彼等「遊蕩文学」の徒の根本的態度に於いて著しく看取せられる特徴は、彼等が一様に人間生活に於ける“Saufen und Huren”の一面にのみ興味(乃至(ないし)価値)を感じ、大体に於てかかる生活を肯定しようとする意思を暗示するところにある。(いな)仮令(たとひ)肯定しないまでも兎に角“Saufen und Huren”に人間生活に於ける最も重大なる意義を発見しようとし、“Saufen und Huren”の生活に従属する総ての生活情調に陶酔して、あくまで人間の理知(もし)くは意思によつて統整せられる生活を蔑視しようとするところにある。この意味に於いて、彼等の根本的態度を律する人生観的傾向は、(おほむ)ね現世的(彼等自身は現実的と云ふを欲するであらうが、決して現実的とは云へない。)であり、主情的であり、享樂的であり、頽廃的である。

 (しか)のみならず、かくのごとき彼等の人生観的傾向は、内部生命の必然なる要求に(はぐく)まれた誠実なる体験と精到なる思索との修練を経由したる生活経験の所産ではなくて、多くは個人の気質に(つちか)はれた趣味性の発露たるに過ぎないから、厳密なる意味に於いて、「彼等自身のもの」ではない。――彼等の文学が概ね軽佻浮華の色を帯び、藝術の本質を閑却して、常に彫琢(てうたく)の末技をのみ()はんとするの傾向を有するのは、全くこの原因に基くものである。

 しかも「遊蕩文学」の徒が心窃(ひそ)かに得意とする彫琢粉飾の(わざ)に於いても、彼等の有する技巧は単に形式外容の糊塗に過ぎないものが多く、従つて、創作せられたものの有する美しさは、本質そのものに何等の根差しもない形態上の美感に留まつてゐる。この種の形態上の美感は、彼等の描出する“Saufen und Huren”の趣味生活をして、益々鼻持ちのならない醜悪にまで近邇(きんじ)せしめるのみであつて、藝術的には何等の效果をも創出してゐない、最も適切な、最も具体的な比喩を借りれば、「遊蕩文学」の有する美しさは、徹頭徹尾娼婦の有する美しさに依つて象徴せられてゐる。

 

   

 上述のごとく、予の所謂「遊蕩文学」は、等しく“Saufen und Huren”の生活を肯定的に描出するものではあるが、人生に対する真面目な懐疑と苦悶との洗礼によつて見出された最後の誠実なる「信仰」を告白するものではないから、かのオスカー・ワイルド一流の享楽主義の文学とは、全然その本質を(こと)にしてゐる。言葉を換へて云ふと、前者の享楽的態度は単なる趣味生活の所産であるが、後者の享楽的態度はあくまで信仰生活の結果である。従つて、後者を代表する作品が、多くその主観的背景に沈痛なる悲調を(ひそ)め、惻々(そくそく)として人を動かすだけの力を有するのに反し、前者を代表する作品を彩るものは、概ね(うは)つ調子のけばけばしさに過ぎない。「通」と呼び、「(いき)」と称する浅薄なる人間生活の技巧化が、洗錬されたる人間生活の藝術化と同視せられて、(やや)もすると、不合理なる跋扈(ばつこ)(ほし)いままにするのも後者の世界である。

 また、「遊蕩文学」はその描かんとするところの“Saufen und Huren”の生活を以て、人間生活の真実なる一面なることを主張せんがために、自家の偏執なる主観を交へず、あくまで純粋客観の立場に終始して、人間生活の暗黒面をその細微に(わた)つて披発(ひはつ)しようとするものではなく、その“Saufen und Huren”の生活中に自己を没入して、あくまで特趣の生活情調を楽しまうとするものであるから、かの自然主義文学に依つて示された藝術的境地よりも異なつてゐる。從つて、われわれが自然主義文学に依つて屡々教へられるごとき、人生に対する深刻なる批判なり評価なりを、到底前者の藝術的境地から汲み取ることは出来ない。(いは)んや前者の藝術的境地は与へられたる人生を生々(なまなま)しき現実に於いて凝視するよりも、(むし)ろ一種の回避的態度に依つて、これを朦朧たる意識の(うち)に誤魔化し去らうとするのであるから、人生の真実味に根差したものと云つては、殆んど何物をも見出すことは出来ない。予が如是(かくのごとき)文学的傾向を説明して、既に「現実的ではない。現世的である。」と断つて置いたのは、全くこの点を意味したものである。されば、自然主義勃興当時、一派の批評家等が、(やや)もすると、西鶴とモーパッサンとを同列に置いて論じようとしたことなどは、勿論彼等の浅見と没理解とを曝露したものに過ぎない。

 また「遊蕩文学」は好んで人生の表裏に纏絡(てんらく)する生活情調を描かうとはするが、その生活情調に一種の「哲学」を見出し、その「哲学」によつて、あらゆる人生現象を解釈し去らうとするものではないから、最近のヰーン文学などに於いて見られるやうな所謂情調藝術とも異つてゐる。殊に「遊蕩文学」の徒が読者の低劣なる興味に迎合せんがため、わざわざ猥穢(わいあい)なる衝動的事物を描出する点に至つては、藝術家としての彼等が有する見識は、昔時(せきじ)帳中秘戯の細写を職業とした春本(しゆんぽん)作者のそれと、その間に何等の軒輊(けんち)するところもない。試みに、坊間流布の春本と、戯作者(げさくしや)の作と、シュニツレルのある作とを比較せよ。(けだ)し、思ひ半ばに過ぎるものがあらう。

 要するに「遊蕩文学」の本質といふべきものは、前三者の欠点乃至(ないし)弊所の集団であつて、その中に幾分たりとも藝術的のものがあれば、それは一種の詩的情調であらう。しかも、その詩的情調たるや、単に語彙句法の彫琢と、感傷咏嘆の濫費とによつて捻出せられたものであるから、深く人間の内部生命に滲徹(しんてつ)して、沁々(しみじみ)吾人を動かすに足るだけの尖鋭なる力もなければ、また放縦なる空想を駆使して、全く現実の人間生活を忘却せしめるに足るだけの魅力もなく、ただ(わづか)に婦人小児の涙を促す安価なる感激と、俗物愚衆の興味を唆る低劣なる情緒とを有するばかりである。蓋し、この種の文学が屡々通俗的勢力を得るに至るとともに、また世道人心に著しき影響を及ぼす所以(ゆゑん)のものは、全くこの点に存してゐるのである。

 

   

 予の「遊蕩文学」に対する一般概念に就いての説明は、以上の叙述に於いて略々(ほぼ)尽してゐると思ふが、然らばこの一文の冒頭に於いて、予が明言して最近の「遊蕩文学」を代表する作家は、果して如何なる人々であらうか。——この疑問とともに、直に予の脳裏に浮かび出づるものは、長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄、近松秋江諸氏の名である。その他の屑々(せつせつ)たる徒輩に至つては、わざわざ(ここ)に列挙するほどの必要もあるまい。

 これら諸氏の作品が、その内容形式に多少の差違こそあれ、大体に於いて、予の所謂「遊蕩文学」の範囲を出でないことは、平生氏等の作品に親しみ、且つ、上述の詳細なる予の説明を理解してゐる人ならば、何人(なんぴと)(いへど)も、直に承認するであらう。実際氏等の描くところは、殆ど遊冶郎(いうやらう)と醜業婦との間に於ける“Saufen und Huren”を中心とした生活であつて、それらの作品に藝術的価値の著しく稀薄なることは、一般の「遊蕩文学」に就いて予が縷述(るじよ)した通りである。然るに氏等は文壇の一角に幡居して有力なる地歩を有するばかりでなく、最近の傾向から察すると、寧ろ文壇の通俗的勢力に於いては、到底他の諸作家が企て及ばないほどの強味を有してゐる。現に、道途(だうと)伝ふるごとくんば、長田幹彦氏は一般読書界から最も歓迎せられる作家であり、また吉井勇氏の歌集は、晶子女史を除き現代歌人の歌集中最も売れ行き(よろ)しきものであるといふのを見ても、充分這般(しやはん)の消息を(うかが)ふことが出来る。()()れ近松秋江氏の作品に於けるがごとき低劣なる乞食文学が、()ほ五版十版と版を重ねつつあるといふに至つては、文壇の好尚果して那辺にまで()するか。前途を思ふと、(そぞ)ろに空恐ろしい感がある。

 殊に最近文壇の実状に照して見ても、これまで比較的真面目な作家、比較的藝術家らしい作家として認められてゐた人々が、一面「遊蕩文学」的作家として、その節操を二三にしつつあるの事実が現はれてゐる。これは(もと)より彼等の有する藝術的良心の脆弱なことや、藝術的才分の貧寒なことにも由るであらうが、その原因の一半は、(たしか)に生活上の経済的圧迫に強ひられて、むしろ一般の好尚に迎合すべく、通俗的方面に最後の活路を見出さうとするところにあらう。この事実などは明かに「遊蕩文学」の悪影響を立證するものであつて、善藝術の健全なる発達と繁栄とを祈念するものにとつては、軽々しく看過しがたい重大問題である。この意味に於いて、文壇に於ける「遊蕩文学」の存在は、(あたか)も「獅子身中の虫」といふべきものである。

 

   

 

「遊蕩文学」の作家として見るべき近松、後藤両氏の作品に就いては、予が既にその無価値と無意義とを幾度となく反覆力説した通りであつて、今更かれこれいふだけの余裕も興味も持たないが、爾余(じよ)の諸氏、即ち長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎諸氏の作品に就いては、この機会を利用して、極く簡単に予の見るところを語つて置きたいと思ふ。

 長田幹彦の作品は、氏が始めて文壇に紹介せられた当時のものこそ、(さすが)に純真なる藝術的感激の産物たることを示したものもあるが、爾後氏が文壇の流行児として一般読書界の人気を博するに至つてよりのものは、殆んどそのすべてが売文工匠の手になつた贋造藝術たるを思はすものばかりであつて、近松氏の作品とともに、わが文壇に於ける典型的な「遊蕩文学」である。従つて氏の作品も、また近松氏のそれに於けるが如く、単に実在の形式にのみ跪拝(きはい)する幼稚なセンチメンタリズムと、生命の外容にのみ憧憬する劣等なロマンチシズムとの所産であつて、到底高等な藝術批評の享受に均霑(きんてん)さるべき性質のものではない。殊に低級読者の至大な喝采を博しつつありといふ氏一流の繊軟柔麗なる筆致の如きも、これまた近松氏の慣用する俗悪下凡の(ぬえ)的技巧と相距ること五十歩百歩の代物(しろもの)であるのを見ると、仮令(たとひ)その間に如何なる理由が介在するにしても、氏が獲得したる今日の文壇的地位は、兎に角奇怪事だと評するの他はない。(おも)ふに、氏のごとき作家は最早高級なる文学界に首を突込んで、かれこれ藝術家並の口を利くべき柄ではあるまい。寧ろ従順に、且つ謙虚に、所謂通俗小説家等の世界に退いて、せつせと金儲け大切と心掛けるのを得策とするであらう。予は、文壇のため、また氏自身のために、敢てこれだけのことを勧告して置く。

「遊蕩文学」の作家の一人として、予が吉井勇氏の名を挙げたのは、戯曲家としての氏に対してよりも、むしろ歌人としての氏に対してである。今更説明するまでもなく、氏の短歌は遊蕩児の生活と感情とを、浮華な、衒誇(げんこ)な、繊麗な文句を以て歌つたもので、形式に於いては、兎に角抒情詩であらうが、内容に於いては、ただ浅薄な感傷と憂悶とがあるだけである。尤も氏の短歌には、前掲両氏の作品に於けるがごとき一種の卑俗と嫌味とが乏しく、且つ、作歌の技巧に氏の天分に具はる一種の巧緻が存してはゐるが、その内容の空疎にして、その態度の浮華なる、到底「遊蕩文学」の範囲を出でない。これは余談であるが、予は人ごとながら、いい年齢をして、「紅燈行」だとか、「柳橋竹枝」だとか、「芳町哀歌」だとかいふやうな、たわいもない、脂肪ざかりの少年でも云ひさうなことが、いつまでもよく云つてゐられるものだと思ふ。

 最後に久保田万太郎氏に就いて、一言を附け加へる。氏の作品はこの種の作品中にあつて、比較的粉膩(ふんぢ)の厭ふべき匂ひが乏しく、且つ、色気と衒気との紛々を擺脱(はいだつ)しえたところはあるが、大体に於て、矢張「遊蕩文学」の失を多分に備へてゐる。殊に氏の作品のあるものに至つては、如何なる点から見るも殆んど無意味に近いものがあつて、その製作衝動の果して那辺に存するやが疑はれる場合もある。これは作家の心境に捕捉されたる藝術的境地の不確実を語るものであつて、旧「三田文学」の諸作家に通ずる一般的欠点である。

 

   

 以上予の縷説するところによつて、所謂「遊蕩文学」なるものが、藝術的にどれだけ無価値であり、無意義であるかは、大抵想察することが出来るであらう。しかも、この無価値であり、無意義である「遊蕩文学」が、直接間接に及ぼす悪影響に至つては、独り善藝術を滅ぼして、悪藝術を助長するがごとき文壇的傾向、――即ち、優秀なる文学及び文学者の成長発達を阻碍(そがい)し、読者の藝術的自覚を低劣ならしめるごとき傾向を醸成する(おそ)れがあるばかりでなく、更に他の一面に於いては、一般の世道人心に於ける頽廃と糜爛とを挑発して、人間の誠実なる精神生活を蠧毒(とどく)し、健全なる倫理的意識を稀薄ならしめる危険がすくなくない。(いは)んやかかる功利的見解は那辺に堕するにせよ、予は予の約束する藝術の理想よりして、絶対にかかる文学的傾向の存在を容認することは出来ない。何故なれば、予は自己をより善くし、より完きものにしようとする努力のもとにのみ、真当(ほんたう)の意味の藝術が生れて来ると信じてゐる。而して、かくのごとき努力は、人生に対する真摯(しんし)なる考察と、誠実なる態度と、素樸なる感激とに依つてのみ(はぐく)まれ、遍満せる倫理的意識に依つてのみ育て上げられる。――この事実は古来の大藝術を見てもすぐ分るだらう。

 かやうな意味に於いて、予が最も熾烈(しれつ)なる嫌悪の念を以て対するものは、云ふまでもなく、前記「遊蕩文学」の諸作家である。予が個人として何等の恩怨をも有しない諸氏の作品に対し、毫も仮借(かしやく)なき批評を加へて顧みないものは、全くかかる信念に、憑依(ひようい)するからであつて、更に率直なる予の感情を披瀝すれば、予の藝術に対する理想と諸氏のそれとは到底両立しないもの、従つて、予は予の信念に忠ならんがため、またしかすることによつて、予自身の誠実なる自己に生きんがために、あくまで諸氏の藝術に対して宣戦せざるを得ない。諸氏の藝術が事もなく栄えることは、(やが)て予の藝術的理想が地に()したことを意味するものであつて、到底予の忍従する能はざるところである。されば予は予の一般藝術に対する批評の筆を棄てざる限り、あらゆる機会と、あらゆる方法とを尽して、かかる「遊蕩文学」の撲滅に専心する考へである。

 

   (大正五年八月六日「讀賣新聞」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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赤木 桁平

アカギ コウヘイ
あかぎ こうへい 評論家 1891・2・9~1949・12・10 岡山県阿哲郡に生まれる。鈴木三重吉の推輓でこの筆名も得、漱石の木曜会にも参加。後、神経衰弱等により文壇を去り実業また衆議院議員として国粋的に政治に関わり敗戦後A級戦犯として巣鴨拘置所入りし、罹患釈放されたが死去。

掲載作は、1916(大正5)年8月の「讀賣新聞」に公表、論戦の渦を巻いた。「白樺」評価にも一石を投じるなど過激なほどの問題提起で存在を示した。こういう議論も有った、ということである。

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