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『風俗という病い』(抄)

歌舞伎町のネオンと世情

 ネオン街が活気づいた1980年代、またしても、お上による風俗締め付けが行われました。戦後すぐ進駐軍向け公娼制度をつくり、国主導で売春を斡旋していたのが、57年(昭和32年)には売春防止法を施行、64年(昭和39年)の東京五輪開催での弾圧に続き、85年(昭和60年)に施行された新風営法による性風俗取り締まりをここに再現します。この国が何十年かの周期で、大掛かりな風俗潰しを繰り返している具体例です。

 新風営法により、風俗店の営業時間は午前0時までとなりました。施行となる2月13日、日付の変わり目を取材しようと前日夕方からマスコミが歌舞伎町に集まりはじめ、看板が片づけられ、ネオンが消える瞬間はやじ馬が殺到しそれを取り囲むように警察官が動員され、とても異様な光景が広がっていました。

 そうした現場を回ったところ、テレビカメラのライトに照らされたまばゆい通りがある一方で、真っ暗な、ガランとした通りがいくつもありました。

 売春防止法の施行された昭和32年の夜、新宿2丁目の赤線地帯では、至るところで、店の女性と馴染みの客との別れの場面が見られたそうです。

「いろいろあったけど、楽しかった。元気で」などと言いながら、酒を酌み交わす姿は、とても風情があり、しみじみした雰囲気が漂っていたと。ところが新風営法のときはマスコミがバカ騒ぎするばかり。それを横目に喜んでいるやじ馬がやたらと目につき、がっかりでした。「風俗はバイト、お金のため」と割り切る風俗嬢と、その肉体を値踏みする客では情緒も何もあったもんじゃないのかもしれません。

「これで、街がちょっとは綺麗になる」「ボッタクリがなくなればいい」という男性客の声も少なくありませんでした。

 では、その結果、歌舞伎町のネオン街はどうなっていったのか。

 ノーパン喫茶は完全に姿を消しました。ファッションマッサージ、のぞき、ソープランドは生き残った。デートクラブなどは地下に潜り、ポン引きが跋扈(ばつこ)するようになりました。裏情報で客をつり、ホテトルなどに斡旋する動きが出てきた。

 そして新宿のホテルでデート嬢が殺害される事件が世を賑わせます。午前0時まで、という営業時間を建前として守り、しれっと深夜営業を続ける店も多かった。

「優良店」と称する風俗店が相次ぎ、ボッタクリなしの明朗会計、安心安全、お客様本位のサービスを売りにしはじめた。風営法に定められた条項を全て守り、当局に「届け出済み」というシールを入口ドアなどに貼り、優良店の証拠と、印籠のように掲げてあるのですけれども、そこにもカラクリがあり、届けを出しただけで、当局に許可されたわけではないのでありました。安心安全だと、当局によって太鼓判が押されているわけでもない。一見(いちげん)の客からはふんだくれるだけふんだくろうという狙いはそのまま、働く女も、たとえアルバイトでも、笑顔で客の品定めをするようになっていった。

 江戸時代に徳川家が吉原遊郭をつくったように、世の中には必要悪というものがある。いい悪いは別として、それなりに機能しているものは機能させておいたらいい。それはいかんと一掃したところで、法の網の目を潜り、新種が登場してくるのが世の常です。お上はなぜ、規制を繰り返すのでしょうか。

 時は流れまして2004年、石原慎太郎都知事(当時)の旗振りで行われた「歌舞伎町浄化作戦」。私は石原都知事の腹の奥を覗き込む機会を得ました。

「慎太郎がお前に会いたいって言ってるぞ」

 石原さんが運輸大臣に就任した1987年、就任を記念した式典に、私を招いているというのでした。師匠の立川談志からそう言われたとき、理由が分からず訊いたんですけど、「さあな。分からねえが、とりあえず行ってみたらいいじゃねえか。俺も行くしよ」と取り付く島もない。

 私にとって、談志は落語の師匠でした。談志創設の落語教室「家元制度立川流」の「Bコース(著名人コース)」に入って芸を磨き、立川談遊という高座名をもらいました。弟子である以上、師匠を問い詰めるわけにもいかないし、本当にそれ以上知らないようでした。

 そうして向かった都内ホテルの大宴会場。出席者は永田町や霞が関の住民たちばかりで、師匠について入っていくと、周りが不思議そうな顔をしていました。

 石原さんは舞台上で挨拶している。政治家としても、脂の乗ってきたのが分かる。180センチ超の身長以上に大きく見え、感心していると、私たちを見つけ、こっそり視線を送ってきました。立食パーティの会場をゆっくりと回りながら、時間を潰している私に、会場の片隅で手招きしているのです。

 分厚いカーテンに隠れ、顔を突き合わせると、「いや忙しいところ申し訳ない」と頭を下げて、握手。

「あんたにどうしても訊きたいことがあってね。昔、歌舞伎町に棺桶みたいな箱に女と一緒に入る店があったろう」

 一瞬何を話しているか分かりませんでしたけど、風俗のことを言っているのが分かると、ぴんときた。

「ええ、ありましたよ。『占いの館』というやつですね」

「そうだそうだ、そういう店だった」

 やっと思い出して、胸のつかえが取れたように笑う。

 取材したときのエピソードを語ると嬉しそうに領いた。

 ──ははあ、これは経験があるな。

 石原さんの小説『太陽の季節』に障子を勃起したペニスで突き破る場面があるのを思い出しました。日大の応援団だった頃、合宿先で、先輩に命じられ、実際にそれを試みたこともあった。どんなに硬く勃起していても、突き破るのは難しい。指先に唾をつけて、それで障子を湿らせておくのが、コツ。分からないように、ちょっと穴を開けておく。

 そうした思い出話をしようとした矢先、秘書官とみられる男が呼びに来て、時間切れ。

「では失敬」と言い、足早に去っていきました。

 歌舞伎町の浄化作戦に取り組んだ際、風俗店の一掃を狙うと報じられていましたけど、私の印象はちょっと違う。

 ──大っぴらにやるな。

 目立たないように、裏でこっそりやれってことではなかったか。元来、風俗とはそういうもの。現に目の前で機能していて、それを必要とする向きがいるのだから、それを認めないまでも、受け入れるしかないのではないか。表向きと真意、言わずもがなのところ。そうしたところが、この国から消えていきます。

 人生もそうですけど、時代というのは、節目があり、流れの中にいるときは分からなくても、振り返ってみると、ああ、転換期だったのかと気が付き()に落ちる。

「この国はいったいどうなっちまったんだ」と吉原の煙草屋の親父は言いました。

 その日は、日本中の街から音が消えたようでした。

 1989年1月7日の午前6時33分、昭和天皇の崩御が宮内庁より国民に告げられました。NHKのアナウンサーが喪服で「宝算(享年)87でありました」と伝えると、それに呼応するように民放各局もなぞり、追悼番組を流し、静かなクラシックと回顧映像を繰り返しました。

 私は『トゥナイト』のコーナー「中年・晋也の真面目な社会学」のいつもの撮影隊と共に街のリポートヘ。いつものワゴン車で皇居周辺を回り、銀座は中央通りに入った夕方、スタッフと共に、普段とまるで違う光景に息をのみました。ありとあらゆるネオンがその灯を消し、高級クラブ街でもある並木通りも、静寂に包まれていたのです。宮内庁からお達しが出た可能性もなくはないけれど、クラブママたちが自粛したのだろうことが推察されました。

 風俗店はどうか。吉原へと車のハンドルを回し、吉原大門を通り、ソープランドがひしめく通りに入る。

「こんな光景は見たことない」と、誰彼となくつぶやきました。きらびやかなネオンを灯す店はただの1軒もなく、店頭で威勢よく手を打ち鳴らす客引きの姿もない。風俗店や住民たちにマイクを向けると、口を揃えて、「吉原がこのようになるのはいつ以来か、記憶にありませんねえ」。

 徳川家が400年前に廓街を当地につくって以来、初めて、ということなのでしょうか。煙草屋の親父が「この国はいったいどうなっちまったんだ」と言ったのは、このとき。続けて「ここでは大正天皇の崩御のときだって、堂々と営業していたもんだぜ」と続けました。今最も残すべきは、このコメントだと思います。庶民の、大衆の、てやんでえというパワー、地力。当時も、オンエアすべきだと主張したのですが、放送は見送られてしまいました。生の、本当のコメント、場面はお茶の間には届かなかったりするのです。

 そして小渕(おぶち)恵三官房長官(当時)が新元号を発表して平成の世が静寂の中ではじまりました。闇に包まれる東京、この国はどうなっていくのか、日本中が考え、目を閉じているような雰囲気がありました。

 最後に向かったのが歌舞伎町。その道すがら、車窓の向こうの暗闇を見つめると、私の脳裏に学生時代の風景が広がっていきました。

 1959年(昭和34年)10月、母校日大の創立70周年記念式典が両国の日大講堂であり、昭和天皇と香淳皇后のご臨席に際し、応援団団長だった私は護衛役のひとりに選ばれたのです。

「賞罰はないな?」

「はい。賞もなければ罰もありません」

 大学に呼ばれ、職員の質問に答えていたとき、「もしものときは、身をもって盾になれ」と言われました。陛下が戦後初めて両国橋を渡ると新聞が報じたこともあり、当日は黒山の人だかりができていました。

 ホール入口までの十数メートル、陛下の斜め後ろに従うとき、黒子(ほくろ)がいくつもある陛下の耳の後ろが印象的でした。空の高い秋の午後。恩賜で菊のご紋入りの煙草をもらったのですけど、これがまずいのなんの。

 スタッフから声がかかり、記憶の景色が夜の歌舞伎町へと戻りました。車が新宿通りから歌舞伎町に入る。と、誰からともなく「オォ」と声があがりました。いつものネオンがギラギラと光り、目を開けていられないほどだったのです。

 飛んで火にいる夏の虫のごとく、男たちがネオンに引き寄せられ、通りにあふれかえっていました。

 

閑話休題➂ 女は男にとって味方なのか敵なのか

 人間に近いチンパンジーの牝を見ても、セックスは牝が月経周期の中頃、排卵期に腫れた尻を突き出して、ほんの数日間、牡を受け入れるだけ。非排卵期も、すぼんだ尻で受け入れることもあるようですが、牡は牝が尻を突き出さなければ、すごすごと大人しくひきさがる。人間のように力ずくで犯したりしない。体位も、牝の腰をつかんで10回ほど腰をスライドさせる後背位、交尾時間は平均8秒程度です。

 われわれ人類の祖先はいつでも性行為できるようになったことによって、大きく変わりました。それまで一旦狩りに出たら何日間も家を空けていた男が女とのセックスを求めて巣に帰るようになる。女が求め歓ぶため、男は頑張った。いや、女に捨てられないために、不在の間に別の男を受け入れたりしないように、頻繁に帰らざるを得なかったのでしょう。それが家族の原型です。長い時間を共にし、生涯を添い遂げたいという願望が生まれ、愛の名のもとに果てしない努力を課せられる。しかし本当に満たされる瞬間というのは、そういつもあるわけじゃない。

 男と女の間には暗くて深い河が流れているからです。

 女の求める男の強さや逞しさは、どちらかというと肉体的な意味合いが強いらしい。もっというと、男よりも本能的な欲求を司る大脳辺縁系の情動が強いのです。辺縁系からくる、食う寝るヤるという生理的欲求、安全や所属の欲求が男よりも格段に強く、男ほど承認願望や自己実現の欲求にかられはしない。まず何より第一に生理的欲求と安全の確保なのです。そのため、極論すれば男が、どれほど尊敬されるべき偉人であっても、金銭的な満足がなければ、女は無能の烙印(らくいん)を押しかねない。また、豪邸に住み、どれだけ金銭的な満足を与えられても、社会的に大成功をおさめた夫がいても、彼が()たなければ、性的オーガズムを与えられなければ、不満がくすぶり続ける。

 男はそうした満足感が得られない代わりに、崇高な理想や理念、名声という精神の世界、砂上の楼閣に命をかけたりする、だからこそ頼りなく、もろい。セックスも、男には一瞬の単純型オーガズムがあるだけです。男のオーガズムは類人猿と大差ないらしい。一瞬の花火です。

 年がら年中、セックスにかまけているのは、発情期がないからです。そういうサイクルは残ってはいても、性ホルモンに左右されないだけ、大脳が大きくなった。性器や皮膚感覚のみならず、脳による快感を求めているから、飽くことがない。かくして、男女一緒くたに女のオーガズムを追いかけていく。性欲が病になった所以(ゆえん)である。

 女たちは、強みを捨てない。あらゆる場面に進出し、男の領域を侵犯し男性化しながらも、種の保存は専売特許ですから、最初から負けないことが分かったうえで攻め続けています。かつて育児を押し付けられ、家事でこき使われたことへの反動か、酒やギャンブル、浮気や不倫にも手を出して、悪びれることがない。男たちよりも弱く、庇護されるべき存在であることを誇張し続けているようにも見える。

 それでいて男の領域征服に余念がない。もともと男は母親の胎内にいるときから、母親の影響下にある。母親という異性に育てられ、そこと衝突し自分の中の女性的要素から脱却し踏み越える、乳離れによって大人の男になるところ、今日的な母親はこれを許そうとしない。いつまでも支配下に置こうとしている。少子化の現在は、全てのエネルギーを子どもに集中させ、支配下に置き、それを通して自己実現しようとする。大家族制度の頃のような、子どもに目の届かない、つまり脱却の機会も少なくなり、男の子は鎖に縛られ続ける。現代の若い男を駄目にしているのは母親という女であり、男にとって女は愛すべき存在であるというより、本当は敵なのかもしれない。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2019/12/13

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山本 晋也

ヤマモト シンヤ
やまもと しんや 映画監督、エッセイスト。1939年東京都生まれ。

掲載作は『風俗という病い』(2016年10月、幻冬舎刊)よりの抄録である。

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