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八十里越を行く

               小探検のつもりで

 越後長野温泉をあとに、待たせておいたタクシーに乗りこみ、八十里(ごえ)の起点、吉ヶ平(よしがひら)へと向かう。

 すでに夕刻だった。長野温泉の湯は透明だが、ぬるりとして、からだが芯から温まる。湯あがりのほてった肌に、車窓から洩れ入る冷たい空気が心地よい。が、なにやら湿った感じがあった。

「こりゃあ、雨が来るなぁ」

 助手席に坐った牧野ドクターが呟く。

「これじゃ、明日の山行(さんこう)はむりですね。この寒さだし、いっそ温泉に戻って、ゆっくりくつろぐっていうのは、どうですか」

 そう言うのは、トカゲ目の藤野くんだ。私は脇から彼をにらみすえて、

「なにを寝ぼけとるんだ。だいたい、この土日しか、からだがあかないと言ったのは、きみなんだぞ」

 当初の予定は十月だった。それを、アルバイトだの法事だので忙しいというトカゲ目くんの都合にあわせ、十一月のなかばまで延ばしたのである。

「紅葉には遅いし、雪には早い……ひたすら寒いだけの季節じゃないか」

「それに、冬ごもりにそなえて、飢えたクマがうろついてるかもしれませんしね」

 法大ワンゲル部元主将の川島くんが、合いの手を入れた。マミーこと竹内真由美嬢は、ひとり黙って、ニヤニヤ笑っている。

 マミーをのぞいた、あとの四人はみな「アルビレオの会」のメンバーだった。一昨年の夏、私は講師を務める法政大学の調査探検隊の一員として、中国の西域タクラマカン砂漠におもむいた。「アルビレオの会」とは、探検後にそのおりの有志がつくった会で、年に何度かあつまって酒を飲み、山や探検のことを語る。ときには、じっさいにどこかへ出かけようという会である。

 その初回の企画として、こんどの山行の件をもちだし、みんなを誘ったのは私だった。

 現在私は、ある歴史小説にとりくんでいる。それは、尊皇と佐幕の両派が争った幕末の戊辰(ぼしん)(えき)中、もっとも重要で熾烈(しれつ)だったといわれる北越戦争――このとき、東(佐幕)軍の中心となった越後長岡藩の家老兼軍事総督、河井継之助(つぐのすけ)を主人公としたものだ。彼は、(いく)さのさなかに敵の流弾を足に受けて負傷。西(尊皇)軍の追っ手をのがれて、奥越後の吉ヶ平から八十里越を抜け、会津只見(ただみ)へと敗走する。

 そうしてあげくは只見のはいり口、叶津(かのうづ)の里に至り、隣村の塩沢まで進んだところで絶命するのだが、私は自分の取材も兼ねて、継之助の敗走のあとをたどってみよう、と思った。

 私の父母の実家が吉ヶ平と同じ南蒲原(かんばら)郡の下田(しただ)村にあって、幼少時には私もしばしば逗留(とうりゅう)、土地勘もあった。

 八十里越は「現実には八里だが、一里が十里に匹敵する」という難関で、かつてはともかく、今は歩く人も少なく、道は荒れ放題に荒れはてているという。タクラマカン砂漠とはえらく違うが、〝小探検〟のおもむきぐらいはあるのではなかろうか。――

 その私の誘いに乗ってきたのが、ドクター、トカゲ目くん、そしてワンゲルの元主将の三人だったのだ。ドクターは三十なかばの精神科医で、あとの二人は現役の法大の学生。これに直前になって、元主将の山友達だというマミーがくわわることとなった。

 吉ヶ平は、上越線の東三条から信濃川の支流、五十嵐川に沿って、東方へ約三十五キロ。細長く延びる下田村の最奥に位置し、以前は村落もあったが、過疎(かそ)化の一途をたどり、ついにすべての住民が離村してしまった。今は元の分教場を改造したという山荘が一軒あるのみで、無人の里になっている。

 当然ながら、直行のバスの便などはない。それで、われわれ一行は東三条からタクシーに乗り、途中このあたりで唯一の温泉、長野温泉に寄ってから向かうことにしたのだった。

               吉ヶ平山荘に着く

 長野温泉の先にも二、三の村落はあったが、やがてはまるで人家も絶え、あたりが漆黒(しっこく)の闇につつまれるというころ、行く手にようやく山荘の灯が見えてきた。吉ヶ平に着いたのだ。

「ははぁ。なるほど、昔なつかしい木造校舎のたたずまいですな」

 トカゲ目くんはこびろい庭先に立ち、例によってとがった眼を細め、板張り二階建ての古ぼけた建物を感心したように眺めている。が、ほかのみんなは、それどころではなかった。予想どおり、雨が降ってきたのだ。冷えこみがきつく、歯先がふるえて鳴るほどだった。宿の主人に手招きされて、開き戸をくぐり、急いでなかにはいる。

 通されたのは、一階の二十畳くらいある広間だった。左手のベニヤの壁に(すき)や鎌などの農具が飾られ、右手の壁には黒板が据えられている。

「ここは教室だったんですかね?」

「いえ、体育館というか、講堂みたいにつかわれていたそうです」

 私の問いに、主人の(やなぎ)弘紀さんが答えてくれる。主人とはいっても、まだ若い。やぎひげに長髪。その髪をカラフルなバンダナでとめている。二十七歳で、独身。十ヶ月ほどまえまでは、新潟大学の大学院に籍をおく学生だったのだという。それが、どうして?

「いやぁ、ひょんなことから、こうなりましてね」

 ここが山荘となったのは、吉ヶ平が閉村して三年目、昭和四八年のことである。下田山岳会や下田村観光協会が(きも)いりとなり、ながらく守門(すもん)岳や八十里越の基地とされてきたのだが、一年前に先代の主人が山を下りることになった。

「それで、ここも閉鎖して、燃やしてしまおうという話になったんです」

 そのニュースを地元の新聞で読んだ柳さんは、もったいない、登山者のためだけでなく、もっと幅広く活用できるのに、と考え、この山荘の管理をうけつぎたいと申しでた。彼は地質鉱物学を専攻、山や自然にも興味はあったが、かたわら新潟市で子供会活動などにとりくんできていた。夏のキャンプにはもってこいではないか、というのも柳さんの頭にはあったらしい。

 申し出が通って、この四月に再開。儲かりはしないが、山菜採りやキノコ狩りの客も立ち寄るので、そこそこにやってきた。

「べつに勤労奉仕というわけではないんですけど、ここで休まれる方はどうぞ、泊まるのもけっこうですよ……基本的に、御代は志で、ということにしているんですよ」

 そう言うのは、番頭格の石崎俊明さんだ。彼は柳さんと地域活動を通じて知り合い、この山荘の話を聞いて、手伝うことにしたのだという。

「……それでなんですね」

 いくらなんでも、いまどき一泊千六百円は安すぎる、と思っていたのだ。おまけに、本来は十一月の初めで閉じるところを、われわれのためにわざわざ開けて待っていてくれたのである。

「そのかわり、自炊が原則ですし、寝床なんかもまだきちんと整ってはいませんよ」

 なにしろ資本金五十万で始めたとのことで、その金は軽トラックと発動機の代金で消え、あとはあちこちからの貰いものばかりで補ってきた。

「庭の整地したり、沢の水を引いたり……ぜんぶ自分たちでやってきました」

 柳さんの言葉に、石崎さんが大きくうなずきかえしたとき、

「お待たせしましたっ」

 元主将とトカゲ目くんが、大鍋をかかえてはいってきた。若者三人が奥の土間での炊事役を買ってでてくれていたのだ。

「ごった煮ですがね、あったまりますよ」

「よし、たっぷり精力をつけて、明日の山行にそなえよう」

「あれ、まだ登る気でいるんですか?」

 トカゲ目くんは、真顔でそんなことを言っている。

               雨中の出発

 翌朝は午前六時に宿を出た。雨がまだ降っているが、小やみになり、とどまって様子をうかがうほどではない。一同、雨具を身にまとい、傘を差しての出発である。

 宿のすぐ左手を、守門川の濁流が流れている。ふだんはもっと清澄な水をたたえているのだろうが、夕べは瀬音(せおと)と山荘の窓を打つ雨音が気になって、眠れなかった。かなりの規模の低気圧が、日本列島一帯をおおっているそうだ。トカゲ目くんではないが、やはりあまりひどかったら、見合わせるしかあるまい、と考えていたのである。

 そうでなくとも、道はわるく、そこここ崩壊していて、案内人なしでは無理だろう、と入手した土地案内の本には書いてあった。

「いま時分には、誰も山にはいっていないでしょうしねぇ」

 と、柳さん、石崎さんも心配顔でいたのだ。が、それでこそ本当に〝探検〟めいてくるのではないか。また、私はともかく、ほかの誰もが現役の山男山女なのである。まぁ、最悪の事態だけは避けられるにちがいない……。

 守門川にかかる樽井(たるい)橋のたもとに、道標があった。

「右、大池―守門川に至る 左、雨生(まごい)池―八十里」

 これにしたがって、橋を渡り、元の(やしろ)の下の道を左折して進む。このあたりは里道で、ぬかるんではいるが、踏み跡がしっかりしており、歩きやすい。

 ただ、あたりはまだほの暗く、両側はびっしりと熊笠が生い茂っていて、ぶきみな感じではある。じっさい、「クマに注意」の看板がやたら眼につく。

 このクマ対策に関しては、私は一同にそれぞれ工夫してきてほしい、と言っておいた。私自身は携帯用のラジオをひとつと、陶器の鈴を持ってきた。クマはよほどのことがないかぎり、人間を襲ったりはしない。音さえたてれば、向こうでおどろき恐れて、逃げてゆく、と聞いていたからだ。

 みんなも似たようなことを考えたとみえ、トカゲ目くんは羊の首などにつける銅の鈴、元主将もラジオを持参してきていた。ドクターのオカリナはしかし、クマ撃退にきくのかどうか。聞くにたえぬ、と逃げだす可能性はあるけれど……マミーにいたっては、赤子の遊ぶガラガラをまじめな顔で手にしている。

 元主将はほかに、小振りの(なた)を用意してきていたが、これも現実にクマと向かい合っては、頼りにはなるまい。

 「いやぁ、クマより、わたくしは夕べのカメムシのほうがずっと怖かったですね、はい」

 トカゲ目くんがのたまう。

 昨夜は、主人の柳さんが急用あって車で新潟に帰り、番頭格の石崎さんをまじえ、みんなして夜半近くまで飲んだ。そして、ほろ酔い気分で二階の寝室へ行き、それぞれ二段ベッドの好きなところに寝ようとした矢先、

「わぁ、カメムシッ」

 と、マミーが叫んだのだ。見ると、なるほどベッドの上に、何十匹もの亀の形をした小指大の虫が群がっている。

「これ、臭いんですよね。こう、シンナーが腐ったみたいな変なにおいを発するの」

 言うが早いか、悪臭に襲われたとみえ、マミーは鼻をつまんでいる。カメムシはその身に危険を感じると、においを発する習性があるようだ。

 一同、必死になって虫どもを追い払い、おかげで酔いもさめてしまった。私が眠れなかったのは、そのせいもある。

 

 さて、里道をしばらく行くと、左手に吉ヶ平の旧墓地が見えてきた。離村した人びとの先祖の墓にまじり、今から八百年ほどまえ、ここで亡くなったという(みなもと)仲綱(なかつな)の墓標も立っている。

 源仲綱は、平家との戦いに敗れ、会津側から峠を越えてこの地に落ちのびてきたが、ここで病没。その家臣がとどまって、仲綱の墓を守ることになった。それが吉ヶ平の発祥といわれている。

 江戸期の初めころまでは、まさに〝隠れ里〟で、八十里越も獣みち同然だったらしいが、天保年間に大規模な改修工事がなされ、人はおろか、牛馬も通れるほどの道になった。古来、織物で栄えた栃尾(とちお)見附(みつけ)の町までは二十キロ前後。峠の向こうの只見(ただみ)周辺は、その素材となる絹の産地で、養蚕が盛んだった。おのずと交易の必要が生まれ、塩や海産物なども馬の背に負わせて運んだという。

 八十里越が「会津街道」とよばれたのも、そのころのことで、明治にはいると、さらに重要性は増し、ふたたび道は整備されて、県道にまで昇格。宿場の村として吉ヶ平も繁盛したが、明治三二年、新潟方面から平野部を抜けて会津へ向かう磐越鉄道(現JR磐越西線の前身)が開通してからは、衰退の一途をたどった。

 幹道沿いの〝中継点〟が一転、〝最奥の村〟と化し、〝陸の孤島〟となってしまったのである。

 八十里越のほうはしかし、最近になって見なおされ、国道二九九号線の工事がすでに始まっている。ただ、地すべり地帯ということで、元の道は通らず、迂回(うかい)する格好で開通するようだ。旧街道はやはり、ときおりわれわれのような物好きともいえる登山者が歩くのみで、荒れるにまかされてしまっている。

 栄枯盛衰(えいこせいすい)――人の世に歴史があるように、道にも歴史がある。そう考えると、ただなんとなく歩いている道に、妙に親しみが感じられてくるから、ふしぎである。

               敗走する継之助の心境は?

 吉ヶ平のいちばんの名所は、雨生池だろう。高校時代に私は、一度訪れたことがある。当時はまだ吉ヶ平にも里びとが住んでいて、行き逢ったおばあさんに、

「あの池には大蛇が()まわっておってのう。金物を投げこむと、たちまち大雨を降らすってこんだがて」

 そう言われ、じっさい、鬱蒼(うっそう)とした原生林にかこまれた池畔に立ったとき、暗い水面から今にも巨大な蛇が躍りでるのではないか、と感じたのを憶えている。

 その雨生池への道と分かれ、われわれ一行は峠に向け、杉林のなかの道を番屋山をまくようにして登りつづける。晴れていれば、正面はるかに守門連峰が望まれるらしいが、いかんせん、厚い雲におおわれてしまっている。

 道幅は狭まり、ところどころ崩れていて、うっかり踏みはずすと崖下に転落しそうな箇所もあるが、気をつけてさえいれば、さして困難ではない。むしろ、そこかしこ雨水がたまっていて、それを避けるほうが大変である。

 途中から、登りが急になった。しかも、大きな石や瓦礫(がれき)が一面に転がっている。雨は降りつづけているが、とても傘を差すどころではない。石をつかみ、それを梃子(てこ)にして登ってゆく。足もとがすべりやすく、何事にもオーバーなトカゲ目くんなどは、転倒しそうになるたびに、「ヒャー」だの「ゲゲゲッ」だのといった奇声を発している。もはや、みなクマのことなど忘れてしまっていた。

 吉ヶ平から一時間、椿尾根の乗越(のっこし)に着き、そこからしばらくは平坦な道を行く。平らになったのはいいが、道はひどくぬかるんでいて、沼地のようになっている。下手に踏みだしそうものなら、膝までめりこんでしまう。誰もがすでにずぶ濡れ、泥まみれである。

 そうするうちに、道はふたたび急な登りになって、またぞろトカゲ目くんのヒャー、ゲゲゲッが連発されたすえに、大滝沢の源流、番屋の乗越に出る。

 この乗越を過ぎると視界がひらけ、(あわ)ヶ岳や矢筈(やはず)岳など、川内(かわち)の山々がブナの林の向こうに見えてきた。

 どうやら、このあたりで例の河井継之助は、自嘲の句を()んだらしい。

「八十里こしぬけ武士の越す峠」

 越後を抜ける、と、腰抜けとをかけているわけだろうが、足に受けた傷が重く、毒に冒されていて、彼は戸板に乗せられたまま、この道を進んでゆく。越後の山川もこれで見おさめとなるかもしれない……そんな予感を抱きながら。

 だが、じっさいの継之助の胸中はどうだったのだろうか。無念の気持ちで一杯だったのか。あるいは……と思ったとき、脇を歩いていたドクターが話しかけてきた。

「継之助は本当に、新政府の大軍を相手に勝てると思っていたんですかね?」

「うーん。勝てぬまでも負けぬ……そう言っていたそうだけど」

「そんなんで戦さをするなんて、無謀にすぎやしませんか」

 そう、それはずっと継之助も考えていたことなのだ。ただ、彼のなかには、そういう表向きの成算とはべつの何かがあったのではないだろうか。

 道理をつらぬく武家の魂。そして、やれるだけのことはやるのだ、という一個の生の燃焼……瀕死の状態でこの八十里の難関を越えながら、ひょっとして彼は無念どころか、満ち足りた気分でいたかもしれないではないか。強大な兵力をもつ敵をさんざんに翻弄(ほんろう)し、一矢(いっし)どころか、二矢も三矢も報いたあげくの負け戦さなのである。

 

 道はこんどは下り坂となり、ほどなくしてブナ沢の渓流に着く。ここから先は水のない川――空堀(からぼり)で、御所平(ごしょだいら)ともよばれている。

「空堀どころか、またまた沼地じゃないですか」

 ぼやくトカゲ目くんをなだめすかしながら、樹海のなか、泥濘(でいねい)の道を進み、もう一度登って、鞍掛(くらかけ)峠。ここは、押し寄せてくる西軍の追討兵をふせぐべく、長岡軍が陣を張ったところである。

「こんな狭いところに陣をかまえたんですかね」

 元主将が眼を丸くしたが、たしかに狭い。平坦にはなっているが、十メートル四方ぐらいの場所なのだ。しかし、だからこそ、西軍もここを攻めあぐねたという。深手を負っていたとはいえ、なおも継之助の戦術眼は狂わないでいたということだろう。

 とまれ、時計の針は正午を指している。われわれ一行はここで昼食をとり、半時間ほど休んで、いよいよ越後と会津の国境、木ノ根(きのね)峠(八十里越)をめざした。

               国境を越える

 破間(はま)川源流の景観を眺め、すこし行くと、また見通しはきかなくなり、いくつもの沢を登ったり、下ったり……そのくりかえしにうんざりしたころ、ふいと視界がひらけ、壮大な山影が姿を現わした。

 浅草岳だった。おりしも雨がやんで、雲間からはわずかながら陽さえ洩れている。霧がまだ中腹にまとわりついてはいるが、長く曳くようにしてそびえる尾根すじが、眼を圧するようである。

「紅葉のころは、さぞみごとだっただろうになぁ」

 言うと、トカゲ目くんは薄笑いを浮かべて、肩をすくめている。

 ほどなく田代平の湿原にさしかかった。尾瀬ヶ原をひとまわり小さくしたようなところで、夏にはミズバショウなども咲くらしく、真新しい木道がしつらえられていた。林道が近くまで通じていることでもあり、相応に観光地化をはかっているかもしれない。

 道なりに歩き、その五味(ごみ)沢の林道に出てしまったときには、ちょっと拍子抜けもさせられたが、すぐにまた旧道にはいり、木ノ根峠に着いた。鞍掛峠よりはだいぶ広く、昔はここにけっこう大きな番小屋が建っていて、継之助ら主従はその小屋で一泊したと伝えられている。

 木ノ根峠から先は、もう会津(福島県)領である。大倉山、駒形山、中ノ又山、と会津の峰々を眺めながら進み、やがて会津山の神といわれる松の木の立つ松ヶ崎の独標に着く。叶津の源流も指呼(しこ)()に望まれ、継之助が絶命した地も間近かと思われた。

「とうとう来たみたいですね。いくつも峠を越えて……」

 ため息まじりに、そう言うマミーに、

「ああ。空も晴れたことだし……あと、ひと踏んばりだ。がんばろう」

 応えたまではよかったが、じつはそこから先が大変だった。道は下り気味ではあるのだが、起伏があって、急な登りも少なくない。このあたりも沢が多く、そろそろみんな疲れてもきているのだろう、沢を渡るたびに、かならずといっていいほど、誰か一人は転倒する。

 私も一度、沢の石に足をとられて、全身濡れねずみになってしまった。おまけに、やんでいた雨がまた降りだしたのだ。風も出てきた。

 すでに午後四時。冬の日が暮れるのは早い。周囲はもう暗くなりかけていた。

「まずいですよ、これは……早く山から下りないと」

 ずっと地図を片手にナビゲーターの役をつとめてきた元主将が、まじめな顔で呟く。

 それからなお半時間は歩いたのに、あいかわらず山のなか。豪雪によって形のゆがんだ腰曲(こしまがり)樹林帯が、はてしなくひろがっている。

 ドクターの腕時計には、標高計がついていた。

「今、どのくらいですか?」

 訊くと、

「まだ七百メートル近くありますね」

 うーむ。唸らされてしまう。下山予定の叶津川畔の標高は五百メートルほどなのだ。二百メートルを一気に下りるだなんて……気が遠くなりかけた。

 そのときだった。

「道が見えますっ」

 元主将が叫んだ。

「道?……道なら、目の前に……」

「違いますよ。道路です、車道ですよ」

 えっ、と言って、眼をやると、左手の木の間から、薄闇のなかに白く道路のようなものが浮きあがってみえる。それだけではない。プレハブの小屋やブルドーザー、トラックの姿もはっきり認められた。国道二八九号線の工事現場らしい。

「すると……」

「下りくちは、もう近いってことですよ」

 はたして、いくらか進んだあたりからは道は左折し、ほとんど垂直に、それこそ一気に落ちこむかたちで下っていた。戸板にのせられた河井継之助も、この坂道を下ったのだろうか……。

「なんだ、この道は……常識じゃ考えられないな」

 ドクターが言った。が、その顔は笑っている。と、まもなく彼は駆けるようにして下りはじめ、元主将やトカゲ目くん、マミーもあとにつづいた。

「だからこそ、八里が八十里に化ける……お化けの街道というわけだ」

 ひとりごちるように呟くと、私もまた下の道路に向かって足を踏みだした。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2020/12/03

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岳 真也

ガク シンヤ
がく しんや 1947年東京生まれ。作家。著書に小説『光秀の言い分――明智光秀好きなので。』(2019年12月、牧野出版)ほかがある。

掲載作は『旅行記はこう書く』(1994年7月、自由国民社刊)よりの抄録である。

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