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宗教と文學

 宗教の相関する所や広し、文学(あに)独り此の関係に漏れんや。されどもヒポコンデル的宗教家は(おも)へらく、凡そ文学と称するもの、其の詩たると小説たるとを問はず、宗教思想の鴆毒(ちんどく)にあらざるはなしと。而して俗臭的文学者は(おも)へらく、宗教は文学に用なし、文学と宗教とは(おのづか)ら別物にして、文学は宗教以外に闊歩するを得るものなりと。二者共に誤まれり。

 看よミルトンの失楽園は詩にあらずや、(しか)してバンヤンが天路歴程は小説にあらずや。此の詩、此の小説は果して(いづ)れの宗教思想を害したる。(たゞ)に害したることなきのみならず、彼等は(いづ)れも聖書の次に置かれて、信者座右のものとなり、百年を重ねて愛重ますます加はるを見る、また減ずるを知らず。(ひるがへ)りて()所謂(いはゆ)る文学者に問はんか、彼等果して如何なる詩の失楽園に優るものを作り得たる。如何なる小説の天路歴程と相比肩(あひひけん)すべきものを得たる。(まこと)に宗教の信仰は文学に負ふ所甚だ多く、而して文学の感化力は宗教を得て初めて全きを得るなり。之を要するに宗教家の文学を排斥するはその宏量を缺くにより、文学者の宗教を蔑視するは、其の程度を無下に卑しくするによらずんばあらず。

 我輩は唯二書に就てのみいはず。大凡(おほよ)そ文明国の宗教なるものは、其の小説、其の詩歌を彩らずといふことなし。希臘(ギリシヤ)の文学は、希臘の宗教と姉妹なりき。羅馬(ローマ)の文学が其の最高点に達したるの時は即ち羅馬の宗教が文学者の肺腑を全領したるの時なりき。()()れ東西の歴史に参照して、仔細に視察したることあるの人は、上乗の文学生ぜざりし因由を以て、当時の宗教と文学とが意気相投合せざりし所以(ゆゑん)に帰するを躊躇せざるべし。文学の振はざる所以はさて置き、文学の気品の低きものは()に宗教なきの故なり。されど気品低き文学は、如何(いか)ほど多かりしとて何かせん、数量の多きは未だ以て性質の劣悪なるを(つぐな)ふに足らず。千羊(せんやう)の皮は一狐の(えき)()かざるなり。

 思ふに宗教家の文学を賎しみ、文学家の宗教を忌む、共に其の故なきにあらず。即ち宗教と文学の事情を尽くせる好媒介者なきによる。大才一たび出でゝ雙方の間に周旋する時は、彼等は容易(たやす)く結婚すべきのみ。然るに宗教家は(いたづ)らに繊小浮薄なる文学を見て文学執るに足らずと速断し、文学者も亦その俗腸凡眼の標準に訴へて、宗教の真味を悟了すること(あた)はず。誤解愈々(いよいよ)甚しくして、反目即ち生じ、許嫁の約を忘て、其状讐敵に似たり。是れ(あに)事体の可なるものならんや。故に我輩(わがはい)は醜陋賎しむべき文字を臚列(ろれつ)して之を文学なりとする一種の自称文学者の跡を絶つに至らんことを望み、一方には亦文学の模範を掲げて、世に示すを得る大才の起るを待つや(せつ)なり。牧師(はぢ)なくして講壇の上より詩歌小説の句を誦し、文学者好んで宗教的思想に其の趣向を假るに至りたらんには、是れ(あに)文学の黄金時代にあらずや。而して文学(こゝ)に至るにあらざれば、到底完全の発達を遂げたるものといふべからざるなり。(けだ)し文学は宗教の力を假りて初めて精神的、想像的の美徳を完うするを得ればなり。

 

──明治二十六年(1893)十二月一日「福音新報」──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/28

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植村 正久

ウエムラ マサヒサ
うえむら まさひさ 宗教家 1857・1・15~1925・1・8 現千葉県山辺郡、一説に東京芝に生まれる。内村鑑三とならんで明治の基督教界を支え、ことに旧訳新訳聖書と讃美歌の翻訳者の一人であったことは、優れた教壇上の説教者であったこととともに特記に値する。柔軟な視野から文学へも理解深切で藤村も敬愛し白鳥は洗礼を受けていた。

掲載作にも一端がうかがわれる。

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