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紙になった男

 なかなか眠れない夜を過ごした後、朝起きてみるとKは白い紙になっていた。紙になったのはKの身体ばかりでなくパジャマは柔らかく丈夫そうな紙だったし、布団はもわもわっとした軽い紙だった。洗面所へ行ってみると鏡はツルツルした光沢のある硬い紙でできていた。鏡の中の自分の顔を見ながら髪や眉毛に触れてみると、それらは細い糸のようなやはり白い紙だった。Kがトイレで用を足すと、それは白っぽい(ふん)だった。白い紙を細かくきざみ水で練って固まらせたような(ふん)だった。朝食はいつも通りパンとミルクだったが、パンもミルクも何だか少し紙っぽい味がした。時計を見ると7:00AМを過ぎている。Kは早く学校へ行かねばと思った。Kは小学校の教師をしていた。30代でまだ独身である。

 住んでいる安アパートの外へ出てKは駅へと歩き始めた。KはОL風の若い女やネクタイを固く締めた中年のサラリーマンなどの駅へ向かう人たち皆が白い紙でできているのに気づいた。Kはふとこれは大変なことが起こったのかもしれないと思った。だが一方で、以前からこんな風だったような気もした。

 電車に乗ると、電車もまた上質の硬い頑丈な紙だった。Kは電車で30分ほどの郊外の小学校へ勤務していた。駅から学校までかなり歩くので、自宅から学校まで結局1時間以上かかった。Kは6年生のクラス担任でほとんど全教科を一人で教えていた。Kはいつも定刻の40分ほど前に学校に着くようにしていた。気分を落ち着かせてから授業に臨みたかったし、また学校へ行けば授業の準備──薬品を使っての理科の実験などは特に大変──や実務の仕事が山積していた。この秋には小学校生活最後のまとめというべき奈良、京都への修学旅行がある。Kはすでにその実踏を済ませてあったが、学年会議に提出するための企画書を書きあげねばならなかった。

 Kは学校へ着くと、まず自分が担任しているクラスの教室へ行ってみた。案の定、教室の中は机や椅子が乱れゴミは散らばっていた。昨日は教員研修が他の小学校であり、子どもたちだけに清掃を任せたのがこの結果だった。机や椅子はもちろん教室の床も硬い丈夫な紙でできていた。

 Kが職員室に入ると、すでに何人かの教員が来ていた。子どもたちも三々五々登校し始めていた。教員も子どもたちも皆Kと同じように白い紙でできていた。

 今日は朝礼のある日だった。子どもたちは学年ごと、クラスごとに並び、教師たちは子どもたちを取り囲むように周りに位置した。Kは自分のクラスの後方に立ち、Eという男子に特に注意していた。Eは大柄で腕力もあり、けっこう頭もまわった。それでも今日はおとなしく皆と一緒に並んでいた。見上げると空は白い雲でおおわれていたが、それもおそらくは綿のような紙でできているのだろう。

 やがて校長が朝礼台に上がり定例の訓話を始めた。今年赴任してきたばかりのこの校長は痩せて背の高い白髪の男だった。話がうまく時にユーモアを交え笑わせながら長い時間も子どもたちを飽きさせずに引っぱっていった。そのため1時間目の授業に食い込んでしまうこともしばしばだった。この日も校長の身振り手振りを交えての話は熱を帯び、さながら名優のようでさえあった。校長の話が絶頂に達してきた時、白い雲の切れ間から陽が顔を覗かせた。すると誰からともなく子どもたちは、また教師たちまでもしだいに赤く染まり始めた。K自身も赤くなった。

 だが、中にはちょっとした変わり種もいて、一人の小さな女の子が赤くなるまいと必死にこらえている。その女の子はKのクラスだった。赤くなるまいと一生懸命歯を食いしばってがんばり、それでも赤くなり始めるとまたがんばって白くなり白いままでいようとするのだが、踏ん張りきれずにまた赤くなったりしていた。皆と同じように赤くなってしまえば良いのにとKは思った。そんなことを何回か繰り返した後、その女の子は遂に自分の意志を通せたのかしばらく白いままになっていた。だが、周りの赤くなった子どもたちの咎めるような視線がその女の子に襲いかかった。と次の瞬間、ボッと大きな音がしてその女の子は一瞬の内に燃え尽きてしまった。跡には白っぽい小さな灰が残っているだけだった。

 Kはこれは少し困ったことになったなと思った。その女の子の親に事情を説明しなければならないだろうし、また葬式にも出なければならないだろう、この忙しい時に。だが、普通の親ならまあ納得してくれるだろう。皆が赤くなろうとしている時に一人でそれを拒んだのだからとKは思った。

 その日の算数の授業中だった。Kは子どもたちをやっと席に着かせ、ざわざわとした教室の中で計算問題のプリントをやらせていた。例のEが辺りの様子を窺いながら徐々に青くなろうとしていた。そのたびにKはEを目で制した。それでもEはKの目を窺いながらしつっこく青くなろうとした。Kと目が合うと素早く白く戻った。周りではEを真似て青くなろうとする子どもたちも出始めた。その人数がしだいに多くなり、Kはなかなか全体に目が行き届かなくなった。遂にクラス全員が青くなりかけた時、K自身もとうとう少し青くなりかけてしまった。だが、教室の片隅で白いままでいようと必死でがんばる背の高い男の子がいた。その男の子は少し青くなりかけては白く戻り、それからまた少し青くなったり繰り返していた。K自身がはっきりと青い色に落ち着いた、ちょうどその時だった。ボッと音がしたと思うとその男の子は一瞬の内に燃え尽き灰になってしまった。またかとKは思った。他の子どもたちは皆もう白く戻っていた。

 だが、Eはそれでもう終わりにするほど甘くはなかった。またしばらくするとKがちょっと目を離したすきに、今度は黄色になっていた。しかし、今度はいきなりすぎたのか、Eに同調して黄色になる子どもは誰もいなかった。Eは少しがっかりした様子で白く戻った。だが、しばらく経つとEはまた辺りを窺いながら少しずつ黄色になり始めた。今度は2~3人の子どもたちが同調し黄色になり始めた。Kは同調した子どもたちを厳しく目で制した。Eを除く子どもたちは今度はすぐ白く戻った。Eの方はむしろ放っておき、Kはストップをかけ子どもたちとプリントの答え合わせを始めた。その間にもEは周りの子どもたちも引き連れ一緒に黄色になろうとしたが、今度は誰も同調しようとする子どもはいなかった。Eは誰も自分について来ないのが分かるとイライラと怒りに身体を震わせ、黄色になったり白くなったりを矢継ぎ早に繰り返した。そのとたん、ボッと音がしてE自身が燃え灰になってしまった。やれやれとKは思った。Eがいなくなったことで確かに少しほっとしたが、わずか一日の間にKのクラスの子どもが3人も灰になってしまったのである。この責任は結局、自分自身に重くのしかかってくるだろうとKは思った。

 午後は定例の職員会議である。ここでも校長は力強く雄弁に自分の教育方針を語った。校長の教育方針を副校長、学年主任、各教員たち皆で実現しようということである。教員たちの中にも校長の話に共感する者は多かった。校長自身も自分の言葉に酔うほどだったが、酔えば酔うほど校長の髪も顔も身体全体が緑色に変わっていった。すると周りの教員たちも副校長、学年主任その他皆緑色に変わっていった。Kは校長の話など耳に入らず、灰になってしまった3人の子どもたちの親にどう説明したものかとそればかり考えていた。そのうちKは昨夜の寝不足のせいか、ついうつらうつらとなってしまったのだった。Kは別に緑色には決してなりたくないなどという明確な強い意志があった訳ではなかった。Kが居眠りから覚めて顔をあげた時、Kを見てニヤッと笑う校長と目が合った。気付くとすっかり緑色になった周りの教員たちも乾いた笑いを口元に浮かべ、皆白いままのKを見ている。Kはしばらく周りの状況がよめなかった。だが自分の危機的状況が分かると、Kはすぐにあいそ笑いを浮かべ皆が緑色になるなら躊躇(ちゅうちょ)なく自分も緑色になろうと思った。だが時すでに遅く、Kは身体の奥で炎が炸裂(さくれつ)するような激しい痛みを一瞬感じ、後はもう何も分からなくなった。Kの座っていた椅子の上には一握りの白っぽい灰の塊が残っているだけだった。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2019/08/31

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奥沢 拓

オクサワ タク
おくさわ たく 作家・詩人 1953年生まれ。著書に『新・怪談』(2015年、文芸社刊)等がある。

掲載作は、乱橋創という筆名で刊行した短編集『夢に堕ちて』(2012年3月、文芸社刊)に収録されている作品である。

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