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R共和国奇譚・・・食虫花

 毎年この晩春の頃になると私は憂鬱の極みに入りこむ。生暖かい夕風が首筋を撫でていったり、急に冷気が背筋を走ったりすると、最初は苛立ったりしてもすぐに諦めと悲しみに落ち込む。腹立たしさをぶつける相手もなく、その力さえ消えてしまう。投げやりの心地よさが、わけのわからない哀しみと相まって、迫ってくる夕闇に沈んでいく。花の香りがかすかに漂ってくる。どの花かわからない。ずっと昔に心をくすぐった匂いだ。懐かしさが蘇ってくるが、これからはもう拒否するだろう。理由はない。敢えてそうしたい。

 名前を覚えようとは思わないものの、放っておいたままの庭の花が次々に咲いては散る。片隅の残雪が消えると木々の根っこに、どこから飛んできたか水仙が何本か花を開く。古木の梅が小さな花をつけても目立たない。山茶花の花びらが散り、巨木から音を立てて椿の八頭が音を立てて落ちる。鳥が驚いて飛び立つ。夏には赤い小さな実を付ける細い木が白い花を散らす。巴旦杏の白い花が空をおおう。すぐに散るが初夏には無数の実は熟し腐れ地面や屋根に落ち、鴉の大群に襲われるだろう。古くなった大枝は折れたままだ。辛夷が小鳥になって曇り空へ飛び立つ。桜花が散ると庭が薄紫の敷物におおわれ時折舞い上がる。八重桜が猥雑さを誇るころには、背の高い桐の樹はもの哀しい紫の花の雲に包まれる。山梔子の甘ったるい匂いに惑わされずに対峙するには無気力に自分を貶めねばならない。

 それらの花々が無彩色のまま網膜の表面を通り過ぎていく。縁側に座って庭をぼんやりと見つめる。広い庭の隅から薄闇が次第にこちらへ向かってくる。少年の頃の春愁とは違う。そこにはまだ見ぬ愛や向上への夢と不安があった。だが今の私には、仕事を辞めてからもう何年経ったか覚えていないが、まさに何もなかった。眠気はまだ救いになる。書斎に流しっぱなしにしているピアノ曲がかすかな音で伝わってくる。誰の詩だったか、「おお薔薇(そうび)、汝病めり・・・・・」という一行を思い出す。

 また、詩人ボードレールが緑色のオピウムをくゆらせながらうっとりと外を眺めている様を想像する。桃色のマロニエの花々の先にゆったりとセーヌ川がながれている。また清朝末期の阿片窟で、金満家たちが死への道を夢心地で辿る至福の時を羨ましく思う。たちこめる紫煙にどこからともなく射し込んでくる数条の薄い光は天国からの誘いだろう。

 もし私にそれを得る機会があれば、すべてを投げ打ってもいい。私はこの世に何も未練はなかった。生への執着はなかった。私の存在を気にかけ心配するものは誰もいなかった。

 父母が住んでいた屋敷は古くなり壊した分だけ庭が広くなった。私はそのまま荒れるに任せていた。蓄えは十分にあり生活には困らなかった。週に三度ほどお手伝いの老婦が来て世話をしてくれるだけで不便はなかった。望みは何もなく、日々はただ退屈だった。酒と音楽とかつての仕事を趣味で続ける日々だった。憂鬱ではあったが絶望しているわけではなかったので、自死は考えなかったが、死の想念はいつも消えることはなかった。いつでも瞬時にその時が訪れるのであれば悔いはない、あるいはだらだらと快感と安らかさに包まれてその時を迎えるのであれば。しかしそれを考えることは面倒だった。そして、これが悩みといえるかどうかわからないが、全身まったくの健康状態だということだった。六十歳を何年か過ぎただけだった。

 ある明け方、眼の前の闇に牡丹の白い花弁が幾重にも急に開いたのを見た時、私は夢精した。かつてはこの家に様々な女性が出入りして性に不自由なことはなかった。ある者は去っていき、あるものを私は拒んだ。そして今はそれらは途絶えて久しく、また誘うことも面倒になっていた。気晴らしに街へ出て、しかるべき方法で処理すれば済むことだった。

 

 そんなある日、一通の手紙が届いた。R共和国大使館からだった。その国とは何年か前にある仕事を手伝ったことがあったが、その後の交流は何もなかった。開けると「不思議の旅へのお誘い」とあり次の文面が目に留まった。

「今年は八十年に一度のぺルセウス座の大流星群の年です。二千年前の古代中国の将軍が三個の赤い流星を見て変事を占ったという伝説のものです。高原のわが国ではその不思議の世界をまさに目の前で観察することが出来ます。また数少ない森林には美しい湖が点在しています。その美しさは眼の奥に焼き付いてみなさんを清冽な思い出に包みます。そこでは巨大食虫花を見ることが出来ます。またご希望者には鳥葬の秘儀にもご案内します。一週間のツアー計三十万円」

 R共和国は日本ではほとんど知られていない、多数の部族で構成された山岳民族国家である。国境はチベット、中国、ビルマ(ミャンマー)に接している。領土はかなり広い。人口は三百万ともそれ以上とも言われているが定かではない。部族をまとめた長が、第二次世界大戦終了後の混乱時期にいち早く国の存立を宣言し、国連に加盟した。隣接の国は自国の混乱を収拾するのにいそがしく、R共和国の権利を拒否し争う暇はなかった。国家の長は昔イギリスで学を修め近代的な思想をもった人物であるということだった。その後永世中立国を宣言し東洋のスイスと呼ばれたが、日本との国交はまだ浅い。首都近辺は近代化しているものの大部分の地域は未開地の発展途上国である。この国についてはまたあとで詳しく述べる。

 

 まず私の目を引いたのは、付記として書かれた「巨大食虫花」という文字である。虫だけではなく、大きなものは時には鼠や蝙蝠さえ捕えると書いてある。附録には民族衣装の数人が二十センチほどの筒状のものから何かを飲んでいる写真がついている。この花弁の蜜を吸っているらしい。また乾燥したそれを吊るして売っている店もある。器としても利用できる。

 

 私の思い出は五十年以上前にさかのぼる。私は両親と三人家族で、父は仕事で月に一、二度しか帰らず、私に興味はなくただ顔を見ても黙っているだけだった。母は二度目の母で、着飾っては観劇や友人との食事で毎日出かけ、家にいることは少なかった。父よりももっと私には無関心だった。私は友人も少なく学校にも気が向いた時だけ行った。

 広い屋敷には家政婦と私だけだった。彼女は若く明るい性格だったが美人ではない。眼は細く鼻も低い。ただ笑うと口が裂けたように大きくなる。最初は奇妙な感じがしたが、慣れてくるとそれが魅力になった。また口は大きいが形はよくいい匂いがした。それに頬や首筋を舐められるのを想像してうっとりすることもあった。私の性の目覚めと言ってもいい。少し太り気味だった。初めの頃は痩せていたが、主人のいない家での食事は好き放題でそのためだった。腰の周りは日毎に太っていくようだった。洗濯と掃除を済ませばあとは私の相手をするだけだった。そして庭いじりが好きだった。彼女が庭に植えた苗木が何本かは現在の庭の巨木になっている。庭木や花の手入れをして戻ってくる彼女からは汗に混じった花の香りがした。私はそれが好きだった。

 ある時、坊ちゃま、面白いのを見せましょうか、と持ってきたのはくびれのない瓢箪のような筒状の奇妙な花、それを花と呼ぶのかどうかもわからないが、薄紫のウツボカズラという鉢植えの植物だった。三、四本が鉢からぶら下っている。手入れはけっこう煩雑だったがそれは彼女の好みだった。部屋から出したり入れたり、水やりも適切でなければならなかった。私も彼女の指示に従うままに興味は増していった。そして私は彼女の話に興奮した。

「これはね、甘い蜜の匂いを出して蠅や虫をおびき寄せるの、虫たちは蜜をちょっとだけもらうけれど、足を滑らせてこの筒に落ち込む。この穴からは抜け出せない。そのまま花の中で溶けてしまう、花に食べられる。虫たちは多分いい気持よ。うっとりとして溶けていくの。蜜のいい匂いがしても絶対に舐めてはだめよ。坊ちゃまの舌が引き込まれて取れなくなって溶けてしまうから」

 それはある春の午後だった。庭は柔らかな陽射しを浴びて、土と肥料と花の香りに満ちていた。私と家政婦は縁側に座り蠅や蝶が飛んでくるのを待っていた。花に抱きすくめられて溶けていく虫たちをどうしても見たかった。虫を捉えた花は人が何かをもぐもぐと食べるように身を震わすのだろうか。昨晩の夕食の残りの煮野菜を鉢の前に置いていたがなかなか虫は飛んでこなかった。羽音はするがすぐに見えなくなってしまう。陽だまりの暖かさが私の意識をぼんやりさせ、もう眼を開けていられなくなった。私は家政婦の膝を抱いて寝入ってしまったようだった。

 どのくらい眠ったのかわからない。庭の陽射しは消えひんやりと土の匂いがしていた。彼女はずっとそのままでいたようだった。下から見上げると彼女のもの哀しげな眼差しが感じられた。私は少し意地悪な気持ちになって、彼女に突きかかった。虫が来ないじゃないか、嘘つき、と私は言った。彼女は 坊ちゃま、虫は蜜をちょっとしか貰えないの、すぐに花につかまって閉じ込められてしまうから、それでよく見えなかったの。じゃあ、中を見せろ、と私は言ったように思う。

 彼女は私の頭を膝から縁側の板へ移してちょっと撫でて立ち上がり、花の一つを切ってひろげた新聞紙に置いた。そして慣れた手つきで縦にすっと切り開いた。細い眼が優しく緩んだが、私はそれに残酷な光を感じてぞっとした。花の底には透明な粘液性の液体に数個の黒いものに混じって、蠅の羽だけを残した糸ごみのような残骸があった。気がつかないうちにダンゴ虫などもそこに吸われていた。丸いダンゴ虫は安心して眠っているように見えた。甘い腐臭がした。あるいは彼女の体臭だったのか。私は怖がっているふりをして彼女の腰にしがみついた。

 私は知らなかったが、それは彼女が我が家の仕事を辞めて国に帰る前日だった。父母のいない屋敷だった。夜中に私のベッドに入り込んで来た彼女は私を裸にし、自分も裸になり長い時間私の全身をその大きな口で吸い弄んだ。私はこうなるのを予感していた気がして、なされるがままにその匂いに酔って朦朧としていた。翌朝彼女はもう居なかった。主のいなくなった鉢植えを私は地面に蹴落としてそのまま長い間放っておいた。それは枯れ、やがて鉢は空っぽになり転がったままだった。そしていつの間にかなくなった。

 

 長じて私は大学で東洋文化史を専攻した。もう四十年近く前だ。専門分野に競争相手が少ないというだけの理由だった。将来への希望とかはなかった。やりたい仕事もなかった。他界した父は資産を残してくれ、母と分けても十分に残った。生活の面でも不安はなかった。

 もともと読書は好きで、専門にした文化史で変わったものを知るのは趣味のようなものだった。退屈はしなかった。ヒマラヤ山脈の周辺には小さな山脈がいくつも並び、その辺りの少数民族の風習を調べたり、中国の古字やチベット文字や東南アジア文字も読んだ。読んだといってもどのくらい理解したか自分でもわからない。文献や資料も少なく、ある程度の他人の本を読むだけで、現地へ調査にいくなどという面倒なことはしたくなかった。

 古本屋で珍しいものを見つけるのがもっぱらの学問だった。第二次大戦の前には日本軍のスパイが何人も中国奥地や東南アジア未開の地域の調査に出かけている。多くは現地で死んだか戦後は姿をくらましている。しかし秘かに調査報告書をまとめたりした者もいる。戦後すぐに出版されたものもある。

『忘れえぬ国 空中国家 R国の現状』という古本に出会ったのはそんな日々だった。粗末な薄い本である。下川伸一郎博士という著者の略歴は書いてない。大学の研究者というより当時のスパイの一人ではなかったろうか。出版の一九四七年はR国が国連に加盟した二年後、永世中立を宣言した年である。私はこの本ではじめてR国のことを知ったのだった。

 その地域の中心になる力のある部族の長の息子が大戦前にイギリスへ留学して国の体制について勉強したのが始まりとの事だった。三年ほど経ってドイツがポーランドへ侵入して大戦が勃発すると、彼はすぐに帰国した。そしてまだ内戦の続く中国や、西洋諸国の植民地になっているアジアの国々と日本帝国主義の侵略の様子を観察して、各部族を説得と征服で共和国を創り上げた。だれもが世界の不穏な空気を察していたし将来への不安も持っていたので説得は大きな戦いを経ずにまとまった。彼の父の軍は強力であったので国の政治は任されたが、元首は各部族の三年ごとの持ち回りという法則に誰もが満足した。

 特別にそこだけを専門としたわけではなかったので、いくつか興味をそそられる事項を覚えてあとは忘れていた。面白いところでは、博士が、ここは日本のルーツではないかと提唱していることだった。ある部族は日本人の顔とそっくりである。そしてなによりも家の造りが日本とよく似ている。権力のある者の家は畳敷きである。イグサとは違うが高原のよく似た草で作られている。部族のさらに小さく分かれた村には必ず中心に仏教寺がある。そして博士が最も驚いたのは彼らが少ないが文字を使用していることだ。その文字が万葉仮名とそっくりである。博士は伝承されている歌をいくつか示して、万葉集の歌と比較している。すこし無理なこじつけもあるように思われる個所も多いが納得できるのもある。また戦いをあまり好まず総じて文化的である。眼についたところでは人々はいつも口をもぐもぐさせている。ある特殊な高原植物の根を嚙んでいるらしい。それは一種の麻薬だろうと思われる。それが平穏な環境を作り出している、と博士は結論づけていた。

 私は卒業しても行くところもなかったので大学であちこちのゼミに参加して時間を潰していた。敵も作らなかったし毒にもならず珍しがられることもあった。いつの間にか希少言語の専門というレッテルで小さな居場所を貰った。一つには折に触れて協賛金や寄付を募る学校法人にいつもある程度の貢献を惜しまなかったためでもある。わずかながら給与ももらった。

 ある会合でこのR共和国のことを喋ったことがあったが、それは失敗だった。ちょっとした気休めのつもりだった。参加者の一人からその発音について質問されると私は答えることが出来なかった。本の出版社はすでになくなっているし、下川博士の居所はわからない。とっくに亡くなっているだろう。こんな研究をしている者もいないだろう。いい加減にあきらめかけて電話帳を繰ってみた。するとそこに大使館があるではないか。すぐさま訪ねたのは言うまでもない。

 新興ビジネス街のビルの合間にそれはあった。立ち退きをまぬがれたような平屋の民家だった。事務所は期待した通り畳敷きだった。出てきた男とは日本語よりも英語のほうが通じた。私より十歳ほど年上だろうか。そしてごく自然に親しみが感じられたのが妙に不思議だった。ちょっとした仕草が私に似ていると思うのは気のせいだったろうか。喋らなければ普通の三十代の日本人サラリーマンと変わらなかった。

 残念なのはその時私は下川博士の本を失くしてしまっていた。大使との話は嚙みあわず印刷のあまり良くない英語の小冊子を貰い、少しだけ書かれたR国語を読んでもらうのが精一杯だった。意味は英語と照らし合わせれば理解できた。発音は期待に反して日本語との相関はあまりなかった。どちらかというとチベット語に近かった。近代国家へ変貌する意欲を表明した小冊子だった。雄大な自然の風景といくつかの近代ビルが写されていた。高原のあまり知られていない国に興味はわいたが、一度国へ来てくれという誘いにはその気になれなかったが嬉しかった。

 二週間後に電話があった時には驚いた。仕事の頼みごとがあるとのことで、断る理由はなく私は出かけた。難しい仕事ではなかった。隣県のある小企業が作っている特殊な冷凍庫を十台ほど輸入したいということだった。その企業との交渉に立ち会ってくれという頼みだった。

 相手の企業の社長の話によると、その冷凍庫は日本では値段も高いので少数の高級レストランでしか使用されていず、アメリカでは大手の畜産産業、フランスではかなり多くのレストランで使われているとのことだった。

 普通の冷凍庫は物をただ冷やして冷凍し保存する。物は外側から次第に冷凍されるが、時間とともに組織細胞は次第に壊れていく。解凍した時には本来の味は損なわれている。この冷凍庫は一瞬にして全部を凍らせる。それゆえ解凍した時も以前の味をそのまま保っている。世界特許をとっている。

 メカニズムは複雑なようで簡単である。物体に磁場をかける。たとえば肉の中の水の分子は磁場を受け、微妙な振動を続けるので庫内がマイナス数十度になっても凍らない。ある決めた温度まで下がるとそこで磁場を切る。すると瞬時にしてその物体は凍る。物体の全てが内部から一瞬に凍るので組織は壊れない。自然のまましかも長期間保存することが出来る。

 国産の牧畜肉を輸出するためにはいい装置だ。質のいい肉の輸出は国の産業の柱となると大使は私に言った。出されたなにがしかの礼金を拒んで私は辞した。それ以来音沙汰はなかった。それでもいつでも会えるという懐かしいような安心感は消えなかった。

 

 それから何年か経って今回の突然の旅行案内だった。数えてみるとあれ以来三十年くらいたっている。時折R共和国を思い出す事はあってもそれだけのことだった。ほとんど興味は失っていた。だが今回はある考えが閃いて、私はツアーに参加することにした。大学に籍を置いている時はいくつかの小論文を出したことはあったが、退職するや、あの人は何を研究していたのかという陰口が流れていたということを知った。覚えている下川博士の発見した(?)いくつかの事例を検証して、その後七十年経ったR共和国の歴史の発展を纏めてみたいと思い始めたのだった。日本とは国交があるにしろ、外務省の一部しか知る者もいないだろうから、ちゃんとした論文にすればある程度の価値は認められるだろう。なるべく先入観に捉われることがないように、私はネットとかで予備知識は持たないようにした。大使館から届いた簡単な旅程表だけを手元に置いて出発の日を待った。

 指定された航空会社のカウンターに集まったのは、熟年夫婦の五組と少年をつれた物腰の優しい中年の女性だった。その二人を除けば、いずれも夫の退職後あちこちの国を旅行して、もういわゆる秘境しか興味がないといわんばかりの旅慣れた面々だった。初対面でも挨拶を交わしたり自己紹介をすることはなかった。しかし数日間一緒に食事をしたりするうちにある程度親しくなり、帰国して解散という瞬間は皆名残惜しそうに別れの挨拶をするのが常であることはわかっていた。

 ただ私はその中年女性と少年が気になったので話しかけた。名前はヤンさんということで、果たしてR共和国の以前の大使夫人だった。私が会ったことのある大使とは年が離れているから、ちがうだろうが知っているには違いない。しかし私はその名前を忘れてしまっている。

 十数年前彼女の夫は独身で来日着任した。そして日本人の彼女と知り合い結婚した。ヤン少年は二人の子供だが、五年ほど前に大使は急死した。ヤンさんは少年に夫の国を見せるためにツアーに参加したと言った。確かに旅程表によると四回飛行機を乗り換えねばならない。しかもそれは三か国に渡り私の知らない地名もある。女性がツアーで行くのはうなずける。

 少年は整った顔立ちをしていたが表情の変化は見せなかった。坊主頭で眼は細く顔色は薄薔薇色で上品さがにじみ出ている東洋の顔だった。その静かさは不気味にも感じられた。私は興味を持って話しかけたが受け答えが帰ってくるだけでちゃんとした会話にはならなかった。ただ仕草は日本人そのものであったが、その合間に異国の香りがするのが異様だった。異国と言っても下川博士の見解によるとそれはまた日本のルーツなはずだが。少年などと話をする機会などまったくない私だったので、それでも小さなことでも彼の気を引こうと試みた。私は自分の少年時代をヤン少年に映したいと思っていたのかもしれない。

 一行は特別待合室へ案内された。がっちりした体格の女性のガイドが話し始めた。声は少し粗っぽい。

「時間がたっぷりあるのでR共和国について説明します。まずお茶を召し上がってください。このお茶はR国の名産です。とてもおいしいので各国から輸入したいという要望がきていますが、まだ量産されていません。今後輸出することになると、多分世界各国で賞賛されるでしょう。今は中国の一部の省で飲まれ喜ばれています。一口飲むと疲れが取れ、二口目は嫌なことを忘れ、最後は夢見心地になります」

 私は下川博士の本を思い出した。

「R国民は好戦的でなく温和である。それは一般人にはある高山植物の根を嚙む習慣があり、それが一種の麻薬のような効果をもたらすためである」

 このお茶はその根を煎じたものではないか。私はちょっとした怖れが背中を走ったのを感じたが、すぐにあきらめた。ここまでくれば従うのもいい、従うのが面白い、いい経験だ、と結論づけた。

 四月八日の花祭りで昔飲んだことのある甘茶の味に似ている。今ではその日に興味を持つ若者たちはほとんどいないが、少年の頃は釈迦の誕生日に近くの寺で坊主が杓子で汲んでくれる甘茶を飲んだものだった。満開の桜の花の下で春の陽を浴びて少年時代を過ごしたものだった。裸足で踏む寺の地面は柔らかくそれが懐かしく思い出される。しかし私はふと現実にはそんな経験はなかったような気がして不思議だった。私は通常の意識がだんだん減っていくのをわかっているつもりだったが、次第にそのお茶の効果、麻薬(?)の効果に心地よく沈んでいった。

「R共和国はまだ建国して七十年の歴史しかありません。十の部族が各県を治めています。それぞれが一応軍を持っていますが争いはありません。首都メチカは近代化され強力な軍と三権の権力を握っている人物が治めています。元首は三年ごとに各部族の長が交代し外交に当たります。永世中立国を宣言しています」

 いつの間にかガイドの声は眠気を誘うようなメロディに変わっている。私の意識はぼんやりしていたが話の内容はよくわかる。

「今回のツアーで皆さんへ一番紹介したいのはぺルセウス座の流星群です。宇宙のロマン、大自然の神秘を皆さんはすぐ目の前でご覧になれます。まず星が日本で見るのと全く違います。大きくて輝きが強力です。眼をすぼめると、手が届きそうなほど近くに浮かんで見える。周りを星で囲まれている錯覚に襲われる。そこを流星が飛び交う。感動的です。神秘的な悠久の時間が漂います。

 それから秘境のサムシンコ湖群へ案内します。山間に美しい湖が点在しています。大きさはそれほどではありませんが、崖の裏や雑木林の蔭からその湖が現れ、その深い透明の水色を眼にすると、誰もが言葉を失います。息を飲むほど美しいとはこのことです。みなさん、ここで泳ごうなどとは思ってはいけません。絶対に戻ってこられないでしょう。なぜならこのままこの美しさの中で死んでしまいたいと思うに違いありませんから。古くからそう伝えられています。そして星を映すときの湖の夜の輝きは言葉では言い表せないほどすばらしいそうです。私はそれを見たことはありません。その美しさを想像するだけで怖くなるからです。そう思うと私は感動のあまり涙が出ます。

 また周囲にはいろんな花が咲いています。変わったものでは食虫花です。色は控えめですが、蜜の匂いを放ちいろんな虫を集め花弁の中に滑り込ませて栄養分として吸収してしまう。大きなものでは鼠や蝙蝠なども捕えるそうです。これは事実かどうか確かではありませんが、人間も犠牲になったことがあるそうです。ある時巨大な花弁が萎れて横たわっていたのを見つけた人が、その中を調べたそうです。中にはライターやベルトの金具や靴の鋲や硬貨が見つかったそうです。それと頭髪。金属類を花は吸収しきれずに、力尽きて萎れたのだろうとその人は言っていたらしい。

 またオプションになりますが、鳥葬の秘儀も希望者には案内できるかもしれません。人が亡くなった後、読経が済み魂が昇天した後の身体はただの器と考えられています。高原のある場所で数百羽の鳥がその身体を食べに来ます。生前の人間の殺生の償いで自然に施しを返すという意味もあります。そのあと鳥は空高く飛んで去っていきます。器、すなわち身体も空高く去っていくのです。それで鳥をこの国では神鳥とも呼んでいますし鳥葬を天葬とも言います。昔から火葬や土葬は死体に対する冒涜と考えられていました。というより、火葬にするにもこの土地に薪、木材が乏しく、また土葬にするにも土地が固すぎます。風習として鳥葬が一番適したのだろうと言われています。

 さて、これから近代国家のR共和国について話します。まったく戦のない平和な七十年でしたが、それだけが発展の理由ではありません。石油こそ出ませんが、近年埋蔵量の豊富なレアメタルが発見されました。おかげで国家経済は豊かです。また質素な生活に慣れ贅沢を好まない国民です。牧畜は盛んで上質の肉が世界中に売れ渡っています。輸出の運搬に耐えられる冷凍技術に秀でて、長時間でも品質の劣化はありません。これも国家経済を支えています。

 首都メチカには近代的な病院もあります。全国に施設が広がっていないのはこれからの課題です。医学は相当に進んでいると言われていますが、まだ富裕層や政治家や権力者のみが恩恵にあずかっていると言っても過言ではありません。分野では生体移植技法は世界トップレベルと言われています。それはある時代の日本へ赴任していた大使の功績と言われています。彼は移植用の臓器の長期保存の技術を日本で見つけて、優秀な若い医者を日本へ呼び勉強させました。それはさっき述べました、畜産肉の輸出の冷凍保存の技術と関係があります……」

 私は半分眠りかけたまま、あることを思い出して驚いていた。肉の冷凍、臓器の長期保存、それらの記憶が蘇ってきた。たしか牧畜肉の輸出に役立つと言っていた。あの時の冷凍庫のことなのか、あの大使のことなのか。あれが国の発展にそれほど貢献したのか。そして臓器移植医学の発展とは。

「昔からわが国では、凍傷で手の指を切断した人に、指を移植する技術はありました。行き倒れの人間から指をとりました。最近では健康な死刑囚から、我が国はまだ死刑があります、罰は厳しいのです、上質の臓器を取り出すこともあります……」

 私は眠っていたのか、意識を失っていたのだろうか、あとは何も聞こえず覚えていない。とにかく飛行機をいくつも乗り換えて周りが移動するに任せて長い時間浮遊していたようだ。そして真昼の高原の土地へ着いた。空は晴れ渡って紺碧に光っていた。空がこれほど大きく美しいのにはじめて気がついて私は感動した。

 

 ホテルは最近できた日本のビジネスホテルくらいだろうか。ただベッドとバスタブがやたらに大きい。これは各国から技術者を招聘するのに必要な条件らしい。ジンギスカン風の昼食には疲れているのか手を付ける人は少なかった。

「皆さん、お疲れのようですので夕方までお部屋でゆっくりしてください。また散歩されてもかまいませんが、あまりホテルより遠くには行かないでください。夕食後皆さんが集まり次第、ぺルセウス流星群を見にいきます。車で三十分くらいの丘に行きます。素晴らしいですよ」

 飛行機の中で眠っていたためか私は疲れていなかった。同行者たちはあわててそれぞれの部屋に散らばっていった。散歩でもと思った時、ガイドが寄ってきた。そして私の返事をまったく無視して勝手に決めたように言った。

「さあ、鳥葬の見学に行きましょう。鳥葬台まで車で一時間はかかりません。夕方までには戻れます」

 私は鳥葬に関する知識はまったくなかった。それなのに何故そう思ったのかもわからない。無数に飛んでくる美しい白い鳥が死体を愛撫するように啄んでいく。親族の読経は高原の風にのって優しく流れて行くのだろう。

 私の想像、勝手な思い込みとは全く違って私は大きな衝撃を受けた。それは私の人生観を変えた、というより曖昧だった考えをはっきりさせてくれた。その残酷さに私は完全に打ちのめされた。それでも少し離れたところから双眼鏡で見たからよかったものの、それが眼前だったら私はもう立ち上がれなかったかもしれない。

ガラス越しに見た世界が少しは現実感を薄めてはくれたようだ。ここで私は淡々とただ事実を見たまま聞いたまま述べることしかできない。

 遥か先まで広がる高原の丘の窪みに小さな石塔が立っている。その前で黄色の衣を纏った数人の僧侶が読経している。日本仏教の響きと同じだ。儀式が終わると横の広場に黄色い幕が掛けられる。その中へ普段着のままの男たちがビニールの前掛けをして集まってくる。彼らは鳥葬士と呼ばれている。死体の解体作業が行われる。鳥が食べやすいように分断される。雄大な空と白雲を背景に悠々と鳥が降りてきて、匂いを嗅ぎつけて対面の斜面に集まってくる。二メートルはあるだろう禿鷲がその斜面を埋め尽くす。数百羽だろう。次第に鳥の声が騒がしくなってくる。一時間ほどすると幕が取り外される。双眼鏡でばらばらになった死体を確認した一瞬後に、一斉に鳥の大群がその斜面を滑り降りる。砂ぼこりが舞いあがる。死体に襲いかかる。死体はもう見えない。群がり押しあい潜り込み肉を奪い合う。鳥の戦いの声が高原に響き渡る。真っ先に肉を食った鳥は群れを抜ける。嘴と顔が血に染まっている。僧侶たちは立ったままじっと見ている。頃合いを見計らって男たちが鳥を一斉に追い払う。鳥たちは素直に元の斜面に戻り待機する。薄茶色の鳥たちで埋め尽くされた対岸は波のように揺れている。双眼鏡からはばらばらになった板切れのような骨が散らばっているのが確認できる。丸い石ころのようなものは頭骸骨だろうか。風の向きで死臭が襲ってくる。頭蓋骨から脳みそを取り出しています、鳥が食べやすいようにですと傍で声がする。その作業が終わると別の男が大きなハンマーのようなもので頭蓋骨を砕き、他の骨も一緒に粉々になるまで続ける。それも餌になるらしい。再び鳥の襲来と喧噪。血の跡と皮膚の断片を残して鳥が彼方へ去っていったのは夕暮に近い頃だった。読経と風が死臭を消して高原をそよいで流れていく。

 完全に肉体は消えた。個としての存在は抹殺された。(たましい)が昇天していると思うことだけが救いになる。意識の喪失とともに魂が消え、個体も現実に消滅したとするとそれに耐えられる者はいるだろうか。私は魂というものを信じていない。すると私が今生きているのは、その終末にこうして粉々にされ鳥に食われるために生きているだけなのだ。肉体は泣くことも出来ず、抵抗も出来ずただ処理される。それまで生きてきたことの意義はない。ごく自然にそう思ったが、それは妙に新鮮に感じられた。私は冷静なつもりだった。遠めに見ただけとは言え、ショックが私の意識を翻弄していたのはまちがいない。私の考えは堂々巡りから小さな渦に巻き込まれて狭く細い闇の中に吸い込まれていった。生きていることは消滅することを証すだけだ。私が身体をここにこうして現実に持っていることすら悩ましい。消滅の目的で生きているだけだ。粗末な個としての肉体は愚弄され否定される。今まで生きてきたことが罪であるがごとく抹殺される。肉体は理由も憎しみもない何者かに復讐を遂げられる。生に意味はない。ならば人間は早く死ぬべきだ。自分の意志で生を拒否すべきだ。

 車に乗ったのは覚えている。ガイドが何か言ったのに生半可な返事をしたのも微かに覚えている。一軒の家の前で降ろされて私は中へ入った。靴を脱いで畳に似た敷物の部屋に入った。小さな地蔵菩薩や釈迦像が棚に並んでいる。茶器や壺もある。異国にいるのに落ち着いた気持ちになった。まだ意識が別の感覚の層に入り込んだままだった。

 茶が出され私は一気に飲んだ。懐かしい優しい味だった。気分は安らかになり、若いころに感じた何かへ対する希望のような甘さが喉元から広がった。

 入ってきた男は墨染の衣に似た着物を羽織っていた。明るい声で、やあ久しぶりですね、覚えていますか、と言った。男は私より十歳ほど年上だろう。急に親しみが起こって来て閉ざされた意識の底が明るく開いた。私も思わず微笑んだ。

 それは三十年前に会ったR共和国大使だった。日本語が流暢になっている。その時と違っているのは、目蓋が年相応に優しく垂れ下がり頬も膨らみ、頭が少し禿げていることだった。私はその禿具合が私の頭とそっくりなのに驚いた。旧来の親友のような親しみがわいてきたがそれだけではなかった。それはあと十年も経つと私がその顔になるのではないかと思った瞬間だった。

 かつての下川博士の日本のルーツはR共和国だという説が思い出された。それに近頃はやっているDNA鑑定の開発初めの頃、一人の日本人のDNAが遠いロシアの寒村のある若者のものと一致したなどと騒いでいたことも思い出された。私と大使が偶然にそういう関係であったとしても不思議ではない。それがどれだけの確率のものか考える理性はなかった。 

「貴方の御尽力がどれほどわが国の発展に寄与したか計りしれません。感謝し尽くせません。あの時のことを覚えていますか。あの冷凍庫は素晴らしいものでした。わが国の羊肉はおかげで供給が間に合わないくらい日本へ売れました。あのあと大型の冷凍庫を造ってもらい、それがまた大量輸出に役立ちました。良質の水と大自然の高原草で育った羊肉の美味しい味がそのまま輸出できました。今でも貴国の北海道名物ジンギスカンの肉はほとんど我が国からのものです。

 そこで私は考えました。これは人間の臓器に適用できるのではないかと。それからは長くなりますが、多くの研究者を海外から招いて研究を進めた結果、良質の臓器を長期間保存することに成功しました。並行して免疫適合技術も進歩しました。近年のDNA研究の進歩も助けてくれました。そして中国の一部とアジアの国には臓器を輸出することもできるようになりました。それにレアメタルの大量の埋蔵鉱脈の発見も相まってわが国は裕福になりましたが全国民が豊かというわけではありません。

 おこがましいとは思いますが、われわれ支配階級がこの国を引っ張っていかねばならないのが現状です。全国土を近代化する必要はありません。多くの民は自然のなかで平穏に日々を送るのがいいのです。多少不便で、多少貧乏でも短くても満足して生きればいいのです。われわれはそれを続けさせてやる義務がある。我々の生命はそのためにある、宿命とも言えます。

 今私に興味があるのは長寿ということです。すべての人間には必要ない。選ばれた支配階級のものだけでいい。私が指揮を執っている長寿研究グループはいままでの臓器保存技術のおかげで相当の実績を出しています。上質の臓器を移植し続ければそれだけ寿命は延びるはずです。理論的には永遠に続くかどうかが課題になります。ただまだ現在の問題は現状をいかに長く保つか、いかに長く人民を平穏に暮らさせるかです。

 かく言う私は正直なところ少々肝臓をやられています。一昨年、南アメリカへ行った時にある料理店でコックが指を怪我したまま私の食事を作りました。その時E型肝炎に罹患させられたらしいのです。それで今は上質の肝臓が入るのを待っています。担当によると近々それが出来そうです。またその時にでも先生にお会い出来ればうれしい限りです。それにしてもまず今日先生とお会い出来てよかった」        

 私は何杯もお茶を飲んでいた。鳥葬の生臭い記憶が喉をからからにして締め付けていたが、お茶で癒されたようだった。そして大使の不思議な話はおとぎ話になって私を夢見心地にしていた。外は闇に包まれていた。

「今晩はぺルセウス流星群を見に行かれるのですね。丘の上は寒いですよ。お付き合いはできませんのでこれをお貸しします。使ってもし気に入られたら差し上げます」

 それは黒革の立派な寝袋だった。これにくるまって横になり空を見上げるのが一番いい観察の仕方です、と説明もしてくれた。内側は深い羊毛で覆われている。

 最後に熱いお茶を飲んで私は辞した。それがよかったのか悪かったのかわからない。

ガイドが案内した場所は昼間の鳥葬台の少し上だった。周りは低い丘陵に囲まれてその上に満天の星をきらめかせた漆黒の空が覆いかぶさっている。確かに星の煌めきは冷たく鋭い。その強さが眼を射て身体を貫くように襲い掛かってくる。空の端から端まで敷き詰められた細かな星が、さらさらと音を立てて流れている雄大な帯は天の川だろう。

 ゆっくりそれを鑑賞しようと思った途端、生臭い匂いが襲ってきて現実に引き戻された。数百羽の禿鷲の糞の山だった。鳥葬の記憶が蘇った。それは醜悪な残酷な映像になって蘇り、私をどうしようもない悲しみに陥らせた。胸がつかえて気分が悪くなった。実際には見た記憶はないのに、死体の顔が浮かんできた。木彫りのように静かな表情をしている。鳥の顔の周りは血で赤いのに、眼は丸く表情は間が抜けているほどだ。禿げている頭は可愛い。私の力は体から抜けた。ガイドはシーツを広げてくれた。私はその上に借りてきた毛皮の寝袋にくるまって倒れるように横になった。知らない花の香りがしたが、昼間の死臭であったかもしれない。それが安らかな匂いに感じられても私には不思議ではなかった。虚脱感と寝袋の心地よさが私を救ってくれた。あまりの気持ちよさにそこから再び抜け出すことが出来ないのではないかという怖れをふと感じるくらいだった。その時はあきらめるだけだとごく自然に思っても苛立ちはなかった。花にくるまれて眠るのはこんな感じだろう。それが正常な感覚の終わりだった。

 一度目を閉じて再び目を開けると、眼のすぐ前にたくさんの水色の星が浮かんでいる。突然割られて飛び散った氷の破片、息を吹きかけると転がりそうである。美しい。どこかの詩人が、きらめく星は熟れて垂れ下がった葡萄の房のよう、と詩ったのを思い出す。手が届きそうである。

 だがもう一度目を閉じて開けると、世界は一変していた。無限の宇宙空間に煌めき散らばる星々の間を私は大きな体になって浮遊している。無音の世界は涼しく心地よい。星は散らばる闇の中で輝く巨大なダイヤモンドとでも言おうか。その一つの星を見つめると、急に大きくなったり小さくなったり、あるいはぶるっと震えて私に挨拶をしているようだ。時たまぶつかってもすり抜けていく。遠くから流星がこちらへ流れてきては消えまた去っていく。私をからかっているようでもあり、愚弄しているようでもある。幼児の笑い声のような嬌声をあげて私を誘惑しては逃げていく。天の川も私の浮遊に合わせて流れを変えて蛇行する。これが永久の時間であると私は疑わない。

 どのくらいの時間が経ったのかは意識にない。ガイドが私に声をかけてもまだ起き上がることはできなかった。星の群れは高い空へ吸い込まれて消えていった。意識は戻ってきたが、心地よさに私の体は完全に力を失くしていた。これが至福の時というのだろうか。

 

 翌朝意識は戻ったが、耐えられない身体の苦しみに襲われた。喉が乾燥で荒れている。つばを飲み込むのも痛く痰に血が混ざっている。悪寒が背中から脇の下にへばりついて体がだるい。風邪を引いたか。それよりも昨日は緊張と興奮のために忘れていたのか。耐えられない呼吸の苦しさは高山病だろうか。呼吸するにも空気が粘性でゴムのように堅く吸い込むことが出来ない。海底で窒息するのはこんな気分なのだろう。お茶が欲しいと電話をするが声が出ない。何時だろう。今日はサムシンコ湖群と食虫花を見に行く日だ。車で三、四時間ということだった。不参加にしようかどうか考えながら私はロビーへ降りていった。

 ロビーでは大勢の人たちがせわしげに動き回っている。だが誰もが無表情で忙しげなのに、私にはスローモーションの動きにしか見えなかった。喋りあう人々からも声が聞こえない。同行者たちは私を待っていたのに遅れたのを咎める気配はなく目も合わせなかった。彼らにも表情はなかった。私は自分の感覚が狂っているのを確信した。それでも一日中部屋で風邪薬でも飲んで休んでいたらよくなるだろう。

 ガイドを見つけて不参加を告げたが、自分の声が聞こえない。私は両手でバツ印を示した。ガイドは言った。

「わかりました、また明日でも明後日でも別にご案内できます。それより先生、お願いがあります。ヤンさん親子を病院まで連れて行って、しばらく付き合っていただけませんか。子供さんが熱を出して、苦しそうです。病院へは連絡済です。薬と点滴ですぐによくなるだろうとのことです」

 旧大使の自慢の病院を見学できるのも面白いと私は思った。ついでに私も栄養分でも打ってもらおうか、昨日からあまり食事もとっていない。ガイドは何本かの缶ジュースの入った二袋を私に渡して同行者たちとバスへ向かった。

 しばらくすると親子が現れた。少年は頬を真っ赤にしている。細い眼は熱のためか涙で濡れている。厚手の服を着ているが寒そうだ。表情は苦しげに咳をするほかは変化がない。夫人は紺のスーツに身を固め、伸ばした背筋と腰の線は美しかった。白髪は年のせいではなく魅力を増すためにわざと染めたかのようだった。私はこの役を引き受けてよかったと思った。よろしくお願いしますという夫人の眼に私は魅入られた。日本へ帰ってからの再会の楽しみがもう感じられた。

 タクシーは市場を抜けて走った。空は晴れわたって青く透き通っていたが、私は悪寒に捉われたままだった。そして少年の咳に気をとられまいと、外の景色に見入ってみた。砂ぼこりが舞い大勢の人間がひしめきあっている。原色の民族衣装に身を包んだ女性も見かけたが、男女のほとんどは労働者風の格好だった。合間に見える屋台やリヤカーには色とりどりの果物や野菜が並んでいる。山羊も繋がれ、軒下には蝙蝠や鳥がぶら下がっている。蝙蝠のスープは美味しいと聞いている。棚に並べられた赤黒い塊は何の肉だろうか。檻には子犬が騒いで鳴いている。それも食肉だろう。窓を開けると熱風に混じって汗にまみれた人間の体臭と大蒜の匂いが流れ込んでくる。私は吐気をなんとか我慢する。大きな口を開けて人々が何かを喋っている。しかし喧騒に満ちているはずのそれらの風景は無音のただの映像になって私の眼前を通り過ぎる。私は車の揺れに身を任せたまま夫人の香水を感じようとしたがまったくの無臭だ。

 市場からいきなり街になった。舗装された道路の両側に近代的なビルが十棟ほど建っている。せいぜい七、八階だが、どれも似たようなビルだ。ガラス窓が太陽に輝いている。高級車がその間を走り抜ける。二階建ての煉瓦造りは国旗が掲げられているので県庁舎だろう。その横が病院だった。

 日本の四階建てくらいの地方都市の大病院という感じである。救急車が停まっているが日本のそれと全く同じだったのに、少し感じていた不安も消えた。ただ玄関を入ると入り口が二つあるのに驚いた。一方は現地の人々だろう、粗末な服の男女で幼児を連れた女性が多いが老人は少ない。静かに列をつくって並んでいる。もう一方は男女とも身なりは富裕層という感じで老人もいる。白人も三人ほど並んでいる。ヤン親子はその方へ並んだ。私もそこへ入ろうとしたら門番が険しい顔で飛んできた。

「ここは外国人専用だ」と言ったと思う。

 私は現地人とみられたのが嬉しくてとっさに中国語で答えた。

「私は日本人だ」

 通じたのだろう、彼は黙って引き下がった。

 中へ入ると受付の窓口が二つあってそのための列だった。大使の言うような支配階級との差別ではなかったのにほっとした。保険制度とか国民医療費無料とか何らかの違いだろう。待合室は広く外光を採り入れて明るい。次々に現地人らしき人々が入ってきたが待合室は十分に広く静かだった。騒音は高い天井へ吸い込まれるように消えていく。家族連れらしき数人は椅子で食事を始めている。日本と同じ服の看護師やスタッフは忙しそうでもなく、ゆっくりした動作で、まるで散歩しているように行き来している。私の感覚がまだ戻っていないのだろうか。

 看護師に呼ばれてヤン親子は廊下へ消えて行った。別れ際に夫人が私にかすかに微笑んだのはただのお礼の意味だけだったのだろうか。私はそれだけしか考えられずぼんやりしていた。咳がひどくなければ私は眠っていただろう。

 次に私は広い廊下を案内されて奥へ進んだ。看護師はマスクをしているので表情が窺えない。廊下は清潔で明るい。誰ともすれ違わない。緊張のためか咳が止まったようだ。大きな部屋に案内されてまず血圧と体温を測る。血圧は百、低い。体温は三十八度五分を示している。綿棒で鼻の中の粘膜の細胞を採取する。インフルエンザの検査だろう。血液も検査のために採血される。気がつくと大きな装置が目の前にある。私は知識があるわけではないが、それがⅩ線CTスキャンというくらいはわかる。促されるままにその台に横になる。空気が心地よく暖かい。何の抵抗もなく三十分も経っただろうか。ここまで丁寧で親切でなくてもいいのにと思う。

 それからやっと診察が始まった。医者は女性で髪を束ねて後ろで結んでいる。大柄でやはりマスクをしているので表情はわからない。眼は細く何か懐かしさが感じられる。消毒液に混じって胸元から柔らかな匂いがする。私は今朝から熱があって体がだるいと英語で言った。彼女は優しい眼の光でうなずく。私はまだ何か喋りたくて、病気は「サーズ」ではないかと聞いてみた。何年か前に中国山東省から発した「サーズ」という病気が流行って日本のみならず世界中で大騒ぎになったことがあった。私はふと不安になったのだった。彼女はえっ、知らないという風に頭を振った。私は今度は漢字で「重症急性呼吸症候群?」と書いてみた。彼女の眼が微笑んで今度も首を振った。次に正確かどうかわからないが「栄養 点滴」と書いて差し出した。彼女は肯いた。

 案内された病室は個室で狭かった。ドアも壁も真っ白に塗られ消毒液の匂いが充満している。壁の上の方に小さな窓があって真っ青な空が見えた。まるで独房のようだと思ったが、点滴が始まると気持ちよくなって、モニターの心電図と血圧計の信号音につられて眠りに落ちていった。

 私はかなり長い時間眠っていた。目覚めると窓の外はもう真っ暗になっていた。咳は止まり熱も下がったようだ。しかし頭の芯が痺れて何かを考えなければと思いながらただ焦る気持ちだけが残っていた。疲れが溜まっているのだろうか。立ち上がろうという気力がなかった。夢の中に陰鬱な映像が絶え間なく流れ、目覚めてやっとそれから解放されたという安心感も少なく、それが後を追ってくるのではないかという怖れから抜け出せそうになかった。そのくせ今くるまっている毛布が気持ちよく、怖れと不安を抱えたままでももう一度眠ることが出来そうだった。昨晩の黒革の寝袋が思い出された。あの心地よさはどんな醜悪な恐怖も取り除いてくれる。おぞましい鳥葬の儀式もあの寝袋に包まれて眺めれば、優雅な優しい昇天の祈りに見える。

 今日サムシンコ湖群に出かけた同行者たちはもう戻っただろうか。美しい湖の周りに乱れ咲く花々、食虫花。虫を捉えた食虫花を見たのだろうか。鼠や鳥を食べる瞬間を見たのだろうか。あるいは誰かが足を滑らせて花に吸い込まれてしまったりしていないだろうか。溶けていく時間は苦痛だろうか、至福の時だろうか。私は自分が食虫花の中で溶けていくのを一瞬の間想像して楽しんだ。

 急に腹が減ってきた。昨日からほとんど食べていない。幸い携帯電話が手元にあった。だがホテルにはつながらない。ガイドのものからは、使われていませんという返答だけだ。まだ帰っていないのだろうか。不安を追い払うように貰ったジュースとお茶を一気に飲んで私は立ち上がった。タクシーを捕まえてホテルへ戻ろう。ヤン親子は多分よくなって帰っているだろう。

 空になったままの点滴瓶の針を抜いて外へ出た。ドアの外には誰もいない。あたりは静まり返っている。今朝の廊下の逆を、想像しながら辿って待合室へ出ることが出来た。広い待合室は薄暗く森閑としている。咳ばらいがこだまする。少し寒いが我慢すればいい。ドアを押すまで心配だったがそれは難なく開いた。

 私は啞然とした。車も人も誰もいない。道を挟んで見えるのは低い丘が連なっているだけで、その上は真っ黒な空が広がっている。星も月もビルも明かりは何もない。街はどこへ消えたのか。遠くに目をやっても闇の底が浮かんでくるだけだ。動いている金色の小さな光は野犬の眼だろうか。恐怖が襲ってきたが、それを意識から追いやって、私は落ち着けと自分に言い聞かせて立ちすくんだままだった。

 その時私はあっと声を上げた。荒涼とした風が沸き起こり、丘の上に広がる空の闇が布のように二枚にめくれ、大きくはためいて揺れた。そしてお互いに包みあうように丸まり、私を飲み込もうと覆いかぶさってきた。それは巨大な食虫花の漆黒の花弁だった。

 まだ抵抗する気力はあったのだろう。入り口にあわてて戻った瞬間、私は大きな柔らかな春の風のようなものに捉えられて身動きが出来なくなった。懐かしさが蘇った。私は幸福な気持ちで立っていた。昼間の女医が優しい微笑みを浮かべて私の手首を摑んでいた。その力は強かった。私は恐怖と安心感と快感を同時に感じた。マスクを外したその顔は懐かしい女性に似ている。形のいい口には紅が塗られ、少し開いたまま何も語らなかったが、私にはすべてが理解できた。

 私は再びベッドに横にされ点滴がまた始まった。そして今度は両手を抑制バンドで固定された。恐怖は点滴の適数につれて少なくなっていった。私は虚脱したままそれを眺めていた。女医は私が眠るまでそこにいるようだった。細い眼で私を見つめている。大きな口から洩れる息の匂いは私を恍惚とさせた。幼い私を包んでくれたあの家政婦にそっくりだった。彼女が教えてくれた食虫花。虫たちはうっとりととろけていくのよ。その声が蘇る。

 この病院が巨大食虫花なのか。私はR共和国大使にはめられたのか。ヤン親子は囮だったのではないか。まさか、私は溶ける前に臓器を取り出され、それはあの大使に移植されるのではないか。我々のDNAは合致しているのだろうか。うまくいくとよいが。しかし私は生きていないのか。それも朝になるとわかる。残った意識で次々に考えているうちに私は次第に眠りに落ちていった。それにしてもいい気持だ。

 恐怖は諦めて受け入れてしまえば心地よい。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2019/08/31

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井本 元義

イモト モトヨシ
いもと もとよし 1943年、福岡市生まれ。「鉛の冬」により第1回新潮新人賞(1969年度)佳作。

掲載作は短編集『廃園 幻想花詩譚』(2019年2月、書肆侃侃房発行)より著者選択。

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